第63話 3月17日 生存競争と恋と性欲、血統、遺伝子

 復和元年3月17日木曜、朝6時、陽梅(ひうめ)は鬼々島(おきしま)の芹沢家2階の陽湖が住ませてもらっていた部屋で寝泊まりしていた。隣室の鮎美の部屋では鐘留が寝ている。陽梅は静かに起きると、階段をおりて台所で朝食の準備をする。妊娠していた美恋(みこ)が琵琶湖の津波で亡くなり、鐘留にいたっては両親と自宅を同時に喪っている。鐘留と玄次郎が心配なのと、夫の啓治が三重県で教団が行う炊き出しに出張しているので、三人で生活していた。朝食の支度ができる頃、玄次郎がおりてきた。

「おはよう」

「おはようございます。芹沢社長」

「毎日、すみませんね」

「いえ、お給料はいただいておりますから」

 玄次郎と鐘留、そして自分のために三食用意して他の家事もして一日1万円ということになっている。啓治が参加している教団が行う炊き出しは完全なボランティアなので陽梅の収入は重要だった。

「いただきます」

「主よ、今日の糧を与えたもうことを感謝し…」

 玄次郎が食べ始め、陽梅は祈ってから食べる。玄次郎が卵焼きを箸で切りつつ問う。

「食料品の価格はどうかな?」

「日に日に少しずつあがっています」

「そうか。鮎美も頑張っているが、当然だろうな。スーパーは、どんな感じに?」

「遠い県の工場や畑で作られていた物が入ってこなくなり、地元の農協から入る野菜や肉、敦賀からの魚が売られています。フィリピンからのバナナなどが無くなっていて、代わりに長野や青森のリンゴが並んでいましたから、遠くても日本海側経由なら届くようです。魚も果物も量はありますが、種類が減っています」

「あるだけマシか。オレが好きなサントリイモルツも入ってこなくなって、県内に工場があるギリンビールだけになったからな。まあ、ギリンも美味いんだが」

「島の漁師さんたちが琵琶湖の魚が高く売れると喜んでいました」

「そうか。この島は食糧自給率が高いから、そこは安心だが、全国的には、どうなるか……」

 食べ終えた玄次郎がテレビをつけると、鮎美が映る。

「新しい元号は復和となりました」

 数日前の録画映像が流れている。

「復興の復、回復の復に、昭和の和です。とくに復の字は由伊妹宮様がお望みになり決まっております」

 テレビ画面の中で鮎美は静江が墨で書いた元号を発表している。このところ何度も流れている映像だった。東京や大阪が壊滅したのでテレビ番組は減り、同じニュースの再放送が多い。

「平成を発表した小渕恵三を思い出すなぁ………まさか、オレの娘が、次の元号を発表するとは……」

「シスター美恋が亡くなったこと、娘さんへは、いつ伝えるおつもりなのですか?」

「まあ、隠せるだけ隠しておこう。あいつ忙しそうだし」

「……。芹沢社長も、強い人ですね。奥さんが亡くなられたのに」

「鮎美と同じで仕事して考えないようにしてるからなぁ。建物が壊れまくったから建築業界は当面、忙しいし。まあ、オレの歳で緑野さんみたいに鬱ぎ込むのもカッコ悪いから」

「………」

 陽梅が天井を見上げた。鐘留が起きておりてくる気配はない。玄次郎も見上げつつ問う。

「彼女、食事は、ちゃんと食べて?」

「はい。少しずつ食べてくれるようになって昨日はお風呂にも入ってました。ただ…」

「ただ?」

「毎晩、お布団を濡らしてしまうみたいです」

「まあ、あの歳で両親を亡くせば泣くだろう、まだまだ」

「いえ、そうではなくて、その……オネショを……してしまうみたいです」

「ああ、そっちで濡らすのか。う~ん……子供といえば、子供な歳だから仕方ないだろう。それも、そのうち治るさ」

 テレビから鮎美の声が響いてくる。

「臨時政府は原発事故の状況について、IAEA国際原子力機関の調査を受けます。近隣の皆さん、ご安心ください。あのチェリノブイリ事故でも、原子炉の間近におられた方々は不幸にして死傷されましたが、数キロ離れたところでは安全でした。IAEAの調査を受け、報告がまとまり次第、より確かな情報を発表いたします」

「鮎美、大変だな……せめて、あと十歳ほど大人だったら……いや、子供なだけに、国民も責められないか……だいたい、原発を造ったのは、あいつじゃないし」

「………。シスター美恋は火葬になるのですか?」

「ああ、その予定だが、順番もまだまだだし、大阪京都からも遺体が運ばれてくるかもしれない。火葬場もパンク状態らしい。……火葬が何か?」

「……少し信仰の話をしてもよろしいですか?」

「少しなら」

「私たちは死後、いずれ復活すると信仰しています」

「らしいな」

「生前の肉体をともなっての復活です。ですから、できれば火葬より土葬が好ましいと考えているのです」

「……なるほど……」

「やはり火葬になるのでしょうか?」

「50年くらい前は日本も土葬が多かったらしいが……。ただ、この大震災で亡くなった人間の数と、ガスや灯油などの燃料のことを考えると、もしかしたら土葬、下手をすれば水葬さえあるかもしれないな。鮎美もエネルギー問題くらい考えているだろう……石永先生たちもいるわけだから……。にしても、復活か……、それを本気で信じるなら、月谷さんたちは死を悲しいとは、とらえないのかな?」

「はい、そうなります」

「………。まったく悲しくないのか? 美恋と、あなたは友人というほど付き合いがあったわけではないけれど、何度も礼拝をともにしたわけだろう?」

「しばらくのお別れですから、それは悲しいです。けれど、いずれ会えます。彼女は受洗され、私も信仰を続けていますから。芹沢社長も神を感じてみませんか? いつか、シスター美恋と再会できます」

「…………」

 玄次郎は黙って、お茶を飲み、別のことを問う。

「オレの母も大阪にいた。生きてはいないだろうな。月谷さんの親類は、みな無事だろうか?」

「………いえ、父とも母とも連絡がとれません。名古屋でしたから生きていないと思います。兄も、妹も」

「そうか……だが、いずれ会えると思えば悲しくない?」

「………私の家族は、私以外は誰も信仰をもっていませんでしたから、復活できません。死は永遠の闇です」

「……………では、悲しい?」

「……はい」

「ご家族は信仰に反対だった?」

「はい、とても反対されました。もう長く連絡をとっていませんでした。今回の地震で電話したのですが、すべての連絡先に通じないので無視されているのではなく電話機や携帯電話ごと……」

「そうか。……けど、確認したわけじゃないなら、生きてるといいな。ケガをして入院くらいですんでいるかもしれないし、携帯電話が壊れて番号がわからないだけかもしれない」

「はい、ありがとうございます」

「ちなみに、いつから、どういうキッカケで宗教を?」

「大学時代にヨガに興味をもって、オウム神仙の会というサークルに入っていたのですが、中学高校の友人が、真実の信仰を教えてあげる、と言ってきて。おかげで救われました」

「そ…それは、救われたねぇ」

 かなり危ないところで、と玄次郎は陽梅が死刑囚にならずにすんだことを、とりあえず神に感謝した。

「その友人も今でも?」

「……いいえ……せっかく私を救ってくださったのに、エホパへの信仰まで無くされてしまい、礼拝にも来られなくなって……連絡も取れず……」

「……」

 けっこうな危険回避能力のある友人なんじゃないか、と玄次郎は思ったけれど、辞めた理由が気になる。

「その友人が、辞めたキッカケとかは?」

「一時期、1999年で世界が終わると私たちは考えていたのですが、この考えは神の意志を読み違えた間違いだったのです。それが外れたからといって、聖書が確かな導きであることは何一つ揺らぎはしないのに……」

「ああ、199X年か。あったなぁ。2000年問題も、しょぼかったけど。でも、もし阪神淡路大震災や今回の環太平洋大連動震災が、ほんの少しズレて、ぴったり1999年に来たら大騒ぎだったろうな。地球の時間感覚でいえばズレでさえないくらいだし。もしかしたら、阪神で高速道路が倒れるのを見たり、今回の津波に遭った信徒は終末キターーーっ! 楽園イキーーーっ! って思いながら死んだのかもな。そう思うと幸せなラストだな。むしろ信仰が強くなれば強くなるほど、早く死にたくなる。なるほど、キリスト教が自殺を禁じるわけだ」

「………。深い信仰を保って亡くなられた方は、いずれ楽園で再会できます」

「美恋も………そう思いながら……どうだろうな……あいつは最期まで宮本さんちの姫花ちゃんと姫湖ちゃんを助けることばっかり考えてそうだったが……低体温症なら、そう苦しまなかったか……。考えても、どうにもならんか……。オレみたいな人間でも、死の最期には信仰を持とうと思うかもな」

「そうお考えなら今からでも、いっしょに聖書を学びませんか?」

「……」

 見事の食いついてくるよな、と玄次郎は嬉しそうな陽梅の顔を可愛いとは思いつつも、鬱陶しく感じた。正直、ハリセンでもあればシバきたくなるし、鮎美が陽湖を怒鳴っていたのもわかる気がした。

「いや、死の最期の瞬間がいい。普段からの礼拝とか面倒だし、寄付もしない」

「………」

「けど、もう死ぬって段階になると、本気で何かにすがりたいだろうな。合理主義は主観の死に無力だ。ゆえにプラグマティズムは信仰を否定しない、か。そうか、遺留分は、だからあるのか」

「イリュウブン?」

「遺産相続の話だよ。遺留分というのは子や妻が必ず遺産の一定割合をもらえる権利で、たとえ死ぬ瞬間にオヤジが財産を全部、寺や教団に寄付するなんて言い残して死んでも半分は家族に残る。そういう制度が無いと、生活に困るし、強欲な僧侶や教団だったら、うまいこと死ぬ間際で弱ってる人間に、極楽の話をして寄付させるだろ。その意思表示を混乱していたので無効とする裁判に負けても、遺留分で半分は確保できるから。きっと、キリスト教社会でも中世あたりに、いろいろあって定まった法律なんだろう」

「………」

「そういえば美恋にも県民共済をかけてたなぁ……あいつが死んで300万くらいもらっても少しも嬉しくないが……今回の震災、規模がデカすぎて払えば各保険会社は破綻するし、約款で津波は除外されてたかも……琵琶湖の津波はどうなるか……誰か裁判するだろうな……はぁぁ……考えても、仕方ない……」

 玄次郎はあまり考えないようにしてテレビを見る。もう鮎美ではなくニュースキャスターが映っている。

「岐阜県飛騨高山の神社で起きた強姦殺人事件で、岐阜県警は名古屋から避難してきていた無職、北条悟司容疑者49歳を指名手配しました。この事件では自宅神社の境内を震災避難所として提供していた巫女の宮本三葉さん15歳と妹の宮本四葉さん8歳が強姦され金属バットで撲殺されたとみて調べを進めていましたが、DNA鑑定の結果…あ、今、新しい情報が入りました! 指名手配されていた北条悟司容疑者が死体で発見されました! そばに宮本さんの同級生の男子Tくんが血のついた金属バットを持って立っていたことから駆けつけた警察官が問いただすと、北条容疑者を殴り殺したことを認めたとのことです!」

「……たしか、鮎美を刺したヤツも悟司だったなぁ……サトシに、ろくなヤツがいないな。まあ、いいサトシもいるかもしれんが。……宮本姓は多いし岐阜県は遠いから、宮本さんと無関係だといいなぁ……」

「きっと地獄に落ちます」

「あ、地獄はあるのか。ってことは復活しなくても魂は永遠なのか?」

「永遠に地獄の業火に苦しむのです」

「永遠にかぁ……たかだか百年に満たない人生のうちでの失敗で、永遠の罰は割に合わなくないか? せめて百年くらいで生まれ変わらせてやれよ」

「人は生まれ変わったりしません。人生は一度きりです」

「そういう設定なのか……じゃあ、このTくんは、どうなる? 地獄行きか? 詳しいことはわからないけど、ニュースの感じからして、同級生の女の子が殺されたから、その復讐にって流れを感じるけど」

「………殺人は罪ですから……」

「けど、それを言い出すと、死刑執行する刑務官は?」

「……そのような業務の場合は、大丈夫だと思います。きちんと信仰をもっていれば」

「じゃあ、強姦殺人した後、後悔して反省して、洗礼を受けたら?」

「……………すみません。私ではわかりません。指導者に訊いてみます」

 そう答えつつ、今は指導者が実の娘になっているので、やや違和感も覚える。

「その指導者は誰に訊いて決めるんだ?」

「………神です」

「そうか。直接、訊けるようになるといいな。だいたい、そのシステムだと量刑も不明確だし、罪刑法定主義もあったもんじゃないな。まあ、罪刑神定主義なんだろうが、ヨーロッパで法学が発展したのはキリスト教のおかげかもなぁ。ちゃんと決めようぜ、みたいな。ああ、すまない、つい失礼な風に言ってしまった。気を悪くしないで、ほしい」

「いえ、大丈夫です。んフフ」

 陽梅に失笑されて玄次郎は首を傾げる。

「え? なにか可笑しいかな?」

「娘から聞いていた鮎美さんと、そっくりの考え方をされるものですから」

「フっ、つっこみどころは、逃さない方だからな。大阪人として。じゃあ、仕事に行くよ」

「いってらっしゃいませ」

 陽梅は玄次郎を送り出すと、教団から来ているメールを見た。教区を統括している屋城を経由しているけれど、発信元は実の娘の陽湖だった。

「……震災義援金……」

 災害がある度に集められているので今回も当然にあるとは思っていたけれど、振込先は月谷陽湖の口座だった。幼稚園の頃に二人で作りに行った琵琶湖銀行の通帳で、ここからも何度か、教団へ寄付しているけれど、今回から、ここへ寄付金が集まることになったらしい。

「立派になってくれて……産んでよかった……」

 やっぱり子の出世は嬉しかった。そして教団代表の母親として恥ずかしくないよう玄次郎からもらった給料の半分を振り込む。まだ、しばらくは玄次郎と鐘留へ三食用意した方がよさそうだし、そうなると一日1万円もらえる上に陽梅自身の生活費はゼロで済むし、夫もボランティア先の教会で寝泊まりしているはずなので問題ない。

「さてと、あの子にも食事をとらせないと」

 朝食をトレーに載せて、鮎美の部屋にいる鐘留へもっていく。

「おはよう。入りますね?」

「……どうぞ…」

 昨日まで返答も無かったけれど、布団の中から返事してくれた。少しずつ立ち直ってくれているのかもしれない。陽梅が部屋に入ると、昨日の夕食を運んだトレーが布団のそばにあって、どの食器も空になっている。ちゃんと食べきってくれたようだった。

「朝ご飯ですよ」

「……ありがと…」

 血のつながりが無い上に、本来二人とも芹沢家の住人ではないので距離感が難しい。鐘留は昨夜も布団と鮎美のパジャマを濡らしているので、顔を伏せている。

「パジャマを洗っておきますから脱いでください」

「……」

 目を合わせないように鐘留は下半身裸になった。一瞬、陽梅は下腹部にあるタトゥーを見て驚く。

「………」

 この子、あんなところに刺青なんかして、と陽梅は顔に出さないものの、軽い嫌悪感を覚える。キリスト教的にも、刺青は絶対的禁忌ではないものの好ましくなかったし、腕や背中ならまだしも、あえて下腹部に入れたというところに、同じ女性として淫靡さを感じた。そして、そんな大胆なことをする18歳のわりに毎晩布団を濡らしているのが滑稽に感じる。

「布団も干しておきますね」

「………」

「……」

 お礼くらい言わないのかしら、私はあなたのママでも家政婦でもないのよ、と陽梅は無表情に布団を窓から出す。濡れた方を外に向けられたので鐘留が頼む。

「外からわかんないように干して」

「……わかりました」

 だったら自分で干しなさい、けど、この子も両親を亡くして可哀想な子、優しくしてあげなきゃ、と陽梅は布団を干し直す。

「…いただきます…」

 鐘留は朝食を食べ始める。陽梅は干し直した布団のシミを見て考えた。

「こう毎晩だと、どんどん布団も汚れますから大人用のオムツを買ってきましょうか?」

「っ!」

 鐘留が使っていた箸を投げつけようとして振り上げ、そして陽梅が他人にすぎないことを思い出して、うなだれる。

「……オムツなんてヤダ………大きいナプキン買ってきて……ぐすっ…」

「わかりました」

 女のプライドとしてナプキンならありなのね、赤ちゃんや老人みたいなオムツは嫌でも、ナプキンなら生理かもしれないというプライドの保ち方、こういう人こそ信仰をもって自分を保つべきよ、と陽梅は布教精神が湧いた。ちょうど本棚には聖書も賛美歌もある。鮎美が転校時に買わされたもので、全生徒がもっている。陽梅は少し借りることにした。

「ルカ24章26節を読ませてください。キリストはこうした苦しみを経て自分の栄光に入ることが必要だったのではありませんか。そして、モーセとすべての預言者たちから始めて、聖書全巻にある、ご自分に関連した事柄を彼らに解き明かされた」

「……………」

 鐘留は黙って食べる。陽梅の声はラジオか、車の騒音だと思うことにした。鮎美と違い、学園生活が長いので、聴いていない聖書朗読を続けられることには慣れているつもりだった。けれど、食べ終えるとタメ息をついた。

「はぁぁ……」

 こいつがアタシのママでなくて本当によかった………ママ………なんで死んで……パパまで……アタシの家……アタシの部屋……ぜんぶ………せめてママくらい残ってよ……、また想い出してしまった。

「うっううっ…ぐすっ…ひううっ…あううっ…」

「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって罪…」

「よみがえるかっ! アホっ!!!」

 叫んで食器を投げつけた。陽梅に当たり、血は出なかったけれど痛そうだった。

「っ、ハァ……ハァ……」

「………」

「…………ごちそうさま…」

「え? ……え?」

 ごめんなさいじゃなくて、ごちそうさまなの、この子、すごく失礼で、ろくに挨拶もしないのに、いただきます、と、ごちそうさまだけは言う、どういう躾けを受けたの、と陽梅が止まっているうちに、鐘留は部屋から出る。そして、かなり久しぶりに外に出た。芹沢家の周囲は津波の被害が無く、ごく平穏だった。一部の古い家屋だけが少し傾いている。

「…ぐすっ…」

 鐘留は目的地など無かったので、なんとなく港の方へ歩いた。港に着くと、やはり津波の被害が目につく。漁船の三割が損傷しているし、湖岸に面した家は半壊している。ただ、鐘留の自宅を襲った津波ほどの威力と高さは無かったようだった。漁協の作業場にある自動販売機で缶紅茶を買うと、漁師たちが世間話をしていた。

「ほんでも、まさか琵琶湖で津波が起こるとはなぁ」

「ああ、けんど、大昔にもあったらしい。浅井市あたりの湖岸に痕跡があるんじゃと」

「じゃが震源は太平洋じゃろに」

「夕べテレビで学者が言うておったぞ。なんでも、水を貯めたバケツを揺らすようなもんで、チャプチャプと襲ってくるで、海の津波とちごうて高波と津波の半々みたいな波になるらしい。海の津波は大陸のプレートたらが海水全体を押しあげる理屈らしいが今回は長期……横になんとか…」

「長周期震動の横揺れじゃろ。それで長く横揺れが続いたで、琵琶湖の水がチャプチャプなりよって。ワシらの島は被害が軽かったが、六角市街の方は堀あたりが、ひどいらしい」

「高波の性質があんなら湾で、だいぶ変わるじゃろうな。島でも20人も犠牲になっとぉ。あの総理大臣さんのカカァも子持ちやったのに可哀想にのお」

「ええ人じゃったなぁ。宮本の子さ、助けようて。一人で泳ぎゃぁ助かったかもしれんに」

「女やでな。子供は見捨てんじゃろ。ワシでも見捨てん。年寄りが死ぬ方がええ。姫花ちゃんだけでも生きておってよかったわ」

「表彰もんじゃな。けど、死んでは元も子もないわ。腹の子も可哀想に」

「けど、上の娘は、この地震で一気に総理大臣じゃて。運の使いすぎかもしれんな」

「運はしゃーないな。市街の方は運が無かったの」

「あっちは家が100件は流れたらしい」

「江戸時代からの金持ち地区じゃな。とうとうバチが当たったんじゃ、ザマ見ろやで」

「金持ち言うても半分は年寄りだけか、空き家が多いぞ」

「庭木も自分で刈っとる落ちぶれもおるし」

「一番の金持ちは、かねやじゃな。あれは大成功しとうた」

「何十億て儲けよったらしいな」

「それで死ぬんでは運の使いすぎじゃわ」

「欲たれるでよ」

「おい、シッ」

「なんね?」

「あの子、かねやの娘じゃ、聴こえるぞ」

「なんで、かねやの子が島におる?」

「総理と友達の縁で居候しとるらしい」

 耳の遠い老人たちの会話は声が大きかったので、作業場の屋根に反響して缶紅茶を飲んでいる鐘留に丸聴こえだった。

「……………」

 鐘留が黙って睨むと、老漁師たちは目をそらして網の手入れをする。鐘留はまだ残っていた缶を琵琶湖に投げ捨てた。そして突堤の方へ行く。コンクリート製の突堤は津波に負けず健在だったので、やはり東京や大阪を襲った津波とはレベルが違ったようだった。

「ぐすっ……あんな堀の近くに住まなきゃよかったのに……初代の選択ミスが今になって……」

 突堤からおりて日当たりのいい温かそうなコンクリート壁に囲まれた静かな場所に座った。ここなら、くだらない噂話も人の視線もない。

「………ぐすっ………これから………どうしたら……」

 やっと、これからのことを考えた。昨日までは泣くだけで何も考えられなかった。どうやって芹沢家に来たのかも覚えていない。たぶん、玄次郎と陽梅が見かねて保護してくれたのだろうと思う。そして玄次郎と二人、一つ屋根の下というわけにもいかないので陽梅も家政婦のような形で残ってくれたのかもしれない。

「…ぐすっ………何も考えられない……」

 それでも思考はまとまらず、また泣きそうになる。我慢する気もないので声をあげて泣こうかと思っていると、人の足音が近づいてきた。足音は二つで鐘留がいるコンクリート壁に囲まれた区画の隣へおりた感じだった。

「健ちゃん、これから日本は、どうなるのかな?」

「どうだろうな……ヤバそうだな」

 中学生くらいの声で、鐘留は興味が湧いて静かに覗き見した。岡崎と白川が並んで座っている。普通なら中学校で授業を受けている時間だったけれど、震災のために休校なのか、それとも二人がサボったのか、制服姿ではなく私服で、白川はかなり短いスカートを穿いていた。白いフレアのミニスカートで靴下も純白、上着も気温にしては胸元の露出が大きいピンクのニットだった。鐘留は一目見て女心がわかったし、岡崎が鷹姫の許婚だということは知っているので、ますます強く興味が湧く。そして静かに覗き見していると、白川が不安そうに岡崎へ抱きつき、鐘留の予想通りに二人がキスをした。

「………」

 中坊のくせに、やるじゃん、超積極的、こりゃ宮ちゃん負けたわ、と鐘留は音を立てないように注意しながらスマートフォンで撮影もする。白川も岡崎もファーストキスだったらしく興奮していて、鐘留の視線と撮影に気づいていない。そして、キスだけで終わらず白川は胸を触ってもらったり、腿を撫でてもらえたので自分からショーツを脱いで男に跨った。

「………」

 ここでヤりますか、うわぁ、コンドームもつけないで、もろにハメてもらってるよ、ってか、ここに誘い込んだ時点でヤる気だったね、この子、宮ちゃんから盗る気満々じゃん、にしても一発目が屋外って大胆すぎ、この島って家が狭いし、ラブホどころか、カラオケボックスもないから、こういうところでヤるのが主流なのかな、野良猫みたい、と鐘留は一部始終を覗き見した。中学生カップルは初めての性交を夢中で終え、鐘留の存在には最後まで気づかない。性交が終わってから白川が潤んだ瞳で問う。

「……宮本先輩との約束……もう、いいの?」

 おいおい、既成事実つくってから訊くのかよ、もうそれダメ押しじゃん、このタイミングで訊くとか、断らせない戦略ってか、もう策謀だよ、この子、すごい策士、中学生にして諸葛孔明、と鐘留は同じ女性として感心した。そして、胸の疼きも想い出す。彼氏を下級生に盗られた。顔も良さも、胸の大きさも、スタイルも、すべてで鐘留が勝っていたし、ついでに家柄も圧倒的だったのに、負けた。きっと、鐘留の知らないときに今と同じような作戦が展開されたのかと思うと、悔しかった。岡崎が空を見上げ、性交後の男性独特な落ち着いた目で答える。

「……鷹さんはさ………なんか、オレにとって、もう遠い存在っていうか……」

 そりゃ内閣総理大臣臨時代理首席秘書官様だから中坊から見れば遠いよね、けど宮ちゃんがこれを知ったときの反応が予想できないなぁ、レズかよって思うほど男子に興味もってないし、あっさり、そうですか、さようなら、って別れそうな気もするけど、逆にワンワン泣いてオシッコ漏らして引き止めようとするかも、そうなったら超かわいそう、と鐘留は両極端な鷹姫の反応を想像した。

 ザッ…

 ずっと注意していたけれど、とうとう鐘留は物音を立ててしまう。靴とコンクリートの間にあった砂が鳴ってしまった。

「「「あ…」」」

 三人が気づく。鐘留は慌てて撮影していたスマートフォンを背中に回した。そして、白々しい挨拶をする。

「…ど……どうも、……い、……いい天気だね?」

「「………」」

 白川は急いで右足首にかかったままのショーツを穿き、岡崎もチャックをあげる。

「…………」

「「………」」

 重い沈黙が場を支配する。鐘留は逃げることにした。

「じゃ、アタシはこれで」

「っ、待ってよ! 撮ってたの?!」

 白川が叫んだ。

「えっと……その……あ、安心して! 週刊紙に売ったりしないから!」

「「…………」」

 少し考えると、いくら芹沢総理に関係することとはいえ、首席秘書官の許婚が婚約外の性交を屋外でしていたというのは、岡崎と白川が一般人であることを考えると、記事になりそうになかった。少なくとも鷹姫が嘆いて何かしない限りニュース性も公益性も低い。むしろ、他人の性交を秘書補佐の鐘留が盗撮している方が問題だった。

「消してよ! 消してください!」

 女子中学生として当然の要求だった。最大限の勇気を出して想い人に抱かれたのに、それを撮られていたかと思うと、死にたくなるほど恥ずかしい。鐘留は何の方針もなく、とりあえず撮っただけだったので迷う。

「あ……うん……えっと……でもさ、宮ちゃんとチン一郎君は許婚なんだよね?」

「「………」」

「どうなの? チン一郎君」

「……健一郎です」

「許婚なんだよね?」

「「………」」

 岡崎も白川も鐘留のことは有名人なので知っている。鮎美の秘書補佐で元モデル、かねやの一人娘、この島で知らない者はいないし、海外でさえ彼女のTシャツが売られていたりする。当然、鷹姫とは同僚であり友人であると、わかっている。鐘留が二人を睨む。

「さっきの、ひどくない? これじゃ、フタマタじゃん」

「「………」」

「宮ちゃんの気持ちはどうなるわけ?」

「「………」」

「何とか言いなよ。泥棒猫」

「っ、親が勝手に決めた許婚だもん! 健ちゃんと、きちんと付き合ってるわけじゃないから!」

「自覚があるだけに、泥棒猫って言われると反応するんだ? 泥棒猫」

「っ…、……とにかく消してよ! あんなの撮られてたら生きていけない!!」

「じゃあ死になよ。泥棒猫がいなきゃ、それで全部丸くおさまるし」

「っ……消してよ!! 消さないと許さないから!! 勝手に撮って、ひどい!!!」

「アタシは琵琶湖の風景を撮ってただけだよ。たまたま動物の交尾が映っただけ。猫かな、猿かな、あれ、これヒトかなァ~♪ きゃはははっ!」

「……け、警察に通報するから!」

「お巡りさん、公然わいせつの現行犯です。これが証拠の映像です。そこの二人が屋外でエッチしてました。逮捕してください」

 鐘留は瞬時に盗撮を正当化した。白川は困り切って絶句する。

「っ……」

「中坊がアタシに理屈で勝てるわけないじゃん」

「「…………」」

「さてと、どうしたものかな?」

「…っ……ぅっ……ぅ~っ…」

 白川が両目からポロポロと涙を零し、岡崎は両手を地面についた。

「お願いします!! 消してください! オレが悪いんです! すみません!」

「………土下座とか、されると……」

 今度は鐘留が困った。

「これじゃアタシが悪役みたいじゃん」

「すみませんでした!」

 岡崎の真っ直ぐな謝罪を受けると、鷹姫のためというよりは、からかって楽しんでいるだけだった鐘留がしらけて折れる。

「あ~、もう、わかったよ。消してあげるよ。けどさ、宮ちゃんを傷つける風にはしないでよ。それが条件」

「「………」」

「宮ちゃんさ、ああ見えて、けっこう繊細だよ。だいたいのところで鈍いし、何も感じてないけど、一回崩れると、もうサッポロ雪祭りを沖縄でやろうとするくらい、どうにもならなくなる」

「「……そうなんですか?」」

「うん、もうピッチャピッチャのクッチャクチャ。君たちから見ると年上だから、気が強そうに見えるけど、ある部分で、すごい幼いし。だいたいさ、やっぱり泥棒猫なんだよ。盗る方はいいかもしんないけど、盗られる方の気持ち、少しは考えた? ある日突然、オレやっぱりコイツと付き合うから、お前はいらない、とか言われるんだよ? 人を何だと想ってるのって思うじゃん!」

「……私は………ずっと、健ちゃんが好きだったから……なのに、気がついたら許婚が決まってて…」

「それならそれで、せめて宮ちゃんに、それ言いなよ!」

「………はい……すみません……何度か、健ちゃんといるとき目が合ったことはあるんですけど……」

「宮ちゃんは鈍いから、ちょっとした目使いくらいじゃ気づいてないよ、きっと。普通なら気づくくらいにはガンつけたのかもしんないけど、たぶん宮ちゃんは、そういうの気づかない。睨み返されたりしなかったでしょ?」

「はい……」

「はぁぁ……まあ、どっちも、どっちかな。とりあえず消してあげる。ほら、画面みて」

 鐘留は白川にも画面が見えるようにしてスマートフォンを操作する。

「こういうのは確認しないと不安でしょ。はい、これで消去」

「ありがとうございます」

「じゃあさ、宮ちゃんとの結婚、どうするにしても、傷つける感じに伝えないでよ」

「「はい」」

「さっきのこと、アタシは見なかったことにして誰にも言わないから。自然と宮ちゃんに伝わるとも思わないで自分たちの口で言ってよ」

「「はい」」

「あ、でも……」

「「?」」

「今さ、宮ちゃんとアユミン、超忙しくて頑張ってるときだから、いきなり電話してバイバイとか無しで。もっと状況が落ち着いて、こっちに帰ってきたとき、ゆっくり親とか交えて話してみて」

「「はい、そうします」」

 白川と岡崎が頭をさげて立ち去った。

「はぁぁぁ……アタシが、なんで、こんなこと……ちっ……あいつらのせいで、嫌なこと思い出したし」

 鐘留は痛そうに右手で額をおさえた。付き合っていた男子にフタマタをかけられて捨てられたことは鮎美たちと交遊しているうちに忘れたつもりだったのに、忘れきってはいなかった。まだ、少し胸が疼く。けれど、両親と自宅を喪ったことに比べれば、ごく軽くもある。いずれ時間が経てば、この疼きも癒えてくれるのかもしれないけれど、まだまだ痛い。せめて、あと10年は生きていて欲しかった。鐘留は両親のことを考えないようにして、男女のことを考える。

「結局、男ってワガママきいてくれる女の方がいいのかな……ちっ……お金持ちで超可愛いアタシを捨てるとか超アホだよ。あんな普通の、たいして可愛くもない、せっせとお弁当つくってきたりするだけの女、なにがいいの。そんなの家政婦で十分じゃん」

 つぶやきながら歩き、お腹が空いたので芹沢家に戻ると卓袱台の上に昼食が作ってあった。卵焼きとホウレン草、琵琶湖の魚の煮付け、井伊市産のキャベツとニンジンの炒め物で弁当に入れるにも手頃なメニューだと思いながら近づくとメモがあり、玄次郎へ弁当を届けてスーパーに寄ってから戻る、と陽梅が残している。

「……あのオバサン……アユミンのパパを狙ってるのかな……」

 状況を振り返ってみると、色々と思い当たる。

「………どうしようかな……」

 陽梅が作った昼食を食べながら鐘留は迷い、ずっと泣いて過ごしてきたのでスマートフォンをいじって世間の状況を確認した。

「やっぱり日本の半分が死んだんだ………」

 知れば知るほど気持ちが沈んだ。夕方になっても電灯をつける気になれず、情報確認を続けた。その暗い居間に陽梅と玄次郎が帰ってくる。

「お、緑野さん、今日は下にいるのか」

「あ、どうも……こんにちは……」

 なんだか恥ずかしくて、礼を言うべき場面なのに何も言えなかった。陽梅は夕食を作り始める。スーパーで買い込んできた物は少ない。今日明日分の食材だった。

「アユパパ、お店に商品、少ないの?」

「いや、そこそこにはある。けど、立場上、たっぷり買うと視線が痛いからな。鮎美が三日分を超えて買うな、とテレビでもネットでも言ってるし、そのオヤジが島暮らしとはいえ、買い込むと視線どころか撮影されてネットにあげられると怖いから」

「総理パパも大変だねぇ」

「あいつは、よくやってるさ。これだけの災害でスーパーに商品がある。誰も誉めてやらないが、あとあとの歴史検証で誰か誉めてくれるだろう」

「そんな、すごいことなんだ?」

「ああ」

 答えながら玄次郎はギリンビールの缶を開けた。鐘留は情報確認を続けつつ、玄次郎がつけたテレビへも耳を傾ける。石永が映っていた。

「本日救助された方の数は1366名で、地震発生より7日目となっておりますが、諦めず漂流しておられる人が多く、海上自衛隊、海上保安庁は引き続き捜索と救助を継続します。また停電していた約5万世帯に対して電力供給が再開されましたが、3件の火災が発生しています。通電直後は漏電による火災に注意してください。これは放火ではありません」

 石永は、すでに遺体の回収は収容場所もないことから中止していることは言わず、救出した数だけを発表している。氏名などは発表しないものの、やはり体力のある年齢層が多くなっていた。

「……」

 鐘留は台所にいる陽梅の背中を見る。野菜を切りながら小声で賛美歌を歌っていて、本当に陽湖の母親なのだと実感すると同時に、揺れているお尻に冷たい視線を注いだ。

「イエスはァ神の子ォ♪」

「………」

 やっぱり宗教って集団で罹る中2病みたい、自分らだけの脳内設定を熱く語りすぎ、ウザすぎ、っていうか、このオバサンやっぱりアユパパを狙ってる、貧相なケツふって誘ってる、と鐘留は露骨でないものの、陽梅が3月にしては薄着なのと、本人も無意識でやっていそうな動作で何度も玄次郎へお尻を向けることに気づいた。胸元を見せつけるほどの露骨さはないけれど、料理を作りながら、鍋やフライパンを取るとき、お尻のラインが顕わになるような前屈みになるし、本能的に膣を男へ向けてきている。鐘留は同性なうえに同性愛者ではないので中年女性の求愛動作が目障りだった。

「あなたの翼の陰にィわたしを隠してくださいますようにィ♪」

「………」

 月ちゃんち、かなり貧乏なはず、パパもろくな仕事してないって、40歳すぎてスキルなし資格なし非正規じゃ、もう終わってるじゃん、それに比べてアユミンちは地味にアタシんちを羨ましがらないくらいには上の方だから、アユママが死んじゃったから不倫してでもゲットしたいんだ、永遠の夫婦とか言ってるけど、稼ぎのない旦那は寄付も少ないから捨ててもいい裏ルールあるし、たしかテモテ第一、自分の家族に必要な物を備えようとしないことだっけ? アタシも長年通学したから頭に残ってるよ、プー太郎な旦那は捨ててもいいし、あと都合が悪かったら相手にサタンがついたとか言って別れることもできる、博史くんの両親がそのパターンで別れてたはず、と鐘留が考えているうちに陽梅はオムライスを作り上げた。何度か美恋と日曜昼などに、いっしょに料理をしたこともあるので味付けも美恋を真似ている。モヤシと鶏胸肉で作ったサラダは陽梅のオリジナルでポン酢と梅肉で味を調えている。三人で夕食をとると、もともと家族ではない三人なので空気が複雑だった。とくに、お互いに家族を亡くしているので、その話題を避けて玄次郎が娘のことを問う。

「緑野さん、鮎美が総理になって、どう思う?」

「うーん……地震がなきゃ、連合インフレ税とか不確定拠出年金とか面白そうだったけど、こんな非常事態のときは、政治に慣れたオジサン政治家がいいんじゃないかな」

「だよなぁ、鮎美もそれがわかってるから久野さんや鈴木さんを入れたんだろうが」

「けど、きっとアユミンなら、うまくやるよ。アタシほど可愛くは生まれてないけど、頭の良さは確かだし、口の達者さはアタシと対等だもん」

「ははは!」

 少なくとも多少の笑いがあって食卓は終わった。陽梅は給料をもらっているので家事のすべてを担当して風呂を用意し、鐘留が一番に入る。丁寧に身体を洗った後、自分の肌を見つめた。

「うん、完璧」

 高価なレーザー脱毛をしたので手入れしなくても腋や股間は美しいし、桧田川に見破られてショックだった二重まぶたの手術痕も素人にはわからない。

「お先♪」

 鐘留は鮎美のパジャマを着て居間に出た。玄次郎と陽梅はテレビを見ている。東京や大阪にいた芸能人たちが軒並み行方不明になっているので、あまり有名でなかったローカルアイドルなどが出演していた。

「ワンコです! 犬山市の停電も、ようやく一部で回復しました。けど、水力発電なんで、あんまり使わないでくださいねぇ」

「このアイドル、鮎美といっしょにセクハラ写真訴訟してた子だなぁ」

「この人、在日麗国人だよ。アタシの担当じゃないけど、シズちゃんが扱いを悩んでたし知ってる」

「そうか、そういうこともあってオレにまで戸籍の問い合わせが、年配の議員からあったのかもなァ」

「そんな問い合わせあったんだ?」

「ああ」

「ちなみに、アユミンちって、どんな家系だったの?」

「芹沢家はオレも知らなかったけど、大阪に来る前は静岡とか茨城にいた武家だったらしい。戸籍は明治からだが、寺に記録が残っていた」

「へぇ、アタシんちも400年続く名家だよ。月ちゃんちは?」

「……うちは……さあ…どうでしょう…」

 陽梅が答えにくそうにしたので玄次郎は大人として察した。

「そもそもが今現在、生きてるってことは何億年も前から続いてるってことだからな。たまたま資料が残ってたり、家名がわかるってだけで、続いてるのは全員、続いてるさ。緑野さんが揚がったなら、次、月谷さん、お風呂へ入ってください」

「あ、はい、ありがとうございます、お先に失礼します」

 陽梅は脱衣所で裸になり、実の娘と同じく小さめの乳房を鏡で見た。美恋も大きい方ではなかったのに、鮎美は目立つほど豊かなので玄次郎側の遺伝子かもしれないと余計なことを考えつつ、入浴する。髪と身体を洗い、両腋を鏡で見る。

「……少し荒れてきてる……今日はやめておきましょう…」

 娘と同じく肌が弱いので毎日剃ると腋が荒れる。数ミリほど伸びていたけれど、今夜はカミソリを使うのはやめた。湯船に浸かる。

「………どういうキッカケで……宗教を……」

 ふと玄次郎との今朝の会話を思い出した。

「…………自分探しだったのかな……」

 大学生の頃、自分とは何なのか、とても迷っていた。陽梅が生まれたのは1968年で、とっくに学生による日米安全保障条約改定への反対運動は終わっていて、大学生だった頃はバブル経済の真っ只中だった。日本は空前の好景気、そして冷戦は終結に向かっていく、まだ少子高齢化は深刻化せず、まさに日本は最高の時代を迎えていた。そんな中、自分とは何なのか、漠然とした不安を覚えていた若者の一人だった。

「…日本人の信仰心は、いい加減すぎるから……それとも、私がクォーターだから…」

 神社や寺には、あまり縁がなかった。それというのも、陽梅の母は日本人と在日朝鮮人の間に生まれたハーフで、母系の祖母が戦前に日本へ来ていた朝鮮人だった。その祖母は陽梅が生まれた直後の1960年代の北朝鮮への帰国事業で海の向こうに行ったらしい。祖母は三つ上の長男を連れていき、母は祖父と日本に残った。北朝鮮への朝鮮人帰国事業は日本の左派政党だけでなく自眠党も協力していたらしい。

「……ていのいい、厄介払い…」

 当時、北朝鮮は社会主義経済が成功している地上の楽園だと言われていたけれど、自眠党の政治家たちが、それを本気で信じていたとは思えない。小泉総理の父も協力したらしいけれど、およそ9万人の帰国者が幸せになっているとは思えない。朝鮮戦争は終戦ではなく停戦しているだけで、あの頃は双方が日本へ工作員を送り、情報収集だけでなく麗国の工作員がダイナマイトによる爆破テロや暗殺まで画策している。のちに麗国大統領となる金大仲さえ1973年に日本のホテルに居たところ、麗国の工作員に拉致されている。陽梅の祖父へも金銭と協力を求める連絡があり、危険を感じて引っ越ししていた。そうして引っ越し先では母はハーフであることを隠し続けた。陽梅に教えてくれたのさえ、二十歳の成人式前夜だった。衝撃だった。陽梅は日本語しか話せないし、自分は100%の日本人だと思っていたのに実は75%が日本人で25%は朝鮮人と言われて、かなり驚いた。

「……差別する人と……しない人がいる……」

 日本国籍を持っているし、通名ではなく月谷陽梅が本名ではあるけれど、もしかしたら結婚で入籍する際、過去の戸籍を調べられて結婚の障害になるかもしれない、と母に言われた。そして現在の北朝鮮の最高指導者である金正陽(キムジョンヒン)の陽の字を、祖母の願いで陽梅につけられたとも聴いた。

「………どちらかといえば梅が嫌だった……」

 陽の字は嫌ではなかった。むしろ梅が、なんだか老婆のようで子供の頃から嫌だったし、桜だったらよかったのに、と今でも思う。そして二十歳まで自分がクォーターだと知らなかったことで、自分とは何なのか、グラつきを覚えた。そういえば親戚付き合いも少ないし、寺にも行かない。寺には過去帳というものがあって、そこに家系が記されたりする。嫁いでくる女の素性をどの程度記載するかは、寺によって違うらしいし、何より僧侶に守秘義務はあってないようなもので、寺によっては過去帳は檀家が自由に閲覧したりする。だから父母は無宗教だった。そして陽梅は友人に誘われて、幸福のエホパに入信した。居心地が良かった。みんないい人ばかりで楽しかった。日本と朝鮮半島、そんな小さな問題より、神とイエスと自分、そういうことで自分を磨きたかった。さらに夫とも出会った。夫にだけは自分が朝鮮人とのクォーターであることを告げた。まったく気にしないでいてくれた。そして夫と相談して陽湖には黙っている。もう陽湖には12.5%しか朝鮮人の血統は入っていない、87.5%も日本人なのだから、よほど本人が自分の祖先に興味をもって調べない限りわからない。

「………月谷………月山………」

 祖母は創氏改名で月谷という名字にしたらしい。現在の麗国大統領も日本では1945年まで月山という姓を名乗っていたし、大阪市平野区の生まれだった。月という字は風流でいいと思うけれど、一部の日本人は創氏を疑ってくる字でもある。夫は山田という普通すぎる名字が嫌で三男だったので、むしろ月谷がいいと言ってくれた。祖父母と父母が結婚するとき、どちらも実家に反対されて、どうしても結婚するなら家名は名乗らせない、と言われて月谷姓になったのと雲泥の差があったのは時代の流れかもしれない。麗国も金大仲大統領のもと民主化し、2000年にノーベル平和賞をもらっている。

「…陽湖…」

 さらに娘が生まれると夫は琵琶湖の湖と陽梅の陽で、陽湖にしようと言い出した。そのときになって実は陽梅というのは金正陽から一字もらっていると告げた。また夫は気にしなかったし、それとも梅湖(うめこ)にしようか、と言われて、それは今どき可哀想だし、陽梅も陽の字はいいと思っているので陽湖と命名した。お食い初めや百日参り、七五三はもちろんやらなかったけれど、すくすくと育ってくれたし、素直に信仰も受け入れてくれた。ただ、後悔しているのは陽湖が同級生から流行歌のCDを借りて聴いていたのを咎めたとき、イチジクの枝で叩きすぎたことだった。サタンの影響を避けるためだったけれど、あのときは夫が会社をクビになり苛立ちもあった。夫の仕事はコピー機の営業で正社員だったけれど、たまにある取引先の都合での日曜出勤はすべて宗教上の理由ということで断っていた。平日にある宗教行事には、きちんと有給で対応していた。なのにクビになった。ちょうど陽湖が小学生くらいの頃から、パソコンが普及しつつあり、その印刷機が家庭用の物でもコピー機能がつくようになり、小規模な取引先がどんどん毎月のリース料を嫌って、家電量販店でコピー機能がある複合印刷機を買うようになり、コピー機の営業という仕事が減っていき、まっさきに夫が切られた。ちょうど就職氷河期だった。新卒でさえ就職がない時期、以後ずっと夫は正社員になれない。

「………あの子………あれから……」

 あの日から陽湖は、より素直になった。それまではCDプレイヤーをねだったり、遊園地のパンフレットを同級生からもらってきては、ここに行きたい、と求めたりもしたのに、そういうこともパッタリと無くなった。中学高校で反抗期も無かった。親子の会話は聖書と勧誘活動のことだけになった。

「……大丈夫……きっと神の導きが……礼拝へも参加しているのですから……」

 そもそも自分が礼拝に参加するようになったのは、自分のグラつきを安定させてほしかったからだった。このままでいいのか、自分はどうすればいいのか、そういう迷いを信仰はすべて解決し、答えをくれた。どこを目指せばいいのか、指し示して教えてくれた。そしてもう一つ、やはり天皇制には抵抗があった。それとつながる神社にも違和感がある。それは自分が朝鮮人クォーターであることとは関係ないと思いたいけれど、日本のキリスト教徒の中には在日朝鮮人、在日麗国人が多いのも、なんとなく気づいている。そういうことの正確な統計など無いけれど、訪問勧誘していて相手もキリスト教徒だ、と言ってくれることもある。そんなとき、この人も朝鮮民族系なのでは、と感じる。朝鮮民族と大和民族は顔だけで判別がつくときと、よくわからないときがあるけれど、なんとなく感じるし、やはり神社や寺に違和感があって、キリスト教に来るというのは自然なことだとも思う。そして陽梅自身もそうだったのかもしれない。玄次郎に信仰のキッカケを問われ、そんなことを考えてしまった。

「……………アーメン」

 もう考えるのをやめた。揚がって玄次郎に謝る。

「お先です。長湯して、すみません」

「ああ、気にしないで」

 玄次郎が交替で入り、どうせ自分が最期なので身体を洗わずに湯船へ入った。

「ふーっ……疲れた」

 頭まで湯船に潜って一気に身体を温めると男性らしく短い髪を洗い、硬めのボディタオルで身体も擦る。視界に美恋が愛用していたメイク落としが入った。

「………」

 一瞬、死んでしまった妻のことを想い出しそうになったけれど、忘れるために明日の仕事を考える。

「土日返上で取りかからないと終わらないなぁ……けど、こっちが設計しても、ちゃんと材料は用意できるんだろうか……物流の回復が、どうなるか……オレみたいな末端業者は楽でいいな。とりあえず自分の仕事をすればいい。トップの鮎美は大変だろうに……まあ、あいつが頑張って解決できるもんでもないか……なるようになるさ」

 一人言を漏らしながらパジャマを着て居間に戻ると、もう鐘留は2階へあがっていて陽梅だけが待っていた。

「月谷さん、ビール、いっしょに呑みますか?」

「はい、ありがとうございます」

 二人で瓶ビールを分け合って呑む。美恋は下戸ではなかったけれど、あまり呑まない方だった。陽梅は美味しそうにビールを呑むと、少し頬を赤くした。

「芹沢社長は、どうして建築関係の仕事を始められたのですか? キッカケは?」

「高校の頃に、やり甲斐のある仕事がいいなぁ、と考えていて。建築なら、やった成果が建物という形で残るし、やってみよう、くらいの感じだったな」

「それは素晴らしいですね」

 誉める陽梅の目が、あなたが押し倒してくれるなら、私はOKです、と語っていた。そういう視線に何日も前から玄次郎は気づいていたけれど、やはり人妻というのは面倒そうだった。そして陽梅の方も迷っている。夫を裏切りたくないという気持ちもある。けれど、ここ数年ろくに収入をえてくれない。住んでいる家も高齢の信徒が老人ホームに入るとき好意で貸してくれたもので、とても古い。旧式のガス給湯器がとうとう地震で壊れていた。さらに玄次郎は妻を亡くして淋しそうだった。だから陽梅は無防備でいる。玄次郎が決めた。

「そろそろ寝ようか」

「…はい…」

 居間の電灯と暖房を消して階段を登ると、別々の部屋に入る。玄次郎は一人になってから、もう一口だけウイスキーを呑み、布団に入った。目を閉じて眠ろうとしたのに、ごく静かに部屋の戸が開いて誰か入ってくる気配がする。

「淋しい……いっしょに寝て」

 鐘留の声だった。

「緑野さん?」

「アユパパ、いっしょに寝て」

「………」

 もう少し子供なら、すぐに布団へ入れたけれど、鐘留は18歳で元モデルだけあってプロポーションもいい、子供扱いも大人扱いも難しい年頃で玄次郎は迷った。迷っているうちに鐘留が布団に入ってくる。

「抱っこしてギュ~っ、ってして」

「……」

 甘えてくる鐘留から、いい香りがするし、触れてくる身体が女の子らしく柔らかい。

「お願い、ギュ~ってして」

「………わかったよ」

 玄次郎は両親を亡くした鐘留が毎晩オネショしていることを思い出して優しくすることにした。これは幼児にすぎない、ただの子供だと自分に言い聞かせて抱いてみる。

「これでいいか?」

「うん♪」

 抱いてもらえた鐘留は嬉しそうに頷き、子猫がするように玄次郎へ身体を擦りつける。擦りつけながら鐘留からも抱きつき、さらに脚をからめて動くので10分もすれば玄次郎は勃ってしまった。

「なんか、エッチなこと考えてるでしょ、玄次郎」

「なぜに呼び捨て……」

「エッチしていいよ」

「………もう寝るから」

「してほしいな」

「…………」

「アタシは処女じゃないし」

「………」

 迷っている男に鐘留からキスすると、もう玄次郎は性欲の衝動に負けた。40代の人妻からの消極的誘いには理性が勝ったけれど、若々しい18歳からの積極的誘いには欲望が勝った。

「いいんだな?」

「うん♪」

 鐘留は頷き、パジャマを脱がされることに喜びを覚えた。自分の身体が男を刺激していることが嬉しい。脱がされて抱かれ、挿入する前に玄次郎がコンドームを探そうとしたので言う。

「中出しで大丈夫だよ」

「……わかった」

 布団の上で一つになり、鐘留は乳首を吸われてよがり、次に腋を舐められたので高まった。

「あんっ♪」

 さんざんアユミンに責められたからアタシの腋もう性感帯になってるよ、っていうか親子そろって腋好きなんだ、フフ、なんだかアユミンが男になって大人になって抱いてくれてるみたい、そっか、やっぱりアタシはアユミンが好きだったんだ、男になったアユミン最高、女同士じゃ、どんなに丁寧なクンニと手マンがあっても、それが延々と続くんじゃぁ、それはやっぱりセックスじゃないよ、こうやって熱いおチンチンが入ってきてくれないと満足できないよ、と鐘留は異性愛者として満足して果てる。

「ハァ…ハァんっ…玄次郎、すごい…」

 鐘留は喘ぎつつ、まだ突いてくるので二度目の絶頂を迎える。去年別れた彼氏より年齢的な理由なのか、玄次郎は射精が遅くて鐘留は引き続く快感に悶えた。男子高校生は鐘留の中に入って、だいたい30秒で射精して萎えたけれど、玄次郎は10分も突いてくれた。おかげで3回も絶頂できてセックス感が変わった。ようやく射精してもらえると、当初言ったように、いっしょに寝る。そして言う。

「責任取って結婚してね」

「………せめて四十九日が開けてからな」

 冗談とも本気とも取れる風に回答した。鐘留が問う。

「怒らないんだ? 処女じゃないって言ったくせに、結婚しろって言ったのに」

「今いろいろ不安なんだろ?」

「………うん」

「……」

 玄次郎は鐘留の母親のことを思い出した。鮎美が鐘留と性的な行為をしたことで静江と親子を連れて東京の議員宿舎まで夜中に往復した記憶は鮮明に残っている。あの時、鐘留の母親は不安を埋めるためなのか、玄次郎にすがってきた。それを見た静江が警告の連絡をくれるほど人妻なのに露骨にすがってきて、玄次郎も困惑していた。あの母親をして、この子と思えば、理解できる。両親が亡くなり、大金持ちといえど家も本店も流れ、その再建は18歳では容易ではないし、途中で社員の誰かに騙されるかもしれない。すぐに急いで頼りになる男が欲しくて、同世代ではアテにできないし、にわかに見つけた男では同じく財産を騙し取られるかもしれない。けれど、玄次郎なら鮎美との関係もあるし、総理大臣の父親という立場もあるので、騙し取るようなことは無いと期待できる。無意識にか、計画的に狙ってか、手近で信頼できる男に食いついてきたのだと感じた。

「まあ……オレも淋しいからな…」

「利害が一致したね♪」

「……あ…」

「ん?」

「いや、何でもない……」

 オレは娘と穴兄弟というか、娘のおさがりをもらったのか、人類史長しといえど、同性愛の娘が手を出した後の女性をもらった男は少ないだろうな、と玄次郎は鐘留の乳房に触れながら思った。

「ねぇ、玄次郎」

「ん?」

「アタシは芹沢姓になってもいいけど、アタシとの子供ができたら命名には鐘の字を使ってね。初代の鐘吉さんから代々そうしてきたらしいから。名字は蒲生とか、斉藤、六角、佐佐木って何度か変わってるから、変更してもいいらしいけど、鐘の字は鉄板だって、死んだお婆ちゃんが言ってた」

「……そうか……祖父母で生きてる人は? 叔父か叔母などは?」

「いたら、ここに泊まってたと思う? 大正時代にね、遺産相続で揉めたらしいの。江戸時代までの長子相続の原則が崩れて、平等に分けろってなって、家業が分裂したら弱くなるから、二人までしか子供をつくらないようにしてたらしいよ。なのにママの弟は大学生の頃にフェラーリでドリフトして鈴鹿山脈の谷底へヒュ~♪ ドカン! お爺ちゃんは肝ガンで早くに死んでる。だから、アタシは今は一人きり。お金持ちでいるために二人っ子政策をしていたら、たった一人になりましたとさ」

「……かわいそうにな……」

「だから、優しくしてね。裏切ったらアユミンに言いつけてやる」

「それは怖いな。小姑みたいに怖そうだ。にしてもオレは建築が専門なのに、菓子屋と肉屋、ロープウェイ屋を継ぐのか……」

 有名な地元企業なので、もう玄次郎もだいたいの事業内容を知っていた。

「よろしくね」

「はぁぁ……こんな時期だから、ロープウェイ屋は休業させて、食品関係を、どうにかしないとな……気が重い……オレは一人社長が気楽でよかったのに……従業員を使うのは、かなり大変なんだぞ」

「だから玄次郎が要るの。アタシじゃ無理。アタシの家系はね、代々家業を守ってきたけど、代々玉の輿と逆タマを狙って結婚した女と男の遺伝子の集大成でもあるんだよ。そろそろ一人でも社長ができるような人材の遺伝子を入れないとね。よろしく頼むよ、玄次郎」

「はぁぁぁ……鮎美が議員になってオレの運命も変わったなぁ……島で、のんびり暮らして、軽めに仕事して過ごす予定が、鮎美のネームバリューのおかげで建築の仕事も増えて正規職員を入れた方がよさそうだし。あ、ロープウェイ部門の人員を回せばいいか。いずれにしても一級建築士を一人は入れないとなぁ」

「………あと……一つ…」

 鐘留が言いにくそうにする。

「……あと一つ、お願いがあるの……いい?」

「ん? もう、このさい、全部、言ってみろよ」

「じゃあ………もし……アタシが妊娠したら、胎児に障害があるか無いかの出生前診断は絶対に受けたい。……受けて……もし陽性だったら中絶するけど怒らないでほしい」

「出生前診断か……気の早い話だな。そんなこと考えてるのか……」

「……お願い…」

「そんな深刻そうに言われなくても、オレも賛成だけど、君の若さなら障害児が生まれる確率は低いだろ」

「でも、ゼロじゃない」

「まあ、ゼロではないな。けど、それを言ったら検査結果が間違ってる可能性だってゼロじゃないのを知ってるか?」

「うん……知ってる。だから、もし………産まれてから、障害児だってわかったら……逮捕されないように捨てるか殺すかしたい。アタシは障害児なんて育てたくない」

「…………」

 玄次郎は鐘留の目を見た。暗いので、よく見えないけれど、怯えているのがわかった。大胆なのか、臆病なのか、泣きそうな目をしている。

「…アタシの親は……アタシ以外の子供、二人を殺した……産まれてきて……障害児だったから…」

「……バレなかったのか?」

「バレないように、うつ伏せに寝かせただけ……らしいから…」

「そうか……」

「………ぐすっ……ママとパパが死んだのは……バチが当たったからなのかな…」

「違う。そんな風に考えない方がいい」

「……なんで、そんなに、はっきり言えるの?」

「災害も事故も、いい人、悪いヤツ、関係なく襲ってくる。バチが当たって死ぬのなら、今回の震災で死んだ人間、以前の阪神大震災で死んだ人間、みんな悪いヤツだったことになる」

「……そういう……考え方、好き…」

「何より、君の両親は悪い人じゃない。オレだって同じ選択をする」

「っ…ホントに? ホントのホントに?!」

 すがるように鐘留が問うてくるので玄次郎は、この問題が少女にとって人生最大のトラウマなのだと察した。そして、嘘をつくことにした。

「ああ、本当だ。これから言うことは鮎美には言っていないから、絶対に言うなよ」

「……うん…」

「鮎美にとって姉か兄になったかもしれない子ができたことがある。けれど、障害があるとわかってオレが堕ろしてくれと、頼んで堕ろしてもらった。その次に鮎美が産まれて、健康でホッとしたけれど、一人っ子は淋しいだろうと二人目をつくったら、また障害児だったので堕ろした。鮎美は小さかったので、まったく覚えていない。無かったことにした話だ」

 本当は計画的に一人しかつくらなかったけれど、玄次郎は作り話をした。もう美恋は亡くなったし、堕胎したのは大阪の病院だと言えば、この嘘がバレることはないと確信して玄次郎は語る。

「どこの家庭でも、やっていることだ。気にすることはない。うちの親戚では、君の両親がやったように産まれてからタオルを押しあてて殺したケースもあるらしい。そんなことは、どこでも、しょっちゅうやっている。何も気に病むことはない。当たり前の間引きだ」

「……当たり前………」

「殺人になるかもしれないのが怖いなら熊本県に赤ちゃんポストというのがあるのを知っているか?」

「知ってる!」

「あそこが最高に便利そうだな。けど、国の負担になるし、いずれは税金として自分たちに返ってくるから間引く方がいいけれど、九州へ温泉旅行のついでに捨ててくるのもいい。あとは貧しい家庭だったら自動車事故にみせかけて間引く手もある」

「………自動車事故に? どうやって?」

「今みたいな寒い時期は自分も死ぬからやめた方がいいが、夏に自動車ごと池や川に突っ込めばいい。事前に窓を開けておいて、冷静に自分だけは脱出し、障害児にはしっかりチャイルドシートのベルトをつけておけば、たいてい溺死する。この方法の欠点は、運転手が過失致死として少々の刑事責任を問われることだが、たいしたことはない。利点は自動車保険の人身傷害から最大5000万円がもらえることだ。乳幼児はせいぜい2500万くらいだが。注意すべきは保険金詐欺と言われないよう実行前後に誰へも語らないこと、妻へも、親友へも。そして、池や川の近くを走行する合理的な理由があったこと、たとえば子供を寝かしつけるためにドライブしながら釣りスポットを探していたら、つい自分も眠くなって落ちた、などだ。これで一気に貧困家庭から脱出して、一戸建てをもてる。イザナギとイザナミが産んだヒルコを川に流したという伝説を知っているか?」

「うん、知ってる! そうするのが正解だと思う!」

「そうして流されたヒルコは、神戸や西宮あたりに流れ着いて、恵比寿になったらしい。七福神の一柱だ。つまり、うまくすれば福の神になってくれる、昔は慰めだったろうが、現代では保険金になる。リアルに福の神だ。健康な子は、さすがに殺せないが、障害児なら諦めもつく」

「……すごい発想………さすがアユミンのパパ……」

「もともと、こういうのは産婆か、男の仕事だ。母性のある女性が気に病むことはない。だから、鮎美に言ってない。知れば君のように傷つくだろう。獅子は子を千尋の谷へ突き落とす、というだろう。健康な子だけが這い上がってくるのを見越して、オスがそうするという故事だと思えばいい。だから、もう気にするな。そして、検査も受けよう。検査でわからず産まれてきて障害があったら、オレがなんとかする。君は気がつかなければいい。オレが子守りしているとき、なぜか、呼吸が止まってしまった。ただの乳幼児突然死症候群だ、と。あんな便利な病名、そういうことに使うために発想したんだと思えばいいさ」

「うんっ! うんっ! そうする! アタシそうするよ!! アタシ安心して産んでいい?!」

「ああ、いくらでも産めばいい。当たりクジの方が多いクジ引きだ。外れクジだって勇気があれば保険金に変えられる。人生は前向きに生きた方がいい。堂々人生だ、と、どっかの保険会社が言ってただろ、あんな感じだ」

「そうだよね! そうだよね! やった! やった、そうする! アタシ、玄次郎が大好き!!」

 ずっと思い悩んできた最大の懸念が晴れて、鐘留は喜びに輝く瞳で叫んだ。

 

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