第62話 3月16日 多様化する信仰、イニシエーション、信仰とはお金?

 復和元年3月16日水曜、台湾時間午前1時、陽湖は戸惑いながらベッドの中にいた。台湾でも有名な一流ホテルの中級クラスの部屋にいる。当初、陽湖を芹沢鮎美だと思い込んで台湾側はスイートルームに入れてくれたけれど、鮎美が小松に到着して日本全国に向けた動画配信をすると、さすがに疑われ、ずっと陽湖は沈黙をもって台湾側の思い込みを否定せずにいたけれど、あなたは本当に芹沢鮎美なのか、と問われると教義上、嘘はつけないので、月谷陽湖です、と答えた。

「……」

 騙したので、ひどい仕打ちを受けるかと覚悟していたけれど、スイートルームから中級クラスの部屋に変更されただけで、手錠をされたり監禁されたりはしなかった。ただ軟禁はされている。ホテルの部屋に介式と同室で寝泊まりすることを求められ、部屋から出ることはできるけれど、見張りがつき、ホテル敷地からは出ないでほしい、と言われていた。一度だけ日本の大使館や領事館にあたる日本台湾交流協会の職員から連絡があり、状況を訊かれて答えると、とりあえず言われた通りにしておいてください、という官僚的な指示が返ってきている。明らかに責任を問われたくないし面倒そう、という雰囲気と、上位機関に問い合わせようにも日本外務省そのものが津波で消失しているので仕方ない状況でもあった。

「まさか、私まで日本の代表、それに台湾まで任されるなんて……」

 加えて、東京にあった教団の日本本部も消失しており、さらにタイミング悪く台湾の教団幹部たちは石垣島に研修旅行へ出ていて津波により行方不明となっている。そのため教団の世界本部はマザーの称号を与えた陽湖を日本と台湾の教団指導者代表と指名してきていた。流れとして鮎美が外務大臣に任命されたので釣り合うように陽湖をマザーとし、さらに鮎美が総理代理になったので、東京の日本本部も消失したことなので陽湖を日本代表とし、おまけに規模が小さめだった台湾の教団も任せてきている。かなり人事にいい加減さを感じるけれど、連絡してきた世界本部は、より信徒の多いアメリカなどのキリスト教圏へのフォローを重視していて、アジア地域まで手が回らないという雰囲気だった。

「……ちょうど台湾にいたから、ついでに台湾も……みたいに言われても、ぜんぜん文化が違うのに……」

 おかげで毎日、台湾にいる信徒たちが陽湖詣でにくる。ホテルの敷地から出ないでほしい、という軟禁はされていても訪問は自由なので、どんどん来る。せっかく来てくれたので、と陽湖も頑張って祝福したり、パンと蜜を用意してもらって聖餐を施したりすると、人気が爆発して行列ができるようになった。道教が主である台湾では日本と同じく信徒は総人口に対して少数派だったけれど、それでも2000万人口を誇る台湾なので万を超える信徒がいる。

「……でも教義が、ぜんぜん違う風に変化して……それも直しておいてください、ってサラっと言われても………」

 その万を超える台湾の信徒たちの信仰は日本で広まっている教えとは、かなり違っていて道教がベースにあって、そこへ聖書の教えが入っているのに、なぜか日本の天皇と中国の皇帝は親戚で、しかも、もともとは太平洋の中心にあって高度な文明を誇ったのに一夜にして沈んだムー大陸の王族の生き残りと信じていて、モーゼは天皇に教えを乞うていたり、キリストが日本へ来て天皇と話し合い、いっしょに世界を導こうと約束していたり、そもそも天皇でさえ、神道に興味がない陽湖も神武天皇が始めだと記憶しているつもりなのに、天神七代という始めがあって、他にも皇統二十五代などと続いてから神武天皇になっているらしく、それを台湾の信徒の口から語られるのはカルチャーショックが大きかった。

「………ムー大陸って都市伝説なんじゃ……いったいモーゼは、どうやって天皇に……だいたい中国の皇帝は、何度も家系が入れ替わってるから親戚って、どこが、どう親戚……台湾の教団幹部たちは何を考えて、こんな教えを広めてたの……こんなの、シスター鮎美だったら、つっこみどころ満載やん! って一蹴するのに、台湾のみなさんが大切にしてる考えだから尊重しながら修正しないと……。でも、世界本部だって日本と教義の解釈が違ったのに………」

 さらにイスラエルで教団世界本部を訪問しマザーの称号を得たとき、あなたは楽園に行ける数少ないアジア人と言われていて、徹夜で睡眠不足だったので判断力が低下していたものの白人優越主義的な空気を感じていた。いずれ世界の終末後に楽園へ復活できるのは14万4000人だけという聖書の記述を、そのまま信じている上、その14万4000人は白人が主であるという認識らしくて、日本の教団では14万4000という数字は12使徒に12部族と千をかけた、とても多い数字という意味に解釈しているのに、広まっている教えが違うようでショックを受けてもいた。

「……いったい、真実の教えは……どこにあるの……14万4000人なんて六角市の人口以下なのに……でも、たしかに聖書には、そう書いてある……日本の教団が勝手に、とても多い数字と解釈してるだけなの? ………解釈次第で変えられるなら、憲法9条といっしょ……」

 陽湖の中で信仰がグラついていた。台湾、日本、世界本部の三カ所だけでも教えが違っていて、どれが正しいのか、わからなくなる。もともと、子供の頃から日曜礼拝に参加していたけれど、指導者が替わると少し説教の内容も変わった。屋城が来て、イチジクの枝で叩かれることが無くなり、とても嬉しかったのに、世界本部では同性愛は殺人と同じ重罪だから絶対に鮎美を悔い改めさせるよう言われて、その通りにした。そして、今はひどく後悔している。

「………人は間違いをおかす……それは仕方ないけれど………教団そのものが間違っていたら……」

 ずっと聖書を信じてきた。けれど、鮎美と接触するようになってから、教団外の情報も多く入ってくる。鮎美に出会うまでは勧誘活動をしても、拒否する人とは会話が少なくなったし、教義に基づく陽湖の親切心を利用することはあっても、心は閉ざしている感じだった。なのに、鮎美は当初こそバカにしてきたけれど、刺されて入院していたときは真剣に聖書の話に耳を傾けてくれたし、陽湖と会話するときも真剣味をもってくれた。

「なのに……私は……シスター鮎美を………傷つけて……無理矢理にリングを……」

 とても悔いている。悔い改めるのは自分だという気がする。その償いとして身代わりに台湾へ残ったのに、台湾側はホテルに泊めてくれるだけで何もしてこない。津波による東側の被害が大きくて、陽湖への対応は後回しという感じだった。

「……私の信仰は………教団の教えは………本当に正しいの?」

 そんな不安をもって今まで調べたことのない脱会者がネットにあげている情報を見ると、知らなかった情報を次々と目にした。以前に教団は1977年を世界終末と予言して活動していたことや、その予言が外れると、今度は1999年を世界終末と言い出していたらしい。その頃、幼児だった陽湖も少しは覚えている。幼稚園で出会う信仰をもっていない子供たちもハルマゲドン、ノストラダムス、世界の終わり、そんなことを話していて、より陽湖は信仰を強くしたし、両親も今年で終わり、楽園で会おう、そんな会話をしていたし年末には預貯金の半分を教団へ寄付し、残り半分を使って家族で最期の晩餐をやった。あのとき、これはクリスマスプレゼントではないよ、陽湖に買ってあげたいからパパとママが買うだけなんだよ、と説明した後でトイザらズのクリスマスセールで初めてシルパニアファミリーのフルセットを買ってくれて、ものすごく嬉しかった。これで遊べなくなるなら、世界の終末は、できるだけ遅い方がいい、とまで秘かに思っていたら、その願いが神に届いたのか、ごく平穏に正月が来て、節分が過ぎてもバレンタインになっても世界終末は来なかった。

「……あのとき……辞めていった人もいたのに……私たちは……」

 世界終末が来なかったことで陽湖の家族が通っていた教会でも何人かの信徒が日曜礼拝に来なくなった。教団の幹部クラスでさえ、信仰を失っているようにも見えたし、その幹部はいまだに残っているけれど、高校生となった陽湖とは聖書への知識や態度がまるで違い。もう、ろくに聖書を読んでいないのではないかと疑っている。また、あの当時に教会の空気が変だったのも、幼児ながらに感じていた。とても居心地が悪かった。そのうちに世界終末の話は、あまりされなくなり、正しく生きよう、教義を守ろう、そんな礼拝が主になった。

「……この2011年の巨大地震は………ただの地震のはず……少なくとも私は神の化身じゃないし、シスター鮎美と二身一体でもない……別の人間………津波を予知なんてしてない……」

 日本で大人気だった鮎美は台湾でも人気を集めていた。連合インフレ税によりタックスヘブンから実質的徴税をして福祉を充実させるという政策は、台湾の人々もとらえていて、台湾の政治家も一部が人気取りのために失業した若者やニート、母子家庭、低所得家庭の大学進学者などへ給付すると喧伝していた。そして、うっかり陽湖が台湾の信徒たちに、地震前よく津波の夢を見たという話をすると、予知夢だと信じられてしまった。

「……あんなの、オネショしたから見たに決まってるのに……もし予知だとしても、予知して何かしたわけじゃないし……生きてるのが証拠って言われても、たまたま着陸がギリギリだっただけ……」

 もちろん、オネショをしたことは言っていない。すると、どう解釈したのか、陽湖を救世主であり、鮎美と二人にして一人の同一存在と信じ、いずれ世界を救うという変な信仰をもってくれた。しかも今回の巨大地震は世界終末の始まりで、沈んでいたムー大陸が浮かび上がる予兆だと言っている。ムー大陸こそ楽園になるとも言い出している。

「そんな何千年も沈んでたところが浮いてきても住めないし……そこまで大きく大陸プレートが動いたら、もっと、とんでもない地震が起こるのに………つっこみどころ満載やん……」

 突っ込みたくても言えなかったこと夜中にベッドの中で漏らした。

「……言った者勝ちで教義が増えていく……民族性なのかな……それとも道教が習合的だから……日本の宗教観と似て、なんでも吸収しちゃう系……親日で天皇崇拝もあるのに中国皇帝もありだし……だいたい、道教の道って何? 道の意味が多義的すぎ……剣道も、道だし……」

 陽湖は寝返りした。隣で寝ている介式に悪いとは思うけれど、静かにしていられない。

「……日本の教団も指揮しないと、いけないし………」

 日本の信徒たちは世界終末には飽きているのか、それとも地震に慣れているのか、かなり冷静に対応している。災害時には、助け合うという、いつも通りの対応で、信仰をもっている、もっていないに関わらず炊き出しをしたりして被災者を助けている。もともと災害時に、信仰をもっていない人たちも助けるのは勧誘活動の一環でもあるし、単純にやっていて人として充実感がある。平時に勧誘訪問しても冷たい目で追い返してくる人たちが、災害時に炊き出しをすると、笑顔になってくれたり、ときには涙を流したり、両手を合わせて拝んでくれたりする、高齢者だと南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と言われるので、そこはできれば直してほしいけれど、あえて黙って配る。

「国内指揮は……とりあえずシスター鮎美の真似したけど……」

 陽湖が日本の教団代表者なので指揮しなければいけないけれど、ちょうど鮎美が被災県を近いところにある無事な県が助けるというプランを発表したので、そのまま乗っかって指揮すると、あとは陽湖の指揮が無くても各地の教会が、それぞれに進めてくれていた。

「……はぁぁ……明日も一日……神の化身扱いされるの……」

 日本の指揮より、台湾の指導が悩ましい。もともと日本の教団はプロテスタント的で指導者はいても、他の信徒と同列、神の前に平等という精神が強いけれど、世界本部はカトリックの影響があるのか、階層的だったし、台湾の教団はそこへ道教の霊には格がある、より高い格の人物や霊に祈ろうという精神が強くて、陽湖を聖人や天使、神の化身として拝謁してくるし、聖餐への憧れも強く、ひどいときは陽湖の手を舐めてくる。そういうことは異性にされても同性にされても気持ちが悪いし、次の人への間接キスになるので衛生的にも控えてほしいのに、這うように拝みながらされると言えずにいる。

「…はぁぁ………ああっ、もう限界……」

 オシッコを限界まで我慢している。昼間のストレスを発散するために、夕食の後からトイレに行っていない。食事はホテル内のレストランでもルームサービスでも自由にとっていいと台湾側に言われていて感謝しているけれど遠慮して、なるべく安い物にしている。それは介式たちSPも同じだった。いずれ日本政府が精算するかもしれないし、もともと芹沢鮎美を歓迎したいと言ってきたのも本当なのかもしれない、と感じている。

「ハァ……もう限界……ああっ…漏れそう…」

「………」

 介式が寝返りした。介式へ悪いとは思うけれど、陽湖と違い、介式たちは本当に何もすることがなく一日を過ごしている。警視庁へ連絡を取ろうにも、その警視庁が消失しているし、都知事だった畑母神に連絡しても今は防衛大臣なので山梨県知事に問い合わせてくれ、と言われ、山梨県知事も金沢市で立ち上がるはずの臨時政府に問い合わせてくれ、と見事なまでに、たらい回しにしてくるので、諦めて情報収集とホテル内のジムでトレーニングだけしている。たいして、陽湖は朝食後ずっと訪問してくる信徒たちの相手をしていて、昼食は諦めて夕食まで祝福したり、聖餐したりしている。どこか大きなホールに集めて一気に終わらせたいけれど、台湾の信徒たちは一人一人に祝福していることを、とても感謝してくれているので、今さらやめられなかった。

「……ハァ……ハァ! ああっ! ああ! おもらしちゅるぅ! うきゅ~…」

 神の化身でも何でもない、ただの一人の人間として、ひそやかな趣味を楽しみ、シーツの上にムー大陸のような大きなシミをつくる。

「ハァ…ああっ…もらしてる……陽湖は、お布団にオチッコもらちてる…ハァ…赤ちゃんみたいに……オチッコ…ハァ…」

「………」

「いいの……気持ちいいの…おちっこ、おもらし、気持ちいい…」

「………」

「ハァ…ハァ…ああっ…また、しちゃった…」

 ずっと黙っているけれど、介式が眠っていないのにも気づいている。あえて口に出して語ることで陽湖は羞恥心が刺激されて、より快感が高まるので介式を観客として使っていた。

「ハァ……気持ちよかったァ…」

「………」

「主よ、今日も一日、無事に過ごさせてくださり、ありがとうございます。アーメン」

 そして生温かい感触に包まれたまま眠る。朝になって起きると、冷たくなっていた。枕元へ多めにチップを置いておく。修学旅行には、ろくに現金をもってきていないけれど、台湾の通貨は手元に大量にある。とくに請求したわけではないけれど、台湾の信徒たちが祝福や聖餐を受けるつど渡してくれるので、この数日で日本円にして2千万円を超えていた。もちろん、教団への寄付とみなしているので、当座に使う場合は借用したとして記録をつけていた。陽湖は目があった介式へ挨拶する。

「おはようございます」

「……おはよう」

 介式は一言だけ挨拶すると、もう朝食をとるためにレストランへ向かう。日本のホテルと、それほど変わらないバイキング形式の朝食を部下たちと食べる。

「前田、何か新しい情報はあるか?」

「昨夜、G8他2カ国の首脳と、芹沢総理代理が会談された件は、ご存じですか?」

「ああ、ネットのニュースで見た」

「無事に成功されたようです。あれで18歳とは……たいしたものです」

「会談の内容による」

 やはり会議の内容は伏せられていて、開始時のオパマ大統領による追悼くらいしか流れていない。介式たちは朝食を終えると、各自にスマートフォンで情報収集するため部屋に戻る。エレベーターをおりて廊下を進むと、陽湖が部屋の掃除を担当しているメイドに頭をさげていた。メイドは多めにチップをもらえたので、濡れているシーツをバスケットに放り込むと笑顔で次の部屋に向かう。見ていた前田は小声で介式に言う。

「彼女、毎晩のようにシーツを濡らしていますね。よほど今の状況が怖いのかもしれませんが、台湾側も、それほど悪い扱いはしてこないと思います。処刑される夢でも、見るのでしょうか? 夜中うなされていますか?」

「………さあな」

「死刑を待つ囚人も布団を濡らすことがあるそうですが、介式警部から安心するように言ってやっては、どうでしょうか?」

「………。見なかったことにしてやれ」

「はっ!」

 介式たちは部屋に入り、陽湖はレストランで屋城と朝食をとると、寄付されたとみなしている現金でホテル内の会議室を借り、屋城と現地教団スタッフに手伝ってもらい、聖餐の用意をする。陽湖には台湾警察の職員が見張りについているけれど、宗教活動へはノータッチで退屈そうに廊下で立っている。すでにホテル敷地外には行列ができていて、ホテルへ迷惑にならないよう少人数ずつ交替で祝福する。もう教義を修正するのは諦めて、これ以上に変なことを言い出されないよう単純な祝福にとどめておく。英語や陽湖も不慣れで聴く方の信徒も理解できないヘブライ語で祝福するより、日本語で祝福する方が喜んでくれるので、そうしている。

「主の御名において、あなたに祝福がありますように。アーメン」

「嗚呼、ありがとうございます。私は今日からイエスと関羽に加えて、あなた様を信仰します」

「……。聖書をよく読み、信仰を深めてください」

「謝々! 我加油!」

 そこそこに日本語ができる信徒が、逆に誤解を広めていそうで怖い。

「主の御名において、あなたに祝福がありますように。アーメン」

「おおっ、私も陽湖様を信仰します! ヨハネと孝謙天皇、陽湖様が私の神です!」

「………、聖書を何度も読み、信仰を深めてください」

 しかもイエスだけでなく使徒も信仰対象としているし、そもそも信仰告白の意味を取り違えている。ミカエルやガブリエルなどの天使や、マリアやモーゼなどを信仰対象としているのは、まだマシな方で明らかにキリスト教と無関係なものも含まれていたりする。天使や使徒を信仰対象とするのは、本場のヨーロッパでも生じていて、それでは唯一絶対の神への信仰がゆらぐので、やめようという流れになっているとは聴いたことがあるし、神と聖霊とイエスを三位一体として一つとみなすのも、信仰対象を一つに絞るための努力なのかもしれない。なのに台湾の教団は、日本の八百万も負けそうなほど、何でも信じていて、本当に自分と同じ教団の人間なのか、疑わしくなってくる。

「私は陽湖様とノア、アブラハムを信じます!」

「…………聖書は、どこまで読みましたか?」

「はい、夕べ創世記を読み終わりました!」

「そうですか………どうぞ、読み続けてください」

 それぞれの信徒が思い思いに、気に入った聖書の人物を信仰していたりするようで、何が正しいのか、陽湖にもわからなくなってくる。実は陽湖も鮎美から言われるまでもなく聖書の記述に無理がある部分が存在するのは小学生の頃から気づいていた。ノアの箱船にしても、すべての動物を一組ずつ乗せるとして、ゾウやサイ、キリンなどの大型動物を乗せられるだけの船を造る造船技術があったのか、それは神の奇跡でノアが頑張ったとして大型動物のエサも積載でき、さらに動物が暴れたりせず、ちゃんと管理でき大洪水がおさまるのを迎えられたとして、それが約五千年前、その一組から動物が増えていくなら、ネズミ算式に個体数を増やせば十分な群れになったかもしれないけれど、草食動物はともかく肉食動物のエサは、どうしたのだろう、とも思う。さらにコアラやカンガルーなどのオーストラリアにしかいない動物は、どうしたのだろう、ニホンオオカミは、ツキノワグマは、パンダは、シロクマは、コウテイペンギンは、きちんと考えると上野動物園より大きな船を造る必要があるし、そんなものを短期間で丘の上に造ることは不可能としか思えないし、パンダやコアラを、どうやって連れてきたのか、どうやって戻したのか、聖書をそのまま信じなさいと言われて、考えないようにしてきたことまで思い出してしまった。それらの無理のある事象も、すべて神の奇跡で乗り切ったとするなら、そんな回りくどい奇跡より、いっそ悪い人間だけに死に神でも派遣して心臓麻痺で殺せばいい、そうすればゾウやキリンたちも、他の仲間を喪うことはなかった。あのノアの洪水の話では、多くの動物たちも犠牲になっている。たまたま選ばれたつがいだけ生き残り、他の何の罪もない動物たちは、悪い人間を殺すついでに始末されてしまい、とても可哀想で神のやることではない気もする。そして、いきなり絶滅危惧種以下に個体数を減らされ、たった五千年で回復して地上に満ちている。そもそも動物の種は、とても多い。猿だけに限っても、キツネザル、アイアイ、ロリス、メガネザル、マーモセット、ヨザル、ホエザル、リスザル、ニホンザル、マントヒヒ、テングザル、オランウータン、約180種もいる。つがいなら360匹は載せないといけない。そして、それぞれの動物には適した気温などの環境がある。電気照明もない暗い船内でパニックも起こさず、一匹の死亡個体もなく過ごすなど、現代の技術でも不可能で、それこそ巨大UFOの仕業ともいえる。ムー大陸の失われた技術でもない限り、不可能という笑い話かもしれない。

「聖書にすべての真理があるのです。……」

 もしかりに聖書に書いてあることの一部は童話や神話のようなものと解釈し、よい教えだけを吸収するという姿勢をとるのは、どうだろうか、げんに欧米でも、そうなりつつあるし、鮎美も聖書の話に耳を傾けたとき、たんに生きる規範や道徳として聴いていた。けれど、そうなると好き勝手に取捨選択することになるし、同性愛禁止は現代の人権感覚に合わないから死文としたり、地球が丸いのも、生物が進化するのも認め、そうしていよいよ、やっぱり神が七日間で世界を造ったのも怪しくなる。となると、イエスの復活さえ疑わしくなるし、マリアも隠れて性交したのか、それとも強姦されて妄想を抱いたのかもしれない、ただイエスが残した言葉は素晴らしいものが、いくつもある、そこは大切にして、非科学的な部分は、わきに置いておく。それでは、聖書は単なる教訓と諺を集めた道徳教科書になってしまうし、そんなものは信仰ではなくて、せいぜい処世術や哲学、道徳観念に過ぎなくなる。人としてのイエスの生き方に学ぶと言っても、それは徳川家康を尊敬して、その生き方に学び、人生を行くのと変わらない。ただの尊敬と憧れになってしまう。さらに、実は徳川家康も神として日光東照宮で信仰されていたりする。違う、信仰とは、もっと絶対的なものであるはずだった。では、信仰とは何なのか、陽湖の中で疑問が渦巻く。

「主の御名において、あなたに祝福がありますように。アーメン」

「ありがとうございます! 聖餐もしてください! お願いでございます!」

「ブラザー愛也、パンと蜜を」

「はい」

 聖餐をすれば手を舐められるし、這うように頭をさげたかと思うと、足の爪先にキスされたりする。中年女性の信徒が両手を合わせて頼んできた。

「私の母は膝が悪いのです、どうか、陽湖様の膝を拝ませてください」

「………どうぞ」

 仕方なく許すと、両手で陽湖の右膝を包みながら祈ってくれた。そんなことで老婆の膝が癒えればいいけれど、とにかく陽湖も、いっしょに祈る。

「あなたのお母様に主の祝福がありますように。アーメン」

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 地域ごと、国ごとに宗教への理解や接し方が違うのはわかるし、日本でも信仰を始めたばかりの信徒は土着の宗教観が混ざってしまう。陽湖が受洗した美恋も、バチ当たりという概念をもっていたし、いずれ直すとしても、ここまで台湾の信仰が違っていると、実は自分が真実だと信仰してきた日本の信仰も違ってきているのかもしれない、と不安になる。一つ不安になると、二つ三つとグラついてくる。やっぱり聖書の世界観は地中海世界しか見ていないし、アメリカ大陸や日本、仲国など、まったく存在しないかのようになっている。かといって、天皇と中国皇帝とイエスが協力して世界を導くという信仰にはついていけない。どこから修正していいのかもわからない。何時間も次々と訪れる信徒を相手にしていると、だんだん頭がボーッとしてきて、どうでもよくなってくる。

「ボクは陽湖様と鮎美様を信じます! 鐘留様と鷹姫様も!」

 大きく四人の写真がプリントされたTシャツを着た30代の男性が言ってくる。それはもう信仰ではなくてアイドル崇拝だし、自眠党の方針では、あまりアイドル的に売るのはやめようとなっているのに、どうして台湾にこんなTシャツがあるのか、正規品なら自眠党のロゴマークが入っているはずなのに、それはないのでバッタものか、密造品かもしれない、陽湖はとても疲れてくる。それでも、対応する。

「……次の人、どうぞ」

「オラは陽湖様と孫悟空、呂布を信じます! 日本が大好きです!」

「っ……………フ……フフ…」

 明らかに西遊記でもなく、三国志でもない日本のアニメキャラを愛している感じのTシャツやキーホルダーの20代の男性に言われると、陽湖はボーッとしていた頭がグルグルと回るのを感じた。まず西遊記はフィクションだし、せいぜい実在していたのは玄奘三蔵くらいで、しかも仏教の話だし、よく知らないけれど最終的に孫悟空も仏になって闘戦なんとか仏とされたらしい、三国志にいたっては何を考えているのか、わからない、わからない存在なのは、むしろ日本人かもしれない、何でもアニメキャラにしてしまうし、何でも神様にしてしまう、外から見て、こんな変な民族はいないかもしれない。なのに日本が一番と思っている。けれど、白人たちも自分が一番だったし、仲国も仲国で自分たちが一番と思っている。キリスト教に限っただけでも、イスラエルを訪問して聖墳墓の周りを見れば、プロテスタントとカトリック以外にも、なんとか正教会だの、なんとか派だのが存在し、みんな自分が一番正しいと思っている。そして陽湖自身も自分の教団の教義が一番正しい、唯一の真実だと思ってきた。けれど、その根拠はなんだろう、陽湖が信仰を始めたのは、たまたま両親が信仰していたからで、陽湖自身が選んだわけではない。いわゆる二世信徒だった。そして、その両親も友人や訪問勧誘を受けて入信している。たまたま、だった。ほんの偶然だった。

「…フ…」

 どうして、自分たちの信仰のみが真実で、他は間違っていると言えるのだろうか、キリスト教には原始キリスト教というのが、あるらしい。イエスから始まり新約聖書の成立をみる1世紀後半くらいまでをそう呼び、以後は初期キリスト教となる。そこから、どんどん分かれてローマ教皇を中心とするカトリック教会、ルターの宗教改革で生まれたプロテスタント、両者の中間くらいの性格をもつ聖公会、少しは日本に入っているルーテル教会、改革派教会、会衆派教会、メソジスト教会、バプテスト教会、アナバプテスト、東方教会とあって、実は陽湖たちの教団はどれにも属さない、ほんの数世紀前に一人の聖書研究家が言い出した全体から見れば異端にすぎない宗派だった。言い出したといえば、ナザレのイエスも同じだった。原始キリスト教は、せいぜいユダヤ教イエス派もしくはユダヤ教ナザレ派と呼ぶ方が実体を理解できるらしい。そしてユダヤ教はユダヤ人の民族宗教だったし、ユダヤ教とキリスト教の影響を受けて7世紀にムハンマドが唱え始めたのがイスラム教だった。イスラム教はアブラハムとモーセとイエスとムハンマドを最高の預言者にして使徒とみなしているし、ムハンマドは政治家としても軍人としても優秀だったらしい。そして妻は10人を超えたというから当時の人間らしいといえば、人間らしい。戦争を指揮する人間が聖人というのは陽湖には違和感が大きいけれど、そういえば初期の天皇たちも自ら戦っていたらしいし、おそらく国が成り立つときには、それなりに他の集落や集団との戦争はあるのだろうとは予想できる。

「…フフ…」

 そんな風にイスラム教、ユダヤ教、キリスト教は一応は旧約聖書などは、ある程度共通の聖典として崇めているけれど、どれが真実なのか、どれが正しいのかについては、さんざんに争ってきた。ペンでも剣でも、さんざんに戦い、そして不毛なことに結論など得ていない。陽湖が真実を探し求めるなら、それぞれの宗派、そして異教の理解も深め、その上で何が真実なのか見極めねばならない。けれど、それは、陽湖の個人的な見解にすぎないかもしれない。科学なら実験で再現できて証明できる。もはや地球が丸いことは疑いようがないし、地層を見れば恐竜の化石もある。猿と人間の骨は共通点が多いし、DNAも近いらしい。人類はヒトだけでなく原人もいたし、化石もある。それらの化石は人間を惑わすためにサタンが用意したもの、という進化論否定の口上は陽湖自身も言っていて苦しい言い訳と感じる部分もある。そういう今まで封印してきた疑問、違和感、真実が真実でないかもしれない不安、結局はイエスも教皇もルターも自分が正しいと思うことを言い出しただけ、と考えると一気にすべてが、どうでもよくなってくる。

「…んフ…」

 陽湖の中で何かが切れた。

「…フフ……んフフ…」

「陽湖様の笑顔だ!」

「陽湖様が笑っていらっしゃる!」

「陽湖スマイル万歳!」

「……フフ……んフフ……そんなに私が好きなら…」

 陽湖は聖餐につかっていた蜜壺を足元においた。紫ローブの裾を摘んであげると、壺を跨いで放尿した。もう、どうでもよかった。私は、ただの人間で、神の化身ではない、その証明に聖餐につかう大切な道具に放尿した。大切な道具といっても、粘土を焼いただけの物だし、偶像崇拝はしないので物は物にすぎない、まだ蜜は残っているけれど、聖なる食べ物でもなく、ただのコンデンスミルクと蜂蜜とオリーブオイルにすぎない。ずっとトイレに行きたいのも我慢して、信徒の相手をしていたのに、本当に信徒なのか疑わしい人ばかりなので陽湖は微笑みながら、壺に小水を貯め、手で蜜と混ぜて差し出した。

「さあ、これを舐めてみなさい」

「………。はい!」

 舐めてくれた。次の男性も舐めてくれたし、女性も舐めてくれた。

「…んフフ…」

 おもらしとは別の喜びを見つけた。とても優越感がある。自分の小水が混じった蜜を与えると、まるで相手を支配し、自分を受け入れさせているような感覚があった。その後の信徒たちにも尿蜜を与え続けた陽湖は19時まで祝福を続け、本日の聖職者としての業務を終えた。

「……少し一人にしてください」

「「「はい」」」

 屋城と現地教団スタッフたちが出ていくと、陽湖は会議室で一人になった。

「………んフフ……」

 寄付金を集めている木箱を見下ろした。ニュー台湾ドルとも台湾元とも言われるドルなのか、元なのか、どっちでもある通貨が、ぎっしりと入っている。外国紙幣なので実感は薄いけれど、ざっと今日だけでも、また一千万円を超えたかもしれない。

「……………そっか……やめられないんだ…………やめられるわけない……」

 どうして世界本部が14万4000人しか救われないと解釈しているくせに、どんどん信徒を増やすのか、どうして信仰を失った幹部が教団をやめないのか、木箱に入っている金銭を見て感じた。

「…ずっと……私の家から巻き上げて………」

 子供の頃から、ぎりぎりの生活だった。両親は勧誘活動もするので定職につけず、今でも時給労働をしている。なのに、少しでも寄付しようとする。

「……これが諭吉だったら……」

 台湾紙幣に描かれている蒋介石を福沢諭吉だと思ってみると、心が騒いだ。

「………ずっと行きたかった……連れて行ってほしかった……UMJも……東京ディスニーランドも……鈴鹿サーキッド………ひらかたバーク………長島スパーラント……ぐすっ…びわ湖タワーしか行ったことない……」

 家族三人で入る入場料が無かったし、交通費もかかる。子供心に連休明けなど同級生たちが話していることが羨ましくて羨ましくて、なぜ自分の家は毎週毎週日曜朝に教会へ行くのか、そしてお金が無いのか、知っていた。

「……私の青春を返して……ぐすっ………行かないうちに津波で無くなって……あ、富士急ハイラントなら残ってるかな……あそこまでは津波……襲ってないかも……あとは芝政ワールト……」

 行ったことがないのに、憧れて色々な遊園地を記憶している。陽湖は木箱へ両手を突っ込んで紙幣の握りしめた。

「……リアルに……濡れ手に粟……」

 蜜でベタついた手は大量の紙幣を握っている。これだけで両親の月収3ヶ月分はありそうだった。

「お金……お金さえあれば……お金の力……」

 芹沢家で暮らしたことで自分の家庭との格差は思い知っている。一見、平均的に見えるけれど、芹沢家は贅沢だった。鮎美の議員報酬がなくても玄次郎の所得だけで十分に贅沢だった。何度も玄次郎とスーパーに買い物へ行ったけれど、食品売場では玄次郎は値札をあまり見ない。それどころか、同じ牛乳でも高い方を買ったりする。タマゴも特売の安売り品より、一番高い有機農法飼料を与えたというタマゴを買う。牛肉も狂牛病を恐れて国産か、オーストラリア産を買う。晩酌に呑むビールも必ずビールであって発泡酒だったことはない。チビチビと呑んでいるウイスキーなどは、とても高価だった。たいして陽湖の父は焼酎を買ってきて、お湯や水で薄めて呑んでいた。

「……私のアトピーが治らなかったのも……宗教のせい……」

 飲食物だけでなく、身の回りの物もレベルが違った。シャンプーもボディーソープも化粧水も、マルチ商法企業の良質なものを買っていた。シャンプー一本が7000円という価格は、ぼったくりとしか思えなかったし、悪徳商法に騙されているだけでは、と心配になる部分もあったけれど、使ってみると使い心地がよくて肌に優しく髪もキレイになった。ボディーソープも香料が控え目なのに、いい香りで、ちゃんと垢を洗い落としてくれて、きつかった腋の匂いも、穏やかになった。それまで陽湖の家庭で使っていたシャンプーは一番安いものだったし、ボディーソープではなく石鹸で身体を洗っていた。芹沢家にも石鹸はあったけれど一個1200円と聞いて使わせてもらうのに抵抗があるほどだった。

「……いい環境で……いい物を使えば……すぐ治ったのに……」

 空気のキレイな島で暮らし、高価で良質なタマゴや牛乳を口にして、同じく高価で良質なスキンケアを使うと、陽湖のアトピーは日に日に良くなった。低所得家庭の福祉医療補助で無料だからといって病院でもらったステロイドを塗り続けるより、ずっといい。それは肌でも味覚でも感じた。陽湖が買い物を任されて、ついつい安い牛乳やタマゴを買ってしまうと、それは水っぽかったり臭く感じるように味覚が変わっていたし、さりげなく美恋は野良猫にそれらを与えていて、今まで自分が食べてきた物は猫のエサだったのかと感じてしまっている。一度、1パック59円の豆腐と、1パック198円の豆腐を何もつけずに食べてみるよう言われて、やってみると59円の方は苦くて薬臭かったし、198円の方はまったりと甘くていい匂いがした。別に静江のようにイタリア製のハンドバックを持ったり、フランス製の車に乗りたいとは思わないけれど、身体のためにも、いつか産む子供のためにも、いい物は食べたい。そんな風に一つ一つの商品で高い方を買うので芹沢家の買い物では、買い物かご一つ分を精算すると一万円くらいになるのが平均だったし、陽梅や陽湖が買うときは3000円を超えなかった。

「……エビフライ……」

 子供の頃の外食でも一番安いお子様カレーセットより、エビフライのあるお子様プレートが食べたかったけれど、空気を読んで一番安いので我慢してきた。

「……大トロ……ウニ……」

 谷柿総裁に招かれて行った料亭で、はじめて大トロを食べた。脂の塊のように真っ白なのにすがすがしい甘味で、醤油も上等だった。ウニは自然薯とあえられていて、コクと甘味、口当たりのハーモニーが最高だった。セクハラ写真訴訟の裏交渉だったので、ゆっくり落ち着いて食べたわけではないのが、もったいない。あんな料亭にプライベートで行ってみたいと思って調べたら、一人一食7万円、一見さんお断りだった。そんな超高級店なのに鮎美も静江も平然としていたし、鷹姫でさえ少し慣れてきている感じで、料理を味わうことに集中していた。鷹姫も子供の頃から貧しかったらしいけれど、もともと島全体が現金収入の少ない世帯が多いので格差を感じていない風だったし、ひがみも無いようだった。陽湖はひがみを、ずっと信仰で抑えてきた。

「お金があれば、すべてが変わる」

 再び陽湖は木箱に両手を突っ込むと、爪を立てて紙幣を掻き上げ、両腕で胸に抱きしめた。

「っ、あああぁ…」

 脳が痺れるような快感が走った。この胸の中に一千万円があると思うと、背筋がゾクゾクとして唾液が口の中に湧いた。股間までざわついて、おもらしもしていないのに、なんだか濡れたような感触がある。濡れてきてヌルヌルするし、ローブの中には下着をつけないので、垂れてきて内腿までヌルヌルする。

「フフッ……フフ! フフフ! んフフ! フヒヒ! ヒーヒヒヒヒっ!」

 笑えてきた。心の底から嬉しくて笑えてきた。ひとしきり笑うと、陽湖は唇から垂れたヨダレも拭かずに、つぶやく。

「政治家なんて……くだらない……宗教家の方が、ずっといい……」

 秘書補佐として、わずかに政界を経験したけれど、議員の鮎美でさえ支持者へ頭をさげてお願いして回り、忘年会新年会では、したくもない酌をして機嫌をとっていた。自分もそれに付き合わされた。

「……宗教……最高…」

 けれど、宗教家、聖職者という立場なら自分こそが神の代弁者、神の代理人、くだらない連中に頭をさげるどころか、足元に這わせることができる。そして、お金も集まってくる。

「……お金も、ぜんぜん違う……」

 静江から、すぐに勉強するよう言われて学んだけれど、政治家の金銭はがんじがらめだった。法律でしっかり縛られている。けれど、宗教家は違う。

「………領収書なんて……いらない…」

 この胸にある1千万円、客室にある2千万円、合わせて3千万円に領収書など出していない。まさに、親切な人がくれたお金だった。

「フフ……そうなんだ……考えてみれば、教会も、神社も、お寺も、みんな、お金を集めるところ……人類最初の自動販売機は聖水を売ってた……礼拝は最後にお金を集める……祈りは、ただの放任行為……法律行為としてみれば、支払いのみがある……しかも、仕入れもない……在庫も……経費も、ごくわずか……マルチ商法よりも、ずっといい……政治家よりも、もっと、もっと…………寺社仏閣なんて、もっと露骨、真ん前に御賽銭箱……偶像を置いて、そこに箱をおいて集める……そっか! 宗教とはお金を集めること! 信仰とはお金を払うこと! 私の仕事はお金を払わせること! んフフ! フヒヒ! あっははははっは! エウレーカ! アカンターレ! 南無不可思議不換紙幣! ハレルヤ! ああ、ハレルヤ、アーメン! んフフウフウフフウフ!」

 陽湖は紙幣を抱きしめたまま、床をゴロゴロと転がって笑った。笑っているうちに股間がざわついてヌルヌルに濡れて熱くなったので、紫ローブをめくって紙幣を押しつけて擦った。

「ハァっハァっ、ああ、気持ちいい。お金って気持ちいい……あ、そっか、私が日本代表になったんだから、裏からシスター鮎美を支配して日本を操ればいいんだ……日本全体を私の神の国にすればいい、ついでに台湾も……んフフ! フヒヒ! あっははっはあは!」

 また笑って気持ちよくなって、その興奮が落ち着いたとき、会議室の窓ガラスに映る自分の醜い顔を見て、一気に酔いが吹っ飛んだ。

「っ……私、また酔って……狂ってる……権力に酔った次は、金銭に酔って……ああ、神よ。どうか、導きを! もう二度と間違いません!」

 イスラエルから日本へ向かう機内で暴走した記憶は苦々しく残っている。その教訓から自戒して、しばらく祈り、思いついた。

「酔いすぎるからダメ……ほろ酔いくらい……そう、コリント第一、大酒はダメ。でも、ぶどう酒を楽しむのは、いいこと……ヨハネ2章10節、ほかの人はみな、上等のぶどう酒を最初に出し、みんなの酔いがまわったころに、それより劣ったのを出すものですが、あなたは上等のぶどう酒を今まで取って置いたのですね。………んフフ! 私の人生、今まで、つらかった。けど、これからは、上等のぶどう酒が出てくる!!」

 脳内から都合のよい聖句を呼び出すのは簡単だった。まるで弁護士が判例を引っ張り出すように湧いてくるし、解釈も自分次第、判決も自分次第だった。

「はぁぁ……落ち着いて……もう失敗はしません。幼い頃に貧しかったから、大人になってから金の亡者なんて、そんなわかりやすい、麻原彰晃みたいな風にならない……だいたい、あの人、なんのためにサリンなんか撒いたのかな……せっかく数万人規模の教団のトップなんだから、そのまま、楽しめばよかったのに……」

 陽湖は落ち着くために散らかした紙幣を片付けつつ考える。

「うん、こうしよう。ちゃんと、みんなのために使おう。そして、ほんの一部だけ私が酔うために使う。ほどほどに。もう酔って狂ったりしない。それでいいですよね、神」

 否定は返ってこなかった。

「とりあえずシャワーを浴びよう。不潔にしてると、余計に変な考えに支配されるから」

 夕食の前にシャワーを浴びることにして、木箱に紙幣を戻し、その10分の1だけは自分のものという認識にした。

「あ、ちょうど300万円くらい」

 自動車教習所でのセクハラで受け取った慰謝料を寄付した額と同じになるので、ますます自分のものという認識が強固になった。客室に戻り、紫ローブを脱いでシャワーを浴びる。舐められたりキスされた手足は入念に洗った。身体がキレイになり、バスローブを着ると、同室の介式に頼む。

「すいません。少しの間、ブラザー愛也と二人になりたいので出ていてもらえますか?」

「わかった。夕食に行く」

 介式にとって陽湖は警護対象ではないし、陽湖の意志で客室に呼び込んだ男性と、何をしていようと自由だと判断したので出ていく。陽湖は屋城を呼ぶと、自分は椅子に座り、屋城には床に跪かせた。紫ローブとは違いバスローブなので陽湖の若々しい脚が見えやすい。

「これから黄金聖水のイニシエーションを行います。ブラザー愛也、あなたが初めて受けることになります。よろしいですか?」

「…はい」

「列王記第二18章27節を朗読してください」

「はい。しかしラブシャケは彼らに言った。わたしの主がこれらの言葉を語るよう、わたしを遣わされたのは、あなたの王や、あなたに対してであろうか。それは城壁の上に座っている者たちに対してではないか。彼らがあなた方と共に自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるためではないか」

「よろしい」

 そう言った陽湖は立ち上がると、客室備え付けのティーカップをバスローブの隙間から股間へ入れ、そこに放尿した。大量には貯まっていなかったので、ちょうどティーカップ一杯分になった。

「黄金聖水のイニシエーションです。お飲みなさい。ブラザー愛也」

「……はい…」

 飲んでくれた。半分嬉しくて半分悲しい。屋城とは対等な恋人関係になりたい気持ちもあった。けれど、マザーとなるまでは見上げていたし、マザーとなった今は見下ろしている。自分の尿を飲んでくれたので、なんだか支配しているような気がして嬉しい。けれど、見上げているときは凛々しくて憧れたのに、見下ろしていると恋心が半減し、これでもいいかな、というくらいに冷めている。もう明らかに今までの教義とは違うことを始めたので、それを指摘して自分を叱り、正しい方向に導いてくれたなら、もう一度、憧れてみたかったけれど、それはかなわなかった。教団内のヒエラルキーには従うという男の態度に失望しつつも、もう半分では快感を覚えていたので満足した。

「ブラザー愛也、いずれ、あなたとは結婚いたしましょう。ですが、今はマザーの勤めを果たしていくとき、ともに励みましょう」

「はい」

「では、おやすみなさい」

「はい、おやすみなさいませ。マザー陽湖」

 今すぐ結婚して処女を卒業してもよかったけれど、なんだか少し惜しくなったので先延ばしにした。単純に人妻のオシッコより、処女のオシッコの方が高く売れそうな気もするし、ロストバージンは控える。それに、お腹も空いている。昼食を抜いているので、かなり空腹だった。屋城が退室すると、陽湖はルームサービスを取ることにした。また遠慮して、それほど高価でない大腸麺線というモツ入りラーメンのようなものを頼み、加えて紹興酒とビールも注文した。

「台湾は18歳から飲酒可能……国の法律もいろいろ……ほろ酔いが、どんな感じかも試してみよう……神よ、いいですよね?」

 また否定は返ってこない。法律上も問題無いので美味しくいただいた。

「あ~………ふわふわする………」

 酔いを体験していると、介式が戻ってきた。

「あ、おかえりなさい」

「……ただいま。酒を呑んだのか?」

「はい」

「………そうか…」

 警察官として一瞬戸惑ったけれど、国によって飲酒可能年齢が違うことも知っている。日本は一部のイスラム教国のように属人主義をとっていないので海外に行けば、その国で飲酒やマリファナが許されていれば、問題ない。いまだ高校の卒業式を迎えていない陽湖へ一瞬注意したくなったけれど、適法なので黙った。

「ん~……気持ちいいものですね……酔うって……」

「………、ほどほどにしておけ」

「はい、ほどほどにしておきます。大酒は罪ですから」

「普遍的な真理かもしれんな、それは」

 介式も衣服を脱いでシャワーを浴びるとバスローブ姿になった。お互い、異性愛者なので意識したりはしないけれど、陽湖は怪しく微笑むと、聖書を持った。

「シスターいつか、ここを朗読してください」

 さきほど屋城に朗読させた聖書の一節を指し示したけれど、介式は拒否する。

「いや、私は、けっこうだ」

「そう言わず、どうか一度だけお願いします」

「断る」

 酔った人間がしつこいのは警視庁の上司も女子高生も変わらないな、と介式は不快そうに断言した。陽湖は脚をモジモジとしながら頼む。

「オシッコ出そうなんですよ、お願いします」

「……? ……トイレに行け。それから、寝る前にもトイレに行った方がいい」

「では、私が朗読しますね」

 お互いに会話のキャッチボールが成立しないまま、陽湖は聖書を読む。

「列王記第二18章27節。しかしラブシャケは彼らに言った。わたしの主がこれらの言葉を語るよう、わたしを遣わされたのは、あなたの王や、あなたに対してであろうか。それは城壁の上に座っている者たちに対してではないか。彼らがあなた方と共に自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるためではないか」

「………」

「では、黄金聖水のイニシエーションを施します」

 大腸麺線のスープとビール、紹興酒を呑んだので、かなり貯まっている。陽湖はビールジョッキを手にすると、バスローブの隙間から股間に入れた。

「何をする気だ?!」

 嫌な予感しかしない。そして予感が的中する。陽湖はビールジョッキへ放尿すると、それを介式に向けた。

「シスターいつか、飲んでください」

「断る!!」

「なぜ、飲まないのですか?」

「そんなものが飲めるか!!」

「どうしても飲まないつもりですか?」

「当たり前だ!!」

「シスターいつか、あなたに拒否権はありません。これを、お飲みなさい」

「………もう私に話しかけるな。それを流して洗っておけ。汚らしい!」

 介式は嫌悪感しかないという顔をしているけれど、陽湖は怪しく優しく微笑んだ。

「あなたには、これを飲む義務があります」

「そんな義務はない!!」

「いいえ、あります。あなたは罪を犯しました」

「何の話だっ?!」

「介式いつか警部は警護していた芹沢鮎美を逃がすため、民間人だった月谷陽湖を身代わりとして台湾政府に差し出しました」

「っ………あれは、君も同意して……」

「同意があれば、何をさせてもいいのですか?」

「くっ……お前が言うのか…」

「これを飲めば、あなたの罪を許します」

「………断る!」

「神とマスコミは、すべてを見ておいでです。なるほど、警護していた議員を守るのは大事なことです。けれど、そのために似た顔の18歳の少女を外国に差し出す警察官に、どのような罪があり、罰をくだすべきでしょうか?」

「…………」

「さあ、これをお飲みなさい。すべてを許します」

「………勝手に告発でも、タレ込みでもするがいい! 私は、そんなもの飲まない!!」

 介式は厳罰も世論の批判も覚悟したけれど、陽湖は畳みかける。

「あなた一人で済むことでしょうか? あなたの部下も協力したのに」

「っ…」

「ただ、これを飲むだけで、すべてを許します」

「………」

「警察としては、どのくらいの不祥事なのですか? 議員の身代わりに民間人を外国政府に差し出すのは? あなたの部下の出世にも、響くのですか? クビになりますか? 依願退職で済みますか?」

「…………そんなものを私に飲ませて楽しいのかっ?!」

「はい、楽しいです。私は嘘をつきません」

「…………………」

「さ、飲んでください。お願いします」

 陽湖がビールジョッキを介式に持たせた。生温かい。泡立っているし、陰毛が1本浮いている。そして酒を呑んだ人間が出した尿なのでアルコール分解産物が混じり、余計に臭い。ホテルの客室で、二人ともバスローブ姿で向かい合っていて、二人の間には黄金色の液体を満たしたビールジョッキがある。陽湖は華奢な体格なので介式より二回りは小さく見えるけれど、立場は陽湖が上だった。自分の進退だけでなく部下の将来まで人質にされると、拒否権がないと言われた意味もわかる。

「…………」

「どうぞ、ゆっくり飲んでください」

「……悪魔め…」

 震える手で介式は一気に飲む。

「……うっ、ハァハァ…」

 不味くて臭くて、とても一気には飲めない。夕食の後なので胃が苦しい。

「ハァ…ハァ…」

「ごゆっくり、どうぞ」

「くっ…」

 介式が飲み、陽湖が嗤う。

「フフ、んフフ♪」

 酔った目で陽湖は楽しそうに嗤った。自分への信仰をもっていない者にも論法次第で飲ませることができた。むしろ、嫌がっているのを拒否できない状況に追い込んで飲ませた分、とても楽しかったし、身体がゾクゾクと波打つほど気持ちがいい。介式は飲み終わると気持ちが悪くなった。

「…ハァ……ハァ……うっ…ぷっ…」

「吐いたら許しません。箴言5章15節、あなた自身の水溜めから水を、あなた自身の井戸から水の滴りを飲め。あなたの泉が戸外に、あなたの水の流れが公共広場に散らされてよいだろうか。それは、ただあなただけのものとなるように。あなたと共にいるよそ者たちのためのものとなってはならない。あなたの水の源が祝福されるように」

「…ううっ…」

 吐きそうなので口を押さえて震える。せめて水を飲んで口の中を洗った。

「どんな気分ですか? シスターいつか」

「………」

「あなたは毎晩おもらしして楽しむ私を心の底で蔑んでいましたよね? 目を見ればわかります」

「………」

「他人の趣味を蔑むなんて、失礼ですよ。人はそれぞれ、多様なのですから」

「………」

「でも、そんな風に蔑んでいた私のオシッコを飲んじゃった気分はどうですか?」

「………」

「これから、あなたの身体に吸収され、私のオシッコが、あなたの血となり肉となるのです。心臓に、肺に、脳に、子宮に、卵巣に、すみずみまで私のオシッコが、あなたの身体を巡る。巡る、巡ります。あなたの子々孫々、世々限りなく私のオシッコが永遠に巡ります」

「っ……」

 また気持ちが悪くなって吐きそうになる。全身に嫌悪感が走り、とくに女性として下腹部まで穢されたような汚辱感があった。

「吐いたら、また飲ませます。一度で済ませたいですよね?」

「……ハァ……ハァ……」

 なんとか介式は吐き気に耐えた。陽湖は眠くなってきたのでベッドに入りながら礼を言う。

「あ~楽しかった。ありがとうございます」

「………くっ……」

 変態に弄ばれたような気がして、介式は悔し涙を耐えつつベッドに入った。会話なく時間が過ぎ、そろそろ日付が変わりそうになった頃、陽湖が叫ぶ。

「あっ!!」

「………」

 またシーツでも濡らしたのだろうと介式は嫌悪感に満たされたけれど、陽湖は飛び起きると、スマートフォンを触り始める。

「義援金を集めるの指揮しなきゃ! 教団の口座は東京だろうし、とりあえず私の銀行口座に!」

 台湾のホテルから日本全国の信徒たちへ、自分名義の琵琶湖銀行の個人口座へ、震災義援金を集めて振り込むよう指示した。

 

 

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