第60話 3月14日 隠れビアン、国家機密、接待

 復和元年3月14日月曜、午前1時、鮎美はアメリカ大統領からの在日米軍撤退の知らせを受けて、眠れずにいた。

「……アメリカの被害……どんなもんなんやろ……かなり、ひどいとしか知らんし……今まで自分の国のことで精一杯やったけど……」

 海外の情報まで細かくチェックしている余裕はなかった。

「あかん……眠れへん……」

 明日のために眠らねば、と思うのに寝付けない。現代軍事のことについては、ほとんど知識がない。誰かに相談するとして、思い浮かんだのは畑母神、鶴田、義隆だった。けれど、畑母神も日中の指揮と会議で疲れているはずで、義隆は軍事知識に詳しいようで泰治の手伝い程度の仕事しかしていないので起こしてもいいかもしれないものの、まだ高校生に過ぎない義隆の守秘義務に対する意識に不安があり、もっとも信頼している鷹姫も疲れているはずなので起こしたくないし現代の軍事的知識は自分と変わらない、鮎美は内線電話で司令室へかけていた。

「鶴田司令は起きてはりますか?」

「はい。替わります」

 運良く副司令ではなく鶴田が夜勤しているようだった。替わると言った士官が告げてくる。

「どうぞ、お話していただけます」

 どうやら自衛隊では、このような言い回しをするようで替わる前に言っている。

「はい、鶴田です」

「大事な話がありますので、お忙しくなければ来てもらえますか?」

「わかりました。すぐに」

 鶴田は駆け足で来てくれた。鮎美がドアを開けたのでドア前にいた長瀬は鶴田を通す。

「お話とは何でしょうか?」

「入って、ドアを閉めてください」

「はい」

 鶴田は女性一人しかいない部屋へ深夜に入ることを遠慮して入口で聞くつもりだったけれど、鮎美が促したので入室してドアを閉める。ほんの一時間前に米軍士官が鮎美に何かを伝達したので、その話だろうと見当はつけていた。

「………」

「………」

 鶴田が待っているけれど、鮎美は言ってよいものか、まだ迷っている。

「…………」

「…………」

「………………鶴田司令、今は、お忙しいですか?」

「いえ、夜間は救助活動も止まっておりますし、領空侵犯も今はありませんから」

「そうですか……」

「………」

 鶴田が目のやり場に困るという風に視線をそむけたので鮎美は悩んでいるうちにバスローブの胸元が乱れていることに気づいた。ベッドを何度も殴ったりしたので、乱れも大きいし鮎美は乳房が大きいので胸元が乱れると、男性への刺激も大きい。慌てて直しつつ謝る。

「すいません。ちょっと考え事をしていたもので気が回らなくて」

「いえ。……それで、お話とは?」

 鶴田が促してきた。

「えっと…………鶴田司令は当然に守秘義務がありますよね?」

「はっ! 当然です!」

 幹部自衛官として、今さら18歳の少女に問われるまでもない、という気概も込めて鶴田は敬礼して言ってきた。その声に気迫があり、鮎美は受け止める。

「ですよね………」

「さきほどの米軍士官の件でしょうか?」

「……はい…」

 まだ鮎美も鶴田も立ったままで向かい合っている。鶴田は四十代後半くらいに見え、副司令と交代で24時間体制で勤務していても、顔に疲れは出ていない。たいして鮎美の方は疲れて悩んだ顔をしていた。鶴田は心配になって問う。

「お一人で考え込まれるより、話していただけませんか?」

「はい…………そのつもりで呼ばせてもらったのですが……。………この部屋に外部の人間が盗聴器を仕掛ける可能性ってありますか?」

 鮎美は疑心暗鬼になっていて、あらゆることが信用できないという顔をしていた。もしも、盗聴器が仕掛けられているなら、すでにズコビクと話した時点で情報漏洩していることになるのに、それにさえ気が回っていない。これまでも静江から盗聴や録音について注意を受けたことはあるし、さらに日本からイスラエルへ飛ぶ間の航空通信を傍受されていた経験で、実感として国家機密が狙われているという認識ができていた。

「そんな可能性は………。ゼロとは言えませんが、限りなくゼロに近いものです」

「……そうですか……」

「何をお悩みなのですか?」

「…………」

「どうか話してください」

 父親と娘ほど年齢が離れている鶴田に優しく言われて鮎美は口を開くことにしたけれど、バスルームの戸を開けて言う。

「こちらに来てください。盗聴対策に水道の音を立てながら話します」

「……はい」

 二人でバスルームへ入ると鮎美は水を流しっぱなしにする。

「………今から言いますが、絶対に口外しないでください」

「はい」

「実は………アメリカ大統領より、在日米軍を暫くの間、撤退させる、と通告されました」

「っ……」

 鶴田も驚く。幹部自衛官として鮎美の様子から色々と想定していたけれど、想定の中で一番悪い内容だった。まだ原子力空母なり原潜が座礁して放射能漏れを起こしていると言われる方がマシというほど悪い。

「うちには…私には軍事の知識がないのですが、これは、かなり悪い知らせと感じます。そうですよね?」

「……はい」

 鶴田も言葉を選ぶあまり、一言しか発せなかった。

「……やっぱり……」

「このことを畑母神防衛大臣には?」

「今すぐ知らせるべきか迷っています。こんな時間に眠れなくなるような知らせ、朝になってからの方が良いのではないかと。もう定年すぎてはりますし」

「たしかに……」

 鶴田は腕時計を見る。時刻は1時17分で、今すぐ疲れている畑母神や他の幹部自衛官たちに知らせたところで、できることはない。明日も救助にあたるしかないし、そのためにも休息が必要だった。鮎美が一人で悩んでいた理由もわかった。そして、アメリカとの時差のために、今頃は昼間である向こうの意志決定伝達が、鮎美の就寝直前になったことも仕方ないとはいえ、あまりに可哀想で異国の大統領が憎くさえなる。

「鶴田司令、明日の朝、畑母神先生と話し合おうと思います。他の閣僚には、まだ伏せるかもしれません。周りに気づかれないよう、この部屋で畑母神先生と朝食をとりながら救助状況の報告を受けたいだけ、ただし二人きりで、という風にセッティングしていただけませんか?」

「わかりました。ですが、自分も参加させていただけませんか? すでに知っているのですから。また、畑母神防衛大臣とて引退されて年月が経っています。自衛隊の能力は年々変わっています。最新の状況を知るのは現役の者のみです。ゆえに、あと二人、陸自、海自からも幹部を一人ずつ、同席させてください」

「あと二人………」

 迷う鮎美へ鶴田は宣言してくる。

「守秘義務は命にかけて守ります」

「はい、疑って、すみません……つい……。この部屋の盗聴、明日の朝、それまでに調べてもらうことはできますか?」

「用意します。ですから、どうか、ご安心して、お休みください」

「……おおきに……」

 ひどく疲れているのに眠れそうにない鮎美はフラついている。鶴田は心配になって言う。

「眠れそうになくても、身体を横にしてベッドで休めてください」

「…うん………できたら、睡眠薬とかもらえへんかな?」

 丁寧語を使う気力がないのか、関西弁が漏れた。

「睡眠薬ですか……お若いうちから、薬に頼られるのは………とはいえ今は……。わかりました。係の者を呼びます」

 鶴田はバスルームを出て貴賓室の内線電話を使う。鮎美は水道を止めてからバスルームを出た。内線電話を終えた鶴田が言ってくる。

「看護師資格のある女性自衛官を呼びました。すぐに参ります。自分は司令室へ戻りますが、二つだけ、忠告させてください」

「…え? あ…、はい、どうぞ」

「国の安全と機密を守ろうと気配りされる総理代理は立派です。ですが、あまりに疑心暗鬼にならないでください。精神を磨り減らしますし、我々幹部まで信じていただけないのは悲しく感じます。また、信じてほしいと言いつつ逆説的になりますが、このような夜中に二人きりバスルームなどに招かれるのは危険です。同性愛者ということはうかがっておりますが、男には気をつけてください。同じようなことを部下にされては困りますし、実際、バスルームからでは水道の音もあり、あなたの悲鳴は外の長瀬警部補まで届かなかったことでしょう。どうか、国の安全だけでなく、御身の安全も気にしてください」

 真剣に忠告してくれた鶴田へ、鮎美は頭をさげた。

「すみません。気をつけます。ありがとうございました」

「では、明日の朝、参ります」

 鶴田は敬礼して出ていき、交替で女性自衛官が入室してきた。舟崎美紀子(ふなさきみきこ)と名乗った隊員へは当然、米軍撤退のことは言わず、単に眠れないので薬を出してほしいと伝えると、鮎美の様子を看てくれる。

「今までに睡眠導入剤を使ったことはありますか?」

「いえ」

「では、あまり、おすすめできません。薬に頼るようになってしまいます」

「……そうですか……」

 期待外れという顔をした鮎美へ、舟崎が言ってくる。

「ベッドに横になってください。眠れるよう手伝います」

「……手伝い?」

「部屋を暗くしますよ」

 舟崎は40歳ほどに見える。手足が短くて胴が長く太い、顔立ちもお世辞にも美人とは言い辛いけれど、肌だけは餅のような艶があった。そして鮎美を総理代理としてでなく、ただの18歳の患者として接してくる。

「あなたは眠れますし、眠れなくても、大丈夫、そのうち眠れる、そう思いながら、横になって目を閉じてください」

「……はい…」

 鮎美は桧田川に身を任せたように、医療従事者の言うことをきくことにした。ベッドに寝て目を閉じる。

「少し世間話をしますよ。聞いていても聞き流してもいいです。返事もいりません」

「…はい……」

「北陸は同性愛者には生きにくい地域です。保守的で閉鎖的、もしもバレたら、どうなるか、そんな風に怯えて生きています」

「………」

「今日まで誰にも言いませんでしたが、実は私も同性愛者です」

「っ…」

 鮎美が目を開けた。

「目は閉じていてください。こんなブスな顔、見られるの、恥ずかしいですから」

「………」

 鮎美は返答に困って、黙って目を閉じた。

「こんなブスですし、北陸には大都会みたいな出会いの場もありません。インターネットも十年前まで無かったんです。何より、私も自分の指向を直そうと無駄な努力をしました。その努力は実ったのか、実っていないのか、男に囲まれれば変わるかもと自衛隊に入りました」

「………」

「囲まれて幸いだったのは、こんなブスなのに、男の人が言い寄ってくれることです。だから、しばらくして結婚して、二人子供ができて、大学も出てくれて、気がつけば、みんなが幸せと思う幸せを手に入れています」

「………」

「けれど、指向はいまだに続いています」

「……」

「安心して、今、どうこうしようということじゃないの」

「………」

「ただ、きっと多くの同性愛者が今まで自分を偽って生きてきた。保守的な土地なら、なおさら」

「………」

「数年前、私にも恋人ができました。インターネットのおかげです。顔が見えないネットの中でカヲルだなんて洒落たネームを使って、そこでは一人のビアンとして他の人とやり取りしていて、そして気の合う人に出会って。そのうちにオフで会おうってことになって。でも、怖かった。なにしろ、こんなブスですし、がっかりさせちゃうんじゃないかって」

「………」

「でも、待ち合わせに使った大阪駅のホームで、抱き合ってキスしてました」

「大阪は……」

「あ、大丈夫ですよ。彼女は鳥取県の人ですから、地震後も連絡とれてます。でも、これって一種の不倫ですよね。夫には言えない。同性婚が法整備されても、やっぱり、ずっと隠していかないといけない」

「………」

「彼女はとても美人なんですよ。鳥取美人」

「………」

「でも、彼女が嫁いだ旅館は倒産してしまい、今は困っていて援助しています。うちは夫婦とも公務員で、私も退官してからも看護師として、どこかの病院に入れますし、きっと年金もしっかりもらえるはず。けれど、彼女の世帯は長年、低所得で自営業としての国民年金も、ずっと免除の申請をしていたから、老後、どうなるか………もし、お互いの夫が早くに亡くなったら、彼女を支えてあげられれば、とも思います」

「………」

「ひどいですよね、結婚してもらっておいて、早く死ねば、なんて。いい人なんですよ、私の旦那。まじめでパイロットになりたかったけれど、視力が低くて諦めてからも、そこそこに出世して後輩からの評判もいい」

「………」

「そんな夫を裏切っている………けれど、これって裏切りなのかな………女と女なら不倫に入らないかもしれない……そんな自己欺瞞もあります。夫にもネットで知り合った友達と出会いに行く、という風には説明しています。いっしょに温泉に泊まった写真なんかも別に隠してませんし。これが男と泊まってるなら大問題ですけど、女と女のツーショット写真なんか見ても夫は、楽しそうでよかったな、の一言です」

「………」

「けれど、彼女の老後は心配です。なにか生活保護以外の制度ができればいいのに、とも思います。年金も援助も、私が先に死んでしまったら、そこで終わりですから」

「………」

「こういう風に生きている私には、芹沢さんは輝いて見えます。新しい時代をつくってくれるかもしれない。星なんですよ、私から見て」

「………」

「だから頑張りすぎないように頑張ってください。さあ、もう寝る時間です。もっと、つまらない話をしますね。退屈な退屈な話。金沢市にはルネズ金沢というリゾート施設がありました。プールと温泉、宿泊施設…」

 本当に退屈で起承転結のない地元の話をしてくれるので、いつしか鮎美は眠ってしまった。そっと舟崎は貴賓室を出て行くと、司令室に連絡して今から8時間は休ませるよう鶴田に頼んだ。鮎美は8時間後に鷹姫が淹れてくれた紅茶の香りで目を覚ました。

「ん~……鷹姫、今何時?」

「10時です」

「っ!」

 飛び起きると、慌てて洗顔する。

「鶴田司令より、ゆっくりしてくださいとのことです」

「そうもいかんやろ! こんなときに!」

 洗顔して下着をつけ、制服に身を包むと、冷める前に紅茶をいただいた。鷹姫は鮎美が飲み終わるのを見てから問う。

「では、盗聴調査の要員に入ってもらってよろしいですか?」

「うん、お願い」

 鷹姫が部屋前に待機させていた隊員たちを貴賓室に入れる。知念と里華、麻衣子も入ってきた。

「「「おはようございます」」」

「おはようございます。遅くまで寝てて、すみません」

 すぐに作業が始まり、知識のある隊員が電波探知やコンセント内部などを調べ、盗聴器などが無いことを確認してくれた。それが終わると、もうお昼近いので貴賓室での昼食会となる。畑母神と鶴田、他に陸自と海自の幹部自衛官もそろい、里華や麻衣子は食事の準備だけして出ていった。鷹姫も百色もいないので、畑母神もただの昼食会ではないと、すでに察した顔をしている。鶴田はいきなりではなく、まずは現在までの救助活動の状況を鮎美へ各幹部が報告するという形から始め、おおよそ食事が終わってから鮎美に目配せして問うてきた。

「芹沢総理代理、昨夜の件、自分から言ってよろしいですか?」

「はい、お願いします」

「昨夜、自分は芹沢総理代理から、きわめて重大な通告が米大統領より総理代理へあったと、相談を受けております」

「「「………」」」

 畑母神たちが鶴田の言葉へ集中する。

「在日米軍が暫くの間、日本より撤退する、と通告してきました」

「「「っ…」」」

 畑母神も、他の陸自海自の幹部も、驚きが顔に出る。鶴田は冷静に続ける。

「米側は通信ではなく、わざわざ大佐を派遣し、口頭のみで伝えてきたそうです。その通告が昨日24時前で、芹沢総理代理が自分へ相談されたのが本日1時過ぎでしたから、畑母神防衛大臣へ知らせることは今、といたしました」

「……そうか……起こしてくれてもよかったが……だが、まあ……ありがとう……聞けば眠れなくなりそうな話だ……」

 今朝も早朝から全国の隊員は救助にあたっている。その総指揮を執る畑母神も、すでに日の出から幾度となく判断と命令を繰り返しているので、よく眠った後だったというのは重要だった。やや疲れている鶴田がそれでも気迫の籠もった声で言う。

「自分は、ずっと考えておりましたが、結局のところ、今すぐ何かできることは無いと考えます。目下の救助活動にあたるしかなく、戦力の強化どころか、回復も難しく、現状の維持が精一杯です」

「うむ…………それにしても撤退か………そう言われると、今朝からの在日米軍の動きに合点がいくな………いや、在麗米軍でさえ、撤退を視野に入れて動いているのではないか……表向きはハワイを救援しに出ると言っているが……」

「「「………」」」

 三人の幹部が黙って考え込む。鮎美はデザートの苺を食べきった。一晩寝たおかげで聞いた直後のショックからは立ち直りつつある。逆に畑母神たちは今聞いたばかりなのでショックが大きい。

「……いつかは独力で防衛をと、それを旗印にしてきたが……まさか、このような形で実現するとは……」

「畑母神先生ら専門家に訊きたいんですけど、アメリカ軍の津波によるダメージは、どのくらいやと思われますか? どのくらいのダメージやったら、日本から撤退すると、自分が大統領やったり、米軍総司令官やったら考えはります?」

「向こうの立場で考えると……全体の半分……いや三分の二までダメージを受けなければ、これほど早期に撤退はしない。在日米軍は6割から8割が失われていると見たが、ハワイは全滅に近く、西海岸も壊滅的なのかもしれん」

 畑母神の見解に海自の幹部が補足する。

「パナマ運河の損傷も大きいのかもしれません。メキシコとチリからのダブルパンチで津波が襲っていますから」

「パナマが半年……いや、数年は復旧できないと判断したか……そうなると、太平洋に大きな空白が生じる。そんな空白を作るくらいなら日本への駐屯を続けそうなものだが、補給路が………それに、米国内の事情もあるのかもしれん。多民族国家だけに津波後、暴動も起こっているだろう。国外にかまっていられないほど、国内が乱れている可能性はある。いや、可能性でなく、それが事実なのだろう。でなければ撤退などしない」

「「「…………」」」

 鶴田たち幹部も同感だった。鮎美が提案する。

「畑母神先生以外の閣僚への周知も迷っております。うちとしては石永先生と久野先生くらいには話しておきたいのですが。夏子…加賀田先生あたりは財務担当で畑違いやし。言うて悪いけど、石永先生が推してきた他の閣僚は、忘年会とかのパーティーで一回挨拶したくらいしか知らん人やったりしますし。そもそもアメリカ大統領もわざわざ、うち一人だけに知らせるため、ヘリ飛ばしてはるし。これは言いふらすなちゅーことですやん?」

「米側の思考としては………さすがに黙って出ていくわけにはいかないということと、通告したからには独力でなんとかしろ、というメッセージも入っているだろうな。そして、いずれ発覚することだとしても、なるべくは遅い方がいい。当面はハワイを救援しているだけと言い張ればいい。回復が早ければ戻ってくるだろうし、どうにも回復しないときは本気でモンロー主義に立ち戻る気なのだろう」

「うちがアメリカ大統領やったら、この震災を機会に自国だけに軍をおいて、国内の社会福祉制度を充実させるかもしれません。オパマ大統領は日本の医療保険制度を参考にしたいとまで言うてはりましたし、撤退通告と同時に通貨安定については協力すると言うてはりましたから」

 鮎美は大統領就任後、米軍予算を減らしてきた黒人大統領の顔と、関空で偶然に出会った次期大統領候補の白人女性の顔を思い出した。ミクドナルド・トランプもタカ派で保守的ではあるけれど、経営者出身らしく軍事予算の縮小と米軍の海外派遣縮小を意図していた。畑母神が言う。

「通貨か……それは加賀田先生の専門だな。芹沢先生も、得意そうだが……何にしても機密を守るには知る者が少ないのが一番だ。私としては当面、この場にいる者だけがよいと考える。石永先生は信用しているが、知らせるメリットがデメリットを上回るかもしれない」

「石永先生にまで黙っておくんですか……」

「彼も知れば、側近には話したくなるだろう。信用している者、たとえば彼の妹などには話すかもしれない。そして、彼女は親友なり父や母へ話すかもしれない。その父は、また旧友に相談し、と、いわゆる政治家のここだけの話、というヤツになってしまう。前から思っていたのだが、政治家の秘密の守り方と、軍人の秘密の守り方では、まったくレベルが違う。我々は妻にも親友にも話さない。防衛大同期の親友にさえ語るべきでないことは語らない。君も宮本くんなどに話さないでほしい」

「鷹姫にまで……」

「それが機密というものだよ。この話し合いの前に盗聴器の調査をした賢明さを、再び発揮してほしい」

「……わかりました」

「うむ。この話は当面、ここだけ、この部屋だけとしよう」

「「「はっ!」」」

「よし、解散!」

 昼食会が終わり、鮎美は一人になった。ノックをして鷹姫と里華、麻衣子が入ってくる。

「救助活動の状況は、どうですか?」

 鷹姫が問うてくる。里華と麻衣子は自衛官なので自分たちをそばに置かなかった理由は機密保持のためと理解しているけれど、鷹姫は鮎美と情報を共有しないことは、ほとんどないので問うていた。

「うん、まあ、やっぱり救助すべき対象と範囲に隊員の数が追いつかんし、そろそろ疲れもでてくる上、事務方の中心やった東京が壊滅してる分、即応予備自衛官や予備自衛官を呼び寄せて配属する事務処理も大変みたいやわ」

 鮎美は昼食会の前半に聞いたこと話して誤魔化した。そして気になっていることを問う。

「為替相場は、どうなってる?」

「大規模災害時の相場固定マニュアルが、うまく機能しており値動き無しです。不幸中の幸いと申しますか、時差の都合上、ニュージーランドから市場が開くものの、ほとんど休業状態ですし東京は言うにおよばずです。それゆえ、このまま推移すれば一週間に一度、1%程度の動きで抑えられるはずです」

「そっか……夏子はんと、詩織はんが頑張ってくれたマニュアルが役に立ってくれて…」

 鮎美は悲しくなりそうだったので次の確認をする。

「金価格は?」

「金地金の価格は上昇中です。1g一万円を超えそうな勢いです」

「実質的通貨安やね。けど、世界に流通する金の量は多くない。富のすべてを金に移すことはできんよ。何より金は喰えん。穀物価格は?」

「やはり上昇しています」

「原油は?」

「変化ありません」

「工業地帯のダメージが大きいから消費もあがらんという読みやな」

「「…………」」

 里華と麻衣子が冷たい視線を送ってきていることに鮎美は気づいた。

「ん? 何よ? なんか言いたそうな顔して」

 麻衣子が言う。

「こんなときに、お金の話って、どうなのかなって……いったい、どれだけの人が亡くなったか…」

「そうやね。その感覚はわかるよ。けど、生きてるもんは、これから復興せんならんねん。それには銭がいる。ご飯もいる。エネルギーも。とくに銭は大事や。これが紙切れになったら大混乱よ。けど、まがりなりにも各国が今まで通りの通貨価値で実体取引を行うんやったら、ずいぶん状況はマシなんよ。鷹姫、夏子はんは?」

「すでに金沢市に仮の財務省を置かれ、朝からそこに」

「石永先生は?」

「お昼12時に通用門前で記者会見をされましたが、救助者数の発表など、数的な報告事項にとどまっています」

「これからの、うちの予定は?」

「14時より地震発生72時間を前に、昨夜発表した臨時内閣の閣僚がそろいますから、全員でカメラの前に立ちます。場所は小松基地通用門そば。記念撮影ののち、地震発生時刻に全国民とともに黙祷の予定です。ただ、二つばかり未決定なことがあります」

「なに?」

「一つはマスコミを入れるか、入れないか、入れるなら、どれだけの人数を受け入れるか、セキュリティー上の問題もあり意見が分かれています。もう一つは記者からの質疑応答を受けるか、受けないか、です」

「…………。鷹姫は、どう思う?」

「芹沢総理を失えば、法的根拠のある代表者が消えてしまい、取り返しのつかない混乱を呼ぶおそれがあります。過去の暗殺未遂も考えれば、セキュリティーは最大限とし、不特定多数の記者の前に立つのも避けるべきです。国民に語りかけるのは広報室からの配信で十分です。質疑応答も原発の状況など、不確定、未判明のことが多く質疑応答はかえって不安を煽ります。石永官房長官による説明以上のことは触れない方がよいと考えます」

「うん…………そやね………ちょっと閉鎖的な気はするけど、全部の情報を開示してパニックになるより、ええやろ」

 うちが鷹姫にさえ米軍撤退を黙ってるのに、原発はボンボン爆発、実は石油化学コンビナートもダメージあって復旧の目処未定、そんな情報を国民に教えたところで不安になるだけやもんな、大本営発表になるけど自衛隊が頑張って何万人と助けました、って話だけにしとこ、こうなってから考えると大戦中の大本営発表もせざるをえん合理的な理由があったってわかるわ、国民の中で賢い人は悟るやろし、アホなもんは不安にならんで済む、とくにアホが不安になると暴動しよるしな、で暴動して何か解決するかというと、より悪化させるだけやもん、と鮎美は情報管理の方針を決めた。

「緊急時やし、今まで通り基地内にマスコミは入れんとこ」

「そうされるのであれば、敷地外から見える通用門そばよりも滑走路側の方がよいと思います」

「ほな、そうして」

「はい」

 鷹姫が別の報告に入る。

「次に三島法務大臣が信頼のおける者を人選し、陸自から選抜する許可を畑母神防衛大臣にとりつけ3名の護衛がつきます。入室させてよろしいですか?」

「うん、お願い」

 鷹姫が貴賓室のドアを開け、廊下で起立して待っていた3名の隊員を招き入れる。鮎美の前に整列して敬礼してくれた。

「高木裕一(たかぎゆういち)3等陸曹であります!」

 高木は男性自衛官としては珍しく長髪で頭の後ろで束ねているけれど、不潔な感じはなく、むしろ清潔感が漂う精悍な青年だった。

「三井真白(みついしんじ)3等陸曹であります!」

 三井は筋骨逞しく自衛官の中でも目立つほど発達した筋肉をしていてボディービルダーのようだった。髪はスキンヘッドに近いほど短い。麻衣子が嬉しそうに言う。

「うわぁ、いい身体されてますね! キレてる、キレてる!」

 つい麻衣子が三井の上腕二頭筋へ触れようとすると、睨まれた。総理代理への挨拶の途中なので当然といえば当然だったけれど、男性自衛官から冷たくされたのは麻衣子にとって初めてだった。たいてい、よほどの失敗をしない限り今まで会った男性自衛官は上官であっても麻衣子に優しかったのに、三井からは嫌悪感さえ感じた。

「今泉芳樹(いまいずみよしき)1等陸士であります!」

 今泉は自己紹介するときに見えた白い歯が印象的な美男子だった。三人とも大きな銃をもっている。鷹姫が彼らに関する書類を見ながら鮎美に言う。

「書類には載っていませんが、三島大臣によると三人とも男性同性愛者です」

「よろしゅうね」

「「「はっ!」」」

 敬礼を終えた高木が頼む。

「よろしければ、芹沢総理と握手したく思います! 尊敬しております!」

「自分も!」

「自分もです!」

「うちこそ、よろしく」

 椅子に座っていた鮎美は立ち上がって一人一人と握手していく。

「三井はん、筋肉すごいなぁ。男って鍛えると、どんどんデカなるよね」

「はっ! 自分は女性が嫌いでありますが、芹沢総理だけは別です! 一人の人間として尊敬し、ご活躍、期待しております!」

「おおきに。頑張るわ」

 やはり同性愛者同士として強い共感を覚える。そして、お互いに一切の性的興味をもたないので接するのに気楽さもあった。ちょうど異性愛の人間が同性と接するときの気楽さと同じではないかと思ったりもする。

「では、これより三名で24時間体制交替で護衛につきます! まずは私、高木から。いずれ太平洋側での救護活動が一段落すれば、一個中隊のゲイをもって芹沢総理を守る予定です」

「え? じゃあ、私と石原空尉は任務終了ですか?」

 麻衣子の問いに高木が答える。

「もともと大浦陸士は宮本首席秘書官の従卒的役割が主であり、これを続けよ、とのことですが、石原空尉については存じません。空自の上官に問い合わせてください」

「「了解です」」

 麻衣子は残り、里華は内線電話で上官に問い合わせる。男性の上官は里華のことが苦手そうだった。

「戻ってくるのか? そうか…まあ、陸さんが身辺警護するなら、自分ら空自としては本来の仕事を……。けど、なあ、石原くんが望むなら、そのまま総理のそばにいてもいいぞ。総理の護衛なんて光栄なことじゃないか」

「自分は操縦士になるために空自へ入りました。従卒のようなことをするためではありません!」

「まあ……そう言うなら、戻ってこい。けど、先輩らとモメるなよ。ちょっと肩に触ったくらいでセクハラだとか、どうだとか、な」

「っ、あれは先任の…」

 里華の反論は途中までしか聞いてもらえず上官は内線電話を切った。受話器を置いた里華は鮎美へ向かって形式的に敬礼しながら言う。

「今まで、ありがとうございました! 次の任務にあたります!」

「そっか。淋しいなるね」

「……。失礼します!」

「おおきに、またね」

 里華が貴賓室を退室し、当番でない三井と今泉も敬礼して出ていった。鷹姫が時刻をみて言う。

「そろそろ大会議室に閣僚がそろっているはずです。お越しください」

「うん」

 鮎美は制服に乱れが無いかチェックし貴賓室から大会議室へ移動した。ちょうど夏子も金沢市から戻ってきたので廊下で出会い、財務省復旧について話し合いながら大会議室に入ると、閣僚全員がそろっていた。鮎美と夏子、鈴木以外は男性で、過去の内閣と男女比は変わらない。三島は男性らしい軍服のような独自に用意した服を着ているしスポーツ刈りなので周囲も男性として扱っている。今は会議ではなく記念撮影前の時間待ち雑談になっていた。

「芹沢総理代理、よろしくお願いします!」

 環境大臣臨時代理人となる男性が鮎美へ握手を求めてくる。もちろん、鮎美も愛想良く対応し、他のメンバーとも次々と握手するけれど、石永家が選んでくれたおかげで自分が入閣できたという意識は明白で、石永との会話と握手にこそ力が入っている。そばにいる静江も一見して鮎美の秘書というよりは石永の秘書のように振る舞っていた。いきなり閣内が分裂すると困るので、経験豊富な久野と鈴木はうまく全体の雰囲気を取り持ってくれている。そんな中、国家公安委員会委員長の臨時代理人となる3世議員が鮎美へ握手を求めてきた。

「芹沢総理、よろしくお願いします! …」

「こちらこそ、よろしくお願いしますわ。…」

 鮎美は握手をしている反対の手に小さなメモを渡された。他の閣僚と同じ通り一遍の挨拶が終わってから、誰にも見られないように、そのメモを開く。

 

 自分もゲイ

 

 それだけが書いてあった。

「……あの人……新屋寛政(しんやかんせい)はん……」

 もう新屋は石永へ挨拶しているけれど、また一瞬だけ目が合った。

「「……」」

 それで十分、気持ちが伝わった。新屋は公にカミングアウトする気はないけれど、同じ同性愛者として鮎美にだけは伝えておきたかったのだと、わかる。鮎美はメモを丸めてポケットの奥に仕舞い込みつつ、新屋のことを思い出す。家系は長く国政議員をしているけれど、入閣は新屋が初めてで石永と同じ2期を勤めた後に落選中だった。一度は女性と結婚し一男一女をもうけているものの離婚、親権は新屋の家が取り祖父母が育てているらしい。

「……人生いろいろやな……」

 ふと小泉総理の言葉を思い出した。静江が全体へ告げる。

「お時間となりました。滑走路の方へ移動してください」

 ぞろぞろと大会議室から滑走路へ移動する。閣僚たちは3割ほどは作業服で、燕尾服が2割、残りがスーツで夏子と鈴木もロングドレスではなく動きやすいパンツスーツで、スカートは鮎美の高校制服だけだった。北陸にしては珍しく天候良好、風もない。撮影場所には階段状に踏み台が組まれ、背景には戦闘機の列が入るようにされていた。閣僚の一人が小さくない声で誰にともなく言う。

「戦闘機が背景というのは軍国主義的に見えませんか?」

「う~ん……」

 石永が玉虫色の声を漏らしつつ、この準備をさせた畑母神へ視線をやる。畑母神は平然と答える。

「基地ですから基地らしく。のんびりと赤絨毯の上で無く、非常時に滑走路で、ともかくは記念撮影した内閣というのも歴史の一ページでしょう」

「ですが……」

「戦闘機でなく海を背景にすれば……、いや、北陸自動車道が邪魔ですな」

 別の閣僚も戦闘機を背景にするのに反対のようだった。夏子も反対する。

「装備品を見せびらかすのはいいけど、今の雰囲気的に、救助に使えるヘリにするのは?」

「使えるヘリは、とっくに現場へ出しておるよ。これだから女は」

「はいはい、差別発言は聞き流してあげるね。あと二回だけ。とりあえずワンアウトよ」

「……」

「……」

 黙って畑母神と夏子が視線をぶつけ合い、久野と鈴木が同性の方へフォローに入る。鮎美は本当に久野と鈴木に入閣してもらって良かったと思った。それでも戦闘機を背景にすることに賛否が分かれ、石永も困る。石永個人としては戦闘機を背景にすることに賛成だったけれど、官房長官という立場としては中立的でありたい。自然と視線が鮎美に集まってきた。

「うちは、どっちでも……」

 本当に、どっちでもいいし、どうでもいいことだと思えてきたけれど、畑母神が真っ直ぐに視線を送ってくる。高齢の、まして異性とはアイコンタクトだけで意思疎通することは難しかったけれど、今は通じた。明らかに畑母神は米軍撤退を意識して、この背景を組んだのだと気づいた。

「せっかく畑母神先生が用意してくれはったんですし。戦闘機は救助には役立たんけど無事な装備品が日本にしっかり残ってることを国内外にアピールするのは、ええんちゃいますか」

「うん、芹沢先生が、そういうなら、そうしよう」

 石永がまとめてくれて記念撮影が始まる。鮎美が前列中央、左右に同性の夏子と鈴木、その三人を男性たちが囲む形で撮影された。撮られながら夏子が言う。

「必要な形式とはいえ、今も救助活動してるのに、こんなことしてるなんてね」

「うちも同感ですわ。一人でも多くの人に助かってほしいですけど、もう72時間………」

 鮎美の背中を鈴木が撫でてくれた。

「気をはってください。弱気な顔はダメですよ」

「おおきに」

 鮎美は試合前のように顔をパンと両手で叩いた。さらに数枚が撮影され終了が告げられた。いよいよ地震発生時刻となり、ネット配信用のライブカメラを支部から静江たちと同行してきてくれている斉藤が準備し、マスコミではNHKのテレビカメラマンだけが身体検査を受けた上で基地へ入ってきた。鮎美はカメラの前で原稿を読む。

「3月11日発生した想定をはるかに超える地球規模の大震災は環太平洋大連動震災と名付けられました。計算上の総マグニチュードは11.1です。発生した津波は最大で高さ200メートルを超え、日本国内だけで犠牲者は少なくとも3000万人。太平洋の小国では国が丸ごと消失しています。このような人間の無力さを痛感する天災を前にして、それでも私たちに何ができるのか、そんなことは考えるまでもありません。まずは一人でも多くの人を救助することです。あと30秒で地震発生から72時間がたちます。けれど、まだ生きている人もいるはずです。救助はやめません。まだまだ全力で続けます。一人でも多く助けるために。一人でも多くが無事であるように。そして、あまりに突然喪われた命に。黙祷をささげます。黙祷!」

 鮎美が目を閉じた。静かさが滑走路を支配する。無風だと思っていたのに、かすかに風があることを前髪の揺れで感じた。今は泣くまい、と決めていたので鮎美は黙祷を短めにして全国民に告げる。

「みなさん! 今必要なのは忍耐と秩序です! たしかに恐ろしい天災でした。けれど、ここから先に恐ろしいのは人災です! パニックになる、デマを信じる、食料を買い占める、自棄になる、言い争う、奪い合う、このような人間が起こす災いの方が、これから先は恐ろしいのです! パニックにならないでください。この震災は規模が大きいだけの、ただの地震です。世界の終わりでもハルマゲドンでもありません。かつて人類社会は人口の半分を喪うような災いに何度も遭っています。天然痘やペストの流行、局地的な飢餓、それでも耐え忍び生き残ってきました。世界の終わりなどということはありません。我々人類だけでなく古くは恐竜を滅ぼした隕石もまた天災です。あの大災害に比べれば、まだまだ軽い天災です。そして、この放送を聴いてくださっている方々は今現在、生きている、とても幸運なことに生きています! この幸運をパニックや自棄で喪わないでください! 食料はつきません! 店頭に商品が無くても、それは流通の問題にすぎず、近いうちに解消します! つらくても静かに耐えてください! 清潔な水さえあれば人間は長く生きられます! そして、赤ちゃんのいるところには一日も早く食料が行き渡るよう努力します。そのときまで、赤ちゃんを支える両親を支えてあげてください。お願いします。繰り返します。食料はつきません。そして世界の終わりではありません。復興の始まりです。どうか、一人一人が頑張ってください。最後に、この放送を聴きながらも、いまだ救助されずに待っている人たちへ! 諦めないでください! 助けに行きます! どうにか命をつないでください! 今も自衛隊、消防、警察、海上保安庁、そして自主的な組織が次々と救助しています。あなたのところへも行きます! それまで諦めないで待っていてください! 必ず行きます!」

 鮎美はカメラを見つめたまま、演説を終えた。NHKのテレビカメラが去ると、夏子が言ってくる。

「恐竜を滅ぼした隕石ときたか。たしかに、あれに比べると、まだまだ軽いね。2億年に一度の災害に比べればさ。百年千年で語らず億万年で語られると、なんだか悟れちゃうよ」

「キリスト教圏では、やっぱりハルマゲドンいうて、かなりパニックになってるそうです。とくにアメリカがひどいみたいで」

「あそこは銃社会だから暴動になると大変そう」

「公表していませんが日本でも3カ所で暴動まがいのことが起きました」

「そう……どうなった?」

「自衛隊と警察が協力して鎮圧したそうです」

 石永が閣僚たちに号令する。

「では、第一回の閣議を行いますので大会議室へお戻りください」

 また、ぞろぞろと全員で滑走路から大会議室へ移動するけれど、その途中で戦闘機が離陸し、ジェットエンジンの轟音を響かせた。鮎美と閣僚たちが2機の戦闘機のお尻を見上げる。わざわざ、こんなタイミングで離陸させたのはパフォーマンスではなく、どこかで領空侵犯があったからだと国政に携わっているだけに誰もがわかる。石永が言う。

「こんなときに、こんなタイミングで……地震発生時刻だと、わかってるだろ……」

「うちから海外に向けて、しばらく領空侵犯せんといてください、って嘘泣きしながら放送で言うてみましょか? 燃料代もったいないし、何より隊員をさかんならんし。女の子に泣きながら頼まれたら、ちょっとは手加減するでしょ」

「……それは……情けないなぁ……女の武器ではあるけど……それを全面的に発射するのはなぁ……遺憾砲より、遺憾な感じだなぁ…」

「涙一滴で燃料10トンやと思えば、うちも嘘泣きし甲斐がありますよ」

「うーん……さっきの演説中に泣くかと思ったのに、泣かない方向にしたのは国民の支持を考えてだろ?」

「はい、そうですよ」

「じゃあ、泣き落としは最後の手段というか、とりあえずやめておこう」

「ええ考えやと思ったんやけどなぁ……国際社会の評価からしたら、泣いてる女の子イジメるのは最低ですやん」

「それを計算して泣こうとする君が怖いよなぁ。男がそれをやったら一発、世界の笑いものなのになぁ」

 鮎美と石永が話しているところへ静江が言ってくる。

「そんな情けない総理大臣をするくらいなら、お兄ちゃんに代わってください」

「静江、その話は…」

「泣いて同情を買おうなんて。同じ女として嫌です」

「堺の商人は売れるもんは何でも売るし、買えるもんは何でも買うんよ」

「泣いて同情を買おうとするのは宮本さんだけで十分です。情けない首席秘書官」

 そばにいる鷹姫へ聞こえるような声で言った静江は付け加える。

「あのとき電話の向こうで、おしっこ漏らしてたそうですね。頭、大丈夫? クラスメートも、これ以上やめてあげて、なんて同情してましたよ」

「…………」

 秘書を辞めたいと言い出したときのことを蒸し返されて鷹姫が何も反論できずにいる。思い出したくない自分の失態を語られ、表情を硬くして黙っている。その姿が可哀想すぎて鮎美は一気に頭へ血が上った。

「県知事選の出陣式の前に、地面に土下座してストッキング破りながら謝ったんは誰やったっけ?」

「っ……」

 今度は静江が思い出したくない自分の姿を語られ黙る。幸い誰にも目撃されなかったけれど、高校生の足元に這い蹲って土下座している自分の姿は、とても情けない。そして悔しい。あのとき両手と膝で感じたアスファルトの感触は、まだ覚えていた。鮎美は掘り返しを続ける。

「夏子はんと知事室で会談した直後、鷹姫の給料を不当に寄付させようとしたんを泣いて謝ったのは? 誰? どこの、どなた?」

「……」

「あのとき、うちが眠主党に移る言うたら、あんた立場なかったやん。土下座しながら小便タレたら許したる言うたら、きっと、あんた犬みたいにキャンキャン鳴いて小便もらして、それこそ片足あげて犬の真似しとったよ」

「っ………くっ…」

「あれは県議の先生らも見てたよね。あんたキャンキャン、うちらの足元で謝ってたやん。ええ見せ物やったわ。頭、大丈夫? 県議の先生らも、これ以上笑わせんといて、なんて爆笑してたよ」

「……くぅぅっ…」

 静江が両手を握って、悔しさに震える。たかが高校生に何度も土下座してきたのが、とても悔しい。大学院も出て地元では名家のお嬢様として扱われ、自眠党六角支部の台所を預かる立場なのに、身も蓋もない土下座をしたことは忘れたくても忘れられないほど、自尊心が傷ついている。そこを鮎美は同性なだけあって実に厭味に話を膨らませて掘り返してきた。もう耐えきれず、静江は反撃する。

「たかが市議選の応援演説で腰が抜けたくせに…」

「静江! 芹沢先生! いい加減にしてくれ!」

「「………」」

 石永は周囲に聞こえないギリギリの声で女同士の醜いケンカを男らしく叱る。とくに妹が自分を総理大臣にしようと頑張ってくれていることは理解しているし、妹自身も順当なら総理代理の首席秘書官になっていたはずなのに、お気に入りという鮎美の個人的な感情で外されているのも、やはり心に引っかかるのは仕方ないとは思っている。

「今は争っているときじゃないと言ったのは芹沢先生だろ?」

「はい……すんません」

「静江、オレは総理になるとしても実力でなる。今、芹沢先生に譲ってもらっても法的根拠が弱すぎるのは確認したじゃないか」

「……はい…」

「二人とも頼むから協力し合ってくれ」

「「はい」」

 燃え上がりかけた火種を鎮火して大会議室に集合したけれど、また同じような燻りが生じる。入閣できたことを石永へ恩義に感じている一人が挙手して述べる。

「やはり、どう考えても女子高生が総理大臣代理というのは、無茶がありすぎます。わずか18歳で本人の負担も大きいでしょうし。そこで提案なのですが、総理大臣代理は石永先生として、芹沢先生には外務大臣に戻っていただき、鈴木先生には官房長官をやっていただくというのは、どうでしょうか?」

「「賛成!」」

 同調者も出る。タイミング的に事前に話し合っていたのだろうとも感じた鮎美は落ち着いて座っている。

「…………」

 きっと出るだろうな、と思った話なので表情を変えずに聴く。どちらかといえば、自分の立場より救助の進行状況と経済復興が気になっている。石永が応じて言う。

「たしかに、おっしゃる通り無茶だ。けれど、法的安定ということは大切だし。この中で適任ということなら、自分より経験のある久野先生か、鈴木先生の名前があがってくるだろう」

「「…………」」

 名前をあげられた久野と鈴木も、あえて黙る。久野は大きめの眼鏡を手で持ち上げてなおし、鈴木は上品にお茶を啜った。夏子が言ってみる。

「政権継承の正当性で言うなら、眠主党が継ぐべきじゃない?」

「それも一理あるが、では加賀田先生がやりますか? 知事と兼務で総理を」

「ってなるよね。畑母神先生も知事と兼務だし。久野先生は失礼ながら高齢でいらっしゃいますし。年齢と経験で一番バランスが取れてるのは鈴木先生ですよね?」

「ほっほっ、けれど、公民権がありませんよ」

「みんな一つ二つケチがつくけど、鮎美ちゃんだけは法的正当性もあるし、経験は無くても、この子の口はたつよ。って、この子とか失言でした。この方の見識は確かですよ。もし、間違ったことを言い出されても私たちでフォローすればいいわけだし」

 夏子がまとめようとするけれど、まだ最初に挙手した者が食い下がってくる。

「しかし、18歳というのは、いくらなんでも……」

「たしか15歳で陛下と呼ばれる人も誕生したよね?」

「それは飾り…いえ、国の象徴ということですから」

「飾りとしても鮎美ちゃん総理は一番かわいいし、話させても絵になる上に話がうまい。今のところ、世論調査もしてないけど、目立った反対意見は無いよね。地震前のおふざけな世論調査では総理にしたい人ナンバーワンだったりもした。ところが、眠主党の私が総理代理なっても、自眠党で落選中だった先生方がなっても、やっぱりケチがつく。ぶっちゃけ私たちの内閣に何か失敗があっても少々のことなら鮎美ちゃん総理が謝れば国民は許してくれるよ。ま、失敗した大臣臨時代理人は、別の人と交替ってことになるだろうけど、それは過去の内閣とも同じだし」

 議論が引き続くので鮎美は静江を手招きして何か囁いた。それを聴いて頷いた静江は急いで大会議室を出て行き、すぐに2枚の賞状のような紙をもって帰ってきた。そして習字の心得もそこそこにはあるので静江が墨筆で何か書き始め、完成すると鮎美が署名して拇印を押した。静かに進めた作業だったけれど、さすがに目立っていて他の閣僚たちも注目している。その注目に鮎美が答える。

「うちが急に死んでしまった場合、畑母神防衛大臣臨時代理人を総理大臣臨時復代理とする書類は、すでに渡してありましたが、かなり急いでコピー用紙に書いたものですから、これを機会に作り直しました。くわえて、第二位の臨時復代理として石永官房長官臨時代理人を指名します。あって欲しくないことですが、うちに加えて畑母神先生まで亡くなられた場合、石永先生を後継とします。今日のところは、これで、もっと急ぐべき議論を進めませんか?」

 鮎美が言い、静江が乾いたのを見計らって誇らしげに証書を掲げた。

「………まあ……他の議論もありますし……」

 言い出した者も引き下がる。少なくとも石永に恩義を少しは返せた形になるので、鮎美に花をもたせてもらって納得した。静江も当面これで納得という顔になっている。

「宮本さん、そちらの広蓋をもってきてください。予定を少し変えて委任式と総理臨時復代理の指名式を同時に行います」

「はい」

 静江に言われて鷹姫が用意してあった広蓋を手にする。広蓋の中にはA3サイズの上質紙に大臣臨時代理人として芹沢鮎美から委任する旨の墨書きあり、鮎美の署名と拇印があった。静江が司会をする。

「芹沢総理代理、中央へお願いします」

「はい」

 リハーサルは無かったけれど、説明は受けていたので鮎美は大会議室の中央に立つ。再び地元から連れてきた党職員の斉藤がカメラを構えた。静江は兄から呼ぶ。

「これより大臣臨時代理人の委任式と合わせて総理臨時復代理の指名式を行います。内閣官房長官臨時代理人、石永隆也、前にお願いします」

「はい」

 呼ばれて石永が前に出る。石永もリハーサルはしていないけれど、ようするに証書を受け取るだけなので2世議員として慣れているので鮎美の前に進む。鮎美は校長や義仁の真似をしておごそかに読み上げ、証書を手渡す。

「石永隆也殿、貴殿を内閣官房長官の臨時代理人として委任します。内閣総理大臣臨時代理、芹沢鮎美」

「はい。慎んでお受けします」

 石永が受け取ると、静江は続けて言う。

「こちらの復代理証書も合わせてお願いします」

「…」

 え~、それは畑母神先生が先やろ、まあ、ええか、こんなこと早く終わって議論せなあかんこと、いっぱいあるし、と鮎美は2枚続けて渡すことにした。

「石永隆也殿、貴殿を内閣総理大臣臨時代理芹沢鮎美に事故のあるとき、第二位の継承者として内閣総理大臣臨時復代理に指名します。内閣総理大臣臨時代理、芹沢鮎美」

「はい。慎んでお受けします」

 石永がさがると静江は畑母神を呼び、鮎美も同じように授与していく。すべての閣僚に授与し終えると、かなり疲れた。

「あ~疲れた。これ校長先生なんか生徒100人を超えるんやから、大変やなぁ。もらう方は一回で済むけど、配る方は全員分やもん。何でも、その立場になってみんと大変さは実感できんもんやね」

 席に戻りながらボヤいた。閣僚は20人に満たないので一クラス分もなかったけれど、卒業式と違い、いちいち読み上げたので、かなり面倒だったし、授与の瞬間をカメラ担当の斉藤だけでなく、他の閣僚の秘書も頑張って撮影するので一人一人の時間が長くて大変だった。授与の後に握手を頼まれることもあり、その握手は護衛担当になったゲイの高木たちと交わしたような真実の親愛の握手ではなくて、笑顔で握手してカメラのレンズを見るという表面を重視したもので、あとでそれぞれが自分の公式SNSにアップしたり、広報や党支部だより、後援会だよりに使うのだと鮎美も熟知していたので、笑顔をつくるのには努力を込めた。とくに当選回数の少ない者ほど、いろいろと撮影を望んできたので本当に疲れた。

「こんなことしてる場合ちゃうし、静江はん、そろそろ議題に入ってください」

「はい。では金沢市、駅周辺での、かりの霞ヶ関の準備状況から説明します。富山もしくは福井に副都心をおくという発表をしたことで賃料の上昇はとまり、順調に契約が進んでいます。少し駅から離れたビルになれば、震災前と同じ価格になっています。こちらの地図をご覧ください」

 静江が賃貸したビルの状況などを説明していく。その説明には各省庁に所属していたけれど、当日は運良く東京に居なかった者なども加わり、どのビルにどの省庁が入るか、という話になった。

「この話と合わせて、当面の閣議の場所と、首相官邸が問題になります」

 静江が鮎美を見ながら話す。

「首相官邸として用いる建物には相当のセキュリティーが求められますが、その条件を満たす建物は無く、せいぜい駅前ホテルのスイートルームなどを借り上げるくらいですが、それは贅沢をしているようで国民からの視線が厳しくなります」

「うち、そんな、ええとこに住まんでええよ。ビジネスホテルでもええし」

「毎朝、すべての閣僚が集まって会議できるスペースと、暗殺対策は過去の首相より、はるかに大切です。げんに何度も暗殺されかけていますよね?」

「うっ……たしかに……ホテルにも迷惑かかるし……ほな、この基地は? 小松と金沢、そんなに遠くないし」

「はい。芹沢総理代理には、このまま基地に残ってもらい、また畑母神防衛大臣なども残留を希望されていますし、防衛省の再生には、この基地をあてる予定です」

「うむ、借り上げた建物など防諜対策できんからな」

「まだ、金沢市でも十分なスペースと宿泊場所が確保できているわけではありませんし、この基地で全閣僚が生活するのも、さすがに手狭です。また、いずれ富山か福井に分散していくことも視野に入れれば、今は小松と金沢にわけ、閣議は毎朝、この大会議室で行い、その後、半数の閣僚は金沢へ。もう半数は小松で仕事をするという形は、いかがでしょうか?」

 静江の提案に色々な賛否が出る。しかも、久野や鈴木などの経験豊富な者以外は、各省庁の生き残り官僚と相談しながらになるので議論は長引き、それでも早く決めなくてはいけないという意識は共有していたので19時前に決まった。結局、静江の案がすぐに通ったものの、では、どの省庁を小松とし、どの省庁を金沢とするのかに、かなり時間がかかった。石永がしめる。

「では、本日は、ここまでとします。お疲れ様でした」

「「「「「お疲れ様でした」」」」」

 解散となり、静江は鷹姫と連絡事項を確認すると小松基地を出る。

「四人部屋に雑魚寝は、もう嫌……あーっ……疲れた…」

 貴賓室にいる鮎美と違い、プライベートのない自衛隊基地での生活に短期間で疲れていた。兄は個室を望めば可能だったものの、物好きにも隊員たちと同じ四人部屋を志望している。おかげで静江も女性自衛官との相部屋となり、石原と同室だった。

「ホテル取れてよかったぁ」

 金沢市市内の視察という名目で外泊を望み、兄と基地内の宿泊管理をしている担当隊員には伝えてあるので、タクシーで金沢市駅前の大きなホテルに入った。一泊2万円の部屋でシャワーを浴びると心身の疲れがやわらぐ。

「はぁぁ……気持ちいい……自衛隊のお風呂って、刑務所なみに殺風景……」

 髪も洗う。

「しかも、あの石原とかいう子、ジロジロ見ないで、なんて言ってきて。芹沢の秘書をしてるからって全員がレズじゃないっての。週刊紙の話なんか信じてバカみたい」

 同性愛者を嫌悪しているのに同性愛者に間違えられたのは実に心外だった。シャワーを終えるとスマートフォンに富山県議から着信が入っていたので、かけてみる。

「さきほどは、お電話ありがとうございました。芹沢鮎美の秘書、石永静江です」

「あー、どうも、どうも、石永秘書官さん、今夜は金沢市に出ておられるとのことですが、ご夕食はおすみですか?」

「いえ、まだですけど…」

 ラッキー♪ と思いながらも一応は遠慮した声を出しておく。接待するつもり満々の県議は静江を夜の金沢へ誘い出した。もちろんセクハラやセックスが目的ではなく、副都心を富山においてもらうための工作なので、あえて妻や富山市議も同伴して来ている。高級そうな寿司屋に案内され、小松矢助という店だった。静江は知らなかったので入店した後にトイレ内で、ネット検索してみるとグルメサイトで最上位クラスの寿司屋で全国屈指、北陸随一、予約も取りにくいとあった。それを知ってから食べると余計に美味しい。

「美味しい♪」

「海の幸はね、我々、北陸人の誇るものですからね」

「うちの県は海に面してませんから、こんな美味しいお寿司は初めてです」

 本当は物流の発達のおかげで県内でも美味い寿司屋はあるので世辞だったし、父や兄と有名店に行ったこともある。とはいえ、グルメサイト最上位は銀座や新宿に集中していたけれど、今は銀座も新宿も存在しないので、この店が全国トップかもしれないとも思った。富山市議の中川という年配の男性が、静江に日本酒をすすめながら言ってくる。

「富山市にはね、ノーベル街道という有名な通りがありましてね」

「へぇ…」

 有名といわれても静江は知らなかった。日本酒は美味しい。寿司のネタも太平洋側からは入ってこないけれど、日本海側の海の幸は鮎美が言い出した物価統制が効いているのか、いつも通りの価格で動いているので、まるで大震災が無かったかのように北陸の街は平穏だった。電力も北陸電力管内は、どこも停電していないし、断水もない、食品も豊富で、むしろ全国的な有名寿司店に急な予約で入れているのは、東京や大阪から来る予定だった人たちが永遠に来られなくなったためだろうと察した。そう考えて見ると、カウンターには予約席という立て札が並んでいる空席が多い。この時間帯、有名店なら満席だろうに半分が空いていて、もう半分はキャンセル見込みで入れた様子だった。静江が少し胸に痛みを覚えていると、中川が言ってくる。

「富山から高山にかけてのわずかな街道ぞいからノーベル賞を受賞する人を何人も輩出していましてね。いわば世界の頭脳を富山が産んでいるというわけですよ」

「それは、すごいですね」

「富山の気候風土が、そうさせるのかもしれません。覚えておいてくださいよ、石永秘書官どの」

「ええ」

「もう一杯、どうですか? 秘書官閣下」

「ありがとうございます」

「いい呑みっぷりですなぁ。総理代理も呑まれますか?」

「いえ、あの子は未成年……ではなくて、飲酒可能年齢ではないですから」

「あはは、たしかに。世の中、ややこしくなりましたな。まあ、富山はおおらかな土地ですから、もう高校卒業で呑んでますよ、みんな。ちょっと失礼」

 中川はトイレに立った。そのついでに振り返って静江の背中とお尻を眺める。ぴっちりとしたパンツスーツのお尻は魅力的だったけれど、接待する側であることは忘れていないので押し倒したりするのは脳内だけにとどめ、男子トイレで立ったまま用を済ませると、食べているのが寿司なので念入りに手を洗い、席に戻るときも静江のお尻を鑑賞したものの、横に座るときには紳士な市議の目になった。紳士といっても裏工作中なので、それほど澄んだ目ではないけれど、地元愛と金銭愛に輝いている。

「小松矢助さんの寿司は最高ですけどね、やっぱり白エビは富山で食べるに限りますよ。今度、富山にいらしてくださいな」

「はい、ぜひ」

「結局、可愛いだけの総理ちゃんより、裏で頭のキレる石永秘書官さんと、お兄さんが全部、動かしてらっしゃるんでしょ」

「まあ、だいたい、そうなりますね。わかりますか?」

「閣僚メンバーを見れば、わかりますよ。他に、あの首席秘書官のお嬢ちゃんも、やっぱり飾りですか?」

「飾りというか、総理代理の精神安定剤というか、ようするに、お友達ですよ、お友達」

「まあ、たしかに担がれるのも可哀想な年齢ですからねぇ。お友達は、必要ですなぁ、はははは!」

 寿司を食べ終わったので2件目はバーに行く。金沢片町にあるバークルースという店だった。ここでも静江はトイレに入ったついでにグルメサイトを検索してみた。

「……ケチられたのかな……」

 評判はいいけれど、それほどランキング上位には入っていない店だった。価格帯も中ほどで、総理代理秘書官を接待するには安い、とさえ思ったけれど、中川市議のおすすめという加賀棒茶のカクテルを呑むと、とても美味しかったので上機嫌になった。

「美味しい。いいお店を知ってますね。中川先生」

「ははは! 金沢ではここくらいで、富山なら、もっと知ってますよ」

「富山に行ってみたいです」

「なんなら明日の晩、どうです? 高速道路で45分、金沢と富山は一つの都市みたいなもんですよ。副都心にするなら、ぜひ、富山でお願いします。福井は遠いですし新幹線もまだまだ、それにほら、敦賀に原発も」

「たしかに……、うちの県にとってもリスクなんですよね。京都府ギリギリに建ててる原発もあるのに、お金が落ちるのは福井ばかり。いまだに市町村合併による行政効率化もしないし」

「さすが、ご見識ですな。やっぱり、日本を動かしてらっしゃるのは今や石永兄妹お二人ですか」

「私はね、裏方でいいんですよ。裏方で」

「裏の女性総理ですな。ははは」

「もう、お上手なんですね。ただの子守りですよ、子守り」

「子守りも大変でしょうなぁ」

「そりゃ大変ですよ。今でこそ堂々としゃべってくれてますけど、最初は市議選の応援演説でもプルプル震えて腰抜かしてたんですから」

 静江は美味しいお寿司と素敵なバーで上機嫌に酔い、怖じ気づいたときの鮎美の物真似まで披露し、中川らも政権周辺の裏話が聴けて楽しい。

「そりゃ大変でしたなぁ」

「ここまで育てるのが、どれだけ大変だったか。なのに、あの首席秘書官の子が地震の後で里心がついちゃって、秘書を辞めて、おうちに帰りたい、なんて泣き出すし、あの子が辞めたら総理まで辞めかねないし、しっかり叱って引き止めましたよ」

「おお、本当に大変ですなぁ」

「まさに子守りです。私が叱ったら、あの子、おしっこ漏らして謝ったんですよ」

「厳しいママ役ですなぁ。明日の日本があるのも、石永秘書官閣下のおかげだ。まさに国母!」

 心地よく世辞を受けた静江はバーを出るとタクシーを呼んでもらい、乗り込むときに車代を受け取ったけれど、かなり封筒が分厚いのでためらった。静江の常識的には3万円か、多くても5万円が限度なのに、厚さ的に15万円くらいありそうだった。

「……これは……ちょっと…」

「いやいや! 北陸では、このくらい車代がいりますよ! 雪も降る!」

 今夜は快晴だったけれど、押し渡されて静江は封筒を受け取り、ホテルの部屋で中身を数えた。

「……うわぁ……17万円かぁ……割れない数字なのは、縁起を担いでるのかな……結婚式じゃないんだから……それとも雑収入で申告がいらない額を狙ってるのか……」

 今さら返す気もないので財布に入れて封筒は細かく破って捨てた。

「…………総理大臣かぁ……」

 もう眠いのでベッドに入って消灯する。

「………お兄ちゃんが総理大臣で……私が首席秘書官…………」

 以前からの夢だった。

「…もし今……あの子と畑母神先生がテロか暗殺でいなくなったり……原発でも視察に行って、そのとき爆発が起こったら……一気にお兄ちゃんが総理大臣……」

 シーツを頭までかぶる。

「……ま、自然にそうなるならいいけど、さすがに、仕向けるのは、やり過ぎね」

 ちょっと暗殺計画を考えてみたけれど、そんな大胆なことは自分にはできそうにない、むしろ車代で17万円ももらったことだけでも戸惑いがあるので、せいぜい明日は富山で夕食が食べられるといいな、と思いながら眠った。

 

 

 

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