第59話 3月13日 組閣、撤退
2011年3月13日午前0時、鮎美と鷹姫は小松基地の司令室で不眠不休のまま状況把握と判断を努めていた。鶴田司令が言ってくる。
「芹沢総理代理、一度ベッドでお休みになられてはいかがですか?」
「いいえ。今この瞬間にも救助を待っている人がいるのですから、おちおち寝ていられません」
災害対応について、ごく初歩的なことしか学んでいない鮎美と鷹姫に判断できることは少ないし、未曾有の巨大津波に対して現場のプロも混乱している。自衛隊への指揮は畑母神が担当してくれているけれど、被災自治体からの問い合わせには鮎美が対応し、判断しなければならない。そして知識が乏しいので、たいていの場合で、現場の判断を尊重して鮎美は総理代理として許可を出すのが仕事になっている。現場としても独断ではなく、一応は法律上の正統な総理代理に許可を与えられたという名目が立つので行動しやすくなるというメリットはあった。けれど、鶴田が心配して言ってくる。
「では、せめて食事をとってください」
「さっきオニギリをいただきましたし十分です。いまだに地震発生から食事を摂れてない人も大勢いるでしょうし。それより、関西便利電力からの技術者は、まだですか?」
「まもなく到着する予定……あ、今」
鶴田が通用門の方を見ると、乗用車とバスが入ってきた。乗用車は橙色の関西便利電力の社用車で、バスの方は夕刻に生徒たちを送っていったものと同じで石永らが乗っていた。人数の多い石永らよりも、一人で来た関西便利電力の社員の方が早く、自衛隊員に案内されて駆け足で司令室に入ってくる。
「関西便利電力、美浜原発原子炉管理課、技術課長の大津田一朗(おおつだいちろう)です」
「「大津田…」」
鮎美と鷹姫は同時に反応した。珍しい姓なので忘れたくても忘れられないし、顔つきも似ている。知念は警戒しなかったけれど、鷹姫は警戒して鮎美の前に出た。素手なので柔道の構えを取り、いつでも戦える体勢になる。一朗は睨まれる覚えはあるので頭をさげる。
「弟の件では、芹沢さんに大変な迷惑…いえ、大変なことをしてしまい。本当に申し訳ありません」
「「弟……お兄さん?」」
「はい、悟司は末の弟です」
「「…………」」
鮎美の刺殺しようと下腹部を刺してきた加害者の兄を前にして、鮎美と鷹姫は思考が止まる。知念は業務上、大津田悟司の名は伝えられているけれど、三島や田守は当然に知らないし、鶴田たち自衛隊員も少年法のおかげで知らない。鐘留がネット上に実名をバラまいたので、その気になって調べた者は知っているものの、そう多くはなかった。
「「………………」」
「芹沢総理代理、お知り合いですか?」
鶴田の問いに答える前に、石永と静江が司令室に入ってきた。石永が問う。
「芹沢先生、状況は…、こちらの方は?」
「あ、えっと…」
鮎美は思考力が低下しており、議員バッチはつけていないものの風格からして青年政治家という感じがする石永へ、一朗が名乗り直す。
「関西便利電力、美浜原発原子炉管理課、技術課長の大津田一朗です」
「「大津田……」」
石永も悟司の氏名を聞いてはいるし、静江も知っている。一朗は同じように頭をさげて悟司のことを謝った。石永は刺傷事件の当事者ではないので、すぐに思考を切り替える。
「今は、そんな場合でもないでしょう。兄弟は他人の始まり。必要なことを進めましょう。それで、今の状況は?」
「うちから言いますわ。太平洋岸の原発がヤバイ状態なんです。100メートルを超える津波をくらった原発は建物そのものが崩壊、その場にいた職員も亡くなってはります。けど、10メートル、20メートルぐらいの津波をくらった原発は建物は残ってるけど、予備電源やらが無くなってヤバイ。一部の原発の責任者が海水を使って冷却したいと言うてはるんですけど、そんなん許可してええもんか。迷ってます。そんで、手近な敦賀にいる技術者を呼んだところなんですわ」
「なるほど。では、大津田課長、お願いします」
石永が促すと、一朗は専門的な話をし始め、一生懸命に鮎美と鷹姫も聴くものの、理解できない部分も多く不眠不休だったので目線が彷徨っている。今にも寝るか、倒れるか、しそうな目だった。見かねて静江が言う。
「二人とも少し休んだら? あ、先にお兄ちゃんを内閣官房長官に指名しておいて」
「こんなときに休んでられませんよ。えっと……ほな、石永…たか?」
「隆也(たかや)だよ。いつもポスターで見てるだろ、やっぱり少し休めよ」
「いえ。石永隆也を芹沢鮎美総理大臣臨時代理の権限において、内閣官房長官臨時代理人に指名します」
「はい。受けます。大津田課長、続きを」
「原子炉に海水を入れることで生じるリスクは…」
一通りの説明を聴いた石永は決断する。
「現場の判断を尊重して、許可しよう」
「……う~ん……どう思う、鷹姫?」
「…………」
鷹姫は一朗が襲ってこないかを警戒していたので、あまり聴いていなかった。
「鷹姫?」
「……安全とは思いますが油断しない方がいいでしょう……兄弟で違う道を行くことは、多くありましたが……真田や源氏も…」
「いや、そっちやなくて。だいぶボケてんなぁ、鷹姫は休み」
「いえ、大丈夫です。頑張ります」
「ほな……えっと、鶴田司令、静岡県の原発までヘリで飛べますか?」
「可能ですが夜間飛行は危険です」
「到着する頃には明るくなりますやろ。うち、ちょっと見てくるわ」
「「はァ?」」
「危険です!」
石永と静江が驚き、鷹姫が注意した。
「現場を見な、わからんこともあるかもしれんやん?」
「臨時代理とはいえ、総理大臣が軽々に動くものじゃないぞ」
「そやろか? もし、鳩山直人総理やったら自分の目で見に行かはったんちゃう?」
「そんなバカなことはしない。現場で放射能漏れが起こったら、どうする?」
「それは現場で作業する人も、いっしょやん。うちは子供を産む予定ないし、適任よ」
「総理大臣が動くということは、その警護役もヘリのパイロットも、みんながみんな動くということだ。全員を危険に晒す気か?」
「……………」
黙って反論を考える鮎美の目線が彷徨っているし、そばに立っている鷹姫はフラついている上、空腹なのかお腹を鳴らした。静江が問う。
「二人とも、ちゃんと食べてるの? 顔色が悪いですよ」
「うん、それなりに」
「はい」
鮎美と鷹姫は肯定したけれど、鶴田が否定する。
「いえ、握り飯を一つ二つ、召し上がられたのみで、まともに食事をしてくださいません」
「被災者のこと考えたら、そんで十分よ」
「ダメです!! そんな子供じみた同情は捨ててください!」
「「………」」
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝てください!! さっきから目が半分寝てます!! もう目がメルトダウン状態です!!」
「…うちらは……これでも一生懸命に…」
「もう、その発想が判断力の低下をあらわしてます!!」
「「………」」
「二人とも、お風呂も入ってないですね! はっきり言って臭いです!!」
「「「「「………」」」」」
あ、言った、とうとう言った、と司令室にいる隊員たちは思った。頑張って勤めを果たそうとする18歳の女子へ、隊員たちは遠慮して言えなかったことを、同性の静江は遠回しでなく断言した。
「上に立つ者が、そんな身だしなみではダメです!」
「うちが、のんびり風呂入ってる間に何人も死んでいくんよ! 災害直後の72時間が勝負やん!」
「入っても入らなくても死にます! ちゃんと休んで明日から正しい判断をしてください!!」
「「………」」
「ほら、お互いの顔を見てください! まともな顔ですかっ?!」
「「……………」」
鮎美も鷹姫も目の下にクマが濃い。目線も怪しくて脂ぎった顔をしていた。脂ぎっているのに栄養不足で血色が悪い。どちらかといえば救助される側の顔色だった。
「さあ! ここは石永官房長官に任せて、二人は休んでください!」
「……そうやね……そうするわ。石永先生、頼みます」
「わかった」
石永が頷き、鶴田が用意していた担当者に命じる。
「お二人を食堂に案内し、入浴と部屋を提供せよ」
「「はっ」」
すぐに2名の女性自衛官が鮎美と鷹姫へ敬礼して名乗る。二人とも自衛官らしいショートヘアで制服が似合っている。
「芹沢総理代理のお世話をいたします。石原里華(いしはらさとか)3等空尉です」
「宮本鷹姫総理代理秘書官のお世話をいたします。大浦麻衣子(おおうらまいこ)2等陸士です」
「「よろしくお願いします」」
司令室から食堂に移動すると、夕食時に用意されたのに鮎美と鷹姫が食べなかったので残されていた分の食事を、里華と麻衣子が電子レンジで温め直して出してくれた。
「「どうぞ」」
「「いただきます」」
イスラエルでの昼食会以来、まともなものを食べていなかった二人はカロリー多めの自衛隊食を美味しそうに食べる。麻衣子がお茶を出しながら言ってくる。
「宮本秘書官、お話してもよろしいですか?」
「はい」
「一昨年の高校剣道、東京大会で私と戦ったこと、覚えていますか? 石川県の聖陵高校から出てたんですけど」
「いえ」
「……そうですか……すぐ負けましたからね……」
「鷹姫は、いつも、そんな感じやから、気にせんとき。大浦はん、うちらと歳、近いの?」
「高卒すぐの入隊でしたから、一つ上なだけです。タメ口きいてもいいですか?」
「ええよ」
さきほどまでの司令室と違い、若い女子だけで雑談という雰囲気になり、鮎美が気を緩めると、麻衣子も学生気分になった。
「石川弁が出たら、ごめんなさい。けど、関西弁の人って、どこでも遠慮無く関西弁を出すね?」
「フォーマルそうな場所やとさけてるけど、標準語やと本心から話してない感じするねん」
「あ~、そういう気持ちはわかるかも」
麻衣子は腕組みして頷き、鮎美は20代半ばに見える里華に問う。
「石原はんは、うちらより、いくつ上?」
「……。答える義務はないし。私に変な気はおこさないで。そういう趣味はないから」
「……………」
にこやかだった鮎美の表情がスーっと冷たくなり、それから怒りで赤くなった。
ドンっ…
右手でテーブルを叩いて席を立つ。ここまで怒るとは思わず、接遇すべき相手を激怒させたことに里華は後悔した。鷹姫と麻衣子が、どう仲裁すべきか戸惑うけれど、鮎美は立ち去らず、深呼吸して席に戻った。
「ふーっ…うちは睡眠不足でイライラしやすいんよ。もう黙って食べるわ」
鮎美が黙って野菜炒めを食べると、麻衣子も鷹姫も黙る。打ち解けかけた場の空気が重くなり、すぐに食べ終えた。里華が業務的に言う。
「芹沢総理代理は3階の貴賓室へ、どうぞ」
「宮本秘書官は私と相部屋よ。ごめんね、差別的で。自衛隊って階級社会だから」
「「………」」
どう答えるべきか二人とも迷い、挨拶だけする。
「ほな、鷹姫、おやすみ」
「はい、お休みなさいませ、芹沢総理」
鮎美は里華と知念の三人で階段をあがっていく。鷹姫は麻衣子に案内されて4人部屋へ荷物を置いた。
「宮本さんの担当になったおかげで4人部屋を二人で使えるの。ラッキー♪」
「………」
「あ、ごめん、なにか機嫌そこねた?」
「いえ」
「こんな部屋で怒ってる? これ自衛隊の標準だから我慢してやって」
学校の校舎のようなコンクリート造りの建物にある4人部屋は二段ベッドが二つ左右の壁際にあり、窓際に机は4つ、ロッカーも4つという殺風景なものだった。三島が空自基地全体を陸自に守らせるために呼び寄せた陸自隊員が寝泊まりするためにあてがわれたので麻衣子も今夜使うのが初めてであり、まったく私物がないので殺風景さが増している。
「いえ、これで十分です」
「う~ん……なにか怒らせた? タメ口、やめた方がいい?」
「何も怒っていません。あなたの口調も気になりません」
「………そっちもタメ口でいいよ?」
「私はこれが普通です」
「そうなんだ………。道場でも、すごかったよね。空気読まないっていうか、総理が根性叩き直してやる、って竹刀ふってるのに、容赦なく勝ち続けるし。見てて、どうなるかと思ったよ」
「あれは私が腑抜けていたので気合いを入れてくださったのです。……やはり、私は空気を読めていませんか?」
「…う~ん……まだ初対面だし……とりあえず、お風呂に行こう。この時間は浴槽の湯は落ちてるらしいけど。シャワーは使えるから」
「はい」
麻衣子と鷹姫は浴場に行く。浴場もホテルや旅館と違い、殺風景な造りだったけれど、二人とも気にせず脱衣所で裸になった。
「………」
「………」
なんとなく、お互いの身体を見た。麻衣子は全国優勝する鷹姫が、どの程度の身体なのか気になったし、鷹姫も陸上自衛隊の女性隊員がどの程度鍛えているのか、見たかった。
「宮本さんは、やっぱり、いい身体してるね」
「はい。あなたも」
「…………あ……もしかして、そっちの趣味あり?」
「どういう趣味のことですか?」
「そ……それは……だから、その……女と……女で……イチャイチャみたいな?」
鮎美のカミングアウトと結婚は有名すぎるし、その秘書についても週刊紙での報道があったので、つい麻衣子は鷹姫まで同性愛者ではないかと思ったけれど、はっきりと否定される。
「そういう趣味はありません。そして、同性愛は趣味ではなく、指向きと書いて、指向です。趣味のように変わるものではなく、一生を通じて不変らしいです」
「そ……そう…」
「………。私は、また空気が読めていませんか?」
「そ、そうだねぇ。今は変な空気だから、さくっと言っちゃうと、私も、そっちの趣味も指向も無いんで、この変な空気が普通の空気になってくれると、安心してシャワーできるかな、って」
「……普通の空気……」
鷹姫が少し考え、右腕をあげて腋を見せる。
「普通の女子は腋の毛を剃るそうです。あなたも、そう思いますか?」
「え………ま…まあ……剃るよ。できるだけマメに。女性自衛官に、どういうイメージもってくれてるのか知らないけど、別にマッチョな人ばっかじゃなくて、普通の女子だよ」
「そうですか……」
鷹姫は両腕をあげて鏡で自分の腋を見てみる。
「………」
「いろいろ忙しかったの? ぜんぜん剃ってないね」
「………私は臭いですか?」
「………。えっと……それは、正直な感想を求めてる?」
「はい」
「……、かなり臭いよ。山いった後かと思うくらい」
「山?」
「あ、ごめん、訓練で何日か山に入ることがあるの。そのときはお風呂も無し、寝るのも地面の上だったりするから、当然、すごく臭くなるよ。がっつりスプレーしてから行っても」
「………スプレーというのは腋にかけるものですか?」
「え、うん、そうだよ。それ、知らないの?」
「いえ、クラスメートが使っているのを見たことはあります」
「見たことはって……使ったことないの?」
「はい」
「………、じゃあ、腋、いつも、そのままなんだ?」
「はい」
「…………そ、そういう人もいるんだね……」
「………」
鷹姫は既視感を覚えたし、このままではいけないような気がしてきた。鮎美でさえ鷹姫に向かって、人それぞれ、といった風にお茶を濁したし、自然なままの鷹姫がいい、と言ってくれたけれど、クラスメートたちには機内で罵られた。何かとてつもなく悪いことをしているかのように、腋の毛が伸びていることをバカにされたし、臭いことも軽蔑されている感じだった。
「一つ常識について訊きたいのですが、腋の毛は剃る方がよいのですか?」
「え………うん………今さら訊かれると、迷うけど、普通は剃るよ。よっぽど、伸ばしておきたい理由でもない限り。人に見られたら、すごい恥ずかしいし」
「………恥ずかしいこと……、それは小学生がおもらしをするほど恥ずかしいことですか?」
「え~……それも恥ずかしいけど、それと比べると……う~ん……とにかく、どっちも、けっこう恥ずかしいことだよ」
「……………」
鷹姫は再び鏡を見た。急に恥ずかしくなってきた。そんな様子に気づいて麻衣子が言う。
「そろそろ春だから、剃った方がいいよ」
「……はい……」
「新品のカミソリもってるから、一つあげようか?」
「ありがとうございます。………剃ったことがないのですが、どう剃るのですか?」
「え~……それも、すごいなぁ……じゃあ、私も剃るから、いっしょにやってみてよ」
麻衣子はそろそろ捨てようかと思っていた使い古しのカミソリをもって洗い場に入り、シャワーで身体を温めてから鷹姫には新品を渡して教える。
「このジェルを腋に塗って」
「ありがとうございます」
鷹姫は手渡しされたジェルを腋に塗る。
「それで、こう腕をあげながら、できるだけ残さないように剃るの。宮本さんはボーボーだから、一度、全体をササっと剃ってみて」
「……こう…ですか……。見えにくいですね…」
初めて腋を剃るので苦労しつつ鷹姫は左右の腋を剃り終えた。それから髪を洗っているうちに、日本刀で雑に切っただけの髪型が気になった。
「私の髪型は、どう見えますか?」
「え……正直に言うと……破滅的だよ。あんなザックリ切って。左右で長さが違ってるし。イジメられた子みたい」
「そうですか……」
「基地の前に散髪屋さんあるよ。美容師もいる。明日の朝、ちゃんとすれば? ゆっくり休むように言われてるし。たぶん、起床のラッパが、この基地でも6時には鳴ると思うけど、私たちは、それ無視して寝てていいらしいから。のんびり起きてカットすれば?」
「………」
「そのままだと空気読めてない以前の問題だし」
「そうですか、では切ってもらいます。ああいったお店に行くのは初めてなのですが、いくらほど必要でしょうか?」
「え? カットしたことないの?!」
「はい」
「なんで?」
「私の家は貧しかったので、まとめて切りやすい長さまで伸びた頃に自分でハサミで切っていましたから」
「そうなんだ……喋り方から勝手にお嬢様なイメージもってたよ。ごめん」
麻衣子が握手をしようと手を出してくるので、鷹姫は応じた。
「私の家も貧乏でさ、大学とか専門学校なんて絶対無理だったから高卒入隊なんだぁ。入隊のときも荷物が無いくらいで、手ぶらだったから、さすがに女子で手ぶらは珍しくて、手ぶらのマイとかアダ名がついて恥ずかしかったよ」
「そうですか。貧しいことは恥じることではありませんが、きっと芹沢先生が世の中を変えてくださいます」
ずっと父から、貧しいことは恥じなくてよい、他人を羨む心こそ恥じるのだ、と教えられて育ち、靴や制服がおさがりでも少しも恥じてこなかった鷹姫から鮎美への尊敬の念を感じたので、麻衣子も有名になった政策を思い出した。
「連合インフレ税かぁ……こんな地震が起きて、どうなるんだろう……日本…」
「………このような大地震があり、行き先不透明さはありますが、きっと芹沢先生は新しいお考えで乗り切ってくださいます」
「尊敬してるんだねぇ」
「はい」
入浴を終えると部屋に戻った。二人ともベッドに入ると疲れていたので、すぐに眠り8時過ぎに起きる。自衛隊生活としては遅い朝食を出してもらい、まだ眠っている様子の鮎美へはメールを送ってから鷹姫は基地前の床屋へ行く。世話役の麻衣子もついてきた。
「私も切ってもらお」
二人で髪を切ってもらいながら、麻衣子は美容師へ問う。
「空自の石原3等空尉の話ってききます?」
「まあ、いろいろと」
美容師は慣れた手つきで麻衣子の髪を切りながら会話する。
「夕べ、ちょっと軽くモメかけたんですけど、どういう人なのかなって」
「悪い子じゃないっしー。防衛大んとき先輩とセクハラでモメてから、少々うるさがたで、ここの上官へも予防線はって、ちょい扱いに困っておるらしいわー。お姉さんら、なんでモメようと?」
「私ら直接じゃないっしー。石原さんがお客さんに向かって予防線いきなりはって、お客さんが怒ったとよ」
「ダラなことすんなーて」
「おいね」
ショートヘアだった麻衣子はカットしてもらっても、あまり変化は無かったけれど、鷹姫は髪を首の上くらいの長さに切りそろえてもらい、かなり印象が変わった。基地へ戻りながら麻衣子が言う。
「日本人形みたいになったね」
「そうですか」
「石原さんが、ちょいカタい理由もわかったしー。基地の近くにある床屋って、スパイより情報もってるっての、やっぱり本当ねー」
「…………」
鷹姫は聴いているのか、いないのか、短くなった髪を不慣れそうに触っている。麻衣子が訊いてくる。
「根性叩き直されるほどフヌケてたって、どうして? やっぱり失恋?」
「いえ、違います」
「じゃあ……地震で大事な人が亡くなったとか?」
「いいえ。………すいぶん前には亡くなりましたが……」
「彼氏とか?」
「いえ、母です」
「そう………」
「単に、みっともない姿を大勢に見られて、もう何もかも嫌になって、お家に帰りたくなったのです」
「そうなんだ……何か失敗したの?」
「人前で失禁してしまいました。………今、あえて言ってみたのですが……やはり、恥ずかしいです。他の人には言わないでください。お願いします」
「うん、言わない。あれは恥ずかしいよね。私も、やらかしたわー」
「…………」
「陸自の高所移動訓練でさ。3階建てくらいの高さをロープだけで移動するんだけど、手が滑って落ちたの。命綱があるからプラーンって吊されるだけで済むけど、私、ビビってさぁ。宙吊りのまま、ジョーって、おもらし。下から見てた男どもに笑われるし。その夜は泣いたよ。女で自衛隊に入るくらいだから、ちょっとは気が強いつもりだったのに。恥ずかしいやら、情けないやら、三日後に辞表出したけど、上官が受け取ってくれなくて」
「………」
「その上官が言うの。笑ってたヤツらも実際に危険な目に遭ったらビビって漏らす。激しい実戦の戦場では兵士の半分は漏らしているから気にするなって」
「…………」
「気にしないことだよ。うん」
「…………気持ちを強く持とうと思います。………そして、空気が読めるようになりたいのです……」
「空気かぁ……」
たしかに、この子、空気が読めてないというか、空気感が違うよね、と麻衣子は思いつつ、鷹姫が基地内のコンビニへ入ったのでついていく。鷹姫はコンビニで口紅と制汗スプレーを買い、店の外に出ると、ガラスに映る自分を見ながら口紅を塗った。
「………」
「手つきが慣れてないね。塗るの初めて?」
「はい……、これで、いいですか?」
「塗ってあげるよ。ジッとして」
「はい」
麻衣子は鷹姫に口紅を塗ってやった。
「あとは馴染ませるように唇をムニュムニュってして」
「はい」
鷹姫は麻衣子の真似をして口紅を馴染ませ、再びガラスに映る自分をみて頷くと、今度は制汗スプレーを開封して、胸のボタンを外し始めたので麻衣子が止める。
「ちょっと! ここでシューする気?」
「はい。いけませんか?」
「あんまりよくないよ。絶対ダメじゃないけどさ。お化粧だって、こんなとこでするの行儀のいいことじゃないよ?」
「っ………」
言われた鷹姫が恥ずかしそう赤面した。
「なるほど、こういう風に空気が読めてないわけね。あなたが自分を変えたい気分なのはわかったからさ。女子トイレに行こう。その前にファンデも買って」
麻衣子は再びコンビニへ入って鷹姫にファンデーションと乳液を買わせると、女子トイレに入った。
「口紅だけだと浮いた印象になるから、この乳液を薄く塗って」
「はい」
「それから、このファンデを軽く叩く」
「こうですか?」
「そうそう」
鷹姫に化粧を指導し、それから制汗スプレーの使い方も説明する。
「これを男性に見られるところで使うのは、かなり恥ずかしいことなの。基本的に使うのは更衣室かトイレね。ただ野営とか…えっと、テントの中で雑魚寝とか、そういう隠れる場所が無いときは、失礼します、って断ってから使う。いい?」
「はい」
鷹姫は自分の腋に制汗スプレーをかけてみた。
「これで汗の匂いは消えるのですか?」
「汗の量によるけど一日もつよ」
「………。これで総理大臣秘書官として恥ずかしくないでしょうか?」
鷹姫が自分の身体を足元から頭まで鏡で見る。麻衣子も見た。
「うん、OK。これ以上に化粧すると逆にケバいから。今の年齢なら、これくらいでいいよ」
「ご指導ありがとうございました」
「いえいえ」
準備が終わった鷹姫が貴賓室に向かうので麻衣子もついていく。部屋の前には長瀬と里華が立っていた。麻衣子が敬礼すると、長瀬と里華も敬礼を返すけれど、鷹姫は自分が文官扱いという身分を理解しているので会釈だけして問う。
「おはようございます。芹沢総理は起きておられますか?」
「「おはようございます。はい、さきほど」」
長瀬と里華が異口同音した。連携が取れているというよりは、警察と自衛隊、どちらが今の状況で総理代理を守っていくか、分裂している感じがする。それを鷹姫は気にせずドアをノックした。
「芹沢総理、入ってもよろしいですか?」
「どーぞ」
「失礼します」
「失礼しまーす」
鷹姫と麻衣子が入室する。
「おはようございます」
「おはようございます。うわぁ、豪華な部屋」
麻衣子が貴賓室を見て声をあげている。貴賓室は20畳ほどの広さで、専用のバスルームとトイレもあり、古びているけれどカーテンなどの内装も豪華なものだった。輪島塗や友禅など、石川県の特産である調度品も置かれている。
「おはようさん。大浦はん、隊員やのに、この部屋を見たことないの?」
静江が持ってきてくれたクリーニング済みの制服を着ながら鮎美が問うた。
「この基地自体が初めてだし。こういう部屋には私の階級じゃあ掃除の担当にでもならない限り近づけないから」
「鷹姫、髪をちゃんと切ったんやね。お化粧も」
鮎美が気づいて鷹姫の髪に指先で触れる。
「はい、秘書官として恥ずかしくない姿になっていますか?」
「うん、可愛いよ」
まだ触れていたいのでカットを確かめるような手つきで誤魔化しながら、鷹姫の髪を撫で続ける。鷹姫は触れられるまま身を任せている。そんな二人を麻衣子が一歩引いて見ている。
「………」
レズって本当なんだ、うわぁ怪しい関係、石原3尉が警戒するのも正解かも、と見ていた麻衣子は思った。
「お化粧の匂いだけやなくて……鷹姫、スプレーとか使った?」
「はい。腋も剃りました」
「へぇ……ちょっと見せて」
「はい」
鷹姫が素直に胸のボタンを外し始めると、麻衣子は微妙な顔になる。
「………」
いやいや、そういうこと報告する? しかも見せてとか、っていうか芹沢総理、鼻がよすぎ、よくスプレーの匂いまでわかるなぁ、犬なみ、と麻衣子が思っているうちに鷹姫は上半身の制服を脱いだ。
「腕あげてみて。ちゃんと剃れてるかチェックしてあげるし」
「ありがとうございます」
鷹姫はバンザイのように両腕をあげた。よく見えるようになった鷹姫の腋にも指先をあてて鮎美は顔を近づけた。
「うん、ちゃんと剃れてるね」
「もう腕をさげてもよいですか?」
「反対側も見てあげるよ」
「はい」
「………」
いやいや、どう見てもセクハラなんですけど、今一瞬ペロっと舌なめずりしたし! 舐めたいんだ、同性の腋とか舐めたいんだ! 気持ち悪っ! こいつヘンタイ総理だ、日本終わった、あ、でも宮沢総理とか愛人いたし、もっと古い時代の総理なんか愛人いて普通だったらしいし、そんなもんなのかな、登り詰める人って、そっちの欲も強いよねぇ、と麻衣子は鮎美への印象を改めつつ黙って見ている。その視線に気づいた鮎美は自制することを思い出した。
「うん、もういいよ。腋もお化粧も髪の毛も、ばっちり女の子らしくて。別人みたいに可愛くなってる」
「ありがとうございます」
「ほな、今日も頑張ろか」
「はい!」
鮎美は気合いを入れるように左手の拳を右手に叩きつけ、鷹姫は背筋を伸ばして返事をした。二人が司令室へ向かうので、長瀬と里華、麻衣子も付き従う。司令室に入ると、石永と静江がいて、休憩中なのか三島と田守、鶴田はおらず副司令がいた。石永と静江も徹夜はせずに多少の睡眠はとった顔色だった。
「「「「「おはようございます」」」」」
「「「「「おはようございます」」」」」
お互いに挨拶し、鮎美も状況報告を受ける。時刻は11時で地震発生から48時間が過ぎようとしている。副司令が言ってくる。
「畑母神防衛大臣臨時代理人が、まもなく到着されます」
ヘリポートに海上保安庁のヘリが着陸し、畑母神が百色とおりてくる。石永が司令室を見回して言う。
「ここで話し合うのは手狭だな。どこか部屋はないか?」
「はっ、大会議室を用意します」
「頼む」
正午が近いので大会議室で昼食をとりながらの会議となり、鮎美が上座につき、その横に石永と畑母神、正面に三島、そして直前になって陸路で到着した夏子が座った。さらに鷹姫と静江、田守、百色、夏子の秘書なども座る。会議は陸海空の幹部自衛官による状況報告から始まり、それぞれに全国各地で救助活動を進めていて、畑母神が二つ三つの指示をした以外は鮎美たちに言うことはなく、聴くだけだったので食事を終えた。石永が全体へ言う。
「救助は現場が頑張ってくれている。我々が判断すべきは、原発の問題、そして内閣の再編、沖縄基地の早期回復だ」
「まず原発ですが」
静江が報告する。
「高さ100メートル超の津波に襲われた女川、福島第一第二、東海、浜岡の原発は建屋ごと崩壊し、原子炉が地上に露呈しているものと、原子炉ごと海中に引き込まれたものが半々です。海中に引き込まれたものは専門家によれば、冷却が続くので、さらなる核反応は生じないものの、放射能汚染が続きます。地上に残ったものは、すでにメルトスルーを起こし、空気中に放射性物質を撒きながら地中へ落ちていくそうですが、空気中に撒かれる量は少ないという期待ができるそうです。むしろ、問題は20メートル程度の津波に襲われた東通、伊方、上関の原発です。各所長の判断で炉内の圧力を逃がすベントが行われたものは周囲に放射性物質を撒いていますが、爆発まではしないそうです。また、臨時内閣へベントと海水の注入許可を求めてきた各所長に対しては、石永官房長官が昨夜のうちに許可され、いまだ予断を許さない状況ですが爆発はしていません。けれど、すでに地震発生24時間で五つの原子炉が水素爆発を起こしており、宮城県と愛媛県に大きく放射性物質を大気中へ放出しております」
「伊方、上関は呉に近いな……あんなところに原発をつくるとは……」
畑母神が言った。鮎美が問う。
「住民への避難勧告は、まだですよね?」
「はい、まだです。何の説明もしていません。いつ、どの程度の説明をし、どの範囲の住民を避難させるか、まったく決まっていません。不幸中の幸い、と申しますか、言い様に問題はありますが100メートル超の津波に襲われた地区は、そもそも避難させるべき住民が、ほぼ死滅しています。きわめて運良く生きていて家財道具を取りに戻る住民も少しはいるでしょうが、原子炉が流れるほどの津波ですから住宅など基礎ごと消えています。すぐに諦めて避難場所へ戻るでしょう。やはり問題なのは20メートル前後の津波を受け、残っている住宅地と住民もありつつ、放射能汚染される可能性がある地区です」
「ただちに避難させよ!!」
三島が言った。
「どの範囲をですか?」
「可能性のある地区すべてだ!」
「どこに避難させるのですか?」
「離れたところだ!」
「広く範囲を取れば数十万人が対象になります。狭く範囲を取れば数百人。その数百人への放射能汚染も、ただちに健康に害をおよぼすレベルではありません。レントゲン写真を30回浴びるほどです」
「………」
「むしろ、慌てて避難するよりは屋内で静かにしている方がよいかもしれません」
「とはいえ、赤子や妊婦もおろう!」
「それだけにパニックを起こさない周知が必要なんです! レントゲン写真くらいの被爆かもしれないのに、避難中に転倒して流産したら、元も子もないんです!」
「………」
「次に内閣の再編についてです。すでに決まっている閣僚以外を、昨夜のうちに候補をあげました。こちらをご覧ください」
静江がモニターに組閣図を映す。鷹姫は目配せされて窓のカーテンを閉めた。内閣の候補を見て、鮎美はつぶやく。
「これは………また………思いっきり……石永派やん……」
まだ他の国会議員との付き合いが浅い鮎美にも、挙げられた候補が落選中の自眠党衆議院議員で、しかも石永と付き合いのある者たちだと、すぐにわかった。
「眠主党は私一人ってわけ?」
夏子が愚痴った。静江が用意していた答えを言う。
「眠主党の先生方は、さきの総選挙で、みなさん当選されており地震当日みな国会におられましたので……まことにお気の毒です」
「探せば、落選した候補もいるよ。自眠党だってゼロ議席だったわけじゃないからさ」
「あれだけの大勝で風に乗れず落ちた者など、一兵卒にもならぬよ」
畑母神が言い、夏子が言い返す。
「と、ゼロ議席だった政党の党首が言っております」
「………」
畑母神が渋い顔をしたので、鮎美が二人へ頭をさげる。
「頼んます! いきなり空中分解せんといてください!」
「「………」」
二人とも舌の矛をおさめた。静江が続ける。
「この人選で進めさせていただいて、よろしいですか?」
「「「「……………」」」」
畑母神がつくった日本一心党は東京が主な活動拠点だったので、閣僚に推せるほどの人物はいなくなっていて、現役の自衛隊内には見込みのある人物もいるものの津波で統合幕僚監部が消失した今、ただでさえ貴重な幹部自衛官を現場から引っ込めることはしたくない。鮎美にも、もうアテはない。三島も個人的なカリスマ性で組織をつくってきたので自分以外の者となると推しにくい。夏子にしても畑母神が言ったとおり、あの大勝で落選した国政候補者は推しにくいし、県議や市議というわけにもいかない。
「よろしいですね?」
「ちょっと待ってよ。もう少し考えさせて!」
鮎美が言った。
「ですが、芹沢先生、もう時間がありません。一刻も早く発表すべきです! あと2時間もすれば、地震発生から48時間です。これを目処に新内閣を打ち出すべきです!」
「…………」
くっ……一晩のうちに勝手に人選しておいて……うちに、ゆっくり寝てろ言うたんは、こういうことやったんか、と鮎美は悔しく思うけれど、別に悪い人物を推されているわけではないとも感じている。
「芹沢先生、他に候補がおありですか?」
「…………ある」
ないけれど、あると言った。
「どなたですか?」
「まだ交渉中なんよ。決まったら言うわ」
「いつまでに?」
「…………。ちょっとトイレ行くわ」
そう言って鮎美は席を立ち、目線で鷹姫を呼んだ。二人で大会議室を出ると、女子トイレへ向かう。会議室前の廊下で待機していた長瀬と里華、麻衣子もついていくけれど、長瀬は女子トイレの前で止まり、里華と麻衣子はトイレ内までついていく。鮎美は密談したいので鷹姫だけを個室に連れ込んだ。そして外に漏れないよう鷹姫の耳元へ囁く。
「このままやと、石永内閣みたいになるし。悪い候補やないと思うけど、鷹姫は、どう思う?」
問われた鷹姫も、麻衣子や里華には聴こえないよう鮎美の耳に囁く。
「人脈がすべて石永先生に偏っています。当然ではありますが、地域的にも関西付近に偏り、他の地方から不満が出るでしょう。とくに北海道九州はゼロです。また、石永先生より若い先生が多く、当選回数も多くても3期と経験の浅い先生が多いようです」
「石永先生が2期やからね。自分の言うこと聞いてくれそうな先生を選んだんやろ」
「私たちが年齢や経験のこと言うのは滑稽ですが、それだけに高齢で経験豊富な先生が畑母神先生だけというのは不安です。畑母神先生にしても政治ではなく軍事の専門家です」
「静江はん、お兄さんを総理大臣にする気でいはるねん。わかる?」
「はい、人が変わったように強引です。非礼なほど」
「うちが総理大臣いうのも無茶やけど、法的安定を考えると、うちがベストやし。明らかに権力争いしてる場合やないのに、思いっきり権力争いになってる。石永先生は、いい人やけど、若干シスコンというか、ガチにブラコンな妹に押されての消極的シスコンなとこあるし。何より、うちと石永先生が判断を間違ったとき、それを抑制する者がおらんのは不安やわ。けど、うちには、もう思い当たるのは久野先生くらいしか、おらんし。声はかけるとしても引退したと固辞されるかもしれん。そこで鷹姫にお願いなんやけど、石永先生より多選で経験豊富、そして生き残ってくれてはりそうな地域にいた先生で、できれば、うちが声をかけて内閣に引き込んだことを多少なりと恩義に感じてくれはりそうな先生を捜してよ。一時間以内に」
「一時間以内……」
「ごめんな、無茶な注文で。けど、それまでは会議を引き伸ばすわ」
「やってみます。いえ、お任せください!」
結論が出たので二人が個室を出る。待っていた麻衣子が変な想像をして赤面していたし、里華は嫌悪感を隠しきれない顔色だったけれど、二人とも気にしない。鷹姫は麻衣子をつれて基地内の情報室へ行き、鮎美は長瀬と里華に守られて大会議室に戻る。静江が言ってくる。
「候補はおありですか?」
「あるよ」
「まさか、宮本さんだなんて言いませんよね。女子高生大臣は一人で十分です」
切り捨てるように言ってくる静江へ、鮎美は冷静に答える。
「内閣のポストについては、もう少し考慮するとして。次の沖縄について進めてください」
「………。わかりました」
静江が別の資料を配る。
「沖縄は那覇空港の機能が停止し、津波到達までの時間があったため犠牲者は少ないのですが、その分、避難場所や食料品の確保が課題です。また、仲国軍機と思われる航空機の侵入が何度も確認され、平時であれば、これらの領空接近には那覇から飛び立った戦闘機で対応していたのですが、今は新田原から飛ぶため、航続距離の問題もあって十分な対応ができていません。早期の那覇空港機能回復は重要な課題です」
「それについて本州で救助にあたっている隊員の一部をさきたいのだが、芹沢総理代理のご意向は?」
畑母神の問いに鮎美は少し考えてから答える。
「あと24時間、全力で救助にあたってもらうことはできませんか? 地震発生から72時間、その間は全力で救助に」
「おっしゃることはわかるが、領空侵犯への対応というのは素人が考えるより重要なのだよ。これに対応しないと我々に対応能力無しとみて、より大きな侵入行為を呼び込むことになりかねない。いや、なる。確実に」
「領空侵犯は、この目で見ました。沖縄本島上空やのに、あいつら平気で、うちが乗ってる飛行機を拉致りに来ましたもん」
「ああ、その報告は受けている。それだけに重要だと理解してほしい」
「……………」
「芹沢総理代理、私の判断で救助をやめ、沖縄へ必要な隊員を派遣する。どうか、理解してほしい」
「……………今この瞬間も、何人何十人も救助してはりますよね。救助をやめるということは、助かったかもしれん救助を待つ人を見捨てるということですやん……」
「苦渋の決断だ」
「……漂流してる人もいるかもしれんのに……いえ、絶対、いますよね……こんな寒い中、家の残骸につかまって浮いてる人とか……壊れた船に乗って震えてる人……」
鮎美は泣かないように、詩織のことを想い出さないようにしている。そんな表情から察した畑母神が言い加える。
「東京方面、大阪方面の部隊は削らない。他を削る」
「…………そんな、うちの大事な人さえ助かればいいみたいな……」
「地理的な問題だよ。九州、四国、中国の部隊を削る」
「……」
「救助は海上保安庁、地上では警察と消防も行っている」
「自衛隊と圧倒的に能力が違うのは、わかってますよ……ガソリンスタンドが動いてなかったら、警察も消防も自前で補給できませんやん」
「九州から沖縄へ部隊を移動させる途中に漂流者を発見する可能性もあるよ」
「………」
「あなたが迷っている間にも事態は進行する」
「っ! 迷ってるうちに誰か助けてるかもしれんやん!!」
「…………」
「大きな声を出して、すみません」
「いや……私も強引だった。だが、必要なことなのだ」
「………それをしなかった場合、どうなりますか?」
「最悪の場合、戦争になる。無人島はともかく、有人島に上陸された場合、こちらも隊員を派遣しないわけにはいかない。結果、当然に戦闘となるだろう」
「…………」
「多くの隊員が死傷することになる」
「……そこまで……向こうも、してくるでしょうか?」
「………」
畑母神は立ち上がると、カーテンを開け、滑走路の方を指した。
「あそこに、あなたが乗ってきたA321が駐機されているが、仲国機のジェットを浴びて、正面が焦げている。再び飛ぶには修理が必要だ」
「………」
「威嚇射撃さえ、されたそうだね?」
「はい」
「百色くん。平時であったのに仲国漁船から体当たりされたとき、どう感じた?」
「それを今、お嬢さんに語るのは可哀想ってもんですよ、閣下」
「だが、無視できない事実だ。総理代理お一人の決断ではなく、暫定内閣の多数決としよう。沖縄への部隊増派に賛成の者は?」
「賛成である!」
「賛成する」
三島と石永が挙手し、鮎美と夏子は目を合わせる。そして同時に、ゆっくりと手をあげた。
「「賛成」」
「全会一致。私は司令室へ行かせてもらいます。他に経済関係の議論があるそうだが、先に指揮をしておきたい。経済のことは、進めておいてください」
畑母神は百色と大会議室を出て行った。
「あの、おっさん、苦手な経済から逃げたわね」
夏子がぼやき、時間が惜しいので話を進める。
「IMFとのやり取りは私が進めています。アメリカ経済も大きなダメージがあるし、南米は、もともと経済が安定してないし、ニュージーランドは当然、オーストラリアも津波の被害は少なくても、海運が停止しているから、じわじわと経済に響きます。東南アジアも当然。これだけの事態に対してヨーロッパも協力的なので、月曜から通貨の固定はできそうです。ただ、霞ヶ関の再建について、石川県知事とやり取りしていますが、くだらない利権争いが始まって困っています」
「愚か者がっ」
三島が言い放ち、鮎美が問う。
「どんな争いですか?」
「霞ヶ関を再建するにはハコが要るよね。ビルが要る。買い上げか、借りるか、所有者と交渉しないといけない。空きテナントは、どんどん借りてるから、そこそこには用意できそうだけど、どうしても値上げされちゃうし、ミニバブルが起きそうなの。金沢市の琵琶町市場の周辺なんて、家賃相場をあげたいから不動産業者がホームページに掲載してる価格を、全部、応相談に変えてるし」
石永が付け加える。
「まあ、琵琶町市場そのものが、琵琶商人が北陸へ出て行って造ったものだからな。売り手よし、買い手よし、世間によしの三方よし、と言いつつ、琵琶商人の通った後には草も生えない、とも言われてる。こういうときに儲けようと悪い根性が出てくるなぁ」
「解説はいいからさ。このままだと金沢駅周辺が新宿か銀座並みの地代になりそうなの。どうしよう? しかも、石川県知事は、これを機会に地元を潤そうって気配で値上げ抑制に消極的なのよ。ホント、男ってヤダヤダ」
「うちに、ええ考えがありますよ。っていうか、想定内ですわ」
「「どんな?」」
夏子と石永が問うた。
「琵琶商人の根性には堺の商人の悪知恵で対抗したらええんです。福井県か、富山県に副都心を置くと発表します。どちらかの街が、より安く、より使いやすいビルや土地を提供してくれたら、そこへ霞ヶ関の半分を置くと言い、金沢市は急に値上げして交渉が難航してるので、この国難に協力しない県民性が信用できない、と裏で言いつつ、表では東京一極集中の結果として一気に霞ヶ関が失われて困っているので今後は中央行政機能は二つの土地に分ける方針にした、と言えば済みます。福井と富山は値下げ合戦するし、きっと金沢も慌てて値下げしますわ。それでもダメなら、うちは日本全体のことを考えて北陸を首都にと言い出したけど、北陸の人が協力せんと利益ばっかり追うんやったら、うちもうちで、いっそ六角市や井伊市を首都にしても合理性が無いわけやないから、そんな考えもあるて吹聴しておけばええんです」
鮎美の発案を聴いて、夏子が目を丸くして両手をあげる。
「……大阪の女子高生って、みんな、こんななの?」
石永もうなり、三島も感心する。
「えぐいなぁ……堺の商人も。田舎の土地持ちの足元を見て叩き崩すとは……」
「芹沢殿の見識は小悪党の猿知恵など、ゆうに凌駕しておるなぁ」
用地確保については方針が決まり、石永が別の議題を出す。
「今の一極集中をさけるという議論にも通じるが、陛下と妹宮様について。今は那須の御用邸においでだが、幼い兄妹を分けるのは忍びないものの、お二人には離れた場所に暮らしていただきたいのだが、どうだろう?」
「そんな気の毒な……」
鮎美が言い、三島も頷く。
「妹宮様は7歳であろう。ご両親を………。この上、兄君と引き裂かれるのは………。だが、石永殿のおっしゃる懸念もわかる……万一、余震などで、お二人が………そのときは、日本の……」
「オレは地震のとき京都御所にいたんだ。津波は御所の前までしか、来なかった。まるで古代の占星術師が知っていたかのように。京都御所の建物も無事だ。陛下には京都御所に戻っていただき、妹宮様には那須にて生活していただきたい」
鮎美が問う。
「それ、南北朝みたいに権力が分散しません?」
「それは大丈夫だ。この際は兄弟でなく兄妹であることが幸いする。皇統は男子優先となっているからな」
夏子が言う。
「単純にさ。15歳のお兄ちゃんから7歳の妹を引き離すのは、どうよ? 石永先生と石永さんも兄妹でしょ。自分たちが中学生小学生のとき、そんなことされて、いいわけ?」
「「…………」」
「うちは反対!」
「私も反対よ」
「………オレは、気の毒だが、進めさせてほしい。おそらく畑母神先生も賛同してくれるだろう」
二対二となり、三島へ注目が集まる。
「………我は……」
即断即決が多い三島が悩む。
「……申し訳ない。この件は継続審議としていただきたい。なにより、御本人様方のお気持ちもあろう。おそれながら、そこも問わねばなるまい」
「そうだな、それは、たしかに。オレの先走り過ぎか」
「お兄ちゃ…いえ、石永官房長官の心配は当然です。どんな災害や事故が、いつ起こるかわからないのですから。同じ心配は芹沢鮎美総理大臣臨時代理にもあります。本人を前にして言いにくいですが、もし、後継者を指名しないまま、死んでしまったとき、とても困ります。このさい、自分が死んでしまった場合の総理大臣候補を指名しておいてください」
「……うちが……死んだらかぁ……」
「無礼であろう!」
「三島はん、別にええよ。うちは不死身ちゃうし。刺されて死にかけたことあるし」
「このさい、石永官房長官が最適ではないでしょうか?」
「静江はん………」
「静江……」
石永も妹の強引さに疲れてきたし、鮎美に悪いと思う。鮎美は少し考え、石永へ問う。
「石永先生は、もし、うちが死んだとき、今の閣僚の中やったら、誰がベストやと思いますか?」
「…………。畑母神先生だろう。都知事が緊急時に首相となったというのは、国民も海外も受け入れやすい」
「では、そう指名します。鷹姫、なにか紙を…あ、そっか、おらんにゃった」
鮎美は手元にあった資料の裏に書く。
「これって一種の遺言やね」
自分が死んだときは畑母神を総理大臣臨時復代理にすると書いてから気づく。
「あ、ハンコがない。拇印でええか」
「玉爾も見つけ出さないとなぁ」
だいたいの議論が終わったので石永も気を抜いて伸びをした。静江は畳みかけにくる。
「閣僚の人事を決めたいと思います」
「ちょっと休憩しよ。うち、何か飲んでくるわ。これ畑母神先生に届けるし」
「そんな資料の裏とか失礼じゃないか?」
「非常時やし、うちの自筆であることは、みなさんが目撃しはったやん。これが、ただの紙クズになるよう。死なんようにするわ」
鮎美は疲れたので肩を回しながら廊下に出た。長瀬と知念が交代したようで知念と里華がついてくる。また鷹姫と密談するつもりなので二人の意識を別のことにそらすため鮎美は余計なことを言うことにした。
「石原はん、気をつけいや。さっきまでの長瀬はんは結婚してはるけど、この知念はんは未婚やし。しかも、うちの主治医やった女医さんの見張りを一晩頼んだだけで、押し倒してものにしはったし」
「なっ?! ちょ! 何を言うんすかっ!」
「事実やろ?」
「……事実っすけど……言い方が……」
知念から里華が一歩離れてついてくるようになった。鮎美は鷹姫からメールをもらっていたので情報室へ里華に案内してもらう。
「石原はん、情報室って、どこ?」
「こちらです。どうぞ」
すぐに古いファイルやパソコンが置いてある部屋に案内してもらった。そこで調べ物をしていた鷹姫に問う前に、他に誰もいないか確認し、知念と里華、麻衣子に言う。
「三人とも悪いけど廊下で待ってて。大浦はん、石原はん、変なことされそうになったら悲鳴あげいよ。助けにいくわ」
「しないっすよ!」
「え? この人、ヤバいの?」
「ヤバくないっす!」
「ご忠告ありがとうございます。ですが、情報室内でも変なことは控えてください」
さらっと里華が言ったので、鮎美は力なく笑う。
「…はは…」
「ほーら、自分だって言われた。日頃の行い的に芹沢総理の方が危ないっすよ」
「はいはい」
三人に廊下で待機してもらい、鷹姫と話す。
「どう? うちが頼めそうな政治家、見つかった?」
「お一人だけ」
鷹姫がメモを見せる。
「……北海道……鈴木宗緒(すずきむねお)……女性の大物政治家やんな。小柄で可愛らしい感じの……いくつやったけ?」
「現在62歳です」
「この人、生き残ってはるん? 当選してそうな人やけど」
「2010年9月に最高裁で有罪判決を受け、現在は栃木県にある刑務所、喜連川社会復帰促進センター女子部に服役しています。刑期を3分の1以上過ぎていますので仮釈放は可能です。公民権は停止されていますが、芹沢総理が指名しておられる大臣臨時代理人は、あくまで代理人であって、本来の権限は総理臨時代理にあるまま、ということなら、通ります」
「気づいてたんや。うちが代理人にしてる理由」
「はい。いっしょに勉強した間柄ですから」
「フフ。栃木県か……那須御用邸も栃木やし。実は外務大臣としての親任式も、まだなんよな」
「非常時ですが、それゆえに形も重要かと思います」
「うん、久野先生もいはるし栃木に飛ぶわ。ついてきて」
「はい」
話が決まったので鮎美は鷹姫をつれ、司令室に行くと畑母神に親任を受けるためと説明し、ヘリの準備を頼んだ。それから胸ポケットに入れていた紙を差し出す。
「こんな紙で失礼ですけど、万一、うちが死んだら、あとを頼みます。もっと、きちんとした紙で帰ったら内閣の大臣代理人、委任状なども作りますわ」
「これは?」
受け取った畑母神が目を通し、自分を後継者に指名してくれていることを知った。嬉しそうな顔はしなかったけれど、頼られていると感じて微笑する。
「若い君が死んで定年退職した私が残ることがないようヘリの整備は万全にさせよう」
「お願いします。栃木までヘリで何分ですか?」
「片道2時間といったところだ」
「わかりました」
鮎美は久野へ電話をかける。
「もしもし、芹沢です」
「久野です」
「これから、そちらに向かいますので、外務大臣としての親任式と、内閣総理大臣臨時代理としての承認なり、何らかの形を陛下からいただくことはできるでしょうか?」
「わかりました。事態が事態ですから、ごく簡単な式典になりますが、用意します」
「お願いします」
簡潔に電話を終えた鮎美へ鷹姫が囁き問う。
「久野先生に入閣をお願いされないのですか?」
「会ってから話すつもりやねん」
司令室を出て大会議室に戻った。他のメンバーもそろっている。鮎美が問う。
「石永先生、マスコミの様子は?」
「地震発生から48時間を前に、基地の通用門前に集まっている。どこの局も本社が消滅しているから少数だが、北陸の地方局は元気だしな。どうする? 今日の記者会見、内閣の人事を発表するか?」
「その発表は夜に行うと発表してください。うちは、これから栃木へ飛んで陛下より親任を受けてきます。記者会見は石永先生がやってください。原発の問題は、避難が容易である人は念のために避難、避難が困難な人は自宅待機、すでに津波で原発から離れている人は不要不急であれば自宅へ戻らないよう。発表してください」
「それで住民が納得するかな?」
「納得させるのが官房長官の仕事です」
「言ったな。わかった、やろう」
「あと、加賀田知事…いえ、加賀田大臣」
「夏子でいいよ」
「それは仕事上の気分的に、どうやろ? うちも軽い気持ちになるし。まあ、ええわ、夏子はん、さっきの富山県と福井県に副都心を打診する件、夏子はんから福井県知事に電話してもらえますか? そんで富山県知事には静江はんが、後腐れのないよう同時に連絡してください」
「隣県の知事から言われると、福井県知事も頑張らないとねぇ。いい狙いしてるよ、鮎美ちゃん」
「私より、お兄ちゃんの方がよくないですか? ただの秘書官より官房長官」
「お兄さんの仕事を減らしてあげましょうよ」
「はい!」
「ほな、その連絡が終わった一時間後に副都心計画は発表。原発の話のあとに。その方が北陸のテレビ局は、そっちに食いついてくるでしょうし」
「なるほど、たしかに」
「鮎美ちゃん、豪腕ねぇ」
「みなさんの協力があってのことです。これからも、よろしくお願いします」
鮎美は頭をさげた。静江が声をあげる。
「あ!」
「なんやの? 静江はん」
「議事録をとってないわ!」
「あ、たしかに…」
「そうだな。議事録か、そういうことを忘れていたなぁ」
大会議室へ司令室から移って、話し合おうと暫定内閣で進めた経過を誰も記録していなかった。静江が鷹姫に言う。
「宮本さん、記憶力がいいから、それなりに問題無さそうな議事録を作成してみてよ」
「はい」
「あ、鷹姫は、これから栃木に連れて行くし。途中、抜けてた部分あるし、静江はん頑張ってよ」
「うっ……はい…」
「あと、鷹姫を首席秘書官とします。それで、よろしく」
「「……」」
静江と鷹姫に微妙な間ができる。陽湖と鐘留は秘書補佐なので明らかに鷹姫の下だったけれど、これまで静江と詩織は同列の秘書だった。むしろ、年齢と経験がある分、静江が中心だった。それを自覚している鷹姫が言う。
「経験的に石永さんが首席だと思いますが」
「首相の首席秘書官は法定のものやなくて、たんなる習慣やし。単にお気に入りという意味合いが強いのよ。これからも協力し合って、頑張って」
「はい」
「…はい」
鷹姫と静江が返事をし、鮎美は三島に声をかける。
「三島はん、二つほど話があるんで、いっしょにヘリポートまで来てもらえますか」
「承知した」
三島と田守が立ち、鷹姫と四人で会議室を出ると、知念と里華もついてくる。麻衣子がいないことに鮎美が気づいた。
「あれ、大浦はんは?」
知念が答える。
「栃木まで行くなら装備するものがあるって上に言われたみたいっすよ」
「ふーん……まあ、ええわ。えっと、三島はん、二人っきりで話がしたいんやけど、女子トイレって入れる?」
「……。法律上は入れるが心情的に入りたくはない」
「ですよね、すんません。ほな、えっと……石原はん、どっか、手頃な部屋ない?」
「貴賓室をお使いになれば?」
「あ、そっか」
鮎美は貴賓室で三島と二人になった。鷹姫と田守さえ、外で待たせる。
「一つめは、たいした話やのうて、刑務所に入ってる鈴木先生に仕事を頼みたいし、仮釈放は法務省の管轄やから、もしかしたら、三島はんに手続きが回るかもしれんってことよ。うちが直接、刑務所に行くつもりやから、たぶん臨時総理代理の名でいけると思うけど」
「刑務所? 鈴木宗緒氏か。わかった。なにがしか手続きがあれば、即対応しよう」
「もう一つは、なぜ、三島はんが法務大臣か、という話です」
「うむ」
三島も、その説明は待っていたので傾聴する。
「この三日間で数千万という人が亡くなり、その5%が同性愛者やとすると、1000万人でも50万人、6000万人なら300万人もが同性愛者という計算になりますやん?」
「うむ、そういう計算も成り立つ」
「同性愛カップルで、いっしょに暮らしてはったら、二人とも亡くなるか、二人とも助かるかしてはるかもしれん。けど、片方が健在で、もう片方が行方不明というケースも…ハァ…ある」
自分があてはまるケースを口にすると、鮎美は胸がつまるような息苦しさを覚えて呼吸を乱した。三島が気遣って男らしい動作で鮎美の肩を撫でる。武術鍛錬などで荒れた手だったけれど、女性の手なので鮎美は慰められた。
「ハァ…大丈夫です。おおきに。それで、そういうケースで、相手の安否を知ろうにも、個人情報の壁が立ちはだかる。家族やない、法律上の結婚相手やない、ということで病院も役所も、安否確認に協力してくれへん」
「うむ、そうなる」
「三島はんは、性同一性障碍と同性愛者って稀なケースやから、普通の結婚をしてはるけど、同性愛者の気持ちもわかってくれはりますやろ?」
「むろん」
「ほな、うちは、うちに内閣総理大臣としての権限がある間に、同性婚を法律上、成立させてしまいたいのよ。それに協力して」
「この国難の時期に……か?」
「そうよ。この混乱に乗じるように見えるかもしれんけど、そうやないよ。もう差し迫ったことやん。行方不明で安否が知りたい。けど、法律の壁が邪魔する。これは非人道的な差し迫った危機やん」
「…たしかに」
「そして、この混乱期やなかったら、また異性愛者らは、議論が成熟してないとか、慎重な検討を要するとか、グタグタぬかして、いつまでも、いつまでも同性婚を認めおらんよ」
「うむ……」
「多数決では少数者は負けるねん。議会が無いから法律の成立は難しいけど、省令でも閣議決定でも、なにか形になるように作り上げたいんよ。協力して」
「………芹沢殿のお気持ち、よくわかった。全力で応えよう」
「おおきに。でも、まだ表立っては動かんといてな」
「慎重に進めよう。我もクーデターが露見した経験がある。その失敗に学ぼう。それにしても、これは同性愛者による異性愛者へのクーデターかもしれんな。かっかっか」
「フフ、多数が常に正義とは限らんのよ」
鮎美が横髪を左手で掻き上げ、耳にかけた。
「あと国友泰治(くにともたいじ)って、うちの同級生が小松基地にいてもらってるんやけど、ゲイなんよ」
「それで?」
「泰治はんには災害時に少数者への差別がおこらんようにするネット上の自警団的なものをつくるよう指示したんやけど、そこに法的根拠というか、法務省のお墨付きみたいなもんも、つけてあげてほしいの。取り組んでおいて」
「承知した。弱き者こそ、助けねばな」
二人の密談が終わり部屋を出る。待っていた鷹姫、田守、知念、里華に加え、麻衣子がフル装備で駆けてくる。
「ハァ…ハァ…間に合った」
大きな銃や多数の弾倉、手榴弾、背嚢など、かなり重そうな装備をつけていた。ガスマスクなどは鮎美の分として二つ装備している。
「重そうやな、それ」
「だって、芹沢総理、ハァ…何度も暗殺されかけてるし…ハァ…陸自で装備というと…ハァ…こうなるんですよ。警察さんは、いいですよね。拳銃だけで」
「防弾チョッキもあるっすよ。ま、そのゴッツい銃で撃たれたら通りそうっすけど」
「石原はんって何も武器もってないの?」
「はい」
里華は空自の制服だけで拳銃さえ装備していなかった。麻衣子が言う。
「空自さんは地上装備が、ほとんどないから」
「オレら、三つの組織に分かれてるっすから、いざ芹沢総理を守るとき、ちゃんと連携とれるっすかね? 二人とも要人警護の経験は?」
「「………」」
二人とも、たまたま女性だったし、近くにいたので上官が鮎美の担当にすると差し出した隊員で、空戦や陸戦の訓練はしてきていても、要人警護など習ったことが無かった。
「無いっすか」
知念が少し考えて言う。
「じゃあ、明らかに銃などの武器を持って襲いかかってくるヤツがいたときは大浦陸士がオフェンス、オレが中間、石原空尉は芹沢総理をかばって地面に伏せる。武器を持っているか、持っていないかわからない、そもそも敵意があるのか、ないのか不明な怪しいヤツが近づいてきたときはオレがオフェンス、大浦陸士が中間、石原空尉は芹沢総理をかばう。オレがオフェンスになってるとき二人に注意してほしいのは容疑者が一人じゃないかもしれないってことで前ばっかり見てないで、後ろから襲ってくる奴がいるかもって考えてほしいっす」
「「わかりました」」
「あと、三人のうちで誰が指揮者にするっすか? 階級的に陸士と空尉なら空尉が上でしょうけど、警部補と空尉って、どっちが上なんっすか?」
「……さあ?」
「今まで基地内だったっすから、つい決めてなかったっすけど、外に出るとなると、いざってことがあるかもしれないし」
「混成部隊の脆さがでそうね」
里華も悩む。
「やっぱり指揮者は要人警護の経験がある知念警部補にまかせましょ。私たちは指示に従う」
「了解っす。何度か軽く模擬戦をやってみましょう。ちょうど日本刀なんかもってる田守さんがいるし。不審者役お願いしていいっすか?」
「……わかった」
「あと、宮本さんと三島さんは、不審者が実はオトリで背後から襲う役で」
「よかろう」
「はい」
廊下で7人が分かれて立つ。鮎美を中心に知念、里華、麻衣子が移動しているときに前方から日本刀をもった田守が近づいてきたという設定で始まった。まず知念が前に出て、田守に職質をかける。
「あーっ、ちょっといいですか? 持ち物を見せていただきたいんですが」
「………」
田守はセリフが思いつかないので立ち止まるだけだった。
「では、ここでオレと田守さんが揉み合いになる、と。で、後方から宮本さんと三島さんが襲ってきてください」
知念と田守は格闘しなかったけれど、鷹姫が里華へ、三島が麻衣子へ近づくと格闘になる。鷹姫と里華は柔道、三島と麻衣子は近接格闘術だった。
「はいはい! ストップ! ホントに格闘しなくていいっすから!」
「ハァ…いざ、やってみると、本当に発砲していいのか、迷ってるうちに襲われますね」
銃をもっていたのに発砲するという判断ができなかった麻衣子が言った。知念が頷く。
「そうなんすよ。あと石原空尉は戦うより芹沢総理を抱いて地面に伏せるのを優先してくださいっす。次、正面から明らかに武器をもって襲ってくる三人を大浦陸士が発砲して応戦、オレは中間で盾になり、石原空尉は芹沢総理をかばうパターンをやって、終わりにしましょう」
再び7人が廊下で配置につく。鷹姫、三島、田守の3人が正面から迫り、麻衣子が銃を構える。
「撃ちます。発砲!」
「二人は伏せる!」
言いながら知念は常に持っているカバンを広げて盾にした。里華は鮎美を見る。
「……」
「……」
若干の間があってから里華が鮎美に近づく。
「失礼します」
「はい」
里華が片腕で鮎美を抱き、床へ伏せさせた。里華は自分の身体が襲撃者の方向になるようにして庇う。押し倒されるような形になった鮎美は里華の顔を見上げた。短髪なので耳が出ていて、耳朶の形が蠱惑的だった。使っている香水の匂いがよくて、銘柄を知りたくなる。
「……」
「変な目で見ないで」
「すみません」
鮎美は目をそらして謝った。知念が終了を告げる。
「終了っす。お疲れ様です。ご協力ありがとうございました」
「「「「「「ありがとうございました」」」」」」
演習が終わり、鮎美は知念に言う。
「そのカバンって、そんな風に広げると盾になるんや」
「秘密っすよ。拳銃の弾くらいなら防いでくれるっす。けど、やっぱり大浦陸士がもってる小銃で撃たれたら通るでしょうね」
「ふーん……。ほな、三島はん、さっきの件、よろしく」
あまり武器に興味がない鮎美は、密談した三島に重ねて頼んだ。
「あい、わかった。栃木への往復、無事を祈る」
「おおきに」
鮎美は鷹姫と知念、里華、麻衣子をつれてヘリポートに移動した。陸自のヘリUH-1Jが待機していて、回転翼を回しているので、とても騒音が激しく、風が強い。近づくとスカートが舞わないように鮎美と鷹姫は手で押さえたけれど、鮎美が知念に言う。
「知念はん、海の方を見てて」
「はいっす?」
意味がわからなかったけれど知念は日本海の方を見る。小松基地の滑走路からは遮蔽物があって海は見えない。北陸自動車道が邪魔だった。次に鮎美は鷹姫に頼む。
「鷹姫、バンザイして」
「はい」
素直に鷹姫が両手をあげると、鷹姫のスカートが盛大に舞って、オシャレさのない白いショーツが丸見えになった。
「おおきに。疲れが取れたわ」
「はい?」
「「…………」」
里華と麻衣子が日本海より冷たい目で総理代理を見る。
「もういいっすか?」
「うん、ええよ」
「何だったっすか?」
「気にせんとき。SPは警護対象のプライベートを気にしないってことで」
「はいっす」
五人がUH-1Jに乗った。すぐに離陸し、大きな山脈を避けて飛ぶ2時間あまりの空の旅は騒音と振動、シートの堅さで、とても疲れた。けれど、石川、富山、新潟、長野、群馬、栃木と被害の少なかった県の街並みを見ながら飛べたので、まだまだ日本は持ち直せるという気持ちになれた。着陸してから短距離の車両での移動があり、鮎美たちは那須御用邸に到着した。敷地全体を陸自が護衛していて、里華と麻衣子は敷地の前で待機することになり、知念も御用邸の玄関で皇宮警察に止められた。鮎美と鷹姫だけが応接間へ通される。
「お会いするのは、三度目やなぁ……初めてやった新年祝賀の儀が、えらい昔のことに思えるわ。たった二ヶ月半前のことやのに」
「…………私まで、お会いして、よいのでしょうか…ハァ…」
三度目の鮎美は緊張していないけれど、初めてとなる鷹姫は強く緊張している。
「ええんよ。むしろ、お見舞いの返礼のとき、鷹姫の顔も見てみたかったって言わはったもん」
「っ…なんと、畏れ多い……………」
静かな応接間で数分ほど待っていると久野が入ってきた。
「やあ、芹沢先生。いや、芹沢総理」
「そう呼ばれて恥じないよう頑張ります」
ともかくも、お互い生きていたという気持ちで二人が固く握手し、久野は鷹姫とも握手した。
「宮本さんも大変だね。どうか頑張って」
「私のような愚か者が、どこまで芹沢総理のお役に立てるかわかりませんが全力を尽くします」
「うん、うん」
久野が頷き、鮎美が問う。
「久野先生、陛下は?」
「あと10分ほど、準備にかかるそうだよ」
「そうですか、では、折り入って久野先生にお願いしたいことがあります」
「この年寄りに何をさせようというのかな?」
「阪神淡路大震災を経験され、復興に尽くされた知見を、今一度、国土交通大臣臨時代理人として、どうか私に力を貸してください」
「やはり、そういう話になりますか………上手に断らせないように言ってくるね」
「お願いします!」
鮎美が頭をさげたので鷹姫も慌ててさげる。
「お願いします!」
「うん、わかったよ。ボクも頑張ろう」
「「ありがとうございます!!」」
久野が承諾してくれたので、鈴木のことを相談する。
「あと一人、声をかけようと思っているのです」
「誰にかな?」
「ポストは決まっていませんが、鈴木先生に」
「鈴木……宗緒さん?」
「はい」
「彼女は収監中ではなかったかな?」
「これから仮釈放を所長にお願いするつもりです」
「……だが、公民権は?」
「私が委任する大臣臨時代理人は、内閣法の原則でいう国務大臣の代理には他の国務大臣が就くケースや、事務代理とは違い。ほぼ民法でいう代理人です。ですから私に公民権がある限り問題ないと解釈します」
「ずいぶんと強引だね……たしかに、内閣法は国会議員が、たった一人になるような事態は想定していなかった。しかも、この状況だ。きちんとした国政選挙が行えるのは、いつのことか……それゆえ、民法の法律行為をもってくることも不法とまではいえないか……だが、そうしてまで鈴木さんを組み込みたい理由は? 彼女と接点でも?」
「接点はありません。ただ、石永先生がやや強引で、このままでは実質、石永内閣となります。若さばかりでは、どこかで間違いを起こします。年長者による抑制がほしいのです。どちらかといえば畑母神先生も右寄りですし。久野先生、鈴木先生なら、そのご経験から私たちの間違いを指摘してくださるかと思っています」
「なるほど………石永先生は、あなたの後に正式な総理になるのは自分だ、という気持ちなのだろうね。さっきテレビで彼が官房長官として話しているのを見たよ。たしかに、そういう顔だった」
「別に悪いことではないと思いますし、自然かもしれませんが、石永先生の人脈だけで内閣が固まるのは、よくないかと考えた次第です」
「そうだね。仮釈放や、鈴木さん自身の意志がどうなるかはわからないが、それも必要かもしれないね」
落着点が見えた頃、宮内庁の職員である北房嘉子(きたふさよしこ)が天皇陛下の入来を告げた。三人とも姿勢をただして起立する。正装した義仁が静かに歩いてきた。成長期の15歳という時期のせいか、以前に見たときより大きく感じる。応接間の中央で義仁が立ち止まり、鮎美は事前に北房に言われていたので義仁の前へと頭をさげたまま進む。義仁は北房が持っている広蓋(ひろぶた)から証書を取り上げ、朗々とした声で読む。
「朕は芹沢鮎美を鳩山直人の任命により外務大臣と認証する。平成弐拾参年参月壱拾壱日」
「はい、慎んで受けさせていただきます」
義仁が渡してくれる証書を鮎美は恭しく受け取りながらも、ふと高校の卒業式は、どうなったのだろうと、場違いなことを思い出した。
「……」
「……」
義仁と鮎美の間に、やや沈黙があり、鮎美は一度さがる予定だったことを思い出して鷹姫と久野が立っている位置までさがると、証書を鷹姫に持ってもらう。
「「……」」
鷹姫が緊張で震える手で証書を受け取った。鮎美は再び義仁の前へ頭をさげたまま進み、義仁は別の証書を北房から受け取り、読み上げる。
「朕は芹沢鮎美を非常の時なれば、内閣総理大臣臨時代理と任命する。平成弐拾参年参月壱拾壱日」
「はい、慎んで受けさせていただきます」
受け取りながら鮎美は、日付が遡っていることはよいとしても、今後の元号は、どうなるのだろうと、また今上天皇を前にして緊張感に欠けることを考えていた。式が終わり義仁は退室していく。義仁が完全に退室するまで鮎美たちは礼をしていた。
「これにて式を終わります」
北房が告げ、さらに義仁が着替えた後、鮎美と話したいとのことで、今しばらく応接間で待った。軽装に着替えた義仁が由伊と島津の三人で入ってきた。
「芹沢さんがお元気そうで安心したよ」
「陛下こそ、お元気そうでよかったです」
さきほどの式と違い、穏やかな雰囲気で会話が始まった。六人がコーヒーテーブルを囲んで椅子に座り、北房が紅茶を給仕してくれる。また義仁が鮎美へ言う。
「まさか、こんな風に再会するとは思わなかったね」
「はい、本当に」
以前とは、お互いの責任が飛躍的に増していて、まだ10代にすぎない二人は短い言葉でも共感し合った。鮎美が首相で義仁が天皇、そんなことは発生するとしても50年は先のことだと思われた世界とは、もう今は別世界になっている。初対面となる島津が自己紹介してくる。
「島津久厚と申します。学習院を仕置きしておりましたが、今となっては陛下のお話相手をしておるだけの爺ですな」
順番的に、この場で自己紹介が必要なのは残すところ鷹姫のみだったけれど、ずっと緊張していた鷹姫は声が出なかった。
「…っ…っ…」
発声しようとしても息を吐いて唇が動くだけで声帯がうまく声を出してくれない。しかも息を吐くだけで吸うのを忘れていて、そのうちに気が遠くなって倒れる。
「ちょっ?! 鷹姫!」
鷹姫の顔面がコーヒーテーブルに直撃するのを隣にいた鮎美はギリギリで抱き止めた。
「鷹姫、大丈夫? 緊張しすぎやって」
「ハァっ…ハァっ…」
鷹姫は化粧をしているので血色がわかりにくい。義仁が言ってくる。
「そう緊張なさらなくていいですよ」
「ゆっくり息をしてください」
由伊も言う。立場上、自分たちを前にして卒倒する人間がいることに慣れている様子だった。
「すみません。鷹姫は上下関係を極端に重くみますんで」
上下を気にする人間にとって天皇は地上で最高峰となるので、同じ高さの椅子に座っているだけでも畏れ多かった。鮎美は卒倒しかけた鷹姫の背中を、怯えている猫を撫でて落ち着かせるように何度も撫で、かわって紹介しておく。
「うちの秘書をしてくれてる宮本鷹姫です。同じ歳で同じクラスやった縁です」
「良い縁のようですな」
島津が言い、鮎美が問う。
「よく鷹姫が戦国時代の話をしてくれるのですが、島津さんの名字も九州の大名におられますが、関係ありますか?」
「ははは、さて、どうですかな」
笑って島津がトボけたので由伊が言う。
「お人が悪いですよ。島津先生」
「そうだよ。島津は、その島津ですよ。芹沢さん」
義仁が肯定したので鮎美と鷹姫は感動した目で島津を見る。
「「……………」」
よく話に聞く戦国大名の末裔を目にして対話でき、とても嬉しかった。
「…すごい……ホンマにいてはるんや……」
「かの島津氏の……」
とくに鷹姫が感動している。島津氏は初代は平安時代に遡るし、戦国期には九州を平定する勢いだった。さらには朝鮮出兵でも活躍、関ヶ原の合戦では徳川四天王の井伊氏とも戦っている。そして幕末には薩英戦争で英国を相手に一歩も引いていない。まさに名家中の名家だった。そういう視線に慣れている島津は受け流して言う。
「なんの、そこにおわす陛下の方が血統の確かさは、はるかに上。ワシの家など、田舎者の証明のようなもんですぞ」
「命をつないできたということについて、私も芹沢さんも同じだよ。一匹の甲虫だって、そうだ」
義仁の言葉に全員が頷いた。義仁は妹を見て言う。
「由伊から、芹沢さんにお願いがあるそうなんだ」
「はい。どのようなことでしょうか?」
鮎美にこころよく問われ、由伊が少し遠慮しながら求める。その様子は7歳とは思えない優美さがある。
「お兄様の御世でお使いになられます元号、それに復という字を一文字目につかってくれませんか。復興、復活、回復の復です」
「復興……復活……はい、必ずそうします。あ……そう決める会議などの機関も未定なのですが、必ず、それは使います」
「由伊のわがままをきてくれて、ありがとう。復なら、頭文字はFだから、明治大正昭和平成、MTSHにかぶらない。私からもお願いするよ」
「はい。必ず。……それにしても、陛下がアルファベットまで気づかわれるのは意外というか……和風の象徴みたいな方がアルファベットを口にされるのは驚きです」
「フフ、漢字も仲国からの外来語だったんだ。ひらがな、カタカナ、私たち日本人は何でもよいところを学び、使ってきたからね。そのうちアラビア語だって使うかもしれない。げんに数字はアラビア数字も使い、ローマ数字も使う」
「たしかに………。復興……復活……いっそ、復興か、復活、どちらか、そのまま元号では、どうでしょうか? 実は諮問する会議などもないので陛下のご意向、ご許可がいただければ、即断即決に決まります」
鮎美の提案に久野が助言してくる。
「芹沢総理、元号には熟語として意味が通り、ごく普通に使われているものは、さけるのですよ。平成も平成以外の意味は、ほぼ無いでしょう」
「あ……そうですね……これは失言でした。つい急ぎすぎて……すみません」
鮎美が謝り、鷹姫がつぶやいた。
「和……、復和……では、いかがかと…?」
由伊が手を合わせて喜ぶ。
「昭和の和ですね。重ねて、再び、あの時代のように復興する意味もこもります。とても、いいと私も思いますわ。お兄様。いえ、陛下」
「そうだね。復和(ふくわ)という音の響きも、ふわりとしてよいね。いっそ、腹話術のように、国民みんなに笑いがくる時代になってくれるといい。どうだろう、島津?」
「お若い四人が良いとお考えになることへ、年寄りが水を差しては、つまらぬことです」
島津が頷き、決まった。鮎美も異存ない。
「今夜にも発表します」
「忙しいね。芹沢さん、お身体に気をつけて」
義仁が鮎美を心配し、由伊は鷹姫へ言葉をかける。
「宮本さんも元気でいてください」
「は、はい、あ、ありがとうございます!」
鮎美と鷹姫は礼をして御用邸を出る。玄関前で待っていた知念と車両に乗り、敷地前で待機していた里華と麻衣子も乗せると、元号が決まったことを教えた。
「国民の感想を予想したいし、気さくに感想を言うて」
「復和っすか。いいと思いますけど、こんなに簡単に決まっちゃうものなんすね」
「平時やったら、学者やら専門家やら集めて、何十回も会議して、その予算だけでも報酬と会場費ふくめて、すごい額になるやろね」
「経費節約っすね」
「………」
鮎美が黙って義仁と由伊の顔を思い出している。鷹姫が問う。
「どうかされましたか?」
「あのお二人を前にして、とても言えんかったよ。二人別々に暮らしてください、って」
「それは……」
鷹姫も同感だった。理屈とリスク回避という意味では、二人を分けた方が安全であるとわかっていても、そんなことを二人へ言い出すことは、とてもできない。鮎美は思考を切り替える。
「あと、あの島津の殿様にも相談役というか、閣僚になってほしいわ。静江はんが出した案では九州地方がゼロなんよな。宮内庁関係のことか、それか特命大臣で九州沖縄復興関連で……久野先生に合わせてお願いしてみよ」
鮎美は車両を鈴木がいる刑務所へ向かわせながら、再び久野と話すために電話をかけた。皇統の保安のため義仁と由伊を京都と那須に分ける案があること、島津に内閣へ加わってもらうことを検討してみてほしいと伝えた。
「わかりました。お話ししてみます」
「お願いします」
長く話したので、もう刑務所に着いている。鷹姫が事前に連絡しておいてくれたので、すぐに所長と会った。鮎美が総理代理として話すと、所長は悩む。
「仮釈放ですか。………犯罪傾向のある人ではないですから……ただ、総理代理からの口添えが……越権行為といえば……越権か…」
「おっしゃる通り仲国漁船衝突事件で鳩山総理が検察に手を回したという話もあり、自制すべきとも思いますが、過去にも緊急事態において超法規的な処分がなかったわけでもないですやん。テロリストの要求に従って刑務所にいる仲間を解放するのに比べたら、事案として軽微やと思います」
「まあ……刑期の3分の1も過ぎていますし……」
迷いつつも所長が折れた。この国難にさいしてベテランの元国会議員を内閣に入れたいと、たった18歳の少女が言ってくるのを無碍にはできなかった。
「わかりました。とりあえず本人と面談してください。それで受諾するようなら、就職先も決まるわけですし、仮釈放します」
「ありがとうございます」
「では案内します。……ですが、その武装された人は……ちょっと…」
所長が麻衣子のフル装備を見て渋る。非常事態とはいえ、完全武装の女性兵士が刑務所内に入るのは、受刑者に与える影響もあってためらわれた。
「私は、ここで待機してます。刑務所内で襲われることはないでしょうし」
「ほな、待ってて」
「忘れて帰らないでくださいよ」
「私も残ります」
空自の制服を着ている里華も残ることにした。スーツ姿の知念が拳銃を所員に預け、鮎美と鷹姫の三人で鈴木に会う。面会室に連れてこられた鈴木は手錠をされているかと鮎美は予想していたけれど、ごく自由にしているようで夕食直後なのか、野菜を煮込んだ匂いが鈴木の身体から漂っている。おかげで鮎美たちは空腹を覚えた。
「こんにちわ。鈴木先生。もう、こんばんわの時間かな」
鮎美は気さくに挨拶してみた。経歴だけで入閣を頼むので、この初対面の会話だけで人物を確かめないといけない。そういう緊張感を隠して鮎美は笑顔をつくっている。
「こんばんわ。刑務所は朝も夜も早いからね。お会いできて光栄ですよ、芹沢総理代理」
鈴木が政治家の条件反射のように握手を求めてくるので鮎美も条件反射で握った。それで、いい印象を受けたので、もう単刀直入に言う。
「実は鈴木先生にお願いがあってきました。外の状況は、ご存じですか?」
「とんでもない地震と、あなたが総理大臣という、とんでもない事態、新聞さえ発行が止まっているけれど、知っていますよ」
「では、かりに組閣しているところなのですが、私の先輩議員というか、指導役になってくださっていた元衆議院議員がおられるのですが…」
「石永隆也くん?」
「っ………よう知ってはりますね……。はい、その石永先生です」
「ここにいても政界のことは頭にありますよ。はっきりと」
「すごいですね………ほな、いっそ、見てもらう方が早いかな。鷹姫、静江はんの組閣案だして」
「はい」
鷹姫は静江が一晩で作った組閣案を鈴木に見せる。一目見て鈴木が笑う。
「ほっほっほっ、まあ、こうなりますわな」
石永の人脈で固められていることに、すぐに気づいている。鮎美が言う。
「悪いことはないと思うんですけど、やっぱり関西に偏るし、北海道、東北の先生がおられませんし」
「何より、このままだと芹沢内閣というより石永内閣、自分は言いなりのお人形になる、だから自分の派閥をつくりたい、けれど人脈がない、いっそ収監中の鈴木なら、恩に感じて味方になってくれるかも、と?」
「……………。はい、その通りです」
「ほっほっ、すがすがしいほど正直に認めるのね」
「取り繕えないほど、言い当てはりましたやん」
「私に公民権が無いことは、どうする気ですか?」
「大臣臨時代理人として働いてもらいます。代理人です。民法的な」
「危うい手法ね………それしか、ないけれど」
「お願いできますか。農林水産大臣の臨時代理人として」
「外務大臣をさせてください」
「外務大臣ですか………」
「自分が兼務しようと思っていた?」
「……はい……何でもお見通しですね……」
「もともと、あなたは外務大臣として任命されていますよね。本来の役職に未練があるのは当然です。自分が外務大臣だったのは、たった一日、もしかしたら、一日もないのかもしれない、と。一部の報道では、あなたを無欲のように言うけれど、欲のない人間が、ここまで登ってきたりはしない」
「…………」
「でも、どうせ、総理と外務の兼務なんて忙しすぎて無理ですよ。第一、石永くんも予定通りの人をあてるでしょう。私にさせてください」
また鈴木が握手を求めてくる。この握手をすると話は成立という意味合いだった。
「さすがですね、ホンマに」
負けを認めて鮎美は握手した。
「さっそく私は出られますか?」
「はい、せわしなくて申し訳ないですけど、このまま小松へ飛ぶヘリに同乗してくれはりますと助かります。久野先生も乗ってくれはりますし」
「わかりました。着替えてきます」
鈴木は刑務官に連れていかれ、鮎美たちは所長室に移動して待つ。すぐに鈴木は赤いスーツスカート姿で現れた。入所するとき化粧品も預けていたようで、しっかりとメイクもしている。鮎美は同性愛者として軽く見惚れた。いつか自分も60歳を超えるなら、こういう風に歳を取りたいと思うような女ぶりで好感を強く持った。
「行きましょうか。芹沢総理」
「はい。口頭になりますが、鈴木宗緒先生、あなたを外務大臣臨時代理人としてお願いします」
「お受けします」
鮎美たちは刑務所を出ると車両で移動し、ヘリが駐機している道の駅へ向かう。その途中で鮎美は国道沿いのコンビニへ寄ってもらった。
「ちょっと、お腹空いたし、ついでに物流の様子も見てくるわ。鷹姫と知念はんだけ来て」
「えーっ…私は? 私もお腹空いた」
麻衣子が言った。
「ほな、交替で入ろ。いきなり総理代理と武装した隊員がコンビニに来たら、店員ビビらせてまうやん」
「それは、そうですね」
鮎美は鷹姫と知念をつれてコンビニに入った。
「いらっしゃいませー」
店員は鮎美の顔を見ずに商品を整理しながら挨拶だけした。鮎美は店内の品揃えを見て回る。新聞は無い。雑誌や書籍はある。生活雑貨もそろっている。けれど、清涼飲料は半分くらいしか並んでいない。パンも無い。弁当も無い。デザート類も無いし、冷凍食品さえ売り切れていた。鮎美はミルクティーのペットボトルだけ持ち、レジへ向かう。
「すいませーん」
「はい! すぐに!」
男性店員がダッシュでレジに来る。いちいち客の顔など確認していないようで鮎美のことには、まだ気づいていない。鮎美は訊いておきたいので問う。
「食料品などの入荷はありそうですか?」
「いや、わかんないっす。うおっ?! アユちゃん総理?!」
店員が鮎美に気づいて驚く。
「驚かせて、すみません」
「おおっ、本物だ。すげぇ! 生アユちゃんだ!」
「塩焼きにはなってませんから」
「ちょっ、写真撮っていいっすか?!」
「……。はい、どうぞ」
迷ったけれど愛想良く応じた。男性店員は鮎美を一枚撮ると、次にツーショットを求めてくる。もう慣れたことなので鷹姫が笑顔をつくって申し出て、店員のスマートフォンを受け取り撮影した。
「ありがとうございますっす! あ、もしかして鷹姫ちゃんっすか?」
「…はい」
「髪切ったんすね!」
「…はい」
「オレ、めちゃファンなんっすよ! 鐘留ちゃんと陽湖ちゃんは?!」
「……」
鷹姫が困っているので鮎美が話す。
「二人には別々に仕事をしてもらっています。もしよかったら、このあたりの食料品、供給の状況、軽く教えてもらえませんか?」
「あーっ…一応、これナイショなんすけど、うらに地元のもんだけに売るオニギリとかは、ありますよ。手作りっすけど。もし、お腹空いてるなら、特別に売るっすよ」
「いえ、そういうのは地元の人で大事に食べてください。他の食品は入ってこない感じですか?」
「工場が流れたり、センターが止まってるみたいっすからね。いつも売ってるのは、だいたい来ないっすね」
「食べるものに困ってる感じですか? スーパーも、こんな感じ?」
「田舎なんで家に帰れば米あるっすよ。スーパーは、まだ商品あるんじゃないっすかね。コンビニはバックヤード狭いし、飲み物くらいしか在庫ないんで」
「そうですか。ありがとうございます。お仕事、頑張ってください」
「アユちゃん総理も頑張ってっす! 応援してるっすよ!」
「「ありがとうございます」」
礼を言って鮎美は車両に戻った。そして千円札を麻衣子に渡す。
「ぜんぜん食べ物は無いわ。飲み物だけ買ってきて。鈴木先生の分も。まとめ買いするの気がひけて。うちと鷹姫の分しか買ってないのよ」
「食べ物ないなら私はいいです。水筒あるし、やっぱり完全武装でコンビニはやめときます」
「ほな、石原はん、お願い」
「はい」
「私も店内の様子を見てきます」
鈴木もおりる。里華と鈴木が店内に入ると男性店員は、すぐに気づいた。
「おおっ?! ムネオ! 疑惑の総合商社!」
「こんばんは」
「脱獄したのか?!」
「仮釈放ですよ」
「釈放かぁ。……。ちょっ写真撮っていいっすか?」
「はいはい、どうぞォ」
男性店員は一枚だけ撮り、60歳過ぎの女性政治家とのツーショットは望まなかった。鈴木も店内を観察した。
「やはり食料品は無いようですね。生活雑貨も今ある分が無くなれば、しばらく入ってこないでしょうね」
「ムネオ、日本やばくね? どうなるっすか?」
「大丈夫、なんとかしますよ。そのために仮釈放されましたから」
「頼むっすよ。正直、女子高生が総理とか、超やばいっすから!」
「ええ、お任せください。この鈴木宗緒、女の矜持にかけて日本を復興させます!」
「ホント頼むっす!」
鈴木はお茶だけ買って車両に戻り、鮎美におつりを返した。
「あ、石原はんは買ってこんかったん? ほな、うちと鷹姫で半分ずつするし。石原はんと大浦はんに、これあげるなぁ」
鮎美は2本あったペットボトルの一方を里華に渡した。
「いえ、自分は…」
「ええやん、もらっておいて」
「……はい…」
水筒をもっていない里華は何時間も水分を摂っていなかったので受け取った。そして少し迷って言う。
「今、店員が女子高生が総理では、超やばい、と言ってましたよ」
「そやろね」
笑顔でツーショット撮影を求めてきた人間が裏で別のことを言うことに、もう慣れている鮎美は気にせず鷹姫とペットボトルを分け合って飲む。知念はSPとして慣れているので何も飲まずにいる。里華は納得いかない顔で言う。
「鈴木先生にも疑惑の総合商社などと失礼なことを言っておきながら、頼っていました。どういう神経をしてるの……あんな国民のために……」
「君は若いね。その階級章は尉官?」
鈴木が問い、里華が答える。
「3等空尉です」
「防衛大を出て、何年?」
「もうすぐ二年です」
「そう。大変な時期だけど、腐らず頑張りなさい」
「別に私は……」
それほどの会話をしたわけではないけれど、里華は鈴木のもつ政治家としての雰囲気から懐深さを感じていた。走り出した車両が目的の道の駅に着くと、ヘリでの飛行時間が長くトイレが無いので全員が順番でトイレを使った。久野も駆けつけてくる。
「急ぎましょうか」
「はい」
鮎美たちはヘリに乗り込み、小松を目指した。もう19時で到着は21時なので今夜中に内閣を発表するために騒音激しいヘリの中で久野と会話する。
「島津先生は?」
「固辞されました」
「……そうですか…」
「九州出身が内閣にいないことは気にしなくてよい、そんな小さなことで薩摩隼人は文句を言わぬ、だが芹沢総理の気持ちは、みなに伝えよう、と」
「ありがとうございます」
「あと、陛下と妹宮様を引き離す件ですが、これも島津さんから伝言があります」
「はい、どんな?」
「陛下は神である前に人であられる、人の子の家族を引き離すは非道、非道は治世の邪道なり、と」
「……反論ありませんわ……まあ、うちも、もともと反対やったけど」
到着すれば発表までに石永との内閣人事調整があるので眠れるときに寝ておこうと目を閉じるけれど、騒音とシートの堅さのために眠れない。栃木から群馬へ飛んでいるときに麻衣子が東京の方を見て言った。
「東京のあたり真っ暗……誰も生きてないのかな…」
「……………っ…」
里華が涙を零した。我慢しようとするけれど、次から次に涙が溢れてきて止まらない。知念がハンカチを渡し、鈴木が問う。
「ご家族が東京に?」
「…ぐすっ…いえ……横浜に……」
横浜も絶望的だった。
「……横須賀の友達も……みんな…」
横浜出身で横須賀の防衛大学校に進んだ里華の人間関係は、ほぼ津波にさらわれていた。麻衣子が謝る。
「すいません……無神経なこと、言って」
麻衣子は石川県出身なので誰一人として知人に犠牲者はいなかった。鈴木が言う。
「泣きたいときに泣いておきなさい。その方がスッキリする」
「……泣くと……認めるような気がして…」
「っ……」
うちと同じこと考えるんや、と鮎美は驚き、ずっと東京の方は見ないようにしていたけれど、里華が泣きやめないでいるために、鮎美も泣きそうになってくる。
「……っ…くっ…」
「芹沢総理」
鷹姫がハンカチを渡してくれた。気がつくと涙を零していた。久野も鈴木も鮎美が東京にいた詩織と電撃結婚を発表したことは大ニュースになったので知っている。ヘリの機内に里華と鮎美が泣く気配だけが拡がった。
「…っ…っ…」
「…くっ……詩織はん…」
今すぐヘリのパイロットに命令して世田谷へ飛んでほしくなる。詩織のマンションか、それとも東京事務所か、そこに行けば奇跡的に生きているかもしれない。もしかしたら助けを待っているかもしれない、そんな風に考えると息がつまりそうだったけれど、そんな命令をしてはいけないことはわかっている。
「くっ…鷹姫!」
「はい!」
「何でもいいから関係ない話して! ぜんぜん関係ない話!」
「関係ない話を……ですか…」
いきなりな注文に鷹姫は気持ちを無理矢理に変えたい鮎美の思考を理解して、外を見てから言う。
「ちょうど群馬県です。かつては上野国、暗いのでよくわかりませんが、箕輪城の城主、長野業正という戦国武将がおりました」
「うん、それで? ぐすっ…」
「かの武田信玄をして、業正ひとりが上野にいる限り上野を攻め取ることはできぬ、と嘆かせたほど、戦にすぐれた武将でした。彼の死を知ると、信玄は大いに喜び、これで上野は手に入れたも同然、と述べて、すぐに軍を上野へ向けたとされます」
「信玄、えげつないな。弱ってるとこ、叩きに行くてか」
「業正も見越していたのでしょう。遺言として嫡男へ、私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討ち死にせよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない、と伝えています」
「降伏せんと玉砕せいてか……」
もう鮎美の涙は止まってきた。里華も、あまりに関係ない話をされているし、女子であっても軍人なので興味が湧いて涙が止まった。鷹姫は通りかかる各地にちなんだ戦国時代の話をしたし、長野や新潟、富山は無事な地域で街の明かりもあって悲愴な気持ちは抑えることができた。石川県に入ると前田利家の話の途中で小松基地に着陸した。
「おっしゃ、うちらの戦の幕開けやね」
「はい」
「大浦はんの装備は結局、役に立たなんだね。重そうやのに。ま、それに越したことはないんやけど」
「お腹が空きましたよ」
「うちの警護は長瀬はんに変わってもらうし、基地内やし大浦はんと石原はんは先に、ご飯を食べておいて」
「「はい」」
基地の建物に入ると、長瀬が待っていて知念と交代した。鮎美は鷹姫、久野、鈴木とともに大会議室へ入る。待っていた石永と静江が、久野と鈴木の顔を見て察しつつも驚く。
「おおっ……久野先生……それに、鈴木先生。ご無事で……」
「幸い栃木の御用邸にいましてね」
「幸い栃木の刑務所にいましてね」
「「………」」
石永と静江は目で鮎美に問うた。
「お二人には国土交通大臣と外務大臣の臨時代理人を願いします」
「た……たしかに経験豊富な両先生は頼もしいが、久野先生はともかく鈴木先生は公民権が……」
「その問題も大丈夫です。うちが指名している臨時代理人は内閣法での臨時代理や事務代理でなく、民法でいう代理人ですから」
もう何度も説明したことなので鮎美は立て板に水で語った。有無を言わさぬ気配もあり、また経験の豊富さにおいて久野も鈴木も確かなので30代が中心だった石永の選抜メンバーを押しのけて、副大臣の臨時代理人や、政務官の臨時代理人へ格下げすることで折り合いをつけていきながら、鈴木以外は夕食がまだだったので会議しながら食べた。
「ほな、これで決まりということで」
「ああ、そうだな」
石永も納得し、発表するメンバーが決まったので鮎美は広報室で撮影の準備に入り、臨時内閣の発表と元号の発表を録画してみた。一度目、少し噛んだので二度目で成功させ、見直してからネット配信する。また、マスコミは呼ばず質問も受けなかった。発表配信は23時となり、疲れきった鮎美は貴賓室に入ると、ベッドに倒れ込んだ。
「はぁぁ……」
「お風呂を用意します」
世話役である里華が貴賓室のバスルームへ入っていく。鷹姫にも休むように言ったので二人きりで、長瀬は外の部屋前だった。
「あかん、寝てまいそうや。お風呂、入らな」
鮎美は睡魔に襲われながら制服を脱ぎ捨て、下着もベッドの上で脱ぎ、裸のままバスルームへ向かう。
「用意ができました。っ…」
「おおきに」
「前くらい隠してください」
「あ~、ごめん」
疲れているので目を開けるのもつらい。精神的には義仁らと会ったことと組閣、肉体的には往復4時間の乗り心地の悪いフライトで疲れてヘトヘトだった。湯船につかると寝そうになる。なんとか髪と身体を洗って部屋に戻ると、またベッドに裸で倒れた。詩織と抱き合うようになってから、裸で寝るのが習慣になっている。自衛隊員として集団生活をしてきた里華が批判的に見てくる。
「そのまま寝る気ですか?」
「うん」
「………。もう退室してよろしいですか?」
「おおきに、また明日よろしゅう」
「失礼しますっ」
里華が電灯を消して退室してくれたので、やっと眠れると思い鮎美は目を閉じた。なのに基地司令の鶴田がノックしてきた。仕方なくバスローブを着て応対する。ドアを開けると、鶴田と見知らぬアメリカ軍人がいた。入浴中に大きめのヘリコブターが着陸する音がしたので、それに乗っていたのかもしれない、と感じた。
「ケン・ズコビク大佐であります!」
ズコビクは正しい日本語の発音で言ってくれた。疲れた脳で英語を使いたくなかったので助かる。鮎美は日本語で問う。
「芹沢鮎美です。ご用件は?」
「私と二人のみで話をしてください。大切なお知らせがあります」
「………」
鮎美はズコビクの顔を見る。白人男性ではなく黄色人系で深い皺が印象的な男だった。軍人らしく身体も鍛えている様子で押し倒されて勝てるとは思えない。とはいえ、ドアのそばに長瀬も鶴田もいてくれるので、応じる。
「わかりました。どうぞ」
「失礼します」
ズコビクが入室してドアを閉め、貴賓室で二人きりになった。
「ご用件は?」
鮎美はバスローブの胸元を閉めながら警戒気味に問うた。
「フセイン・オパマ2世アメリカ大統領より、極秘の連絡があります。極秘にて口頭でのみ伝えます」
「……」
なぜ、日本語が流暢な士官が選ばれたのか、わかった気がした。
「一つ、アメリカ合衆国はIMFを通じた通貨相場の固定に全面的に日本と協力する。二つ、在日米軍は日本より暫くの間、撤退する。以上です」
「なっ……」
「一つ目については今からオパマ大統領が発表されますので極秘ではありません。二つ目については極秘です。発表せず芹沢鮎美内閣総理大臣臨時代理だけに伝えます」
「…………………。あの地震でアメリカ軍の被害も相当でしたよね? 全体の何割を損失していますか?」
「答えられません!」
「ハワイと西海岸の被害状況は?」
「答えられません!」
「答えられることは何がありますか?」
「二つの伝達事項のみです!」
「はぁぁ……」
鮎美がタメ息をつき、よろめいて机に左手をついた。頭が痛いので右手を額にあてる。
「……このタイミングで……撤退てか……」
「………。どうか、元気でいてください」
優しげな声でズコビクが言ってくれたので頷く。
「おおきに」
「……オオキニとは何ですか?」
「あ、関西弁は、わからんにゃ」
「はい、訛りは苦手です」
「おおきに、とは、とても、という意味なんよ。本来は、大いにありがとう、という意味で、おおきにありがとう、と使っていたのを、いつしか省略して、おおきに、のみでサンキューの意味で使ってます。おもに関西で」
「勉強になりました。おおきに!」
「はは、そうそう」
「では、失礼します」
「……あ」
「はい?」
「ズコビクさんのご家族や友人は地震で無事でしたか?」
「……いえ、海軍にいた弟が、船と運命をともにしました」
「そうですか……それはお気の毒です」
鮎美は、まだズコビクと握手をしていなかったので右手を出した。
「ズコビクさん、お互い、頑張りましょう」
「はいっ、おおきに!」
ズコビクと握手をして別れる。バスローブ姿なので見送りはドアまでにした。鶴田が問うような視線を送ってきたけれど、今は言えない。ドアを閉めた。
「………はぁぁぁぁぁ……寝る前に、なんちゅー問題を!!!」
眠れそうになくてベッドを殴った。
「…………国家に真の友人なしや!!」
また殴る。
「あああもおお!! フセイン!! オパマ!! イエス・ユー・エスケープ!」
叫んだので長瀬がノックしてくる。
「大丈夫ですか?!」
「ハァ…うん! おおきに! 大丈夫よ! ちょっと苛ついただけ!」
「どうぞ、ゆっくり休んでください」
「うん、おおきに」
時計を見ると、もう24時で、鮎美の長い日曜日が終わった。
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