第58話 3月12日 鷹姫の告白、領空侵犯、鮎美の初動

 2011年3月12日土曜、日本時間午前1時、台湾時間午前0時、鮎美たちは着陸した台中空港のターミナルそばの一角でエアパスA321の中に閉じ込められたまま5時間を過ごしていた。多くの民間旅客機が緊急着陸したために、もともとは空軍の空港だった台中空港の民需向けスペースでは受け入れができず、かといって台湾国内に入国させるわけにもいかないので機内に閉じ込められているのは鮎美たちだけではなく、他の旅客機の乗客も同じだった。

「腹が減ったなぁ」

 機内の会議室で義隆(よしたか)が言った。

「そやね」

「すみません」

 鮎美が同意し陽湖が謝る。今は機内の会議室で鮎美、陽湖、義隆の三人で集まり情報交換していた。現在、機内は三つの派閥に分かれていて、陽湖を中心とした信仰をもつ集団と、鮎美を中心とした信仰をもたず素行のよかった集団、義隆を中心とした微妙に素行の悪い集団がある。とはいっても対立しているわけでもなく、とくに鮎美と義隆の集団は男女別という感じもあり、また由香里などは所属が明確でないし、ただ、なんとなく集団っぽくなり、とりあえずリーダー的な存在ということで三人が話し合って協力しており、屋城と介式も加わっている。学園と修学旅行の会計を預かっている立場の屋城が言う。

「空港側に食事の提供を依頼していますが、台湾国内も混乱気味で今少し時間がかかりそうです」

「我慢せなしゃーないね。これだけの事態やもん」

 着陸してから情報を得るためにインターネットを利用している。台湾の設備と適合する機種のスマートフォンをもっていた生徒たちへ、いずれ鮎美が政治資金から弁済するという約束で海外でのデータ通信を行ってもらい、三つの班に分けて、日本の被害状況、英語での世界の被害状況、仲国語サイトを含めた検索、という調査をしてもらっている。全員が従事しているわけではなく、すでに深夜なので眠い者には眠ってもらい、またA321の機内に入っていること、すでに24時間を超えているので起きている者は順番で中央通路を前後に歩くことで運動してもらっている。

「とんでもない地震やね……まだ津波は来るし……」

 集まった情報の結果、震源地域は太平洋プレートの周囲、アラスカ、日本、ソロモン、チリ、メキシコで、いずれの地域でも巨大な津波が発生し、沿岸国を襲っている。アメリカとカナダの西海岸、日本の太平洋岸、パプアニューギニアとオーストラリア太平洋岸、チリとペルーの太平洋岸、メキシコ西海岸に壊滅的ダメージがあり、さらに日本とソロモンの間となる台湾やフィリピン、インドネシアへも10メートル以上の津波が襲ってきており、とくに二つの震源地域からの津波が重なる位置にあるフィリピンなどは深刻で、同じように震源地域の中間となるロシア極東地域、パナマも大きな被害を受けていた。くわえて太平洋の中央にあるハワイや南太平洋の島々には時間差で360度周囲から津波が襲っている。総人口のすべてが死に絶え消滅したと思われる小国もあった。義隆が言う。

「日本が人口の半分弱、3000万人から6000万人の命が失われたってよ……世界全体では3億とも10億とも……ははは……桁が違いすぎて、意味わかんねぇよ」

「日本でいうたら第二次大戦の犠牲者の10倍………世界でも大戦で亡くなったんは5000万から8000万やったから10倍と言えるね……」

「あの大戦の10倍って……マジか……」

「「…………」」

 陽湖と屋城は祈っているし、鮎美と義隆も言葉がない。会議室へネットでの調査の技術面を統括している鐘留が入ってくる。

「ご飯の確保なんだけどさ。ぼったくりなのか、この状態なら仕方ないのか、一食10万円くらいなら届けるって業者あったよ。けど、先払いで。かなり怪しい」

「なめとんなぁ……足元みてんのか、仕方ないのか不明やし……先払いは、たぶん詐欺やと思うよ」

「だよねぇ。あと、日本の日本海側は、けっこう大丈夫みたい。というか、ほぼ被害がない県もあって秋田県、山形県、新潟県、群馬県、長野県、山梨県、岐阜県、富山県、石川県、福井県、鳥取県、島根県、山口県、福岡県、佐賀県は、ほぼゼロ被害っぽい。アタシたちの県も震度5強くらいだから大丈夫そう」

「せめて、それが救いやね」

「あ、あとね♪」

 かなり嬉しそうに鐘留が右手の指を5本、左手の指を2本立てた。

「シートで仮眠してた生徒のうち女子5人、男子2人がね。フフ」

 含み笑いしつつ語る。

「なんとオネショしてました。きゃははは♪」

「「「………」」」

 鮎美と陽湖、義隆が学園から関空までのバス移動で寝てオネショしてしまった鐘留が、この世の終わりのように泣いていたのを思い出した。他人の失敗を自分の立ち直りの材料にできるらしく鐘留は喜々としている。トラブルは起こされたくないので鮎美が言う。

「しゃーないよ。あんな風に大阪が消えるとこ見た後やもん。うちも見ててチビるかと思ったし、オシッコ貯まってたら漏らしたかもしれんわ」

 義隆も言う。

「しかも、腹が減ってるのを、ヨルダン川の水を飲んで誤魔化してるからなぁ……おい、ホントに食い物ないのかよ?」

「すみません。もうありません」

 また陽湖が頭をさげる。涙ぐんでいる。鮎美は一瞬気の毒になったけれど、陽湖から受けた仕打ちも覚えているのでフォローする気にはなれない。機内には泣いている生徒も多い。鮎美が求めた作業に従事してくれる生徒もいれば、鬱ぎ込んで泣いている生徒もいるし、鐘留にとっては好材料だったようだけれど街が沈む光景を見たショックで就寝中に衣服を濡らした生徒もいたようだった。わざわざ鐘留がカウントしてくれたので、その生徒のフォローを陽湖と相談し、相性の良さそうな生徒についてもらうことにした。義隆は鬱ぎ込むというよりは空腹と何もできないことに苛立っている。

「くそっ! ああ、なんかムカつくぜ!」

「義隆はん、イライラするのやめいよ。うちら、みんな空腹やし、すぐケンカになるよ。実際、飛行機をおろしてもらえんのも、先におりてた人らがケンカして暴動になりかけたから、おろさん方針になったみたいやし」

「そうだな……つい、イラっとするな……」

 義隆は鮎美に背中を撫でられて少し落ち着いた。同性愛者ではあるけれど、当選してからの一年で男性と関わることも増え、どういうタッチをすると男性が落ち着き、触れすぎると誤解してくるというのを学びつつあった。陽湖も言う。

「よろしければ、いっしょに祈りませんか? 気持ちが落ち着きます」

「ちっ…この女、一発殴るか、2、3発、ぶち込んでやりたいぜ」

 義隆が陽湖の身体を男らしい目で見ると、屋城が視線を遮るように立った。仕方がないので鮎美がフォローする。

「はいはい、あんたには仁美はんがおるんちゃうの?」

「さっき、あいつとはケンカした。しつこくネチネチ言うし」

「なにを?」

「宮本を叩くとき、ケツを触ったとか、そういう話だよ」

「……鷹姫の……」

「アユミン、その話とは別で宮ちゃんが、めちゃ落ち込んでるよ」

「なんで?」

「さっき仲国のヨーツーベみたいな動画サイトにあった投稿動画でさ。宮ちゃんがオシッコ漏らしてる姿が流れてた」

「なんで?! どんな?!」

「ほら、これ」

 鐘留がスマートフォンを見せてくれる。再生された動画は、臨検だと言って平宝が機内に入ってきたときのもので、平宝の背後にいた者の誰かが小型カメラをもっていたようで、まずは陽湖の姿を撮っていたけれど、途中で鷹姫が失禁してしまう姿に変わった。

「なんかバカにした風のコメントも、どんどん投稿されてるけど、漢字の意味は半分くらいしかわかんないし」

「………鷹姫……。………あんたのせいで……」

 今度は鮎美が陽湖を睨んだ。

「…ごめんなさい……おっしゃる通り、私のせいです……」

「うちも、あんたにアダムの槍でも、ぶち込んでやりたいわ」

「……どんな罰でも……受けます……同意します…」

「ええ覚悟や」

 鮎美の怒りに満ちた視線を屋城が遮る。

「マザー陽湖の行き過ぎた指導は認めます。私の責任です。私を罰してください」

「………あかん、ついイライラする。……はい、この話題は、おしまい。お腹へってるとホンマあかんわ。なるべく怒る話題は無しでいこ。呉越同舟は仲国のことわざやし」

 鮎美は感情を自制し意図して話題を変える。

「カネちゃん、台湾の被害は、どうなん?」

「やっぱり太平洋側に集中してるよ。10メートルクラスの津波が来たみたい。それが引いたと思ったら、今度はソロモンからの津波が時間差で来て、二度目でも、かなり犠牲が出てる。けど、台湾は日本とは逆で大陸側の方が人口多いし発展してて、太平洋側は山が多いから、犠牲者数は少ないかな」

「そっか……にしても、インターネットって、すごいなぁ。こんな台湾なんかにいて、日本の被害が、それなりにわかってしまうなんて。しかも、日本の状態ボコボコやのに」

「もともとインターネットっていうのは核攻撃にそなえて開発されたシステムだから」

「そうなん?」

「インターネット以前のコンピューターネットワークは、いわゆるマザーコンピューターがあって、その下に端末機がある感じだったから中枢が攻撃されて消えると、終わりだったの。でも、それじゃ核攻撃で一気に情報が遮断されちゃうから、そうならないように網の目みたいに張り巡らそう、一部の地域が消滅しても、ぐるっと他を回って、つなげよう、っていうのが今のインターネットだから」

「へぇ……核攻撃にそなえたシステムが、超大震災で役に立つやなんてねぇ……」

 感心しつつも鮎美は疲労を感じた。気が立っているけれど、眠くもある。

「これ以上は機内でゴチャゴチャしててもしゃーないし、何かあったときのため、もう遅い時間やし、とりあえず、みんな寝よか」

「そうだな」

 義隆が頷き、機内会議は終了となり、鮎美は最後尾のシートに戻った。鷹姫は俯いて座り、鮎美が近くまで来たのに気づかない。

「………」

「………」

 いっそ失禁動画のことは話題として触れない方がよいと思い、黙って鮎美は鷹姫の前を通り、隣に座った。窓際の知念は眠っている。鮎美の背後についてきていた介式も黙って通路の反対側のシートに座る。鮎美は長く眠るつもりなので、制服のリボンを解き、ブラウスのボタンを一つ外して胸元を楽にする。背中に手を回してブラジャーのホックも外した。シートで座って寝ているうちにスカート裾を乱してしまって知念を困惑させないように上着を腿にかける。

「うちは寝るわ。鷹姫も、しっかり寝ておき」

「…………私は……日本の恥です……」

「そういう風に考えんとき。悪いのは陽湖ちゃんよ。さ、眠るよ」

「……もう……消えてしまいたい……」

「鷹姫………。話を変えるけど」

 わざと話題をそらすため、鮎美は窓を指した。

「ときどき飛んでいったり、おりてきたりするの、あれ戦闘機なんかな?」

「………わかりません…」

「おそらくそうだ」

 介式が答えた。今も深夜なのに2機のジェット戦闘機が滑走路を飛び立っていく。

「地震のとき戦闘機なんか飛ばして、どないすんの? こんな暗いのに被害地域視察もできんやろ?」

「仲国と台湾は一つであって一つでない。領空侵犯があるのだろう」

「……こんなときに……アホちゃうか……」

「「………」」

「寝よ」

 鮎美は目を閉じて眠ることに集中した。おかげで外が明るくなる頃まで眠れた。座ったまま眠って腰が痛いので、中央の通路をしばらく歩く。同じように歩いている泰治が前にいた。

「泰治はん、おはようさん」

「ああ、おはよう。よく眠れた?」

「うん」

「いい度胸してるよ」

「あ…」

「ん?」

「なんでもないよ」

 鮎美はブラジャーのホックを外したままだったことを思い出し、トイレで直してからシートに戻った。まだ鷹姫は鬱ぎ込んでいる。機長からアナウンスがあり、食事が提供されることになった。搭乗口が開き、ダンボール箱に入った弁当のような物が運び込まれたので陽湖が数人の女子を選んで配給してくれる。鮎美たちの前に得体の知れない食べ物らしき何かがきた。雰囲気的に、どこかの屋台で急いで大量に作られ、そして配送が遅れて時間が経った物に見える。

「なんやのこれ?」

「なんなんだよ、これ? 食えるのか?」

 泰治も困惑している。配られたのは広島焼きに餡かけしたような物で、しかも冷たい。冷たいので固まって一塊になっている。箸は無かった。フォークもスプーンも無い。どの生徒もためらっていたし、介式たちSPの分も配られたけれど、食べて逆に体調を崩さないかと懸念している。一番に食べたのは義隆だった。

「うわぁ……まあ、喰えるけど、……これは、熱々だったら美味かったかもなぁ……冷めてるとゴミに近いなぁ……けど、超腹減ってるから、うまいわ」

「……冷めたお好み焼きも、そのままでは、つらいもんなぁ…」

 鮎美が食べてみようとすると介式が言う。

「芹沢大臣、できれば我慢して食べずにいてほしい」

「………そうですね、下痢になっても、かなんし」

 食べてみたい気持ちはあったけれど、イスラエル滞在中には食事が摂れていた鮎美は食べず、介式たちSPも食べなかった。鷹姫も食欲が無い様子で食べない。一部の女子たちも食べなかったので、それらは望む男子たちに再配給された。

「なんとか燃料補給してもらって日本に帰らんとあかんなぁ」

 鮎美がつぶやいたときA321へ軍用車両が3台も近づいてきた。そして搭乗口から軍人が6名ほど入ってきて芹沢鮎美がいるかと英語で問うているので、介式は知念へ合図した。

「ごめんっす」

「え?」

 急に鮎美は知念によって柔道技で首を絞められ、何の抵抗もできないうちに意識を失う。鷹姫が驚く。

「何を…ぅっ?!」

 その鷹姫の首にも後ろから介式の腕が回ってきて、一瞬のうちに落とされた。ぐったりと二人の身体がシートに横たわる。

「打ち合わせ通り、知念と長瀬が残れ。学校教師のような顔をしていろ」

「「はい」」

 そう言った介式は前田たち他の部下を連れて陽湖のところに行く。やはり再び最前列にいた陽湖は台湾の軍人たちにも鮎美だと思われている。その誤解を助長するように介式たちは、いかにも陽湖のボディーガードだという顔で陽湖と軍人たちの間に立った。通訳の兵士が言ってくる。

「私たちは芹沢大臣を歓迎したいのです」

「……歓迎か……わかった。ただ、他の生徒たちは一刻も早く帰国させてやりたいとの大臣の意向がある。整備と燃料補給を頼めないか?」

「わかりました」

 交渉が成立したので介式たちSPと屋城は陽湖を囲みながらA321をおりて空港ロビーに入った。陽湖がガラス越しにA321を振り返って言う。

「友人たちの出発を見守らせてください」

「30分はかかります」

 通訳は早く連れて行きたい顔で言ってくる。陽湖は介式に求められていた芝居をする。

「どうか、出発を見守らせてください。友人たちが心配なのです。お願いします」

「……わかりました」

「………」

 陽湖は祈った。整備と燃料補給が始まり、最低限の発電用しか供給してもらえなかったA321が満タンに燃料を入れてもらい、飛べる状態になった。陽湖は最後尾の窓を見た。もう失神させられていた鮎美と鷹姫は目を覚ましている。鮎美も、こちらを見ていて、目が合った。

「……」

「お元気で。神の加護と栄光が、あなたたちにあらんことを祈ります。アーメン」

「……」

 機内の鮎美は黙って無表情だった。A321が滑走路に向けて動き出す。離陸位置につくと3割の生徒は無事の帰宅を祈った。鮎美は見えなくなった陽湖がいるターミナルを見続ける。

「………」

「芹沢大臣、シートに戻ってシートベルトを締めてください」

 長瀬が言ったので、今まで鮎美は機体最後尾右側の中央シートに座っていたけれど、ターミナルがある左側窓際に座ってシートベルトを締めた。介式たちがいなくなったのでシートは、いくつも空いている。隣に知念と長瀬が来た。A321が加速を始め、フワリと浮き上がると、またターミナルを振り返る。もう小さくて視認できないけれど、そこに陽湖と介式たちがいて、こちらを見ているだろうと思った。

「…………殺されはせんやろ……北朝鮮とはちゃうし…」

 鮎美は胸につけているブルーリボンのバッチを指先で撫でた。もう陽湖たちは雲の下で見えなくなる。

「そういえば北朝鮮では、日本の地震、どう報道してんのかなぁ……」

 何気なく思ったけれど、鐘留が前席斜め前から言ってくる。

「北朝鮮の報道は見てないけど、麗国では、日本の大震災をお祝いします、って横断幕を出してる人もいたらしいよ」

「……………ああ……神よ!」

 鮎美が空で天を仰いだので鐘留が驚く。

「ちょっ、とうとうアホが感染したの?!」

「神サンよ! もう少し、ちゃんと人間を造らんかい! 欠陥だらけやん! なんぼサタンにそそのかされたいうてもや! そもそもの製造物責任は、あんたにあるやろ!」

「きゃははは! 神にPL法を求めるんだね、それいいね」

 鐘留は笑い、叫んだ鮎美は気持ちを切り替え、冷静になる。

「異なる民族の死滅を願うのは、今までも人類がやってきたことやし、もとから種は、そういう風に争って競い合い進化してきたんや。横断幕くらい可愛いもんやよ。アホらし」

「アユミンって基本的に進化論で世界をとらえるよね」

「カネちゃんのおかげよ。せやから、日本に帰ったら、やることいっぱいや。もう一部で、うちのこと内閣総理大臣臨時代理って言い出してるみたいやし頑張るしかないわ。ってことでカネちゃんに頼みたいねんけど、情報収集は続けてほしいけど、うちのおばあちゃんとか、うちにとって大事な人についての安否情報は朗報しか、伝えんといて」

「朗報しか? いいニュースしか聞かないの?」

「そうよ。知ってもダメージを受けるだけのニュースは教えんといて。震災直後の三日、一週間が勝負なんよ。すでに台湾なんかに寄り道して出遅れてる分、少しでも政府を立て直さな、どんどん混乱するもん。うちが中心にならざるをえんにゃったら、気になるけど気にせん方がいいことやもん」

「……そっか……そういうのも……いいかもね…」

 鐘留は離陸寸前までネット接続していて琵琶湖でも津波が発生し数百人の死傷者が出た情報を得ていたけれど、黙っていることにした。全国的に死者数が多すぎて、いまだ氏名の発表などはされていない。その確認作業さえ進んでいない様子だった。

「……ぐすっ……介式師範……ぅぅ……」

 鷹姫が泣いているし、知念も悔やんだ顔をしている。

「介式警部がオレと長瀬警部補だけ行かせてくれたのは、長瀬警部補は半年前に結婚してたし、オレにも紀子がいたから……ぐすっ…」

「長瀬はん、結婚してはったんや?」

「はい」

「結婚指輪してへんやん?」

 鮎美は長瀬の左手を再確認した。指輪は一つもしていない。そして一時は黄色ローブだった長瀬も今はSPとしてのスーツに戻っている。

「単純に指輪をつけると、指がムズムズして気持ち悪いので結婚式当日しかしていません」

「そういう人もいるんやね。他の前田はんらは未婚なん?」

「あいつは、まだ独身です。他にも台湾に残ったメンバーは独身か、妻帯者であっても、もう子供が高校生くらいだったりする者ばかりです。自分と知念に介式警部は配慮してくださったようです」

「けっこう乙女チックなとこあるんや……実利にもかなうし……隊長としての判断……」

 新婚の長瀬と、桧田川という交際相手ができた知念を、鮎美たちと帰国させる判断をした介式へ尊敬の念と好感を覚えた。知念がまじめな顔で言ってくる。

「しばらくは芹沢大臣は月谷陽湖さんとして振る舞ってほしいっす」

「そうやね。そうするわ」

 鮎美は髪を左右に分けてまとめると、ツインテールにした。陽湖はティアラをつける都合上、アップにしていたけれど、普段の陽湖はツインテールだったので鮎美が真似をしてツインテールにすると、クラスメートでも間違えそうなほど似る。それから議員バッチは内ポケットに隠し、陽湖の制服についてある議院記章を借りた。変装が終わり、また知念が言う。

「月谷さんから伝言があります。こうなったとき、伝えてほしいと、あらかじめ聴いていたっす」

「そう……それで?」

「本当に私は、ひどいことをして、どんなに謝っても謝りきれません。これで償いになるとは思いませんが、シスター鮎美は日本にとって必要な人です。苦難ばかりでも、どうか頑張ってください。そして一つだけ言わせてください。自分が最高権力者だと感じたとき、私は権力に酔い、狂いました。権力は人を簡単に狂わせます。自分が言うことは何でも正しい、自分の判断こそ最高、他人は自分に従えばいい、そんな悪魔の酩酊です。私はその酔いが醒めたとき、悔やみきれないほど悔い、今も悔いています。私と同じ失敗だけは、どうかしないでください。ご活躍と日本の復興、全身全霊をもって祈念いたします。……、以上です」

「……陽湖ちゃん……あんたの気持ちはわかったよ。おおきにな」

 鮎美は台湾の方向を振り返り、そして前を見る。前を見て、これからのことを考えようとして、かたわらで泣いている鷹姫に目をやった。

「鷹姫、いつまでも泣いてんときよ。介式はんにも、また会えるって」

 鮎美はシートベルトを外し、長瀬と知念の前を通らせてもらい、鷹姫の隣りへ戻った。

「……ぅぅ……ぐすっ…」

「鷹姫、ほら」

 鮎美はハンカチで鷹姫の涙を拭いた。それでも、また濡れる。泣きながら鷹姫が言う。

「……芹沢先生の秘書を……辞めさせて…ください…」

「な……なんでよ?」

「私には、その資格がありません……ぐすっ…ぅうっ…」

「鷹姫……いろいろ気にしすぎやって。あんたは最高の秘書よ」

「…いいえ……恥ばかりの……愚か者です…」

「そんなことないって」

「いいえ……いいえ、あるのです……ずっと、黙っていました……卑怯にも……ずっと隠していましたが……私には発達障碍の疑いがあるのです」

「発達障碍……」

 鮎美は自分を刺した大津田のことを思い出した。詳しい病名までは知らされていないけれど、ラブレターを無視しただけで凶行におよんだ大津田には発達障碍があったらしいことは忘れたくても忘れていない。それは鮎美も鷹姫も同じだった。

「私は…ぅぅっ…小学校の頃に発達障碍ではないかと…ぐすっ…検査を受けています」

「……なんでよ? 鷹姫は普通やん」

「…私は……まわりの空気を読むということが…できません…」

「それは……そやけど」

「興味が偏っていて、好きなことに拘り過ぎます。人との距離感、関係が一方的で……拒絶的であることが多いのです…」

「……たしかに」

「過去のことはよく覚えていますが、未来を想像し新しいことをするのも苦手です」

「そう言われると………」

 もともと鷹姫はクラスで浮いていたし、まわりの空気を読むことは少なく、剣道を極めたし、歴史とくに戦国時代にかかわることの記憶も豊富で、また出された課題である学校の勉強や党支部での政治の勉強は優秀だったけれど、鮎美のように新しい発想をすることは少ないし、スケジュール管理のような定型的なことは得意でも、未来や状況の変化に対応するのは苦手で、なにより人間関係は極端に一方的で、鮎美に対しても当初は見下す態度だったのに、議員と秘書という関係になると、見上げる態度に変わり、他のクラスメートに対しても、たいていは見下す態度で接し、教師や介式などの目上に対してはきちんと敬って接するけれど、およそ対等な人間関係というものを築くことは少なく、相手を自分より上か、下かという目線で見てきている。鐘留とは似てもいないし、性質も違うけれど、鮎美をクラスの中でトップとみなし、自分が2番、その他大勢は目下という扱いなのは同じだった。

「ぐすっ……知識はあっても、一般人が備える常識が備わっていない部分があります……言葉を言葉通りにとらえ、裏にある意味が読めないことがあります…」

「………」

 普通の女子は年頃になれば無駄毛を気にするし、平気で服を脱いだりしないのに、鷹姫は夏でも腋を剃らないし、裸を見られることへの抵抗も欠けていて、また児童だったとはいえ、おもらしをすれば周囲の空気が変わって問題や雰囲気が改善することがあったとしても、おもらしを繰り返すことは普通はしない。許嫁にしても、今どきの女子であれば、たまたま好きな男子と組み合わされる場合以外は抵抗をもつのが普通なのに、好きでも嫌いでもないので結婚し、剣道場を続けていくという決まり切った未来を受け入れていた。秘書業務においても、夏子や石永らと陳情の帰りに急遽外泊することになったとき、みんなでいっしょに泊まろう、という言葉を字面通りに受け止め、男女別にせず大部屋を予約したりしている。それらは普通ではないと、鮎美も何度も感じている。

「私は変です……普通の人から見て……人と違います……」

「………普通の女子高生では……ないとは思ってたけど…」

 話し方も古風で、それが礼儀正しいのか、癖や趣味なのか、判然としないものの、ごく普通の女子高生から、かけ離れていることは確かだった。

「…ぐすっ……そして、ときに過去の嫌な出来事がフラッシュバックして情緒不安定になります……母を亡くしたこと……それに甘えて、おもらしなどしていたこと……」

「お母さんを亡くすのは、誰にとっても、ものすごい嫌なことやと思うよ。まして幼児期にお母さんが死ぬのって、一億人の他人が死ぬよりショックやん」

 そして、今まさに情緒不安定なんやね、陽湖ちゃんのせいで、と鮎美は泣きながら話す鷹姫をかわいそうに思った。また鷹姫が涙を零す。

「……でも……私は……普通ではありません……きっと、発達障碍です…」

「………」

「こんな私は……ううっ……秘書に相応しくありません……辞めさせてください…」

「……ちなみに、その検査で疑われた障碍の病名は何なん?」

「アスペルガー障碍………もしくは……高機能自閉症です」

「そう……それが、さっき言うた特徴にあてはまるんや」

「はい」

「そんなん気にせんときよ。ただの個性やん。うちが同性愛者なんと、いっしょやと思てみ」

「…いえ……違います……障碍は障害です……言い繕っても、私は障害者……障りある……害のある者……なのです……私に秘書たる資格も気力もありません。まして、総理代理の秘書など……とても…つとまりません…ぐすっ…ううっ…どうぞ、辞めさせてください……お許しください…」

 鷹姫がシートからおり、床に土下座してきた。

「ちょっ……鷹姫、そんなことして……」

「辞めさせてください……お願いです」

「鷹姫……」

「もう無理です……私には……無理です…」

「………。うちも総理代理なんて、ちゃんと勤まるか、不安でいっぱいよ。けど、ここは踏ん張りどころやん? いっしょに頑張ってよ」

 鮎美は床に膝を着いて、土下座している鷹姫の両肩を握って頭をあげさせるけれど、鷹姫はイヤイヤと首を横に振る。

「いいえ……いいえ……私にはできません……無理です……辞めさせてください…ぅぅ…」

「鷹姫…………うちにも支えてくれる人が欲しいのよ。地元にいた静江はんらかって無傷とは限らんし。たちまち、そばにいてくれる鷹姫が、どんなに心の支えになるか、わかってよ、ね?」

「うっ…ううっ…ううっ…無理です…ぐすっ…ひぐっ…嫌です…うぐっ…辞めさせて…ひぅ…あぅぅ…もう嫌っ……帰りたい……お家に帰りたい……島のお家に帰りたいです…ぅぅ、うわああん!」

 子供のように鷹姫が泣き出した。

「鷹姫……」

「あああん! もう帰りたいッ! うわあああん! あああん! お母様ぁあん!」

 機内に鷹姫の泣き声が響き渡る。そのために何人かの女子が同じく帰りたい気持ちになって泣き出した。

「アタシも帰りたいよ…ぐすっ…ママ……パパ…」

「私も……ううっ…」

「仁美まで、泣くなよ。すぐ帰れるって。オレらの地域は地震の影響ない感じだしさ。震度5なら、ぜんぜん何も壊れてないぜ、きっと」

 慰める義隆もつらそうだった。

「鷹姫、そんな大声で……みんなまで、つらい気持ちになるから……」

「うわああん! ああああん!」

 大声で泣き続ける鷹姫は胎児のように身体を丸くして、自分の両膝を抱いた。そのせいで下着が丸出しになるのにもかまっていないし、下着の股間がジワジワと濡れてきて、おもらしを始めたので鮎美は肩を握っていた手を離した。

「………鷹姫………こんな……あんた……見たくなかった……」

 恋が冷めるのを感じた。詩織と結婚していても、まだ鷹姫に恋していた。剣道で無敵の強さを誇って、いつも凛としていて、まるで侍のようで、そんな鷹姫に強く惹かれていたのに、この窮地になって、辞めたい、帰りたいと言って大声で泣き、オシッコまで垂らしている姿は幻滅だった。

「……くっ…」

 こんな時に……この土壇場で……こんな腑抜けた姿……見たくなかった……もうええよ……うちの前から消えて、あんたは邪魔なだけやわ……好きになるんやなかった……、と鮎美は愛想が尽きて言う。

「わかったよ。辞めていいよ。鷹姫は家に帰り。今日まで、ありがとうな。鷹姫が家に帰れるよう、ちゃんとするから安心して泣かんと待っておいて」

 鮎美は片腕と恋を同時に喪った心地だったけれど、それでも優しくポンポンと鷹姫の頭を撫でた。抱きしめると自分も泣いてしまいそうなので意識して感情を抑え、日本のことを考える。帰れば、中央行政機関の再編をしなければならない、霞ヶ関は消失している。ハコ、モノ、ヒト、カネ、どうやって確保するか、問題は山積みで初動が肝心だった。

「おっ! 戦闘機だ!」

 窓の外を見ていた貴久が言った。義隆が興味をもつ。

「どれ? ああ、あれは…………J-10Bだな」

 義隆は機体の特徴から確信的に機種を言った。2機の戦闘機がA321の左右に平行飛行してきて、窓からよく見えるほど近い。鮎美も見た。

「ジェイテン……ふーん……飛んでる戦闘機なんて初めて見るわ」

「あの独特なエアインテークと、ベントラルフィンの配置、水滴型キャノピー、間違いない。J-10Bだ」

「まだ沖縄の手前やのに、わざわざ自衛隊が来てくれたんや。うちが乗ってるの知ってるのかな?」

「………芹沢……やっぱ、お前が総理だとか不安すぎる。いや、危険すぎる。どう見たって仲国軍だろ!」

「え、でも、ジェイテンやろ? ジェイって言うたら日本やん。ジェトロもジャクサもジャパンのJよ」

 女子たちは鮎美と同じ程度の認識だったけれど、貴久もタメ息をつきながら言う。

「はぁぁ……義隆が嘆くのもわかる。芹沢さん、日本の戦闘機はFで始まるよ。まあ、アメリカの系列だけど」

「ほな、仲国軍が、なんで、ここに………ろくなことやない気がするけど…」

 鮎美の言葉は機長のアナウンスで遮られる。そして、機長に呼ばれた鮎美は操縦席に行った。副機長が往路で鳩山や谷柿と通信したときのヘッドセットを渡してくれる。どうやら平行飛行している戦闘機から通信を求められているようだったので、ともかくは応じる。

「もしもし、私は生徒代表の月谷陽湖です」

 鮎美は英語で嘘をついた。

「我々は仲国人民解放軍だ」

 向こうも英語で言ってくるし、アジア人同志の英会話なので発音は聞き取りやすいけれど、相手の声は酸素マスクをしているせいで、くぐもって聞こえる。

「はい、こんにちは。お会いできて光栄です」

「月谷ではなく芹沢鮎美と話がしたい」

「すみません。この飛行機にシスター鮎美は乗っておりません」

「嘘をつくな。乗っているはずだ」

「私は神に仕える者、嘘はつきません。真実、この飛行機に芹沢鮎美は乗っておりません」

「……」

 向こうのパイロットが、こちらを見ているけれど、大きなヘルメットをつけているので鮎美には相手の顔は見えない。相手からも鮎美の顔など、いくら接近していても見えていないだろうと判断し、あえて堂々と陽湖がやりそうなポーズで祈りの形に手を組んだ。

「なぜ、芹沢鮎美が乗っていない?」

「台湾で歓迎するとおっしゃられましたので、降りて行かれました」

「…………。少し待て。確認する」

「はい…………」

 やばいかな、仲国と台湾って、どのくらい情報やりとりしてんのかな、もう陽湖ちゃんの正体バレてるかな、バレてても、そんな速攻で仲国にも伝わるんかな、確認するって、どこにやろ、自分の上司やろな、ってことは仲国軍の基地とかで、そこの指揮官がどう判断するかやね、と鮎美は思考しつつ、台湾を出発した時間から考えて、そろそろ沖縄の日本領空に入るはずだとも期待する。また仲国軍パイロットが通信してきた。

「君たちを保護する。我々の誘導に従え」

「……」

 とりあえず捕まえるちゅーの、おおざっぱやな、けど正解や、くっ、どないしよ、と鮎美は左手を唇にあてて考える。指先で横髪を耳へかけようとしたけれど、ヘッドセットのせいで、できなかった。考えるときの癖ができないと気持ちが悪い、それでも考えをまとめた。

「私たちは地震に遭った家族のもとへ急いでおります。一秒でも早く日本へ帰りたいのです」

「日本は危険だ。原発から拡がった放射能で、とても危険だ。だから、保護する」

「………………」

 たしかに原発にも津波が襲ってきたって情報は見たけど、放射能の情報までは知らん……そんな情報あんのかな……けど、わざわざ親切に保護してくれはるもんやろか、っていうか先に芹沢鮎美を出せ、とか言うたし、基本的に平宝と同じやろ、それにチェリノブイリの事故でも間近にいた人間は亡くなってるけど、10キロ20キロも離れてたら平気やん、とりあえず日本海側の空港に降りる予定やし問題ないやろ、ただモロに拒絶すると余計に、向こうも強引なこと言うかもしれんし、ここはゆっくり返事しよ、あと少しで沖縄領空のはずやし、と鮎美は時間稼ぎをしてみる。

「保護していただいた場合、どうしてくださるのですか?」

「とても歓迎する」

「……」

 嘘丸出しやん! と突っ込みたいのを鮎美は我慢した。

「我々の誘導に従え」

「どこへ誘導してくださるのですか?」

「浙江省の義鳥空港だ」

「それは、ぜひ行ってみたいのですが、まもなく沖縄が見えます。沖縄に母親がいる人も乗っています。どうか、地上の様子を観察する時間をください」

「……………。沖縄も原発が壊れて放射能で危険だ」

「……そうなのですか……」

 沖縄に原発は無かった気がするんやけど……きっと無いよ、沖縄に原発は……、と鮎美は国内の原発の位置を思い出してみるけれど、やはり沖縄にはない気がする。印象的なのは隣県の福井県敦賀あたりに関西便利電力の原発が多数あることだった。

「繰り返す。我々の誘導に従え」

「少しだけ沖縄を見せてください。危険であれば離れてくださってけっこうです。故郷を見たいと泣いている人がいます」

「………危険だ。早く誘導に従え。危険だ」

 鮎美たちの視界に沖縄本島が入ってくる。鮎美は機長に沖縄上空を低空で旋回するよう頼んだ。

「危険だ。早く離れろ」

「………どの原発が壊れたのでしょうか……わかりますか?」

 っていうか、もう領空内やん! いつまでついてくんのよ、と鮎美は沖縄本島を観察しつつ焦った。まさか領空内まで入ってくるとは思わなかった。けれど、沖縄本島を見ておきたいのは真実なので、しっかりと観察する。沖縄を襲ったのは20メートル前後の津波で那覇空港には飛行機や自動車、建物の残骸などが散乱している。大きな船さえ、陸上に打ち上げられていた。

「……………」

 胸が痛くなった。

「危険だ。早く誘導に従え」

「……ぐすっ…」

 かなり胸が痛い。死体さえ転がっているように見える。あれが死体でなく、ただの漂流物であってほしいと思う。そして泣きそうなので、いっそ泣いておくことにした。

「ううっ…ぐすっ…ああっ…街が…ううっ…人が…」

「…………加油(かーじゃぁ)…元気を出せ」

「……」

 女の子への優しさはあるんやね、と鮎美は仲国軍パイロットに人間味を感じた。

「ありがとうございます」

「もう、いいだろう。西へ転進しろ」

「少し機長とお話しします」

 鮎美は機長に頼み、鹿児島方向へ進んでもらった。当然、通信が入ってくる。

「どこへ行くつもりだ?」

「鹿児島が無事だという情報がありましたので、そちらへ向かいます」

「ダメだ。我々の誘導に従え」

 平行飛行していたJ-10Bが加速して鮎美たちの前方に出ると、翼下の空対空ミサイルを見せつけるように旋回して機体の腹側を向けてきたけれど、鮎美にとっては戦闘機は常にミサイルがついているものという認識で、それが脅しだと感じる知識が無かった。

「西へ転進しろ」

「……義鳥空港までは何分ですか?」

「約1時間だ」

「私たちの燃料は残り少ないのです。台湾で、わずかにしかいただけませんでした」

 本当は満タンで、まだ5000キロは飛べたけれど、鮎美は嘘を重ねて時間稼ぎを試みる。

「鹿児島と距離は変わらない。転進しろ」

「……」

 ホンマかいな、そもそも浙江省って、どこやねん、と鮎美は仲国の地図など覚えていないので疑問に思いつつ、話を変える。

「私のクラスメートが言っていたのですが、乗っていらっしゃる、その戦闘機はジェイテンビーというのですか?」

「……ほォ、わかるのか。フフ、否定はしない」

 かなり誇らしげな声が返ってきた。せっかくなので鮎美は男性心理をくすぐることにする。

「それに乗っていらっしゃるということは、かなりのエリートなのですね」

「そうだ。厳しい訓練を積んだ者だけが搭乗できる」

「すごいですね。カッコいい」

 男性に対してのカッコいいという概念そのものが鮎美には理解できていないけれど、一応は心を込めて言ってみた。

「フフ」

 満更でもない様子で、また接近してくる。

「陽湖といったな。お前の顔も見てみたいものだ。早く西へ転進しろ。悪いようにはしない。可愛がってやる」

「……」

 男の人の単純さって人類共通なんやね、女の子への評価はまず顔やし、次おっぱいでお尻、まあ、うちの女子への評価も似たようなもんやけど、と鮎美は女子を抱きたい気持ちには共感しつつ、さらなる時間稼ぎを試みる。

「あなたの名前を教えていただくことはできますか?」

「金胡晋(きんこしん)上尉だ」

「私は18歳ですが、金さんは、おいくつですか?」

「オレは……少し待て」

 胡晋が別の無線を受けているような気配があって、しばらくして言ってくる。

「陽湖、おしゃべりは終わりだ。ただちに西へ転進しろ」

「え? どうしてですか?」

「ただちに西へ転進しろ」

 またJ-10Bが加速して前方へ出ると機体腹側を見せてくる。さきほどよりもA321との距離が近く、意味がわかっていない鮎美も操縦席にいる機長と副機長の緊張感で、なんらかの威嚇的な行動なのだと悟った。

「ただちに西へ転進しろ」

「わかりました。台湾にいるシスター鮎美と連絡をとってみます」

 そんな手段は無かったけれど、時間稼ぎで言ってみて、通信をやめ、機長に鹿児島までの時間を聞いた。あと25分だと言われる。

「…………」

「ただちに西へ転進しろ」

 再び平行飛行で接近してきている。機長が危険だと胡晋へ警告しているけれど、離れてくれない。航空知識のない鮎美でさえ威圧感を覚えた。

「ただちに西へ転進しろ」

「ぐすっ……私は日本へ帰りたいです」

 涙声で言ってみた。

「ただちに西へ転進しろ」

 もう女の子の武器は通用しなかった。また胡晋がA321の前方に出ると、今度は腹側を見せるのでなく減速して距離をつめ、進路を妨害してくる。じわじわとJ-10BとA321の距離が近づくと、操縦席にいるのに鮎美たちはジェットエンジンの熱と振動を感じ、機長が危険と判断して高度をさげてかわした。すぐに再び胡晋が前に回ってくる。

「警告する。ただちに西へ転進しろ」

「……。金さんに家族はいますか?」

「ただちに西へ転進しろ」

「私の母は妊娠しています。仲国へ避難する前に顔を見に行きたいのです。お願いします」

「ただちに西へ転進しろ。これは警告だ」

 そう言った直後にJ-10Bが23mm機関砲を発砲した。

 ジィィ!

 あまりに連発速度が速いので一つの音に聞こえつつ、撃ち出された弾丸が前方で流れ星のように飛んでいる。鮎美は息がつまるような圧迫感を覚え、背筋が冷たくなった。それは機長も同じだったようで、A321が民間機であることを繰り返し、伝えている。

「ただちに西へ転進しろ。これが最期警告だ」

「………この飛行機は以前に着陸に失敗して後部に損傷があります。仲国の空港に迷惑がかかるかもしれません」

「転進しろ!」

 前方に出てきたJ-10Bが距離をつめた直後に強烈に加速し、ジェットエンジンの熱風をA321の操縦席に浴びせてきた。

「熱っ…」

 さきほどよりも熱を感じたしA321の風防が損傷しないか心配になるほどの衝撃も感じた。機長が胡晋へ返信し西へ進路をとった。鮎美は抗議したけれど、これ以上は危険だと言われると従うしかない。

「………くっ……」

 どないしよ、仲国でも、うちは月谷陽湖です、と通すか、それとも、いずれバレることやし、素直に言うか、あかん、うちは閣僚中、唯一生存が確認されてるもんや、それをわかって拉致る気なんや、平宝がちょっかい出しにきたときのレベルとは、もうちゃう、関東軍が満州で愛新覚羅溥儀を傀儡にしたみたいに、うちを利用すれば日本政府をカタれるもん、最悪の場合、うちが偽物であるか、本物であるかは、どうでもようなるかもしれん、ようは本物が日本列島に帰らんかったらええねんから、そやったら、どうする? 機長に背後からチョークスリーパーかけて副機長を脅すか、それとも二人ともを眠らすか、無理や、うちの腕力と技量では不意打ちで一人がせいぜい、こんな時に鷹姫がいてくれたら……鷹姫……、鮎美がつらさで涙を浮かべたとき、前方右側から別の戦闘機が4機も接近してきた。

「くっ…応援まで…」

 鮎美は胡晋の援軍だと思ったけれど、通信が入ってくる。

「こちらは日本航空自衛隊です」

「自衛隊……」

 鮎美は英語に対して思わず日本語で答えていた。鮎美にはわからないけれど現れた4機はF-15DJだった。

「仲国軍機に告ぐ。意図を明らかにせよ」

「………。我々は民間機を保護している」

「うちは…私たちは日本へ帰りたいのです」

 日本語で鮎美は言った。自衛隊機も日本語で問うてくる。

「芹沢鮎美総理代理ですか?」

「……。いえ、その友人の月谷陽湖です。ですが、彼女の所在を知っています」

 鮎美は嘘を突き通すことにした。ここで正体がバレると、胡晋の反応も懸念されたし、まだ台湾まで近いので通信が傍受される可能性も考えた。

「金さん、ここまで、ありがとうございます。私たちは日本へ帰ります」

 心にもない謝辞だったけれど、陽湖なら言うかもしれないと考えたのと、胡晋のメンツを立てた方が素直に引き下がってくれるかもしれないと期待して言った。

「ちっ…」

 舌打ちされたけれど、さきほどまでのような威嚇行動はしてこなくなり、A321は九州方向へと進路を戻した。しばらく2機のJ-10Bは平行飛行していたけれど、日本領空に入る前には消えた。自衛隊機が問うてくる。

「どちらの空港へ行かれるのですか?」

「決まっていません。とりあえず日本海側でおりられるところを探す予定ですが、できれば関西に近いところがよいのです」

「では、小松を目指してください。あと、新田原基地司令より通信があります。対応してください」

 すぐに航空通信が入ってくる。

「新田原基地司令の岩本信一1等空佐です。芹沢鮎美総理代理の所在についてご存じというのは本当ですか?」

「はい、本当です」

「彼女は、どこに?」

「この通信が傍受される可能性はありますか?」

「……あります」

「では申し上げられません」

「……。だが、彼女を早く見つけないと困ったことになりかねない。小松ではなく新田原へ一度、おりていただけませんか?」

「困ったこととは何ですか?」

「傍受の可能性を考えると申せません。ですが、非常に大切なことです」

「わかりました」

 鮎美たちのA321は宮崎県にある新田原基地に着陸する。宮崎県の海岸線には高知県よりは低かったものの高さ40メートルを超える津波が襲っていて、沿岸部は壊滅している。新田原基地は標高79メートルの位置にあり、幸いにも損傷していなかった。着陸中に義隆が叫ぶ。

「飛行教導群が無事だった!! おっしゃ! 日本、終わってねぇぜ!」

「……義隆はん、それが何なんか説明してもらえると、うれしいんやけど。一応は防衛白書で見かけたことはあるけど、そんなに重要なもんなん?」

「戦闘機パイロットの中でもエリート中のエリートが集まってる隊だよ。他の隊に指導するための隊だから、ここが日本のトップ集団なんだ」

 さらに義隆は興奮気味に色々と語ってくれたけれど、専門用語が多すぎて鮎美の脳には残らなかった。とはいえ、朗報だとは判断して搭乗口が開くと、鮎美と知念、長瀬の三人でおりる。純粋な軍用の空港であり、民間機のためのターミナルなどないのでタラップを足でおりた。時刻は午前11時で日は高く、3月のわりに寒くないものの風が強く、鮎美のスカートが舞ったので手で押さえる。車両で迎えが来て、基地司令がいる建物へ案内された。

「基地司令の岩本です」

 岩本に続き、見知った男性が挨拶してくる。

「県知事臨時代行の南国原で…ああ?! 芹沢さん!!」

 南国原が鮎美の顔を見て気づいた。都知事選で苦杯を舐めさせられたので、忘れようのない顔だった。

「どうも。……芹沢です。岩本司令、嘘をついて、すみませんでした」

 頭をさげた鮎美が議院記章を外して議員バッチに付け替える。ツインテールにしていた髪もおろした。それで岩本もテレビで見たことのある鮎美を思い出した。

「あ、……本人だ……所在を知るもなにも、ここに…」

「すみません。うちが乗っているとわかった場合の仲国側の反応が読めず、友人の名をかたりました」

「なるほど。たしかに、それが賢明な判断です」

 岩本と鮎美が握手し、ついで南国原とも握手する。

「南国原先生、どうも、お久しぶりです」

「ええ、お久しぶり」

「あの、県知事臨時代行というのは?」

「芹沢さんと似たような状況なんですよ。たまたま帰郷していて、そしてボクが辞めた後の選挙で知事になっていた人と副知事、さらに県議会の議長副議長まで津波のために行方不明で、法的な根拠はないけれど、ともかくもボクがここで行政の長として仮に権限を執っています」

「そうやったんですか。ご苦労様です」

「もしよければ、芹沢さん、いや、芹沢総理代理からボクが宮崎県の知事を代行することを承認してほしい。事態が事態なので自衛隊にも県内各地へ出動要請を出しているけれど、そもそも今のボクは法的には、ただの無職なんだ。この基地には去年、口蹄疫で処分した家畜の埋却を頼んだよしみもあって岩本司令にもよくしてもらっているけれど、総理代理の口から承認いただけると、いろいろやりやすい。お願いします」

「わかりました。南国原先生を県知事の臨時代行として承認します」

「ありがとう!」

 二人が固く握手した。選挙戦では争った仲だけれど、それだけに相手のことがある程度わかる。現在の非常事態で宮崎県を任せるのに足る男だと、即断即決していた。握手を終えた鮎美は岩本へ問う。

「それで、岩本司令、うちが見つからないと困ったことになる、というのは?」

「はい。現在、自衛隊の指揮が二分されているのです。一つは小松基地から指揮してくる三島氏、もう一つは洋上の巡視船しきしまから指揮を執る畑母神都知事。三島氏は陸自を中心として指揮下におさめ、畑母神都知事は海自を中心としており、この両者が我々空自へ協力するよう別々に言ってくるのです」

「それは、また……こんなときに…」

「こんなときに権力争いをしている場合でないことは二人とも承知しているようで、両者は協力し合っているのですが、どちらが上かということでは一致せず、いずれ険悪になるかもしれません。法的根拠のあるトップが決まれば、おさまるかと思います。ここに芹沢鮎美総理代理を発見し無事であった発表をさせてください」

「…………」

「何か不都合が?」

「……私の友人を台湾に置いてきました。芹沢鮎美の身代わりとして。いまだ彼女が芹沢鮎美を名乗っているなら、嘘であったことが台湾政府にバレます」

「それは……」

「けれど、冷酷ですが、それも覚悟の上のことです。発表してください。その前に、現在わかっている状況を教えていただけますか?」

「はっ!」

 岩本が九州地方の被害状況と、わかっている範囲の全国の被害を教えてくれる。加えて自衛隊の救助活動の進行状況も教えてもらい、それに1時間かかった。

「わかりました。ともかくも小松に向かいます。私の無事は小松基地への着陸後に発表してください」

「はっ。離陸前に用意するものはありますか?」

「………。いえ」

 鮎美自身も生徒たちも空腹だったけれど、言わないことにした。言えば出発が、また1時間は遅れるし、宮崎県は沿岸部の道路に被害を受けていて物流が山側のみになっている。ほとんど被害の無い石川県小松に到着するまで我慢することにした。再びA321に搭乗し離陸すると4機の戦闘機が護衛についてくれた。四国を飛び越え淡路島上空になると、鮎美たちも帰ってきたという気持ちになる。

「お、護衛の交替か」

 ずっと窓の外の戦闘機を見ていた義隆が言った。4機の戦闘機に、さらに4機の戦闘機が合流してきている。

「小松の303飛行隊か」

「あんた、よーわかるなぁ、まったく同じ戦闘機に見えるけど」

「同じF-15DJだけど部隊マークが違うんだ」

「ふーん……あ、呼ばれてる」

 また鮎美は機長から操縦席に呼ばれた。もう慣れたので、すぐにヘッドセットをつけて通信する。

「もしもし、生徒代表の月谷陽湖です」

「こちらは小松303飛行隊プリースト、芹沢鮎美総理代理についての情報を教えてほしいと、三島氏から言われています。ご存じですか?」

「はい」

「総理代理は、どこに?」

「着陸後に告げます」

「わかりました。護衛を交替します」

 話しているうちに琵琶湖上空になる。高々度からは平穏そのものに見えて心から安堵した。

「よかった。……けど、自分の地域……自分の国に被害が無ければ、そんでええなんて……人間は……ホンマに勝手なもんや。こんなときに領空侵犯やら、ちょっとした移動にまで護衛がいるやなんて………。それぞれの立場の違い……。……それに鷹姫……もう、立ち直れへんのかな……」

 鮎美は着陸まで鷹姫のことを考えた。着陸すれば総理代理として忙殺されるはずで、生徒たちはバスか何かで帰郷させるつもりでいる。鷹姫が秘書を辞めて鬼々島に帰るなら、もう二度と鷹姫と会うことはないかもしれない。もし鮎美が島に帰れる日があっても、鷹姫は自分を恥だと思って顔を出さない気がする。

「………鷹姫………陽湖ちゃんに、されたことで、それほど……」

 鷹姫の立場になって気持ちを考慮すると、あれだけ打ち拉がれているのが、わからなくもない。鷹姫自身、凛とした自分を保つことにプライドもあったろうに、その芯を破壊するように陽湖は責めたし、あれだけ嫌がって二度とすまいと誓ったおもらしを学年みんなの前で何度も強制されて、しかも手足の自由がなかった。鮎美も侮辱的な姿勢で拘束されたけれど、桧田川の治療を受けたときにも拘束は体験したので少しは慣れていたし、鮎美は30分おきに外してもらえた。鷹姫は心が挫けるまで、ずっと拘束されていたし、自分の強さに頼る心も大きかったはずなのに手も足も出せない状況にされて、叩かれ、水を飲まされ、失禁して泣き出しても罵られ続けていたらしい。途中着陸した仲国では平宝たちの前でも失禁してしまい、その動画がネットで万を超えて再生されている。さらには鮎美の同性愛を否定する言動まで強制され、心をねじ曲げられている。なのに鮎美は復讐を後回しにして、当座は陽湖と協力してしまった。鷹姫は陽湖がズリ落ちた額のティアラを直すために手をあげただけでビクリとして失禁するほど怯えていた。腕力では陽湖など一瞬で叩き伏せられるはずの鷹姫が、そこまで怯えている自分を、どれだけ強く恥じたか、想像を絶した。おかげで黙っていた幼少期のおもらし癖や、発達障碍を疑われたことまで告白して、秘書を辞めたいと言っている。

「辞めさせてあげるしか……ないかな……限界超えてイジメられたんやし………」

 最後尾のシートに戻ると、鷹姫は制服の上着を頭にかぶって顔を隠している。それが逮捕された容疑者のようで余計に滑稽に見えるということにさえ気が回っていない様子で、肩が震えているので泣いているのだとわかる。ときおり他の女子が来て、罵ったことを謝ったりするけれど、彼女たちの罪悪感を軽くすることはできても、鷹姫の傷ついた心には余計に痛みを与えるようで鮎美は睨んで追い返しておいた。ここまで鷹姫が傷ついていると、たとえ陽湖が台湾で輪姦されていても自業自得としか思えない。ただ、もしも介式まで、そんな目に遭っているとしたら鮎美の心も痛むし、介式がいなくなってしまったことも鷹姫には大きなダメージに見えた。また、別の女子が鷹姫へ謝りに来たけれど、鮎美が睨んで追い払う。そんな空気を読まずに義隆が言ってくる。

「宮本さ。いつまで泣いてんだよ? もう立ち直れよ」

「あんたも叩くのに参加しといて、よう言うなぁ」

「悪かったって。あとさぁ、発達障害のこと気にするなよ。実はオレも発達障害の検査を受けさせられたことあるし」

「え? なんでよ? 義隆はんも普通やん」

「オレさ、全校集会で整列してるのとか苦手だし。物理とかの理系は成績いいけど文系はサッパリだし。興味あることは覚えるけど、興味ないことはスルーなんだ。あと空気を読まないどころか、あえて乱すし」

「あ~……そういう感じはあるね。けど、単にヤンチャなだけちゃう? 得手不得手も人間なら、あるもんやろ」

「って思うよな。なのに宮本と同じアスペとか、高機能自閉症って言われた。まあ、疑い止まりだったし、宮本も疑い止まりなら、それでいいじゃないか。確定診断だったとしても、それで自分が変わるわけじゃないし」

 由香里も話に入ってくる。

「私も中学で発達障害とか言われたよ。あれって教師が従わない生徒を、とりあえず弾こうとしたり、自分の指導が悪いわけじゃないって言い訳するために検査を勧めてる感じするし。マジムカつく」

「由香里はんは、なんで? 普通に女子として空気読んでると思うけど?」

「単に中1のとき初エッチした先輩に捨てられて自棄になって6人くらい男をチェンジして、どんどん遊んでたら、教師が親と相談して検査に持ち込みやがった」

「そんな理由で……。むしろ、義隆はんも由香里はんも機内での強引な宗教勧誘に、けっこう対抗して、骨のある方やったやん」

「全体が流れそうな方向に、はねっかえる奴は邪魔ってことなんじゃないの」

「黙ってるけど、けっこう発達障害を疑われたヤツは多いぞ。宮本、気にするなよ」

「そうそう。あと、意地悪言ってごめんね。やり過ぎだって思ったけど、あのときはクソマザーにそれを言ったら、今度は私までリンチされそうでさ。言えなかった、ごめん」

 由香里も謝ったけれど、鷹姫は顔を隠したまま泣き続けA321は小松空港に着陸する。民間機なので基地側でなく空港ターミナル側におろしてもらえた。

「うおおお! 帰ってきたぜ!」

 義隆が叫び、貴久も叫ぶ。

「ああ、腰がダルい! やっとシートから、さよならできる!」

「とりあえずコーラ! できればビールくれ!」

 泰治も自販機を見つけて喜んだ。小松空港に地震の影響は無く、海の近くだけれど日本海側なので平穏そのものだった。女子たちも喜ぶ。

「あ~……お風呂入りたい」

「お腹空いた。あ、オニギリとか売ってる!」

「アタシも買う!」

 時刻は13時で、今すぐ自動車で帰れば六角市まで16時には着ける。教師たちは生徒を帰宅させる責任を果たすため、バス会社などに電話してみている。幸いにして東京行きの観光バスや大阪行きのバスツアーなどが中止になっていて、空きはありそうだった。鮎美も自動販売機でミルクティーを買い、糖分を得て、やっと一息ついたけれど、三島が日本刀をもった田守と近づいてくる。知念と長瀬は素早く鮎美の前に出た。

「おおっ! 芹沢殿! 乗っておられたのか! 黙っているとは人の悪い!」

「悪い人に、いっぱい狙われたんでね」

「ともかくも無事のご帰還、心よりお祝い申し上げる」

 三島が握手を求めてくるので応じた。さらに田守が名乗る。

「自分は田守広志であります。三島先生の護衛を務めております」

「はじめまして。芹沢鮎美です。三島はん、さっそくですけど、状況を聴かせてください」

「ああ、もちろん!」

 三島と小松基地司令の鶴田都司(つるたとし)空将補から、鮎美が状況説明を聴き終え、今後の方針を生き残った全国民に向けて発信するため、ビデオカメラの前に立ったのは15時前で、地震発生から24時間が過ぎていた。鮎美は小松基地の広報室で動画をネット配信するため収録する。マスコミは来ていないし、呼ばない。

「日本全国のみなさん、とてつもなく大変な地震に遭い、その被害と、これからのこと、すべてに不安でおられることと思います。また、すでにご存じの方もおられることでしょうが、国会議員のうちで生存が確認されているのは私、芹沢鮎美ただ一人です。さらに行政の中央である霞ヶ関も水没しており、行政の処理能力は著しく低下しています。けれど、幸いなことに自衛隊は基地が全国に分散していたこともあり、その大半が残存しており今も救助にあたっています」

 鮎美の言葉を聴いて、背後に立っていた鶴田は自衛隊の戦力は実質的には半減したと説明したはずなのに、国民を安心させるために大半という言葉を鮎美が選んだことに複雑な思いを感じたけれど、顔には出さなかった。同じく鮎美の背後にいる三島も同じだった。鮎美は国民への言葉を続ける。

「また、ほぼ被害の無かった県もあります。秋田県、山形県、新潟県、群馬県、長野県、山梨県、岐阜県、富山県、石川県、福井県、鳥取県、島根県、山口県、福岡県、佐賀県などには目立った被害はありません。これらの県が被害に遭った県を助けるという体制を組みます。具体的にはネット上でも公開しますが、北海道は自衛隊の救援のみで行政においては自立的に運営してください。青森県、岩手県へは秋田県の県と市町村職員が応援する体制をとってください。宮城県、福島県へは山形県が応援してください。栃木県、茨城県、埼玉県へは群馬県にお願いします。千葉県、東京都、神奈川県へは山梨県が応援してあげてください。静岡県、愛知県へは長野県がお願いします」

 鮎美は北から南まで被害県への支援を割り当て、さらに告げる。

「他県への応援をお願いしなかった新潟県、富山県、石川県、福井県へは霞ヶ関の代理をお願いします。具体的には金沢市に臨時の霞ヶ関を置きます。できるだけ国家行政に通じた職員を派遣するよう人選してください。また、中央行政を担う人材が北陸の人だけに集中する弊害をさけるため、各県在住で省庁勤務経験があり、転職または定年退職されている方で志のある方は集まってください。そういった方で、ご家族の介護等、不安のある場合は別途メールにて、ご相談ください。もちろん、各省庁所属の人で幸運にも出張や休暇で生き残っていた方は引き続き同一省庁で働いていただきたいので金沢市を目指してください。また、すでに取りかかっている救援活動で、これまでに述べた各県協力体制と相容れないものも、そのまま続けてください。その有効性と必要性を現場で感じているうちは継続してください。次に自衛隊については小松基地を中央とします。小松にすべての情報が集まるようにしてください」

 鮎美は一呼吸おき、おそらくはこの放送を視聴するはずの畑母神が、すぐに連絡してくるだろうことを想定しつつ、次の話に移る。

「都道府県知事および市町村長が欠け、その代行者まで欠けているとき、かりに職務を代行する人を選任する方法ですが、市町村長においては知事が、知事においては総理大臣臨時代理の私が選任し承認します。目下、宮崎県知事は南国原先生としますが、他の知事で代行者まで欠けているときは小松基地まで連絡してください。また、必要な量を超えての食料品や物資の買い占め、平時の1.5倍を超えての値上げは厳に慎んでください。買い占めについては法人、個人を問わずですし、法人においては通常の過去三ヶ月の平均仕入れ額を超えての購入を控えてください。個人においては食料品は3日分の消費量を超えての買い込みを控えてください。米、ティッシュペーパー等のまとめ買いについても一袋もしくは一括りまでとし、同一世帯で二度並んで購入するなど、せこいことはせんといてください。この遵守について、皆様方の道徳心に強く期待すると同時に、違反について各地の警察および市町村職員に行政指導の権限を与え、なお違反する者について法人名および個人氏名ならびに住民票コード等の個人を特定しうる情報の公表を予定します。法人については登記上の代表者および実質的運営者の個人情報を含めます。この物価統制は今後30日間継続します」

「「……」」

 三島も鶴田も顔色を変えなかったけれど、鮎美が戦時中のようなことを言い出したのも意外だった。さらに鮎美は強い口調で続ける。

「最後に、被害に遭った地域で必要とされているのは医師、看護師、その他の医療従事者です。各県の医師会は医療ボランティアを募り、派遣してください。そのさいは、さきほど申し上げた各県の連携体制に準じてください。くわえて、美容整形外科等の不要不急の医療行為は控えてください。消費者として、これを利用することも慎み、また今の私の発言によって美容整形外科医院の売上は激減することと思いますが、各医院の医師が被災地において救助活動にあたる場合、個々の医院の固定経費を最低限倒産しない範囲で国が補填する制度をつくります。また、当該医師および各医院に勤務していた医療従事者には被災地において活動した場合、国家公務員に準じた給与と、活動中の事故による負傷について公務災害が補償されることとします。以上です。大変な困難ですが、いっしょに乗り越えていきましょう」

 鮎美は頭をさげ、さげたまま録画を終えてもらうと、再生してもらいチェックする。

「うん、これでええですわ。小松基地のHPと、ヨーツーベ、ニタニタ動画にあげてください」

 問題が無かったのでアップロードしてもらった。現在、霞ヶ関を中心とした伝達網が消失しているので、誰でも視聴できるインターネットと自衛隊の無線網で情報伝達することを選んだ。配信して、お茶を一杯飲みきる前に畑母神から通信が入ってきた。

「もしもし、芹沢です。畑母神先生もご無事でよかったです」

「ああ。君も無事でよかった」

「今は、どちらに?」

「巡視船に乗って東京湾付近にいるのだが、漂流物の数が多くて陸には近づけない」

「そうですか。それで、ご用件は?」

「自衛隊の指揮を小松に集めるという件だが、どういう風に決まったのかな?」

「私が決めました」

「…そうか。……」

「畑母神先生は東京の状態を把握しておられますか?」

「ああ、ヘリから視察した。ひどいものだ。標高の高い八王子あたり以外は壊滅している」

「畑母神先生は東京都知事ですが、お願いしたいことがあります」

「どんなことかな?」

「東京都知事としての業務は八王子市の市長か、山梨県知事に任せ、自衛隊全体の指揮をとる防衛大臣臨時代理人をやってもらえませんか?」

「………わかった。引き受けよう」

「助かります。つきましては小松に来ていただけると頼もしいですが、他の場所で指揮をとるのが最適だと判断されるなら、そうしてください」

「うむ…………まずは小松に行こう。ヘリで行く」

「ありがとうございます」

 鮎美が通信を終えると、三島のそばにいた田守が言ってくる。

「防衛大臣の任は三島先生こそ最適であると考えます! 地震発生直後から、もっとも救助に活躍したのは陸自であります! その陸自をまとめたのが三島先生です! あの男は船の上にいたのみ!」

「三島はんには法務大臣をお願いします」

「「法務……?」」

 田守も三島も意外だった。

「芹沢殿、なにゆえ我が法務大臣なのか? 実務経験でいえば、陸自の指揮が最適である。我は佐官であったゆえ、将であった畑母神氏の下風にたつも当然、彼の指揮下でも異存なく働きたい!」

「なぜ、三島はんが法務大臣なのかは、あとで説明します。陸自の指揮は現役の自衛隊員が畑母神先生のもとで十分にやってくれることと思います。むしろ、三島はんには、あなたにしか頼めない仕事を頼みたいのです。お願いします」

「……我にしか、か。あい、わかった。総理代理の任命に異存はない」

「ありがとうございます」

 鮎美は次の仕事に取りかかろうとしたけれど、複数の通信が入っていた。そのうちから鮎美は石川県の知事との通信から受話する。

「もしもし芹沢です」

「さきほどの放送は、どういうことなんだ?!」

「全国の被害状況からみて、金沢市を仮の首都とするのが最適と考えた次第です。残っている交通とインフラ、日本の南北の中央あたりであること、立て直すべき東京、名古屋、大阪の3都市への距離とアクセスなどが理由です」

「む……そ、そうだとしてもだ! そう決める前に知事である私に連絡するなり相談するなりあるだろう?!」

「すみません。その根回しの時間を惜しみました。意志決定の速度を優先した結果です。どうにも受け入れていただけない場合、福井県知事か、富山県知事へお願いしてみます」

「…………。今さら………」

「なにとぞ、よろしくお願いします」

「わかった。尽力する」

 通信を終えると鮎美は向こうが、小娘が、と悪態をついている気がしたけれど、いちいち歯牙にかけない。

「はぁぁ…」

 どうせ事前に根回ししたら、ごちゃごちゃ条件つけたり、検討したりに何時間もかかるやん、結局おらが街さ首都なるならヨシと食いつくくせに、決定プロセスに知事として何の手柄もないとグチグチ言うて、よそに頼む言うたら慌てて取りにくる、まあ自分のせいで首都になりそこなったとなれば県史永遠の禍根やもんな、と思いながら鮎美は基地の給食班が用意してくれたオニギリを一つだけ食べて、お茶を飲み、次の通信を受ける。茨城県知事が行方不明で代行者もおらず生き残った30代の県議が知事を代行することに承認を求めてきた。南国原と違い、まったく知らない人物で実績も人柄もわからず、簡単に承認してよいものか迷い、また無所属ということもあって政治信条など色々と問い、ともかくは任せようと判断したので言う。

「わかりました。不破島明雄(ふわじまあきお)県議を茨城県知事臨時代行として承認します」

「ありがとうございます。承認されたから言うのですが、実は私も同性愛者です」

「え? そうですか、カミングアウトして当選しはったんですね?」

 気がゆるんで思わず関西弁で問うたけれど、不破島は軽く笑って言う。

「いや、今、カミングアウトしました。総理代理に言った今が初めてです」

「それは……どうも……無線ですから、誰か傍受してるかもしれませんよ…」

「ははは! 吹っ切れましてね。津波が何もかももっていった。とりあえずは結婚してみた妻も、それなりに可愛かった2歳の娘もね。残ったのは県議としての責任くらいのもんです」

「……それは……ご愁傷様です…。同性愛者と、はじめに言うてくれはったら、よかったのに……」

「それを始めに言っては、まるで同類だから承認してくれと、ねだっているようなものじゃないですか。嘘をつくことだってできる。総理代理が行政指導を便利につかったように。あの物価統制は、効果的ですよ。少々の罰金より、ずっと残るかもしれない個人情報の公開の方がきつい。とはいえ、公表は予定にすぎず、行政処分には法的根拠がいっても、行政指導にはいらない。二重三重に法のうまいところだけを使った。それに今頃、無事な県の美容整形外科医は真っ青でしょうな。お客の方も、被災地は死ぬか生きるかの瀬戸際で、日本海側は平穏で羨ましいが、さすがに、のんびり脱毛や二重まぶたの手術をしようって気にはならんでしょう。だから本当は総理代理の発案は美容整形外科医を救ってやることになるのに、ヤツらの一部は激しく逆恨みするでしょうな。何にしても医師は医師だ、医師団の到着、期待してますよ。では!」

 不破島が無線を切った。

「フフ……言いたいことを言う男やな。顔を見てみたいわ」

 人として好感を覚えたし、いつか会ってみたいと思った。さらに何件もの通信に対応した後、夏子にも連絡を取る。夏子へは鮎美のスマートフォンから電話通信網でかけた。

「加賀田知事にお願いがあるんですけど」

「着信を見た瞬間に何かお願いされるとは、思ったよ。で、何?」

「財務大臣臨時代理人をやってほしいんです」

「臨時……代理人?」

 自衛隊出身の畑母神と違い、学者畑から政治家になった夏子は、あえて代理人という言葉を使うところにひかかって問い直した。完全な任命による就任でなく、代理人であれば、いつでも代理権を解除することができる。そういう鮎美の狙いを感じた。

「はい、代理人です」

「………完全な就任じゃないのは、いいとして……。それって県知事と兼務することの抜け穴も狙って?」

「はい」

「お~ま~え~はァ! うちの県職員に三重県と京都府のフォローまで押しつけておいて、知事の私を出向させようっていうの?!」

「地震発生は日本時間で15時前、マーケットが閉まるまで2時間やったし、東京市場は市場そのものが水没しましたけど、ヨーロッパは動いたし、ニューヨーク市場は西海岸の被害と相場の激変を恐れて、ヨーロッパが閉まると同時に閉めてはる。そやけど一気にユーロ高、円安ドル安に振れてますやん。ニュージーランドドルなんて、もう一段、さがってるし」

「不幸中の幸い、地震発生は金曜午後で、この土日はマーケットは動かない。今、ドミニクがIMFとして世界全体に月曜から大規模災害時の相場固定マニュアルを発動しようとしてくれてる。まさか、この前、ハワイで作ったマニュアルが、1ヶ月と経たないうちに使われるなんて……」

「相場の激変は誰もが避けたいはずです。それで儲かるのは、ごく一部、大半は大損する。そのマニュアルを理解してて財務の舵取りができる人間で、うちが頼める人間は一人しかいてくれはりません」

「だからって……県知事に財務大臣を……実質兼務させるのは……」

「日銀も大阪造幣局も東京市場も大阪市場も各都市銀行も水没。そろそろ海水が引いて証券やら債券証書、手形、国債、紙ベースでも電子化されてても、ともかくは復旧させんとあきません。こんなこと18歳の実務経験が無いもんに指揮がとれると思います?」

「……手伝っては、あげたいけど……」

「各地方自治体に財務省から出向してる人や定年退職した人らを集めて、水が引いた東京で回収するもん回収して、金沢市で日本の財布を立て直してください。お願いします」

「………私の身体は二つは無いのよ。県内だって少しは被害あるし、三重京都のフォローも」

「副知事以外にも県知事の代理人を立てて、三重か京都方面だけでも指揮してもらうとか」

「そんなに都合良く代理人なんて見つからないし。それなりの経験のある人材でないと」

「御蘇松先生では、あきませんか?」

「…………あなたねぇ、選挙の結果を何だと思ってるの?」

「それなりの接戦でしたやん。ある程度の信任はあるし。何より県職員を指揮する経験は1年未満の女性知事より8年ある人の方が。たとえ引退してはっても、健康なんやし頑張ってくれはりますよ」

「老骨に鞭打つ18歳かぁ……。けど、県知事と大臣の兼務……県民国民が納得するかな? こんなときに、お金の話もなんだけど、っていうか、財務はお金だけど、私は知事としての報酬と大臣代理人としての報酬、ダブル取り?」

「大臣代理人の報酬を丸ごと、もらってください。県知事としての報酬は、右から左に御蘇松先生へ代理人報酬として。どちらも実質業務があっての報酬ですから、公選法上いけますやん」

「ギリギリね……かなり、いろいろ言われそうだけど、いろいろ言うマスコミも大半は水没したし」

「財務省が復活せんかったら、ダブル取りどころか、県知事報酬も止まりますよ」

「たしかにね。わかった。じゃあ、御蘇松先生がOKしてくれたら、私もOKするよ」

「ありがとうございます!!」

「知事選で負けた相手の代理人をするって、男性のプライドとしては、けっこう微妙だよ。引き受けてくれない可能性の方が高いと思って」

「頑張ってお願いしてみます!」

 すぐに鮎美は御蘇松へも電話をかける。選挙応援した仲なので番号は知っていた。鮎美が依頼内容を話すと、笑われる。

「ははは、あなたには選挙を応援してもらったのに苦杯を舐めさせた借りがありますからね。それを死ぬまでに返せるなら本懐ですよ。引き受けましょう」

「ありがとうございます!! お身体には気をつけてください!」

「むしろ、あなたこそ、気をつけてください。ちゃんと食事を摂り、十分に休んで」

「はい、ありがとうございます! 気をつけます!」

 電話を終えると、さすがに疲労を感じた。まだまだ、やるべきことはあるのに頭と身体が疲れている。不意に知念と長瀬を見ると、やはり二人からも疲労を感じる。長いフライトと交代要員の無いことから、かなり疲れているはずなのに、ずっと鮎美についてくれている。

「三島はん、うちが今、暗殺されると日本は、どうなると思う?」

「……極めて混乱する。さしあたって防衛大臣、法務大臣、財務大臣と指名してはいるが、すべて臨時の臨時。法的根拠たる芹沢殿を失えば、もはや那須御用邸におられる陛下のみが国家の代表となる」

「たった15歳で国の象徴か………しかも、政治家と違って任期なしで、ずっと……。三島はん、うちと陛下の警護を自衛隊に頼める?」

「すでに陛下は陸自が護衛している。芹沢殿についても今は基地内ゆえ、取り立てて要員をあてていないが、そのつもりである」

「ほな、できたら、女性自衛官か、男性同性愛者の自衛官とか、あてられへん?」

「同性がよいのはわかるが、なぜゲイを望む?」

「お互いにセクハラせんやん。女性自衛官やと、うちが我慢すれば済むけど、ゲイやと、お互いに気楽やなって」

「かっかっか! あい、わかった。その手の人脈には、よく通じておる。用意いたそう」

「え? オレらお払い箱っすか? こんな急に? 警視庁に戻っても……」

 知念が淋しそうに言うと、鮎美は知念の背中を叩いた。

「知念はんと長瀬はんも、おって。逮捕権のある警察官がいてくれんと、ややこしいときあるやん。けど、今から二人体制で警護せんと、一人ずつ交替にして片方は休憩してて」

「「わかりました」」

 疲労を自覚していた二人が話し合い、まず知念が休憩に入った。鮎美も目を閉じて考え事をする。太平洋岸にあった原子力発電所の被害状況も認識しなくてはいけないし、避難を促すべきか、さきほどの放送で触れなかったように、まだ黙っておくべきかも判断しなくてはいけない。太平洋ベルト地帯の工業の復活も、残った人口把握も住民票の整備も、何もかも問題だらけで急に鷹姫が憎らしくなってきた。

「こんなときに秘書の一人もおらんなんて……」

 鷹姫と鐘留は帰ってしまうし、陽湖は台湾、静江は地元にいるはずだった。司令室の窓から外を見ると、鷹姫たちは通用門そばの庭に集まっている。そのうちには迎えのバスが来て帰ってしまう。ずっと鬱ぎ込んでいる鷹姫は他の生徒たちから離れた位置で地面に座って膝を抱いている。そんな様子を見かねたのか、一部の女子たちが優しく声をかけて背中を撫でたりしているし、給食されたオニギリを食べさせたりしている。鷹姫はビクビクと怯えながらも周りが優しくしてくれるので、礼を言ってオニギリを食べている。

「……鷹姫……」

 ずっとクラスメートたちを見下した風にしていたのに、今は自分が一番下という認識に変わったのか、恐る恐る接している。逆に女子たちの方も今まで明らかに見下した目で見てきた鷹姫がへりくだってくれるので、仲間の輪に入れようとしていた。

「………そんなん……タカキちゃうやん……低い……ヒクキやん……」

 見ていたくなかった。誇り高かった者が挫折して卑屈になっている姿は痛々しい。鮎美のスマートフォンが鳴り、静江から電話が入っていた。

「もしもし、うちです」

「生きておられたのですね」

「おかげさまで」

「でも、いきなり、なんて勝手な発表するんですか!」

「ベストやと思ったんやけど?」

「どうせ首都を移転するなら六角市か三上市、新幹線がとまる井伊市にしてくださればよかったのに!」

「地元根性丸出しやな。現在、新幹線は運行してないし。安土城を日本の中心にした時期は京都に近くて、湖上交通も盛ん。敦賀への便も、東海道を押さえる意味でもよかったけど、現代では空港もないとこに首都機能はおけんよ。敦賀の原発も問題やし」

「……それにしても……。もう済んだ話ですね……たしかに金沢がベストです……。これから、どうされるつもりですか?」

「情報収集と内閣の再編よ」

「本気で総理大臣になるつもりなの?」

「うち以外に誰もおらんやん」

「お兄ちゃんの方が、うまくやれるはずです」

「…………落選中やったやん」

「2期も衆議院をつとめてます! お父さんは大臣だったし! 芹沢先生は三ヶ月と任期を過ごしてないじゃないですか。どう考えても無理ですよ!」

「それを言い出したら全国各地に落選中の自眠党議員がいはって誰が総理になるか収拾がつかんようになるよ。5期6期の人もいはるやろ?」

「それは………。じゃあ、芹沢先生が総理だとして、内閣の他のポストは、どうするんですか?」

「防衛、法務、財務は決めたし、本人もOKしてくれたよ」

「誰に?」

「畑母神先生と三島はん、加賀田知事」

「加賀田知事は眠主党ですよ?!」

「そういう場合でもないやん。任せられそうな人に頼まな」

「畑母神先生はともかく……三島さんも元自衛官で法務畑は……。お兄ちゃんを官房長官にしてください! もしくは国土交通大臣! いいえ、お父さんに国土交通大臣をやってもらいます! まだ元気だし! あと応野先生に経産大臣! それから…」

「って、思いっきり地元で固める気なん?! 薩長藩閥みたいに言われるで!」

「このチャンスを逃す手はないですから!」

「チャンスって……人が、どれだけ死んだと……。地元の被害は、たいしたことなかったん?」

「はい、ほとんど被害はありません。京都にいたので、あやうく津波に飲まれるところでしたけど。お兄ちゃんも元気です。父も母も」

「自分の周りが無事やと感覚がちゃうんやね……」

 鮎美は考えないようにしているけれど詩織のことを想い出してしまい、胸にさげている結婚指輪を押さえた。

「官房長官をお兄ちゃんでお願いします! 他にあてはあるんですか?」

「……無いけど…」

 他に鮎美が頼めそうで国政の知見がある人間といえば、直樹くらいで、その直樹たちが元気なら、そもそも鮎美が総理にならなくて済む。

「わかったよ。石永先生を官房長官でお願いします。本人に伝えて、小松に来てもらえます? あ、もう少ししたら、こっちからバスが出て、それで生徒をみんな帰すさかい、戻りのバスに乗ってきてくれてもええよ。他に支部のスタッフとかで来てもらえる人には来てもらって。こっちは自衛隊の人ばっかりやし事務作業を頼める人がほしいんよ。できれば、顔見知りで」

「やっぱり芹沢先生だって使い慣れた人を使いたいんじゃないですか」

「うっ……まあ」

「わかりました。バスの件は宮本さんと調整します」

「あ…鷹姫は、もう秘書を辞めるって言うてるからカネちゃんにしてみて」

「はァ? なんで辞めるんですか? またケンカでもしたの?」

「ケンカちゃうけど……本人が、もう嫌やって……家に帰りたいって」

「こんなときに、そんなことを言い出すなんて!」

「………」

「しょせん高校生ですね。この大切なときに……さんざん色々教えてあげたのに……肝心なときに役に立たないなんて」

「そんな風に鷹姫を言わんといてあげてよ」

「言いたくもなりますよ! あの子、あれで月に50万ももらって、さんざん手間かけて勉強させたのに! これじゃ公費で海外留学して大学院を出したのに辞める官僚みたいですよ! 50万っていえば、高卒公務員の初任給3倍近い額ですよ!」

「……修学旅行中、いろいろ可哀想なこともあったんよ。着陸前には大阪が沈むのを見たし」

「でも、五体満足なんですよね?」

「まあ、怪我はしてないよ」

「ちょっと私、電話してみます。ふざけすぎ! 仕事なめすぎ!」

 静江が電話を切った。心配なので鮎美は窓から外を見る。すぐに静江は鷹姫の携帯電話にかけたようで、鷹姫は着信表示を見つめて受話するか悩んでいる。かなり長時間、コールが続き、諦めて鷹姫が電話に出ると、何か言われている。しばらく見てると鷹姫が泣き出した。さらに静江から何か言われているようで泣きながら答えている。

「静江はん……きついこと言うてるんやろなぁ……鷹姫……」

 泣きながら電話を受けている鷹姫をクラスメートの女子たちは心配して囲んでいる。囲んでもらった鷹姫が、おもらしをした。小さな水たまりが鷹姫の足元にできて、見かねた留香が電話を替わり静江と話し始め、鷹姫は他の女子にハンカチやティッシュで脚を拭いてもらい、慰められながら泣いていて、見ていた鮎美は嫌悪感で胸がいっぱいになった。

「……な……なんちゅー………情けない生き方なんよ、それ……女の腐ったみたいな……困ったことがあったら、泣いて漏らして周りに助けてもらうって……そら発達障碍いわれるわ……鷹姫、そういう生き方、卒業したんちゃうの? 島に帰っても、そんな鷹姫では……恥さらしなだけ……逃げ出すセミやカエルやあるまいし……」

 どうにも我慢できなくなって鮎美は鶴田に問う。

「この基地って剣道場ありますか?」

「はい、あります」

「少し貸してもらえますか? 根性叩き直してやりたいヤツがおるんで」

「はい……どうぞ」

 鶴田はテレビで紹介されていた鮎美のイメージとは違うなぁ、と思いつつも、いっそ総理としては、可憐で知的な同性愛少女よりも、自分たち隊員と似たような方法で根性をなんとかしようとする関西弁少女の方が頼もしいとは感じた。

「田守はんも、いっしょに来て」

「はっ!」

 日本刀をもった田守と鮎美、三島、長瀬が司令室を出て、通用門そばにいる鷹姫のところへ行った。鮎美が近づくと女子たちは道を開けたけれど、鷹姫は鮎美の顔を見て怯えたように目をそらした。何を言われても秘書を辞めて家に帰りたい、と震える。

「あんた、島に帰って、どうする気なん?」

「……ぐすっ……お家で……お手伝いをします…」

「そんで岡崎はんの嫁になると?」

「…はい……」

「いくら見た目が美人でも、発達障碍に甘えて、困ったことがあったら小便垂れて泣くような女が、まともな嫁になると思うん?」

「っ…」

「自分の姿、お母さんに誇れるん?」

「………ぅぅ……ぅぅ…」

 鷹姫が座り込んで膝を抱えて丸くなった。まるで赤ん坊に戻りたいというような姿勢だった。

「どうなん?! 島に帰っても恥さらしなだけちゃうの?!」

「……ぅぅ………もう……私は……消えたい……消えてしまいたい…」

 死にたいとは言わないのは、かろうじで亡き母と同じところに逝くのは、まだ先であるべきだと鷹姫自身がわかっているからだと想い、鮎美は田守が持っている日本刀を指した。

「そこまで恥さらして生きるんやったら、いっそ死に! 自分で腹裂いて死んでみせい!」

「っ…」

「田守はん」

「はっ」

 まだ短い付き合いだったけれど、話の流れから田守は察して日本刀を鷹姫の前に置いた。

「言うとくけど、腹を斬るのは、めちゃめちゃ痛いよ」

「……ぅぅ……ぐすっ………」

「早う死に」

「っ……」

「おい、芹沢!」

 義隆が言ってくる。

「やめてやれよ!」

「あんたは関係ないし黙ってて」

「なっ……お前さ! 今のお前、月谷が暴走したときと同じ感じだぞ!」

「…………」

 言われた鮎美は問うように鐘留を見た。

「……アユミン……なんか怖いよ」

 泰治も言ってくる。

「別人みたいだよ。芹沢さんは宮本さんを大切に想っているとボクも感じていたのに」

「………」

 鮎美は自分の頬を撫でる。期せずして一国の最高権力者になっていて、今や思いつくままに首都を移し、県の知事代行を指名し、仮とはいえ組閣している。その自覚と自負が鮎美の気持ちを騒がせている。正直、人を人と思わぬほど、意のままに人を動かす気でいた。それを指摘されて、あの穏やかな陽湖でさえ、権力に酔ったことを思い出し、自戒する。

「おおきに。ちょっとは冷静になったよ。鷹姫」

 鮎美は震えている鷹姫のそばに膝をついた。

「あんたは、よく役に立ってくれた。今のうちがあるのは、あんたのおかげよ。うちを三回も助けてくれた」

「………」

「うちが市議選のときビビって立てんかったのを叱ってくれたし。パンチラ写真が悲しいて記者会見中に泣き出したうちの代わりに場をもたせてくれたし。何より、あんたがおらんかったら、うちはお腹裂かれて、今頃は墓の下。そして日本は国会議員が一人もおらん状態で大混乱やった。あんたは日本を救ったんよ」

「……私は……日本の恥です……」

「立って。こっち来て」

 鮎美は立たせた鷹姫を基地内の剣道場に連れ込む。心配なので生徒たちも見に来た。気が利く鶴田が、すでに二人のサイズに合う防具と竹刀を用意していてくれた。二人とも制服の上から防具を身につけると、竹刀を握って向かい合った。

「根性叩き直したる」

「…………鮎美では……無理です…」

「言うたな、小便垂れ!」

 まっすぐに打ち込んだ鮎美の竹刀は払われて瞬時に打ち返されていた。面をくらい、防具越しでも痛いけれど、すぐに再び打ちかかる。けれど、結果は何度仕掛けても同じだった。鷹姫の目に気力はないのに、長年の稽古の成果でブランクのある鮎美の動きには容易に対処できている。実力の差が大きすぎて、気力は関係ない状態だった。

「…ハァ…ハァ…くそっ…一回も…」

「…………」

「…一回くらい…ハァ…勝てても……ハァ…よさそうなもんやのに…ハァ…」

「………ろくに稽古もしていないのに、私に勝てるはずがありません」

「はは、そうそう、そういう高飛ぃな感じ、ええよ」

「……」

「たぁっ! …と見せかけて!」

 真っ直ぐな打ち込みと見せかけて、タイミングをずらして胴を狙ったけれど、鷹姫は難なくかわして打ち込んできた。また負ける。

「ハァ…痛ぁぁ……ハァ…」

「いつまで続ける気ですか? あなたは忙しいはずです」

「あんたが、うちの秘書を続けると言うまでよ」

「…………」

「発達障碍がなんやねん!」

 また打ち込むけれど、また負ける。それでも続ける。

「うちは同性愛者や! 個性といえば個性やけど、欠点といえば欠点や! けど、それだけがうちとちゃうし、同性愛者やからこそわかることもある! 哲学者ミシェル・フーコーもゲイやった! 発達障碍のもんかて、いろいろ活躍してる! 一つのことに集中すんのも! 空気が読めへんのも、いい方に働く場合かてあるやん! 普通の人が気にせんことを、きっちり記録にしたファーブルもシートンも! そういう気質があるやん! 鷹姫がやたら詳しい戦国時代のことも、大いに参考になってるし!」

「……私は………ただの愚か者です……たいていの発達障害者は、……なんの役にも立たない……クズです……穀潰しです…」

「ああ、そやね! そういう面もあるわ! けどな、あの野口英世かって、金銭感覚はメチャクチャやし! 女の実家に金をたかるし! そのくせ名誉欲が極度に強い! 医大卒やない医師開業試験あがりなこと、ずっと気にするし! たまたま当時の小説に、金と女に汚い野々口清作(ののぐちせいさく)って登場人物がいたからって、野口清作(のぐちせいさく)って名前やったのを英世に変えてるくらいや!」

「……そのような……偉大な人物と対比しないでください……ほとんどの発達障害者は、できそこないなのです……」

「ちゃう!! まったく違う!! 極端な個性をもつ可能性を秘めた個体や!! ほかの研究者がやらんような集中力で病原体を見つけるんや!! この一つの発見で、いったい何十万人、何百万人が救われる?! エジソンもライト兄弟も! 発達障碍気味やった! けど、人類に大きな貢献を残した!! ほな、たとえ一万人の発達障碍者が穀潰しでも、たった一人のダイヤモンドがあったら、十分に全体としては元が取れるねん!!」

「……もとが……取れる……そういう問題ですか……」

「そういう問題や! 割に合うなら、そんで有益や! そやから自然の摂理で! 可能性を試す個体として!! 発達障碍って個性をもった個体が生まれてくるねん!! 可能性を試せば大半は失敗に終わる!! そんでも失敗があるから成功があるんや!!」

「………」

「みんなが均質な健常者やってみぃ、いまだにペストも克服できんわ! 空気読んでたら地球は丸いなんて言えん!! 発達障碍者がおらんかったら、今頃もせいぜい弓が主力武器で、流行病でバタバタみんな死んでたわ!! そんだけの価値の可能性があんねん!! 発達障碍者には!!」

「…………」

「すべて人間にはな! 強力な牙も爪も無いねん!」

「………」

「走っても馬におよばん!」

「…………だから?」

「多様な個性と才能があってこそ人間やねん!」

「………」

「そして人間は死を理解する! 仲間の死、家族の死! 限りある命やと、知ってるねん!」

「……………」

「しかも理不尽に終わることもある! 明日死ぬかもしれん! 昨日死んだ人が、どれだけいたか!! 今も誰か死んでる! あんたが手伝ってくれたら、うちは2倍も3倍も頑張れる!」

「………」

「あんたがおらんかったら、うちは判断を間違うかもしれん! うちかて疲れて何もかも投げ出しとうもなる! うちを支えい! 日本を支えいや!! たかが何度か自分らしいない自分、理想の自分やない自分を晒したくらいで! 島に戻ってフジツボみたいに引き籠もって生きるんか?! 生きたかったのに何千万何億と他の人らは死んで逝ったのに!!」

「………」

 また鷹姫が勝つ。

「ハァハァ、こんなに元気で! どんだけ打っても負けんくせに! お家に帰ってシクシク泣いて過ごすんかい?!」

「……」

「この弱虫! 死んだ気で立ち直れや!! 発達障碍がなんやねん?! 失敗に終わるか、なにか役に立つか、もっとトコトン試せや!! ぁ…」

 鷹姫が防御しなかったので鮎美の一撃が通り、面が入った。

「…ハァ…ハァ…わざと…ハァ…」

「わかりました。私は死んだのです」

 そう言った鷹姫は防具を外すと、田守がもっていた日本刀を抜き、一息に長い髪を切った。もうポニーテールを結えないほど短くなる。

「鷹姫……」

「死んだ気で、お仕えします。もう一度、死ぬときまで」

「…鷹姫!」

「「「おおっ!」」」

 三島と田守、長瀬が感動しているし、他に見ていた生徒たちと、非番だったので見物に来ていた隊員たちも詳しく事情はわからないものの、うまく二人が和解したようなので拍手を送った。そのタイミングで迎えのバスが数台、基地に入ってきた。点呼しながら生徒たちがバスに乗る。鮎美と鷹姫は乗らず、鐘留は申し訳なさそうな顔で言ってくる。

「……アタシ、秘書補佐は続けるけど……一回、家に帰りたい。ごめん、アユミン」

「うん、ええよ。ネット関係のことやったら、どこにいてもできるやろし。静江はんも、こっちに来るとなると、地元に一人いてくれるのも助かるし」

「ごめんね」

 鐘留がバスに乗り、乗る予定だった泰治が言ってくる。

「なぁ、芹沢さん、いや、芹沢総理」

「さんでええよ。なに?」

「ボクにも何か手伝えないか?」

「え?」

「ボクも日本のために何かしたい。どうせ、帰っても四月からボクが行くはずだった大学も名古屋だったから無くなってるだろうし。雑用でも護衛でもやるよ。ボクなら芹沢さんといても、セクハラしないし、したくもならないだろ」

「そやね。ちょっと頼みたいこともあるし」

「どんなこと?」

「大きな災害の後って必ずデマが流れるねん。そして少数者への差別が燃え上がる。関東大震災の後も、朝鮮人が井戸へ毒を入れたとか、結果、自警団が組織されて、その暴走で少数者へのリンチがあったり。現代の阪神淡路大震災の後でさえ、外国人が放火したとか流れたんやけど、ホンマは停電が回復した後の漏電による出火やってん。そやから、少数者の気持ちがわかる人間に、差別やデマを許さないという自警団をやって欲しかったんよ。ネット情報ならカネちゃんが得意やけど、あの性格やから差別抑止どころか、差別助長して楽しみそうやし。泰治はんやったらゲイを隠してきた過去もあって、少数者の立場で物事を考えられるやろ?」

「ああ、やらせてほしい」

「ほな、決まりやね」

 鮎美と泰治が握手をしていると、義隆も言ってくる。

「オレも役に立てないか? 軍事関連の話なら得意だぞ」

「う~ん……それは、本職の隊員さんがいるし」

「空気読まないのも得意だ」

「はいはい。あんた異性愛者やし、うちや鷹姫をエロい目で見るよね。さっきも道場で倒れたときとか、もろに、うちのパンツ見てきたし」

「あんな制服のまま剣道するとか、パンツ見てくださいって空気だったぞ。オレは、ちゃんと空気を読んだ」

「わかったよ。あんた観点が違うから貴重な意見をくれるかもね。とりあえず残って」

 残るメンバーが決まりバスが出る。鐘留は鮎美たちが見えなくなるまで手を振ってから隣席になった仁美に問う。

「ヒトちゃん、いいの? あいつと付き合ってたのに」

「家には帰りたいし」

「だよね。でも、誰かに盗られるかもよ?」

「芹沢さんレズだし、宮本さんも男に興味ない感じだし許嫁いるらしいし……あ、でも……国友くんゲイで……ま、大丈夫でしょ。ずっとバレー部で、いっしょでも問題なかったわけだから。気持ち悪い想像させないで」

「ごめん、ごめん」

 鐘留は流れで鮎美に身体を許したことは言わないでおこうと思いつつ、バスの車窓を眺めた。北陸自動車道を使っているので、すぐに福井県に入り、直線ばかりなので眠ってしまい、敦賀地方の山道で曲がりくねる頃には熟睡していて六角市最寄りのインターで高速道路をおりる頃になって起きた。

「っ……」

 起きてから、どうしてナプキンを着けず、乗車前にトイレにも行かずに眠ってしまったのか、ひどく後悔して泣きそうになる。また親に殺される悪夢を見て、下着とスカートを濡らしていた。

「緑野さん、どうしたの?」

 同じく寝ていた仁美が気づく。

「ぐすっ…ぅぅ…」

「………。あ~……また、しちゃったの?」

「っ…ぅうっ…」

「はいはい、声あげて泣かない。黙ってれば、わかんないよ。私たち何日、お風呂に入ってないと思う? 鼻が慣れてるからわかりにくいけど、超臭いし。バスの運転手さん可哀想ってくらい匂ってるよ。今さらオシッコ一回分くらい誰も気づかないって」

 仁美の言葉通り、鐘留が声をあげて泣かないようにしていると、誰も気づかずバスは学園に到着した。鐘留はスカートの後ろが濡れているので一番最後におりた。保護者たちが迎えにきていて、親子が抱き合っている。あと少し早く関空に着陸していたら、この再会は無かった、我が子が生きていてくれて嬉しくて泣いている。抱かれた生徒の方も泣き出していた。

「緑野さん、鮎美は?」

「「マザー陽湖は?」」

 他の保護者同様、迎えにきていた玄次郎と陽湖の両親が問うてきた。教師からの連絡体制が万全ではなく抜けがあるようで、陽湖がマザーの称号をえたことは伝わっていても、陽湖が帰国していないことは伝わっていないようだった。

「自分の娘をマザーって呼ぶとか……。えっと、アユミンは小松に残って総理大臣になるって」

「そうか。………あの放送……本気か……」

 玄次郎は娘が帰ってこない可能性もわかっていたらしく落ち着いている。

「「マザー陽湖は、どこに?」」

「月ちゃんは………えっと……いろいろあって……もう少し帰るのが遅れるかも」

 とても両親に向かって台湾に置いてきたとは言えなかった。

「宮ちゃんも残ったし……宮ちゃんのパパと義理ママは?」

「宮本さんのところは、下の妹さんが亡くなられたので家におられるよ」

「そう……」

 ほとんどすべての生徒に保護者が迎えにきているのに、鷹姫にだけ迎えがないのは可哀想だと感じた。泰治と義隆の両親がいないのは本人が連絡したからかもしれない。鐘留は玄次郎を見ていて違和感を覚えた。ほとんどの保護者は両親で来ているし、片親の場合でも母親が来ている感じなのに、主婦で近所にいるはずの鮎美の母親がいないのには違和感がある。

「アユミンのママは?」

「……。……」

 玄次郎が答えにつまり、陽梅もつらそうにしている。鐘留は空気が読めないわけではないので、察した。

「もしかして……アユミンのママ……死んだの?」

「……ああ」

「琵琶湖の津波で?」

「そうだ」

「…………あ……あの……アユミンは結婚した女の人も東京で……大事な人の情報については……いいニュースしか聞きたくないって……ショックで仕事できなくなるから……朗報しか教えるなって……言って……ました」

「そうか………あいつは……賢いな。では、黙っていてくれ。オレも言わない」

「うん………」

 急に鐘留は不安になった。どうして、まだ自分の両親が顔を見せないのか、とても不安になり、自宅の方へ走る。学園と自宅は、ほとんど離れていない。校門を出て、少し進み、街の光景を見て愕然とした。

「……アタシの……家が………無い………」

 あったはずの場所に自宅がない。

 何もない。

「………アタシの家は? ………ママ……パパは?」

 自宅は消えていて、基礎しか残っていない。むしろ基礎も消えていてくれたら、ここは自宅のあった場所ではないと思い込むこともできたのに、基礎があるおかげで思い知るしかない。庭にあった2本の樹、早世した二人の弟を想って母が植えた樹も、根っこごとさらわれている。

「………………」

 鐘留は腰が抜けて歩道に座り込んだ。

「……ハァ……………ハァ………うそだ……………これは………違う………こんなことは………アタシの人生じゃ……ない……」

 泣いたら受け入れてしまう気がして、鐘留は泣かなかった。なんとか、否定する方法を考える。

「………アタシの……家………アタシの………」

 歩いて追ってきた玄次郎が気の毒そうに言う。

「緑野さんのご両親は…」

「聞きたくない!! アタシも朗報しか聞かない!! いいニュースしか聞かない!!」

「………」

 そう叫ばれると玄次郎に言葉はなかった。この付近で亡くなった人たちの遺体は、ひとまずは学園の体育館に安置されている。そこに美恋も、鐘留の両親も横たわっている。姫湖の遺体だけは郁子が抱いて帰っている。

「……ハァ………ハァ……」

「…………」

 玄次郎も立ちつくすしかない。陽梅と啓治(けいじ)が教師から陽湖のことを聞いてから、鐘留を心配して来た。台湾にいると聞いて、娘のことも心配でならないけれど、生きてはいてくれる。死という情報とは天地の差がある。陽梅が鐘留の背中を撫でた。

「シスター鐘留、私たちの家に来てください」

「ああ、おいで。これも神の導き、ボクたちの娘だと思って迎えるから」

「っ、うっさい!! アタシはアタシ!! 導きなんかない!! どっか行け!! クソ宗教!!!」

「「…………」」

「さっさと消えろ!! この!!!」

 鐘留が自宅跡の土をつかんで投げつけると、陽梅と啓治は退散した。

「ハァ……ハァ……」

「…………」

 玄次郎は鮎美が産まれた日にやめたタバコを吸いたくなった。このまま鐘留が落ち着くまで眺めているしかない。三月なので、まだ寒いし、もう暗い。玄次郎は意図して話題を変える。

「鮎美は修学旅行中、どうだった?」

「……………最悪だった……」

「鮎美が何かしたのか?」

「……宗教が……最悪……」

「そうか」

 玄次郎と鐘留のそばにタクシーが停まった。静江と石永がおりてくる。

「ここ、かねやさんがあった場所ですよね?」

「…」

 玄次郎は厳しい顔で人指し指を唇にあてた。それで静江も石永も言ってはいけないことなのだと悟る。石永が問う。

「自分たちは、これから小松へバスで向かいます。芹沢総理代理へ伝えることや、渡す物はありますか?」

 その口調で石永らが湖水による津波の犠牲者を氏名までは把握していないのだとわかった。

「いえ。むしろ、あまり色々なことを伝えない方がいいでしょう。それでなくても、あいつが結婚したと想っていた人は東京にいたし。あいつ自身も仕事に集中するため、個人的な不幸なニュースは知りたくない、と言っているそうです。小松でも、そういうニュースに触れないよう配慮してやってもらえますか?」

「わかりました。では」

「娘さんの体調にも、お気持ちにも、気をつけます」

 石永と静江は学園まで歩き、先についていた党支部の職員たちとバスに乗る。石永らの一行は生徒たちに比べれば少人数なので、バスは淋しいくらいガラガラになった。

「お兄ちゃん、これから日本は、どうなるの?」

「そういう不安そうな顔はするな。オレたちが不安になれば、国民はパニックになる」

「……はい」

「眠れるときに寝ておけ。小松についたら徹夜かもしれない」

 そう言って石永は目を閉じ、これからのことを考えつつ眠った。

 

 

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