第56話 3月11日 夏子、石永、静江、畑母神、百色、翔子、直樹、音羽、ワンコ

 2011年3月11日正午過ぎ、夏子は京都市中京区丸太町にある京都地方裁判所の地下一階食堂で20歳前後の若者たち5人と、その親数名、そして弁護士3人と安価な定食を食べながら、話し合っていた。

「加賀田知事、やっぱりボクらのお金は返ってこないんでしょうか」

 問いかけた青年は京斗衛生専門学校の元学生だったけれど、学校そのものが2009年4月に39億円の負債を抱え、学校の土地建物が強制執行によって差し押さえられたため、授業を受けることができず、授業料や入学金の返還を求めていた。他の若者たちも同様で、とくに入学を予定していた者は入学金を含めて150万円前後の支払いをしたのに一度も授業を受けることができず2年が過ぎているし、お金は返ってこないのに奨学金や奨学ローンは返済せねばならず社会問題になっている。その問題に夏子は大学時代の恩師であった法学教授との人間関係と、立候補予定だった県の若者も被害者の中に多く、当初から関わっていたので県知事となった今も時間を割いている。今日は午前中から被告証人尋問で、それを傍聴した後の昼食時間だった。夏子は丁寧な口調で答える。

「学校に、どれだけ財産が残っているかによりますよ」

「京都府の学校教育課の責任は追及できないんすかね?」

「行政は許認可しているだけで、経営の中身まで保証しているわけではないですから難しいでしょうね。吉田先生」

 夏子は弁護士に話を振った。弁護士も手弁当で参加している。

「うん。提訴時にも説明したけれど、京都府を被告に加えるのはしていないからね」

「加賀田知事が仲いい、あの芹沢議員がやってるセクハラ写真訴訟で週刊紙だけじゃなくて出版社も印刷所も全部を被告にするみたいな手法はダメなんすか? オレらの場合だったら学校法人だけじゃなくて理事長一家や経営不振を知っていながら入学募集してた教師たち、オレらが振り込んだ入学金が毎月ドンドン流れてるコンサル会社、あと京都府、それに校舎を差し押さえした、なんとかメディカルって会社も含めて全部。そうすれば、どうにか少しはお金を取り返せるんじゃないですか?」

「あれはねぇ……かなり、きわどいというか、無茶というか、道義的にはセクハラ写真を頒布した作業過程に加わっているから、請求したくなる気持ちもわかるけれど、普通の法感覚ではやらない。ちょっと法律をかじった女子高生が考えそうなことだよ。けど、加賀田知事も原告に入られているのでしたね?」

「私は10万円だけ請求してみています。お金の問題というよりは、腹が立つというのが正直なところかな。私が選挙活動中に鼻かんでるときの変な顔を撮って出版されたから」

 どんな美人でも瞬間的には不細工な顔になるのを撮られてゴシップ誌に載せられていたので夏子の怒りも強い。対立候補だった高齢男性の御蘇松に対しては、そのようなことはしていないし、読者も高齢男性が鼻をかむときの不細工な写真など興味がないし、夏子が美人女性候補だったからこその記事だった。その嫌がらせ的な言論の自由行使に対して、嫌がらせ的な訴訟をしている気分でいるので本当にお金が取れるかは問題ではなかった。元学生が言ってくる。

「その雑誌の編集者、行方不明になってるらしいっすね。熱烈な芹沢鮎美ファンにポアされたって噂あるけど」

「君たちの世代でもポアって言葉、使うのね。私が女子高生だった頃の事件だよ、オウムは」

「オレ、もっと頭がよかったら宇宙開発やってるジャクサに入りたかったんすよ。オウムの上祐も一時期、その前身組織に所属してたらしいけど」

「彼は早稲田卒じゃなかったかな。ああ言えばジョウユウ、いまだに忘れないわ。オウムの残りも、うちの県にもいて対応に困ってるのよ。紫香楽村あたりにいて追い出してくれって住民から陳情があるけど、具体的に悪いことしてるわけじゃないから、なかなかね」

「紫香楽村って昔、都があったらしいっすね。なんで、あんな山ん中に都を造ったんすかね。ここの京都御所でいいのに」

 元学生が北を指した。ちょうど裁判所の前が京都御所で、道路の向かいにある。

「そうね、740年の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱に聖武(しょうむ)天皇が衝撃を受けたからって説と、一説では当時、勢いのあった仲国王朝の唐が西域諸国や朝鮮まで版図を広げていたから、もしや日本まで攻めてくるのでは、という恐れもあり移したのかもしれないって大学の歴史学の教授が言ってたなぁ」

「それビビり過ぎじゃないっすかね」

「それから数百年して元寇があったよね。幸い九州で止めたけど、危機管理としては正解といえば、正解よ。危機管理はね、過剰なくらいで、ちょうどいいの。なのに、過剰反応だって言われる。まあ、すべてのリスクに完全に備えるのは無理なんだけどさ」

 夏子は食べ終えたので席を立った。午後からも証人尋問があるけれど、他に用件もあるので若者たちに謝ってから別れる。地下一階からエレベーターで地上一階へあがると裁判所の駐車場に駐めてある公用車で仕事をしている秘書に言う。

「石永先生と会う約束してるから、京都御所をブラブラしてるね」

「はい。京斗衛生専門学校の裁判は、どうですか?」

「勝つには勝つでしょ。問題は、お金が残って無さそうなことね」

「そうですか、学生たちが気の毒です…」

「うん。私の選挙応援もしてくれて50票くらいにはつながってそうだから、その義理は果たさないとねぇ……けど、他の仕事も忙しいし、被害者の会とはいっても水俣病みたいに、深刻な生き死にが関わってるわけじゃなくて、一人50万から150万円の訴訟だし、そろそろ社会も忘れてきてるね。今日、証人尋問なのにマスコミも来てないし。とりあえず石永先生と密談してくるわ」

 冗談で密談と言った夏子は道路を渡って京都御所に入る。御所の南側は公園のように出入りが自由で平日昼なので、人が少ない。庭園になっているものの、観光客が来るほどの人気スポットではないし、かなり広い。夏子の胸ポケットに入っているプライベート用のスマートフォンが振動した。

「また会いたい。って言われてもエッチ目的かぁ」

 仲良くなったIMFのドミニクから私的なメールが来ていた。

「一回限りの、いい想い出にしようよ。不倫とか、ヤダし」

 連合インフレ税での協力関係があるので、当たり障りのない返事をしておく。返信した頃、約束していた13時30分になって石永が静江と現れた。

「二人きりじゃないのね」

「変に写真を撮られても、うざいからな。静江がいれば、仕事っぽいだろ」

「実際、仕事だしね」

 石永と夏子は今日にも外務大臣となる鮎美が内閣に入った後の自眠党と眠主党の県内での協力関係を模索するため会っていた。わずか一人とはいえ大臣が自眠党から入り、連立内閣となるので地方行政に与える影響もあり、その事前調整だった。場所を京都にしたのは夏子の都合と、県内で二人が会うのは目立つからで、その狙い通り、通りかかる京都市民は、二人の顔を見ても反応しない。長く話し込み、落着点が見えてきた。

「じゃあ、凍結した新幹線新駅は工事費を半額になるよう見直すってことで再開を視野に」

「どうせ無理で、ジワジワ上がるでしょうけど、当初の予算よりは押さえてよね」

「ホームと改札だけの、しょぼい設計にすれば、なんとかなるだろ。それで三上市民が納得すればの話だが、とりあえず造って何十年か後に、建て直す手もある」

「その頃にはリニアも動いてるから、黒字化は難しいよ」

「リニアは、うちの県を通りそうにないからなぁ」

「ギリギリ県南部をかすめるんじゃない?」

「ギリギリな。あんなとこに駅をつくっても、しょうがない。長野県や山梨県も、しょぼい駅になりそうで怒ってる」

「県最南部って、私は開発のねらい目だと思うなぁ。京都府と三重県とも接するあたり」

「紫香楽? あんなとこがか? バブルの頃、ゴルフ場を造りまくったけど」

「あそこらへんにリニアが通るでしょ。山の中とか、大深度地下に。その上を空港にするの。山を潰して」

「空港に?」

「そう。海外からも人が来る国際的なハブ空港に。で、飛行機から降りたら、すぐに地下のリニアに乗れる。大阪、名古屋まで15分、東京にも70分。車でのアクセスもいいよ。第二名神ができる予定だし、名神高速道路にも遠くない。名神で東西、北の北陸自動車道にも行きやすいし、京名和自動車道で南へも」

「なるほど、リニアと空路の接続かぁ。日本は空港と他の交通インフラの接続が悪いからなぁ……狭い国土のくせに」

「狭い国土だから、接続が悪くても、なんとか移動できちゃうのよ」

「だな。それぞれの利権もあるし。とくに、たまたま計画地に土地を所有していた個人は、いきなり自分が既得権者側になれるから一気に目の色が変わるし、逆に絶対売らないって変に意固地になる人もいる。ただの農地や山林なんだから、どっか移ればいいものを。でも、たしかに県南部にリニアと接続できる空港ができるのは、日本全体のためになるだろう。ストロー効果で地元が潤いそうにないのと、あの山地を開発する自然環境破壊を無視すれば」

「絶対、誰か反対するよね」

「それが民主主義なんだろ。できれば、強権的にダーっと大きな空港を造りたいな。横風対策のV字滑走路のある」

「大きなダムも造りたい?」

「ダムは全面中止なんだろ。知事選の公約通りに。その方向で調整する。けど、もしも何十年に一度の大雨が降れば、下流域で死者が出るかもしれないぞ。それは今年かもしれない」

「すべてのリスクに備える予算は無いし、費用対効果もあるよ。けど、それが起こったときは、私が、その人たちを殺したのね」

「予算を浮かせたことは評価されず、恨まれるだけ。損な役回りだな。浮かせた予算で助かる命もあるだろうに、それは数字にでないから」

 二人の話を黙って聴いているだけの静江は自動販売機を探して缶コーヒーを3本買って二人に渡した。礼を言って、それを飲んだ夏子が空を見上げた。よく晴れている。飛行機雲が見えた。

「損な役回り……それが政治家かぁ……なってみたけど、なかなか大変。でも、予算が浮くならともかく、県が借金するつもりだったから止めないと」

「今度は借金して空港でも計画しようか? あの山の中に」

「土地の買収に困って海の中に造るよりいいよ。関空なんか、大きめの津波が来たら一発アウトだよ」

「紀伊水道の奥だから大丈夫だろ。そんなに大きなのは、こないさ」

「そんなこと言ってると、そろそろ大きな地震、来るよ。阪神淡路から、だいぶ経つし」

「そうだな。それは、そろそろだなぁ。うちの県に関係ないといいな」

「よそごとで済んでくれれば…、っ?! って、言ってるそばから何か来るし!!」

 三人がもっているスマートフォンがJアラートの警告音を響かせてきた。三人とも仕事用とプライベート用をもっているので6台の大合唱になる。

「地震か、ミサイルか? 地震だな」

「地震ね」

「お兄ちゃん、どこかに逃げる?」

「う~ん……」

 石永は周りを見る。広い庭園で石畳の上、周りには何もない。上を見ると空だった。

「ミサイルだったら、急いで地下にでも逃げるところだけど、地震なら、ここにいるのがベストだろう」

「そうね。加賀田知事は、どうされますか?」

「私も、ここで…っ! 来た!」

「デカいぞ! 静江、伏せろ!」

 大きな揺れを感じて石永は他人でしかない夏子より妹を守るために、静江を抱く。揺れは大きく、まるで反復横跳びを強引に繰り返させられるような揺れから始まり、もう立っていられないほどになった。三人とも地面に伏せる。その地面が激しく揺れているので、石畳で手や膝を擦り剥く。

「震度5か、6だな。くっ…」

「っ…お兄ちゃん…」

 石永と静江は阪神淡路大震災で震度4を経験していたけれど、明らかに今回は、それを超えている。立っていられない揺れを経験して、静江は本能的な恐怖から兄に強く抱きついた。石永は冷静に再び上を見る。広い庭園にいて、上は空のみ。落ちてくる可能性がある物は幸いにして無い。石永は地面を背にして妹を胸の上に抱き上げると、両脚を開いて揺れに耐える。

「お兄ちゃん……」

「揺れが長い……まだ、続くのか…」

 背中が痛いけれど、平気そうに言った。

「やっと、おさまったか」

「ありがとう、お兄ちゃん」

「静江、怪我は無いか?」

「うん、平気。お兄ちゃんは?」

「大丈夫だ。スーツはダメだな。買い直さないと」

 膝や背中が破れている。夏子は擦り剥いた膝を痛そうに撫でた。

「痛ぁ……誰も私のことは守ってくれなかった。独り身のつらさね」

 文句を言いつつも現職の知事なので、やるべきことをやる。県の防災センターに連絡して被害状況の確認に入った。石永は周囲の安全を確かめ、静江はスマートフォンを操作して情報を得る。周囲は安全そうで京都地裁のビルも健在だったし、ここからは見えないけれど京都御所の建物も無事に思える。

「お兄ちゃん! これ見て!」

 静江がスマートフォンを石永に向けた。

「なっ?! 震源地が、いくつもあるぞ!」

「そうなの! 東北、東海道、近畿の沖合が震源地!」

「しかも一つ一つがマグニチュード8、9。…10まであるぞ!」

「県内は震度5強程度ですね。すぐに戻ります!」

 電話で県職員と話した夏子は地裁に駐めてある公用車へ痛む膝で駆けるし、石永と静江も続くけれど、京都御所から歩道に出たところで倒れている高齢女性を見かけた。胸を押さえて苦しんでいる。石永が問う。

「大丈夫ですか?!」

「ううっ! うーっ!」

 顔色も悪くて大丈夫そうに見えない。夏子が言う。

「ごめん、任せる! 私、県庁へ行くし!」

「わかった。大丈夫ですか?! しっかりしてください! 静江! 救急車を!」

「はい!」

「持病はありますか?! 心臓は?!」

「ううーっ!」

 呻いていた女性は、どんどん顔色が悪化している。素人目に見ても心臓発作に見えた。石永は10秒ほど迷ったけれど、女性に胸骨圧迫式心臓マッサージをすることにした。地元の消防団活動などで経験しているので手つきは確かだった。

「地震で驚いたショックか……静江! 救急車を呼んだら裁判所からAEDを借りてきてくれ! たぶん、あるだろう! ハァ…ハァ…」

「はい!」

「ハァ…しっかり! 頑張れ! ハァ!」

 運動不足ではないけれど、圧迫式マッサージを続けるのは、かなり疲れる。息を乱して汗をかきながら続けていると静江がAEDをもってきた。それも手順通りに使ったけれど、女性は回復しない。

「くっ……オレは医者じゃないからな、これ以上の処置は………静江、救急車は、まだか?」

「うん、かなり混んでるみたい」

 救急車のサイレンは聴こえるけれど、他にも要請されているようで西からも東からも聴こえるのに、ここへは来ない。無情にも一台の救急車が目前を通り過ぎていった。そのうちに女性は冷たくなり、どう見ても死んでいるようにしか思えなくなった。

「…ハァ……ハァ……」

「お兄ちゃん……」

「ハァ……もう無駄か…ハァ…」

 まだマッサージは続けているけれど、無駄な気がしてくる。救急救命処置のやめどきがわからない。講習では、やめるという選択肢は習わない。救急車に引き渡すまで続けるのが原則で、死亡診断は法律上医師しかできない。疲れた兄に替わって静江もマッサージを続ける。またスマートフォンがJアラートを発して津波警報を知らせてくるけれど、二人とも京都市にいるので注意を払わなかった。海から遠い京都市にいて津波警報など関係ないと思っている。

「…ハァ…もう、やめるか…」

「でも…ハァ…」

 救急車は来ないし、女性は蘇生しない。それでもやめないのは二つ理由があった。もし、この老婦人が自分の家族だったら、ここで投げ出しただろうか、という気持ちと、落選中とはいえ衆議院議員で父親も大臣まで勤めた家系の人間が、疲れたから蘇生をやめたとマスコミに報道されるのは苦しい。大災害の後には様々な美談と醜聞が流れる。もし、うまく蘇生して人命を救えたなら石永にとってこの上ない加点になるけれど、逆に見捨てたという評判が流れれば落選中の自分にとっては致命傷になりかねない。そんな考えもあって、やめるという選択肢が取りにくい。やめる決断ができないままマッサージを続けているうちに、二人の前に津波が来た。

「え? お兄ちゃん、あれ? なに?」

「ん……なんだ? 地下水? 液状化でも起こったか…」

 京都市まで押し寄せてきた津波は道路に拡がり、またたく間に二人を包んだ。けれど、その高さは3センチ程度で京都御所敷地の手前で止まった。

「……海の匂い……海水なのか、これ……」

「海水って……ここ京都なのに…」

 老婦人の遺体は海水に浸っているけれど、二人とも疲れていて抱き上げようという気力はない。勢いを失った津波は排水溝へ流れていき、二人の靴を濡らしただけで終わった。

「やっぱり、津波なのか……これ…」

「そうみたい……大阪が沈んだって……」

 今になって青ざめた顔で静江がスマートフォンを見ている。石永も鼻白む。

「大阪を襲って京都まで……」

「ここまで来るなんて……」

「…………昔の人間が……ここを御所に選んだ理由……当初は奈良盆地を都にした理由……大津波を警戒して……だったのかもな……それが海運と商業の効率を優先して大阪や名古屋……江戸に……」

「ここは……もう、大丈夫なのかな? これ以上の津波は来ないのかな? お兄ちゃん……怖いよ…」

 恐ろしそうに静江が兄の腕をつかんだ。

「一応、山の方へ逃げよう。この分だと高速道路も国道1号も大渋滞か、通行止めだろう。途中峠(とちゅうとうげ)越えで六角市に戻るぞ」

「うん………この人は、どうする?」

「……………。……ここに……置いていこう。……すまない」

 石永が手を合わせて頭をさげたので静江もならった。

 

 

 

 2011年3月11日14時44分、畑母神(はたもがみ)は海上保安庁の巡視船しきしまに乗って太平洋上の八丈島付近にいた。しきしまは7000トンを超える大型の巡視船で2機のヘリコブターも搭載している。東京都知事という立場で仲国漁船の出没が盛んな小笠原諸島と尖閣諸島を視察する予定の航海で百色(ひゃくしき)も都の特命職員として、そばにいる。二人は後部甲板のヘリコブター発着場から太平洋を眺めていた。

「海はいいなぁ。百色くん」

「まったくですな。閣下」

 以前の職が海上自衛官と海上保安官なので海に出ると、心が安らいだ。

「わずらわしいテレビも無いし、陳情もない。都知事にはなってみたが、やれ保育園が足りない、特養も足りないだのと。なかなかに疲れるよ」

「あのお嬢さんたちの言う赤ちゃん手当てが実現すりゃ、保育園不足は解消しそうですな」

「そうだな。子供を保育園に入れると受け取れない制度設計だから、一気に待機児はゼロになるかもしれんな。それはそれで保育園が定員を満たせず経営で困るかもしれないが、若い保育士さんたちが結婚して子供を産めば、それでいいわけだから」

「それにしても、やっぱり海はいいですなぁ」

「ああ、最高だ。このままの日本ではいかんと使命感で政治家になったが、わずらわしいこと、この上ない。陳情に耳を傾けるのは当然としても、金銭の管理がグレーゾーンが多すぎて困る。いっそ、会計検査院の外郭団体でもつくって、そこに政治家の財布を預けるとか、そこへ領収書を送れば通るものは通してくれる、ダメなものはダメと返戻されるようなシステムにしてほしいな。あとで、ごちゃごちゃ言われるのは、かなわん」

「ですな」

「自衛官の頃は、よかった。経費とプライベートなど、すっぱり分かれていたからな。政治家になると、ちょいと気前よく人に飯をおごるのさえ、公選法上、大丈夫かと気にせねばならんからな」

「海にいれば三食、いただけますな」

「本当に海はいいな」

 勝利に終わった都知事選の疲労もとれた畑母神は穏やかな海を眺めていたけれど、浮遊感を覚える。

「「ん?」」

 二人とも、まるでヘリコブターの離陸時のような持ち上げられる加速度を感じて、海上勤務経験の長い畑母神が気づいた。

「地震による津波発生か……このあたりが震源なのだろう」

「へぇ、こんな感じですか。津波の発生地点にいるってぇのは」

「ああ、一度、経験したことがある。たまたま洋上の震源地にいて………だが、あの時より、ずいぶんと浮遊感が大きかった……艦橋へ行こう。下手をすれば視察は取りやめくらいの地震かもしれん」

「また、あの大都会東京に戻るんすかねぇ。オリャぁ海がいいなぁ」

「私もだよ」

 二人とも急いで船長のもとに行き、ともに情報を得る。地震の規模と衛星写真で確認できた津波の大きさを知ると、戦慄した。

「…まさか……こんな地震が起きるとは……」

「こりゃあ、死人が一万二万じゃ済まないんじゃ」

「ああ………死者数は大戦時を上回るだろう……都民1000万……名古屋…大阪……加えて海上自衛隊が受けるダメージも……」

 畑母神は脳内で基地のある場所と海岸線を正確に思い出し、東北から東京、東海道、近畿にかけて100メートル以上、最大で200メートルを超える高さの津波が襲った場合の被害を、波の物理的性質も考慮して予想する。公職選挙法や政治資金管理法については、あまり活動してくれなかった脳が水を得た魚のように演算していく。鮎美が若い脳で公職選挙法や会計処理を理解し、さらには経済政策の基本を学び、大阪人の商魂と人間の金根性(かねこんじょう)を計算に入れて、新税制や風俗産業向けの年金を考えついたように、若き日から海上自衛隊の細部と日本の国防について脳に叩き込んできたので、その予測計算に自信がある。

「横須賀は全滅だ………だが大湊は残る。……舞鶴はもちろん、佐世保も。あとは呉だ……呉もギリギリ残る……かの地に鎮守府を置いた先人に感謝せねば」

「横須賀が中心で、その中心が無くなった場合、海自は、どうなるんですかい?」

「呉を中心にする」

「空自と陸自は?」

「三沢、浜松、厚木は確実にダメだ。横田がどうなるか……南の新田原と那覇だが、新田原は、そこそこの標高にあったはず……問題は那覇だ。震源地から遠いが、ほとんど海面と高さは変わらない。10メートルの津波でも全滅するだろう。だが、地震の揺れは無く津波の到達までに時間があるから飛ばせるだけ飛ばせればいいが……。陸自は7割が残るものの、海自と空自は整備も考えれば戦力は5割、半分以下になった」

「在日米軍も?」

「明らかに半分以下になる。三沢と東京、沖縄に集中しているのが痛い。残るのは岩国と佐世保くらいだ。……そうか、アメリカ人は、津波のことを、ほぼ考えずに基地を置いているのだな……こうなって、わかるか……」

「オレらは、どうします?」

「この船で東京へ救援に向かいたいところだが、津波の引き戻しには大量の瓦礫もあるだろう。何より貴重となる艦船を傷つけぬよう、不甲斐ないが正確な情報の収集にあたるしかあるまい」

「……東京壊滅か……八王子の山手くらいは残るか……何にしても、閣下が、ここにいたのは天啓ってヤツですな。国会が消えちまったなら、東京都知事で自衛隊のトップだった閣下が日本の大将だ。……けど、今は何も……オレも…」

 百色は空手で熊のように鍛えた手が今は何もできないことを悔しく思った。

 

 

 

 2011年3月11日14時39分、翔子は国会議事堂で本会議に参加していたけれど、欠席になっている隣の鮎美の席を淋しそうに見た。

「外務大臣にまでなっちゃうなんて」

 翔子は隣席の背もたれを撫でる。

「もう、この席には戻ってきてくれないのかな……あっちに行っちゃう…」

 大臣となれば一議員として翔子の隣に座るのではなく、閣僚として対面することになる。そうなると、翔子が鮎美へ質問する機会があるのかもしれない。

「それは、それでいいかも」

 一人言として漏らしていたけれど、近い席にいる松尾が言ってくる。

「この分だと、五年先十年先には芹沢総理かもしれないな。連合インフレ税が、そこそこに成功すれば、本当にありえる話だよ。20代そこそこでの首相も」

「日本って女性首相、まだでした?」

「まだだねぇ」

 二人とも小声で会話している。本会議は荒れていて、やはり在日麗国人からの献金を鳩山総理が受けていた問題で退陣を迫られているけれど、鮎美が外務大臣として入閣し自眠党との連立政権となるので、野次を飛ばしているのは供産党と活力党、眠主党内の反鳩山派、そして無所属の議員の一部だった。翔子と松尾は自眠党所属なので野次を飛ばすことなく傍観側でいる。ただ、明らかに国民への目くらましで18歳の鮎美を大臣にして人気取りしようという総理の魂胆は見え見えで、その分だけ野次は強烈だった。

「辞めろ辞めろ!」

「贈与税も忘れるな!」

「アユちゃんを変に使うな! このハゲぇ!!」

 音羽も供産党所属なので頑張って野次を飛ばしている。別に鳩山総理は禿げていないけれど、勢いで言っている。

「このハゲーーっ!! ハゲ宇宙人!! カイワレかぶれ!!」

「「「「「……………」」」」」

 内閣と眠主党の鳩山派議員たちは黙って聞き流すか、小声で私語していて議場の雰囲気は悪かった。

「肝心の新外務大臣は、どこ行った?!」

「国会ほってお遊びか!!」

「イスラエルのついでに麗国観光か?! キムチお好み焼き喰うとるのかァァっ?!」

「……はぁぁ……それにしても」

 タメ息をついた翔子が松尾に話しかける。松尾は趣味でコスプレイヤーをしているだけあって、かなりハンサムなので翔子は、これで嫁さえいなければ狙うのに、と想っている。

「私の友達にも在日麗国人の人いるんですよ。中学で同じクラスで、普通に友達になったんですけど、氏名は日本人としか思えない名前で、本人も、ずっと自分は日本人だって思って生活してたんですよ。日本語しか話せないし」

「在日3世くらいになると日本語しかわからない人は多いよ。逆に日系ブラジル人3世もポルトガル語しか話せなかったりする。それで?」

「はい。それで、高校を選ぶときに親から朝鮮系の学校も選択肢にあるよ、って言われて、びっくりだったらしいです。びっくりしてから、ああ、お前には家系の話は、まだしてなかったな、みたいに軽く言われて。その子が言ってたけど、そういえばキムチとか豚足を食べることが多いなぁ、と知ってから感じたらしいです」

「結局、どういう高校に行った?」

「普通に学力と見合った商業系だったかな」

「まあ、難しい問題だな。ボクだって先祖なんて調べたことないからさ。普通に日本人だろうと自分のこと思ってるけど、実は違ったりしたらビビるだろうなぁ」

「私も。どうして差別って無くならないのでしょう?」

「簡単かつ複雑な問題だよ。世界のどの国でも差別を受けている層は平均して所得が低い。所得が低ければ教育水準も下がるし、結果として就職先も限られる。となると一部は犯罪や犯罪といかないまでもグレーゾーンの仕事をしたりする。パチンコも風俗産業もグレーだからね」

「私んちも貧乏だったんですけど」

「平均して、ということだよ」

「一部の人が悪いからって全部を差別するのも……」

「そうだね。別のたとえで、性犯罪は再犯率が高い。けれど、全員が再犯するわけじゃない。しっかり反省して、もうしない、という人もいる。それでも彼らを見る目は厳しい。これは差別だと思うかな?」

「うっ……う~ん……」

「ボクらだって貧しい国に生まれたら、なんとか先進国に不法入国でもいいから入りたいさ。けど、入った後も不法就労だから待遇は悪い。そのうち自棄になって窃盗やテロに走っても、不思議じゃない。そして、一部はそうなる。結果、全体が避けられるようになる。誰だってリスクは負いたくないさ。危険かもしれないなら避けておこう、それが自然だ」

「でも、私の友達は危ない感じは無かったですよ。いっそ、完全な日本人に帰化すればいいのに」

「そうする人もいるだろうし、なんとなくしない人もいるだろうね。断固としてしない人もいるだろうし、ボクらだって海外で長く生活して仕事もしていたとき、じゃあ日本人を辞めますか、となったとき、迷うし先送りにするだろう」

「世の中、複雑ですね。とりあえず地球人ってことで全員に番号をふって、ついでに遺伝子も登録したら、人類のルーツも判明していいのに」

「ははは、たしかに。けど、危険でもあるね」

「どうして?」

「たとえば、黒人は足が速い、というのはオリンピックの短距離走メダリストを見れば、だいたい確からしいよね」

「はい」

「足が速い、というくらいの性質なら、あまり差別にはつながらない。けれど、たとえば、白人にはロリコンが多い。日本人にはホモレズが多い。黒人は算数が苦手。そんなことが科学的事実として、しっかり判明してしまったら、かつてのユダヤ人差別より危ないことになる。人権に対する現代の地動説になってしまう。それでも遺伝子は語っている、と言われたとき、人権という神聖な権利が危うくなる。げんに人種ごとのかかりやすい病気やアルコール分解能力なんかは違うと判明している。さらに踏み込んだ調査がされたとき、どうなることやら。もしも芹沢鮎美が産む子供は75%の確率で同性愛者になる、と判明して、さらに芹沢鮎美の兄弟姉妹は、たとえ本人が異性愛者でも、その子供は50%の確率で同性愛者になる、と判明するのは危なそうだろう?」

「それは……」

「まだ、同性愛なら差別感情が無くなればいいさ。けど、40歳で癌になるとか、知能指数が低いとか、心臓病をもって産まれてくるとかさ。そして、さらに日本人は自殺しやすいとか、朝鮮人は怒りやすいとか判明してしまって。データになったら、いわれなき差別が、いわれある差別になってしまう」

「……いわれある差別……」

「別に自殺しやすい、怒りやすい、という性質を善悪で論じるわけではなく、もしかしたら自殺しやすい性質がある方が集団にとって有利かもしれないし、怒りやすい性質がある方が交渉ごとで有利かもしれない。いい、悪いでなく、そういう能力だと判明してしまうかもしれない」

「………差別って複雑ですね……いろいろあって…」

「他にも、差別を受けた、という被害を訴えて過大な要求をする行為も問題だ。これは人種差別に限らず、日本に昔から存在する被差別地域による場合もあるし、実際はそうでないのに、そうカタる場合もある。だんだんと、誰が真の被害者か、わからなくなったりね。芹沢大臣が始めたあのセクハラ写真訴訟も一部年配の自眠党議員たちは、本気で彼女の戸籍を取り寄せようとしたりしたそうだ。何代も昔の分まで。結局、裏で彼女の父親が応じたらしい。で、わかったのは完全な日本人だし、ルーツは静岡や茨城あたりの出身らしい、ああいう訴訟をするのは大阪育ちの大阪人だから、あんなもんだろう、と落ち着いたそうだよ。これ、彼女に言わないでね」

「…はい……大阪人って人種じゃないですよね?」

「大阪の女は怖いらしいよ。芹沢大臣も見た目は可愛いけど、ときどき中身はオッちゃんかと思うし、神経の太さは実質、太田議員と、あんまり変わらない気がする。そういう意味では大臣が勤まるかもね」

「芹沢先生は立派な人ですよ……私の身体への視線がオジサンなときはありますけど…」

「たしかに立派な人だな。普通の高校生じゃない。オレも普通のサラリーマンから議員になって、親戚に自眠党の議員がいたから頼まれて入党して、それなりにやってるつもりだけど、彼女のエネルギーには驚かされるよ。気がつけば三ヶ月で大臣だ。まあ、彼女の真似はできないにしても、ボクも単なるイエスマンでなく任期中に一つくらい法案を通したいよ」

「何か考えてるんですか?」

「まあね」

「どんな?」

「ジャスラックって知ってる?」

「あ、はい、たしか音楽の著作権団体ですよね。カラオケ店なんかから集めて、それをアーティストに還元したりする」

「そう、それ。それのコスプレバージョンで、コスラックというのを創設したいんだ」

「コスラック? 何するんですか?」

「現在の法制度ではコスプレ行為はグレーゾーンなんだ。吸血鬼やゾンビのコスプレなら、もう著作権切れだったり、一般的な化け物として認識されてるから問題ないけど、ここ最近のアニメやゲームのキャラだと当然に著作権はあるだろ?」

「そうなりますね」

「そういうキャラを勝手にコスプレするのは個人の自由、個人の楽しみってことで、今は黙認されてるけど、じゃあ一部のレイヤーがやってるみたいにCDや写真集を売り出したとき、どうなる? とか、コスプレイベントを開催してる主催者が入場料を集めてるのは、著作権者に還元しなくて、いいのか? という問題が出てくる。大半のイベントは零細だけど、中には何万人と集まるイベントもある。500円を1万人から取れば500万円、3000円だったなら3000万円だ。他にも道交法の問題点も指摘されてるけど、都内を四輪カートで走り回ってる観光客にコスプレさせてる業者も、そこそこの売上があるだろう。せめて、その3%くらいは著作権者に還元すべきじゃないか、というための団体をつくる法案を考えてる」

「へぇ…」

「これによって著作権者は創作活動の意欲が増すし、またレイヤー側はいちいち個別の著作権を気にしなくていい。カラオケ店で選曲するとき、いちいち一人一人のアーティストに使用許可を取らずに済むようにね、あと四輪カートで走り回るのもそうだし、写真集を出すのもジャスラック方式にすればいい。そして同時に天下り団体が一つできるわけだから、法案も通りやすい。いけると思わないか?」

「………」

 松尾先生って頭いいのに、くだらないこと考えるんですね、社会にはもっと重要な問題がいっぱいあるのに、子供の頃から10円のチョコを買うのも我慢してきた私から見れば、コスプレが趣味とか、まるで中世の貴族たちが仮面舞踏会を貧民が飢えてるのに開催してたみたいに感じるし、同じように恵まれた家庭の育ちでも芹沢先生は少しでも弱者や社会のために、って考えるのに、コイツ何、コスラック? バカじゃないの、カスラック増やして、どうするの、そういえばコイツって女装までして超キモい、ばっちりメイクして口紅も引いて、どんな顔して胸を盛ったりブラジャー着けたりしてるの、超キモ、コイツの嫁かわいそ~、ナルシストな旦那が女装して写りのいい角度探してキメ顔してるのなんて寒気がする、と翔子は思ったけれど顔には出さずに猫をかぶり続ける。これから6年、できれば12年、猫をかぶって生きていくつもりだった。

「まあ、いけるかもしれませんね。頑張ってください」

 突然、翔子のスマートフォンがけたたましい音を立てた。

「っ…」

 うっかり国会中に鳴らしてしまって、あとで教育役の先輩議員に怒られるかもしれないと、慌てて切ろうとするけれど、他の議員の端末も大きな音を鳴らし始める。議場の野次が止まった。松尾もスマートフォンを見ている。

「Jアラートか」

「地震が来るみたいですね」

 のんびりと言った翔子は次の瞬間に目前の机が迫ってきて腹部を強烈に打たれて呻いた。

「うっ?!」

「くっ! 伏せろ!」

 松尾も身体を打っている。それほど仲が良かったわけではないけれど、男として松尾は翔子を抱きかかえるようにして机の下に入った。その間にも揺れは激しさを増していて横揺れに混じって縦揺れもくる。

「キャー?!」

「うおっ?!」

 二人とも机や椅子ごと宙に浮き、そして床に叩きつけられる。

「うっ!」

「ぐはっ!」

 翔子は頭を打って気絶し、松尾は右腕を折った。ほぼ同時に議事堂の天井が落ちてきた。崩落の音と粉塵で聴覚も視覚も奪われる。咳き込んで呼吸もできない。まるでカクテルを作るためにシェーカー内で氷と酒が舞わされるように人と机、備品、書類、そして血がシェイクされ、無傷な者はいなくなる。松尾も重い机に頭を打たれ即死した。やっと揺れがおさまり、少しは粉塵も落ち着いて呼吸と視界をえつつある音羽は息苦しさと恐怖で失禁していたし、まだ咳き込んで苦しんでいる。

「ゴホッ! ヒュッ! ゴホッ! ハァ…ゴホ!」

 自分の命が残っていたことに気づく余裕もないほど、息苦しい。気管の中が粉塵だらけで、いくら咳をしても楽にならない。苦しみながら嘔吐した。それで、ようやく喉が洗われ、息ができて、わずかながら、ものを考えることができた。

「…ハァ……ハァ…」

 目が痛い、鼻も喉も痛い、手足も痛い。何カ所か骨が折れている気がするけれど、どこが折れているのか、確かめる気力もない。手で顔を拭いたら指が折れていて変な風に曲がっていた。あまりにも不運な状況だったが、一つだけ幸運なことに直樹の声が近くでした。

「ううっ…」

「ナオくん?!」

「ゴホッ…くっ…」

 直樹は崩落してきた天井に下半身を潰されていて、すぐに自分の死を悟った。

「……くそっ……」

「ナオくん! しっかりしてナオくん!」

「…ああ……ゴホッ! ……まったく……人生は不条理だな……」

 妹を性犯罪者に殺され、今また突然の災害で自分が死ぬのかと思うと、運命が呪わしかった。

「ナオくん!」

「…ごめん……りさ…」

 音羽の声は聞こえていなかったのか、最期に妹の名を口にして直樹は死んだ。

「ナオくん! ナオくん! っ、うああああ!」

 付き合い始めたばかりの恋人に死なれるほど、悲しいことはない。音羽の泣き声が響き、気絶していた翔子は目を覚ました。

「ううぅ……ゴホ……ゴホ…」

 早いうちに気絶して身構えたりせず揺すられるまま身を任せていたおかげか、奇跡的に翔子は骨折はせずに全身の打撲傷だけで済んでいた。停電し、照明器具も落ちている。暗い中、天井が崩落したおかげで空から太陽の光が入ってきていて、その明かりを頼りにロビーへ出た。

「…ゴホっ…ゴホっ…」

「誰か無事な者は?! こっちを手伝ってくれ! 谷柿総裁が負傷された!」

「ハァ…ゴホっ…」

 手伝える気力と体力は無さそうだった。衆議院の方も、ひどい状態のようで混乱している。

「動かすな! 首の骨が折れているかもしれん! 脊髄損傷の可能性がある! そっと担架にのせろ!」

「ゴホっ……あの先生、医師だったから…ゴホっ…」

 名前は思い出せないけれど、日本医師会から議員になっている男性も片腕を骨折しつつも救助活動を始めている。平時は医療利権の権化のように言われているが、多くの負傷者を前にして使命感を思い出したようだった。

「……私も……なにか……しなきゃ…」

 やっと少しだけ気力が戻ってきた。けれど、再びドンと建物全体が揺れる衝撃があって余震かと身構えると、正面玄関から津波が入ってきて、同時に議事堂全体が崩落する。その流れに翔子は飲み込まれた。

「…………私の人生……何もいいこと……なかった……銀行のせいで……」

 やっと手にした歳費は一月分と二月分で110万円、あまり派手に使わず勉強も忙しくて、せいぜい3回、都内の有名カレー店で話題のカツカレーを食べたくらいだった。

 

 

 

 2011年3月11日12時50分、ワンコは愛知県犬山市の犬山城にあるスタッフ控え室で自分のことが書かれた週刊紙を読んでいた。

「………セクハラ写真を控えたと思ったら……こういうことを書く……どこまでも人をおとしめて……」

 ローカルアイドルであるワンコの出自を曝いた記事で、ワンコが在日麗国人であることや、ワンコの父親がパチンコ店を経営していること、その父が日本人女性と結婚し二男一女をもうけたのに、同時平行してワンコの母親とも性的関係をもち、二女をもうけ、うち一人がワンコであることを晒し、不倫の子なので犬山市のローカルアイドルにふさわしくないということを暗に書いている。

「………ぐすっ……こういうのに、負けないから」

 鮎美といっしょにパンチラ写真を週刊紙に載せられて、詩織から声をかけられて訴訟に参加することになったけれど、いつか自分の出自が晒される日が来るのではないかと覚悟はしていた。週刊紙を閉じ、ゴミ箱に投げ入れたくなったけれど、事務所の経費で買われたものなので雑然とした棚に置いておく。タバコの煙が漂ってきた。小柄で筋骨逞しい男性がタバコを吸っている。

「フー……そろそろだな……この季節が一番いいなぁ……暑すぎず寒すぎず」

「着ぐるみさんは大変ですね」

 いっしょにイベントに参加する着ぐるみの中の人に微笑みかけた。井伊市の井伊城のゆるキャラで、いいニャンという猫でスタンバイしている。今は下半身だけが猫で上半身はタンクトップ姿でタバコを吸っているという絶対に関係者しか見てはいけない、週刊紙でさえ晒さない女子の股間よりも危険なモードだった。

「おうよ。まあ、頑張ろうや。お嬢ちゃんはミニスカートで寒そうだな」

「犬は寒さに強いんです!」

 ミニスカートではあるけれど、自治体がかかわるイベントなのでパンツは見えないようにしている。鮎美と関係したおかげで、井伊市が地元である直樹とも関係ができ、そのツテで井伊城のいいニャンと犬山城で対決型のイベントをするという企画が催せている。犬山城と井伊城は全国にわずか5つの国宝五城なのでコラボイベントは距離的にもしやすいけれど、ワンコは公式には犬山城を代表するキャラクターやアイドルではないので開催の難易度は高かったものの、そこは二名の参議院議員との人間関係というネームバリューで実現していた。そして、これをキッカケにローカルアイドルとして飛躍したいと思っている。犬猫対決で、いいニャンはゆるキャラ全国連続一位を獲るほどの人気、対してワンコは犬山市内でさえ知らない人が多いローカルアイドルだった。ワンコは気合いを入れ、中の人は着ぐるみを完全装着する。いいニャンは喋らないキャラなので可愛らしく首を傾げ、ガッツポーズしてくれた。こうやってみると、まさか中に筋骨逞しい男性が入っているとは思えない。けれど、いいニャンのキレのあるダンスや動きを考えると、こういう体操選手のような男性でないと勤まらないというのはわかる。

「行きましょう。負けないからね、いいニャン!」

「……」

 二人でハイタッチしてスタッフ控え室を出ると、ワンコは犬山城の天守閣へ向かう。イベントの設定上、いいニャンが関ヶ原を越えて遠征してきたのを迎え撃つという企画になっている。

「すいませーん、失礼しまーす」

 ワンコは謝りながら他のイベントスタッフたちと天守閣までの急な階段を登るため、観光客たちを避けていく。そして階段はとてつもなく急で滑る木造城塞のハシゴのような階段なのでミニスカートで登っていると、下から観光客に撮影されている気配がする。

「……」

 それ個人で撮って楽しむのはいいですけど、ネットにあげたり出版したりしたら、いよいよ訴えますからねぇ、と笑顔で思いながら天守閣に辿り着いた。いいニャンは城下に別のスタッフたちと用意をしている。定刻の13時となった。ワンコは装着しているイヤフォンマイクのスイッチを入れた。

「はい、みなさーん、こんにちは! 犬山城へようこそ!」

 天守閣だけあって見渡しがいい、城下も見えるし、もっと遠く木曽川下流域の名古屋方面まで見える。犬山城の海抜は80メートル、これはローカルアイドルとって基礎知識の一つだった。城下の観光客たちに告げる。

「これからワンコVSいいニャン、犬山城VS井伊城、天下分け目の大決戦、春の陣をはじめまーす! むむっ! そこに見えるは、いいニャンだな!」

 芝居がかった演技でイベントを始める。城下に攻め込んでこられた防衛戦を仕掛けるという展開だった。今日から隔週で春休みが終わる4月7日まで犬山城と井伊城へ攻防交替で行うけれど、ゆるキャラ全国一位が相手なのでホームでの初日くらい勝っておきたい。いきなり落城は嫌だった。勝敗の判定は観光客からの声援と、後で行う握手会の列の長さで決まる。

「ここ犬山城に攻め込むとは、命知らずの猫め! 鎧袖一噛みにしてくれるワン!」

 ワンコはトレードマークになっている短い茶髪を犬耳のようにツインテールにした房を可愛らしくゆらした。やはりアイドルなので女の子としての可愛らしさを全面的にアピールしていく。対して、いいニャンはコミカルな動きとダンス、サポートについてる解説嬢の喋りで攻めてくる。解説嬢が煽ってくる。

「いいニャン、今日は本気ですねぇ。国宝5城の一位は、うちニャンとばかりですが、まあ姫路城にはかないませんけど」

「…」

 ガクっと、いいニャンが崩れる演技をする。実に巧い。ゆるキャラ全国一位は伊達ではないと感じる。

「「「「「あははは!」」」」」

 観光客たちも笑っている。負けずにワンコも言ってみる。

「犬山城には素敵なお土産があるよぉ! げんこつ! 名前は怖いけど、甘くて美味しい、げんこつは大人気!」

「…」

 いいニャンが動きで意志を表しているけれど、よくわからない。誰もわからないので解説嬢が創作する。

「なんのなんの、こっちにも糸切りクッキーがあるニャン、と申しております」

 観光客は写真を撮ったり、ワンコたちを見てくれたり、無視して城を眺めていたりする。まだ春休みは始まっていないので子供連れは少なく、地方からの団体旅行の高齢者と、海外からのインバウンドが多い。そんな中、不穏な客もいた。

「朝鮮人は帰れ!!」

 と城下から叫んでいるけれど、遠いのでワンコには聞こえにくい。聞こえなくても、だいたい何を言っているかは表情と気配でわかる。周囲の客が引いている。

「不倫の生まれが!! 犬山の名を汚すな!」

「げんこつの方が、きっと美味しいけど、糸切りクッキーも興味あるなぁ」

 演技中のアイドルとして、どんな罵詈雑言が飛んできても相手にせず聞こえなかったことにしておく。すると、すぐに警備員が叫んでいた男に近づき、周りのお客様のご迷惑ですから、という一般的な注意文句で沈めてくれている。おかげでイベントは無事に進み、声援対決になった。そして、あっさり負けた。たいして知られていないローカルアイドルと全国一位ゆるキャラの歴然とした実力差を思い知る。ワンコへ声援をくれたのは、わずかに麗国からの観光客にいた若い男性たちだけで、それもワンコが、どうせもう週刊紙で出自は暴露されたのだから、と諦め、いっそ開き直って麗国語でもアピールしたからだった。およそ40分間のイベントが終わり、休憩となってスタッフ控え室に戻った。いいニャンの中の人が汗だくになってタバコを吸っている。

「フー……疲れた」

「完敗でしたよ、次は手加減してくださいね」

「握手会なぁ、オレも少ない方がいいわ。あれ疲れるし。フー、あんた、おっぱいでも揉ませてやれば、いいニャンに勝てるだろ」

「あはは…」

 この程度のセクハラ発言は業界では普通なので、いちいち怒ると仕事が無くなる。しかも、いいニャンには出張してきてもらっているという立場だった。ワンコが我慢していると解説嬢が言ってくれる。

「安田さん、それセクハラ」

 解説していたときの可愛らしい声と違い、中年にさしかかった女性独特の低い声だった。

「おっと、すまねぇ。訴えねぇでくれよ。あんた芹沢先生のお友達だったもんな」

「いえ、友達というほどでは…」

 ただの被害者の会の一員に過ぎず、鮎美が自分のことをどの程度認識してくれているかは不明だった。ただ、犬山城のことについては秘書としてそばにいた鷹姫と会話したので印象を持っていてくれるかもしれない。解説嬢は化粧を直してから、棚にある週刊紙に気づいた。

「あ……もしかして、あなたって麗国人なの? さっき、やたら流暢な発音で、そっち系の人に挨拶してたけど」

「はい、そうです」

「あ~あ、だから迷惑な奴がなんか叫んでたのね」

「すみません」

「あなたが謝らなくていいのよ。どこの会場でも、ああいうバカ、たまにいるから」

「おうよ。オレなんか蹴られたことあるぞ」

 着ぐるみは蹴られるし、三流アイドルは触られる、どちらも宿命だったし、どちらの場合もお尻を狙われることが多い。解説嬢は週刊紙をパラパラと読んでから問うてくる。

「週刊紙ってさ、実体と違うこと書くっていうけど、この記事と、どうなの? あなたの本当のところ」

「あ、はい。えっと……私が在日なのは事実です」

「さすがに、そこは本当なのね。嘘とか捏造ある?」

「あります」

「どのへんが?」

「一つは、私はお金目当てで裁判してるわけじゃないです。嫌な撮影と出版をやめてほしいからです。あと一つは、たしかに私は不倫の子ですけど、泥沼とか骨肉の争いなんて、うちの家にはないです。私の母は賢い人で、運がいいことに、もう一方のお母さんも落ち着いた人で、お父さんが愛人をつくってもキーキー怒ったり、私たちをイジメたりせずにいてくれました」

「へぇ……まあ、ブチ切れて離婚するより、お金持ちなら、つながっておく方がいいもんね。けっこう賢い手かも」

「はい、そう考えたみたいです。私たちの方には遺産相続が無いことの確認と、代わりに養育費の補償を文書にしてくれましたし、だんだん仲良くなって向こうの子供たちと遊びに行ったこともあります。だから泥沼なんて無いんです」

「ゴミ出しさせられてるって書いてあるけど?」

「それ、ごくごくたまに、私の母があっちの家に行って、ついでに手伝ったときのを近所の人が見て、それを町内で噂にしまくってるんだと思います。家の中でケンカとか無いし、むしろ騒いでるのは近所の人たちです。わざわざ私に、かわいそうね、かわいそうね、って言いに来て、逆に腹が立ちます」

「ああ……なるほど……まあ、パチンコ経営で金持ちになって、二人囲ってりゃ、他の主婦たちはグチャグチャ言うでしょうね。やっかみたっぷりで。でも、そいつらの旦那はパチンコ店に、せっせと貢いでくれると思えば、面白い構図」

「…あはは…」

「まあ私も、こんな時給860円の仕事してるよりは金持ちの2号ちゃんになってる方がいいかなぁ……」

「オレなんか、あれだけ踊って同じ860円だぞ。喋るだけの解説役とさ」

「喋りも難しいよ、安田さんの動きで意志を汲み取れるの私だけじゃん」

「お二人は、いいコンビですよ。正直、対決してて、これ2対1で私が不利って思ったもん」

「「フ♪」」

 やり甲斐は感じているらしい二人と休憩を終え、今度は城下で、いいニャンと並んだ。トークショーをしてから握手会を開く。やっぱり、いいニャンには勝てず握手会の列も3倍以上の差があき、その分ワンコは一人一人と丁寧に握手しておく。

「ぜひCDも、どうぞ。あと、ヨーツーベチャンネルも、よろしくお願いします」

 売れないCDを売り込み、少しでも再生数を稼げるように頼んでおく。実は先月とうとう100万再生に至っていて、それは鮎美との記者会見に臨んだ効果だと感じている。そして今週の週刊紙のおかげで、また伸びるかもしれない、けれどダメージも大きいかもしれない、そう考えながら握手していたら、唾を吐きかけられた。

「半島へ帰れ! 不貞の犬が!」

「……」

 ここは泣いておく方がいいよね、とワンコは悔しいけれど、女の武器を使うことにした。そして泣きながら思う、わざわざワンコを罵倒するためだけに入城料を払って平日昼間に来ていた男は40代くらい、どうせ無職か、ろくな仕事はしていない、ただ日本人だということにしか自己肯定感がもてない連中だと、そして一方で1965年の日麗基本条約で戦後賠償を終わりにしたはずが、従軍慰安婦問題で追加のお金をもらい、それでも、まだ要求し続ける姿勢にフラストレーションが溜まるのは当然だと、理解できる。さらに警備の甘さに腹が立つ。唾を吐きかけてきた男は先刻、叫んでいた男と同じだった。どうして、やすやすと握手会の列に並ばせたのか、警備が甘すぎて抗議したくなる。それさえも我慢して、泣き止んでから握手会を再開すると、慰めてくれる人が多かったし、どんどんCDが売れた。最期は笑顔で握手会を終え、いいニャンとも握手した。ところがスタッフ控え室に戻ると、市の職員が4名もいてワンコに言ってくる。

「ワンコさんが週刊紙に取り上げられていることは事実ですか?」

「えっと……事実である部分もありますし、そうでない部分もありますけど…」

 不安ながら説明すると、やはり市の職員はローカルアイドルとしての公認を迷う顔になった。不安だし、怖い。けれど、奥の手はある。鮎美の名を出せば、いい。そして、そんな展開になることも市の職員も予想していて、より深く悩んでいる。犬山市は鮎美の地元ではない愛知県なので直接の関係はない。けれど、鮎美の後ろには谷柿と久野がいて、とくに久野は引退したとはいえ愛知県選出の衆議院議員だった。

「………まあ、我々としても……なんというか……ワンコさんが心配で……」

「……」

 だったら警備をちゃんとしてよ、と思ったけれど我慢する。

「こういう騒ぎになってくると……ワンコさん自身も、つらいでしょうし……しばらく休養に入るか……」

「……」

 あ、休養からの無期限活動停止、自分で辞めてくれた、って形にもっていく気だ、どうしよう、とワンコが不安になると、市議が一人、スタッフ控え室に入ってきた。職員が緊張する。

「あ、これはピアンキ先生……」

「どうも、こんにちは。ワンコさんの件で話し合っていると聞いたのですが、どういう話になっていますか?」

 この市議はワンコも知っていてピアンキ・パナソニーという元アメリカ人の日本国籍取得者で、市の教育改革に熱心なあまり市議選に挑戦し、現在は2期目という52歳の白人男性だった。職員が説明する。

「はい、騒動が起こっては危ないですし、ここは一つ、自主的な休養ということに…」

「私は続けたいです!」

 はっきりとワンコは言った。ピアンキが状況を察した。

「係長さん、これから犬山市は麗国の都市と姉妹都市を結ぶ計画でしたね?」

「あ、はい、慶尚道咸安郡と、その予定で進めています」

「ワンコさんは、良い親善大使になるかもしれない。ワンコさん、麗国語は話せますか?」

「話せます。ネイティブに違和感をもたれないくらいに」

「それは素晴らしい。これで決まりでいいと思いませんか、係長さん」

「……まあ……我々も……彼女が在日であることは、それほど問題としていないのです……ただ、一つ………彼女のお母さんが正式な結婚ではないというか……」

「………」

 やっぱりそこなんだ、どこまでも、いつまでも、私は生まれたのが間違いな子、とワンコは悲しくなったけれど、ピアンキが言ってくれる。

「子に罪はありません」

「っ! ありがとうござ…」

 ワンコは強く感謝を述べようとしたけれど、その瞬間、全員のスマートフォンや携帯電話が鳴り、地震を警告してきた。市の職員たちの顔色が変わり防災体制に入る。観光商工課のついでにやっている実はどうでもいいローカルアイドル事業に取り組む姿勢から、いよいよ街のために減災するには今何をすべきか、真剣に考える顔になり、ともかくスタッフ控え室を出ようとしたけれど、そこで地震が来た。揺れは震度5程度、かなり揺れたけれど、誰も怪我はしなかった。目につく被害といえば、いいニャンの着ぐるみにタバコの灰が降りかかったくらいだった。

「私たちは市役所へ戻ります!」

「私も行きます! ワンコさんは安全なところへ!」

 職員とピアンキが走り去った。

「安全なところって……どこ…」

 ワンコは城下から天守閣を見上げた。

「よかった、壊れてない」

 震度5の揺れに犬山城は耐えてくれていた。観光客たちは急いで下山している。

「こういうとき、私がするべきことって………う~ん……あ、火災とか…」

 ワンコは城内を点検することにした。電気設備からの出火や、ルール違反の喫煙から失火していないか、くまなくチェックして周り天守閣まで登った。そして外を見下ろして自分の目を疑う。

「え………なに……これ………黒い………海? ………原爆? …………どうしたら……こういう風に……なる……の…」

 天守閣から見える光景は異様だった。街が無い。名古屋から犬山市までの街が無い。すべて黒い物体に覆われていて、街が見えない。木曽川もわからない。その黒い巨大な物が何かわからない。

「……原爆の……黒い雨? …………宇宙人の攻撃……………地球が………沈む……」

 今もドンドンと黒い物体は面積と高さを増している。黒い巨大過ぎるアメーバにも見える。

「これ、そのものが………宇宙人……ハァ………ハァ……地球が……支配される……」

 頭が混乱してきた。その間にも黒い物体が迫り上がってくる。犬山城が建っている小山を登ってくる。

「……っ……私………ここで……死ぬ……あれに……飲まれる……」

 ここは天守閣で逃げ場はない。辺り一面が黒い何かに飲まれていく。もう最後の城門まで沈むと、ワンコは腰が抜けた。ペタンと天守閣の床に座り込み、お尻が温かく濡れて自分が失禁していたことに気づいた。怖くて震える。小さく丸く子犬のように自分を抱いた。

「…ハァ………ハァ………嫌だよ………まだまだ、やりたいこと、いっぱい……あったのに……」

 城の石垣を黒い軍勢が登ってくる。もう落城寸前だった。

「………止まった?」

 けれど、犬山城は沈まなかった。天守閣を支える石垣の半ばまで来た津波は、そこで止まってくれた。

「これって………津波……なの?」

 ようやくワンコはスマートフォンを見るということを思い出した。それに津波警報が載っているけれど、もう電波が届かなくなり更新はされない。ワンコの背後で人の気配がした。

「ハァっ! ハァっ!」

 ピアンキが階段を登ってきて息切れしている。息切れしたまま、外を見に来る。

「ハァっ…ハァっ……なんということだ………」

「ピアンキ先生……これって津波なんですか?」

 とにかく怖かったのでワンコはピアンキに抱きついた。

「おそらく……いえ、きっと、津波です………これほど……こんなに……こんなことが……おお………Godよ」

 それからも次々と助かった人たちが天守閣に登ってきて光景を眺め、それぞれに嘆いた。場所柄で観光客が多く2割が外国人だった。救助は来ず、むしろワンコたちは流れてくる人たちを助ける側だった。そして日が暮れ、真っ暗な城内は人で埋め尽くされる。怪我をしている人の呻きが聞こえる。手当てする包帯もない、血と糞尿の匂いがする。空腹で寒かった。

「……まるで戦国時代みたい……」

「そうですね………籠城戦のようだ……たしか、水攻めというのも、あったか……」

 ワンコとピアンキが話していると、犬山市民の一人が言ってきた。

「もう日本は終わりじゃ……あんたらが、けなるい」

 けなるい、が、羨ましい、という意味だとは二人とも知っていた。

「あんたらは、もう国へ帰りなさいな。帰るとこがあって、けなるいわ」

「「………」」

 他の外国人観光客たちは、どうやって帰国するかを話し合っている。ピアンキが横に首を振った。

「いいえ、私は日本人です。帰るところは、ここしかない。A friend in need is a friend indeed.困窮したときの友こそ本当の友。どうか、いっしょに頑張りましょう」

「おお……あんた、本当の先生じゃな」

「わ、私も! 私も頑張ります! 麗国では、ハヌリ、ムノジョドソタナル、クモンウン、イッタと言って、空が崩れても飛び出る穴はある、どんな困難でも切り開く方法は必ずある、はずですから! 海が溢れても生き抜く道はあると思います!!」

 ワンコも犬山城の天守閣で叫んだ。

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