第55話 2011年3月11日14時46分

 2011年3月11日14時46分、鮎美たちを乗せたエアパスA321は関西国際空港へ着陸するため、減速し高度を下げていた。鮎美は窓側に座っている知念の方へ身を乗り出して窓から外を見る。

「大阪の街やぁ……」

「なつかしいっすか」

「そら、育ったとこやもん」

 どんどんと高度が下がると見える範囲も狭くなり、いよいよ海面が近い。

「ん?」

「どうしたっすか?」

「目の疲れかな……」

 鮎美は地上の風景全体の像が二重に見えているような気がして目を擦ったけれど、それは治らない。街が二重三重に見え続ける。そして古そうなビルから崩れていくのを見て悟った。

「っ、地震や……」

「すげぇ揺れてるっすね。自分らが飛んでるから地面が、どんだけ揺れてるか、わかる」

 知念も地震だと判断したとき、減速し降下していたエアパスA321はグッと加速し、鮎美たちをシートに加速度で押しつけた。身を乗り出していた鮎美は知念の胸によりかかってしまい、支えてもらった。

「すんません」

「いえいえ」

「加速ってことは着陸、やり直しなんや。そら、そうかも」

「うお?! 連絡橋が落ちた!!」

 知念が叫び、他の窓側に座っていた生徒たちも騒ぎ始める。関西国際空港と陸地をつなぐ連絡橋が崩落していく。街のビルも次々と倒壊している。

「これ阪神大震災以上の被害なんちゃうの……」

「まだ揺れてるっすね」

「スマフォの電源を切ってるから情報が入らへん」

 鮎美は着陸のために電源を切ってあるスマートフォンを悔しそうに見る。電源が入っていて電波圏内であれば発生直後、もしくは揺れが震源から伝わってくる前にも、そこそこの情報を得られたかもしれないのに、今は窓から見下ろしていることしかできない。着陸を取りやめた飛行機の高度はあがり、その分だけ広い範囲の街が見える。あまりの被害の甚大さに鮎美も知念も言葉がないし、通路側のシートに座っていた鷹姫も窓を覗いてきて驚く。

「これほど………街が……」

 ビルも家も大半が倒壊し、海に近い埋め立て地区は液状化によって沈んでいく。飛行機は右旋回し大阪市の上空を通る。鮎美が息を飲んだ。

「っ…ああ……UMJが……天王寺区も………おばあちゃんの家あるのに……」

 もうシートベルトを外して知念の膝に乗るようにして窓に顔をつけ、なんとか遠い眼下に見える街の中から生國魂神社あたりにある祖母の家が無事か見つけようとするけれど、小さすぎて判別できないし、ほとんどの建物が倒壊しているので涙で視界が歪んだ。

「……おばあちゃん……っ…ううっ…」

 生きていて欲しいけれど、生きている気がしない。運良く地下鉄や頑丈な建物で買い物でもしていてくれれば、と祈った。知念が支えるように鮎美の肩に触れ、鷹姫は鮎美の背中を撫でた。義隆がスマートフォンを手に叫ぶ。

「マグニチュード10以上って、なんだよこれ?!」

「あれって二桁ありえるの?!」

 由香里もスマートフォンを手に叫んでいる。情報が欲しくてスマートフォンの電源を入れたようだった。もう飛行機は安定した旋回を続けているだけなので鮎美も電源を入れた。けれど、情報が入ってこない。高度が高すぎて電波が届かないのか、電波を発信する基地局そのものが倒壊したせいなのか、遅れて電源を入れた鮎美のスマートフォンには何の情報も入ってこない。

「ごめん、ちょっと見せてよ」

 鮎美は叫んでいた義隆に画面を見せてもらう。

「……なんよこれ……震源地も一つやないの……東北が一番規模が大きいって……東北から、大阪まで何百キロもあるのに……」

 画面には複数の震源地が表示されていて、東北、東海道、近畿、九州などの沖合に×印がついていて、あまりの震源地の多さに誤送信か、センサー類の誤作動ではないかと思うほどだった。そして地震の規模を示すマグニチュードは9や8に並んで10もある。

「…………もっと、情報を……再確認………あかん、このスマフォも電波が入ってない」

 見せてもらったスマートフォンも、すでに電波が入らなくなっていた。鮎美は叫ぶ。

「陽湖ちゃん!! 機長に高度をさげてもらえるか頼んでみて!! あと、スマフォ使わせてって!!」

「はい!」

 まだ紫ローブでマントやティアラもつけている陽湖が内線電話で機長に頼んでくれたので、旋回高度が少しさがった。それでも電波は入らない。そして情報機器ではなく窓の外を見ていた泰治が叫んだ。

「あれ、何だよ?!」

 鮎美たちも窓を見る。

「なっ………なんよ、あれ……つ…津波?」

 大阪の街が黒い海に飲まれている。桜が叫んで泣き出した。

「お兄ちゃんの大学まで!! ウソっヤダよ!! うわああああん!」

 建物の倒壊に巻き込まれていなければ生きているかもしれないという希望が絶望の海に飲まれていく。鮎美も祖母が生きている可能性はゼロに近いと再認識した。胸の奥がズキズキと疼いて息がしにくい、兄を亡くした桜のように大声で泣きたくなる。けれど、鮎美は自分の立場を忘れていなかった。今や内閣の一員で、こんなときに泣いていていい立場ではないと自戒し、せめて最年少大臣として足を引っ張らないよう気持ちを引き締める。不幸中の幸い、誰よりも早く被害状況を目の当たりにすることができるのだからと、涙を押さえ込んで眼下を凝視する。

「……この津波……どこまで……」

 黒い海は、どんどんと拡がっている。大阪市全体、さらに守口市、門真市、八尾市まで飲まれていて、山でもない限り進み続けている。まだ黄色ローブを着ている博史が叫ぶ。

「ハルマゲドンだ! 世界の終わりだ!」

「………」

 鮎美は手のひらに浮いていた汗を制服で拭いた。

「……今、できることは……」

 浮き足立っていた気持ちを落ち着け、考えてみる。

「……被害状況の把握……それには首相官邸へ……うちは外務大臣なんやから……一秒でも早く……関空は、もう………陽湖ちゃん!! 機長に東京の方にある空港へ向かってもらえへん?! できれば羽田か、成田!!」

「言ってみます!!」

 陽湖が機長に伝え、しばらくして機内アナウンスが英語で流れたけれど、地名にはコウチと入っていたように聴こえた。

「……コウチ………高知なんかな……」

 鮎美が言い、鷹姫が考える。

「高知県には高知空港があったはずです。関空から近いといえば、近いかもしれませんが……その後の移動が大変です。今日中に東京へ着くのは難しくなるかと……」

「うん……大阪が、この状態やと新幹線も……」

 知念が言ってくる。

「大臣レベルになれば、自衛隊のヘリで移動ってこともあるっすよ。これだけの災害っすから」

「ヘリかぁ……ほな、空港にいる方がええかな……ともかく着陸までは機長に任せるしかないし」

「けど、オレは高知へ遊びに行ったことあるっすけど、あそこ海の近くなんっすよね。空港も」

「大阪を襲った津波が、高知県にも行くやろか?」

「どうっすかねぇ……津波って、せいぜい2メートルくらいのものってイメージだったんっすけど………マジでハルマゲドンかってくらい大阪は沈んで……」

 知念も青ざめた顔色をしている。ずっと黙っていた介式が言う。

「最寄り空港であれば、徳島、高松もある。伊丹がダメでも、鳥取や小松も。だが、これだけの災害で関空へ降りる便は、すべて振り替えられるだろう。各空港管制側の混乱も大きいはずだ。ここは専門家に任せて、我々は黙っているしか、あるまい」

「……そうですね」

 鮎美は黙って窓の外を見た。淡路島が見える。淡路島の南部は海から、すぐに山という地形が多く、黒い海に襲われている部分は少なく見えるけれど、もともとの地形を知っているわけではないので、その下に漁師町があるのかもしれないと考えるとゾッとした。そして、鳴門海峡にかかる巨大な橋が黒い海に押し倒されるのを目にすると、お腹が冷えるような寒気がした。

「……あんな大きな橋が……」

 鮎美は中学の頃に家族で徳島県へ、うどんを食べに来たことがあったけれど、やはり地形など覚えていない。徳島県に親戚がいる貴久がつぶやく。

「あのあたりに徳島空港があるはずなのに……見えない………吉野川も、わからない……眉山が半分まで沈んでやがる……ははは……いよいよハルマゲドンだな……ハレルヤってか…………昭一……香奈ちゃん……叔父さんも、叔母さんも……死んだのかよ……チクショーっ!!」

 貴久が拳から血が出るほど窓ガラスを殴った。しばらくして機長と会話した陽湖が説明にくる。

「高知空港だけが当初、受け入れ可能と返信をくれたそうです。ですが、今は連絡が取れず、どうなっているか不明。それでも他の空港からも着陸許可がもらえないので、とりあえず向かうそうです」

「そうなんや。………あ! 谷柿先生か、鳩山総理に連絡とれへん?」

「訊いてみます」

 陽湖が内線電話で機長と話し、申し訳なさそうに帰ってくる。

「東京も相当に混乱しているようで、まったく連絡が取れないそうです」

「そっか、おおきに」

 眼下に四国の山中が見えてきた。さすがに山中までは津波は押し寄せていないけれど、多くの箇所で崖崩れが起こっている。本来、緑に包まれていたはずの山のところどころに茶色い部分が拡がっていて、その下では川を堰き止めていたりする。

「……道路が寸断されて……輸送も……これを復旧する工事の予算、とんでもない額かも……そんなことより人の命が……いったい、どれだけ……」

 土佐中街道の曲がりくねった道路を観察しているうちに、高知市が見えてきたけれど、知念が驚く。

「高知市が、ほとんど全部、津波に沈んでる……」

「このへんが高知市やったんですか?」

 知らない地形なので鮎美には、まったくわからない。知念が青ざめながら説明してくれる。

「あの山の中を通ってる高速道路の下が、高知市の中心で……全部、水没してる。高知城までも……城だから、そこそこ高い位置にあったのに……」

 鷹姫も言う。

「高知は、もともと低地で洪水被害が多かったのです。それを嫌った山内一豊(やまのうちかずとよ)が縁起を担いで、河内(かわうち)だった地名を、高地と同じ発音の高知に変えたそうです」

「名前だけ変えても、結局は低地やったんでは……、空港は?」

「高知空港も海のそばだったすから、……たぶん、連絡が途絶えたのは管制塔ごと……」

 着陸態勢に入らない飛行機は高知市上空で旋回を始めた。次の目的地を探している様子だった。約5分後に西の九州へと進路をとった。四万十川の源流となる山地も各所で崖崩れを起こしている。愛媛県山中に入っても状況は同じだった。

「これで東北の方が、よりひどいって情報がホンマやったら日本、終わってるやん」

 すぐに九州の大分県が見えてきたけれど、やはり海岸線は水没しているし、低地の市街地が見えない。そして山地は土砂の性質なのか、崖崩れの範囲が四国より広くて数も多い、ひどいと山の半分が岩肌を晒していた。飛行機は熊本空港を目指していて、空港そばの上空で旋回を始めた。ときおり遠くの空に同じく旋回している飛行機が見える。

「着陸の順番待ちみたいっすね」

「ようやく降りられるんや……熊本て、えらい遠くまで」

 鮎美は九州に来たことはなかった。知識も、ほとんどない。

「熊本城は無事っすかねぇ」

「築城の名手と言われた加藤清正が築いた名城ですから、きっと無事だと思います」

 鷹姫の希望的観測を確かめる前に飛行機が熊本を離れ始めた。

「どこいく気なんよ?」

 鮎美の問いには機長から話を聞いた陽湖が答える。

「熊本空港に降りる予定でしたが、余震が発生し着陸中だった飛行機が横転、炎上したため、他の空港を探すとのことです。さしあたって鹿児島方面へ向かうようです」

「鹿児島て……陽湖ちゃん! 津波は太平洋側から来てる感じやん! 日本海側の空港を目指す方がええんちゃうの?!」

「それが、すでに日本海側の空港は受け入れが満杯みたいなんです。私たちの飛行機は大手の航空会社ではなく教団所属ですから一機のみの運営体制でやっていますから、後回しにされた感じで……すみません」

「後回しって……」

「月谷! 外務大臣である芹沢先生が搭乗していると言って優先させなさい!」

「すでに、それも伝えたそうですが、空きがないと言われたそうです。残りの燃料が少ない飛行機が優先されるみたいで、私たちの飛行機には、まだ余裕があるそうです。それに熊本空港が使えなくなったことで、余計に空きが無くなり、他の空港でも事故があったそうです」

「「………」」

 鮎美も鷹姫も言葉が無くなり、機内に機長からのアナウンスが英語で流れる。鹿児島へ行っても着陸できそうになく、次に目指す地名として聞き取れたのはナハだった。

「ナハって……どこやった?」

「沖縄っす」

 沖縄出身の知念が言った。

「沖縄て、また遠すぎるとこへ……まあ……たしかに、そこまで行けば地震の影響もないかもしれんね」

「混乱している地域に降りるより、良いかもしれません」

 目的地が決まり、そして眼下が黒い海でなく、平穏な青い海に変わったことで機内の雰囲気も少し落ち着いた。九州から沖縄までの飛行中に日が暮れる。

「そろそろ沖縄のはずっす」

「あの光りなんかな」

 眼下に沖縄本島が入り、夜なので暗いけれど、電灯の明かりが見える。

「知念はん、停電してる地域はあるように見える?」

「うーん……北部は山ばっかりっすからね。暗いもんですよ。けど南部は、しっかり明かりも見えてますから、ぜんぜん大丈夫に見えるっす。たぶん、どこも停電してないっすよ」

「ってことはスマフォも使えるかなぁ」

 鮎美の望みはかない、情報が入ってきた。

「やった、ちゃんと動いてくれる……………………」

 けれど、新着情報に目を通していくと鮎美たちはお腹が凍りつくような寒気を覚えた。

「……東京壊滅……」

「…23区、すべて…水没したようです……動画が拡散していて…」

 鮎美たちと同じく幸運にも飛行中だった者が撮った映像がネット上に拡がっていて、東京が完全に飲み込まれる様子が目の当たりにできた。

「……名古屋も………大阪も……太平洋側、壊滅って……っ…ハァ…」

 鮎美は胸を手のひらで押さえて息をした。入ってきた情報を知れば知るほど、息苦しくなる。鷹姫も蒼白だった。

「仙台も……東北から東京、名古屋、大阪にかけて襲ってきた津波の高さは200メートルを超えたそうです」

「二百て……桁が二つほど、間違ってるんやないの……。けど、守口市やら門真市まで達してたから……そのくらいあった……」

 さらに鮎美へ英語圏の情報を調べていた泰治がスマートフォンを向けながら言ってくる。

「この地震、太平洋全体で起きてるぞ! 日本、アラスカ、メキシコ、チリ、ソロモン! ぐるっと太平洋プレート全体が動いたらしい!」

 向けてくれた画面を鮎美が読む。地震観測と地震情報の拡散では日本が世界一だったけれど、あまりの被害で混乱し日本語情報よりもヨーロッパ経由の情報の方が、まとまっていた。

「……日本のマグニチュードは10.3………太平洋プレート全体では総マグニチュード11.1って……十一って……たしか、マグニチュードは二つ増えるとエネルギーは千倍やったから、マグニチュード9の千倍……」

「芹沢先生、これを!!」

 鷹姫が動画を見せてくれる。それは素人が動画を投稿して収益をえるヨーツーベというサイトの動画で、そこそこに有名なヨーツベーターが国会議事堂前を実況中継している動画で、今日は鳩山総理に在日麗国人からの献金問題で退陣を迫るデモ隊を撮影していたけれど、途中で地震に遭い、混乱しながらも撮影と発信を続け、最期は国会議事堂よりも高い津波が全体を飲み込む様子だった。

「っ……翔子はん………キョウちゃん……雄琴はんも……中にいたはず……今日は本会議で……地震発生は15時前……総理も……谷柿総裁も……」

「大半の国会議員が………いえ……もしかしたら、……芹沢先生以外の……すべての国会議員が……」

 急に飛行機が進路を変えた。それが加速度でわかるほどの急な操舵だった。

「那覇空港に降りるんちゃうの?」

 鮎美が窓を見る前に知念が見ていた。

「津波が……沖縄にまで……」

 沖縄本島に巨大な津波が押し寄せてきて、着陸するはずだった那覇空港を飲み込み、さらに市街地を蹂躙している。電灯の明かりが消えていき暗闇になる。飛行機が旋回を繰り返したおかげで、沖縄が消える様子を最初から最後まで鮎美たちは見た。再びインターネットも使えなくなった。

「……………………」

「……………………」

「…………ッアンマー………死んじゅとぉ……」

 知念の悲痛な声でッアンマーという方言が、鮎美にも鷹姫にも母親を意味するのだと、なんとなくわかった。

「くそっ! ……沖縄に帰省するの、止めてれば……くっ……東京に居たって同じかよ……チクショー!!」

 知念が窓を叩いた。飛行機は旋回を続けている。

「……うちらの飛行機……燃料……大丈夫なんやろか……」

「「…………」」

「ハルマゲドンだ! やっぱりハルマゲドンが来たんだ!!」

 博史が叫んでいる。陽湖も叫ぶ。

「祈りましょう!! 神に!!」

 陽湖が使徒信条と主の祈りを始めると、教師と黄色ローブの生徒たちも追従し、さらに機内の5割の生徒が同じく祈り始めた。泣きながら祈っている生徒も多い。けれど、鮎美は祈る気にも、泣く気にもなれなかった。祈るべき神は、ずっと鮎美のことを否定してきたし、泣いても解決しないことは多い。ハルマゲドンなどと言われると、ただ大きいだけの地震だ、今までの人生でも想定外のことは、いくつもあったし今回も、その一つにすぎない、と落ち着いて考える。

「知念はん、那覇空港から近い位置にある空港は?」

「ぐすっ……他の島の空港も、そんなに高い位置にないっすから、今頃は津波で……」

 鼻を啜った知念はまた窓の外を見た。まだ沖縄上空で旋回しているので沖縄本島が見える。

「っ! 山の上に明かりが……はは! ちょっとは生き残ってるっすよ!」

 車のヘッドライトや仮設照明器の明かりが山頂や山道に見える。逃げ延びた人数は少なくない様子だった。

「ははは! やったぜ! 高さんと逃げよぉたい!」

「よかったやん。津波の到達までに時間があったから、対処した人が多そうで」

 全滅ではないというのは大きな希望だった。けれど、飛行機は行くあてなく旋回を続けている。鷹姫が思いついた。

「琵琶湖に着水するというのは不可能でしょうか?」

「どやろ……」

「琵琶湖っすか。たしかに海より凪いでるっすけど、着水自体が至難の業らしいっすよ。あと運と」

「運なら、この飛行機は抜群やで。関空でも那覇空港でも、あと少し早く着陸してたら、やばかったもん。ついでに言うなら仲国で、ちょっかい出して来よったヘーホーとかいう奴がおらんかったら、ちょい遅れることもなく関空に着いた直後に地震やったやろし。あいつに感謝しとくわ」

「芹沢先生の強運はアテにできます」

「アユミン……これ…」

 一人にしておくのが不安だった鐘留を前席に座らせていた。その鐘留が怯えた声で言い、自分のスマートフォンにある画像を見せてきた。それは航空機事故の記事を事前に静止画で撮ったもので、ネット環境が無くても見られた。

「この飛行機、2002年に事故に遭ってるかもしれないの。それで善日空が2006年に中古で売却してる。ちょうど、教団がA321を使い始めたのと、同じ時期に………これ事故機なんだよ。後部を損傷してる。一機100億円以上するけど、それは新品の話で中古のワケありだったら、きっと格安だったんだよ……もう、みんな死んじゃうかも…ぐすっ…」

「カネちゃん……このタイミングで………善日空391便函館空港着陸失敗事故……」

 鮎美は記事を読んでみた。

「う~ん……むしろ、やっぱり幸運機やと思えば? この事故、全員が生存してるやん」

「そうです! 不吉なことを言うのはやめなさい! 何度も苦難を乗り越えた雪風の例もあります!」

 鷹姫の声に義隆も強く賛同する。

「おお! いいこと言うぜ、宮本! 雪風の強運は最強だよな!!」

「ユキカゼ? 鷹姫、それも戦国武将なん?」

「いえ、大戦中の駆逐艦です。16回以上の大きな作戦に参加し、あの大和の最期にも随伴しながら、大きな損傷無く生き残った奇跡の幸運艦として有名ですから」

「敗戦国側で、それはすごいなぁ………最期は、どうなったん?」

「……無事に終戦を迎えたのですが、賠償艦として仲華民国、いわゆる台湾へ引き渡され、丹陽と改名、しばらくは仲華民国海軍の主力艦として活躍したのですが、1971年に解体されました。畑母神先生からうかがったのですが、解体前に日本へ返してもらう交渉も旧日本海軍の交友会である海友会が行ったそうですが、かなわなかったとのことです。とても残念です」

「おしいよなぁ」

 義隆も残念がる。鮎美が言う。

「とはいうても71年まで、戦後26年も形を保ってたんやと思えば、すごいやん」

「たしかに長門に比べれば……」

「ナガトって?」

「かつて大和が国民に秘匿されていたとき、連合艦隊の旗艦として長く海軍の象徴になっていた戦艦です。終戦まで温存されたのですが、アメリカ軍に接収され1946年にビキニ環礁で行われた原爆実験の目標艦とされ、二度の核攻撃で水没しました」

「取り上げて実験で使い捨てとは……ホンマ、ろくなことしよらんな、アメリカ。そら9.11も起こるちゅーねん。うちらに知らされてへんだけでイスラム圏でも、さんざんなことしとるやろ、どうせ」

「アユミン、この飛行機と同じパターンで墜落した事故があるの」

「……あんまり聞きたくないけど、どんな?」

「目航ジャンボ機墜落事故、同じように着陸での失敗でお尻を擦った後、何年かして不具合が出て、山の中に墜落、500人以上が死んだの」

「………。聞くんやなかった。だいたい、カネちゃんは、なんで、そんな情報をもってるの? また今もネット遮断されてるのに」

「出発前に、なんとなく調べておいたんだよ。いくら宗教団体がお金あるっていっても、こんな飛行機が買えるなんて、どうしたのかなって……きっと事故機の中古だから超格安だったんだよ。善日空は目航みたいな事故になったら嫌だし、売っちゃえって考えたのかも。アタシもフェアレディZを事故ったから売ったもん。縁起悪いし」

「あんたは調子に乗ってドリフト試してケツ擦っただけやん。それで、また新車を買うとかありえんよ」

「今度は、みんなで乗れるエスティマにしたよ。選挙応援でも使えるよ」

「そっか。おおきにな、よしよし」

 鮎美は鐘留の頭を撫でた。ようやく立ち直ってくれつつあるようで少しは会話が成立した。あいかわらず場の話題としては最悪のチョイスをしてくれるけれど、そこは目をつぶって優しく撫でているとキスしたくなる。それで詩織のことを想い出して胸に鋭い痛みを覚えた。東京の状態を考えると、生存の可能性は低い。なにかの幸運で地上200メートル以上の高層ビルにでもいてくれたなら生きていてくれるかもしれないけれど、高層ビルでさえ多くが津波で薙ぎ倒されている。鮎美はネックレスチェーンで胸に吊っている潰れた指輪を手で押さえた。知念が沖縄本島が見えなくなったので言う。

「旋回をやめた……行き先が決まったみたいっす」

 機長がアナウンスして行き先を告げると、介式が立ち上がった。

「介式はん、どうしたんですか?」

「少し機長と話をしてくる」

「ほな、うちも」

「いや、芹沢大臣は座っていてほしい。あまり多くが動いては生徒たちが動揺するだろう。落ち着いていてくれ」

「わかりました」

 鮎美を置いて介式は前部に行くと、祈っている陽湖に声をかける。

「機長と話がしたい」

「はい、わかりました」

「私は英語が苦手だ。通訳も頼めるか?」

「はい」

 陽湖の通訳で内線電話を通じて機長と介式が会話する。

「私は芹沢大臣の警護責任者、日本警察の介式いつか警部だ。行き先について変更を願いたい」

「変更はできません。すでに燃料に余裕がない」

「だが、台中空港は国外だ。せめて日本国内の空港に降りてくれ。九州まで戻れないか?」

「九州と台湾では台湾が近いのです。それに台中空港は標高202メートル、太平洋に面していない台湾西側です。多くの空港が海沿いにあって水没する中、もはや台中空港が唯一の選択肢です」

「………そうか……。台湾側に芹沢大臣が乗っていることを伝えたか?」

「いえ、まだ。どこの空港管制も忙しく長話の余裕はありません。大臣の件より、燃料が無いことで優先されましたから」

「そのまま言わずにおいてくれ。絶対にだ」

「わかりました」

 機長との内線電話が終わると、介式が陽湖に言う。

「君は宗教指導者という立場であるが、秘書補佐という立場でもあるな?」

「…はい」

「では、今の件は守秘義務として、誰にも言うな。芹沢大臣にもだ」

「……わかりました……でも、どうしてですか?」

「また臨検などされたいか?」

「………」

「願わくば、仲華民国の諜報機関が嗅ぎつけていないことを、無事の着陸とともに祈っておいてくれ」

「……仲華民国……台湾……」

「あと、ハルマゲドンなどと騒がせるな。パニックになれば収拾がつかなくなるぞ。そのときは実力をもって芹沢大臣を警護する」

「………シスター鮎美、一人を優先するつもりなのですね……」

「それが私の任務だ。学校教師ではない」

「わかりました。他に気をつけるべき点や、しておくべきことはありますか?」

「できれば生徒たちに食事をとらせ、祈るのもいいが、仮眠させておくことだ。もっとも那覇から台湾までは40分ほど、この状況で眠れる者はいないだろうが」

「最期のパンがあります」

「……最期の晩餐などと言い出すなよ」

 しっかりと注意した介式は後部へ戻ろうとしたけれど、振り返って陽湖を見る。

「……」

「まだ何かありますか?」

「君は……」

 珍しく介式は言い淀み、迷ったけれど言う。

「君は、いよいよのとき、芹沢大臣の身代わりになる気はあるか?」

「っ………身代わり……」

 これまでも顔立ちが似ていることで、鷹姫から影武者になどと言われたけれど、介式の問い方は、より深刻な気配がして陽湖は即答できなかった。

「考えておいてくれ」

 そう言った介式は後部に戻ると、通路から窓際にいる知念に声をかける。

「知念、私の腰を揉んでくれ。長く座っていてダルくなった」

「え……警部の…」

 知念の目が異性の腰を見て戸惑う。戸惑っていると鷹姫が気を回した。

「介式師範、私がお揉みします」

「いや、知念がいい」

「そうですか……」

 役に立てないことを鷹姫が悲しそうにすると、介式はポニーテールを撫でた。

「宮本くんは疲れているだろう。できれば眠れ。顔色がよくないぞ」

「……はい、…お心遣い、ありがとうございます……」

「知念、こっちに来い」

 そう言って介式は後部のトイレに知念を入れ、自分も個室に入る。航空機の狭いトイレなので密着しそうになった。

「知念は座れ」

「は、…はい…。こ、こんな場所で、介式警部の腰を…」

「いや、あれは方便だ。秘密の話がある」

「そ、そうっすよね。はぁぁ…ビビった」

「私が合図したら、芹沢大臣を落とせ」

「え? 彼女はガチレズっすよ? オレには紀子がいるし……オレに彼女が触ってくるのは完全に犬あつかいで、その気が無いから…」

「バカか、貴様は。絞め落とせという意味だ」

「ああ、その落とすっすか。って、警護対象を絞めて、どうするっすか?!」

「不測の事態のおり、本人が騒がない方がよいからだ」

「不測の事態って?」

「お前は顔に出るから、知らずにおけ」

「そうっすね……わかりました」

 密談が終わって知念と介式が、それぞれのシートに戻ると前部で陽湖がマイクで全体に語り始める。

「大変な地震が起こり、とても不安なときですが、落ち着いて過ごしましょう。これから望まれる人には聖餐を施します。また、望まれない人にも食事としてパンと蜜を配ります。落ち着いて食べてください」

 それを聴いて泰治がつぶやく。

「フリー聖餐にするのか……まあ、形だけは全員、洗礼を受けてるけど…」

「フリー青酸って、なんよ?」

「今ビミョーに変な発音にしたね。ああ、芹沢さんは会議室に閉じこめられてたから一度も聖餐を経験してないか。プロテスタントでもやってる定例の儀式だよ。礼拝時に洗礼を受けている人にパンと葡萄酒を与えるのが正統なんだけど、最近は飲酒運転のこともあるからボクが行ってる教会だと葡萄酒の変わりにファンダグレープだったりする。未成年飲酒も問題だし。で、その儀式で洗礼を受けてない礼拝参加者にもパンと葡萄酒を与えるのがフリー聖餐って言われて、問題になってる。それで揉めて日本キリスト教団から破門された牧師もいるし」

「どこの教団も、いろいろあるんやね。政党でもいろいろあるみたいに」

 泰治と鮎美が話しているうちに陽湖は教師や望む生徒には儀式としてパンと蜜を与え、望まなかった生徒には単なる給食としてパンを配り、蜜をかけるかはその生徒に訊いてから手ずからかけている。男子生徒は陽湖の手から蜜を注がれることに抵抗が少ない様子だったけれど、あまり気乗りしない女子生徒も3月9日から、ろくに食事をとっていないので蜜を求めた。由香里がパンに蜜をかけてもらいながら陽湖を睨んで言う。

「あんた、これをする前に、ちゃんと手を洗ったんでしょうね?」

「はい、きちんと洗いました。ごめんなさい、スプーンなどは積んでいないのです」

 陽湖は半日ほど前に、うっかり自分の大便を触ったことは、永遠の楽園まで黙っておこうと誓いつつ、上手に蜜をかけていく。ハチミツとコンデンスミルク、オリーブオイルという高カロリーな物は空腹時には貴重だった。順番に配っていき泰治にもパンを渡した。

「蜜をかけますか?」

「いや、いい」

 泰治は陽湖の手から蜜をもらうのを辞退した。次に鐘留へもパンを配る。

「蜜をかけますか?」

「……う~………お腹空いたよぉ……もっと、いいものないの?」

「ごめんなさい。これしかありません」

「ぐすっ………お腹が空いて泣きそう……はぁぁ……蜜かけて、たっぷり」

 陽湖は泰治の分も鐘留にかけた。最後尾の鷹姫に問う。

「蜜をかけますか?」

「…………。……いただきます。……いえ、要りません」

 かなり迷っている。

「きちんと手は洗っていますから、どうぞ」

「……………………いえ、……要りません」

 結局は嫌悪感が食欲に勝った。最後になった鮎美に問う。

「蜜をかけますか?」

「う~ん………まあ、腹が減っては戦ができんやしね。かけて」

 もう宗教に付き合わされるのは懲り懲りだったけれど、そこに宗教的意味を見出さないなら、単なる食品であり、陽湖が握ってくれたオニギリと似たような物だと思って食べた。配り終えた陽湖は額のティアラがさがってきていたので、蜜がついていない方の手でティアラを押しあげた。

「ひッ…」

 鷹姫が短く息を飲み、ビクリとしてパンを落とした。まるでイジメられている生徒がイジメてくる生徒を恐れて、ただ頭を掻いただけなのにビクリと防御するように身震いしていて、陽湖も鮎美もキョトンとして鷹姫を見る。

「……っ……ハァ……ハァ……」

「鷹姫、どうしたん?」

 鮎美は落ちたパンを拾おうとして、鷹姫が両膝も震わせていて、その膝の間が小水で濡れてきていることに気づいた。

「…鷹姫…」

 陽湖も気づいた。

「……え? ……おもらし?」

「っ……」

 鷹姫も自分が漏らしたことにも気づいていなくて、またビクリとする。手も震えていて、顔が青い。その青かった顔が自分の失禁に気づいたことで今度は赤くなる。赤くなって涙を零した。そして隠すように膝を閉じて顔を伏せた。

「…なんでも……ないですっ……ぅ、…ぅぅ…」

「鷹姫………陽湖ちゃん、鷹姫に何をしたんよ?」

「な…何もしてませんよ!」

「なんでも……ないですから……騒がないでください…ぅぅ…人に気づかれたくない…」

「「………」」

 周りの生徒に知られたくないという気持ちはよくわかるので、鮎美と陽湖は目配せすると、陽湖は中央部まで進み生徒の注意を自分に集める。

「食べ終えた人から、目を閉じてください。お祈りされる人は祈りを、お休みになれるなら、どうぞお休みください」

 陽湖が話しているうちに鮎美は鷹姫をトイレへ立たせる。そばにいる知念や介式は気づいていないのか、気づいていて気づかぬフリをしてくれているのか、ともかく鮎美が鷹姫の背後に立って、濡らしてしまったスカートを見られないように後部のトイレに入った。幸いにして最後尾なのでトイレは至近で、心配なので狭い個室に二人で入った。

「鷹姫、気にせんとき。陽湖ちゃんにオシッコ責めされた後やし尿道が調子悪いんやろ、こまめにトイレ行けば、すぐ治るよ」

「…ぅぅ……ぅ…」

「スカート、交換してあげよ」

「っ、い、いえ! そんなことはできません!」

「遠慮せんでええから」

 鮎美はスカートと下着も脱いだ。

「ほら、いつまでも、うちを脱がせたままにせんと、鷹姫のスカートを貸してよ」

「……私は……自分が情けないです……芹沢先生の上着まで汚したのに……」

「あれは、どう考えても陽湖ちゃんが悪いし、いつか復讐するから待ってて。手っ取り早いのは柔道か剣道を教えるって口実で道場に連れ込んで二人してボコボコにするとかやね。道場は刑法の治外法権やし。首の骨でも折って一生寝たきり生活にさせても刑事的には責任軽いし。とはいうても、陽湖ちゃんをオシッコ趣味に目覚めさせた責任は、うちにあるから、それを控除したら、やっぱりボコボコくらいかな」

 陽湖による責めから解放された直後は復讐心に満ちていた鮎美だったけれど、時間が経ったことと地上で起きた大災害のおかげで、かなり怒りは忘れつつあった。

「まあ、この状況で道場に連れ込むのは何年も先になるかもしれんけど、うちらの島は震源地の情報が確かなら、そう被害は大きくないやろ。ぐるっと山に囲まれた県で淀川しか津波が侵入するところはないし」

「……情けない……なんて……情けない…」

 鷹姫が嘆き続けている。

「鷹姫、そんなに落ち込まんときよ」

「…私は……自分では強いつもりでいたのに………あんな……月谷に……怯えて…」

「………鷹姫……」

 うちが会議室で責められてる間、鷹姫も手足の自由無しで、よっぽどひどいことされたんかも、本人に訊くと思い出させるし、由香里はんにでも訊いてみよ、と鮎美は泣いている鷹姫のスカートを脱がせて自分が穿き、濡れているところをトイレットペーパーで拭いてから、鷹姫には個室内で待っているよう伝えて、由香里の席まで行くと訊いてみた。

「うちが会議室にいる間、鷹姫って陽湖ちゃんから、どんなことされてたん?」

「う~ん……ごめん、私も参加したから言いにくいんだけど、けっこう、ひどかったよ」

「由香里はん、うちを罵りにも来たやん。どうせ、陽湖ちゃんに女性を嫌って男性を好きになるよう仕向ける作戦とか言われたんちゃう?」

「あ、うん、よくわかるね」

「同性愛を知らん人間の考えそうなことやもん」

「それがわかってるとしても、芹沢さんは、よくケロっと、あのクソマザーと平気で話せるよね。私だったらフルボッコにして死ぬほどアダムの槍で刺してやるよ。ケツとマンコがつながるくらい」

「あははは…、まあ、そのうちボコボコにはするよ。今はこんな事態やし、後回しということで」

 先に陽湖へ暴力をふるったのは鬼々島の山中で自分がしたことなので、それも控除しなければ、と思いつつ知るべきことを問い、由香里から鷹姫が受けた仕打ちを聞いた。それを聞くうちに、再び陽湖への復讐心が燃え上がる。由香里も思い出したく無さそうに語る。

「もう最後の方は、めちゃめちゃひどかったよ。お尻だけじゃなくて顔までパンパン叩きだしてさ。はじめのうちは宮本さんも睨み返す気力があったけど、オシッコ漏らしてからは急に精神的な限界が来たみたいでワンワン泣き出したし。あの人、プライド高そうじゃん。そのプライドを狙ってズタズタにした感じ。しかも亡くなった母親のことまで引き合いに出してさ。人のトラウマを抉って、もう聞いてられないくらい、ひどいこと言ってたよ。どっちの中に悪魔がいるんだ、って思ったくらい。おかげで宮本さん、完全にビクついて、子供か赤ちゃんみたいに泣いてさ、同性愛を否定します、って意見に変わっちゃうし。あれを見てて月谷みたいな腕力に頼らないで人の心を操作するヤツが一番怖いって思ったわぁ。最終的には宮本さんバージンっぽいのにアダムの槍を受けるのにまで頷いてたし。あそこで芹沢さんが止めなかったらマジ今頃はヤバかった。みんなでハルマゲドンだぁ、って絶叫してたよ。ま、今も一部のヤツらは、そうだけど」

「……鷹姫……そこまで、ひどいことされて……うちは、自分のことばっかりで…」

 鮎美は心配になってトイレに戻った。思った通り鷹姫は便座に座って、うなだれたまま啜り泣いていた。言葉が無くて鮎美は泣いている肩を抱いた。鷹姫は泣きやめない自分へ自己嫌悪を覚えているようで、できるだけ声をあげないように、泣かないようにしているのが余計に痛々しい。

「鷹姫……泣きたいだけ、泣きいよ。すごい嫌なこと、されてんのやし。それで泣くのは弱いことやないよ」

「…ぅぅ…ぅ…」

「鷹姫が傷ついてること、うちにも話してよ。どんなことが苦しいの?」

「……ぅぅ…」

 しばらく鷹姫は迷ったけれど、鮎美が優しく問いかけたので、泣きながら話してくれた。それは陽湖が邪推した通り、亡くなった母親の妊娠中に何度か鷹姫がおもらしをしたという幼児にありがちことから始まり、亡くなった直後はショックで記憶が残っていないけれど、より回数が増えてしまい、頻繁に衣服を濡らすようになったものの、島の大人はもちろん周りの子供たちも、母親と生まれるはずだった下の子を同時に亡くした鷹姫がおもらしを繰り返すのは淋しいからだと察して、誰もからかったりしなかったので、そのうちには治ったけれど、父親が再婚したタイミングで、また再発して漏らすようになり、もう小学校も大きい時期になっていた。それでも鷹姫が剣道場の子で強かったことと、島の同級生たちも事情を知っていて優しかったことで、からかわれることは無く、むしろ場の空気を読むのが苦手な鷹姫は学校で女子と男子が対立していたり、学校のガラスを割った児童が名乗り出ずに学級会が困った雰囲気になったときなどに漏らしたりし、鷹姫のおもらしがキッカケで対立が終わったり、ガラスを割った児童が名乗り出たりしたので無意識に問題の解決のために漏らすことまであった。それが終わったのは五年生の湖上学習船うみのこに他の小学校の児童たちも合わせて参加したときだった。島の小学校は人数が少ないので他校生と合わせての日程となり、よくあることに島の児童を他校生が貧乏、魚臭い、等と言ったりして対立することになり、その場で鷹姫は癖になっていたおもらしをした。それで解決に向かうと思っていたのに、むしろ事態は悪化し、他校生は鷹姫をバカにしてきて、島の同級生は守ってくれ、口論が乱闘に変わると、鷹姫も参戦して人数の多かった他校生たちを相手に圧勝した。けれど、勝った後に島へ帰ってから同級生の女子たちに、おもらしが本当はとても恥ずかしいことで今までからかわなかったので気づかなかったかもしれないけれど、もうしてはいけない、お母さんが亡くなったことは可哀想だけれど、おもらしを繰り返していると亡くなったお母さんも悲しむよ、と諭され、二度としないと島の大山の登り口にある墓前に誓ったのに、陽湖によって何度も繰り返しおもらしさせられたのだった。そして、さきほどのおもらしは我慢していたわけでもないのに、陽湖が手をあげた瞬間、叩かれるイメージがして身体が震え、気がついたら漏らしていたと告白すると鷹姫は大粒の涙を零した。

「…うぅっ…情けない……恥ずかしい…」

「鷹姫……」

「私が4つも年下の健一郎さんと許嫁になったのも……おもらしするような娘では、嫁のもらい手が無いかもしれないと父が……島の風習では近い年齢の男女を縁組みさせるのに……私が小学五年生だったとき、まだ一年生で何も知らなかった健一郎さんにしてもらったのです……年上や同級生、三つ下くらいの子まで、みな、私の恥を恥とも知らぬ姿を知っていましたから…」

「そうやったんや」

 高校3年生と中学2年生という、やや無理のある縁組みの理由がわかると、おもらしを極度に気にしている理由ともつながった。どう慰めようか、鮎美は考え込み、思いつかなかったけれど、ともかくはトイレを二人で出て、シートに戻った。沖縄と台湾は近いので、もう着陸態勢に入っている。機長のアナウンスを聞いて全員が緊張した。

「燃料ギリギリ……一発勝負なんや……」

 アナウンスにより燃料がゼロに近く、着陸のやり直しはできないので、たとえ横風に煽られて姿勢が崩れても、そのまま着陸するのでシートベルトを確実に締め、鋭利な物や眼鏡、ハイヒールなどは身から遠ざけ、頭を抱えて身構えていてほしいと伝えられた。

「主よ! エホパ神(かみ)よ!! 我らを見守りください! アーメン! アーメン! アアーメンっ!!!」

「「「「「アーーメン!!!」」」」」

 陽湖が祈り始めると6割の生徒が続いて、祈りを捧げる。

「ママっ、パパっ、お願い、お願い! ご先祖様! 助けて!」

 鐘留は両親と先祖へ願いをあげた。

「……お母様……」

 鷹姫は亡き母親だった。由香里も祈る。

「…お母さん……神様、お願い…」

 母親と神へ祈っているけれど、陽湖たちが信じるエホパ神ではなく、より抽象的な概念で、運命そのものか、運命を司っているかもしれないようなもので、名前もない、大日如来でも、天照大神でも仏陀でもイエスでも天皇でもない、とにかく人間を超える存在のなにか、へ祈っていて、そういう生徒は3割いた。

「アーメン」

 泰治は日本キリスト教団がプロテスタントとして標準的に祈る神へ静かに祈った。義隆は祈らない。頭も抱えず窓から外を見ている。やや緊張しているけれど、あえて悠然と男らしく腕組みし、つぶやく。

「……進入角度良好………横風、おそらく無し………大丈夫、いける……たとえ失敗しても燃料が無いなら炎上しない」

「義隆はん……リアリストやな。……うちは…」

 何かに祈ろうかと思ったけれど、鮎美は玄次郎のふざけたときの笑顔を思い出して祈る気がなくなった。そっと指先で横髪を耳にかける。

「なんとかなる。ならんときより、なったときのこと考えよ」

 そう言って鷹姫の震えている手を握った。鮎美も外を観察する。地面が近い、空港の明かりが見える。

 キュッ!

 台湾の地にA321のタイヤが接し、着陸は無事に終わった。

 

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