第45話 2月21日 会食という戦場、NG地震、大臣への誘い
翌2月21日月曜朝、鮎美は朝刊を見て予想通りだったけれど、肩を落とした。
「やっぱり、この写真を使うんやね……」
当確が出た直後、喜びのあまり畑母神に抱きついてキスしそうになった写真を一面に載せられていた。鷹姫が髪をといてくれながら言う。
「畑母神先生には法律上の配偶者と、内縁の妻がおられますから、問題かもしれません。鮎美は異性にも性欲を覚えるのですか?」
「うっ………ちゃうって。これは純粋な喜びのアピールよ。鷹姫まで変に想わんといて」
「そうですか。お時間です。お疲れではないですか?」
「うん、平気よ。行こか」
二人で部屋を出ると、知念と男性SP3名がついてくる。
「おはようっす。おめでとうございます。当選したっすね」
「おおきに」
「畑母神知事に抱きついてたっすけど、男もイケるっすか?」
「……。あれは喜びのあまり勢いでやっただけよ。うち男の人は、ぜんぜん感じんから。知念はんかって剣道か柔道やってへん?」
「オレは柔道っす。あと琉球空手を少々」
「もし全国大会団体戦で優勝したらメンバーと抱き合って喜ぶと思わん?」
「ああ、そういう感情っすか」
「そういえば、鷹姫は団体戦で優勝したことないの?」
「……ありません」
鷹姫が悔しそうに言ったので、なんとなくわかった。全島民が武道を習うとはいえ、もともと人口は少なく、女子で武道を極める子は、さらに少ない。団体戦で実力あるメンバーがそろわなかったのは想像がついた。話ながら議員宿舎を出ると、さすがに知念もSPとして周囲を警戒して黙り、鮎美は移動して朝食会に参加する。やはり朝食会でも都知事選の話題が雑談のメインだった。そして、遠い上座にいた谷柿に呼ばれて、そばに寄る。
「芹沢先生、今夜、ご夕食の予定は?」
「…あ…はい…えっと…空けます」
実は静江と訪れた一流ホテルで再びエステを受けて休養日にしたかった。とはいえ、明らかに自眠党総裁の谷柿が夕食に誘ってくれているので、断るわけにはいかない。エステは諦めた。朝食会が終わって国会に出席しても、やはり雑談の話題は都知事選だった。供産党所属の音羽は、選挙中は供産党公認候補も都知事選に出ていたので鮎美と仲良く話すのを控えていたけれど、もう選挙が終わったので屈託無く喋る。
「やっぱりアユちゃんの勝ちだったね。おめでとう」
「おおきに。畑母神先生の実力よ」
「でも、あの人がえらくなると戦争になりそう」
「守ることはあっても、仕掛ける人ではないと、うちは感じてるよ」
松尾が言ってくる。
「当確直後から夜間にもかかわらず仲国軍機が3回、尖閣諸島に接近したそうだ」
「「…………」」
鮎美と音羽が考え込み、翔子が言う。
「くだらないことするのですね。そんな燃料代があるなら人民に温かいスープの100万食も配ればいいのに」
「戦闘機の燃料代は、すごいからな。スクランブルで対応する空自は相手より多数で出撃するのが基本だから、余計に高くつく。夕べだけで1000万円は飛んだろうな。お金といえば金地金の価格1グラム6500円を超えたね。これって金本位制に戻る予兆なんだろうか」
「ちゃうと思いますよ。世界に存在する金の量は、もう世界に存在する富みの総量を反映するには少なすぎますから。単に連合インフレ税の租税回避行動として予防的につり上がってるだけやと考えてます」
「だとしても、まだまだ上昇すれば産業にも影響を与えるかもしれない。銅より電気抵抗が低くて錆びない金は回路の中に使われてるらしいから。レアメタルも仲国からの輸入が一時期ストップしたおかげで、日本企業は躍起になって代替材料を研究してる。もう、いくつか方法を見つけたそうだ」
国会が終わると、鮎美に迎えの車が来た。鷹姫も招待されていたので、いっしょに乗る。当然、SPたちもついてきてくれるけれど、知念は勤務時間が終わり、介式に替わった。
「谷柿先生、鷹姫まで招待してくれるなんて嬉しいね」
「……。過分なことに畏れ多いです」
「そう緊張せんとき、柔らかい感じの人やし」
「それは知っているのですが……わざわざの会席ということは、なにかお話があると思われます。いかがお考えですか?」
「いくつか思い当たることはあるけど、それも今考えてもしゃーないことよ。静江はんと陽湖ちゃんも招待されてるあたり、やっぱり集団訴訟の件かもしれんけど…」
鮎美のスマートフォンが鳴った。
「畑母神先生から電話や。何やろ。もしもし? うちです」
「昨日まで色々とありがとう」
「いえ、共闘は約束したことですから」
「今、話していても問題ないかな? 周りに人は?」
「車内です」
「実は少し困ったことが起きてしまい、芹沢先生に警視庁まで来てほしい」
「警視庁に? なんで、また?」
「水田くんが逮捕されてしまった」
「水田先生が、なんで?」
「彼女は冗談のつもりでバレンタインに芹沢先生宛でチョコレートを送ったのだが、そこに少々のイタズラをしていた」
「……。どんな?」
「タバスコのような辛い香辛料、なんといったか……ああ、デスソーズか、そういうソースを混入させていたようなのだ。あくまで食品であり、彼女は冗談だったと言うのだが、警察の方は、他のイタズラや劇物混入と同列にみなして彼女を逮捕してしまった」
「……………それで、うちは、どうしたら?」
「警視庁に来て、彼女と和解してほしい。冗談だと主張する彼女とは友達で、これは事件ではなく仲間うちの遊びだと」
「………」
「このタイミングでの逮捕は私の選挙の終了を待ってくれたのかもしれないし、もしくは警察としては淡々と処理したのかもしれない。彼女も冗談として行ったことだから、箱から指紋などが検出されている。他のイタズラでは手の込んだものは、指紋は出ていない」
「他のイタズラって、どんなんがあったか、聴いてくれてはります?」
「ああ、水田くんの他に3人が逮捕された。いずれも男性で異物混入だった」
「どんなものを混入してきてたんですか?」
「うむ………その……男性の……その…」
「その?」
「……君は同性愛者だからかな……ここまで言ってわからんかな? その……そういう液体だ」
「そういう液体………精液ですか?」
「あ、…ああ、ざっくり言うのだな……」
「見たことはないですけど、保健体育で習いましたし。理科でも鮭の産卵とかで、白っぽいのがパーッと出るの、見たことありますわ」
「鮭……ともかく3人のうち2人は精液の混入、あとの1人は刃物だったそうだ」
「刃物は、かなり嫌かなぁ……精液も嬉しいぃないけど…」
「その3人も警視庁にいるのだが、それは、どうでもよいとして、水田くんは出してやってほしい。マスコミに知れる前に」
「……あの人……」
「ほんの冗談のつもりだったそうだ。頼む、できるだけ早く来てくれ。警察は被害者本人が許すなら、釈放すると言ってくれている」
「わかりました。けど、これから谷柿総裁と会食なんですよ。その後でもええですか?」
「総裁と……そうか、それは優先順位が……わかった。マスコミ対策は努力する」
畑母神との電話を終えると、鮎美は水田のことを考えた。あまり、いい印象はない。向こうは同性愛者を蔑視しているし、鮎美も蔑視されて心安いはずがない。畑母神の選挙中は同じ陣営内でトラブルを起こさないよう我慢していた。
「幼稚なイタズラするなぁ……チョコにタバスコって……デスソーズって、どんなんやろ」
鮎美はスマートフォンで調べた。
「……バーテンやったプレア氏が閉店時刻になっても、帰らない客に出した激辛ソースが始まり……別名、プレア氏の午前2時50分。デスソーズの名は、あまりの辛さで心臓発作を起こして死亡した人がいるため……って、あかんやん! 死んでるやん!」
「芹沢先生、どうされました? 畑母神先生との電話の内容は?」
助手席の鷹姫が問うてくるので鮎美は説明した。
「どう思う? 鷹姫」
「冗談にしては悪質です。傷害未遂で裁かれるべきです」
「とは言っても、畑母神先生の日本一心党での、数少ない元議員やし、まだ4年先になるやろけど総選挙には出てもらわはるやろし……」
「………。では、こういう罰は、どうでしょう?」
そう言って鷹姫が語ったことに鮎美は笑いながら頷いた。
「それナイス! 鷹姫、まじめな顔して、めちゃオモろいこと考えるやん! それでいこ!」
方針が決まった頃、新宿の料亭に到着した。少し前に到着していた静江と陽湖が待っている。
「静江はんと陽湖ちゃんは新幹線で?」
「はい。総裁に交通費まで出していただいて呼ばれて来ないわけにいきませんから」
これまでも兄のおまけで接待を受けることはあっても、自眠党総裁に招かれるほどの機会はなく、せいぜい地元の料亭か寿司屋程度だった静江はやや興奮気味に超一流料亭を期待している。
「予定もあったやろに。陽湖ちゃん、大丈夫? 疲れてない? 行ったり来たりで大変やろ?」
「大丈夫です。でも、新幹線が無かったら、とても無理だったと思います」
招待されたメンバーがそろったので料亭に入ると、奥の和室に通してもらった。和室には上座と下座がわかりにくい大きな円卓が置かれていて見知らぬ先客2人がいた。一人は和装の男性で年齢は70代くらいに見える。もう一人は60代でスーツ姿だった。鮎美たちを見ると、立って挨拶してくれる。
「はじめまして。全日本出版紙商連合会、総務理事の大原です」
「はじめまして。私は経済団体連合会の理事、富井です」
かなりの高位にある男性なのに鮎美たちへ丁寧に頭をさげてくれた。鮎美たちが名乗り終わって握手を交わした頃、谷柿と木村が入室してきた。木村が同席するのは、参議院で自眠党議員をまとめているからだと、もう鮎美にも理解できる。そして大原と富井の肩書きから話の内容も想像がついた。ただ、どこが落としどころになるかは、まだわからない。それをこれから探り合って決める戦いが、一見なごやかな雰囲気で始まるのだと感じた鮎美は明治時代の鹿鳴館やベルサイユ講和会議のことを思い出した。形はパーティーであっても、外交と戦争が地続きであるように、この会食も法廷外闘争なのだと覚悟しておく。
「まずは、あらためて都知事選の畑母神先生の勝利、おめでとう」
谷柿が乾杯で会食を始めてくれる。鮎美たちが飲酒できないのに配慮してくれたのか、すべてノンアルコールの飲料が提供されていた。会食の前半は都知事選の話と、鮎美を誉めること、さらに鷹姫と陽湖へも讃辞が送られたし、静江にも労いがあった。男女比4対4で本題がセクハラ絡みなので谷柿たちがタイミングを見てくれている。それを察して鮎美はデザートが出てくる前に、本題を求めた。このタイミングなら、たとえ決裂しかけてもデザート後に再び歩み寄りのチャンスがお互いにある。鮎美も谷柿が仲裁に乗り出してきたことで出版界との全面戦争は避けるべきだと感じていた。
「谷柿先生、そろそろ本題をおうかがいさせていただきたいと思いますけれど…どうでしょう?」
「そうだね。大原会長、どうでしょう」
「うむ、君たち、いや、失礼、芹沢先生方が行っておられる訴訟だが、経済と出版、言論界に与える影響は、計り知れない」
「「「「………」」」」
「とはいえ、正義は芹沢先生の方にあって、いくら売上のためとはいえ、撮られた女性が不快に感じる写真などを出版し続けてきた責任は我々にある。そこで、我々出版業界と、出版物の流通業界は共同で謝罪文を主要新聞に載せよう。また、今後、女性の人権に配慮した出版を心がけることも、そえる。それをもって訴訟の終結としてもらえないだろうか?」
「……。心がける、というのは努力義務ということですか?」
「「「「………」」」」
鮎美の問いが、男たちを黙らせた。努力義務が義務に比べて、はるかに拘束力がないことは、ここにいる全員が知っている。せいぜいスローガンのようなものだと、わかっていた。鮎美が続ける。
「うちの号令で集まってくださった女性被害者の中には、大きく分けて二種類の方がおられます。一つは今後人権に配慮された表現活動がされることを期待して参加され、賠償金が取れることはさほど期待していない人。もう一つはすでに芸能活動などから引退しつつあり過去の被害を金銭的に償ってほしい人です」
「「「「………」」」」
「さきほど、おっしゃられた謝罪文を新聞にあげていただくことは前者には相応の評価がされると思われますが、後者には意味が少ないでしょう。何より、うちは訴訟の勝ち目を半々、もしくは半々より、うちらに不利やと思ってます。日本の訴訟は大きな精神的被害があっても、そこを評価せず、ごくわずかな賠償判決で終わることが多いからです。そういった意味で、あなた方、出版業界のトップと話させていただくのは、とても意義のあることやと喜んでおります」
鮎美は自分たちは負けはしないと暗に言いつつも、平行線や対立にならないよう気をつけながら話している。大原もそれを察して、目の前にいるのが、ただ可愛いだけで有名になっている女子高生ではないと感じ、少し引いて攻め方を変える。
「こちらこそ、お詫びの機会をいただいてありがたい。ただ、表現活動の萎縮はさけたいのですよ。また、万一、裁判官が大きな賠償判決をなしたとき、業界が受けるダメージは大きすぎる。芹沢先生の世代は、もう紙媒体で情報をえることが少なくなっていないかな?」
「はい、ほとんどスマフォです」
「結果として出版業界は先細りだ。そこにきて、この訴訟、これでは優秀な人材を集めることもできない」
大原の言葉を木村が付け足す。
「新規採用どころかね、リストラや倒産ということも起こるんだよ。そこを芹沢先生たちにも考えてあげてほしい」
「もちろん考えます。けれど、どんなひどい写真が今まで印刷され配布されてきたか、そこは考え直してほしいのです。どのみち、裁判は始まってもいません。今すぐ落着点を見つけることはできないとしても、たとえば謝罪文を見て、うちら原告団の中にも変化がでるかもしれません。もう二度と非道な写真を載せないと信じられるなら、原告団から抜ける人もいるかもしれませんし、被告にふくめた出版社のうち誠意の感じられるところは除外していくとか、個別に和解していくこともあるかと思います。逆に、あまりにも非道な写真を撮り続けてきたカメラマン等に対しては、どうにも許せないと言って、うちが止めても訴訟を続ける人はいるかもしれません。今日の会談は大きな一歩でしたけれど、はい、そうですかと、うちも原告団に、これで終わりよ、とは説明できません。そこは、わかってください」
「「………」」
大原と富井が頷いて目を閉じる。自分たちが提示した条件が譲歩したものの、大きな譲歩でないことは自覚していたので鮎美へ反論する材料が無い。谷柿が言ってくる。
「芹沢先生も各社に大きなダメージがあることは避けたいと考えてくれているようですから、一度、双方持ち帰って、それぞれに集まった中で意見をまとめてきていただくのは、どうでしょう。謝罪広告があって、それに対して原告の方々が軟化されるか、そこを互いに見極めていっていただくということで」
「はい」
鮎美が短く答え、大原と富井も同意する。
「総裁の言われる通りですな」
「私たちも意識改革をしていきます」
前哨戦が終わり、まだしばらくは戦いが続くとしても、ともかくも鮎美は相手から謝罪広告を引き出したし、その結果を受けて軟化の方向性を探ると暗に約束した。双方が納得できる程度で本題が終わり、料亭の女将はタイミングを見ていたようでデザートを運んでくる。食べたことがないほど美味しいメロンを口にして、蕩けた顔で鷹姫がつぶやいた。
「…ああ…美味しい…」
ずっと行儀良く黙って食べていた鷹姫の一言で場がなごむ。言った鷹姫は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「クスクス、今の鷹姫みたいな可愛い表情やったら盗撮してでも印刷しとうなる気持ちはわかりますわ」
「「「「ははははは!」」」」
男たちに笑われて、ますます鷹姫が恥ずかしそうに耳を真っ赤にしている。かわいそうになって陽湖が叱る。
「シスター鮎美も趣味が悪いです。被告に加えますよ」
「それは勘弁したって」
「「「「ははは!」」」」
笑いが取れたところで、鮎美が一礼する。
「今夜は、うちの秘書までごちそうになりまして、ありがとうございます。うちからも原告団には業界の姿勢を見て軟化の方向で指揮していきますし、石永先生の妹さんの方が社会経験も豊富なんで、まとめていってもらいます」
「はい、努力いたします」
静江が両手を円卓について谷柿たちに頭をさげた。法廷では争う予定でも日本人らしく裏で握手した8人はそれぞれに車で解散する。鮎美と鷹姫は介式たちを連れて警視庁に向かった。
「遅くなりました」
案内された取調室に入ると、水田と畑母神、そして刑事が2名いた。刑事2名は敬礼してきたけれど、それは鮎美へというより介式へという感じだった。
「ありがとう、芹沢先生」
畑母神は礼を言ってくれたけれど、水田は文句を言ってくる。
「遅いわよ! いつまで私が、こんな侮辱を受けなきゃいけないの! 私は衆議院議員だったのよ!」
水田が不満そうに手錠をされた両手を鮎美に見せつけてくる。
「さ、もういいでしょ。さっさと外して」
「………」
鮎美があきれて黙っていると、鷹姫が叱った。
「非礼もほどほどになさい! 悪質な罠を仕掛けておいて、その口のききようは無礼千万! 芹沢先生、やはり告訴すべきです! 和解してはなりません!」
「鷹姫……」
「水田くん、とにかく謝りなさい。ここは穏便に願います、芹沢先生」
都知事となった畑母神が代わりに頭をさげてくるので鮎美は男の肩に触れた。それから鮎美は刑事に問う。
「それで、うちに食べさせようとしたチョコって、どれです?」
「こちらです」
刑事がビニール袋に入った証拠品であるチョコレートの箱を見せてくれる。箱には4つのウイスキーボンボンが入っていて、美味しそうに見えるけれど、表面に水田の指紋もある。うち1つは科学捜査のために解体されたようで割られていたし、中身に入っていた液体は別に小瓶で保存されている。その液体を見て鮎美がつぶやく。
「……うわぁ……辛そう……これ食べて心臓麻痺した人もいるんやろ……そら逮捕されるわ」
「アナゾンで買った正規品よ! 毒じゃないし! ただの食品だから!」
「ほな、食べてみてください」
「え……?」
「4つとも、もったいないし、食品として水田はんが一人で食べてくれたら、証拠も消えることですし、和解ということで」
「おお、なるほど」
畑母神が感心した。
「鷹姫、差し入れしたって」
「はい。水田…先生、こちらをどうぞ」
鷹姫は先生と呼ぶのを嫌そうに、途中のコンビニで買ったペットボトルの水を出した。水田が疑わしそうに鮎美を見る。
「何か入れたの?」
「コンビニで買うたサントリイの正規品です。めちゃ辛いやろし、水くらいあげようという武士の情けですわ」
「………。ま、まあいいわ、ちょっと食べてみたい好奇心はあるし」
水田は強がった。すでにチョコレートに細工するとき、興味本位で1滴だけ舐めているけれど、まさに舌が燃えるような辛さだった。それがウイスキーボンボンいっぱいに注入されているのは細工した本人なので、よく知っている。指先を震わせないようにしてチョコを摘むと、口に入れた。
「………」
「「「……………」」」
「…うっ…ううっ!」
水田がペットボトルに手を伸ばした。真っ赤な顔をして水を飲む。涙と鼻水を流していた。
「ハァ…ハァ…ううっ…ひー…ハァ……ううっ…ひー…」
一つ食べただけでペットボトルの水、半分まで飲んでいる。
「…も……もう許してよ。一つで十分でしょ。ハァ…」
「ただの食品なんですよね」
「どうせ、あなたが食べたとしても飲み込まずに吐き出していたでしょ」
「そんなこと人前でさせられたかと思うと腹も立ちますし、うちの秘書が被害に遭ったかもしれんのですよ。現に、地元では秘書補佐と党職員さんが入院してるし。タイミングの悪い冗談のツケは払ってください」
「………わかったわよ」
水田は二つ目を摘むと、口に入れたけれど、その表面を口内で転がしてチョコの角を溶かすと、一息に飲み込んだ。
「あ、その手があるんや」
「ハァ…痛っ…」
噛まずにウイスキーボンボンを丸呑みしたので喉が痛かった。さらに、もう一つ飲み込む。
「もう、いいでしょ」
「これも食べてください。食品がもったいないですやん」
「………」
水田が解体されたウイスキーボンボンと小瓶に入ったデスソーズを見つめる。
「ちゃんと飲み干してくださいよ」
「………わかったわよ!」
小瓶を後にすると口直しがないので水田は先にデスソーズをラッパ飲みしてからチョコを口に突っ込んだ。
「ううっ…ううう! はひぃ! ううう!」
「「「………」」」
鮎美と鷹姫、畑母神は笑いそうになるのを我慢する。刑事たちも顔を背けて笑っている。
「ハァ…ハァ…ひーっ…ハァ…」
そこそこに美人ではある水田が口や目、鼻を真っ赤にして呻いている。水で口を洗い、やっと手錠を外してもらった。
「……ハァ……ハァ……」
「芹沢先生、疲れているところを、くだらないことで呼び出して、すまなかった」
「いえ。……刑事さん、他の、うちにイタズラを送ってきた人に会えますか?」
「はい。可能です」
「畑母神先生、うちは他の犯人にも会うてきますし、水田先生には甘いミルクティーでもおごってあげてください」
「そうだな。水田くん、ちょっと休憩しよう」
「……はい…」
水田は鮎美の背中を恨みがましく見つつも取調室を出て自動販売機の方へ行く。鮎美は取調室に残り、他のイタズラを仕掛けた男性に面会した。まず一人目は27歳の男性で、鮎美へ送るチョコレートに精液をかけた上で送付してきたサラリーマンだった。鮎美を見るなり土下座してくる。
「すいませんでした! ふざけてやりました! 許してください!」
「「…………」」
鮎美と鷹姫は顔を見合わせる。それからチョコレートを見た。コンビニで買える安価なバレンタインチョコに上から何か干涸らびたものがかかっている。見たことがないので鮎美は刑事に問う。
「この上にかかってるのが、精液なんですか?」
「そうです。DNA鑑定の結果も一致しています」
「……指紋以上に、モロバレな……。とりあえず土下座はやめて椅子に座ってください」
「…はい…」
男性は顔を伏せたまま椅子に座った。軽い気持ちでイタズラしたのに逮捕された者らしく顔に後悔と恐怖が貼りついている。
「えっと……お名前は?」
「…山田義彦です…」
「山田はんは、うちが同性愛者なんを知ってはります?」
「…はい……テレビで…」
「ほな、なんで、うちに自分の精液を送ってきはったんですか?」
「………テレビで見ていて……あと、ポスターとかで可愛いな、と……」
「そういうとき、男の人って、そういうことするもんなんですか?」
「…………。自分がバカで…………最初は、鮎美ちゃんを応援したくてチョコを送ろうなんて……考えて……けど、送る前に魔が差して……」
「精液をかけはったと……。うちが、これを食べると期待しはったんですか?」
「……………いえ………」
「ほな、何のために?」
「………なんか……やりたくて……やりました……。申し訳ないです! ごめんなさい! ごめんなさい! 許してください! 逮捕されたのが会社にバレたらクビなんです! 頼みます! どうか! どうか、許してください!」
男性が深々と頭をさげるので鮎美は許すことにした。
「少し表現の仕方が間違っていただけで、うちに好意をもってくれはったわけやし、とくに実害も無いですし。もう許します。刑事さん、手錠を外してあげてください」
手錠をされることが、どれだけ心理的ダメージになるかは介式にされたので思い知っている。鮎美は手錠を外された山田の手首を撫でた。
「これからも、普通にやったら、うちを応援してください。もう精液は送らんといてください。あと、どれだけ、うちを好きになってくれはっても、うちは同性愛者です。男性に興味はもちません。応援してくれはるのは政治的な意味だけにして、他の女の人に興味をもってください」
「ううっ…ありがとうございます、ありがとうございます」
泣きながら礼を言って山田は去った。次の男性と面会する。次は41歳のラーメン店経営の男性だった。送ってきたチョコレートは、またもウイスキーボンボンで中に精液を入れ込んでいた。
「……うち、もう一生、ウイスキーボンボン、食べるのやめよ……」
「…………」
手錠をされ、連行されてきた男性は鮎美をチラリと見ただけで目を伏せた。
「お名前は?」
「…………」
「氏名は村川祐二、年齢41歳、自営業、ラーメン店経営です」
刑事が教えてくれた。
「うちに精液を送らはった理由はなんですか?」
「…………」
「うちのこと好きでいてくれはったんですか?」
「………。調子にのんな、ブス」
「……」
「無礼者!」
「鷹姫、いちいち興奮せんでええよ」
「…はい」
「村川はんも、軽い気持ちでイタズラしはったんやとは思います。けど、こういうものを送られると、うちの秘書が食べる場合もあるし、うち自身が食べても、やっぱり気持ちが悪いです」
「…………」
「ラーメン店って、どこでやってはるんですか? お店の名前は?」
「…………」
「八王子の高尾、オレのラーメン最高や!八王子本店です」
また刑事が教えてくれた。
「…八王子……オレのラーメン最高…」
鮎美は女子高生らしくスマートフォンでグルメサイトを検索してみた。
「けっこう人気店のオーナーですやん。支店が8つもある」
「慰謝料なんか払わねぇぞ、銭ゲバ娘」
「……」
「芹沢先生! この者、打ち首にすべきです!」
「鷹姫、そう興奮せんと。あと武家諸法度(ぶけしょはっと)やのうて日本刑法を思い出そな」
「ですが……あまりに無礼で…」
「もうええよ。どのみち実害は無かったし。けっこう美味しそうなラーメン作ってはるし。そのうち食べに行ってみますわ。八王子本店は何を入れられるかわからんし、東京駅前店あたりに」
「………」
「刑事さん、もうええですから、解放してあげてください。二度とせんといてくださいね。村川はん」
「……………」
村川は何も言わずに去った。鷹姫が強く疑問に思い、問う。
「なぜ、あのような者を無罪放免とするのですかっ?!」
「鷹姫、静江はんに習たこと、思い出してみ。国民の中には、自眠党というだけ、政治家というだけで反感を持つ人もいるて言うてはったやん。そんな人の敵意に敵意で返しても、ろくなことがない。味方につけられんまでも、これ以上は敵にならんよう目をつぶるんも政治家の度量やって」
「……たしかに……それは習いましたが……、あの者は罠を…」
「精液は毒やない。今の刑法では罰しても、たいした罪にならんよ。ほな、いっそ敵意をそいでおく方がマシやん」
「………ご見識、感服いたしました」
鷹姫が頭をさげるので鮎美は肩に触れた。ついでに頬や胸にも触れたくなるけれど、せっかく尊敬してくれているので我慢する。
「刑事さん、あと一人の逮捕された人って刃物を送ってきはったんですよね?」
「はい」
「どんな?」
すぐに刑事は送付された刃物をもってきてくれた。そして、猫の死骸の写真もある。刃物は出刃包丁で猫の血に染まっていて不気味だったし、鮎美は完治したはずの下腹部に疼きを覚えた。
「どんな感じに送ってきはったんですか?」
「送付されたのはバレンタインデーでしたが、チョコレートや菓子類はなく、コロスと猫の血で書かれた手紙、そして、こちらの出刃包丁が入っていました。逮捕後、自宅の庭先から殺害された猫を発見しています」
「犯行の動機は?」
「仕事をクビになりムシャクシャしたのでやった、とのことです」
「………そのパターンなんや……猫、かわいそうに…」
鮎美は写真に写る猫を撫でた。
「芹沢先生、お会いになるのはすすめられません」
鷹姫が言ってくる。介式も頷いた。
「面会は、どちらのためにもならないだろう」
「うん……そうやね……この犯人は警察に任せます」
「「はい」」
「迅速な逮捕、ありがとうございました」
「芹沢先生の危険を排除していただき、ありがとうございました」
鮎美と鷹姫は刑事たちに礼を言って、警視庁の1階ロビーにおりた。畑母神と水田がいたので、鮎美は3名の犯人のことを簡単に説明した。
「そうか。私が知事となるからには都内の治安維持は、より強化する」
「よろしくお願いします」
「また、水田くんにも、よく注意しておいたし、これから党内で臨時総会を開き、総括を行う」
「総括?」
「反省会のようなものだよ」
「そうですか、ほな、うちらは、これで」
「失礼いたします」
鮎美と鷹姫はSPたちと去り、畑母神と水田はタクシーで日本一心党の本部事務所を置いている中野区の古いビルに入った。すでに召集をかけていて、半分は畑母神の当選を祝う意味もあり大勢の党員が集まっているので臨時総会は成立した。畑母神がマイクで全員に語る。
「諸君に、いいニュースと悪いニュースがある。良い方は、すでにテレビで流れた通りで、今夜は仲間うちで祝いたい。だが、その前に水田くんが少々の問題を起こしてしまった。すでに解決しているが、本人から報告させ、総括してもらうので傾聴していただきたい。水田くん」
「はい」
水田がマイクを受け取り、党員たちに説明する。
「もともと笑って済ませられるようなことだったのです。あの芹沢鮎美と私たちが共闘していたのは、ご存じの通りですが、私と芹沢は女性同士ということもあり冗談の通じる間柄でした。それで私はバレンタインに、ちょっとした茶目っ気というか、お茶目で、タバスコのような辛い香辛料を入れ込んだチョコを送ってみたのです。食べて、びっくり、笑っておしまい、という軽いジョークです。ところが運悪く悪質なテロと重なってしまい、警察の中にも私たちの党を潰そうとする勢力がいるのかもしれませんが、大袈裟に私を逮捕してきたのです。もちろん、すぐに畑母神先生が動いてくださり、芹沢が警視庁に顔を出して、ただの冗談と認められ、ことなきをえて…っ…」
流暢に説明していた水田が急に腹痛を覚えて呻いた。
「ぅ、ぅう…」
下痢の腹痛よりも何十倍も痛くて熱い、まるで直腸に熱湯を流し込まれて掻き混ぜられているような腹痛で、ほとんど我慢する時間もなく水田は失禁した。
「うううっ! 痛いぃいい!」
失禁すればしたで肛門や股間が焼けるように痛む。ショーツの中に画鋲を押し込まれて膝蹴りされたような激痛で水田はマイクを落とし、両手で股間を押さえて床に転がった。
「あああがああ! ぐううう! ひぐううう! やううう! ぎゃっわわあわ!」
「水田くん?! どうした?!」
「水田先生、しっかり! おい、救急車だ! 救急車!」
「いや、救急車はまずい! 目立ちすぎる! おそらく、これは食べたチョコのせいだ! 水田くんは芹沢先生に冗談の責任として、食べるよう言われて、食べたから、それがアタったんだろう」
「ひぐうう! ひぃひいい! 水、水! ひいうう! 水!」
あまりの痛さで水田は大勢の男性に囲まれながらも女性としての羞恥心より苦痛からの解放を優先してスカートとショーツを脱ぎ、デスソーズと下痢便が混ざった凶悪な物質を股間から手で拭いつつ、水を求めた。
「おい、水だ! 水! 水田くんに水をもってきてやってくれ!」
「ううう! 早くくうう! ぎううう!」
股間を炙られているような激痛に泣きつつ、バケツで持ってきてもらった水に脱いだショーツを浸けると、ゴシゴシと股間を拭いた。何度も何度も拭きつつ、さらに腹痛が襲ってきて、その場で失禁して、また肛門の激痛に苦しみ、二度目に持ってきてもらったバケツにお尻を突っ込んで直接に洗った。
「ハァ…ハァ…ハヒっ…ハァ…ハヒィ…」
「「「「「……………」」」」」
室内に充満するデスソーズと下痢便の匂いは暖房で締め切っているので強烈だった。百色が窓を開けつつ言う。
「くぅ…目にしみる辛さだな。どんなタバスコを入れたんだ?」
「デスソーズと言うらしい」
「あれか……そりゃ鬼だ。けど、まあ、自業自得の極みだな。はははは」
百色が豪放に笑ったので他の数名も笑い、水田は屈辱に泣いた。数少ない女性党員たちが、あまりにかわいそうだと思い、コートやタオルを貸してくれるので下半身を隠して党本部事務所を去り、自宅であるマンションに一人で戻ると、シャワーを浴びた。何度も股間を洗い、まだ痛む直腸にシャワーでお湯を入れてデスソーズの残留物を流し、やっと苦痛から解放された。
「……ぐすっ…」
一人でベッドに潜り込むと呻く。
「…ううっ……この屈辱…………この恨み………芹沢鮎美……絶対に許さない……」
水田はスマートフォンを手にすると、保存してある動画データを確かめる。そこには都知事選の初日にトイレへ駆け込んできた鮎美が隣の個室で、おしっこを漏らしてしまう画像があった。もともと選挙カーから帰ってきたとき我慢しているだろうことを見越して2つあった個室の1つに陣取って塞いでいたところ、運良く鮎美の秘書まで個室を塞いでくれて大失敗させることができ、それを個室の壁にある下部の隙間から撮影していた。見つからないように撮ったので、顔は撮れていないし、下着も映っていないけれど、濡れていく足とスカートの裾は撮れている。都内では珍しいスカートなので鮎美たちしか着けていない。他にも動画と静止画があり、鮎美と鷹姫が着衣を交換した後、濡れたスカートで事務所を出て行く鷹姫の後ろ姿や、翌日からオムツを着けるようになった鮎美の不自然に膨らんだ臀部、トイレのゴミ箱に捨てられていた濡らしたオムツの画像などもある。
「………フフ……全国に恥をさらしてやる……今にみてなさい……あの雑誌に垂れ込んでやる……集団訴訟がはじまってもビビらず戦ってる……噂の真実……あそこへ…フフ…」
そんなことをすれば、また逮捕されるということは、もう考えないほど鮎美への熱い思いに燃えていた。
翌2月22日火曜朝9時30分、委員会での審議が控えている鮎美は国会議事堂に登院して、いつも通り玄関にある各国会議員の出欠を把握するためのスイッチを押した。ちょうど直樹も登院してきたので声をかけられる。
「おはよう、芹沢先生」
「あ、おはようさん、雄琴先生」
「夕べは谷柿総裁に呼ばれてたらしいね。どんな話だった?」
「自眠内情の偵察ですか?」
「そんなところさ」
「ほな、情報交換で眠主のこと何か教えてくださいよ」
「可愛い顔して抜け目がないな。ま、いいさ。コウモリのボクに回ってくる情報なんて、たかが知れてるけど、やっぱり支持率の低空飛行が続いてるからね。鳩山総理も苦しそうだ。かといって、内閣改造はやったばかりだし、もう打つ手といえば総理交代で野田さんか、前原さんあたりにするか。あとは無理だとは思うけど、小沢さんは、もともとは眠主党だ、彼に戻ってきてもらう手もあるかもしれないが、そうなると眠主党内の反小沢派が黙っていないし、そもそも鳩山さんと小沢さんの仲が微妙だし、次の手が打てないまま、じわじわとジリ貧といったところさ」
「そうですか。うちの方は谷柿先生から都知事選おめでとうって話と、ここだけの話」
そう言って鮎美は唇を直樹の耳元に近づける。男性を意識しないので鮎美は平気だったけれど、直樹はいい香りのする鮎美の髪が頬にあたって赤面しないように努力しつつ聴く。
「集団訴訟の件、出版社側のトップと経団連の理事さんと話し合いました。そこそこで手打ちにしよ、という方向性で」
「なるほどね」
秘密の話が終わったので鮎美は離れて喋る。
「雄琴先生が目指してはる法案は進みそうですか?」
「法案そのものは錬っているけれど、眠主党内にはそもそも死刑反対というバカ! な連中がいる。実にバカ! だよ」
あえて直樹は大きな声で言いつつロビーを鮎美と歩く。
「どんな凶悪な犯人も死刑にすべきでないと、凶悪なまでのバカさ加減で主張してやがるからな」
「雄琴先生に汚い言葉使いは似合いませんよ」
「そりゃどうも。君こそ黙っていれば花だったろうにね」
「よく言われますわ。ほな、また」
廊下で別れ、鮎美は委員会が行われる部屋に入り、自席に座ると資料をパラパラとめくり、それからスマートフォンをチェックする。詩織から連合インフレ税の世界各国への浸透は順調というメールが来ていた以外は連絡はない。時刻は9時49分で、あと10分もすれば審議が始まる。その前にトイレに行っておこうか、迷っていると、翔子に声をかけられる。当選から国会開始まで勉強する期間が無かった翔子は、だいたいの委員会を鮎美と同じに配置されているので、いつも見る顔という状態だった。
「おはようございます、芹沢先生」
「おはようさん、翔子はん。髪型、変えた?」
「わかります? ちょっと切りました」
女子らしい会話をしているとき、二人のスマートフォンが同時に鳴った。
「「っ…」」
しかも他の議員たちの携帯電話やスマートフォンも鳴っている。すでに審議が始まる直前なのでマナーモードにしている議員が多いのに、けたたましい警告音だった。
「……地震や………南太平洋……」
「マグニチュードは6以上みたいです」
鮎美と翔子だけでなく他の国会議員たちや官僚も審議の準備を放り出して情報端末を見ている。大雑把だった情報が6分後には確度が高くなる。
「震源地はニュージーランドなんや」
「クライストチャーチって、ご存じです?」
「知らんよ。マグニチュードたいしたことないな、6.3やて」
「それなら死者は出ないかもしれませんね」
「建物の耐震基準によるやろけどね。にしても、久野先生が整備してくれはった、このアプリ、便利やな。小笠原の地震のときも思たけど、はるか遠いニュージーランドの地震まで、発生直後に知らせてくれるんやもん」
「もし津波が発生していても日本に到達するのは何時間も後になりそうですね」
「そやね」
「皆様、ご静粛に! これより予定通り審議を開始します!」
委員長がざわついている場内に号令している。地震の規模が大きくないので対応は内閣のみに任せて、委員会は予定通りに開始された。審議中、鮎美はスマートフォンで為替相場をチェックしてみた。
「…………」
ニュージーランドドル、どんどん下がってるわ、死者が出てるかもしれんのに、こんなときまで金勘定なんや、と鮎美は人間の救いがたい業を見ている気分だった。
「……………」
「何か、お考えですか?」
翔子が小声で雑談してくる。
「うん、まあ、いろいろ」
「どんなことを?」
「ニュージーランドもオーストラリアも、それぞれのドルやん?」
「はい、そうですね」
「けど、たしか、あの二カ国は英国女王のもとにあるはずやん」
「日本の天皇以上に形だけという気はしますが、そうですね。それが何か?」
「なんで、イギリスみたいにニュージーランドポンドとか、オーストラリアポンドにせんかったんやろ」
「さぁ……」
くだらない雑談をしていると、委員長が授業中の生徒を睨むように見てきたので二人とも黙った。そして、お昼休みになるとマグニチュードに比して在留日本人被害が甚大であることが明らかになってきた。議員食堂に流れるテレビ放送を誰もが静聴している。
「ニュージーランドで発生した地震により市内のビルが倒壊したとのことです。このビルには日本からの語学留学生が多数在籍しており、その安否が気づかわれています」
「「「「「…………」」」」」
安否もなにもビルは完全に倒壊していて、跡形もない。そこに何百人かの人間が入っていたとして、生き残っているのは奇跡的に一人二人という程度にしか見えない。
「日本政府は国際緊急援助隊の派遣を決定しました」
「………」
鮎美は静かに食べかけだった焼肉定食を口にし、翔子もカレーをスプーンで食べた。他の議員たちも昼食を再開し、ごく一部、富山県が地元の議員だけが忙しく電話で何かを話し始めている。なんとなく周囲の議員には、語学留学生の出身地が富山県に偏っているのかもしれないと伝わった。夕方になると、さらに入ってくる情報は増えた。鮎美は都知事選中は欠席していた自眠党本部で行われる会議に出席していたけれど、ほとんどの議員が会議内容を聞き流しつつ、スマートフォンなどを見ている。鮎美も同じだった。会議が終わるとニュース出演があったのでテレビ局に出向き、ニュースキャスターと対談する。やはり都知事選勝利の話はそこそこのうちに終わり、ニュージーランドでの地震に話題がシフトした。
「芹沢議員は、この地震について、どう思われますか?」
「みなさんと同じく一人でも多く無事でいてほしいと願っています」
「発生直後から、ニュージーランドドルが下がっていますよね。それについては、どう思われますか?」
「こんなときまで金勘定かと思うと悲しくなります。たしかに開かれた自由な為替市場というのは重要かもしれません。けれど、下落を見越した売り浴びせで必要以上に大きく下げ、地震の規模から考えてニュージーランド経済は、すぐに持ち直すでしょうに、通貨価値が下がってしまったら、何を輸入するにも高くついてしまう。こんなときですから、いろいろと入り用なもんはあるやろに割高に買わんならん。その原因が投資家による売り浴びせで、その投資家は儲けが出てもタックスヘブンに隠すと考えたら人間の業の深さ、神様が糾さんなら、人間が新しいシステムで対処するしかないと思います」
「具体的には?」
「たとえば、大規模な天災については為替相場を一時固定し、混乱が収束するまでは前日の通貨価値で取引するように仕組みをつくり、またFXみたいな個人でデータだけやりとりするような取引は完全に停止、実体経済として決済が必要なものだけ動かすような形が良いと思います」
番組が終わり議員宿舎に戻ると、鷹姫とテレビを見た。時差で3時間早いニュージーランドは深夜から早朝にかわる時間帯で捜索活動などは二次災害の危険性の問題で止まっている。昼間の映像が流れていた。
「……マグニチュード6やのに……被害家屋5万か……ひどいなぁ…」
「死者も100人を超えています……おそらく日本人で連絡が取れない生徒たちも……20人を超える犠牲者が……海外の地震で日本人が亡くなる記録としては、かなり多くなるのでは……」
「このビルだけやん、周りで全壊してるの……絶対、耐震基準を満たしてないとか、そんなんやで……ニュージーランドにも姉葉みたいな建築士いるんかも……」
父親が建築設計をしているので鮎美は2005年の建築擬装事件を今でも覚えていた。もう6年前のことになり当時問題になったマンションなどが今でも残っているなら大地震に耐えられるのか、心配にもなる。そして、当時の過熱した報道機関による押しかけ取材で、もともと鬱病だった姉歯の妻がマンションから飛び降り自殺したのも思い出した。父の玄次郎が建築擬装などしているとは露程にも思っていないけれど、ごく平均的な自営業者としての脱税はしていると告白されたので、もしも、そういったことが露見したり、また鮎美自身が議員としての汚職などで追求されたら、つわりで苦しんでいる美恋が思い詰めるのかもしれない、とも思ったし、報道機関のあり方について、ますます大きな改革が必要な気がしてくる。視聴率と広告売上ばかりを気にする民間報道も問題であるし、公営のNHKも漫然とした体質に問題を感じる。テレビが犠牲となった在留日本人の顔写真を紹介している。
「それにしても、犠牲者が若い子ばっかりって……」
「専門学校生ですから、私たちより一つ、二つ上というくらいです……」
「……陽湖ちゃんやないけど、もはや祈るしかないねんな……死んでしまった人は……どうにも、ならん……たとえ、何十億の予算をさこうと……もう、どうにも……当事者はつらいやろなぁ…」
鮎美が当事者の気持ちを想像して涙を零したので、鷹姫はハンカチを出した。
「おおきに」
「……。あまり心を痛めないでください。心労が重なります」
「ありがとうな。そろそろ鷹姫も、帰って休みぃ」
「はい」
鷹姫と別れ、今夜も鮎美は一人で眠った。
翌2月23日水曜朝、ビジネスホテルで百色と相席して朝食を摂っていた鷹姫は静江から電話を受けていた。
「わかりました。確かめてみます」
電話を終えると百色が問うてくる。
「どうした? 怖い顔して、悪いニュースなのか?」
「はい」
「そうか。………聞いていいか?」
「いえ」
「はっきりしてるな、お嬢さんは」
「………」
鷹姫はデザートを食べていたペースを速める。百色も食べながら言う。
「オレの方は、いいニュースがあるぜ」
「どのような?」
「閣下が知事になったからよ、オレを尖閣諸島方面の調査官として雇ってくれた。実質、東京都の尖閣諸島方面軍、現地指揮官ってとこだ。このホテルでお嬢さんに会える機会も減りそうだな」
「そうですか、それは、おめでとうございます。元海上保安官なら適材適所だと思います。ご健勝ご活躍のほど祈念いたします」
「ありがとよ」
百色と別れた鷹姫は東京駅の売店に向かった。売店で搬入されてくる今日発売の雑誌を待ち、棚に並べられる前に買った。
「っ…」
雑誌には静江からの情報通り、鮎美のことが特集されていて表紙にもなっている。しばらく読んでいた鷹姫は怒りで顔を真っ赤にして震えた。あまりの怒気で他の通行人たちが避けていく。
「……よくも、こんな記事を………芹沢先生が、どれだけ傷つくか……いったい、誰が裏切って………あの女に決まっている………」
普段は無口なのに怒りのあまり思考を漏らしながら鷹姫は議員宿舎に出向いた。部屋の前には介式と男性SP3名が立っている。
「介式師範、いっしょに中へ、お願いします」
「了解した」
鷹姫と介式が入室すると、鮎美は制服姿でニュージーランド地震の続報と為替相場を同時に見ていた。何か新しいことを考えている顔をしている。
「おはようございます、芹沢先生」
「うん、おはようさん」
鮎美と呼んでもらえず、芹沢先生と呼ばれたので鮎美が残念そうに鷹姫を見て、そばに介式がいたので納得し、そして鷹姫の顔が硬いので問う。
「何があったん?」
「かなり、ひどいことが起こっています」
「ニュージーランドの話?」
「いえ……芹沢先生が傷つくようなことです」
「そうなんや………で、何?」
「その前に抱きしめさせてください」
「……うん、……お願い」
かなり嬉しかったので素直に頷いた。どちらかといえば、感情表現が薄い方の鷹姫が優しく抱きしめてくれる。
「………。そんなに悪いニュースなん?」
「はい」
「……母さんの妊娠が……流れたとか……なら、うちに直接連絡が……」
抱きしめてくれるのは嬉しいけれど、悪いニュースが何なのかは、とても気になる。鷹姫は心配した目で鮎美を見つめて言う。
「どうか、お心をしっかりもってください。くれぐれも早まったことはなさらないように」
「………」
「介式師範、もし芹沢先生がパニックを起こりしたり、早まったことをされそうなら、いっしょに止めてください」
「わかった」
介式も頷いて近づいてくる。
「芹沢先生、落ち着いて聴いてください」
「……うん……父さん、母さんは無事やんな?」
恐る恐る鮎美は突然の交通事故でも起こったのかと問うた。この歳で天涯孤独になるのは淋しい。その不安は鷹姫が否定してくれる。
「はい、そういうニュースではありません」
「ほな……何?」
「………」
「早う言うてよ、余計に不安になるやん」
「……口の端にのぼらせるのも憚り多きことながら……。これを、ご覧ください」
鷹姫は片手で鮎美を抱いたまま、もう片方の手で買ってきた雑誌を鮎美に渡した。鮎美が表紙を見る。
オムツもとれない赤ちゃん議員が世界にもの申ちゅ!
芹沢鮎美ちゃん、おもらし治りません。
お友達秘書の前でジャー! 濡れ衣は友達に押し着せ。
刺された後遺症か、オムツ持参で選挙応援!
このままで大丈夫か、日本の政治とオムツ議員アユミ!
言論弾圧のアユミに当誌は屈しないぞ!
表紙をめくると、鮎美を盗撮した写真と記事がある。写真はトイレの個室隣から撮った動画を静止で印刷したものや、制服スカートからチラ見えする黒いスパッツの不自然な膨らみを撮ったもの、鮎美が素知らぬ顔でオムツの中に済ませているときの少し視線が浮いたもの、ゴミ箱に捨てたはずのオムツをわざわざ撮ったものだった。付属している記事は部分的にはトイレへ行く間もない忙しい政治家の選挙応援現場をレポートする体裁をとっていたりもするけれど、結局は鮎美がオムツを着けて公衆の面前に出ていたことを嘲る内容だった。
「……また、こんなもん書きおって……」
「お見せしたくなかったのですが、外に出れば知らずにいることはできないと思い、お届けいたしました。どうか心折れることなく立ち直ってください」
そう言った鷹姫が強く抱きしめてくれる。
「……鷹姫…」
雑誌の内容は不愉快で、これが全国に発売されているかと思うと、心も疼いたけれど、むしろ心配した鷹姫が積極的に抱きしめ慰めてくれるのが、嬉しくてお得感さえ覚えた。鮎美も抱き返して上を向き、鷹姫と頬を寄せ合う。このままキスもしたかったけれど、それはグッと我慢した。
「おおきにな。鷹姫がいてくれるから、うちは耐えられるよ」
パンチラ写真を発売されたときも傷ついたし、今回の内容はより下劣だったけれど、一度目ほど傷ついてはいない。しばらく鷹姫と抱き合って幸せを味わった。
「そろそろ時間やね。朝食会、行くわ」
「大丈夫ですか?」
「うん、鷹姫のおかげよ」
もう一度頬擦りしてから、遅刻ギリギリに朝食会に駆け込むと、一部の議員たちは雑誌のことを知っている顔をしていたけれど、下手に話題にしてセクハラと言われると怖いので誰も何も言わない。あえてニュージーランド地震のことばかりが話題になる。外の廊下で待っている鷹姫は介式に頼む。
「掲載されている写真は盗撮されたものです。警察として動いてください」
「わかった。担当課に連絡する」
すぐに介式は警視庁へ通報してくれ、さらに他のSPとも相談してから鷹姫に教える。
「我々も芹沢議員を警護していて不審な動きをしていた者に心当たりがある。畑母神陣営内のことにて不干渉であったが、被害が明らかになったからには黙っているのはやめる。ただし、我々に捜査権はない。捜査は担当課が行う、それでいいな?」
「はい。私は水田元議員が怪しいと感じています」
「証拠は?」
「………ありません」
「憶測でものを言うな」
「すいません」
「だが、私も同意見だ。はっきりするまでは君たちは黙っておけ」
「はい」
朝食会が終わり鮎美は平然と出て来た。
「芹沢先生、盗撮者については警察の捜査に任せます」
「うん、そうして。………うち、なんとなく心当たりあんにゃけど……あれ、選挙中に、かなり、うちらのそばにいる人でないと撮れん写真ばっかりやん」
「いずれ明らかになるまで私たちは黙っていましょう」
「そうやね」
朝食会から国会へ行く途中で、ぶら下がり取材が寄ってきた。
「今朝発売された雑誌に芹沢議員のことが掲載されているのは、ご存じですか?」
「はい」
あえて鮎美は足を止めて答えた。
「雑誌の記事は事実ですか?」
「いいえ。私の傷は完治しています。健康上の問題はありません。ですが、トイレに行ける機会が少ない東京での選挙応援のために、恥ずかしながら掲載されたようなものに頼ったのは事実です」
「ああいった記事が書かれることと、表現の自由、人権をどうお考えですか?」
「人権や自由といったこと以前に執筆者の品格を気の毒に思います」
「今回の件も訴訟で争われますか?」
「腹立たしいことは事実ですが、ニュージーランドのことの方が重大事に思います。訴訟については、今までのことを反省してくださった会社と、そうでない会社に対して、大きく態度を変えていくつもりです」
「具体的には?」
「それは係争中のことですから、コメントを差し控えます」
「一人の女性として、今回の記事に傷ついておられますか?」
「はい」
「……それだけですか? お気持ちなどは? 悲しいですか?」
「いちいち泣いていられませんし、お気持ちと言われても、宇宙飛行士も必要があればオムツをつけますよね。それだけのことです。ただ…」
「ただ?」
「すでに、うちは多くの政治的課題を進めているので、これ以上は抱えられませんが、東京都内はトイレが少なすぎます。人の多さとトイレの数が見合ってない、これは解決した方がよい課題やと思いますが、うちが手を出すより鳩山総理か、いえ、どっちかというと畑母神都知事にお願いします」
鮎美が動じずに答えていくのでレポーターたちは面白い映像が撮れず諦めつつあり、取材が終わりかけた。
「では、もう審議に行きます」
「一つだけ言わせてください!」
レポーターではなく鷹姫が声をあげた。誰もが驚いて鷹姫を見る。
「芹沢先生が濡れ衣を私に押し着せたなどということはありません! 私がもたもたしていたせいで失敗なされたから私が責任を取ったまでのことです! 芹沢先生は秘書に濡れ衣を着せるような卑劣な人ではありません!」
言いながら鷹姫が涙を零したので鮎美はハンカチを渡して、背中を押した。
「ほら、もう行くよ」
「はい……取り乱して、すみません」
「ええよ、おおきに」
鮎美と鷹姫は背中にフラッシュを浴びながら国会に行った。お昼休みになるとニュージーランド地震の全貌が明らかになってきて被害の集計も日本に伝わってくる。もう雑誌のことは話題にならなかった。
翌2月24日木曜、お昼休みに議員食堂はざわついていた。
「なんかあったんですか? 木村先生、知ってはります?」
ラーメンを食べながら鮎美が訊くと教えてくれる。
「小沢先生を眠主党に戻して内閣に入れるという話があったらしいけれど、眠主党内の反小沢派の動きでポシャってしまい、それを受けて親小沢だった眠主党の松木謙功衆議院議員が農林水産大臣政務官を辞任したらしい」
「政務官が辞任……いよいよ、鳩山内閣、危ないんちゃいます?」
「という話で、ざわついているわけだよ」
「なるほど…」
鮎美がラーメンを食べるのを再開すると、スマートフォンが鳴った。
「誰やろ、この番号……」
登録にも記憶にもない番号からの着信だった。しばらく迷って鮎美は受話した。
「もしもし? ……」
やや警戒した鮎美の声に男性の声が返ってくる。
「細野くんから、あなたの番号を聞きました。鳩山直人です」
「………。……総理大臣の?」
「はい、鳩山です。芹沢さんですか?」
「は、はい。芹沢です。………ご用は何でしょうか?」
「芹沢さん、あなたを特命大臣として内閣に迎えたいのです。名付けて最少不幸大臣」
「最少……不幸……大臣……」
「あなたは以前、私の政策に賛同してくれましたね」
「…あ……はい……考え方は好きかな、と…」
「ぜひ、私の内閣で活躍していただきたい。大臣として」
「………内閣府特命担当大臣としてですか?」
「はい、そうです」
「…………み、眠主党政権ですよね。ということは、うちに眠主党に移れと?」
「お願いします」
「………」
鮎美は緊張のあまり気づいていないけれど、木村をはじめ周囲の議員たちは水を打ったように静かになっている。大臣にしてやるから眠主党に入れ、と鮎美が現職総理に一本釣りされているのを固唾を飲んで見ている。
「……い、いつまでに、お返事すればよいでしょうか?」
「今すぐ、お願いします」
「………。………」
スマートフォンを耳にあてたまま、鮎美は左手で横髪を掻き上げて耳にかけると、指先を唇にあて、考え込む。
「芹沢さん、いっしょに日本のため、頑張ってください」
「…………日本を連合インフレ税に参加させてくれはりますか?」
「……。それは、まだ検討中です」
「…………では、うちにも検討の時間をください」
「即答が欲しいのです。イエスなら、すぐに首相官邸へ来てください」
「……………………………………まだ、未熟者ゆえ、辞退します」
「……残念だ……。また、いずれ」
鳩山が電話を切った。鮎美は額に浮いていた汗を指先で拭く。
「…………………」
まだ考え込む鮎美に木村が声をかける。
「なぜ、断ったのです?」
「………もし、受諾して、そのとき、うちに何ができるか、少し考えてみたんです」
「それで?」
「何もできんと思いました。うち一人では何もできん。日本一心党の選挙応援をして身にしみました。組織で動いて支えてもらわんと、うち一人ではトイレ一つ満足にできんで、おもらしする有様です。まして、党を移るとなると、雄琴先生でもコウモリ言われて苦労してはるし。いくら大臣でも特命大臣は名ばかり大臣に終わった例も多いし。何より誘い方が急すぎて、明らかに思いつきという感じで。うちは、あの人のフットワークの軽いところは好きなんですよ。カイワレ大根がっつり食べはった厚生大臣やったとき、うちは幼児やったけどテレビで見て覚えてます。この大臣、爽快やなって。思えば、はじめて政治家を認識したのが、鳩山直人さんやったかもしれん。けど、今回は思いつきにすぎるというか、うちを内閣に入れたら支持率アップかな、という狙いだけで、連合インフレ税についても受け入れってわけやないのに、うちを大臣にしても何をするねん、って感じで。そもそも最少不幸大臣って、もろに厚生労働大臣と所管がかぶりそうですやん。それに、うちを眠主党に誘うんやったら、雄琴先生を使うか、加賀田知事も眠主党なんやから、そっちからコンタクトあってもええかもしれんのに、いきなり一本釣りみたいにされたら、釣られた後、なんのフォローも無い気がしたんです。それこそ、おもらし大臣とか小便不幸大臣とか世間にバカにされて、裏切った自眠党は当然、入った眠主党内でも本気では歓迎せんでしょ、もっと経験ある衆議院議員さん、いっぱいいるのに、差し置いて入閣して誰が、ええ気がします? せいぜい最年少大臣記録を更新しておしまいですわ。しかも歴史の汚点として」
「それだけのことを、あの数秒で考えていたのかね」
木村が感心して言う。
「この件、谷柿総裁にあげてもいいかな? まあ、どうせ周りにいた者は聞いていたが」
「はい、どうぞ。どうせ、終わった件ですけど。………うちはビビったんでしょうか? いきなり大臣と言われて………木村先生が、うちやったら受けた方がよかったと思います? 眠主、自眠は抜きにして」
「あなたの判断は正しいと思いますよ。浮かれて受けるのも一興ですが、おっしゃるとおり最年少記録を更新して、おしまいでしょう。その後はない」
「…………ラーメン、すっかり伸びたわ……もう時間もないし」
そう言った鮎美は、かつて子供の頃に見たカイワレ大臣のようにラーメンを頬張って時間内に食べきった。午後の審議も終えると、鮎美は多数の会議が待ち受けている自眠党本部ではなく、皇居へ出向く。入院中に義仁(よしひと)と由伊(ゆい)から見舞いの電報をいただいていたので、その返礼だった。他の見舞いへは、静江が中心になって礼状を送って済ませているけれど、さすがに皇族からの見舞いだけは鮎美自身が出向いて礼を言うことになっていた。鷹姫が恭しく両手で持っていた紙袋を渡してくる。
「こちらが、献上の品になります」
「ただのクッキーを、そんな家宝みたいに掲げんでええよ」
「……。やはり、今少し上等の品であった方が…」
「色々検討した結果やろ、かねやの糸切りクッキーにしたの」
「はい……」
見舞いの電報にはフラワーギフトがついていて、およそ五千円程度のものだった。鷹姫や石永は、せめて琵琶牛のステーキと味噌漬けの詰め合わせにするか、地場産業である高級陶器にするか、今でもわずかに地元の刀匠が打っている日本刀の中でも優美な上級品を献上した方がよいのではないかと考えたけれど、静江が他の前例などを調べ、やはり下賜された物と同等か、もしくは半額程度の物を返礼とするのが適当であると突きとめ、かねや東京店の糸切りクッキー詰め合わせになっていた。鮎美たちが皇居の建物入り口まで近づくと、皇宮警察の職員が介式たちSPに告げる。
「警護の方は、ここまでにしてください」
「了解した」
鮎美についていた4名は、その場に待機する。鷹姫も足を止めた。
「鷹姫も、ここで待つの?」
「礼儀の上から、高貴な方と面会するにつき、従者を伴うのは遠慮すべきことなのです」
「……ふ~ん……」
よくわからない価値観だったけれど、鷹姫が言うからには古式に則ったことであり、皇居での振る舞いに順当なのだろうと考え、鮎美は一人で進む。案内役として宮内庁職員の北房嘉子(いたふさよしこ)がついてくれ、温和そうなのに、しっかりとした気配もある顔に鮎美は見覚えがあった。おそらく新年祝賀の儀のさい、義仁と由伊に会ったときも、そばにいてくれた職員なのだと感じる。
「こちらで、お待ちください」
「はい」
北房が案内してくれたのは小さめの波の間という部屋で、やはり新年祝賀の儀のさい、面会に使ったところだった。鮎美が待つこと数分、義仁と由伊が入室してくる。
「お久しぶり、芹沢さん」
「お久しぶりです、芹沢さん」
「はい、この度は私どもに、お見舞いをいただき、ありがとうございました」
鮎美は丁寧ではあっても、ごく普通の挨拶をした。事前に鷹姫へ、どういう挨拶がよいか訊ねたときは、もっと古風でもってまわった宮廷言葉を教えられたけれど、それはボツにしている。
「お元気そうで何より。もう傷は完全によいのですか?」
「はい、おかげさまで。こちら、地元のクッキーです。粗品ですが、どうぞ」
「うん、ありがとう」
義仁が言い、鮎美が差し出す紙袋は北房が受け取った。別の職員が紅茶を出してくれるし、由伊が椅子を勧めてくれたので、三人でコーヒーテーブルを囲んだ。由伊も義仁も以前のような正装ではなく、学校が終わった後らしく義仁は15歳らしい学生服、由伊も少し上等ではあるものの小学生らしい平服だったので、格式張った雰囲気は少ない。
「芹沢さんは、ひどい怪我をさせられたのに、退院直後から色々と活躍されていて、すごいね」
「いえ…それほどでも…」
謙遜する鮎美へ由伊が言ってくる。
「本当に、すごいですよ。スーパーウーマンみたい」
「あはは……報道のされ方で、そう見えるだけですよ。ちょっと口達者な、ただの女子高生です」
なごやかに始まった会談だったけれど、しばらくして義仁は心配そうに言ってくれる。
「芹沢さんは、いろいろと危ない目にも遭って、怖くはないかな?」
「今は周りに、守ってくれる人が多いですし。刺されたときも、きわどいところで鷹姫が…友人の宮本が助けてくれましたから」
「今日は彼女は、いっしょではなかった?」
「いえ、入口までは。そこで、従者は遠慮すべきとか言い出して、待っております」
「それは残念。由伊も会ってみたかったね?」
「はい、次はぜひ、ごいっしょしてください」
「ありがとうございます。きっと喜びます。けど、うちの心配より、お二人へも脅迫のようなことがあって、大丈夫ですか?」
鮎美が入院中に義仁と由伊が通う学校の教室に侵入者があり、二人が使っている机の上に刃物が置かれているという事件があった。義仁へは小太刀、由伊へは匕首が置かれていて、それぞれに血で、警備が甘い、と書かれていた。すでに侵入者は逮捕され警察の取調に対して、わずかとなった皇統の警備が手薄であることを憂い、警告のために行った、と供述していた。
「うん、気にしていない」
義仁は男らしく鷹揚に頷き、由伊も気丈に答える。
「はい、私も平気です。みなさん、守ってくれますから」
「そうですか、それなら、よかったです」
「いつの時代も、やや思い込みをこじらせてしまう者はいるようだから、芹沢さんも気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
お互い、狙われる身でもある共感をして会談は終わり、鮎美は外に出た。待っていた鷹姫が問うてくる。
「両殿下との拝謁、いかがでしたか?」
「うん、まあ、普通に。拝謁っていうか、お見舞いの返礼を普通にしてきたよ。あと、次の機会があったら、鷹姫とも会いたいって」
「っ…畏れ多いことです」
「………」
鷹姫って、やっぱり極端に上下関係を大事にするよね、とくに皇族なんか、半分は神様って、わりと本気で想ってそうやわ、と鮎美は考えつつ、自眠党本部に行き、残りの時間で出席できるだけの会議に顔を出して回った。
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