第43話 2月14日 バレンタイン、静江と陽湖の出張

 翌2月14日の月曜、陽湖と鐘留は六角市の支部でお昼休みを過ごしていた。議員たる鮎美が不在でも集団訴訟についての弁護士との調整や連絡雑務があり、それなりに忙しい。それでも都知事選ほどではなく、お昼休みは穏やかに過ごせている。

「アユミンのママの妊娠、どうなの? 男の子か、女の子か、わかりそう?」

「まだ小さいからわからないみたいですよ。ただ、つわりは強くなってきて、お母さん苦しそうです」

「月ちゃんが代わりに料理もしてあげてるんでしょ。えらいね」

「料理するときの匂いが、とくに気持ち悪いそうですから」

「つわりかぁ……アタシたちも、いつか妊娠するのかなぁ」

「…………」

 明け透けな鐘留の物言いに、陽湖は恥ずかしくなって少し頬を赤くした。鐘留は大声で言ったわけではないけれど、支部内の他の職員にも聞こえている。陽湖はテレビの音量をあげてニュースを見る。ちょうど昨日の鮎美が映り、渋谷区で選挙カーから演説している。

「東京都から日本を変える! 日本から世界を変える! 東京都知事には…」

 候補者である畑母神の名は報道の公平性から流されず、最年少議員の鮎美と最年長議員の村井が応援演説に立っていることなどが紹介されて、画面が切り替わりニュースキャスターが述べる。

「都知事選は後半戦に入り、芹沢鮎美議員の提唱するいわゆる連合インフレ税もからめた様相を呈しております。これを受けて世論調査を行い、連合インフレ税に対する国民の意識を調べました」

「「………」」

 陽湖と鐘留が黙って注目し、他の職員たちもテレビに視線を送る。自分のためにコンビニ弁当を買って戻ってきた静江も音を立てないように弁当を開いた。

「連合インフレ税に対する賛否は賛成39%、反対20%、わからない41%となっております。賛成する人の理由は、社会が平等になる、脱税手段のない課税で評価できる、鮎美ちゃんのファンだから賛成する等です」

「アホだねぇ、きゃはっは」

「反対する人の理由は、金持ちだけでなく貧乏人のお金まで半分の価値になる、結局は税金だ、悪しき平等主義で考えが足りない等です。わからないと答えた人の理由は、そもそもインフレの意味がわからない、わからないけどEUみたいになりそう、わからないが芹沢さんには頑張ってほしい等です」

 静江が梅干しの種を弁当の蓋に箸で置きつつ言う。

「理屈がわからないまま、芹沢先生の人気で盛り上がっている部分もあるわね」

「続いて、売春行為の合法化についての世論調査では、合法化に賛成が33%、反対が29%、わからないが38%です。芹沢議員らが提唱した性関連風俗産業に従事する人に対する不確定拠出年金制度の創設については、賛成62%、反対3%、わからない35%と賛成が多数を占めています」

「アユミンやるね。っていうか、これはシオちゃんの案だっけ」

「同性愛者同士の結婚を法整備することについては、賛成25%、反対56%、わからない19%と反対が多数を占めています」

「まあ、キモいから。きゃははは」

「シスター鐘留! あなたは当事者の立場に立って物事を考えられないのですかっ?!」

「うん、無理」

「っ……」

「っていうかさ、アユミンも当事者の立場に立って連合インフレ税のこと考えたのかなぁ。お金持ちからしたらさ、せっかく貯めたお金が半分の値打ちになるんだよ。アタシの家も何十億円あるか知らないけど、30億円だとしたら、それが15億円分の値打ちになる。えげつい増税だよ」

「シスター鐘留は貧しい人の気持ちがわかりますか?」

「わかんない」

「そうやって、わかろうともしない」

「月ちゃんは、お金持ちの気持ちがわかる?」

「え………。……何でも買えるとか……幸せ……でも、自分の家だけ豊かというのは……」

「なってみないと、わからないもんだよ。あ、ちなみアタシは同性愛は経験したから、ちょっと気持ちわかる。気持ちいいけど、キモい。キモちいい感じ」

「……まさか……シスター鮎美と…」

「月ちゃんも当事者の気持ち、経験してみたら? それから考えようよ」

 もうニュースが終わり、鐘留と陽湖の話が変な方向に行っているので静江が食べ終えて修正する。

「連合インフレ税に反対が20%というのは、思ったより少なかったというのが私の感想です」

「アタシも」

「私は、反対なんて5%以下だと思ってました。お金持ちって3%か、5%くらいだと。20%の人は単なる増税だと勘違いしているのでは…」

「月谷さんの言うとおり、富裕層は上位3%程度でも、中間層は30%くらいいますよ。この中間層にとっても5000万円あった資産が2500万円になるとしたら、それは苦い増税です。けれど、芹沢先生が、うまく言葉を選んで発信しているから、そこに目がいかず、赤ちゃん手当てに目がいっている。けれど、有権者の多数を占める高齢者にとっても連合インフレ税は歓迎できない。とくに年金生活者にとっては死活問題です。支給額は変わらないのに物価は2倍になるかもしれない、物価スライドでの年金支給上昇がどこまでアテになるのか、わからない。ここにベーシック・インカムのような救済措置をするとしても、結果、厚生年金などの高額年金受給者や付加年金をしていた人のメリットが半減もしくはゼロになる。これから子供を産める人、これから働ける人は新しい通貨価値での収入を得られるけれど、過去の積み立てで生きる人にとっては、過酷な政策です」

「アユミン、年寄りから巻き上げる気なんだ?」

「日本の金融資産の大半は65歳以上が持っていますから、そうなります」

「でもさ、日本の借金が1000兆円超えそうなのは、その年寄り世代のせいじゃん」

「ええ、その借金、国債もまた預貯金を原資に金融機関が買っているものですから、豊かな個人が国へお金を貸し付けている状況です。その値打ちを半分にして、借金も半分を一気に解消しようという狙いで、いわば税金を取りはぐれて個人が貯め込んだ財産を貯金箱の底から抜き取るような手段です」

「アユミン、えぐ……さすが、堺の商人。琵琶商人より、えぐいじゃん」

「これに気づいた人は、もう金地金を買っています。今日、とうとう1g6000円を突破し、歴史的高値になっている」

「アタシんちにも金あるよ。仏壇の仏像とか、おりん、純度の高い金だから、あまり強く叩くなって怒られたことある」

「それは相続税も逃れるためのオーソドックスな手段です。富裕層の仏具は、たいていそうです。ひどいと墓石の下に10キロの金塊がある、なんてことも」

「アーメン」

 陽湖が手を組んで神に祈っている。

「「………」」

 静江と鐘留が黙ってみていると、支部の玄関に宅配業者が大きなカーゴを持ってきた。

「お届け物です」

 カーゴの中には多数の包装されたバレンタインチョコが入っていて、ほとんどが芹沢鮎美宛だった。党の職員が静江の前に運んでくる。大きなテーブルいっぱいになるほど送られてきていた。

「アユミン、すごい!」

「シスター鐘留の人気、これほど……でも、女性なのにバレンタインに…」

「お兄ちゃんにも、こんなに来たことないのに……」

 静江は兄宛のチョコを探して分けていく。石永にも50個ほど来ていた。既婚者なので少ないのは理解できるとして、議員であった頃より5つほど増えたので落選中の慰めという感じがした。一部に雄琴直樹宛のチョコが混ざっていて、贈った女性は直樹が自眠党から眠主党へ鞍替えしたことさえ意識していないのかと思ってしまう。

「これ食べてみよ」

 鐘留が鮎美宛の箱を開けたので陽湖が驚く。

「え?! それ、シスター鮎美宛ですよ! 勝手に開けちゃダメですよ!」

「いいじゃん。うん、美味しい」

「そんな……勝手に食べるなんて……贈った人の気持ちを……」

「どうせ、アユミン一人で食べきれないし。きっと、東京事務所にも来てるよ、かなり」

「だからって……」

「月谷さん、驚くかもしれないけど、私たちで賞味期限の短いものは、いただいてしまいますから、開封しつつ名簿をつくり、お礼状を送る準備作業をします。今日明日は、この作業で潰れそうですね。まだ郵便でも来るでしょうし。とにかく生チョコなんかの賞味期限が短いものは、贈ってくれた人の気持ちを無駄にしないためにも、せめて誰かが食べましょう。芹沢先生は今週末も東京ですから」

「……。はい……たしかに食べきれない量……」

「きゃはは、そういうこと。うーん、美味しい」

「緑野さん、食べる前にデジカメで写真を撮って名簿を作成してください。どんなチョコが贈られたのかは、芹沢先生にレポートにして見てもらいますから」

「うあぁ……面倒臭っ……そんなレポートに目を通すアユミンも大変」

「それが議員です」

「はいはい」

 党の職員も加わり、手分けして名簿の作成作業をしながら、生チョコなどは食べ始める。しばらく、その作業を続けていたとき、女性職員の一人が突然に立ち上がり、トイレに駆け込もうとして途中で我慢しきれず、吐いた。

「斉藤さん、大丈夫?! どうしたの?!」

 静江が問いかけても嘔吐を続け苦しんでる。その顔色は真っ青で、床に吐き出したチョコレートからは塩素系の化学薬品の匂いがしたので、静江も顔色が青くなった。

「外に出て!! 全員!! すぐに! 誰か斉藤さんを担いであげて!」

 男性職員が苦しむ斉藤を担ぎ、全員が外へ駆け出た。そこへ石永が挨拶回りから帰ってきて静江から話を聴くと、すぐに110番通報した。静江は119番にかける。救急車とパトカー、県警の化学防護班が駆けつけるまでに、鐘留も青ざめた顔色をしていたかと思うと吐いた。

「ううええ! ハァ…ハァ…うえっ!」

「シスター鐘留っ?!」

 陽湖が鐘留の背中を撫でる。斉藤ほど藻掻き苦しんではいないけれど、顔色は青いしガタガタと震えている。静江が追加で119番した。石永は鮎美へ電話をかけたけれど、国会で審議中なのか応答してくれないので介式と鷹姫にかけ、東京事務所へ贈られてきたチョコレートも食べないように告げ、詩織にも電話して同じことを言った。ずっと外にいると寒くて凍えそうなので車の中にでも避難したいけれど、キーやコートも支部内なので近所のコンビニへ避難させてもらった。鐘留と斉藤は救急車で搬送されていき、石永は苦々しく言った。

「考えるべき可能性だった……くっ……銃弾だって送られてきたんだ。チョコに何か入れるくらいの可能性……くそっ!」

「ごめんなさい、お兄ちゃん、私がいながら」

「静江……泣くな。お前は悪くない」

「お兄ちゃん……」

「シスター鮎美を、どうして、こうも狙うの……。シスター鮎美が何か悪いことをしましたか?!」

「「…………」」

 石永も静江も何も言えなかった。

 

 

 

 翌2月15日火曜の午前0時過ぎ、鮎美は新幹線で東京から井伊駅まで走り、鷹姫とSPたちに囲まれながら党の防弾車で六角市内の病院に見舞いへ来ていた。

「カネちゃんが無事でよかったわ」

「まあね……ありがと、夜中に」

 鐘留は病室のベッドに寝ているけれど、医師による検査で異常は出なかった。陽湖が説明してくれる。

「お医者さんによると、別のチョコを食べていたものの、先に吐いて苦しむ人を見て、強く不安になって嘔吐しただけだろう、とのことです」

「そうなんや。その斉藤さんは? 失礼やけど、うち記憶に無いねん。そんな人おらはった?」

「ここ最近、集団訴訟の件で忙しくなり新たに雇われた人ですから、シスター鮎美が知らないのも無理ありません。病室にご案内します」

「お願いするわ。カネちゃん、またあとでね」

 陽湖をともない、鷹姫を鐘留のそばにおいてSPたちと斉藤の病室を訪ねる。陽湖がノックすると斉藤の母親が開けてくれた。

「シスター鮎…、芹沢先生が一言、お見舞いしたいと来られたのですが、お会いできますか?」

「はい…どうぞ…」

 母親は疲れた声で中に導いてくれる。鮎美たちが入ると、斉藤はベッドの上にいて意識があった。顔色も悪くない。

「芹沢です。……この度は、うちのせいで申し訳ありません」

 自分に送られたチョコに異物が入っていて入院することになった女性に対して、鮎美はどう言っていいかわからず頭をさげた。

「…………」

 斉藤は無言のまま手を振ってくれ、陽湖が説明する。

「斉藤さんは口の中を化学的な火傷をされているそうです。ですが一週間もしないうちに、ほぼ治るそうです。ただ、今は話せません」

「…一週間……うちのために、ホンマすみません!」

 また頭をさげた鮎美は恐る恐るポケットから20万円を入れた見舞い袋を出した。最初、鮎美は100万円でもと言ったけれど、静江が負傷の程度と公選法、社会通念に照らして最大限で20万円と言ったので、それに従っているし、治療費などは労災保険で出す予定だった。斉藤も母親も遠慮したけれど、強引に受け取ってもらい、あまり長居しても双方困惑するので鐘留の病室に戻った。そして、気になることを鐘留に問う。

「カネちゃんのお母さんは?」

「あの人はアタシが病院に運ばれたニュースを見て、その場に倒れて入院してる。一つ下の階にいるけど、会わない方がいいよ。またキーってなって倒れるかもしんないし。だいたい、あの人は口先と外面ばっかで精神的には超脆いから」

「………」

 それは、あんたもやん! という突っ込みは飲み込んで謝る。

「うちのせいで、ホンマごめんな」

「いいよ、アタシは平気だし。っていうか、月ちゃんからの報告が聴きたい。警察の人なんて?」

「はい、斉藤さんが食べたチョコレートは中にお酒が入っているタイプだったのですが、これを注射器か何かで抜き出し、かわりに洗剤のようなものを入れたのだろうと、今のところ判明しています。送り主の氏名は鳩山直人でしたが、もちろん、偽名というか悪質なカタリと思われます」

「一国の総理が、うちをそんな姑息な方法で殺すわけないやん。犯行の動機とか、まだ、わからんよね?」

「動機につながりそうな手紙が箱の底に入っていました」

「なんて?」

「売春婦の年金をやめろ、さもなくば、次は殺す」

「………。そっちの話でなんや……うちは、連合インフレ税か、うちへのストーカー行為の一種かと思ったけど………」

 鮎美が横髪を指先で耳にかけ、左手を額にあて考え込むので鷹姫が言う。

「今夜は、ここまでにて、もうお休みください。健康を害されます」

「……うん、おおきに、忠告に従うわ」

 鮎美は井伊市内の深夜でもチェックインできるビジネスホテルで休み、朝になると始発新幹線で東京に行き、国会に出席したけれど、選挙応援は休んだ。介式たちにも引き続く警護任務で疲れさせたくないので議員宿舎で夕方の時間を過ごしている。

「………」

「………」

 鮎美も鷹姫も口数が少ない。鷹姫が淹れてくれたミルクティーを飲みながら、鮎美は考え込んでいる。そこへ詩織と介式が訪ねてきた。

「鮎美先生、お久しぶりです。同じ東京にいるのに、なかなか会えなくて淋しいです」

「頑張って海外へのアプローチしてくれはってホンマおおきに。それで、報告というのは?」

「ベルギーとフランスも近いうちに、いい返事があるかもしれません。あと、東京事務所へ届いたバレンタインチョコですが、総計3965個、うち石永先生へが15個、雄琴直樹宛に送ってきたバカな女が2人、鮎美先生宛のうち2554個が女性からです。イタズラや好意をこじらせた脅迫まがいの手紙がついていたのは7件、すでに警視庁へ届出ましたが、毒物、危険物は発見できていませんが、念のため全て捜査機関に預けています」

「そう……いっぱい、くれはったのに……悪いなぁ…」

「こちらだけはお受け取りください」

 詩織がリボンの着いた小箱を差し出すので、隣にいる介式が検めたそうな視線を注ぐ。なんとなく鮎美はわかったけれど、問う。

「それは?」

「私からです。ヨーロッパから航空便で取り寄せました」

「おおきに」

 鮎美が開けようとするので介式が止める。

「警察の方で検めさせていただきたい」

「それを言い出したら、うちは飢え死にするやん。せめて秘書が出してくれたもんくらい信用せな」

「………」

「変な物は入れてませんよ、入れたのは私の愛だけです」

「いただきます」

 鮎美は小箱から丸い板チョコを摘んだ。クッキーくらいの大きさで、ブラックとホワイトが半々に混ざっている。

「ロイスのやん。一回、食べてみたかったんよ。おおきに」

 有名なブランドのチョコレートで食べてみると、美味しかった。とくに異物もなく三つ食べて小箱を置いた。

「介式はんからの報告は?」

「劇物入りのチョコレートを送った犯人はいまだ不明。福岡市内から発送されており宅配センター周囲の監視カメラにそれらしき人物は映っていたが、防寒具をもちいて顔を隠しており人物の特定はできない。指紋も検出されたのは宅配業者やチョコレートそのものを製造している店の従業員のものだった」

「そうですか………。今回は捜査情報を教えてくれはるんですね?」

「度重なる事件で上層部は芹沢議員の心理状態を心配しているようだ。支障のない範囲で安心させるよう言われた」

「それは谷柿総裁の指示で?」

「私にはわからない。私は上司から言われただけだ。安心させる材料になるかは、不明だが劇物は一般家庭でも使用する洗剤と同じような成分で、致死量を飲み込むことはできず口に含めば、ただちに吐き出すもので、犯人もそれを知って脅しに使った可能性は高く、殺意は感じられない。ただし、ダメージを与えることは狙っている上、真意であるかは疑問が残るが、芹沢議員の政策の一つである不確定拠出年金への敵対心がうかがえる。犯人にはある程度の思想性と目的があるようだ」

「わかりました。おおきに」

 介式と詩織が去り、また鷹姫と二人になった。

「………うちの心理状態か………どうなんやろ……。最初の刺傷事件以外は、あんまり実感が無いんよ。介式はんらが守ってくれはるのも大きいかもしれんし……。鷹姫から見て、うちは、どう見えてる?」

「……………。大きな目標を前にして、脅しに動じておられないのだと思います」

「そう………おおきに」

 鮎美は座っていたソファから立ち上がった。そして前を見て、手のひらを柔道で構えるように挙げた。

「誰か知らんけど、うちは負けん。前に進む、鮎美の名はな、歩みを止めんちゅー意味もあるて父さんがつけてくれたんや。前に進んで、なんぼなんよ」

 手のひらを握って拳にした。

 

 

 

 翌2月16日の水曜朝、静江は自宅で目を覚ますと、母親が作ってくれた朝食を兄と食べる。兄嫁と甥っ子たちは学校行事の都合でおらず、元大臣の父親が新聞を畳みつつ言ってくる。

「お前たちが世話している芹沢鮎美、活きがいいな」

「よすぎて困ってるわ」

「いい子なんだけどなぁ……こっちの思い通りに動く子じゃないよなぁ」

 石永が納豆ご飯を食べながら東京にいる鮎美のことを考える。今現在、都知事選を応援してくれているのも、石永の政治志向には合うけれど、自眠党全体としては黙認という程度だった。

「せっかく手にした鮎だ。活きがよすぎて手から逃げ出したということのないようにな」

「「はい」」

「お前たちの今日の予定は?」

「オレは県議の先生方が県道整備の現状視察に呼んでくださってるので、そこへ。午後からは例のチョコレートで口を火傷した斉藤さんの見舞いに。緑野さんは退院してる。夕方は六角市議の集まりに」

「私は東京で、あの子が始めた集団訴訟の提訴と告訴に出向きます。終電で帰ってこられれば帰ってくるつもりですけど、わかりません」

「その件、谷柿くんからも相談があったよ。ほどほどにな」

「はい。すでに芹沢先生の頭の中で、この訴訟は小さなことになっています。活きはいいけど、こちらの話も聴いてくれる子ですから、落としどころを間違えないようにします」

 家族での朝食会のような会話を終えると、それぞれに車で仕事に向かう。静江は六角駅で陽湖を拾うと、井伊駅まで車で走り一日500円の安い駐車場に駐めて陽湖と新幹線に乗った。

「いよいよシスター鮎美が不謹慎な出版社を訴えるのですね。女性を淫らに撮った写真をバラまいた罪で」

「そうね。大変な準備作業だったし、まだまだ訴訟が進めば事務作業も増えると思うわ」

「報いは受けるべき人たちです。カメラマンも、印刷所も、書店も」

 この件は風俗産業の容認と違い、陽湖の信条と教義にも合っているので作業に関わっていることもあって鮎美以上に情熱をもっていた。出版界の混乱は避けたい静江が言っておく。

「そう興奮しないで、到着したら休む間もないかもしれないから、いまのうちに寝ておいて」

「はい」

 二人とも鮎美ほど多忙ではないけれど、寝られるときに寝ておくのは重要なので新幹線の中では寝て過ごし、東京駅に到着すると駅構内で昼食にする。事前に静江が予約しておいた2000円以内で食べられるイタリアンの人気レストランで陽湖とパスタコースを楽しみ、きっちりと領収書をもらって国会議事堂に向かう。鮎美の方も議員食堂での昼食後に国会議事堂前に出て来てくれ、一部のマスコミに通告しておいたので囲み取材を三人で受ける。鮎美が中央に立ち、静江と陽湖は左右に立った。

「芹沢議員、国内の大手出版社すべてを訴えるようですが?」

「すべてでも無いですよ。児童書や専門書ばかりの出版社は入っていません。入っているのは同意無く女性の下着や胸元を写した写真を出版したところ、そして、カメラマンや印刷所、書店です。書店は大手のみに限りました」

「表現の自由ということを、どうお考えですか? 今後、性的な印刷物は許さないということですか?」

「いいえ、間違えないでいただきたいのですが、被写体の同意があって、水着や裸の写真を撮る表現や芸術は、これからもあり続けるべきです。モデルやアイドル、グラビアアイドルといった分野は被写体との同意や契約があって行われています。これは、これでいい。けれど、同意なく、ただ公人だからということで、たまたまスカートが乱れて下着が見えているとき等を狙って撮って出版する、こういう外道なことはやめていただきたいのです。こういうことをやっていて、表現の自由だ、報道だ、と誇れるのでしょうか?」

 あいかわらず鮎美は多数のカメラに囲まれても堂々と話している。その背中を見て陽湖は立派だと感じていたけれど、急にトイレへ行きたくなった。

「……ぅぅ…」

 お腹が痛い。昼食に食べたパスタに載っていた生ハムが悪かったのか、それとも朝食に自分で焼いた湖魚が生焼けだったのか、おそらく後者な気がしてくる。時間が無かったので自分の分だけ早めに仕上げてしまい、美恋と玄次郎の分にはしっかりと熱を通したけれど、陽湖が食べた魚は芯が生しかった。それを思い出すと、ますます腹痛は強くなるし脂汗が流れてきた。

「…ハァ……ハァ……ぅぅ…」

 気を抜くと今にも限界を迎えて失禁してしまいそうで、テレビカメラの前でそんなことになるのは避けたい。陽湖の役割は鮎美の左右に立っているだけで、喋る予定などはない。そっと陽湖は持ち場を離れ、そばで見ていた鷹姫に小声で告げる。

「ちょっとトイレに。私の代わりに立っていてください。ぅぅ…」

「わかりました」

 鷹姫は了承して陽湖が立っていた場所に立ってくれる。陽湖は痛むお腹を揺すらないようにまっすぐ国会議事堂のトイレに向かった。女子トイレに滑り込み、個室のドアを閉める前に急いでショーツをおろして便座にまたがり、ギリギリ間に合った。

「あああぁ…ハァ…ハァ…危なかった…」

 手を伸ばして個室のドアを閉める。

「やっぱり、あの魚かな……ううっ…まだ、痛い…」

 長くトイレにこもって腹痛が治まるまで排泄を続け、終わって国会議事堂前に戻ると、もう取材は終了していて、静江は裁判所へ、鮎美は国会に戻るため陽湖とすれ違った。

「陽湖ちゃん、途中でどないしたん?」

「すいません。急にお腹が痛くなって。それでトイレに」

「…ふーん…それでトイレに行けるのは、ええ身分やね」

「……え?」

 今まで秘書業務をしていて鮎美から厭味を言われたことはないけれど、今の言葉は心にひかかった。

「体調管理も仕事のうちやで。しっかりしてな」

「はい、すみません」

「あと、東京はトイレ少ないし。気をつけいな。駅のトイレも混雑してることもあるし、大恥かきとう無かったら注意しぃ」

「はい」

「お腹の具合が悪いんやったら、いっそオムツ着けるのも手よ」

「……。そういうセクハラ発言やめてください。不快です」

「………」

「もう行きます」

「うん、ほなね」

 鮎美と別れて静江に追いつき、霞ヶ関にある東京地方裁判所に向かう。裁判所前で連名の原告となってくれる芸能人やニュースキャスターと合流し、受任してくれたセクハラ問題に詳しい女性弁護士とともに裁判所内へ進む。外観は威圧感のある長方形が印象的なビルだったけれど、中に入ると天井の低い市役所のような雰囲気で陽湖は拍子抜けした。女性弁護士が地裁のカウンターで事務員に分厚い訴状を差し出す。

「こちらが訴状になります」

「確認します」

 事務員は中身を読んだりはせず、総額398億円という訴額に合う印紙がつけられているかなど、ごくごく事務的な確認をすると受理した。

「初回の期日については、大きな裁判になりそうですから、すぐに決まらないかもしれません。決まり次第、通知します」

「はい」

 やり取りは、それで終了し正面玄関横のロビーで女性弁護士を囲んで軽いミーティングになる。

「もう2月も半ばですから、年度末で裁判官の移動もある時期で、初回は4月以降になると思います」

 女性弁護士に続き、静江が告げる。

「次に警視庁へ告訴状を出しにいきます。有志の方はついてきてください」

 裁判所の次は警視庁に移動し、カメラマンなどを痴漢行為として逮捕してくれるように願う告訴状を出した。本来、単独に芸能人が行っても受理されないような告訴だったけれど、弁護士が作成し、何より全国的に話題になっている議員芹沢鮎美が参加しているので、警察官僚としても難癖をつけて受理しないという対応は取れず、ともかくも受け取ってくれた。

「今日のメインは、これで終わりですが、新たに訴訟に加わってくださった方々と面談を行っていきますので、石永芹沢共同事務所までお越しください」

 静江の案内で東京事務所へ原告たちと移動した。東京事務所では詩織が中心になって諸外国との連絡を取り合っていて、かなり忙しそうだったけれど、スペースを空けてもらい、静江と陽湖が手分けして26人の新原告と面談する。もう面談の内容は定型化されつつあり、いつ、どんな出版物に、どんな性的な写真を載せられたのか、その掲載で心が傷ついた結果、どのようなことが起こり、今はどう思っているのか、そういったことを録音しつつメモしていく。静江は年配の女性を相手にし、陽湖は若いアイドルなどを相手にする。手分けして定型的に行っても、6時間以上かかり終わったのは20時過ぎだった。

「…………」

「…………」

 ぐったりと疲れた静江と陽湖は話す気も起きない。もちろん面談の内容はセクハラ写真なので聴いていて愉快ではなかったし、途中で泣き出すアイドルもいて陽湖の精神的負担も大きかった。かがんだときに胸元を撮られて乳首が写っていた子や、座っていて足を組み変えた瞬間にパンチラを撮られてナプキンの一部まで写されていた子、お尻のパンチラを撮られて泥で汚れていたのか下痢便で汚してしまっていたのか茶色いシミを撮られた子、ニュース番組中に新アトラクションの紹介で高所恐怖症なのに空中に張ったワイヤーを滑り落ちる体験をさせられ恐怖で尿失禁してしまった濡れたズボンの写真がネットに出回り続けているニュースキャスター、アイドルになる前に甲子園のチアガールをやっていて当時はレーザー脱毛していなかった腋の写真とアイドルになってから脱毛後の腋写真を対比で載せられた子、体調が悪いのにステージ出演して嘔吐したとき白目をむいて鼻水を垂らした顔を晒され続けている歌手など、美しかったり可愛かったりするはずの女性たちの一番見られたくない姿を抉り撮ったような話ばかりで、静江も陽湖も聴取していて胸がムカムカとしたし、持参してくれた雑誌や写真を見ると、これを撮影したカメラマンや編集した編集者を刑務所に放り込みたくなる。

「……うう……胸がムカムカするのに……お腹は空きました……」

「夕ご飯、どうしよう……」

 静江が楽しみに夕食を予約していたレストランは間に合いそうにないのでキャンセルしている。陽湖は熱心に英語で国際通話している詩織の方を見た。

「牧田さんの体力……すごい……私たちが来る前から、やってて、今も……」

「あっちの仕事の方が、建設的で楽しそう……英語なら、私も負けないのに……」

「セクハラ話は、もう、うんざりです。聖書を懲罰に使うのは気が引けますけれど、正直なところ、あんな写真を撮ったり印刷したりして売った人たちを集めて、鞭打ちの後にローマ人への手紙を書き取りさせたいです。有害な事柄を考え出す者…自然の情愛を持たず、憐れみのない者…こうした事を習わしにする者は死に価するという、神の義なる定め…」

 かなりストレスが溜まった陽湖が暗い思考をしているので静江は気を取り直す。

「さて、あと一つ面談が残ってたわね」

「そうですね。遅くなって待たせてしまって…」

 疲れきっていたけれど、静江と陽湖は会う予定だったワンコというローカルアイドルと面談する。ワンコは当初の記者会見から鮎美の活動に参加してくれているし、制服姿でのパンチラ写真を撮られて鮎美と同じ週刊紙に載せられたので集団訴訟にも加わっているけれど、一つ問題があったので静江は顔を見て話し合うことにしていた。ずっと待ってくれていたワンコと事務所の一角で向かい合った。

「ワンコさん、遅くなって、ごめんなさい」

「いえ、お二人こそ、お疲れ様です」

 ワンコは明るい茶髪を、まるで犬の耳のようにツインテールにしているアイドルで可愛らしい。陽湖より年上のはずだけれど、幼い印象をまとっている。

「もう遅いし単刀直入にいくわね。あなたの戸籍を見ました」

 訴訟に参加するためには弁護士へ委任状を出す必要があり、それに戸籍書類もあって静江と陽湖も見ている。

「ワンコさんは、在日の麗国人なのですね?」

「はい、そうです。本名は李王娘(リーワンニャン)です。……すみません。隠してるわけじゃないですが…」

「いえ、アイドルが本名を出さないのは、よくあることですし、それはいいのよ」

「ありがとうございます」

「ただ、私たちとしても、どのくらい秘密に扱っていくか、そういう気遣いの程度を確かめておきたくて。当然、弁護士は守秘義務がありますし、私や月谷さんも言いふらしたりはしません。今のところ、芹沢先生にも黙っています。けれど、委任状などの書類に目を通していただく機会もあると思います。そういうときにも、隠していくか、という問題と、あと芹沢先生は、ご自身が差別を受ける同性愛者という立場でもあるので、マイノリティーの事情を理解していくという立場を取られていますが、共同歩調を取っている日本一心党は、ご存じかもしれませんが、やや差別的です。日本列島は日本人のもの、そういう立場から、領土問題などもあり、在日の人たちに、やや冷たい態度を取りがちです」

「はい……知っています」

「そこで率直に問うと、ワンコさんが在日であること、どのくらいの厳重さで秘密にしていきますか? 芹沢先生にも隠せるなら、隠していきますか? それなら、その方向でワンコさんの委任状などは抜いてから、お見せすることにします」

「お気遣いありがとうございます。ごく自然に、書類が目にとまったとき、ああ、そうなんだ、とわかる程度の扱いでお願いします。特別に隠してもらわなくても、みんなと書類の扱いは同じで。あと芹沢先生には、やっぱり伝えておいてください。………芹沢先生は在日のこと、どう思っておられますか?」

「芹沢先生から差別的な様子を感じたことはありませんよ。いくつもある社会問題の一つという程度で。あそこにいる秘書の牧田もドイツ人とのクォーターですし」

「ドイツ人との………いいなぁ…」

 ワンコが憧れるような目で詩織を見た。その視線に詩織が気づいて、ちょうど国際電話を終えたところだったので、こっちに来る。

「私のこと、何か言っておられましたか?」

「あ、すみません。ドイツ人とのクォーターだって聴いて。私は実は在日なんです」

「ザイニチ……、そんな国ありましたか?」

 学生時代からドイツで暮らし始めていた詩織は、ときおり知らない日本語があり、とくに在日という単語だけで、多くの場合で在日朝鮮人もしくは在日麗国人を意味することは知らず、日本に滞在している外国人は、みな在日になると理解しているので、意味がわからず問うていた。

「えっと…、在日の中でも麗国人です」

「ああ、お隣の」

 そう言う詩織がワンコの顔を見つめるし、ワンコの方も詩織の顔を見てしまう。二人とも、ついつい日本人という民族から、お互いの顔が、どのくらい離れているか、観察していた。静江は心配なので言っておく。

「牧田さん、日本では在日というだけで、差別語ともとられますから気をつけてください」

「はい、ドイツでのユダヤ人問題のようなものですね」

「そうなのですけれど、……自眠党と日本政府の立場としては、ナチドイツがユダヤ人を虐殺したように、日本政府が戦時中に朝鮮人や仲国人などを計画的に虐殺したというのは、事実でないという立場でもありつつ、あまり正面切って言わないデリケートな問題でもあります」

「ようするに秘書としては、うかつなことは言えない、という類の問題ですね。わかりました、気をつけます。ワンコさん、難しい立場かもしれませんが、鮎美先生は色々なことを理解してくださるステキな人ですよ。では、ごきげんよう」

 詩織は優雅に一礼して、また国際電話が鳴っているので自分のポジションへ戻っていった。陽湖も勇気づけるようにワンコへ握手を求める。

「私も人種差別には反対です。人はみな神の前に平等ですから」

「ありがとうございます。月谷さんはキリスト教徒ですか?」

「はい、主に仕える、幸福のエホパの一員です」

「……。…よろしく」

 教団名をワンコも知っていたけれど、日本人的な曖昧さで陽湖と握手している。そして、とても気になるので問う。

「芹沢先生も、エホパの一員なのですか?」

「少しずつ主の教えを理解してくださっています」

 陽湖が微笑みながら言い、静江はハッキリと訂正する。

「いえ、芹沢先生は何の信仰もされていません。ほぼ無宗教で、地元の神社などには少し行かれます」

「そ…そうですか…」

 やや引いているワンコに陽湖が期待して問う。

「麗国はキリスト教の方が多いですよね。ワンコさんも?」

「い、いえ……私、在日といっても、ほぼ日本で育ってますし…信仰は、とくに何も……お祭りだと、神社に軽く行ったりしますけど……キリスト教は、ぜんぜん、……クリスマスくらいです。それもチキンを食べるくらいで教会には行かないし、そのチキンがサムゲタンだったりするくらいには麗国の文化をもってますけど…」

「ワンコさん、一つ覚えておいて欲しいのですけれど、クリスマスはキリスト教とは…」

「月谷さん、仕事中だってこと、忘れないでね?」

「あ、はい、すみません」

 宗教講釈を始めかけていた陽湖が謝り、ともかくもワンコの出自についての面談も終わった。ワンコを見送ると、静江はブランド物の腕時計を見て言う。

「もう新幹線で帰るのもつらい時間ね……どこかホテル探すわ」

「お願いします」

「夕ご飯、洋食と和食、どっちがいい?」

「お任せします」

 ぐったりと精神的に疲れた二人は精力的に仕事をしている詩織に会釈してから東京事務所を出て、最寄りのビジネスホテルに入った。つい、ホテル横のコンビニで弁当を買ってしまい、それを二人部屋でわびしく食べる。

「ごめんね、こんなご飯で」

「いえ、十分です。主よ、今夜の糧をお与えくださり、ありがとうございます」

 陽湖は食前の祈りを始めた。

「………」

 静江は、なんとなく一人で食べ始めるのは気が引けたので、とりあえず待った。せっかく東京に来たのに、全国どこでも買えるようなコンビニ弁当になったのは悲しい。陽湖の方は、もともと貧しい家庭で育ったので、夕食がモヤシオムレツということも頻繁にあったので、カルボナーラパスタとサラダ、さらにデザートがあるという夕食は、たとえコンビニで購入したとしても、とても豪華に感じているし、出張中なので経費を支給してもらっている。深く祈ってから食べ始めた。静江が食べながらテレビをつけると、ニュースが流れていて、やはり関東なので都知事選のニュースが関西より大きく扱われている。

「シスター鮎美、頑張ってますね」

「あの子の体力も、けっこうなものね。牧田さんも、すごいし」

 ニュースが変わり集団訴訟の話になった。国会議事堂前でのシーンで、また鮎美が映り、その左右に自分たちが映る。途中でテレビに映る陽湖の顔色が曇り、お尻に力を入れて我慢しているのが自分のことなので、よくわかる。

「………もし、このとき……漏らしてたら、私もネットに晒されて……」

 無理に我慢して立っていたら、きっと失禁していた気がする。そんな姿が配信されるのは死にたくなるほど嫌だった。静江が言う。

「私たちは公人じゃないけど、公人に近い存在だし、私たち秘書が芹沢先生の恋人候補って変な特集も組まれたしね。いまだに、お兄ちゃんをホモって書くし。本人が否定してるんだから、いい加減にしろっていうの! あ、そうだ! お兄ちゃんも原告に加えるの、どう?!」

 静江はコンビニでワインのハーフボトルを買っていたので少し酔ってきている。

「男性の石永先生をですか?」

「だって、しつこくホモホモってさ! 芹沢先生みたいに自分で認めたなら、そりゃわかるよ。その通りだし、本人も否定しないし。けど、お兄ちゃんが否定してるのに、いつまでもホモホモって言い立てるのは、ある意味、セクハラじゃない?!」

「たしかに………もし、自分がそうじゃないのに、同性愛だってしつこく言われたら、すごく嫌……いくら公人でも、限度があります……」

「よし、加えよう! ………あ、でも……」

 静江は集団訴訟が途中で和解にもっていかれる予定路線であることを思い出してトーンを落とした。

「でも、何ですか?」

「ううん、何でもない。やっぱり男一人は、ちょっと、お兄ちゃんが嫌がるかな、って」

「かもしれませんね」

 夕食を食べ終えた陽湖はベッドに寝転がる。静江は立ち上がった。

「寝ちゃう前にお風呂にしよ。先、入っていい?」

「どうぞぉ」

「いっしょに入ろうなんて言わないでよね」

「それはシスター鮎美ですよ」

 疲れていた陽湖は静江が揚がってくるまでに眠ってしまった。

 

 

 

 翌2月17日木曜朝、ホテルの客室で静江と陽湖は昨日と同じ下着を使うことに抵抗を覚えつつも諦めて着た。鮎美は会計処理を厳しくしてほしいと言っているので、コンビニで自分たちの下着を買って計上するのは遠慮している。少し汗の匂いがする下着を我慢して、パンツスーツと制服も着る。

「泊まる予定ではなかったし、これからどうする? いっそ遊びに行くのダメかしら?」

「え~……東京事務所は大忙しだし、シスター鮎美も選挙応援を頑張ってるのに、私たち二人だけですか?」

「やっぱりダメよね。せめて、美味しいランチを食べて帰りましょう」

 静江はレストランの予約をしてから午前中の予定を考える。

「昨日、面談で聴取したことをまとめるのは地元に帰ってからの方がいいし」

「東京事務所を手伝うのはどうですか?」

「それ、今夜も帰れなくなりそう」

「ですね」

 予定が決まらず、とりあえずホテルで食べ放題の朝食をとり、外に出た。

「う~……寒い…」

「東京の方が暖かいとはいえ、寒いですね」

「目的もなく歩き回るには、つらい気候ね」

 歩いていると寒いので目的もなく電車に乗った。なんとなく品川駅で降り、スマートフォンで検索した有名なクレープ店で一つ買って二人でシェアする。

「たまには、こういうのんびりした時間もいいものね」

「東京って誰も彼も忙しそうです。道路も、だいたい渋滞してますし」

 陽湖が車で混雑した道路を眺める。

「これは、たぶん流れてるレベルで、渋滞って思ってないかな、東京のドライバーは」

「そうなんですか……私、ここで運転しろって言われたらパニックになりそうです」

「首都高は、もっとすごいよぉ」

 二人がクレープを食べながら話していると、大きなトラックが動き、その向こうに隠れていた畑母神の選挙カーが見えた。一瞬、静江は背中を向けて顔を隠そうかと思ったけれど、この時間は鮎美は国会にいるはずなので観察することにした。今は畑母神と水田が乗っているようでチラリと見えた。

「よかった。こんなとこ、芹沢先生に見られたら、ドスの効いた関西弁で、ええ身分やね、静江はん、クレープ美味しそうやね、とか言われそう」

「シスター鮎美は、そんな厭味、言わないですよ」

「何にしても、昨日の嫌なセクハラ話は忘れて、息抜きして帰ろう」

「そうですね」

 静江と陽湖は白金台を少し散策して、予約したレストランで昼食をとる。ゆっくり食べていると、見知らぬ中年女性たちに声をかけられた。

「もしかして、鮎美ちゃんですか?」

「あ、いえ、違います」

 陽湖は制服を着て議院記章を着けているし、六角市内では珍しくない制服でも、都内では今現在3人しか着ていないので間違えられるのも無理なかった。否定すると、陽湖のツインテールにした髪を見て言ってくる。

「鷹姫ちゃん?」

「いえ、私は秘書補佐の月谷陽湖です。これからも、芹沢鮎美をよろしくお願いします」

 陽湖が立って頭をさげると、女性たちは握手とサイン、記念撮影を求めてきた。

「え、いえ、私は秘書補佐ですから」

 それでも欲しいと言われ、静江と相談してから応じた。中断した食事を再開したけれど、さらに3回、声をかけられて、あまり食べた気がしなかった。

「はぁぁ……びっくりした。私にまでサインや撮影を求めてくるなんて…」

「だんだん、アイドルグループみたいに考えてるのかもね。私は除外みたいだけど」

「そろそろ帰りませんか。また囲まれると疲れますし」

「そうね」

 品川駅から新幹線に乗った。井伊駅で降りて駅前スーパーで陽湖は食料品を買い、静江が車で琵琶湖岸の港まで陽湖を送った。

「お疲れ様」

「お疲れ様です」

 静江と別れて陽湖は連絡船に乗り、島に渡る。まだ早い時間だったので玄次郎は仕事から帰っておらず美恋だけが家にいた。つわりが激しいらしく布団に寝ている。

「ただいま、戻りました。シスター美恋、何か作りましょうか?」

「あ…おかえりなさい。…ううん……何も要らない……お水だけ、湯冷ましのを、ちょうだい。ヤカンにあるから」

「はい、少し温めますね」

 陽湖は微温水を妊婦へ与えると、台所を観察した。昨夜は陽湖が帰宅しないことを見越して玄次郎が弁当屋の弁当を二つ買ってきたようで、その箱がゴミ袋に入っている。そして、朝食は玄次郎が目玉焼きを作ったようで、美恋の分が半分以上、皿に残っていた。

「シチューと肉じゃがなら、どちらが食べられそうですか?」

「……ごめんなさい……何も要らないわ……」

「二つとも作ってみますね。そういう材料を買ってきましたから」

「…ありがとう……シスター陽湖がいてくれて、本当に助かるわ」

「神は必要なところに必要な者を召し使わされます。きっと、シスター鮎美が東京で頑張っているのも、そうですよ」

 陽湖は換気扇を回してから夕食を作り始める。出来上がる頃に玄次郎が帰ってきた。

「ただいま」

「「おかえりなさい」」

「おお、我が愛しの娘よ」

 玄次郎がエプロン姿の陽湖を拝む。三人での団欒となった。つわりが続く美恋も薄味に作られたシチューは少し食べることができた。美恋は両手で慈しむように下腹部を撫でて声をかけている。

「ママから栄養がいきますよ。大きくなってね。美味しい? 優しいお姉ちゃんが作ってくれたの。あなたが女の子だったら、一字いただいて湖恋(ここ)ってお名前にしますね」

「「………」」

「男の子で鯉次郎(こいじろう)はイヤですよねぇ。パパには、もう少し考えてもらいましょうね」

「はははは」

 笑いながら玄次郎がテレビをつけると鮎美が映った。

「もう一人の娘は遠くに行ったままだな」

「今週末には投開票ですから帰ってきますよ」

「いや、日曜の夜まで選挙事務所にいて月曜には国会だろう。早くて来週の週末だな」

「あ…そうなりますね…」

「本当に娘が入れ替わったみたいだ。にしても、国会議員というのは忙しいものだな」

「そうですね、ここまで拘束時間が長いなんて」

「鮎美の顔、テレビで見ている方が多い」

「秘書補佐の私でも、地元事務所メインなので、そうかもしれません」

「鮎美、疲れて倒れないといいが……」

「昨日、お見かけしたときは元気そうでしたよ」

「そうか、よかった」

 微笑んだ玄次郎は立ち上がって風呂の用意をした。湯が溜まった頃に陽湖へ声をかける。

「女の子から、お先にどうぞ」

「すみません。ありがとうございます」

 夕食の後片付けをした陽湖は入浴する。脱衣所で全裸になり鏡で両腋を見る。毛が1センチ近く伸びてきている。

「……そろそろ剃っておこうかな……肌も荒れてないし…」

 真冬なので誰かに見られる機会は極端に少ないけれど、女子として整えておきたかった。洗い場に立ってシャワーで身体を流していると、寒さもあって小便がしたくなる。

「………」

 わざわざトイレに行くことはせず、シャワーの音と流れに隠して、そのまま済ませた。身体を洗い、一度、湯船で温まると、腋を剃るために洗い場の湯椅子に座る。肌の荒れ具合を確かめるために、右腕をあげ、左手指先で右腋を撫でた。

「うん、大丈夫そう」

 肌はなめらかで荒れていない。荒れているときに無理して剃ると、翌日とても嫌な匂いを発するので強く気にかけている。自分用のカミソリで、ゆっくりと肌を傷つけないように剃った。左右とも剃り終わってシャワーで流して身体を温め、髪を洗って脱衣所に出た。

「見せる機会はないけど、やっぱり、ちゃんとしてないと」

 鏡の前で両腕をあげてみて、剃り残しがないか確認した。去年までは夏場でも剃れないことが多くてコンプレックスだったので、今は美しく整えられたのが嬉しい。全身の肌もアトピーが治り、円形脱毛症も桧田川のおかげで治りつつある。治療費は7万円しか請求されなかった。

「………あのお金、どうしよう……寄付……でも……」

 示談金として300万円もらったので293万円が手元にあり、この大半を教団へ寄付しようと考えたものの、そうなると大金の出所を屋城に説明しないといけなくなるかもしれない。セクハラを受けて身体を触られたことは永遠に黙っておきたかった。教義で嘘は禁じられているけれど、沈黙は禁止されていない。

「そろそろ揚がらないと」

 パジャマを着て居間に出る。

「お先です。どうぞ」

 次に美恋が入浴する。パジャマ姿で玄次郎と二人きりでいるのは少し抵抗があるので二階へあがらせてもらう。階段あがって、すぐの鮎美の部屋は長く本人が不在で冷え切っている。その隣室に住まわせてもらっていて、玄次郎が自分の部屋を暖めるついでに暖房をつけておいてくれたようで入室すると暖かかった。人のいない部屋を事前に暖めておくというのは、とても贅沢に感じるけれど、とても心地いい。そして部屋は造りが狭く天井も低いので冷暖房が効きやすい。乳液を肌につけてから布団に潜り込んで女子高生らしくスマートフォンをチェックすると、鐘留から電話がほしいとメールが入っていた。

「もしもし、私です」

「ハーイ♪」

「どうかしましたか?」

「ううん、何も」

「……」

「だって淋しいじゃん。アユミン超忙しそうだし、月ちゃんならヒマかなって」

「あなただって与えられた仕事があって大変なんじゃないですか?」

「うーん……まあね、シオちゃんから回される仕事があるけど、重要な国とのやり取りは全部、シオちゃんがやるし。アタシに回ってくるのは、どうでもいい国ばっかだよ」

「どうでもいい国なんて無いですよ」

「あるある、アフリカの聞いたこと無い国とか、人口10万人くらいでそれって国じゃなくて街じゃねって国家とか。そういう国と英語でやり取りしてるんだけどさ、向こうも母国語じゃないから文法が間違ってたり、スペルが違うこともあるんだよね。明らかにAI翻訳ソフトで変換しただけの変な英語で送られてきたりするし」

「それは大変そうですね」

「しかも、国によっては大臣がバカだったりするよ」

「そんなことはないでしょう。一国の大臣となれば、それなりの人物があてられているのでは?」

「ひどいと大統領の息子ってだけで、すごいバカが大臣だったりする。しかも、そういうバカに限ってアユミンに会いたいとか下手な英語でメールしてくるし、アユミン忙しくて無理って断るとアタシでもいいからとか。アタシらの写真を見て言ってる感じ。お前、日本に何しに来る気だよっての」

「加賀田知事が言ってらした腐敗国家ですね。そういう国は一部の王族や支配層が富を独占しているから、連合インフレ税には参加しない可能性が高いらしいですよ。むしろ、その一国そのものが、お金持ちファミリーの一家みたいなものだからって」

「アタシ、学校にいるときは自分ちが一番お金持ちって気分だったけど、上には上がいるって思い知ったよ」

「………。そういうものの見方ばかりするんですね……」

「ま、アユミンが考えた連合インフレ税は参加しなくても主要通貨の価値が下がれば逃げられないもんね」

「シスター鮎美、あの人は歴史に名が残るかもしれません……私たちは、そんな人のもとで手伝いをしていて……光栄なことです」

「なに、宮ちゃんみたいなこと言ってるの?」

「神の救いのときが来るまで、地上は原罪による苦しみに満ちています。けれど、少しでも良い方向にしようとする努力を、きっと神は見ておいでです」

「……。また、始まった」

「神はすべてを知り、すべてを見ておいでです」

「うん、うん、きっとアタシとアユミンがエッチしてた夜も見てたし、これからアユミンが、どんな人と、どんなエッチをしていくかも、全知全能なんだろうね。アユミンはエロエロだし、全痴全力ってモードになるときあるよ。前戯全力かな? きゃははは!」

「………」

「アユミンのエッチ相手も興味あるけど、神さまは月ちゃんの初エッチの相手も知ってるんだろうね。祈って訊いてみたら?」

「っ…へ、変なことを言わないでください」

「きゃはは♪ 月ちゃんは神さまの初エッチの相手、知ってる?」

「知りません。神を冒涜しないでください!」

「正解はマリアさんでーす」

「あ、あれは、処女受胎です」

「いやいや、普通に考えて、聖書を信じたら、神がパパでしょ。まさに父なる神」

「そういう意味じゃありません!」

「っていうか、神さまって、チンチンあるのかな?」

「ありません!」

「見たの?」

「見てません!」

「これも聖書を、そのまま読むと、絶対、神さまにチンチンあるよ。創世記1の27そうして神は人をご自分の像(かたち)に創造してゆき、神の像にこれを創造された」

「………今、聖書が手元に?」

「うん、久しぶりに開いた」

「では、せっかくですから就寝前の祈りを、いっしょに行いませんか?」

「ヤダ♪」

「………」

「でも、もう少し神さまのこと訊きたい」

「どんなことですか?」

「神さまって、服は着てるの? それともフルチン?」

「そういう質問には答えません」

「じゃあ、神さまって、ご飯は食べるの? オシッコしたり、ウンチは?」

「………」

「人を自分のかたちに似せて創ったなら、神さまにもアバラ骨はあるし、歯もあるよね。歯があるのに食べないのは変だし、お尻の穴もあるよね。神さまがホモじゃないなら、穴は何のためにあるのかな?」

「……」

「っていうか、神さま、ホモじゃね? 女は後で創ってるし」

「………もう少し、まともな質問がないなら、もう切ります」

「じゃあ、神さまって、空は飛べる?」

「世界の全地に自在においでになります」

「空中浮遊だね♪ そのときはアグラかいて飛ぶ?」

「……………」

「きっと、神さまもアクビしたり、オシッコしたりするんだろうね。ベースが人間だし、ってことはGHQがさせた天皇の人間宣言といっしょで、神さまも人間宣言だね、しかも創世記で速攻に」

「神がお姿がどれほど人間の姿に近いかは、長く神学上の命題になっています。その答えに近づきたいなら、まずは聖書をすべて読み切ってみてください」

「よく、それ言うけど、聖書もコーランもダラダラ長いよね。なんかもう読んでない人を煙に巻くためみたいに」

「コーランは知りませんが、聖書は真実の書です」

「我々こそが真実、我々こそが正義、ですか。ふぁぁぁ……もう眠いし、じゃあね。からかって、ごめんね。楽しかった、またね」

 鐘留が電話を切った。

「謝るくらいなら………シスター鐘留、あなたも迷える子羊です。どうか、あなたにも安らぎが訪れますように。アーメン」

 陽湖は祈ってから眠った。

 

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