第29話 1月15日 詩織の動き

 翌1月15日の土曜日、桧田川は清潔な白衣とマスクを身につけると、鮎美のいる特別病室に食事トレーを持って入る。あいかわらず病室の前には2名のSPが立っていて、6人チーム3交替で24時間、鮎美を警護していた。病室に入った桧田川はビニールのカーテンを開けると、ベッドサイドのテーブルにトレーを置き、真上を向いている鮎美の視野に自分が見えるよう覗き込む。

「いい感じに治ってきてるよ。さ、芹沢さん、五日ぶりの食事です。お粥だけど、きっと美味しいよ」

「……」

 鮎美は返事をしなかったけれど、唾液が口の中に湧いたので、それを飲み込んだ。その喉の動きが桧田川にも、よくわかる。

「あと声も少しなら出していいよ。できるだけスイッチで返事をしてほしいけど、穏やかに少し話すくらいならOK」

「……」

 鮎美は頷きつつスイッチを1回押した。桧田川は傷口の様子を見ながら、食事のために鮎美が寝ているベッドを電動で起こしていく。お腹の皮に皺がよらないギリギリまで鮎美の上体を起こした。

「では、ご飯の前に注意事項。五日ぶりだから、物を飲み込む力も弱まっています。うっかり気管に入って噎せたりされると、傷に触るから、ゆっくり焦らず飲み込んでね。ただのお粥だけど、かなり美味しく感じるから」

「……」

 また鮎美が唾液を飲み込んだ。食事トレーには蓋もされていて、ほとんど匂いは立ち上っていないのに、嗅覚が強く米の香りを感じている。

「では、いただきますは省略して、一口目、どうぞ」

 桧田川は匙で粥を掬うと、鮎美の口へ運んだ。

「……っ…」

 粥を口にした鮎美は舌から口全体に痺れるような快感を覚えた。その快感は頬や喉、胸にも拡がり、背筋を流れて脳に響いてきた。

「…ああぁ……美味しい…」

 心から声を漏らして、そして涙を零した。

「やっぱり泣くよね。この療法をやった患者さんは、ほぼ必ず一口目で泣くから」

 予想していた桧田川はナプキンで鮎美の涙を拭いた。

「すぐに二口目が欲しいと思うけど、ゆっくり、ゆっくりね」

 桧田川が少し間をおいてから二口目を食べさせてくれる。また、強烈な快感の痺れを覚えたけれど、それは一口目の半分くらいで、もう泣くことはなかった。

「代弁してあげる。ただのお粥が、こんなに美味しいものだと思わなかった。そうでしょ?」

「……」

 鮎美が頷いた。

「あらゆる生き物、光合成をしない生き物にとって、食事は何よりも大切だから。雄雌のない生き物だってそうだから、食べることは基本中の基本。きっと、光合成をする植物たちは私たちの何百倍も、日光を気持ちよく感じるでしょうね。私たちが嫌がる夏の直射日光だって、最高の快感なのかも」

 真冬の病室で鮎美は真夏の緑を思い出した。ゆっくりと食事をさせるために桧田川は話ながら、食べさせていく。鮎美は何度も口の中に湧いた唾液を飲み込みながら三口目を待った。それを食べさせてもらうと、また涙が滲んだ。

「……美味しいです……とても……あぁぁ…」

「私たち今の日本人は3食、普通に食べられるから、ほとんど感動しないでスマフォ見ながら食べちゃったりするけど、戦争中は大変だったらしいよ。ちょっと昔話をするね。私のお爺ちゃんの話」

 ゆっくり食べさせながら桧田川が語る。

「母方のお爺ちゃんは、けっこう運が良かった。赤紙っていうのかな、いよいよ兵隊になりなさいって命令が学生だったお爺ちゃんに来た。あの当時の人だから、覚悟を決めて集合場所に行った。海軍に配属されたらしいよ。福井県の敦賀から掃海艇の乗組員として出発して、一路、太平洋を目指した。ぐるっと本州の北側を回って津軽海峡から太平洋に抜け、アメリカ軍と戦う予定だった。もう大和も沈んで、何度も空襲されてる時期だったけど、日本海側は、それほど危険じゃなかったらしいよ。でも、ただの学生だったのに、いきなり兵隊になれってさ、ただの女子高生が、いきなり議員っていうのに少し似てるよね。実際、刺されるくらい危ない仕事なわけだし」

「……」

「安全な日本海側から、津軽海峡に入って明日にも太平洋ってとき、天皇の玉音放送があった。そこで終戦、お爺ちゃんは助かった。けど、そこから自力で、青森県から、こっちまで帰ってくるのは大変だったらしいよ。掃海艇に積んでた食料を交通費にしたりしてね。最後まで家族のために残しておきたかった牛缶、牛の肉の缶詰ね、それを手放した話、何度も何度もしてくれたよ。それだけ心残りだったんだろうね」

「……」

 鮎美のお腹がキューと泣いた。

「あ、ごめんね。お肉のこと思い出した? また、3時間後には卵入りのお粥を食べさせてあげるし、明日にはお肉も出るよ」

 また鮎美が唾液を飲み込む。もともと少なかったお粥は、ゆっくり食べさせてもらっていても、もう残り少ない。

「父方のお爺ちゃんは、ちょっと運が悪かった。学年の関係で、ほんの一年だけ早く兵隊に行っていて配属されたのは南洋諸島、ジャングルの中、敵との戦闘より飢えとの戦い。補給は来ない。食べる物がない。仕方なく現地調達するんだけど、ジャングルって毒をもった生き物が多いのに、その知識がない。何人も有毒生物を食べて死んでしまったらしいよ。そのうち、どれが危ないか、わかるようになるのに、あまりに飢えてくると、動く物がすべて食べたくなるんだって。ムカデとかの気持ち悪い生き物まで、見てるとヨダレが出るくらいに」

「………」

 鮎美は桧田川が持っている粥の器へ視線を落とした。あと一口で終わりだった。

「死にそうな飢えの中、考えるのは食べ物のことばっかりだったって。鍋焼きうどん、卵の入った鍋焼きうどんが食べたい、それ食べたら、もう死んでもいい、ってくらいに。でも、飢え死にする前に終戦になった。まあ、私が存在してるわけだから、二人のお爺ちゃんが生きて帰ってるのは、読める話だけどさ。今でも、お爺ちゃんたち、鍋焼きうどんに卵三つも入れたり、あんまり美味しくないのに牛の缶詰を買ってくるよ。タンパク質を摂るのは長生きの秘訣ではあるけどね。はい、おしまい、ごちそうさま」

「……ごちそうさまです」

 代弁してもらったけれど、鮎美は声に出して言った。桧田川はベッドを水平に戻すとモニター室へ戻り、しばらく他の仕事をする。二時間ほどして、詩織が東京から面会に来た。モニター越しに顔を合わせると、詩織が泣いた。

「…鮎美先生……本当に無事でよかった…」

「……。ありがとうな…」

「もう、声を出していいのですか?」

「………少しだけ……」

 鮎美は泣かれるのが気恥ずかしいので、話題を変える。

「…東京は、どう? …業務連絡は?」

「……。そんなことより、言っておくことがあります」

「……?」

「愛しています、芹沢鮎美さん、私と結婚してください」

「っ…」

「ブホッ! ゴホッ!」

 もう鮎美が食事可能になったのでモニター室の隅、カメラの死角でドーナツを食べていた桧田川が盛大に噎せた。それから詩織を足元から顔まで見つめ、とくに股間や胸を見た。どう見ても女性で、整形手術の痕跡は感じない。

「結婚してください、鮎美」

「……まだ、法は認めてないと思うけど?」

「憲法が認めています」

「………いつ改憲されたん? うちが入院してる間に?」

「第24条で、婚姻は合意のみに基づいて成立します。プロポーズにイエスがあれば、そこで成立です。気持ちだけで十分です。手続きはオマケです」

「……両性の合意やったよね?」

「その条文は人権侵害なので失効します」

「9条なみの解釈やん」

「芹沢さん、あまり調子に乗って会話しないでください。話したい気持ちはわかりますし、とんでもない話題ですけど……あの、立ち入ったことを訊きますが、牧田さんは男なんですか?」

「いいえ、女性です。バイです」

 詩織が堂々と答えたので、逆に桧田川がたじろぐ。

「そ…そうなんだ…それは……そうだよね…」

「桧田川先生は?」

 すでに詩織は一目見たときから、桧田川が虹色のバッチを着けているのに気づいていて問うた。

「う、ううん。これは着けてるだけ。運動に賛同してるから。私自身はノーマルだよ」

「そうですか、ありがとうございます」

「………。あの、前からバイの人に訊いてみたいことがあったんだけど、いい?」

「どうぞ」

「男性も好きになるんだよね?」

「ええ」

「それなら、男性と結婚すればいいんじゃないの?」

「………。逆に問います。好きになった男性がいるのに、親からお見合いを勧められたとき、はいそうですかと好きな人を忘れて、お見合い結婚しますか?」

「うっ………なるほど……そういう気持ちか………それは……そうだよね……忘れられないよね。ごめんなさい、余計なことを訊いて……大切なプロポーズに水を差してしまって……」

「いえ」

 詩織は鮎美へ向かって再び求婚する。

「鮎美が好きです。あの日、鮎美が刺されて搬送されたとニュースで見たとき、頭が真っ白になるほど絶望しました」

「「………」」

「もう世界は闇だと思うほどの絶望です。けれど、生きていてくれた。でも、人間、いつ死ぬかわからない、だから、今すぐ、あなたが欲しい。好きです、大好きです、鮎美、私と結婚してください。気持ちの上だけでいいんです、同居がなくてもいい、セックスもゆっくりで、ただ、心だけ、あなたとつながりたい」

 そう言って詩織が涙を零すと、鮎美の心拍数があがっていくのがモニタリングで、はっきりとわかる。

「……牧田はん……」

「詩織と呼んでください」

「………」

「鮎美に他に好きな人がいるのは、わかっています。ゆっくり待つつもりでした。けれど、人生の時間が、いつ終わるかわからないことは体験しました。だから、言います。愛しています、鮎美、大好きです。鮎美を抱きしめて、キスをしたい、ずっと二人で過ごしたい、だから、心で結婚してください」

「………」

 熱意のこもった年上からの告白を受けて、鮎美は顔を赤くして心拍数を警告音が鳴るほどあげている。鮎美のいる病室にも心拍モニターはあるので自分が胸を高鳴らせていることが誤魔化しようのない数字として見せつけられている。逃げたくても逃げられず、赤くなった顔を手で隠すこともできない。瞳が潤んで落ちつきなく動き回っていた。その反応で鮎美が同性愛者であることに桧田川も気づいた。普通なら同性から熱い告白を受ければ極度に困惑するのに、鮎美の反応は普通の女子が男子から告白を受けたときのようなもので、少なくとも鮎美もバイかレズビアンだと感じた。そして、桧田川は救急搬送されてきたとき鮎美から脱がせた制服の内ポケットに自分が着けているのと同じバッチがあるのに気づいていた。同僚医師や看護師たちは桧田川が着けていてさえ、気にしていないので鮎美が着けていたつけていたことに気づきもしていない。けれど、桧田川には内側に着ける意味を察することができた。

「芹沢さんも、……」

「あなたには守秘義務がありますよね?」

 詩織が確認するように鮎美のために言った。

「……ええ、絶対に漏らしはしないから安心してください」

 その言葉を聞いてから、再び詩織は鮎美へ求める。

「鮎美、好きです。結婚しましょう」

「……ハァ……」

 鮎美が熱い吐息を漏らして涙を零した。明らかに迷ってくれている。まったく同性愛の指向がない鷹姫と、自分を好きでいてくれるバイの詩織、その天秤が葛藤している。

「……う…うちは……、……」

 もう心拍数だけでなく、皮膚の発汗が好ましくないほど高まったので桧田川が水を差したくないけれど、水を差すことにした。

「ごめんなさい。これ以上は芹沢さんを興奮させないでください。発汗が進むと、せっかく一度も化膿していないのに細菌感染が起こります」

「…………」

 詩織が口をつぐんだ。そして成熟した両性愛者として穏やかに微笑む。

「惜しいですけれど、話題を変えます」

 詩織がカバンからタブレットを出して予定を告げる。

「国会の開会式まで、あと十日を切りましたが、前日に退院して東京入りしてもらうことは予定通り可能でしょうか?」

「……それは、そっちの先生の方に訊いてやってよ」

「はい、今の調子なら可能です。できれば、歩行は控えて車イスにしていただきたいですけれど」

「車イスですか……開会式では登壇、つまり階段を登らねばなりません……」

「短時間なら大丈夫ですよ」

「よかった。あと、これは谷柿総裁から問われたのですが、もしも可能なら前日の23日に行われている自眠党大会へ、少しでも顔を出せないか、できれば集合写真には入ってほしい、とのことです」

「谷柿先生がわざわざ……、できれば、そうしたいけど……桧田川先生、どうですか?」

「別に新幹線の座席に座ってるのも、車イスも変わらないから、いいですよ。要するに走ったり跳んだりは控えて、ヨボヨボとお年寄りのように静かに歩いてほしいということです。でも、痒くなったり痛くなったりしたら、すぐに安静にして抗生物質を投与したいんだけどなぁ…」

 桧田川が退院直後の遠出を医師として推奨できない顔になっていると、詩織が頼む。

「桧田川先生に東京まで主治医として同伴をお願いすることはできますか?」

「……う~ん……別料金を取っていいなら一日25万円で引き受けます」

「では、お願いします。それは経費で落としますし、いずれ加害者へ求償すると思いますから。あと、すでに鮎美先生の口座から病院へ支払われている216万円も、高い可能性で補填されるはずです」

「……そうなんや……相手の親に……」

「私の治療は自由診療の中でも、かなり高価ですよ。おそらく交通事故の保険であっても損保会社が拒否するような金額です。東京への同伴も、私は不当とは思っていませんけれど、不当に高いと言われると反論に困るかもしれません」

「ご心配なく、そのあたりの話は秘書の石永が加害者両親と進めています」

「そうですか」

「先生は治療に専念してください。どれだけ高価になってもかまいません」

「愛のあるセリフですね♪」

 桧田川は詩織を応援したくなったので、二度目の食事時刻まで面会を許して、食事介助を詩織にさせることにした。

「はーい、食事の時間でーす」

 一度、桧田川だけが病室に入ると、専用の金属格子で腹部にシーツが触れないようにしてからシーツをかけて、鮎美が恥ずかしい思いをしなくて済むように配慮してから、詩織の入室を許した。卵入りの粥を詩織が嬉しそうに鮎美の口元へ運ぶ。

「はい、あーん、して♪」

「……」

 恥ずかしそうに鮎美が食べる。鮎美の胃が食物を消化吸収することを思い出して何度も鳴くので余計に恥ずかしかった。詩織は指示された通りに、ゆっくりと食べさせ、食事介助を満喫すると、食後にねだった。

「キスさせてください」

「……」

「先生、問題は無いですよね?」

 今は傷口へシーツをかけているので詩織も桧田川もマスクはしていない。そろそろ無菌状態の維持も必要度が低下しているし、もともと人間の口内は患者本人も雑菌だらけなのでキスに問題はなかった。

「ええ、キスくらいならいいですよ」

「ですって」

「………」

 鮎美は答えず、スイッチも押さない。詩織が言い募る。

「とっても心配したんですよ。なのに私は東京にいて何もできない」

「……それは……ごめんやけど……」

「一度だけ、お願いです!」

「………」

「人間、いつ死ぬか、わからないじゃないですか、今、この瞬間が私たちの一期一会かもしれない」

「………」

 鮎美の瞳が考え込む色合いになって、詩織の唇を見上げる。

「………」

「………」

 願い乞う詩織の瞳と見つめ合い、鮎美はスイッチも押さず、言葉も発しなかった。それを詩織は肯定を受け取り、顔を近づける。鮎美は動くこともできないけれど、逃げる素振りも無かった。

「……」

「……」

 そっと詩織は鮎美へ口づけしたけれど、すぐには終わらず長いキスをする。

「「…………」」

 長いキスを続けて、さらに詩織は舌先を鮎美の口内へ入れた。

「っ…」

 いきなりディープキスなん? そこまで許した覚えはないのに、と鮎美は閉じていた瞼を開き、抗議の目で見上げたけれど、間近に見た詩織の閉じた瞼が涙で濡れていたので、受け入れた。

「「…………………………」」

「………うわぁ………」

 そばで見てる桧田川まで興奮が伝染して頬が赤くなるような情熱的なディープキスで、しかも長い。

「「…………ハァ…」」

 息苦しくなっても詩織は終わらずにキスを続け、舌をからめて吸った。逃げられない鮎美はされるがままキスを続けられ、だんだんに興奮してくる。もともとベッドに縛りつけられて刺激の少ない生活だったところへ、詩織の唇と舌の感触は人恋しさも手伝って、一口目の粥を食べたときと同じような強烈な快感になってくる。いつまでもやめない詩織を止めたのは、またも警告音とドクターストップだった。

「はい、そこまで。そろそろシーツの中も蒸れるから、牧田さんは部屋を出てください」

「……はい……、ありがとう、鮎美」

「………」

 鮎美は恥ずかしそうに目をそらした。その顔は赤くて、まだ心拍数は警告域まで高鳴っている。詩織が退室すると、桧田川はシーツと金属格子をのけ、また鮎美の下腹部を空気に晒した。

「あんなに熱いキス、初めてみたよ」

「………」

「濡れちゃってたりして」

 桧田川が鮎美の下腹部にある傷口を観察しながら言った。鮎美が真っ赤なって恥じらう。

「っ…、ぃ、…今のは明らかにセクハラ発言ですよ!」

「あ……そうね。ごめんなさい。失言でした、忘れてください」

 謝ってから桧田川は退室して、廊下で詩織に出会うと微笑みながら言った。

「ほぼ落ちたね」

「遠距離恋愛ですから、わかりません。けれど、国会が始まってくれれば、平日は毎日、会えます」

「頑張ってね。けど、入院中は首から下には何もしないでよ」

「はい」

 涼やかに微笑んだ詩織は介式たちにも会釈して病院を出る。病院の敷地外ではマスコミが待機しているので病院前で客待ちをしていたタクシーに乗って六角駅前のビジネスホテルに向かった。よく鮎美たちも利用している高すぎず安すぎないホテルにチェックインして荷物を置き、鮎美との面会結果を静江にメールすると、赤いスーツに着替えて、上から目立たない灰色のコートを羽織ると、地毛をまとめてから黒髪のウィッグを着けた。

「はぁ……やっぱり情熱を持て余しますね……」

 熱い吐息を漏らしてホテルを出ると、六角駅構内を通り過ぎて反対側にあるショッピングセンターに入り、釣り具専門店で釣り竿と糸、アイスボックスを買い、別の階にあるスポーツ店で5キロのダンベルを二つ買って、女子トイレの中でダンベルをアイスボックスに入れ込むと、六角駅に戻り、在来線で大阪に向かう。大阪の街中にある高級車専門レンタカー店でベンツを借りるときはドイツで作ってもらった偽の身分証明書と国際運転免許証を出し、いつもは右手で書字するのに、本当の利き手である左手でレンタル契約書にサインし、ベンツで難波まで移動すると、地下鉄の駅で若い女性に声をかける。

「一晩で30万円のバイトしませんか。本番ありで」

 声をかける相手は選んでいる。だいたいは、これから出勤する風俗嬢か、お金に困っていそうな女子学生だった。詩織が女性なので、あまり怪しまれず話を聞いてくれ、7人目の鮎美によく似た風俗店へ出勤する前の女子大生が頷いてくれた。その場で出勤予定の店には体調不良で欠勤と連絡を入れてもらい、ベンツに乗せた。

「あなたの名前は、今夜はアユミということでお願いします」

「わかりました」

 風俗業をやっていると名前はコロコロ変わるので気にせずアユミは頷いた。

「アユミさん、夕飯は?」

「まだです。お店に着く前に、どこかで食べるつもりだったから」

「お相手していただくのは、かなり身分と立場のある人です。お腹を鳴らされても困るので、どこかに寄りますね。その前に携帯電話などの電源は切ってもらえますか。マナーモードではなく、電源をオフに。とても注文のうるさい方なので、お願いします」

「わかりました」

 アユミが電源を切るのを、詩織はしっかりと確認してから次の注文をする。

「あと、関西弁は話せますか?」

「そりゃあ、中学から大阪に住んでますし」

「それ以前は?」

「四国です。これ以上の個人情報は言いませんよ」

「今からは、丁寧語でなく関西弁で話してください。ちょっと可愛くないくらい、きつい感じで」

「えっと……こんな感じでええんやろか?」

「そうそう。あと、これに着替えてください」

 詩織は難波駅近くのホテル駐車場で琵琶湖姉妹学園の冬制服をアユミに見せた。制服プレイは風俗としては定番なのでアユミは車内で着替えた。

「アユミ、夕飯は何が食べたいですか? 洋食、中華?」

「なんでもええよ」

「では洋食にしましょう」

 詩織とアユミはエレベーターで上層階のレストランへ向かった。エレベーター内の鏡でアユミは自分の制服姿を見て、思い出した。

「これ、芹沢鮎美のコスプレ?」

「やっぱり、わかりますか」

「ってことは、身分のある人って国会議員さんとか? 本物の鮎美ちゃんにエロいことできないから、うちを代わりに?」

「フフ、詮索はやめましょう」

「そやね。うちはお金さえもらえたら、ほんでええわ」

 二人でレストランに入り、難波の夜景を見下ろしながらフレンチを楽しんだ。

「こんな高そうな店、うち初めてやわ」

「本物の鮎美は、もうホテルのレストランくらい平然としているでしょうね」

「あの子、運がええなぁ。国会議員って何百万ももらえるんやろ?」

「660万円らしいですよ」

「けど、刺されるんは勘弁やわ。かわいそうに超逆恨みやん。ずっと入院してはるらしいけど、もうあかんのやろか?」

「どうでしょうね」

「人のやっかみって怖いもんやし、こうやってエロい対象にもされるし。まあ、そのおかげで、うちは稼げるんやけどね。ああ、美味しかった。ごちそうさま」

 食べ終わったアユミと詩織はベンツに戻り、詩織の運転で阪神高速から神戸に向かい、さらに明石海峡大橋を渡る。詩織が助手席にいるアユミへ目隠しを差し出した。

「場所を特定されないため、ここから先は目隠ししていてください」

「えらい本格的やね。ちょっと怖いわ」

「フフ、目隠しをされるということは、逆に無事に帰してもらえるということですよ。他言無用のためです、どうぞ、ご理解ください」

「そ…そやね…ほな…」

 アユミは30万円欲しさに目隠しをした。そろそろ月経が来るタイミングなので今夜なら避妊無しでも大丈夫という計算もあった。詩織は淡路島を少し走ると、北淡インターで高速をおり、海沿いを南西へ3キロほど走って、右は海、左は山という何もないところに停車した。

「どうぞ、目隠しをとってください」

「……」

 周りを見ても、真っ暗なので淡路島のどこかということしかわからない。大阪の街の人の多さに慣れたアユミには無人に感じるほど、人も車も見えない。

「ここなん?」

「はい、海へおりた方に別荘があります」

「ふーん……」

「その前に、私とキスしましょう」

「…ぅっ……薄々感じてたけど、お姉さん、そういう人なん?」

「詩織と呼んでください」

「……詩織……、えっと……うち、そういう経験ないんやけど、詩織とエッチしたら30万円もらえる?」

「ええ」

 詩織が赤いスーツの内ポケットから札束を見せた。それでアユミは気持ちが悪いと思いつつも、酔っぱらった汚い中年男性よりマシかもしれないと、風俗経験から諦める。

「…………いるんやね……こういう人……まあ、ここまで来たら、うちも覚悟を決めるわ。どうぞ」

 アユミが目を閉じたので詩織はキスを始める。キスしながら手をスカートの中にも入れた。しばらく車内での行為を楽しむと、二人でベンツを降りて、海岸に出た。

「別荘なんて、どこにあんの?」

「少し歩きます」

 そう言った詩織は波打ち際までアユミを歩かせると、隠し持っていた出刃包丁をアユミの腹部に突き立てた。

 ザクッ!

 刃先は制服と皮下組織を貫き、腹筋を斬り裂き、小腸を傷だらけにする。

 ズズ!

 さらに下腹部の方へと斬り進めると、子宮と膀胱を割った。

「クゥッ?! …ぅく……」

 悲鳴も出せないような激痛でアユミが両膝を着き、前へ倒れた。

「うっ…あっ…あっ…ヒィ…あっ…」

「板垣死すとも自由は死せず、と言ってみてください」

「ううぅ…ぁ…うぁ…」

「やっぱり無理ですか。では最期のキスを」

 詩織は悶え苦しむアユミとキスをしながら、その子宮を手で引き摺り出した。温かい子宮が外気に触れて湯気をあげる。キスをしているアユミの唇は、どんどんと冷たくなり、もう呼吸もしていない。涙に濡れた瞳も動かなくなった。

「はぁぁ……楽しかった。本番の一発、ありがとう、アユミ」

 もう死んでしまったアユミに礼を言って、詩織は血まみれになった手を制服で拭き、返り血を浴びた赤いスーツの上着を脱ぐと、ゴム手袋をしてベンツに戻り、後部座席に置いてあったコートを着る。トランクから釣り竿とアイスボックスを出し、再び海岸に出るとアユミの死体を全裸にして、血の付いた衣類と所持品はアイスボックスに入れる。アユミの首と片足に5キロのダンベルを釣り糸で固定すると、死体から発生する腐乱ガスが抜けるように出刃包丁でアユミを穴だらけにする。まるで使用済み制汗スプレーの缶へ穴を開けるような淡々とした手つきで隠蔽工作を終え、海岸の離岸流を探して、腿まで冷たい海水に濡れながら死体を海に浸ける。釣り竿で手首に巻きつけた釣り糸を引くことで、より深い沖へ流していく。途中で、あまりに脚が冷たくなったので詩織は小便がしたくなり、手が塞がっていて忙しいので、そのまま海に流した。これ以上は釣り竿では沖へ死体を誘導できないというところまで流した後、出刃包丁で釣り糸を切った。海岸へ戻ると、出刃包丁や濡れたストッキングとショーツもアイスボックスに入れ、砂浜を2回、遺留品がないかチェックしてからベンツに戻った。そこへ夜間パトロール中のパトカーが通りかかり、ベンツのそばに停車して、助手席の警察官が降車せずに車窓から問うてくる。

「ここで何をしているんですか?」

「見てわかりませんか」

 詩織は釣り竿を強調した。

「わかりますけど、そんなカッコで? 女性が一人で?」

「仕事帰りについ衝動的に、ここ釣れそうかなって。好きなことってダメですね。見境無くヤってしまって。うっかり足を濡らしてしまいました」

 詩織は濡れたスカートの裾を搾ることで返り血を隠しつつ、真っ白い腿を警察官によく見えるようにした。それで警察官は目をそらしてくれる。

「女性一人で気をつけてくださいよ。とくに、このあたりは潮の流れが速いから」

「はい、ありがとうございます。もうやめて帰ります。スカートを脱ぎますので、もう行ってもらえますか?」

「お…お気をつけて」

 パトカーが発車して過ぎ去ってくれる。詩織は本当にスカートを脱いでからアイスボックスと釣り竿を積み込むと、すぐに高速道路で大阪へ向かいつつ、途中のサービスエリアで障害者向けトイレに入り、温かい湯で脚を流し、手を洗い、着替えた。

「誰でもトイレって本当に便利ですね。誰でも使える、どんな趣味、指向の人でも。フフ」

 着替えたサービスエリアでは濡れたストッキングとショーツをゴミ箱に捨てたけれど、すべては捨てずに次のサービスエリアで制服のスカートを鋏で切って3分の1だけ捨てる。何度もサービスエリアとパーキングエリアに寄って小分けに証拠品を捨てていく。アユミの血痕がある最後の布きれを捨てる前に、駐車中の車内で自慰を始め、アユミの温かさを思い出しながら、鮎美を想って絶頂した。

 

 

 

 翌1月16日0時過ぎ、詩織は神戸で高速をおりると大阪へ向かう途中のコンビニのゴミ箱にも少しずつ証拠品を捨ててまわり、出刃包丁は橋から淀川へ捨てた。アユミが持っていた電源を切ったままのスマートフォンは折り曲げてから安治川に捨てる。アイスボックスも、よく洗ってから尻無川に釣り竿とともに捨てた。京ゼラドーム付近で邪魔にならないところに駐車すると、日の出が眩しい中、レンタカーに血が付いていないか、しっかりと確認して朝一番に返却した。電車で大阪から六角市へ戻る。一睡もしなかったビジネスホテルの客室でシャワーを浴びてからチェックアウトし、いつもの服装で病院へタクシーで向かった。

「エサの時間には間に合いそう」

「は?」

 タクシーの運転手が問うけれど、詩織は微笑んだ。

「何でもありません。病院前の道路ではなく、ロータリー奥まで入ってください。報道陣がいますから」

「はい、わかりました」

 タクシーを降りてモニター室に行くと、桧田川と美恋、そして日曜日なので玄次郎が面会していた。

「また、明日ね、アユちゃん」

「疲れてるんやったら、もう毎日は来んでええよ。友達も秘書も来てくれるし」

「オレは仕事があるから次の週末……いや、もう退院してるな。まあ、ヒマがあったら来るよ」

「うん、おおきに」

 両親が詩織へ会釈して出て行くと、桧田川が時計を見て言う。

「そろそろ、お昼ご飯だけど、牧田さんが介助してくれる?」

「はいっ」

「っていうか、そのつもりでお昼時に来たよね」

「お見通しですか」

「わかる、わかる、ちょっと待ってね。準備するから」

 桧田川は先に病室へ移って金属格子とシーツで鮎美の下半身を隠すと、モニター室へOKサインを送って詩織を呼ぶ。詩織は食事トレーを持って特別病室に入る。病室前には介式と男性SP1名がいたけれど、何も問われず、詩織は軽い会釈だけして通り過ぎ、鮎美のそばに座った。

「お待たせしました、鮎美先生」

「おおきにな。……なんか疲れた顔してへん? 大丈夫なん?」

「あ…やっぱり、顔に出てますか……夕べ、一睡もできなくて」

「どうしたん?」

「だって、鮎美とキスした後じゃないですか」

「っ……」

 鮎美の心拍数があがる。詩織も赤くなった頬を手で撫でた。

「私、夜になっても眠れなくて」

「………」

「鮎美は私の夢、見てくれました?」

「…………」

 鮎美は黙って赤面しているけれど、鮎美の胃が鳴いて急かした。食べ物の匂いを嗅ぐと、もう胃が騒いで仕方ない。メニューは粥と卵焼き、トマトサラダとリンゴだった。

「あ、ごめんなさい。早く食べたいですよね。はい、あーん、して」

「……。桧田川先生、そろそろ、うち自分の手で食べたいわ。まだ両手を縛られてなあかんの?」

「うん」

「うんって……」

「表面的には、かなり治ってるように見える傷だけど、まだまだうっかり一回でも掻いたら、大変だよ。いいの?」

「……掻かんように気をつけたら……」

「カサブタが治ってくると、ちょっと痒いよね? それを、うっかり掻くのよ。今まで何度失敗したことか。だから、もうダメ! 両手を縛られてると気が狂う! ってくらいなら解除してあげてもいいけど、我慢できるなら我慢して」

「う~……」

「はい、あーん」

「……いただきます…」

 鮎美は恥ずかしそうに詩織に食べさせてもらうけれど、妙な匂いが気になった。

「なんか血の匂いがせぇへん? ちょっと生臭いような」

「っ…」

 詩織が手を引っ込めて、自分の手を見る。何度も洗ったはずなので血は着いていないけれど、鮎美の嗅覚は普段より鋭敏になっているようで確信的だった。詩織は瞬時に言い訳を思いついた。そして、恥ずかしそうに言う。

「夕べ眠れなかったんですよ……興奮して……それで一人で………。ずっと……そうしていたら、生理が始まってることにも、気づかなくて……。も、もちろん、ちゃんと何度も手を洗ったんですよ! でも、ごめんなさい。気持ち悪くて食欲なくなりますよね。こんな汚い手で……」

 詩織が申し訳なさそうに顔を伏せると、鮎美は慌てて言う。

「ええんよ! ほんのちょっと、血の匂いがした気がしただけやから! ええよ、ぜんぜん、女やったら、あることやし。早う食べさせて、お願い」

「………では。はい、あーん」

 食事を再開して、ゆっくりと食べさせ終わると、詩織はキスをしたかったけれど、今回は言い出さずに、あえて鮎美の反応を待つ作戦に出た。鮎美は期待していなくても予想しているはずで、その予想が裏切られたとき、どんな反応をしてくるか、それで今後の戦略を練り直すつもりだったけれど、鮎美は予想外のことを言ってきた。

「朝槍先生との連絡って取れる?」

「え……? あ、はい。当然、連絡先などはわかります」

「うちはな、今回の件での真犯人に、きっちり反省してもらお思うねん」

「……真犯人? 犯人は男子生徒で思想的背景のない単独犯との見方が濃厚らしいですが……。私は一種の快楽殺人だと思いますよ。未遂に終わっているところが実に浅はかですが」

「うちが今から話すことを、朝槍先生に賛同してもらえるか、協力を要請してほしいんよ」

 そう前置きして鮎美は長い臥床生活で考えていたことを詩織に語った。聴き終えた詩織と、傍聴していた桧田川が驚く。

「……さすが、鮎美先生……」

「……すごいこと考える……芹沢さんって、女の鑑かも……」

「タイミング的には国会開会式の後、そこに記者会見をセッティングしてほしいんよ。ただし、名目は退院の挨拶くらいで実質的な内容は隠して。このことは、うちらだけの秘密、静江はんにも黙っておいて。きっと、反対しはるし」

「わかりました。となれば時間がありませんね、私は東京へ向かいます」

 詩織は手足を動かせない鮎美を口説く以上の楽しみを見つけて、すぐに井伊駅へ向かい、新幹線に乗った。秘書としてはグリーン車に乗る経費は出ないけれど、自費で補填して指定席を取って乗車すると、偶然に直樹と出会った。

「あなたは……」

「君は……」

 お互い、少しは見知っているので、直樹が微笑した。

「やあ、たしか、芹沢先生の秘書だよね。東京がメインの」

「はい、牧田詩織です。雄琴先生のことは色々とうかがっています」

「悪口ばかりだろうね」

「そう本気で嫌っているわけでもないと思いますよ。私は、どうでもいいですし。ここ、空いてますか?」

 詩織は予約した指定席とは違ったけれど、直樹の隣席が空いていたので問うた。

「ああ、どうぞ」

「一度、雄琴先生とは話してみたかったんですよ」

「それは光栄だね」

「妹さんのことはお気の毒でした」

「……。ああ。……」

 いつも調子の軽い直樹が声のトーンを落としてしまった。

「………もう昔のことだよ……」

「今でも、妹さんのために動いていらっしゃいますよね。鮎美先生も理解されています」

「そう……ありがたいね」

「雄琴先生は悪質な性犯罪者に絞首刑以上の死刑を、と唱えていらっしゃいますが、具体的に、どんな刑を想定されているのですか?」

「フ……同じ殺し方をしてやるのが一番だと思うね。被害者の苦痛を味わうべきだ」

 直樹は気持ちを落ち着けるために微笑して答えた。詩織は淡々と問う。

「被害者が2名以上の場合で、それぞれに殺し方が違ったら?」

「ゆっくり、二つの殺し方を実行してやればいい」

「片方の被害者が銃などで一瞬に殺され、もう片方の被害者が殴る蹴るで長い苦痛を味わった場合は?」

「さんざんに殴る蹴るした後に頭を撃てばいい」

「性犯罪の場合、たいてい男が女を襲いますよね。強姦したりしてから絞め殺す。こういう犯人は絞め殺すだけですか?」

「女性が味わったのと、同じ苦痛と恐怖を味わうべきだね」

「具体的には?」

「う~ん………ボクの頭の中では何度も考えたことだけれど、これを口に出すと、ドン引きされるかもしれない。まして、女性相手に口にするのはセクハラかもしれない」

「私は気にしませんよ。どうぞ、教えてください」

「じゃあ……たとえば、犯人より屈強な同性愛者に襲わせるとか、男性器を切り落とすとか、肛門に熱した鉄棒でも突っ込むか、そんなところかな」

「それが雄琴先生が男として考える、女が味わったであろう強姦の苦痛ですか」

「ああ、まあ……」

「もっと常人には、おぞましいような殺し方がされていた場合は、どうです? たとえば、少しずつ皮を剥ぐとか、噛みついて喰らうとか。とても常人にはできないような凄惨な殺し方だったら、処刑人は誰が? 雄琴先生の理論では公務員が憲法で残虐な刑罰を禁止されているので、被害者の家族にあたらせるらしいですけれど、本当に実行可能でしょうか?」

「ボクは可能だと思うよ。少なくとも、ボクは今でも許していない」

「雄琴先生の妹さんは、どんな殺し方をされたんですか?」

「…………それを、ボクに語れと……。……君は少し無神経じゃないか?」

「思い出すだけで、そんなに青ざめているのに、いざ犯人を目の前にして、本当に実行できるのですか?」

「っ………できるさ!」

「では、雄琴先生は実行可能だったとしても、他の被害者家族は、どうでしょう? 妹と兄の関係だから血気盛んな若さがありますけれど、被害者が18歳、ご両親が50代だったりして、最高裁判所まで争った場合、刑の確定まで15年がかかれば、両親は65歳を過ぎますよね? 犯人が逮捕されるまでに10年を要したなら75歳ですよ」

「………」

「父親が他界していて、年老いた母親しか残っていなかったら?」

「……………」

「けっこう穴のある主張ですよね」

「…………………。君の目的は何だ? ボクを怒らせることか?」

「いいえ、少し補完して差し上げたかったのです。刑を実行する被害者家族がいないケースを、ちゃんと考えておかないと、私が犯人だったら一家皆殺しなんて、いいかな、って思いますよ」

「………………。それで、補完っていうのは?」

「二つあります。一つは処刑人を公募すること。さすがに先生方のようにクジ引きで選んでは660万円でも引き受けない人が多いでしょう。現在の刑務官でも死刑執行はボタンを押すだけなのに、複数名でやっていて誰が殺したか、わからないようにしているくらいですから。さっき同性愛者に襲わせるとおっしゃいましたが、同性愛者を野獣か何かだと思っていませんか? ご自分に置き換えて、雄琴先生はカレーにヒ素を入れた汚いオバさんを襲って絞め殺せと命じられたら、いくら欲しいですか? 勃ちますか?」

「うっ……う~ん……あれをか……」

「女だからって無条件に襲えるわけじゃないでしょう? 同性愛者だって、同性なら誰だっていいわけではないのですよ」

「そうだな……。ボクは、そんなに同性愛者のことは考えたことがないから……芹沢先生は、ずいぶん親身に陳情を受けていたけど……。そう考えると公募も難しくないか?」

「一回につき100万円か、200万円、それで合法的に人を殺せるなら、やってみたい物好きはいるでしょう。予算を節約するなら入札でもいい」

「………もう一つの案は?」

「これは、もっと安価に済みます。残虐な刑を課すべき、犯罪者を数名集め、エサをやらずに閉じこめておけば、そのうち共食いして最後の一匹になりますよ。そうすれば、また追加していく」

「……なるほど………いい案だ……けど、よくそんなことを思いつくなァ。君は女性なのに」

「ときに女性の方が残酷ですよ。腕力が無い分、毒殺や放火をするし、嫌がらせも陰湿です。私の二つの案に共通するのは、どちらも異常者は異常者に始末させるということです。常人では耐えられない。だから、公募に応募してくるのも、きっと異常者予備軍です。それで満足すればよし、満足しなければ、いずれ自分が公募を募られる側になるか、完全犯罪で逃げ切るか、です」

「逃げ切らせなんかしないさ。日本の凶悪犯罪検挙率は高い」

「官僚があげてくる統計を信じているようでは議員として若いですよ」

「………」

「殺人事件は遺体が見つかってから始まります。行方不明者や家出人は統計に含まれません」

「………」

「話を変えていいですか?」

「ああ」

「凶悪かつ悪質な性犯罪から、軽度な性犯罪に変えます。雄琴先生は男性として、女性のパンチラ写真を撮影することを、どう思いますか?」

「ああ、その話か…」

 ごく最近に自分も掲載された週刊紙にあった袋とじページの件を思い出した。この件について鮎美の秘書が質問してくるのは、死刑制度のことより合点がいく。むしろ、こちらが本題で死刑制度について残虐な刑罰を肯定してみせたのは、直樹の歓心を買ってから本題に入ろうという計画だったのかもしれないとも思った。

「同じ男として、情けなく思うよ。恥ずべきことだ」

「雄琴先生は、鮎美先生のパンチラ写真、ご覧になりました?」

「……」

「見たんですね」

「じょ、情報として確認しただけだよ! 自分も別のページに載っているから! ちゃんと確かめておかないと、記者からの質問で失敗するかもしれないだろ?!」

「フフ、慌てるくらいには後ろめたいんですね」

「………はぁぁ……芹沢先生の東京秘書は、手強いな……」

「近いうちに、鮎美先生は女性の権利について、大きな運動を始められます。凶悪性犯罪も大切ですが、軽度な性犯罪にも目を向けて、雄琴先生にも賛同いただきたいのです。できれば、賛同者に名を連ねて。もちろん、ギブアンドテーク、雄琴先生の主張にも賛同する、ということで」

「なるほど……具体的には?」

「具体的なことは、あとで資料を送らせていただいてよいですか?」

「ああ、そうしてくれ」

「では、私は、これで。色々あって昨夜寝ていないので失礼します」

 詩織は予約した指定席に座ると、ぐっすりと幸せそうに眠った。

 

 

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