第28話 1月11日 完全拘束、介式、発達障害

 翌1月11日の火曜日、午前4時過ぎに鮎美は特別な病室のベッドで目を覚ました。

「……」

 目を開けると、薄暗いけれど間接照明がついていて、真上に液晶モニターと大きな字で書いたメモ書きがあった。

「………」

 手術は無事終了しました、起きたら右手にあるナースコールを押してください、身体は動かさないでください、どうせ動けないけど、暴れると傷口が開くから一切動かないように、しばらくは声も出さないように、と女性らしい字でメモ書きされている。液晶モニターの方には桧田川が映っているけれど、同じく薄暗い部屋の中で仮眠しているようで白衣のままソファへ横になって寝ている。

「…………」

 鮎美が右手を意識してみると、何かをテープで貼り付けられている感触がして、握ってみると、ナースコールのスイッチらしかった。なんとなく、これを押すと仮眠している桧田川が起きて対応してくれるのだと、わかった。わかった分、かなり熟睡している様子の彼女を起こすのが気の毒に思える。鮎美は途中で眠ってしまったけれど、桧田川は何時間もの手術に集中してくれて、かなり疲れているはずだとも慮った。

「………」

 鮎美はスイッチを見て確かめようと思い、手を顔の方へ動かそうとしたけれど、手首や肘、腕が何か柔らかいベルトのような物を巻かれて固定されていることに気づいた。左腕も同じ状態で動かせない。足首や腿にも何かを巻かれている感覚があるので、一切手足は動かせず、胸と首も固定されていた。手術された腹部は露出されたままのようで皮膚で空気を感じるけれど、気温と湿度がコントロールされているようで寒くも暑くもない。

「…………」

 声も出すな、動くなって……もう一回、寝よ……、と鮎美は諦めて目を閉じたけれど、さすがに眠れない。もう十時間以上は寝ている感じだった。それでも、しばらく我慢していると日の出を迎えたようで薄暗かった部屋がカーテンから漏れてくる光で少し明るくなってくる。ようやく室内の様子がわかった。鮎美は個室の病室に寝かされていて、鮎美のベッドの周りには透明なビニールのカーテンがあり、天井には大きな空調機が設置されていた。エアコンにしては見慣れない機械だったけれど、そこから温かくも涼しくもない、とても肌に優しい風が降ってきている。鮎美は裸に近い姿で胸だけは隠してもらっているようだった。

「……………」

 そろそろ、つらいわ……桧田川先生、よう寝てはるけど……、あ、寝返りしはった、あっちの部屋も明るくなってるし、そろそろ呼ばせてもらお、と鮎美は一切身動きできないこともあって右手のスイッチを押した。

「………」

「………」

 画面の向こうで桧田川が再び寝返りして、つらそうに起きた。それから、こちらに向かって手を振ると、手元の機器を操作して音声送信を可能にしたようで声が聞こえてくる。

「おはよう。もう起きたみたいね。あ、芹沢さんは声を出さないでね」

「………」

「返事をするときはイエスならスイッチを1回、ノーなら2回押す。わかりました?」

「…」

 鮎美はスイッチを1回だけ押した。

「うん、そうそう。じゃあ、今の状況を説明するね。まず手術は無事に終わりました。腕によりをかけて7時間もかかったけど、しっかり細い血管も縫ってあげたよ。私としても大成功な出来です。けど、ここからも大切です。傷口の周りには消毒薬を使ったけど、傷口そのものは入念に洗っただけです。つまり、もしかしたらバイ菌が残ってるかもしれない、こいつが悪さすると化膿して跡が残りやすい、けど消毒薬を使っても傷の表面細胞が損傷して跡が残りやすい。だから洗浄だけして皮下組織を縫い合わせました。表皮は縫っていません。表皮も縫うと、それは、それで糸の跡が残りやすいから。つまり、見た目には薄いカサブタができてるだけの状態。これがキレイに治ってくれると、まったく跡が残らず治ることも期待できます。ここまでの説明、理解できましたか?」

「…」

 鮎美は再びスイッチを1回だけ押した。

「次に、これからのことです。これから芹沢さんは最低でも3日は絶対安静です。もちろん、命に別状は無いんだけど、傷口を縫った糸は細くて強い力がかかると切れてしまいます。なので細胞と細胞がくっついて治るまでは本当に本当に、しっかり安静にしてください。これを強制するためと、バイ菌が外からつかないために身体を固定させてもらいました。寝てるときに、うっかり自分で掻いたりされると、すべてがパーになるので手も動かせません。声を出すのも響くのでやめてください。つまり、ものすごーーく退屈な数日を送ってもらうわけだけど、一生残る傷跡か、数日の我慢か、考えるまでもないですよね。そして外からのバイ菌をもらわないためと、傷口を乾燥させすぎず、湿らせすぎず、ちょうどいい状態に保つため、お腹は出したままです。股間まで斬れてたから、そこまで露出してますけど、その部屋には絶対に男性は入りませんし、今、芹沢さんの真上に二つのカメラが見えますか?」

「…」

 スイッチを1回押す。

「一つのカメラは芹沢さんの顔を映して、こちらへ送っています。。もう一つのカメラは傷口を映して、私とコンピューターが監視できるようにしています。コンピューターが何を見るかと言いますと、傷口が化膿してくるとピンクになったり赤くなったりします。炎症が起こるわけですね、あまり強い炎症が起きて膿んでくると、跡になります。これをさけるため、膿みそうになる前に抗生物質を点滴するため、常に監視しています。でも、私が診るとき以外は画面のスイッチを切っておきますから安心してください。いいかな?」

「………」

 少し間をおいたけれど、鮎美はスイッチを1回押した。

「あとは、心を穏やかに、落ち着いた気分で過ごしてください。興奮したりして汗をかくのもよくないから、のんびり、ぼんやりね。できるなら、傷がキレイに治るイメージをしたり、治れ、治れって祈ったりしてください。これね、けっこう効くんだよ。癌の患者さんでも気持ちの持ちようで予後が変わるから。あ、予後っていうのは、病気の経過のことね。ってことで、いいイメージをもつようにしてください。難しく考えないで、痛いの痛いの飛んでいけを何回も唱えて、眠かったら寝るって感じに。野生動物もね、大きな怪我をすると、じっとして治すから。そして、その間、何も食べない。芹沢さんにも薄い糖分が入った点滴がされてるけど、数日は絶食になります。とくに固形物を食べると、出さないといけないでしょ? トイレで息むのは一週間は先のことだと思ってください。あれだけ、しっかり浣腸したのは、そういう理由よ。別に法律の専門用語を使ってきた仕返しに嫌がらせでやったわけじゃないから誤解しないでね?」

「………」

 鮎美は相槌として1回、スイッチを押した。

「おしっこは意識しなくても、カテーテルが常に排出してくれてるから、行きたくなることはありません。点滴してる分、かなり多いけど、それも本人は感じません。けど、おしっこの穴が痒くなったり疼いたりしたときは、すぐにナースコールしてください。あと、傷口が痒い痛いってときも、すぐに。そのときは声に出して症状を訴えて。それ以外では発声も控えて」

「…」

 また1回押す。

「だいたいの説明は以上です。何か訊きたいことはありますか?」

「……………」

 鮎美は声は出さず、天井付近にある空調機器と透明なカーテンへ視線を送った。それで桧田川が気づいてくれる。

「その機械はエアコンだけど、特別なエアコンで無菌状態の空気を傷の治療に最適な湿度で流してくれます。ビニールカーテンは私が診察に行ったとき、私の身体についてるバイ菌が芹沢さんへいかないようにするため。ちなみに、私は今日から芹沢さんが退院するまで、ずっと病院にいます。異常があれば、いつでも対応できるように。どう、これなら216万円でも納得しない?」

「……」

 確かに、と思いながら鮎美は1回押した。

「ゆっくり休んでください。あ、ご両親が待っていてくれたけど、病院前にあるビジネスホテルへ泊まるように言いました。今すぐ呼び出すこともできますけど、お二人もゆっくり休む方がいいから、モニター越しの面会を、お昼前くらいに行うということでいいですか?」

「…」

 すぐに1回押した。

「じゃ、お大事に」

 そう言った桧田川は、また横になって仮眠を再開した。

「…………」

 鮎美は眠れないので、ぼんやりを天井を眺める。

「……………」

 こんなに、ゆっくり時間が流れるの、久しぶりかも………去年に当選してから、ずっと忙しかったから………あ、お腹空いたなぁ……けど、お腹が空くってことは、ぜんぜん命に別状ないんやろな……鷹姫のおかげや……うちを刺した犯人は、どうなったんやろ……ううん、考えても仕方ないことは考えるのやめよ……傷の治りを考えなさい、って桧田川先生も言うてくれたし……いい先生かも……ずっと泊まって診てくれるし……一時はセクハラかと思ったけど、ちゃんと理由もあったし……けど、うちの今の姿……ベッドにつながれて、お腹も出して……誰かに見られるのは恥ずかしいなぁ……男性入室禁止でも……そのうち看護婦さんとか、桧田川先生は来るんやろし……あ、これも考えても仕方ないことや……もっと有意義なこと考えよ………有意義………日本の将来とか……フフ……ベッドにつながれて、何一つできん女子高生が日本の将来なんか考えるのもシュールな話やな……あのとき、あと一瞬、鷹姫が遅かったら死んでたかもしれんのに………鷹姫にもらった、この命……少しでも日本のために頑張ろ……そのためにも、早く治ろ……、と鮎美は途切れ途切れに思考しながら時間を過ごした。

「芹沢さん、起きてる?」

「…」

 桧田川の声に呼ばれ、眠っていなかったけれど閉じていた目を開けた。モニターの中にいる桧田川の背後には玄次郎と美恋もいた。

「これから、ご両親と面会ね。けど、興奮しないでね。汗かいたり泣いたりしないでね。絶対安静だけど、命に別状ないんだから。それはご両親にも説明してあるから、軽く面会して」

「…」

 スイッチを1回押した。桧田川がさがり、玄次郎と美恋の顔がモニターの中で近づいてきた。

「よ! 退屈そうだな、鮎美」

「…アユちゃん……無事でよかった」

 いつも以上に玄次郎は軽い調子で、美恋は泣きそうになるのを抑えて笑顔で言ってくれる。鮎美も一時は死ぬかと思った状態から、こうやって両親と顔を合わせることができるのは嬉し涙を流しそうになるけれど、桧田川に注意されたので軽く微笑をつくってスイッチを1回押した。

「アユちゃん、不自由そうで……けど、キレイに治るそうよ。頑張ってね」

「…」

 スイッチで答える。

「板垣死すとも自由は死せずとか、言ってたけど、鮎美死せず自由が死んだな」

「…………」

 あまり嬉しくないのでスイッチを2回押すことを試してみた。くだらない冗談が好きらしい桧田川の笑い声が聞こえる。

「あははは。政治家さんで刺されたといえば板垣さん鉄板ですよね。板垣だけに鉄板。けど、あんまり本人が笑うようなことも言わないでください。今日のところは、ここまで。退屈と孤独に耐えて頑張って。テレビとかも見せてあげると余計な体力を使うし、今は事件の番組ばっかりだから、余計なことは考えないで治ることだけ考えておいて」

 ごく短い面会が終わってしまった。鮎美は夜までの長い時間を一人で過ごし、いろいろと考えたけれど、考え込まないようにした。

 

 

 

 翌1月12日の水曜日、お昼過ぎに鷹姫は鮎美が入院している特別病室の隣にあるモニター室で面会を始める前に桧田川から注意点を聴き、気持ちを落ち着けるために目を閉じて深呼吸していた。あのとき、自分が晴れ着などでなく、あと一瞬だけ早く動けていれば鮎美を負傷させずに済んだという何度も何度も悔やんだことは顔に出さないよう心を静める。

「はい、大丈夫です。お願いします」

「じゃ」

 桧田川が機器を操作してモニター越しの面会を始める。

「芹沢さん、本日2回目の面会ね」

 午前中には両親と短い面会をしていたけれど、今日は2度目が許され、モニターに映る鮎美は嬉しそうに微笑んだ。鷹姫は緊張して声を上擦らせる。

「こ…こんにちは…み、宮本鷹姫です」

「くすっ…」

 鷹姫が緊張のあまり丁寧に名乗ると、鮎美は失笑してしまった。声を出させてはいけないので鷹姫は慌てて言う。

「わ、笑わないで聴いてください」

「…」

 鮎美がスイッチを1回だけ押してきた。その意味は鷹姫も聞いている。

「ご気分は、いかがですか? 痛むところはありますか?」

「………」

 スイッチが2回押され、隣りにいる桧田川が助言をくれる。

「一度に二つ質問すると、向こうは答えに迷うよ。あと、答えがイエスノーで済む質問にしてあげて」

「はい。………では……」

 返事はしたけれど、普段から無口なので自分から話を振るのは、かなり苦手だった。

「……………」

「……」

 鷹姫が黙ると、鮎美も返答のしようがない、モニター越しに見つめ合っているうちに、やっぱり二人とも涙が滲んできた。とくに鷹姫にとっては48時間ぶりに見る鮎美の顔で安否は知っていても、あの血まみれで搬送された後、命に別状はないと知るまでの数時間は祈るしかない不安な時間を過ごしている。

「…よく……生きていてくださいました……よかった……」

「…」

 鮎美がスイッチを1回押すと同時に、モニター室にある他の計器が警告音を発してくる。鮎美の心拍数が上昇し、皮膚が発汗しつつあるという警告だった。桧田川が二人に割って入る。

「はいはい、湿っぽい話はなしね。汗をかくとね、皮膚表面のバイ菌が元気になっちゃうから、芹沢さん、平常心、平常心。すぐ良くなって、お友達とも会えるからね。今は平常心だよ」

「…………」

 鮎美は涙を零す前に瞬きで耐え、ゆっくりと気持ちを落ち着けて心拍数をさげた。

「すみません。私がこれ以上話しては芹沢先生のお心を乱してしまいます」

「……」

 スイッチが2回押された。まだ面会を終わらないでほしいという意味に感じる。

「ですが……私は話をするといっても……苦手で……」

 鷹姫は話題を考える。今、外の世界は最年少議員が刺殺されかけたという話題でもちきりになっていて実は病院の外にも大勢のマスコミが集まっている。そんなことは教えたくない。他には秘書として、鮎美の負傷でキャンセルになってしまった予定の繰り延べなどの報告もあるけれど、それも勇気づける話にはなりそうにない。淡々と事務的にスケジュール変更を伝える場面でもないと思えた。かといって黙っていると、また泣いてしまいそうで、鷹姫は思い浮かんだことを口にした。

「平家物語は……いえ、あれは悲しい話もありますから、もっと勇壮な………あ、戦国において最強と名高い上杉謙信と、同じく最強と言われる島津一族の対比を語るのは、どうですか?」

「「……」」

 桧田川は、この場面で話すことなのかな、と思ったけれど、もともと鮎美は手足も動かせずヒマを持て余しているはずなので、鮎美が良いなら良いと思ったし、スイッチが1回押された。それで鷹姫が語りはじめ、今現在の自分たちとは無関係な話に耳を傾けている鮎美の心理状態は安定した。話は川中島の会戦や、朝鮮出兵、関ヶ原まで多岐におよび長時間になったけれど、桧田川は止めず、鷹姫は3時間も話した。ようやく、そろそろ面会を終えようと桧田川が言ったとき、鷹姫は強く気にかけていることを問うた。

「もし、よければ傷口を見せてもらえませんか?」

「「………………」」

 その問いは本人である鮎美と医師である桧田川にも向けられていた。鮎美は迷っているようでスイッチを押さない。桧田川は考えるときの癖なのか、両手を向かい合わせ、その指先だけを触れさせている。

「そうね。すごくキレイに治りつつあるから、本人も見てないけど、そろそろいいかも。芹沢さん、まずはお友達に見てもらっていい?」

「……」

 スイッチが1回押された。それで桧田川は機器を操作してオフにしていたモニターを映した。そこに鮎美の胸より下から両腿までが映る。

「……あそこが傷ですか? 桧田川先生」

「そうよ。思ったよりキレイでしょ」

「はい……あれほど血が流れたのに……もう、細い線のようにしか……」

 モニターに映る鮎美の傷は臍の下から股間まで、まっすぐに続いているけれど、ごく細い線のようなカサブタができているだけで一見すると長い引っ掻き傷にしか見えないくらいになっていた。

「よかった………素晴らしい技術です……医学は、これほど進歩して……」

「フフフ、いずれ私は美容外科を開業しようかと思ってるからね。芹沢さんも自分の傷を見てみる? そっちのモニターにも表示してあげようか?」

 スイッチが1回押される。桧田川が機器を操作して鮎美の真上にあるモニターへも傷口の映像を送った。それで桧田川と鷹姫の顔を映していたモニターに自分の傷口が映り、それを見た鮎美も安心したような表情をしたけれど、すぐに顔を赤くして恥じらい始めた。反射的に両手で股間を隠そうとしているけれど、それもできない。鷹姫とは何度も温泉や風呂にいっしょに入ったけれど、こんな風にカメラで一方的に見られて、しかも剃毛された上で小水を取り出す管まで挿入されたところを見られるのは耐えがたかった。また心拍数が跳ねあがり、汗をかいて涙を浮かべている。

「あ、ごめん、ごめん、いくら同性でも恥ずかしいよね。はい、おしまい。じゃ、次は明日の朝、また、ご両親ね」

 面会を終えると鷹姫は礼を言ってモニター室を出ようとしたけれど、一つ気になることができたので問う。

「桧田川先生は同性愛者なのですか?」

「え? ううん、違うよ。あ、もしかして、変なカッコにさせてセクハラだ、とか思ってる? これ本当に必要な治療だよ。斬られたところが下腹部だから、ああして晒すしかないの。傷跡をキレイに治すには服を着せずに適度に乾燥させることと、紫外線をあてないこと、人間って自覚してないだけで服の中は、かなり汗をかいてるから。だから、斬られたのが、お尻だったらうつ伏せでああするし、腕とか脚なら、あんな恥ずかしいカッコにはさせないよ。どっちにしても掻いてほしくないから手は縛るけど、私を変な趣味の持ち主と思うのは失礼だからやめてよね」

 セクハラ疑惑は嫌なので桧田川が多弁にまくし立てた。鷹姫は言い返す。

「いえ、SMだと思ったわけではありません。ただ、先生がされているバッチが目に入ったものですから」

「ああ、これ?」

 桧田川が白衣の胸に着けている虹色のバッチを指した。

「はい、それです」

「なるほどね。けど、これLGBT全般の運動で着けるやつだよ。これ着けてるから同性愛者ってのは、早とちり。トランスジェンダーかもしれないし、それに、あなたも胸につけてる青いリボンのバッチ、それって何かの政治運動だよね?」

 桧田川が鷹姫の制服の胸にあるブルーリボンのバッチを指した。

「はい、北朝鮮拉致問題のものです」

「そう。………あなたの、ご家族が拉致されたの?」

「いえ、運動へ賛同していますが、私の家族は関係ありません」

「ほら。同じように、私も当事者じゃないけど、運動には賛同してるってだけ」

「そうですか、失礼しました。これからも芹沢先生の治療をよろしく頼みます」

「任せて。………あ、一応、言っておくけど、私の身体は女だよ。で、好きになるのは男の人。あの女医って、どう見ても女の人なのに実は男なんだ、とか変な誤解をして帰らないでね」

「はい」

「まあ、性転換手術の技術は高めたいと思ってるから、もし、そういう方面の法律とか研究費とかの審議が国会であったら、芹沢さんにはよろしく頼みたいかな」

「わかりました、伝えておきます」

 今度こそ一礼して鷹姫はモニター室から廊下に出た。隣の特別病室の前には男性警官が2人も立っている。鮎美には知らせていないけれど、刺傷事件の直後から県警から派遣されてきた警備の制服警官だった。その2人の警官へ6人のスーツ姿の集団が近づいていく。集団の先頭は女性でOLのようなスーツとスカート姿だったけれど、すぐに拳銃を抜くためにスーツのボタンは留めていないし、動きやすいためにスカートのスリットはチャイナ服のように深い。何より、その女性の顔に鷹姫は見覚えがあったので駆け寄った。

「「「っ!」」」

 急に鷹姫が駆け寄ったので6人のうち3人が鷹姫に向かって構えてきた。それで思わず鷹姫も間合いをとって構えるので、ますます睨み合いになる。

「……」

 強い、相当な手練れ、と鷹姫は相手の強さを実感したし、相手も同じだったけれど、先頭にいた女性が言ってくる。

「急に駆けてくるから……あ、君は…宮本くん?」

「はい! 介式(かいしき)師範お久しぶりです!」

「ああ、久しぶり。だが、今は遠慮してくれ。任務がある。あとで話そう」

 介式は予定通りに県警の警官へ近づき、敬礼して名乗る。

「警視庁警備部警護課警護第4係の介式いつか警部です。芹沢鮎美議員の警護を引き継ぎます」

「「はっ!」」

 二人の制服警官は敬礼を返して、持ち場を譲った。介式は部下を二名、鮎美の病室の前に立たせると、鷹姫へ問うてくる。

「やはり、宮本くんが秘書を務めていて、犯人を取り押さえたのも、君か?」

「はい。……不覚でした」

 鷹姫が悔しそうに言うと、介式は深く訊いてくる。

「状況は報告書で読んだが、君の口から、もう一度、聞きたい。芹沢議員の容態も含めて話してくれ」

「はいっ」

 鷹姫は鮎美の容態と、事件当時の状況を細かに話した。同じことは当日にも昨日にも県警から問われたので時系列にそって明晰に話した。

「なるほどな。立派な活躍だ。どこが不覚だと感じる?」

「私が晴れ着などで浮かれていなければ間に合ったはずです。それに答辞が終わっていたのですから私は背後でなく隣りにいるべきでした。くわえて、取り押さえ方が甘く、何度も反撃を許してしまいました」

「相手の少年は大柄だったのに、よく頑張った。県警からは少々やり過ぎと言われなかったか?」

「はい。……両腕を折る必要があったのか、と」

「だろうな。柔道だけでは相手を制圧するのに足りない。怪我をさせずに制圧する方法と、いよいよ急迫したとき瞬時に無力化する方法、そのあたりの技術を習っていなければ仕方ないだろう。手錠などの拘束具も持っていなかったわけだから、絞め落とした判断も悪くない」

 介式はポンポンと軽く鷹姫の頭を撫でた。

「介式師範にお会いするのは5年ぶりですね」

「ああ、よく覚えていたな」

「自分が勝てなかった相手というのは、覚えているものです」

「こいつ、いくつ歳の差があったと思っている。まだ剣道は続けているのか?」

「はい。近頃、秘書としての仕事が忙しく怠りがちですが」

「私も似たようなものだ。副議長の警護が終わったと思ったら、次は子供議員のお守りだ」

「………。芹沢先生は立派な方です」

「そうか、すまない。私は口が悪いので、よく怒られる。SPとしては不適格なのだが、女性要人警護につく女性SPは極端に少なくてな」

「腕前を買われたのですね」

「そういうことだ。また芹沢議員のことを色々と教えてくれ、しばらくは彼女につくことになるから」

「はい、よろしくお願いします」

「非番時には稽古をつけてやろう。噛まれたりせず制圧する方法や、武器を持った相手に挑む方法を」

「はい、是非」

 鷹姫は介式と握手をして微笑んだ。

 

 

 

 翌1月13日の木曜日、東京では眠主党の党大会が開催されていたけれど、美恋は娘を見舞うために病院に来ていた。三度目の面会に父親である玄次郎は仕事へ出てしまい参加してくれなかった。スイッチを通じてイエスか、ノーしか答えられない娘に何を話しかけるべきか、美恋は迷い、鷹姫と似たような選択をして聖書をもってきていた。

「ねぇ、アユちゃん。嫌かもしれないけれど、少し聖書の話を聴いてくれない? ……少しだけでもいいの、ね?」

「………」

 モニターの中にいる鮎美は、こちらを見てくると、反抗的な目はせず、優しく微笑してくれて、スイッチを1回だけ押してくれた。

「っ…いいの? ……嬉しいわ」

 意外だったので、とても嬉しかった。そして、不慣れな手つきで聖書をめくり、朗読し始める。

「ペテロ第一の…4章12節を読むわね。愛する者たちよ……あなた方の間の…燃えさかる火は、……試練としてあなた方に起きているのであり、何か異常な…ことが身に降り懸かっているかのように当惑してはなりません。……かえって、キリストの苦しみにあずかる者となっていることを…歓びとしてゆきなさい。…」

「……………」

 たどたどしい母親の聖書朗読を鮎美は黙って、静かに聴いていた。お昼過ぎ、陽湖は美恋と交替に面会へ訪れ、美恋から鮎美が聖書朗読を聴いてくれたことを聞いていたので、思い切って問うた。

「ブラザー愛也から説教を受けてみませんか? 彼の聖書理解は深く、私たちは遠くおよびませんから」

「………」

 鮎美は穏やかに1回だけ押してくれたし、陽湖が聖書を読み始めても、静かに聴いてくれた。陽湖と美恋が帰り、ぴったり2時間の休憩後に鷹姫がカバンに大量の書類を詰めて面会に現れた。

「日本中から、お見舞いが負傷された芹沢先生へ届いています」

「……」

 鮎美は小さく頷いて1回押した。鮎美の立場と負傷原因を考えると、かなりの見舞いが届いても奇異ではない。自眠党関係者は当然として、眠主党の鳩山総理からも来ていたし、全国の女性議員や一般市民からも来ている。その中でも鷹姫は一通の電報だけは特別に風呂敷に包み、大切そうに持ってきていた。

「畏れ多いことに、義仁親王、由伊内親王よりも、お見舞いの言葉をちょうだいしておりますので、読み上げます」

 鷹姫は背筋を伸ばして紙面を掲げて読む。

「芹沢鮎美さんが傷を負われたと聴いて、とても心配しています。どうか一日も早い回復をされますよう、由伊とともに祈ります」

「………」

 元旦にチラっと出会っただけの皇族さんまで……うちにお見舞いを……これ、全部へお見舞い返しするの大変ちゃうやろか……まあ、静江はんあたりがやってくれるかな、と鮎美はぼんやりと考えたけれど、鷹姫は皇族からの見舞いを一大事と受け止めているようで読み終わった電報を大切そうに片付け、いっしょに届いた花をモニター越しに鮎美へ見せる。

「両殿下より、こちらのお花をいただいております」

「……」

 とりあえず1回押した。義仁と由伊から贈られた花はピンクを基調にしたフラワーギフトの品で、電報とセットになるものなので、同じような物が数多く鮎美へ全国から届いている。それらは、いちいち鮎美に見せたりせず病室の外に並べられていたけれど、義仁と由伊からの品だけは鮎美が見ているモニターの視野に入る位置に鷹姫が置いた。

「他にも届いておりますが多数にて主だった方々の氏名、役職を述べるにとどめますことをお許しください」

「……」

 まるで式典やな、と思いつつ鮎美は1回押した。

「鳩山直人、内閣総理大臣。竹村正義、参議院議長。谷柿弘文、自眠党総裁。小沢六郎、活力党代表。野田…」

 総理や衆参議長、党代表、各大臣からまで届いていたし、県議、市議からも多い。当然のように夏子も石永も贈ってくれていた。

「前原…」

「……」

 この病院の近所の花屋、めちゃ儲かったやろな、いったい、いくつフラワーギフト造ったんやろ、うちの病室の前は開業祝いみたいになってるんかも、と鮎美は一歩も動けない身で思った。

「以上が政治家など主だった方々です。他に自眠党支持者や、支持者名簿には無いものの、まったくの一般市民からも県内県外を問わず届いております。ただ、あまりに多数で氏名を読み上げると、とても長くなりますが、お聴きになられますか?」

「…………」

 鮎美が迷うと、鷹姫は書類をカバンに片付ける。

「では、割愛します」

「……」

 鮎美はスイッチを2回押した。

「読んだ方がよろしいですか?」

「……」

 頷いて1回押す。

「わかりました。では、クラスメイトから…」

「……」

 クラスメイトを割愛しようとしたんかい! と鮎美は突っ込みそうになりつつも黙って聴き、在籍中のクラスだけでなく、以前に大阪で在籍していた学校の2年生時のクラス一同からも贈ってくれていたのを感謝した。他にも企業や団体の忘年会や新年会で一度だけ名刺交換した程度の人からも贈られていたし、まったく会ったこともない、名前も知らない、九州や北海道の人まで贈ってくれており、さらに匿名も15件あった。

「………」

 あの子……うちが刺されたって聴いて、どう想ったかな……夕子ちゃん……もしかして、匿名の中にあんのかな……、と鮎美は以前に交際していたけれど、肉体関係を求めたために逃げていった後輩を想い出していた。

「…以上です」

 ようやく鷹姫が読み終えた。ご苦労様、と言いたいのを我慢して目で伝える。

「もう遅くなりましたので、今日は、これで失礼します。どうぞ、お休みください」

「……」

 業務連絡だけでなく、もう少し鷹姫の声を聴きたかったけれど、これから島の自宅へ帰る鷹姫の都合を考えると、呼び止められない。名残惜しかったけれど、モニター越しに見送った。

 

 

 

 翌1月14日の金曜日、党大会を終えた眠主党は第二次鳩山直人内閣の人事を発表し、テレビは連日の女子高生議員刺傷事件報道を見飽きた視聴者へ、閣僚紹介をしていたけれど、鐘留はテレビとネットの情報をまとめあげ、鮎美の元へ面会に来ていた。いつも通りの完全防寒姿で場所は聞いているので、すぐにモニター室へ近づいたけれど、ドアに至るまでに介式が鋭く言ってきた。

「止まれ!」

「……。お手もしようか?」

 鐘留は手袋をした右手に資料を、左手に飲みかけのペットボトルを持っていた。言われたとおりに足を止め、軽い口調で応じたけれど、鮎美の病室前にいた介式と男性SP1名は不審者として対応している。

「両手をあげて動くな!」

「面会があるの聞いてない? アタシは緑野鐘留」

「………。顔を見せろ」

「はいはい」

 鐘留は防寒マスクとゴーグルを取った。それで介式は静江から連絡のあった鐘留だと判じたけれど、警戒は解かない。

「身体検査をする」

「ヤダ♪ エッチ」

「こう見えて私は女性だ。安心しろ」

「どう見ても女性だよ。自信をもって安心して。それで実は男だったら、かなり女装レベル高いよ」

 鐘留の発言で男性SPの方が失笑しそうになり耐えている。介式は気にとめず命じる。

「帽子とコートを脱げ」

「冗談の通じないタイプなんだね。宮ちゃんみたい」

 タメ息をついた鐘留は毛皮の帽子とコートを脱いだ。コートを脱いでもスキーウェアのような上下を着ているので、また言われる。

「その上着も脱げ」

「はいはい、さすが病院、いい感じに暖房されてるね」

 防寒着を脱ぐと、中は女子の冬制服で鷹姫や陽湖と同じだったけれど、介式は鐘留のポケットなどを、すべて調べてから問う。

「なぜ、顔を隠していた?」

「寒いから」

「……」

「そろそろ面会したいんだけど?」

「医師と芹沢議員に確かめる。いっしょに入れ」

 介式はノックしてからモニター室を開けた。机でカルテを書いていた桧田川が振り返る。

「面会ね?」

「そうなんだけど、怖いお姉さんがアタシを疑うの」

「この者は緑野鐘留と名乗っていますが、不審な姿をしていました。桧田川先生は、ご存じですか?」

「私は初めて見るけど、芹沢さんは知ってるんじゃない? 顔を見せて訊いてみるね。その前に、そのペットボトルは、そっちに置いて。芹沢さんは食べることはおろか、何も口にせずに過ごしてるから、そんなものを見せないであげて」

「え……アユミン、そんなに悪いの……? 命に別状ないって聞いてるのに…」

 気楽そうだった鐘留が急に不安な顔になると、桧田川は友人を心配する女子高生に優しく微笑んだ。

「大丈夫ですよ。ただ、傷口を残さないために、私が考案した特別な治療をしています。少しでもお腹を動かさないように、あと少し何も口にしないの。声も出せないのは聞いてる?」

「それは聞いてるけど……そっか、……アユミン、超ダイエット体験中だね」

 鐘留は指示された棚に飲みかけのペットボトルを置いてから、モニターとカメラの前に座った。桧田川が操作して、双方向で通信する。

「ハーイ♪ アユミン、顔色は元気そうだね」

「……」

 鮎美が微笑んで1回押した。

「アタシがモニター室に入ろうとしたらさ、この怖いお姉さんが不審者あつかいしてくるの。なんとか言ってやってよ。アタシは防寒してただけなのに」

「……フっ…フっ…」

 鮎美が鐘留と介式が、どんな問答をしたのか、想像して笑い出しそうになり、桧田川が注意する。

「まだ笑うのはダメですよ。我慢して。芹沢さん、この人が緑野鐘留さんでいいの? 面会OK?」

「……」

 鮎美が苦笑しつつ1回押した。その様子を見て介式は出て行き、病室前の警備に戻った。鐘留は面会を始める。

「アユミン、飲まず食わずで寝たきりなんだってね。アタシがお昼ご飯に何を食べたか教えてあげようか?」

「……」

 鮎美が真顔で2回スイッチを押した。

「きゃははは、だよね。けどさ、人間って3日くらい水を飲まないと死ぬんじゃないの?」

「水分補給は点滴でしていますよ」

「へぇ……ってことは、おしっこは?」

「「……」」

「もしかして、垂れ流し?」

 鐘留が見ているモニターには鮎美の肩から上の顔しか映っていないので身体全体がどうなっているかは、わからなかったし、それを見て知っている鷹姫も鐘留へは言っていない。それでも鮎美が赤面して目をそらしているのが可哀想なのと、少し心拍数があがったので桧田川は咳払いして答える。

「違います。ちゃんと処理しています」

「ってことは、オムツ? アユミン、どう? 高校生にもなってオムツにしちゃう気分は?」

「……」

 ますます鮎美の顔が赤くなる。

「きゃははは、24時間寝たきりで、オネショして、おもらしもなんてアユミン恥ずかしいね」

「……」

「大きい方は、どうするの? それも……うわぁ…アタシだったら死にたくなるよ」

「……」

 鮎美がスイッチを2回押した。

「え? 違うの? じゃ、大きいのは、どうしてるの?」

「あなた本当にお見舞いに来たの? からかうのは、やめてあげて。絶食してるから大きいのは出ません」

「ふーん……お風呂も入れてなさそうだね。近寄ったら、アユミン超臭い?」

「……」

「顔や手足は最低限の清拭をしています。芹沢さん、この人を追い出しますか?」

「…」

 瞬時に鮎美は1回だけ押した。

「え~……」

「さ、出て行きなさい」

「ヤダ♪」

「出て行かないなら、介式警部につまみ出してもらいますよ」

「うっ、あの人、マジやりそう」

「さ、出て」

「待って待って。そろそろさ、アユミンが犯人のことを知りたいんじゃないかって、情報まとめて来たんだけど、聴く?」

「………」

 少し迷いがあってから1回押してくる。それで桧田川も諦めた。

「それもそうね。気になるでしょうし。けど、心理状態が不安定になるなら、追い出しますからね」

「じゃ、まずは犯人の氏名、ま、これはテレビでは少年Aなんだけど、アタシたち生徒は、みんな知ってるしネットにも流した…じゃなくて、流れてる。名前は大津田悟司(おおつださとし)、2年生、犯行の動機はフラれた逆恨み」

「…………」

 鮎美が記憶を振り返るような顔をしているので鐘留が言う。

「ほら、覚えてない? ラブレターをくれた男子がいたでしょ。なのに、アユミンは無視した。ってか、たしか市議選の日に重なってるとかでデートの約束を断るのも忘れてて、そのままになった。思い出した?」

「……」

 スイッチが1回押され、先を促すような目で見てくる。

「でね、その大津田は、いつまでもネチネチと逆恨みしてたわけだよ。そこへ、あの週刊紙の不倫疑惑とパンチラ写真があった。あれを見た大津田のバカは、こう考えた、オレのラブレターを無視したくせに権力者には媚びるのか、パンツまで見せてビッチな女だ、女のくせに議員なんかになったから調子に乗るんだ、後悔させてやる、お腹を突き刺して子宮を引き摺り出してやる、ってことで、お腹を狙ったんだって。警察では殺意は否定してるけど。お医者さん的には、どうなの? お腹を刺して子宮を取り出したら、アタシたち女の子って死んじゃう?」

 鐘留の問いは桧田川に向けられていたので、やや呆れつつ答える。

「きちんとした手術として子宮癌なんかで取り出すのと違って、乱暴に切り開いて、引っ張り出したら、動脈もズタズタになるから、もって10分、早ければ3分もなく意識を失って死んじゃうわよ。あなたさ、もう少し話し方を考えてね。今のところ、芹沢さん、落ち着いて聴いてるけど、泣かしたりしないでよ」

「はいはい。アユミン、続き、聴く?」

「……」

 返答はイエスだった。

「こんな大バカな理由でアユミンを刺した大津田には、前科と障害があったらしいよ。中学のときね、同学年の女の子のお腹を殴って入院させてる。ひどい殴り方で、女の子は片方の卵巣が破裂してたんだって。三重県での事件だったからアタシたちは知らないでテレビにも出なかった。殴った理由は今回と似たような感じで相手にされなかったから。そりゃ相手にしないよ、この当時、大津田は普通学級じゃなくて支援学級に通学してた。小学校3年くらいで、どうしても九九が理解できないってことと、クラスメートに乱暴するってことで検査を受けたら発達障害が見つかって、中学に進むときは市役所から支援学級へいくよう言われてる。殴られた女の子の方は学年でも可愛い方だったらしいから、まあ、フッて当然だよね。アタシみたいに学年トップに可愛い子がガイ児なんか相手にするわけないじゃん。で、キレて殴った。アユミンを刺したのと同じパターンだよね、手に入らないなら壊してしまえ。バカな保育園児が友達のオモチャを壊すのと同じレベル」

「……………」

 鮎美は何の返事もせず、けれど聴いている様子で待っているので鐘留は続ける。

「殴打事件は警察沙汰になったけど示談で終わってる。大津田の父親は関西便利電力の大株主で電力技術者でもあるみたいで原子力発電所に勤務もしている。兄も3人いて優秀らしいよ、国立大を出て高度な電力技術者になってる。けど、一番下の弟だけは発達障害だった。バカな子ほど可愛いってバカ親のパターンかな、賢い親ならガイ児なんか静かに殺すのにね。まあ、小3まで育ててからガイ児ってわかるのは困るかな。産まれた直後にわかるなら、うつ伏せに寝かせて数分で済むし証拠も少ない。小3までになると、大雨のあとに川へ遊びに連れて行くとか、そういう殺し方がいいかも。障害も色々だよね、もっと大きくなってから実はホモでしたとか、実は性同一性障害でしたとか、わかると殺し方に困るかも」

「…………」

 鮎美はとくに何の反応もしなかったけれど、桧田川が静かに怒った顔になり、いつも持っている肩こりを治療するための携帯型低周波治療器を白衣のポケットから出すと、その出力を最大にしてから粘着するタイプの導子を鐘留の両腕に貼り付けた。

「キャアア?!」

 鐘留の両腕が意思とは無関係に肘を曲げ、ビクビクと手のひらがそる。自分で剥がそうにも両手が思うように動かせないので、しばらく苦しんだ挙げ句、なんとか机に腕を擦りつけて粘着導子を剥がした。

「ハァ…ハァ…ぅぅ…痛かった…ハァ…何するのよ?!」

「ずいぶん調べ物をして肩がこってるかと思って。ね、あなたの話し方、とても不快です。あらためた方がいいよ?」

「………。マッドサイエンティストめ。アユミンも縛りつけて楽しんで」

「あなた、右目を美容整形したでしょ?」

「っ…」

「一重(ひとえ)を二重(ふたえ)にする手術を受けたよね?」

「……。……医師には守秘義務があるよね?」

「はいはい、言われたくないことは誰にでもあるから。芹沢さん、まだ面会つづける?」

「……」

 イエスだった。

「そうね、自分を刺した人のことは知りたいよね。じゃ、緑野さんだっけ? 口を慎んで続けて」

「……。アユミン、手術のこと誰にも言わないでよ。あと、さっき、からかって、ごめんね、アタシの、あのことも、誰にも言わないでね。アユミンの状態も言わないから」

 プライドの高い鐘留が夜尿症が治らないことを、これからも黙っていてほしいと暗に頼むと鮎美はスイッチを1回押した。それで鐘留は話を再開する。

「大津田の話に戻るよ。中学で事件を起こしたけど、大津田は三重から、こっちに引っ越してくることでリセットして高校はアタシたちと同じ私立高校に来た。九九も理解できないバカでも、ごく少ない障害者枠を専願で受験すれば入れるし、普通学級に通える。おかげで周囲は、たんに勉強が苦手でケンカっぱやい男子としか思わなかった。大津田は身長も高いし体格もいいし、顔もハンサムといえなくもないしね。目が犯罪者の目って感じだけど。で、一年生で同じ一年生の女子と1ヶ月だけ交際してる。別れた理由は、放課後に二人でカラオケに行くか、ミクドに行くかで口論になって殴ったから。アホカップルの典型だね。相手の女子は鼻の骨と前歯を折られる重傷だったけど、また示談。アユミンも、たっぷり慰謝料もらうといいよ。ね?」

「……」

 返事はない。

「本当に、たっぷり請求した方がいいよ。卵巣を潰された子は三重で公立高校に進学してたけど、月経不順と自律神経失調に悩んでたらしいよ。月経が2回に1回くらいに減って、量が増えたんだって。腹痛と頭痛も強くて欠席がちだった。これって卵巣を潰されたことと関係ある? 電撃先生」

「変なアダ名をつけないで。診察したわけじゃないから推測にすぎないけど、事件以前には普通に月経があったなら、大いに関係あるでしょうね。その子、どうしてるの? ちゃんと婦人科に通院してる?」

「死んだよ。自殺」

「「………」」

「二年生になって休み明けの始業式、なんとか不登校から脱すべく登校したんだけど、式の最中に月経が来ちゃって、足に血が垂れて、それを周囲に見られたのが直接の自殺原因だったけど、自宅の部屋には、アタシの身体を返して、って書き記したノートがたくさんあった。自殺の方法は、始業式の帰り、列車に飛び込んだ。彼女の両親は大津田家と最初の事件で示談してたけど、追加の慰謝料を請求して、現在、裁判中。ちなみに、アユミンを刺した日の翌日に大津田も出廷して証人尋問がある予定だった。死んだ方がいいバカってのは、いるよね? 産まれてきて、ごめんなさい、って感じの、クズ」

「……」

 また鮎美は返事をしなかった。

「いろいろ調べたんだけど、大津田の発達障害が、どういう病名だったかは不明。ワイドショーでも、いろいろ言ってるけど、信憑性は薄いかな。どっちにしても、そういうのが同じ学校にいるのは問題だよね。処分しないまでも、増えないように去勢して、どっかの島とかに隔離すればいいのに。ガイ児も、精神病も、ホモとかもさ。まともなアタシたちが被害者になるとか、割に合わないし」

「医師として一つ言っておきます」

 今度こそ桧田川が真剣に怒った顔になった。

「健常者が犯罪を犯す確率と、精神的な疾患や発達障害をもった人が犯罪を起こす確率に差はありません。あなたは差別主義者ですか?」

「そうだよ。それが何か?」

「………」

「電撃先生も差別主義者を差別する差別主義者だよね」

「そんなトートロジーに誤魔化されません。障害の中には遺伝子が関係しているものがあることは事実です。けれど、ナチスドイツはユダヤ人と共に精神障害者などを虐殺しました。アメリカは先住民族や精神障害者に対して、断種を目的とした去勢などの強制不妊手術を行いました。この日本でも、つい最近まで優生保護法の名のもとに国が障害者などの不妊手術を認めていました。他に、強制不妊手術を行った国はスイス、オーストリア、ベルギー、イギリス、フランス、スウェーデン、ノルウェー、中国、インド。あなたは正しいと言えますか? それらの国がしてきた事を」

「言えるよ。とても正しい」

「………」

「ユダヤ人とインディアンは別の問題だから除くとして、いろんな国が、ちゃんと審議して決めたことじゃん。1947年、当時の社会党だった加藤シズエ議員は、優生保護法案は他の多くの法案と違って、議員提出であるということに非常に意義がある、とか。悪質の遺伝防止の目的を達成すること、とか発言してるよ。自眠じゃなくて左派がね。まだ、みんな平和ボケ、人権ボケする前だから、ちゃんと理性が働いてたんだよ。それを今になって感情的に、なんだか残酷だから、正しくないと感じるのは、どうなの? ナチスドイツがやったから悪? じゃあ高速道路網の整備も、大衆車の生産も、みんな間違ったことなの? 医師として一つ言うってさ、社会科の知識なんか、センター試験が終わって医学部に入ったら、ぜんぜん習わないでしょ。アタシたち高3と変わらないんじゃない。医師が言うから正しい、ナチスがやったから間違ってる、ステキな差別主義的思考だね」

「…………」

 桧田川が黙る。見た目が可愛いだけの軽くてバカな女子高生と感じていた鐘留が意外にも明晰に語り、桧田川は根深いものを感じた。鐘留は畳みかける。

「でさ、もし自分が被害者だったら、その説明で納得する? お腹刺されて血ぃいっぱい出てるとき、発達障害の人と健常者の犯罪率に差はありませんよ、って言われたら、どんな気分だろうね? 卵巣つぶされてホームで列車を待ってるとき、どんな説明があったら、納得できる?」

「……………。緑野さんは、なにか、そういう被害経験があるの?」

「別に何も」

「では、どうして、そこまで…」

「え? 自分が被害者じゃないと、何か言えないの? 被害者の言うことは無条件で正しいの?」

「そういうわけでは……」

 桧田川と鐘留の会話は鮎美がスイッチを2回連続して押したので中断された。

「ごめん、アユミン」

「ごめんなさい」

「……」

 鮎美は笑顔をつくって軽く頷いた。

「アユミンを刺した大津田については、だいたい、このくらい。いずれ親がお金もって詫びに来るんじゃないかな。あとは月ちゃんとアタシを秘書補佐にするって話だけど、どっちの二人も問題あると思わない? 一人は変な宗教やってるし、もう一人は性格が悪いし」

「………」

 鮎美は可笑しそうな笑顔になっている。

「まあ、ヒマなときは頑張ってあげるよ」

「……」

 鮎美はスイッチを1回だけ押した。

「うん、じゃ、またね。バーイ」

 鐘留が面会を終え、桧田川は映像の双方向送信は残したまま、音声送信は切る。鐘留は帰宅するために分厚い防寒着に身を包み、ゴーグルやマスクをしていく。それを見ていた桧田川が気になって問う。

「もしかして、皮膚に何か病気があるの?」

「ないよ。寒いのが嫌なだけ」

「……。少しは紫外線を浴びないと、逆に病気になりますよ」

「大丈夫、おうちのガラス張りテラスで日光浴するから。アタシの美しい肌に日焼けあとが残らないように裸で5分だけ」

「それは合理的だけど……それに肌もキレイだった。ね、ちょっと、もう一回、お顔を見せてよ」

「いいよ、どうぞ」

 機嫌良く鐘留は防寒装備を外して素顔を見せる。

「さすが女子高生、ピチピチしてる、しかも冬の乾燥した空気に晒してないから、赤ちゃんなみの肌」

 桧田川が美容外科を志す医師として、鐘留の頬を感動しながら撫でる。鐘留もプロに誉められて嬉しいので調子に乗った。

「身体も見せてあげようか?」

「うん、見たい、見たい」

 鐘留は冬制服の上着とブラウスを脱いでみせた。ついでにブラジャーも外す。

「本当にキレイな肌ね。日焼けあとが、ほとんどない。夏はどうしてるの? まさか夏も全身隠してる?」

「んな死ぬほど暑いことしないよ。制服改造して肩とお腹も出してるけど、ちゃんと日焼け止めを塗るし、時間を見つけて露出してない胸とか股間も自宅で焼くから、日焼けあとの差がでないの」

「完璧主義ね♪」

「まあね♪」

 ますます鐘留は嬉しくなったのでスカートのチャックもおろしていく。

「下も見る?」

「見る見る」

 鐘留が靴と靴下だけの姿になった。

「どうよ、アタシってキレイでしょ」

 冬服になってから露出のチャンスが極度に減ったので楽しそうにポーズを取っている。

「すっごいキレイ………毛の処理も完璧、これレーザー処理、どこでしてもらった?」

「わざわざ東京に行ったよ」

「小さな火傷跡もないのに、毛根は一つも残ってない。かなりベテラン医師が調整しながら焼いてる。いくらかかった?」

「720万円」

「でしょうね」

 まじまじと顔を近づけて桧田川は鐘留の腋と股間を見る。股間には金色の鐘が彫られていた。

「タトゥー入れちゃったんだぁ……惜しいなぁ、タトゥーと二重の手術がなければ、完璧なのに。でも、わかる気もするかな、私でも、あえて彫りたいかも。けど、この二重の手術は、はっきり言って下手くそよ。どんな医院で受けたの?」

「たまたま広告を見かけた三上市の医院………そっか、これ下手なんだ。なんとなく対応が悪かったから、脱毛は高くても東京まで行ったの……やっぱり田舎じゃダメなんだ…」

 鐘留が悲しそうにすると、桧田川は顔を近づけて指先で鐘留の瞼に触れる。

「この最後の縫い方がね、強すぎるから不自然になるの。私なら、もっとキレイにできるよ。再手術は難しいけど、やってやれなくはない」

「………。……どうしようかな……」

 鐘留が迷った表情を見せているとき、鮎美をモニタリングしている機器類が警告音を発した。桧田川が振り返ると、鮎美の心拍数が大きくあがっている。

「芹沢さん、どうしたの? ……あ、……もしかして、変な誤解した?」

「アタシたちの姿、まだ見えてたんだ。そりゃ変かもね」

 鮎美へはモニター室全体の映像は送られているけれど、音声は止められているので、会話がわからないまま、鐘留が裸になり、桧田川が顔を近づけて見つめていることしかわからない。かなり焦った顔で、こちらを見ていた。

「ごめん、ごめん、変な誤解をしないでね。ちょっと肌を見てただけだから」

 音声送信を入れた桧田川は会話の成り行きを説明してから付け加える。

「ってことだから、私は同性愛者じゃないよ。変に想わないでね」

「きゃははは、アユミンってばアタシが襲われてると思った?」

 そう笑う鐘留は、まだ裸でポーズを取っている。もともと簡単に脱いだのは桧田川が白衣を着た女性医師だったということも大きい。

「そんなに堂々として。それだけ完璧な身体だと、恥ずかしいって気持ちゼロでしょ? むしろ、誇らしいくらいの」

「まーね♪」

「モデル並み、モデル以上かも」

「元モデルだよ」

「どおりで」

 もう一度、桧田川が鐘留の肌に触れようとしたとき、今度はモニター室の扉を陽湖が開いた。陽湖の背後に屋城もいる。

「っ…な、何してるんですか?!」

 陽湖は驚き、屋城は冷静に背中を向けている。

「あ、月ちゃん。本当にアユミンへ説教するためマスターブラザーを連れてきたんだ」

「ブラザー愛也に変な階級をつけないでください! 神の前に、みな平等です! そ、そんなことより、そのカッコは何ですか?!」

「シスター陽湖、激昂してはいけません」

 屋城が背中を向けたまま言った。さすがに鐘留は服を着る。

「アタシは説教に興味がないから帰るよ。頑張ってアユミンを勧誘してみて。寝たきりだから弱気になって効くかもよ。洗脳が」

「「……」」

 陽湖と屋城は反論せず、鐘留は鮎美へ挨拶してから帰った。陽湖と屋城がモニターの前に着席する。

「シスター鮎美、幸いにしてブラザー愛也の予定が空いていましたから同行いただきました。かまいませんか?」

「……」

 鮎美がスイッチを1回押した。屋城がマイクに向かって話す。

「聖書に興味をもっていただいたことは幸いです。おうかがいしたいのですが、今のあなたは神を信じていますか?」

「……」

 鮎美が迷いなくスイッチを2回押した。屋城は平静に問いを重ねる。

「単なる好奇心ですか?」

「……」

 また2回押した。

「では、お母様が洗礼を受けられたことが遠因ですか?」

「………」

 少し間があって1回押した。

「お母様を喜ばせたいと、お考えですか?」

「……」

 また1回押した。それで屋城は頷き、聖書を開いた。ゆっくりと聖書の朗読と説教を始める。その説教は内容が深く、鮎美は静かに聴き続けた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る