第27話 1月10日 成人の日、そして事件
翌1月10日の月曜日、成人の日だったので18歳として予定のある鮎美は早朝から目を覚ましていたけれど、布団の中にいた。
「……嫌な顔やね……」
スマートフォン画面に映る自分の写真を見て、つぶやいている。
「………まさにサタンや…」
山頂で撮った写真だった。陽湖を脅すためにシャッター音を出すとき、自撮りモードにしていたので何枚も自分の顔が撮れている。かなりのアップで撮れた写真は自分でも嫌になるほど、醜い顔をしていた。
「どこまでも最低やな……」
自分が生理現象を我慢できなくなって外で済ませたことを人に言わないでほしいと頼んだ直後に、陽湖も我慢できなくなったのを利用して撮影したフリをして脅迫するという卑劣極まる策略をろうしてしまった。けれど、そんなことをした理由はある。母親が宗旨替えしてしまったことは、まるで母親を盗られたような嫌な気持ちがする。鮎美も美恋も、とくに熱心な仏教徒でも神道家でもなく、なんとなく初詣は神社へ、お盆は寺と墓へ、そんな緩やかな日本人らしい心情でいたのに、それを変えられてしまった。
「何が唯一絶対の神やねん……八百万の神々でええやん」
再び鮎美は自撮り写真を見る。本当に、これが自分なのかと思うほど、嫌な顔だった。その嫌な顔を、あえて待ち受け画面に設定した。
「二度と、同じ失敗はせんとこ」
鷹姫が好きな戦国時代の故事に習って、三方原の敗戦の後に徳川家康が自画像を描かせて戒めにしたことをスマートフォンで再現した。布団から出て、制服に着替える。式典なので、なるべく着古していない新品に近い物を選んだ。髪をとかして洗顔のために一階へおりると台所に美恋と陽湖がいて朝食の用意をしている。
「おはようございます、シスター鮎美」
「おはよう、…シスター鮎美」
「……おはようさん」
朝からケンカしたくないので気持ちの悪い呼び方については触れず、通り過ぎようとしたけれど、やっぱり虫酸が走るほど気持ちが悪いので詰問する。
「なんで、母さんまでシスターって、うちを呼ぶの? シスターは姉妹って意味やろ? おかしいやん」
「それは…」
美恋が言い淀むと陽湖が説明する。
「神の御前に、私たちは、みな平等に兄弟姉妹なのです」
「ああ、そうでっか。平等と言いつつ、しっかり性別だけは分けるんやね。差別主義な神や。親子でさえ平等やのに、男女別でっか」
「「………」」
「あとな、あんたら知らんと思うけど、シスターって女同士で呼び合うの、かなり昔に流行った女性同性愛者間の隠語やよ。エスとも言う。今ではエス言うたらSMのエスやけどね」
「そんな淫らな話は聴きたくないわ!」
「っ…」
こっちかて気持ち悪い呼び方を母さんにされたくないわ、という言葉を飲み込んだ鮎美は洗顔してから父親が読んでいる新聞を分けてもらう。主に政治欄と地方欄に目を通しながら朝食を待った。
「いただきます」
「「………」」
「……」
美恋と陽湖が祈り、玄次郎が威張る。鮎美は食べながら言った。
「父さん、しょーむないこと、もうやめい。さっさと食べい」
「そうか……習慣化してくると、だんだん総統な気分になってたのにな…」
「あ、もしかしてユダヤ教徒を虐殺した総統の真似をすることで、あえてアブラハムの宗教のくだらなさを暗に指摘してたりした? それなら続ける?」
「いや……そこまで深く考えてない。そういえば、そうだったな。鮎美は物事を深く考えるようになったな」
「父さんが浅すぎるねん」
「これからは琵琶湖くらいの深みをもつよ」
「微妙な深さやなぁ」
「では、娘の歴史認識を深めてみよう」
「どうやって?」
「ナチスが虐殺したユダヤ人の数だが600万人というのが定説だが、これを否定する説もある。いわゆる南京事件と同じに、それほどの数を虐殺したなら、南京市の人口は減っていたはずというのと同様に、戦前戦後でユダヤ人の総人口は大きく変動していない。また、ガス室があったというが、詳細に検証すると無かったのではないか、という声もある。鮎美、虐殺されたユダヤ人の名前を一人でいい、あげてみろ」
「………一人しか知らんけど、アンネ・なんとか?」
「アンネ・フランクは600万人の中での、わずかに有名な一人だが、彼女は、どこで、どういう風に最期を迎えた?」
「…アウシュビッツとかいう収容所でガスで殺されたんちゃうの?」
「正解は労働収容所ベルゲン・ベルゼンで亡くなっているし、死因は病死、当時流行していたチフスによるものだ」
「病死やったんや………イメージで、ガス処刑かと思ってた」
「そのイメージは、あまり訂正されない上、ユダヤ人を殺すためのガス室があったとされる絶滅収容所アウシュビッツから、アンネらは労働収容所ベルゲン・ベルゼンに移送されている。つまり殺すのではなく労働力として利用しようとしたわけだ」
「強制労働かぁ……シベリア抑留と似たような構図かな……」
「戦時下だ、連合国側も枢軸国側も、かなりの野蛮行為はあったろう。だが、やたらと膨れあがる枢軸国側の罪状、とくに犠牲者数は南京事件でも諸説あるし、ホロコーストでは600万人がもっとも定説である上、これが戦争裁判でドイツがイスラエルへ支払う賠償金額に算定されている。ところが、とうのユダヤ人協会が発行している人口統計に出てくる数字でさえ、戦前1900万人、戦後1850万人で幻の550万人が含まれるし、減少した50万人を全員がナチスドイツによるものとして、ようやく50万人だ。まるで南京事件の被害者数が0から30万人まで諸説あるように、ずいぶんと、どんぶり勘定の言った者勝ち感がある。広島の原爆による犠牲者数がこんな風に諸説ある、などと紹介されることはない。諸説ある、という時点で、胡散臭さが生じるし、なおかつ賠償金がからむなら、なおさらだ」
「勝てば官軍か…」
「まあ、でも、鮎美はホロコーストを否定するような発言はするなよ。すくなくとも議員であるうちは。オレの知識だってネット経由だ。ドイツ語や英語の原典を見たわけじゃない。ただ、原爆は投下の正当性が争われることはあっても犠牲者数で論争されることはない。歴史も教科書通りとは限らないってわけだ」
「たしかに、明智光秀とか、石田三成は長いこと、悪い風に言われたもんなぁ……」
父と娘で会話し、そして母と陽湖は別の会話をしている。同じ食卓を囲んでも、やや分断された家族は表面的には穏やかな朝食の時間を過ごしている。とくに鮎美が同性愛者であることを認めたことも考えれば、穏やかすぎたかもしれない時間だった。その朝食を終える頃に鐘留が訪ねてきた。
「ハーイ♪ おはよう」
「おはようさん。………そのカッコ、知らんかったら不審者としか思わんな」
鐘留は全身を防寒してるので、少しも肌が見えない。真冬の登校時はスキーウェアのような上下にコートも着込み、毛皮の帽子と防寒マスク、ゴーグルまでしているのでシベリアに行くのかと思うような姿だった。しかも、今日は手袋も分厚い。
「ごっつい手袋して」
「だって今日は漁船で阪本市まで行くんでしょ。超寒いよ、きっと」
成人式は学園ではなく阪本市の湖岸にある大きな施設で行われる。そこは阪本駅から交通の便が悪く、多くの生徒たちは保護者と自家用車で出向くけれど、鮎美たちは島から六角駅へ行くだけでも時間がかかり、湖上交通の試用ということで島内の漁船をチャーターしていた。そうすることで経費から島へ現金を落とせるので、地元が潤う。物好きな鐘留は、その話を聞いて同乗を望み、両親と朝一番の連絡船で島へ来ているし、陽湖の両親も顔を出した。
「「いつも娘がお世話になっております」」
陽湖の父である月谷啓治(けいじ)と母である月谷陽梅(ひうめ)が頭を下げている。玄次郎と美恋も保護者同士として頭を下げる。
「いえ、こちらは楽しく過ごさせてもらっていますよ」
「よく家事も手伝ってくれて、シスター陽湖がいてくれて助かります」
挨拶だけで終わらず、啓治が右手を出してきたので玄次郎は、たまに社会人として握手することもあるので自然と応じたけれど、陽梅と美恋まで握手しているのには違和感を覚えたし、さらに陽梅に握手を求められ、それにも応じたけれど違和感が続き、啓治と美恋まで親しく握手しているのは複雑な気分だった。鐘留の両親とは日本的な挨拶だけで終わり、全員で港へ出ると、鷹姫と父の衛、継母の郁子と妹二人もいた。鷹姫と衛は和装で、鷹姫は晴れ着を、衛は何代も前から所持している紋付き袴を着ている。郁子と妹二人は平服なので同行しないのだと、わかった。
「うわああ♪ 鷹姫、超キレイやん!」
「シスター鷹姫、とても美しい姿です」
「宮ちゃん、和装が似合うねぇ」
「……ありがとうございます……」
郁子に着付けてもらい、髪も結い上げてもらった鷹姫は誉められて照れ臭そうにしている。高校生として迎える成人式は制服でも晴れ着でもよいことになっているので、宮本家は和装を選んだようだった。鷹姫が高給をもらうようになり、はじめて大きな買い物として購入した晴れ着は赤と橙を基調とした華やかなもので、鷹姫の女ぶりをこの上なく高めているので鮎美は見惚れた。
「鷹姫……ホンマにキレイやね……」
「……芹沢先生のおかげです……。予想以上に動きにくいのが難ですが……」
鷹姫が剣道の構えを取ったので、鮎美はやめさせる。
「今日は剣のことは忘れて、お姫様してい。鷹姫のお母さんかて、それを望むから、あんたに姫の字を与えたんやと想うよ」
「はいっ」
頷いた鷹姫は、いつもはしない女性らしい仕草を心がける。そうされると、鮎美はますます見惚れた。
「鷹姫、撮らせて」
スマートフォンを構えて撮影する。何枚も撮って、一番いい写真を待ち受け画面に設定した。やっぱり自分の醜い顔より、ずっといい。背中に母親からの心配そうな視線を感じるけれど、無視した。
「お姉ちゃーん! いってらちゃーい!」
「いちゃちゃーい!」
鷹姫の5歳と3歳の妹と継母に見送られて、鮎美たちを乗せた漁船は島から西へ進路を取る。阪本市北部にある大礼拝堂を目指した。陸路では大きく迂回しなければならないのに、水上を行けば10数キロで済む。とはいえ、吹きさらしの漁船は寒かった。数十分の船旅で、制服やスーツ姿の鮎美たちはコートを着ていても寒さに震えた。震えなかったのは完全防備の鐘留と、鍛え上げている鷹姫と衛だけだった。
「う~寒っ…カネちゃん、その下は制服? 晴れ着?」
「制服だよ」
「金持ちなんやし、晴れ着にせんの?」
「動きにくそうだからヤダ。しかも、アタシのプロポーションの意味がないよね?」
「その完全武装でプロポーション言われてもなぁ」
「アユミンは寒そうだね。きゃははは!」
鐘留は船の舳先に立って、両手を水平に広げた。寒風が直撃しているけれど、防寒のおかげで平気そうだった。鐘留の視線の先に大礼拝堂が見えてくる。
「アホみたいにデカいもの建てて」
「おお、素晴らしいな」
玄次郎が興味をもって見ている。大礼拝堂は湖岸にそびえ立ち富士山を思わせる形をさらに曲線的に洗練させた設計で銀色に光り輝いている。
「あそこにラスボスがいそうだよね。玄次郎」
「………。なぜ、オレの名を知っている? そして、なぜに呼び捨て?」
「アユミンのパパでしょ? じゃあ、アユパパは?」
「そんなマダガスカル島あたりの部族みたいな」
「すみません! 育て方を間違えました!」
鐘留の父親が失礼な娘を取り押さえる。玄次郎は気にせず大礼拝堂を見つめた。
「いい曲線だ。どの方向からでも太陽を反射するのか、なるほど神々しいな」
「父さん…まさか、父さんまで入信するとか言い出さんといてよ」
「あなた、一度、いっしょに日曜日の礼拝へ参加してください」
「ほら、食いついてきた」
「オレは、ただ建造物として素晴らしいと思ってるだけだぞ。たしかに神を感じさせる、いい造りだ。こういう宗教施設は、たいてい関係者以外立入禁止だから堂々と入れるのは嬉しいな」
「琵琶湖の景観を崩してるだけやん」
「アユミン、なんかご機嫌悪いね? 月ちゃんをときどき睨むし。何かあった?」
「大有りや! うちの母さんをアホな宗教に勧誘しおって! 入会させよってん!」
聞こえよがしに鮎美が怒鳴ると、陽湖が背筋を伸ばして声をあげる。
「シスター美恋には昨夜、私が洗礼を施しました。受洗は彼女自身の意志であり、神の導きです」
「ちっ……沈めたろか。琵琶湖に!」
「え? え? マジ? マジでアユミンのママ、宗教やるって? マジ?!」
鐘留が驚きながら美恋を観察する。美恋も背筋を伸ばした。
「はい。私は神が指し示す正しい道を行きます」
「うわぁぁっ……本気だよ。目がマジだよ。やばいね、アホって伝染するんだ。伝るんだ、バカが拡がってるよ」
「「………」」
鮎美と玄次郎は家族をバカにされて反論したい気持ちと、鐘留の言い様が低俗でも否定できない気持ちで板挟みになった。鷹姫も問う。
「本当に芹沢先生のお母様はキリスト教の信仰を始められるのですか?」
「はい」
「そうですか……………」
鷹姫が心配そうに鮎美を見てくる。鮎美は泣きたくなって、悪態をついた。
「秀吉と家康の苦労が、よーわかるわ。こいつら、何を言うても無駄やねん。殺すしかない。踏み絵させて磔や。イエスと同じ殺し方にしたろ」
「「………」」
美恋と陽湖が黙っていると、陽梅が美恋の肩を抱き、啓治が娘の頭を撫でた。撫でられて陽湖が言う。
「シスター鮎美は、大学の設置にも協力してくださり、とても良い人です。お父さん、お母さん、どうか誤解しないでください」
「ああ、わかっているよ」
「きっと、彼女も気づいてくれるはずよ」
「ちっ……どうせ、今はサタンが言わせてるだけとか、そういう発想やろ。ホンマムカつくわ。いっそ安土城が近いし、第六天魔王とでも思っておけ!」
「信長ですか……ですが、第六天魔王は仏道の妨げをする存在、信長は宣教師を受け入れて布教を許可したのですよ?」
鷹姫の指摘で鮎美が勢いを失う。
「うっ、細かいことを……」
「私としては芹沢先生のイメージは江姫だったのですが……」
「う~ん……そうなん? …姫は……うちのイメージかなぁ……せいぜい堺の商人とか………ほな、鷹姫の自己イメージは?」
「私は江姫に仕える近衛の一兵士となれれば、幸甚です」
「一兵士て……、いっそ、徳川秀忠になって、うちを守ってよ」
「2代将軍ですか、畏れ多い」
「うちと結婚するの嫌?」
少し恥ずかしそうに鮎美が問い返したとき、漁船が大礼拝堂最寄りの船着き場へ到着した。一人ずつ桟橋へおりていき、鮎美は狙って鷹姫の直前におりてから、鷹姫へ手を差し出した。晴れ着なので歩幅が限られていて、船の乗り降りは危ない。乗るときは父親が自然に助けていたので、今度は鮎美が手を貸したかった。少し気取って言う。
「お姫様、お足元が危のうございます。お手を」
「クスっ……さっきの話と逆ですね」
「たまにはね」
鷹姫の手を握り、エスコートした。少し歩いて大礼拝堂へ着くと、すでにマスコミが集まっていてフラッシュを焚かれた。鮎美は慣れているので会釈して、いい表情をつくったけれど保護者たちは不慣れなので緊張しながら歩く。大礼拝堂の敷地に入ると、マスコミの数は減った。許可された数社しか入っていないようで静粛が保たれている。建物に入ると、高い天井の広いホールで、備え付けの椅子が並んでいる。ざっと3000人が座れそうな広さだった。その中央に成人を迎える鮎美たちの席があり、答辞をする関係上、鮎美と陽湖は最前列に並んで座り、そばに鷹姫と鐘留も座った。座った鐘留は手袋を脱ぎ、コートも脱ぎ、どんどんと装備を外して完全防寒から制服姿へとチェンジしていく。
「はぁ……暖房、いい感じにきいてるね」
「そやね。……えっと、……陽湖ちゃん、しばらくケンカすんのやめよか」
「はい。私は一度もケンカした覚えはありませんが、仲良くするのは賛成です」
これから大役があるので一時的に関係を修正した。
「原稿ある?」
「はい、どうぞ。漫才はカットしてますよ」
「やっぱりな」
鮎美は原稿へ目を通していく。無難な答辞内容で宗教色も無かった。式が始まり、校長の挨拶に続き、屋城が短く聖書に由来する話をして、続いて衆議院議員の西沢が祝辞をくれる。
「みなさん、おめでとうございます。また、保護者のみなさまも、今日まで育ててこられたご苦労と、無事に今日を迎えることができた…」
政治色も宗教色もない、ごく無難な祝辞が送られ、鮎美たちの番が来る。もともとは生徒代表は陽湖一人の予定だったけれど、鮎美が参議院議員になったことで抜擢されつつも、例年の慣行もあり陽湖もおろされることなく、二人での答辞となる。
「今日この日を」
「迎えることができ」
「私たちは」
「晴れて一人の大人として」
鮎美と陽湖が交互に話すスタイルをとっての答辞だった。
「大人としての責任と自覚をもって」
「何事にも全力で」
会場は静粛でテレビカメラが鮎美たちを生中継している。多くの保護者は子供が成人してくれたことを心から喜んでいるし、一部は涙ぐんでいる。とくに母親たちはハンカチを濡らしていた。対して生徒たちの多くは冷静で、いよいよセンター試験が近づいている者もいるので一部は式典を無視して単語帳や参考書を見ていたりするけれど、教師たちは大目に見ている。一年生と二年生も静かに座っているけれど、やはり退屈していたし、冬休みの宿題を写している者もいる。
「お父さん」
「お母さん」
「今日まで」
「「ありがとうございました!」」
答辞が終わり、拍手が起こる。無事に式典が終わり、まずは西沢たち来賓が退場し、次に司会者が三年生の退場を告げる。
「卒業生退場! …し、失礼しました。成人された三年生、退場! みなさん、拍手で送り出しましょう!」
ありがちなミスに笑いが起こりつつ、鮎美たちが退場する。
「気の早い卒業やね。クスクス」
「人の失敗を笑うのはいけないことですよ」
一年生と二年生の間にある花道を抜けて、ゆっくりと退場していくときだった。
「芹沢ァァッ!!」
二年生の中から一人の男子が猛然と迫ってきて、鮎美は最初、握手でも求めてくるのかと暢気に思っていたけれど、男子の手には刃物があって強い敵愾心を目に宿していた。
「え…」
「っ…シスター鮎美っ……」
突き出されてくる刃物の前に、鮎美も陽湖も何もできなかったけれど、二人の背後にいた鷹姫は動いた。
「危ない!」
鮎美を守ろうと、刃物を恐れず前に出ようとしたけれど、晴れ着のせいで素早く動けない。
ズッ!
刃物は出刃包丁で、その刃先が鮎美の腹部へ突き立てられる。
ベシッ!
深く刺される前に、鷹姫が手刀で男子の手首を叩き落とした。
スパッ…
それでも刺さっていた刃は鮎美の下腹部を斬り裂き、大きな傷口をつくった。
グッ…
鷹姫は男子の襟元をつかむと、柔道の投げ技である払い腰をかけて床に叩き伏せる。通常は相手を慮って受け身がとりやすいように手を引くところを、床へ叩きつけるように落として、さらに腕をとって肘を折る。晴れ着の裾を脚力で開いて、男子の腕を両脚で挟み込み、肘を反対に折り曲げた。
ベキッ!
骨の折れる音が鷹姫の内腿に伝わってくる。
「うっ……うわあああああ?!」
男子の悲鳴が大礼拝堂に響き渡る。それでようやく周囲は異変に気づいて騒ぎ出した。
「ぃ、今! 芹沢議員に何者かが! あ、あれは生徒でしょうか! 生徒の一人が芹沢議員に刃物をもって襲いかかった様子です!」
二階席で、ずっと静かにしていたテレビ局のレポーターがマイクを握って叫んでいる。
「血が…、芹沢議員は刺された模様です!」
「シスター鮎美?! 大丈夫ですかっ?!」
「……うん………大丈夫……ちょっと……痛い………痛い、だけ……うっ…うううっ…」
鮎美は微笑をつくろうとしたけれど、傷は小さくないようで焼け付くような痛みがジワジワと激しくなってくる。
「うううっ…ううっ…くううっ…」
立っている鮎美の両脚が腹部からの血に染まって赤くなる。臍の下あたりを刺されたようでスカートの前が斬られている。鮎美が両手で押さえても、指の隙間から血が溢れてくるし、どんどん両脚の内腿も生温かく濡れていく。
「キャーーっ?!」
「うわーーっ?!」
出血を見て生徒の一部が悲鳴をあげている。陽湖もパニックになった。
「ど…ど、どうしたら…きゅ…救急車!! 救急車を呼んでください!! 誰か!!!」
やっと教師たちも事態の深刻さに気づいて、救急車を呼ぶ。けれど、警察は呼ばずに済ませられないかと迷っていた。鮎美を刺した男子は、ずっと鷹姫が押さえ込みをかけている。腕十字で肘を折った後は袈裟固めで押さえている。両脚を大きく開いていて、晴れ着の裾が乱れて下半身があられもない姿になっているのを、気のつく女生徒が上着を脱いでかけてやり、一部の心ない男子がスマートフォンで撮影しようとしていたのを阻止してくれた。会場は騒然となり、鮎美の両親は生徒たちを掻き分けて娘のもとへ駆けつけた。
「鮎美?!」
「鮎美っ?!」
「ハァっ…くっ…ぅぅっ…痛いっ…ぅうっ……病院に…」
もう鮎美は立っていられず、下腹部を押さえて丸く蹲っている。その腰回りには血だまりができていた。あまりの激痛に冷や汗と涙を流して青ざめている。
「鮎美、すぐに救急車が来る! しっかりしろ!」
「鮎美! 鮎美! あああ! 鮎美ぃ!! イヤよ! イヤ!! どうしてこんなことに?! どうしてアユちゃんが?!」
「パニックを起こすな! 誰か!! 会場の外に出て救急車の誘導を頼みます!」
「あなた、どうしてそんなに落ち着いてるの?! いつもそう!!」
「慌てたって無意味だ! お前も落ち着け!!」
「だって! アユちゃんが!! こんなに血が!!」
「喚くな! 本人までパニックになる! お前は神にでも祈ってろ!」
「っ……神さま! 神さま! どうか鮎美を助けてください! 神さま!」
美恋は本当に祈り始めたし、一部の生徒と教師たちも祈り始める。信仰心が本物なので強い祈りだった。鮎美は蹲った状態から、さらに倒れそうになる。それを玄次郎が抱きとめてくれた。
「鮎美、気をしっかりもて!」
「ううっ…痛いっ…痛いよ……ううっ…父さん…痛いっ…」
「痛いぃい! うわああ! 離せよ!! チクショー! うわああ!」
腕を折られた男子も鷹姫に押さえつけられながら喚いている。
ガブッ…
袈裟固めで男子の身体へ斜めにのしかかっている鷹姫の肩を噛んできた。
「くっ…」
鷹姫は噛まれても身を引かず、逆に肩を相手の顔へ押しつけて呼吸を妨げ、それで相手が噛むのをやめた瞬間、袈裟固めを解き、再び折っていない方の腕を両脚で挟むと、また腕十字をかけた。
ベキッ!
「うああああ?!」
「ハァ…ハァ…これで抵抗できないはず…」
相手の両腕を折った鷹姫は鮎美の様子を見に行きたくて背中を向けた。
「うああああ! チクショー!!」
鷹姫の背中へ男子が突進してくる。両腕を折られているのに頭から突っ込んでくる。鷹姫が振り返ったときには、もう避けている間はなかった。
「っ…」
周りで見ていた生徒たちは一瞬、鷹姫が頭突きを受けて倒れたのかと思ったけれど、それは巴投げだった。鷹姫は相手の襟元を両手で持つと同時に後方へ倒れ、片足を相手の下腹部へあてると、自分が倒れる方向へ相手を投げた。男子の身体は宙を舞い、そして床に叩きつけられる。
ドンッ!
「ゲホッ…」
「…」
さらに鷹姫は素早く起き上がって相手の首を背後から絞める。道着の有無に関係なくできるチョークスリーパーだった。相手の首へ右腕を巻きつけ、前腕と二頭筋で頸動脈を絞めつつ、左腕で絞めを補強しながら左手で相手の後頭部を前へ押し出す。技は完璧に決まり、一瞬で男子は意識を失った。ぐったりと動かなくなり、崩れる。
「……ハァ……ハァ……やっと…」
「…こ……殺した?! 大津田を」
「キャーーっ!!」
格闘技を知らない生徒たちが、鷹姫が絞め殺したのだと勘違いして驚いている。
「芹沢先生は?!」
騒がれても鷹姫は気にせず鮎美の方へ駆ける。
「芹沢先生はっ?! っ…」
鷹姫は鮎美の姿を見て凍りついた。鮎美の下半身は朱に染まり、顔から血の気が無くなり、苦痛に震えている。
「ハァ…ぅぅ…痛い…ううっ…」
「シスター鮎美、どうか気を確かに! きっと神の加護があります!」
「神さま! 神さま! 鮎美を助けてください、神さま!」
「…父さん……ぅ…うち、……死ぬの?」
「大丈夫だ! しっかりしろ! すぐに救急車がくる!」
「……ぅううっ……イヤやっ……なんで…うちが……死……」
「鮎美……くっ、……」
玄次郎は泣かないように歯を食いしばって、娘を励ますために笑顔をつくろうとしたけれど、無理だった。夥しい量の出血で鮎美は下半身は生温かいのに寒くなってきた。見上げると天井が高い。偶像崇拝をさけていても、神秘的な造りを意図して設計された天井の骨格を見ていると、吸い込まれそうな気がしてくる。
「……うち…っ……ここでっ……死ぬんやっ……」
どうして刺されたのか、そんな考えてもわかりそうにないことより、鮎美は死を感じて、この世に罪を残しておきたくないと想った。泣きながら励ましてくれている陽湖を見る。
「陽湖…ちゃん……これ…」
鮎美は血まみれの手で制服のポケットからスマートフォンを出して陽湖へ差し出した。
「耳…かして…」
「シスター鮎美…」
陽湖は鮎美の口元へ耳を近づけて話を聞く。
「撮ってないよ……あのとき…」
「っ……」
そう言われて、あのときというのが山頂でのことだと陽湖にも、すぐわかる。鮎美は涙を零しながら続ける。
「…自撮りモードやったから……陽湖ちゃんの姿は写ってない……心配やろ……確かめていいよ……ロック解除は、0403……さんざん、ひどいことして……ごめんな…」
「シスター鮎美……そんなこと言わないでください……まだ、あなたは…」
「ホンマ……ごめん……うち……あんたに母さんを盗られたみたいに感じて……ごめん…」
「ううっ…ううっ…シスター鮎美! 死なないでください! お願いです!」
陽湖の涙が降ってくる。それが温かくて、鮎美は自分の身体が冷たくなっているのだと感じた。もう死ぬのだと想うと、あと一つ心残りがある。目で鷹姫を探した。こちらを見て鷹姫も泣いている。
「鷹姫…」
「っ…はいっ!」
「あんたに会えて、よかった……」
「っ…鮎美っ…死なないでください! お願いですから!」
「ごめんな……好きよ、鷹姫」
「っ…ううっ…私も、あなたが好きです。だから、死なないで!」
「大好きよ……鷹姫……」
鮎美は手を伸ばして鷹姫に触れようとして、血に染まった手で触っては晴れ着を汚してしまうと、こんなときなのに気にして手を引っ込めようとしたけれど、鷹姫が握ってくれた。
「鮎美、どうか生きてください! すぐに救急車が来ます! もうサイレンが聴こえる!」
「……好きよ……あんたのこと大好きなんよ……ぁ…愛してるから」
「鮎美……」
「負傷者は、こっちです!!」
教師の声が聞こえて、担架を持った救急隊員が会場へ入ってきた。
「負傷者は1名ではなかったのですか?!」
救急隊員が血に染まった鮎美と、両腕が変な方向に折れ曲がり意識を失っている男子を見て迷っている。
「どちらを先に……」
「こちらです! その者は絞め落としただけです!! 早く! 芹沢先生は国会議員です! 早くなさい!」
鷹姫が一喝すると救急隊員は鮎美のそばに担架をおろした。
「担架に移します」
「そっと持ち上げますから、我慢して」
「動かないように」
救急隊員3名が鮎美の身体を静かに持ち上げ、担架へ移してくれる。
「ぅうっ…痛いっ…」
動かされると、下腹部の傷が疼いた。
「ハァ…ハァっ…ううっ…」
「このシートで腹部を圧迫します」
救急隊員は吸収体と防水シートが一体になった四角いシートで鮎美の腹部を押さえ、それをバンドで巻くと、鮎美の全身を担架に固定するためベルトで脚と胴体を巻き、頭部をクッションで固定してくれた。
「付き添いされる方は?」
「私が!」
「オレが!」
「ご両親ですね? いっしょに来てください」
「ぅぅ…ハァ…ハァ…」
鮎美は鷹姫に付き添って欲しかったけれど、両親に付き添われて救急車へ運ばれる。担架ごと持ち上げられ、会場を出るとき、鮎美を心配してくれている生徒が大半だったけれど、ごく一部の三年生がセンター試験対策の参考書を読んでいるのを見た。
「……」
うちが死ぬか生きるかってときに、どこまでも他人事なんや……人間って……何やろ……、と鮎美は人の身勝手さと、他人事は他人事でしかないということを思い知った。
「ぅぅ…ハァ…ぅぅ…」
「こちら阪本消防救急隊02号、負傷者は2名でした。追加要請は入っていますか?」
救急隊員が無線で本部へ連絡している。それが終わると病院へ電話をかけ始めた。
「18歳、女性、腹部に刃物による切り傷です。バイタル安定、意識あります。受け入れ可能ですか? ………。わかりました」
最初の病院は内科医しかいないと断られたようで次の電話をかけている。
「早く! アユちゃんを早く病院に運んでください!」
「お前は落ち着け」
「ぅぅ…ハァ…」
鮎美は担架の上から救急車の天井を見上げた。近くにモニターがある。よくわからないけれど、それは鮎美の血圧や脈拍、呼吸を計っているようだった。
「神さま、神さま、お願いです、どうか鮎美を助けてください、神さま、この子がバチ当たりなことを言ったことは私の罪です、どうか、この子は助けてください、お願いします、お願いします」
「母さん……ハァ……ぅぅ…」
一時は鮎美も死を覚悟したけれど、だんだん自分は死なないような気がしてきた。傷の痛みも激痛ではあるものの、少し落ち着いているし、何より出血が少なくなっている気がする。
「神さま、どうか、どうか、お許しください、神さま」
「………」
ちゃうで母さん、陽湖ちゃんらが信じてる神さんは、サマとか敬称はいらんねん、神って言葉そのもので十分やねん、もしくはエホパな、あと人を罰したりはせんらしいよ、許すも許さんもなしに愛してくれてはるねん、そもそもバチ当たりって発想は日本のものやし、にわか信徒やね、まだまだ教義、理解してないわ、と鮎美は考える余裕ができていた。
「…ハァっ…」
もう一度、モニターを見上げ、そこにある数字の意味を考えてみる。やっぱり、医学的知識がないのでわからないけれど、西村が危篤状態になったときに比べると、なんとなく良い数字なような気はする。
「阪本記念病院へ搬送します」
やっと受け入れ先が見つかると同時に、もう一台の救急車が隣りに駐まった。
「……」
うちを刺した生徒、なんで、うちを殺そうとしたんやろ、ぜんぜん知らん顔やったのに、どこかで恨みを買ったんかな、顔……どんな顔やったやろ……もう覚えてへんわ、と鮎美は犯人のことを少し考えた。救急車が走り出しても、あいかわらず母の美恋は泣きながら祈っている。それが気の毒になってきた。
「母さん……泣かんで……うち、ちゃんと頑張るから…ぅっ…くっ…」
喋ると腹部の傷が疼いた。
「……」
あかん、声を出すと、超痛いわ、けど、母さん、そんな真っ青な顔で祈ってんと、うちの言葉を聴いてよ、と鮎美は母親に触れようとしたけれど、手を動かすことはベルトで固定されているのでできなかった。かわりに父親の姿を探した。寝かされたままでは視野に入りにくいけれど、母親の隣りで、こちらを見守ってくれている。
「父さん……」
「何だ? 鮎美!」
「……耳、かして…」
大きな声が出せない鮎美は玄次郎が近づいてくれるのを待って、言った。
「…ぃ…」
「い? 痛いのか? もうすぐ病院だ、頑張れ!」
「ちゃう……。いた…が…」
「いたが?」
「…き…」
「き?」
「死す…とも…」
「……」
「自由は……死せず」
「………。板垣死すとも自由は死せず、か?」
「うん」
「……プッ…くっ…くははは! 母さん、きっと大丈夫だ! 冗談が言えるんだ、死にはしない!」
玄次郎が泣き笑いしている。鮎美も口角をあげて見せた。救急車が病院に着くと、鮎美は担架ごと救急処置室へ運び込まれる。付き添いだった両親は見えなくなり、何人もの看護師と男性医師2名、女性医師1名がいた。
「18歳、女性、高校生、腹部に刺し傷。あなた、刺されたのは一回? それとも何回も?」
鮎美の顔色を見て、女性医師が問うてきた。
「ぃ……一回です…」
「傷を見るわね。スカートを切ってしまってもいい?」
「え……」
「こういうとき、脱がせると傷を動かしてしまうから、切ってしまうものなの。かわいそうだけど、我慢して」
「はい……予備ありますから…」
鮎美が頷くと、スカートが大きなハサミで切られる。いつのまにか、男性医師2名は鮎美から離れていき、隣で呻いている中年男性を診察している。
「ウウウウアアアア! ひいーーー!」
中年男性は脂汗を流しながら苦しんでいた。
「痛いのは背中ですね? おそらく尿路結石でしょう。CTを撮ります」
「うぎいいいい! 頼むいい! 痛てぇぇえ! 助けてくれ先生ぇ!!」
「痛いでしょうが死にはしませんよ」
「………」
鮎美が中年男性を見ていると、看護師がカーテンを閉めた。
「下着も切りますよ?」
「あ…はい…ぅっ…」
お腹のあたりに触れられると、やはり激痛が走る。鮎美のショーツがハサミで切られた。靴と靴下も脱がされているので下半身は裸にされてしまった。
「傷を見ます。痛いけど我慢して」
「はい……ううっ…うああっ! 痛いいっ!」
女性医師が鮎美の臍の下から股間まで切られている傷口を白い手袋をした指先で開きながら診てくるので、再び激痛が襲ってきて呻いた。
「ハァ…ハァ…」
「大丈夫、傷は皮下組織で止まってる。内臓も筋肉も無事だから2週間もすれば治りますよ」
「ハァ……ハァ…2週間ですか……」
うちは国会の開会式で弔辞を……24日やからギリギリ間に合う……よかった……、と鮎美は死の覚悟とは、ほど遠い思考をした。
「念のためにCTを撮ってから縫います。身体をキレイにしてあげて」
「「「はい」」」
男性看護師1名と女性看護師2名が返事をしたけれど、片方の女性看護師が言う。
「私たちだけで大丈夫です」
「じゃ、自分は、あっちの人を看てきます」
男性看護師は新たに救急車で運ばれてきた老人を看に行った。
「芹沢さん、脚を拭きますね」
「…あ……はい……お願いします…ぅぅ…」
「痛い? あまりに痛いときは言ってね」
優しく声をかけてくれながら二人の看護師が鮎美の脚を温かく濡れたタオルで拭いてくれる。血まみれだった脚が拭かれていくと、鮎美は恥ずかしくなってきた。股間には綿の布をおいてくれているので丸出しではないけれど、鮎美にとって男性はセクハラさえしてこなければ、それほど羞恥心を覚える対象ではなかった。むしろ、女性に見られる方が恥ずかしいとさえ感じる。そして、脚の血が拭き取られると、次は股間やお尻を拭かれたので赤面して恥じらった。
「恥ずかしい? カーテンで見えないから大丈夫ですよ」
「……そ、そこは自分で拭きますから…」
鮎美はタオルを貸してもらおうとしたけれど、身体を起こそうとすると激痛が走った。とくに腹筋に力を入れると、激しく痛む。
「ぅううっ…くうっ…」
「動かない方がいいですよ」
「……はい……すんません…」
鮎美は顔を背けて股間を拭かれる恥ずかしさに耐えた。
「これに着替えてもらいますね。貴重品は、誰か預かってくれる人、いますか?」
看護師が緑色の術衣を見せながら、問うてきた。
「はい、父と母が、いるはずです」
「じゃあ、制服を脱いで裸になってください」
「え……は…裸ですか?」
「一応、手術だから」
「……わ…わかりました」
鮎美は上半身を起こしてもらい、制服の上着を脱ぐ。胸に着けている議員バッチに看護師が今さら気づいた。
「国会議員みたいなバッチですね。どこの学校ですか?」
「「え……」」
もう一人の看護師と鮎美が異口同音した。そして、看護師同士で会話する。
「知らないの? 芹沢さんって、あの芹沢鮎美さんよ」
「あの、って、どの?」
「だから、国会議員の」
「国会議員? こんな子が? …あ、…、ご、ごめんなさい。え、え? でも、ホント? だって、この子、高校生なんでしょ? 高校生が、どうやって国会議員になるの?」
「あなたニュース見ないの?」
「あんまり……夜勤を多めに入れてるし」
「少しは世間を見なさいよ。参議院の制度が変わったのは知ってる?」
「なんか、そんなことがあったような気はするくらいに。あ、ごめんなさい。いつまでも、こんなカッコは嫌よね。早く着替えさせてあげますね。はい、全部脱いで、これを着て」
「……」
うちのこと知らん人、まだいるんや、そっか、ニュースとか見んかったら、知らんか、街中のポスターも、いちいち気にせんかったら、わからんもんな、と鮎美は裸になりつつ思った。
「ハクシュン! っ?! ううううっ!!」
クシャミをしてしまうと、また斬られたのかと思うほど痛かった。
「うううっ……うううっ……」
「かわいそうに」
看護師が傷口に白いガーゼをテープで貼り付けてくれる。
「ハァ…ハァ…」
もうクシャミは懲り懲りなので術衣を着るけれど、あまり温かい服ではなくてノースリーブで脇腹のあたりも紐で括るだけの構造だったし丈も短い。看護師が毛布をかけてくれた。
「CT室に移動しますね。この担架から、こっちのベッドに移れそう?」
「はい…ぅ…」
支えてもらいながら立つと、お腹は痛いものの少しは立てた。すぐにベッドへ横になる。
「ハァ…」
「じゃ、行きます」
移ったベッドも移動可能なもので、そのまま廊下に出た。廊下には両親がいた。
「「鮎美」」
「傷が浅いし、二週間くらいで治るって…ぅっ…喋ると痛いけど…」
「よかったぁぁ……神さま、ありがとうございます! ハレルヤ! ああ、ハレルヤ! 奇跡をありがとうございます! アーメン!」
「「………」」
鮎美と玄次郎は身内として少し恥ずかしかったけれど、看護師たちは気にもしていない。
「保護者の方は、今暫くお待ちください。入院にはなると思いますから、その手続きは窓口から案内があります」
「わかりました。鮎美、よかったな」
「うん、ごめんな、心配かけて」
父親に謝ってから、鮎美はCT室へ運ばれた。CT室では若い男性の検査技師が待っていて、看護師と交替して鮎美を案内してくれる。
「こちらの台の上に移ってください」
「はい…ぅぅ…」
あまり気の利かない検査技師なのか、それとも軽傷扱いにされたのか、起き上がるときに支えてもくれなかったので、お腹が痛いし、少し血が出た気がする。
「ぅっ…くっ……すんません。痛いんで……寝るとき、支えてくれます?」
「わかりました。これでいいですか」
求めると医療従事者らしく、そっと鮎美をCT検査台の上に寝かせてくれた。介助してくれる手つきは丁寧で安心でき、はじめに支えてもくれなかったのは、鮎美が若い女子なので遠慮してくれたのだろうと感じた。
「身体をまっすぐにして、両腕をあげて頭の上で手を組んでください」
「はい、…ぅっ…こう、ですか?」
「そうそう…っ…」
若い男性技師は鮎美が腕をあげると、鮎美の腋を見てギョッとした顔になった。冬服になってから、ずっと腋毛を剃っていないので、かなり伸びている。
「………」
なんやの、そこまでギョッとせんでええやん、この女なんで腋ボーボーなんだ18歳だろ、みたいな顔を露骨にしおって、女やったら腋を剃って当たり前なん? そういうのジェンダーに縛られてるゆーねんで、そんなジロジロ見んとってよ、と鮎美は腕をおろしたくなったけれど、検査なので我慢する。不快な検査が終わって、再びベッドごと外科手術室に運ばれた。手術室内には配慮があったのか、偶然なのか、女性スタッフしかいなかった。医師も、さきほどの女性医師で勇気づけるように微笑んでくれる。
「なるべく傷跡が残らないように縫ってあげますね。彼氏に水着とか見せたいもんね」
「……。お願いします……」
なんで彼氏って発想しか無いねん、世界は異性愛者だけか?! …………あかん……うちは、さっき、もう自分が死ぬ思うて、命があるだけで有り難いのに……また、世間に不満ばっかりもって……こんなんでは、人としてあかん……この先生かて、うちを励まそうと思って言うてくれてるのに……静江はんに土下座させてしもたときも、そうや、別に静江はんには悪意がなかったのに………陽湖ちゃんも、あくまで善意やのに、うちはトコトンひどいことして追いつめて……もう、やめよ……人として、もっと大きくなろう……うちは議員として、やっていくんやもん……、と鮎美は心の持ちようを変えて微笑んだ。
「彼氏はおりませんけど、どうかキレイにお願いします」
「うん♪ じゃあ、しっかりキレイに治す方法と、健康保険の範囲で縫う方法がありますけれど、どちらを希望されますか?」
「え……それって混合診療の話ですか?」
「よく知ってますね。さすが議員さん。けれど、この怪我には混合診療はできません。全額自由診療でお支払いいただくか、健保適応のみにするかです」
「………どのくらい、値段がちゃいます? あと、キレイに治る感じの違いは?」
もう鮎美は自分が緊急の死ぬか生きるかの患者ではないとわかってきたし、医師も穏やかに説明してくれる。
「私が得意としている内部縫合式表皮湿潤療法で治療させていただいた場合、この写真のように違いがでます」
医師が何枚かの写真を見せてくれる。そこには健康保険で特別な材料と技術を使わずに縫った場合の傷跡と、高価な材料と高度な技術で治療した場合の傷跡の対比があり、かなり違いがあった。前者は大きく傷口の跡と縫糸の跡が残り、後者は、まったく傷跡が無くなったり、少し筋が残るくらいに治っている。
「こんなに違うんや……」
女として明らかに後者を選びたい。けれど、金額は気になる。
「おいくらですか?」
「金額的には、健保なら3万円から10万円以下でおさまると思います。入院は今日一日で異常なければ明日、退院です。手術は15分ほど。自由診療ですと1週間は傷口を動かさず完全な安静を保っていただきたいので入院期間は1週間以上、手術は顕微鏡下で可能な限り細かい血管も縫いますし、消毒薬を使わずに生理食塩水で傷口を洗浄するので3時間から6時間ほど。金額は216万円です」
「に……百倍くらいちゃうんですね……」
「健康保険は3割負担ですから。阪本市にお住まいの高校生なら、助成金で1000円で済むかも知れません」
「うちは六角市やし、六角市の丸福は中学生までやねん」
「それで、どうされますか?」
「う~ん………」
鮎美が悩む。払えない金額ではないし、傷跡は残したくない。鮎美が悩む様子を見て、医師は支払い可能なのだと察して、売り込んでくる。
「特別な糸を使いますから、抜糸は必要ありません。手術は一度で済みます。結果を100%保証することはできませんが、お若い方ですし皮膚の再生力も高いでしょうから、まったく傷跡が見た感じではわからないところまで治せる可能性もあります。アトピーなどの既往歴はありますか?」
「いえ、とくに持病はありません」
「それなら、なおのことキレイに治せるはずです」
「そうですか……………どうしよかな……」
「健保での治療ですと、やはり大きな跡が残ると思いますよ。ご自分の傷口、どの程度か見てみますか?」
「あ……はい」
今まで、しっかりとは見ていなかった傷口を看護師に上体を起こしてもらい、ガーゼを剥がしてくれるので、恐る恐る見てみる。
「お臍の下から、ここまで斬られてますね」
「………」
鮎美の臍下2センチから、まっすぐに股間の方まで斬られていて、陰毛の生え際まで傷は至っている。
「……っ…」
悲しくて、じわりと涙が浮かんだ。鐘留ほど美貌を誇っているわけではないけれど、そばかす以外は自分の身体を気に入っていたのに、グロテスクな傷をつけられたのは、とても悲しい。
「あまり見ているとショックを受けますから、もう寝てください」
「…はい……」
十分にショックを受けた。
「大丈夫ですよ、深いところでも筋肉までは達していないので、きっとキレイに治ります」
「………」
「ただ、この傷口が残るのは、本当に嫌ですよね。帝王切開の跡だと誤解されそうですし。ご無理でなければ、きちんと治療されることをお勧めしますよ。本当に」
「…………」
「あと、健保での治療では消毒液を使うので、かなりしみます。麻酔は使いますが、刺されたときと同じくらい痛むかも」
「……自由診療の方でお願いします」
今でもズキズキとはしているけれど、刺された直後は本当に死ぬかと思うような痛みで、あの苦痛を再び味わうのは嫌だった。預貯金は500万円を超えているし、今月からは歳費も入るので216万円の出費を決めた。医師が少しだけ頭を下げる。
「ありがとうございます。では、書類を用意します」
「はい………」
え……治療の前に書類なんや……まあ、金額が大きいし契約書は当然かな……、と鮎美は社会経験を増やしていく。すぐに何枚もの書類を鮎美が寝たままでも見えるように看護師が持って見せてくれる。結果の保証は無いこと、金額に了承したこと、極めて稀な副作用で死亡することもあること、そして治療費の支払いに連帯保証人をつけること等があり、二つ気になることを問う。
「死ぬ副作用って……どんな?」
「ほとんど起こりません。10万人に一人くらい、薬剤との相性でショック状態になることがありますが、これは健保で使う薬剤でも同じです。ただの風邪薬でも亡くなられることはありますから。残念ながら医学は完璧ではないの…」
「そうですか……。あと、連帯保証人なんですけど、うちの預貯金で支払えますけど、要ります?」
「一応お願いします。保護者の同意も」
「……うち、もう成人なんですけど」
「それでも、お願いしているんですよ。他の患者さんでも」
「…………あの……支払いは、すぐしますし。連帯保証人をつけるのは、かなり抵抗あるんですけど。あれ、検索の抗弁権も、催告の抗弁権も無いじゃないですか。法制度上、かなり改善すべきところがありますし、せめて単純保証になりません?」
「え……っと……何の話ですか?」
「ですから、連帯保証人をつける話ですよ。検索の抗弁権も、催告の抗弁権もないような保証をつける必要があるんですか? 金融機関の貸し出しじゃあるまいし」
「………それって法律の話ですか?」
「そうです」
「……あのですね」
少し医師がムッとしたような表情をした。
「私たちは医師なんで、そういうことは習わないんですよ。医師法に関わることだけなんですよ。けんさくのこうべんけん、って何のことですか?」
「主たる債務者に弁済の資力があり、かつ執行が容易であることを証明したときは、保証人は、まずは主たる債務者へ請求するよう抗弁する権利のことです。この場合やと、うちに請求せんと、うちが頼んだ連帯保証人へ、いきなり病院が請求しても連帯保証人は問答無用で払わなあかん状態になることです。そんなん、おかしいでしょ? あと、催告の抗弁権は、今言うたように、いきなり保証人へ請求されたとき、まずは主たる債務者に請求してくれ、という権利のことです」
「………。う~ん……できれば別居の方がいいですけれど、やもえないときは連帯保証人は、ご両親でも大丈夫ですよ」
「それでも抵抗あるんですよ。いっそ、先に支払いましょか? 秘書にいうて現金もって来させますし」
「先払いですか……えっと……。事務長を呼んできて、事務長」
医師が看護師に命じ、しばらくして事務長と法務担当者が手術室に入ってきた。二人とも男性だったので入室前に看護師がシーツを鮎美の身体にかけてくれる。
「事務長の田中です」
「法務の安田です」
二人は名刺を出そうとして、そんな場合でもないと判断してやめた。
「芹沢です、どうも」
「それで、芹沢先生の苦情というのは?」
「別に苦情というわけやないんですけど、連帯保証人の書類にサインしてもらうのは、両親でも抵抗あるんで、先払いしますと言うたんです」
「なるほど……、……」
事務長が考え込み、申し訳なさそうに答える。
「一応、先払いでも、この書類にサインをいただく決まりになっておりますので、お願いできませんか?」
「え………それ、めちゃくちゃおかしくないですか? 先に払ったのに、保証人つけるて、なんの債権につく保証債務なんですか?」
「それは……その……」
事務長が困って法務担当者を見る。法務担当者も申し訳なさそうに頭を下げる。
「芹沢先生のおっしゃる通りなんですが、病院の決まりなんですよ。別に自由診療だから求めてるわけではなくて、健保でも入院のさいには、必ず連帯保証人をつけてもらっています」
「きまりって……法に合わんのに……」
「私どもも、心苦しくはあるのですが、一部の患者様で退院後、お支払いが無いことも、ちょくちょくありまして、そういったことの予防という意味合いもあって、形式的なことですが、とりあえずサインをいただいております」
「とりあえずで……連帯保証人なんや……」
「おっしゃることが正しいのは、よくわかります。ただ、私ども病院も議員先生方に知っておいてほしいのですが、取りはぐれは、かなり多いのです。とくに、健保をつかった診療で3割負担を退院後に求めるのですが、払っていただけないことが、よくよくあります。それでいて、医師の方には応召義務というものがありまして、怪我や病気で再び来院されたとき、前回が不払いだったからといって患者様を追い返すことはできないのですよ。このあたり、ご理解いただいて、是非、国会の方で審議いただき、たとえば不払いの場合は一時的にでも国や国保連合会などから病院へ支払いがあり、後日、国の方で患者様へ国税と同じように強く取り立てていただけると助かります。ただ、現状では、予防的意味合いで連帯保証人のサインをすべての患者様にいただいているのです。健保、自由診療を問わずです」
「……そうなんですか……」
「サインを芹沢先生と、先生のご両親にもお願いできませんか? 先払いいただくにしても、秘書さんが駆けつけるまで手術が後回しになります。早めに手術された方が良いと思いますよ」
「………」
どないしよ……翔子はんのことがあるから、なんか抵抗あるけど……さっき、人として大きくなろうって思ったんやし、ここは理屈に合わんけど、折れておこ、連帯保証人は父さんでええかな、申し訳ないな、と鮎美は諦めた。
「わかりました。ほな、サインします。あと、父も廊下にいると思うんで、保証人は父で」
「ありがとうございます。どうか、お大事に」
事務長と法務担当者は鮎美がサインした書類をもって出て行った。医師が近づいてくる。
「もういいかしら?」
「はい、お願いします」
「では、準備に入りますね。脚を開きますよ」
医師と看護師が手術台にいる鮎美の脚を開いて、術衣をめくった。彼女たちに下半身が丸見えになっているので、鮎美は再び恥ずかしくなったけれど我慢する。
「毛を剃りますね」
「……はい…」
手術のときに毛を剃るということは聴いたことがあったけれど、まさか自分がそんな目に遭うとは思っていなかった鮎美は目を閉じて看護師たちに剃毛される恥ずかしさに耐えた。顔が真っ赤になってくると、医師が言ってくる。
「恥ずかしがらなくても、ここには女性しかいませんから安心して」
「……はい……」
それが、うちには恥ずかしいんやって……先生らかて異性に囲まれて、こんなんされたら恥ずかしいやろ……いっそセクハラはせん男の先生の方が恥ずかしないくらいなんよ……かといって、男の先生と男の看護師さんに全員かわってくださいって言うたら、うちのこと変な女やと思うに決まってるし……、と鮎美は赤面し続けた。
「そうやって赤くなれるくらいだから、出血量も400ミリ以下かな」
「うち、輸血されるですか?」
「あ、芹沢さんの学校の宗教って輸血はダメだったですね」
「知ってはるんですか?」
「ええ、検索の抗弁権は知らなかったけど、輸血拒否の話は医師の間では有名だから。今回は必要ないと思うけど、万が一のために訊いておきます。芹沢さん、輸血は拒否されますか? たとえ、生命に危険があるときでも」
「いいえ、必要なら、すぐしてください。うち、あの宗教は一切、信じてませんから」
「わかりました。じゃ、次、浣腸しますね。お腹には力を入れず5分は我慢してください」
「え……なんで浣腸なんかするですか?」
「手術後3日はトイレで息んでほしくないんですよ。縫った傷口が開きますから。開くと、そこが跡になります」
「そ……そうですか……じゃあ、お願いします。……うっ…」
鮎美は初めて浣腸されて、その感覚にうめいた。
「ぅぅ……あ、…あの、…出そうです…」
「5分我慢してください」
「……ううっ…痛っ……我慢すると傷が痛くて…ぅう!」
「お腹に力を入れず、お尻にだけ力を入れて我慢して」
「そ…そんな器用な……ううっ…もう無理です! トイレに行かせてください」
「タライを置いてあるから、そのまま出しても大丈夫ですよ」
「っ…、こ…、ここで、するんですか?! ぅうっ…」
「まだ1分と経ってないから、我慢して。出しちゃダメ」
「はぅぅ……うっ…ひぅ…」
鮎美は涙を流すと同時に我慢できなくなった。
「仕方ないですね。もう一回。お薬が腸内に巡るまで、なるべく我慢してください」
「ぅうっ…はい……すいません…」
また浣腸されてうめいたけれど、再び我慢できずに3分で終わってしまった。
「ハァ…ハァ…痛い……傷が、また疼いてきて…もう勘弁してください…」
「浣便ならん、なんてね」
くだらない冗談を言った医師は別の浣腸器具をもってきた。細い透明な管状の器具で点滴と同じようなパックがセットされている。鮎美が怖くなって問う。
「そ…それ、なんですか?」
「管を腸の奥まで入れて、そこで薄い浣腸液を大量に出します。それで大腸内の便はすべて出ると思うから。あと、もう我慢しなくていいですよ、お尻の穴を手で押さえてあげます」
「そ……そんな恥ずかしいのイヤです」
「これやらないと、手術に入れないから我慢しなさい」
「……ぅぅ……はい…」
鮎美は三度目の浣腸をされる。管を奥までさし込まれた。管を通って薬液が注ぎ込まれてくると、また排泄しそうになる。お尻の穴を手で押さえると言った医師は指を押し込んで堰き止めてきた。
「ううっ……ううっ…ハァ……ううっ…」
「はい、もういいですよ。ゆっくり出して」
言われた通りに排泄したけれど、今度は医師が指を直腸まで突っ込んできた。
「ううっ?! なにするんですか?」
「これはね、摘便といって、残ってる便をすべて掻き出しておくの。お薬も残ってると、あとで下痢になって出てくるから、パックを生理食塩水に変えて腸内を洗浄しますね」
「ま…まだ……まだ、続くんですか…」
鮎美は医師が何度も指を挿入してくるので、これが本当に医療行為なのか疑わしくなってきた。今まで女性医師なのでセクハラはしないと思っていたけれど、氏名を確かめようと思い、胸の名札を見ると外科医、桧田川紀子(ひだがわのりこ)とあった。しかし、氏名より、名札といっしょに白衣へ着けているバッチに意識がいく。
「っ…」
桧田川が着けているバッチは虹色のアーチ型のバッチで、それは朝槍も着けていて、鮎美も制服の内ポケットに着けているものと同じだった。
「……」
この人、同性愛者なんや、ほな、これセクハラやん、と鮎美はお尻に指を挿入されながら悔しく思った。けれど、どう言ってやめてもらうべきか、考えつけない。このバッチの意味を知っているということは鮎美も同類だと勘づかれる可能性があるし、周りの看護師たちは当然の医療行為と思っているようで、桧田川の手伝いを平然としている。
「…ううっ…ううっ…」
「検索の抗弁権は知らなかったけど、検索の肛便検査はしてあげるから気持ち悪いだろうけど、我慢して。全部残らず掻き出しておきますよ」
また、桧田川はくだらない冗談を言った。鮎美は突っ込みも抗議もできずに耐える。
「はい、おしまい。よく我慢したね。えらい、えらい」
「…ぐすっ…ぅぅ…」
泣けてきた鮎美の目元を桧田川は汚れた手袋を捨ててから、清潔な布で拭いてくれた。それから桧田川は新しい手袋をつけて、浣腸に使ったより細い管を手にした。
「じゃあ、次は、おしっこの穴に、これを入れますね」
「っ…い、イヤですよ! やめてください! 変態ですか?!」
「手術中、ずっと点滴するし、その後も水分補給は大切なんですよ。栄養も固形物は食べさせられないから、点滴を通してになるし、かといってトイレにも立てない上、膀胱が膨らんでくると、せっかく縫った傷口がひらくから、イヤかもしれないけど我慢しなさい。傷跡なく治すための処置なの。人を変態あつかいしない! 失礼しちゃうな、もお!」
桧田川は頬をプーと膨らませた。瞳が大きくて明るい色のロングヘアが似合っている。
「……ぅぅ……ホンマに必要な処置なんですか? ……それで、何する気なん?」
「だから、この管をおしっこの穴に入れると、おしっこを常に出してくれるから、我慢しなくて済むの。まあ、入れられるとき、かなり気持ち悪かったり、抵抗すると痛いから、できるだけ力を抜いて」
「………」
鮎美が不信感を込めた目で見上げると、桧田川は肩をすくめた。
「信じられないなら、やめようか? さっさっと縫うだけにする? 傷跡のこるけど」
「…………お願いします」
「よろしい」
桧田川は細い管に消毒薬混じりのローションをつけ、鮎美の尿道に挿入してくる。
「ぅぅ……ぅぐぅ…はぅぅ…」
「力を抜いて。ハッハッと息を吐いて、力を抜いて」
「ハッ…ハァ…ぅぅ…ハッ…んぅぅ…」
異物が体内に入ってくる感覚で鮎美は身震いした。
「よし、入った」
桧田川が頷くと同時に管の中に黄色い小水が流れ始める。管は手術台の横に吊られたパックにつながっていて、そこに鮎美の小水が貯まる仕組みだった。
「ぐすっ……」
こんな生き恥、もうイヤや……いっそ麻酔で眠らせてよ……けど、眠ってる間に、この人、うちに何するか、わからへん……次、何する気なんやろ……これ以上は……もう、お尻の穴も、おしっこの穴までイジられて……次は……次は、もう、あそこ狙ってくる……イヤや! そんなん絶対イヤや! もう耐えられへん! と鮎美はパニックになって言う。
「お願いです、うち処女なんです! これ以上は何も挿入せんといてください! お願いです! 傷の治療をしてください!」
「………何か、変な誤解してるね……まあ、いろいろされてイヤだったのはわかるし、芹沢さんの反応を見てると未経験なのもわけるけど、女の子の大事なところは消毒薬で拭くだけで何も入れないよ、安心して」
「ほ…ホンマに?」
「うん。だから、泣かなくていいから」
「ぐすっ……」
「鼻をかんであげて。私は手術着に変わるから、しっかり消毒と洗浄、よろしくお願い」
「「「はい」」」
看護師たちが鮎美の泣いていた顔を拭いてくれて、さらに傷口を生温かい生理食塩水で時間をかけて洗ってくれる。それが終わると傷口の周りを大きく消毒される。胸の下から膝まで広く大きく茶色い消毒薬を塗られた。
「マスクしますね。大声を出して自分の唾を飛ばしたりしないでください」
「はい…」
鮎美は透明なプラスティック製のマスクで口元を覆われ、手術台の上に固定される。開かされていた脚は肩幅ほどに閉じてから足首も膝も固定されて身動きできなくなった。さらに大きな布で鮎美の胸から下は遮断され、鮎美からは自分の下半身が見えなくなる。もう何をされようが抵抗不可能な状態にされてしまった。そこへ桧田川がやってくる。まるで鐘留の防寒装備のように、マスクだけでなく目もゴーグルで覆い、髪も包み、手袋も肘まである長いものをしている。
「…ハァ……ハァ……ぅぅ…」
「準備できたみたいね。そんな不安な顔しなくても、私の得意な手術だから失敗しないよ。むしろラッキーだったね、私の当番の日で。他の男の先生だったら簡単に縫い合わせて終わりにされたよ。お値段以上のことはするから期待して」
そう言った桧田川は手術を始めた。腹部だけに局所麻酔がされて鮎美の意識はあったけれど、腹部の皮膚感覚はだんだんと無くなっていく。縫い始められると、はじめはチクチクとした小さな痛みがあったけれど、その痛みも次第に無くなり、時間の経過がわからなくなってくる。
「眠いなら寝ていいよ」
「…はい…」
セクハラはされず、本当に真剣に縫ってくれている様子なので安心した鮎美は2時間くらいは起きていたけれど、出血と疲労感もあって、だんだん眠くなり目を閉じた。
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