第26話 1月9日 母親の願い、鮎美の弾圧、洗礼

 翌1月9日の日曜日、鮎美が自宅で起きたとき、陽湖と美恋は居なかった。しばらくして連絡船が着港するエンジン音がかすかに聞こえた後、二人が帰ってきた。

「母さん、どこ行ってたん?」

「日曜礼拝に行ってきたの。アユちゃんも、いっしょに行ってみない?」

「………一回、行ったから、もうええわ」

「アユちゃん、朝ご飯は?」

「まだよ」

「すぐに用意するね」

「お昼と兼用でええよ。陽湖ちゃん、ちょっと話があるねん、うちの部屋まで来て」

「はい」

 陽湖と自室へあがり、睨むつもりは無かったのに、鮎美は睨んでいた。

「あんた、どういうつもりなん? 人の母さんを礼拝へ連れて行くの、やめてくれん?」

「礼拝への参加は、彼女自身の意志です」

 はっきりとした答えだったけれど、どこかマニュアルが決まった回答のように感じて鮎美は、より苛立った。

「あんたが誘うからやろ!!」

「神の導きは万人へ向けられています」

「っ、お前なぁっ!!!」

 経験したことがないような苛立ちが瞬間沸騰して鮎美は掴みかかると、陽湖を壁際まで押した。

 ゴッ…

 陽湖の後頭部が壁にぶつかり鈍い音を立てた。

「ぅっ…」

「人んちに変な宗教を持ち込むなや!!!」

「神は…」

「やかましいわ!!!」

「………」

 怒鳴られて陽湖はまっすぐに鮎美を見つめ、無抵抗に手を祈りの形に組んだ。

「くっ……お前は…」

 どうして、これほどまでに苛立ち、吐き気がするほど気持ち悪いのか、鮎美自身にもわからなかった。苛立ちは殺気に近くて、このままでは陽湖を殴る蹴るしてしまいそうだった。玄次郎がノックして声をかけてくる。

「鮎美、何を騒いでいるんだ?」

「何でもあらへん!!」

「めちゃ声が怒ってるぞ」

「アユちゃん、何をしているの? シスター陽湖をイジメないで」

 美恋の声も階段下から響いてきて、鮎美はゾッとして怒鳴る。

「っ…そんな呼び方真似すんなや!! 気色悪いわ!!」

「鮎美、入るぞ」

 玄次郎が入室してきて、続いて美恋も入ってくる。狭い部屋に4人が集まった。天井も低いので圧迫感が強い。

「シスター陽湖、大丈夫? なにかされたの?」

「いえ、何も」

 まだ後頭部が痛かったけれど、陽湖は微笑をつくった。

「でも、すごい怒鳴り声と足音が……」

「大丈夫です。少しサタンが騒いだだけです」

「っ! 誰がサタンやねん!!!」

 再び不快感と苛立ちが頂点に達して鮎美は乱暴に陽湖を引き倒した。鷹姫ほど技は洗練されていないけれど、柔道の要領で倒されたので華奢な陽湖は為す術無く畳に転がる。

「うっ…」

「アユちゃん! 乱暴なことはしないで!」

「鮎美、まあ、落ち着け」

「ハァ……ハァ……」

「アユちゃん……やっぱりブラザー愛也の言ったとおり、アユちゃんの中でサタンが暴れるのね」

「「…………」」

 鮎美と玄次郎が言い様のない不安感を覚えた。美恋の目は真剣で、ふざけているわけでも冗談を言っている様子でもない。それだけに不安が膨らむ。

「母さん、それマジで言うてるの?」

「よく聴いて。人が正しい行いをしようとするとき、サタンが邪魔してくるの」

「「…………」」

「今、アユちゃんに乱暴なことをさせているのも、すべてサタンのせい。どうか、目を覚まして、神の声を聴いて」

「…くっ……」

 鮎美は母親から目をそらして、陽湖を睨みつけた。今にも蹴り殺しそうな視線を向ける。なのに、陽湖は無抵抗にまっすぐ見つめてくる。

「………くっ……このっ…」

 鮎美が拳を握ってブルブルと震わせた。その手を玄次郎が撫でた。

「とりあえず飯を喰おう。人間、腹が減ってると苛立ちやすい」

「父さん………」

「飯、まだか?」

「すぐに用意します」

「手伝います」

 美恋と陽湖が一階へ降りていき、玄次郎は娘の頭を撫でた。

「いつのまにか、母さん、ああいうこと言うようになってな……」

「うちのせいなん? ……週刊紙に載ったりして心配かけたから……」

「いや、オレのせいが大きいだろう。オレの趣味で島に移住して、なのに、オレは市街での仕事が多いし、鮎美も帰宅しなくなって、母さんは近所に友達もいないし、月谷さんが話し相手で、いっしょに家事も手伝ってくれるから……影響されたのかもな」

「…………母さん……淋しかったんか……」

「鮎美は心配するな、オレが何とかする」

「………頼むよ、父さん。……父さんまで、勧誘されたりせんといてな?」

「フ、オレが、ああいうのを信仰すると思うか?」

「絶対ないな」

「シスター鮎美、お父さん、ご飯です。降りてきてください」

 陽湖に呼ばれて居間で食事を始める。やはり陽湖と美恋は食前に祈りを捧げた。玄次郎は総統のポーズを取ったけれど、鮎美は箸を取った。

「いただきます」

 祈る二人と、威張る一人を無視して食べ始める。

「ごちそうさま」

 あまり会話なく食事が終わり、美恋と陽湖が食器を片付け、お茶を淹れてくれる。夫と娘に茶碗を差し出した美恋は正座して頭を下げた。

「玄次郎さんと鮎美に話があるの」

「「……」」

 二人ともお茶を飲む。美恋が続ける。

「私はバプテスマを受けようと思います」

「……は? 何やの、それ?」

「洗礼のことです。洗礼を受け、神に仕える身となります」

「じょ…冗談やめてや!」

 いよいよ鮎美は寒気を覚えた。それでも美恋は続ける。

「私は本気です。玄次郎さんと鮎美には受ける前に話しておきたかったのです」

「…か……母さん……ホンマに本気なん?! 父さん、何か言うたってよ!!」

「鮎美、せっかく帰宅しているところ悪いが3時間ほど美恋と二人きりにしてくれないか」

 いつも、ふざけていることが多い父親が真面目な声で言ったので鮎美は頷いた。

「父さん………そやね、夫婦で、よう話し合ってな」

 鮎美はコートを羽織り、靴を履いて家を出る。陽湖もついてきた。

「………」

「………」

 狭い島の中は3時間も時間を潰すには不便する。寒い上に喫茶店一つない。あっても観光シーズンのみのオープンなので一月に入れる店はなかった。友人の家といっても鷹姫しかいないし、久しぶりの家族団欒のために帰宅させたので邪魔をしたくない。そして、それは鮎美にとっても同じだったのに、今は寒空の下で彷徨うことになってしまった。

「………」

「………」

 陽湖がついてきているけれど、振り返る気になれない。顔を見たら怒鳴るか殴るかしそうだった。

「……どこ行こ……」

「………」

「はぁぁ……」

 いっそ島を出ようにも、この時間帯は2時間に1本しかない。そして、さきほど陽湖と美恋が帰ってきた連絡船は港で2時間停泊し、それから往復するので乗ると4時間が過ぎてしまう上、本土側の港も施設は待合室くらいしか無い。

「あいかわらず不便な島やな……母さん……退屈やったんかな……」

「………」

「いくら退屈でも、アホな宗教に手を出さんでもええのにな!」

 背後にいる陽湖へ聞こえよがしに言ったけれど、陽湖から反応はない。

「ちっ………ムカつくわ。……ホンマ腹立つ……」

「………」

「寒いし、何か買お」

 鮎美は港近くにある自動販売機で温かいミルクティーを買った。ついてきていた陽湖は買う気にならなかったのか、財布を持っていないのか、何も買わなかったけれど、声をかける気は無かった。港も閑散としていて誰もない。冬休み最後の日で子供たちは宿題に追われているのかもしれないし、漁もない様子で無人島のように静かだった。みな、それぞれの自宅内で過ごしている様子で誰一人通りかからない。鮎美は温かい缶を両手で包み、チビチビと飲みながら、まだ15分しか経っていないので気が遠くなった。あと165分も、どうやって時間を潰すべきか、スマートフォンがあるので精神的な退屈しのぎはできるかもしれないけれど、寒さが深刻な問題だった。気になって振り返ると陽湖はコートを忘れたようで寒さに震えている。

「アホや……凍死するで…」

「………」

「……けど……うちも……どうしよ……」

 缶を飲みきってしまうと、また寒さを実感する。近頃、移動がタクシーだったので徒歩となると冷気が身に染みた。制服のスカートではなくて部屋着のズボンだったのは不幸中の幸いだったものの、じわじわと身体が冷えてくる。鮎美は周囲を見渡して、山が目についた。島には大小二つの山がある。小さい方の山には鷹姫の家と道場が中腹にある。大きい山には登山道があって山頂へ至れるらしく、祭りを行う公園もあり往復2時間と聞いている。山頂で少し休憩して戻れば、ちょうどいい時刻になるし、何より運動すれば身体が温まるというのが狙いだった。

「冬やし、虫も蛇もおらんやろ」

「…………」

「ええ運動になるし」

 鮎美は家と家の間を抜けて、登山道の入口に着いた。陽湖もついてきている。少し登ると右手に墓場が見えてきた。

「…………」

「………」

「…………」

 ここに島のみんなのお墓があるんやから、きっと鷹姫の母さんのお墓もあるんやろうなぁ、集落を見下ろせる場所にあるんやね、ええ場所かも、と鮎美は眼下に家々を見た。まだ高さにして15メートルほど登っただけだったけれど、島内には二階建て以上の建物はないので全体が見渡せる。密集した家々と小さな港、漁船、小舟、連絡船、それですべてだった。

「………」

「………」

「…………南無阿弥陀仏」

 鮎美は墓地に向かって両手を合わせると、めったに唱えない念仏を口にした。鮎美の家は浄土真宗で、このあたりも浄土宗と浄土真宗、それに禅宗が多いと聴いている。鮎美は合掌を終え、また登山道を登り始めたけれど、陽湖が墓地に対して何かするのか気になって見た。

「………」

 何もせんのや、バチ当たりな奴やな、と鮎美は不快感を強くする。登っていくと、だんだんと登山道は険しくなり、場所によっては手も使わないと登れなかったりした。おかげで身体が温まりコートを着ているのが暑いくらいになってくる。振り返ると陽湖もついてきていて、息を荒げて登っているけれど、寒いようで手足が震えている。

「…………。………」

 コートを貸してやるべきか、迷ったけれど、やめた。

「…ハァ………ハァ…」

「ハァ…ハァ…ハァ…」

 いよいよ山頂が近づいてくると、岩肌丸出しの崖のような道もあり、道幅は30センチくらいしかなく、落ちると10メートルは転落しそうだった。

「……ハァ……」

「ハァ…ハァ…」

「…ここで」

 鮎美は振り返って陽湖を見る。ちょうど陽湖は一番道幅の狭い場所を通るところで、とても不安定だった。

「ここで、あんたを突き飛ばしても、誰も見てへんね」

「………」

「うちの方が腕力もあるし。あんたが落ちて死んだのを確認してから警察を呼べば、完全犯罪や」

「………」

 陽湖は祈りの形に両手を組むと、無防備に目を閉じた。鮎美がその気になれば、いつでも落とせるし崖下は岩で、かなりの確率で死亡すると思われる。

「………ちっ…」

 鮎美は舌打ちして再び山頂を目指した。やっと山頂に至る。山頂の周囲には樹が無く、古い石垣が組まれて5メートル四方の広さが確保され、中央には何度も火を燃やした跡がある。中世には狼煙をあげたのかもしれないし、今では祭りで火を焚くのだとわかる。

「ハァ……ハァ……これで公園って……ベンチ一つ無いやん…ハァ…」

「ハァ…ハァ…ハァ…」

「けど……なちゅー、ええ景色や……」

「…はい……本当に、美しい……」

 二人の眼下には360度、湖面が拡がっていて風が無いので鏡のように凪いでいる。そして真冬は琵琶湖の水温の方が気温より高くなるので霞がかかって見え、標高は225メートルという小さな看板があってわかる程度の高さなのに、まるで高山から雲海を見下ろすような景色だった。

「……霞のおかげで対岸も見えん………まるで別世界にいるみたいや……心が洗われる風景って……こういうのかな……」

「こんなに美しいところだったなんて……」

「いつまで見てても、飽きんわ………」

 そう言った鮎美は5分くらいで風景に飽きた。そして美しい景色という情緒的なことより現実的で生理的な現象に悩まされる。

「…ぅくっ…公園いうからトイレくらいあるかと思ったのに……」

 食後のお茶とミルクティーが鮎美の膀胱に巡ってきて疼いている。寒さで脚が冷えたことも要因して猛烈な尿意を覚えていた。登っているときも途中で引き返そうかと何度か迷ったけれど、ここまで登ったのに山頂に行けないのは残念という欲と、山頂が公園になっているならトイレがあるだろうという楽観で進んでしまった。

「くっ……ぅ~……」

 鮎美は山頂の石垣を四方に歩き回ったけれど、やっぱりトイレはない。ここから最短距離にある公衆トイレは港にある観光客向けのトイレで、下山しなければいけない。

「………あかん……無理や………途中で漏らす……」

 登山靴ではないので下山には登山より時間がかかるし、脚に疲労もでてくるので、我慢しきれるとは思えなかった。

「……くっ……漏らすよりは……」

 さきほど堪能した景色を鮎美は再び見回した。しっかりと霞がかかっていて、どんな望遠カメラでも、ここを対岸から撮影されることはないと思える。麓の家々の屋根もぼやけて見えないので、向こうから山頂も見えないはずと判断する。それでも大きな抵抗感があるので鮎美は北側の石垣へ行く。島の北側は急な崖が多く、住居は無いし、対岸は何十キロも先で絶対に見えない。航行している舟が無いことも確認した。

「…もう無理…、…出る…」

「なっ?! 何してるんですか?!」

 陽湖はコートを脱ぎ捨てた鮎美がズボンとショーツを足首まで一気におろしたので驚いた。

「くっああぁぁ…」

 鮎美は恥ずかしさと開放感に身震いしながら、できるだけ小水が後方へ飛ぶように前屈みになる。和式トイレで済ませるように、しゃがんでしまうと足元で飛び散って靴と靴下がドロドロに汚れるということは小学校4年生のときに渋滞した阪神高速道路の路肩で経験したので今回は石垣の下へ飛ぶように恥を忍んで立ったまま済ませた。

「……ハァ………ハァ…………やってしもた……高校生にもなって……くっ……」

「こんなところで、するなんて………」

「しゃーないやん! 漏らすよりマシやし! 誰かに言うたら殺すから!」

「……言いませんから……どうぞ、これ」

 陽湖がポケットティッシュを差し出してくれる。

「………おおきに…」

 受け取って拭いてから、ショーツとズボンをあげ、使ったティッシュを放置するのも気が引けるのでポケットに入れた。

「誰かに言うたら、ホンマに殺すしな」

「言いません。誓って」

「……………」

 鮎美は恥ずかしいのと、重ねて陽湖に秘密を握られてしまったので、悔しくて涙を滲ませた。

「………………」

「あの……そろそろ下山しませんか? また身体も冷えてきましたし」

 山頂についたときは陽湖も少し汗ばむくらい身体が熱くなっていたけれど、やはりコートを着ていないので、また冷えてきている。そして鮎美と同じ生理現象に悩まされていることが、擦り寄せた両脚で見て取れた。

「あんたも、おしっこ我慢してるん?」

「……はい…」

 ミルクティーの分だけ少ないとしても同じタイミングで食事をとってお茶を飲み、そして身体の冷えは陽湖の方が強いし、全体的に小柄なので我慢できる量も少なかった。

「どうする? ここでする? トイレは港まで無いよ」

「……港まで……」

 陽湖は眼下の港を見下ろした。気が遠くなるほど、遠い。鮎美は脱ぎ捨てたコートの砂埃を払ってから羽織った。

「山をおりながら1時間も我慢できるん?」

「………………他にトイレはないんですか?」

「あったら、うちが使うと思わん?」

「……ぅぅ………」

「北側やったら家もないし、対岸も遠いよ。あとは舟が通ってへんタイミングを狙いぃ」

「…北側……」

 陽湖は石垣の北側に近づいてみる。石垣は垂直に近く、その下も急な斜面で落ちれば命はないような気がする。その分、下には誰もいないし、対岸は霞がかかって見えない。けれど、タイミング悪く周航船が通りかかっている。

「……あの船から、こちらは見えないでしょうか?」

「う~ん……こっちから肉眼で船が見えるんやから、向こうからも山頂は見えるやろな……琵琶湖を見に来た観光客が乗る船やから、大きなカメラもって、こっちに向けてるかも」

 鮎美は船に向かって大きく手を振ってみた。向こうが見ていて手を振り返してくれたのかは遠すぎて小さくわからない。

「……ぅぅ……ハァ……」

「どうする? 船が通り過ぎるのを待つか、下山するか、うちは、どっちでもええけど、おもらししたら大笑いしたろな」

「っ…鬼!」

「鬼々島やしね」

「悪魔!」

「サタンやもん」

「ぅぅ……」

「ちなみに、しゃがんで地面にすると跳ね返ってきて汚れるから、うちみたいに立ってせんと、しゃーないよ」

「……あんなカッコ……嫌です……」

「うちが喜んでしたとでも?」

「…ぅぅ……早く通り過ぎて……」

 陽湖は船が通り過ぎてくれるのを願ったけれど、遅々として進まず、ようやく船が通り過ぎてくれた頃には額に汗が浮かぶほど我慢していた。

「ハァ……ハァ……」

 陽湖は両手で押さえて尿意に耐えている。今にも漏らしそうな顔色だった。

「脱がしてあげよか?」

「じ…自分で脱ぎます…」

 もう我慢の限界だったので陽湖は迷っている時間もなくズボンとショーツをおろした。

「…ぁああぁ…」

 小さな悲鳴のような声も漏らしながら、鮎美と同じ姿勢になると恥ずかしくて涙も流した。そんな様子を見て鮎美は最悪に邪悪なことを始めた。スマートフォンを出して撮影モードにすると、シャッターを切る。

 カシャ!

 シャッター音を聴いた陽湖がギョッとして鮎美を見る。こちらにスマートフォンを向けて鮎美が構えている。

 カシャ!

「っ…や、やめてください! 撮らないで!!」

「……」

 カシャ!

 容赦なくシャッターを切っているけれど、実はカメラの方向は自撮りモードで陽湖の姿は撮影していない。下半身を露出している女子の姿などを撮影すれば、自分の立場が危ういことはわかっているのでシャッター音で陽湖を脅しているだけだった。

 カシャ!

「イヤ! やめて!」

 陽湖は急いでショーツとズボンを引き上げる。撮られたくない一心で着衣を直したけれど、生理現象を途中で止められるはずもなく、ショーツの中に出してしまい、すぐにズボンも濡れて大きなシミをつくった。白いジーンズ生地のズボンが薄黄色く濡れていく。

 カシャ!

「あはははは、おもらしみたいやん。笑えるわ!」

「………し……信じられない……ひどい……」

 陽湖は涙を零して鮎美を睨んだけれど、冷然と言い返される。

「信じられん? 信じられんなら、しゃーないね。神さまは助けてくれんかったね?」

「っ…そんなことを引き合いに出さないでください!!」

 カシャ!

 またシャッター音を鳴らした。

「こんな姿を撮らないで!」

 カシャ!

「っ………」

 陽湖は恥ずかしさと悲しさでブルブルと震えて泣いた。なのに、鮎美は冷たく嗤う。

「さて、この写真をネットにバラまくけど、神さまは助けてくれるでしょうか?」

 鮎美自身も週刊紙でパンチラ写真を全国に発売されたので、それがどれだけ傷つくか体験している。死にたくなるような心地だった。

「……やめてください……、お願いします……」

 陽湖はボロボロと涙を流しながらも、はっきりと言った。鮎美は待っていたように条件を出す。

「やめて欲しかったら、うちの母さんに宗教勧誘すんのも、金輪際やめてや。やめると誓え!」

「っ………」

 泣いていた陽湖がピタリと涙を止めた。そして、鮎美の瞳を見通すように見つめてくる。

「サタン、やはりお前の仕業………お前がシスター鮎美に、こんな、ひどいことをさせている」

「さあ! 誓え! うちの母さんを勧誘せんと! でないと、マジでネットにバラまくよ! あんたの人生終わりや!」

「好きにしなさい。そんなことで私の信仰は揺るぎはしない」

「なっ……マジでまくで!! あんたが何を信仰しようと自由やけど、うちの母さんまで巻き込むなや!! ボケ!!」

「彼女は洗礼を望み、信徒となり楽園へ復活するのです。聖書は神を信仰しない人間が死後、どうなるかについて沈黙しています。おそらく天国へ行くだろうというような曖昧な理解は間違っています。そこには何も無いのです」

「あんたとはマジで言葉が通じんわ!! ホンマにお前が外で小便してるとこを! 世界中にバラまくからな!! 実名も入れたるわ!! 月谷陽湖! 琵琶湖姉妹学園! 生徒会長!! ケツ丸出しの写真! アップロードや!」

「神よ、どうかシスター鮎美からサタンを去らせ給え」

「ええ覚悟や!! あと30秒だけ待ったろ!! 実名つきの投稿、そこらじゅうの掲示板にあげたるわ!! 月谷陽湖! ついでに好きな男もあげたろ!! 屋城愛也!! 彼のこと考えて毎日オナニーしてます書いておいたるわ!! 屋城と、あんたの携帯番号も晒したる!! めちゃくちゃにしたるしな!!! できんと思うなや!! うちの権限があったら匿名投稿くらい可能や!! 国会議員限定のアプリがあんねん!! それで晒したるわ!!」

 そんな便利なアプリは無かったけれど、鮎美は脅しのために吠え続けた。けれど、陽湖は揺るがず祈り続ける。とうとう声が枯れた鮎美はスマートフォンの画面を操作しながら言う。

「終わりやね。もう送信したよ。せいぜい苦しめ」

「アーメン、ハレルヤ。私は悪魔の脅迫にも誘惑にも屈しません。主イエスがヨルダン川西の山でサタンを退けたように、私もサタンを退けます」

「ちっ……ボケが……」

 もともとアップロードする写真データそのものが無い鮎美は脅し続けるために、スマートフォンをいじりつつ、宗教、勧誘、撃退、迷惑、家族が入会、というキーワードで調べものをしながら下山を始めた。けれど、あまり有効そうな解決策は見つからず、足元が危ないのでスマートフォンをポケットに入れ、下山を続ける。陽湖も山頂で祈りを捧げてからおりてきたようで、少し後方に気配を感じる。

「………ちっ……」

 山の中腹あたりの広い場所で、鮎美は足を止め、岩陰で陽湖を待った。そして陽湖が来た瞬間、殴りつけた。

 ドッ…

 お腹を拳で殴った。

「ぅっ?!」

 陽湖が蹲って苦しむ。顔を殴るとバレるから、お腹というオーソドックスな選択だった。

「ぅぅ……ぅぅ…ハァ…」

「また、神さまは助けてくれんかったね?」

 さらに肩を蹴って地面に転がした。

「うっ…痛っ…」

「無力な神さんやね! お空のどっかから見てるはずやのに助けに来てくれん!」

 言いながら鮎美は足で陽湖の腹部を踏みつけて押さえ込む。

「ううっ…うううっ…」

「か弱いくせに、意地はりおって」

 こんな雑な押さえ込みでは鷹姫なら瞬時に反対の足首をつかんで逆に鮎美を転倒させてくるけれど、まったく格闘技の経験もなく暴力に暴力で応じる気がない陽湖は苦しそうに呻くだけで一切の反撃をしない。さんざんに踏みつけて陽湖の体力を奪った後に鮎美は身体を重ねるようにのしかかると、右手を陽湖の股間へやった。

「指つっこんで処女うばってグチャグチャにしたろか?」

「っ…」

 さすがに陽湖が一瞬、怯えた顔をした。

「ええ顔や。もう一度だけチャンスをやる。うちの家にお前らの宗教を二度と入れんと誓え!!」

「………」

「最後のチャンスや。さっきアップロードした写真も今なら間に合う。なんとか消せる。あんたが約束するなら、うちも助けてあげるよ。けど、言うこときかんにゃったら、もう終わりや」

 鮎美は右手で陽湖のズボンとショーツを乱暴に押し下げ、足の付け根へ手をあてた。そこは濡れていて、それが興奮ではなく先刻の小水であることはわかっていても、鮎美は怒りと敵愾心に加えて、性的興奮を覚えた。ふと、戦場で兵士が蔑んでいるはずの異教徒を強姦するのは、こういう気持ちかもしれないと頭の片隅で考えた。

「このまま犯したろ。奥の奥まで指つっこん掻き混ぜたるわ。そして、その写真も投稿や。全世界にバラまいたる! さあ、どうする? 選べ!」

「………。……信仰は捨てません!」

「うちの家に入れるな言うてるねん!!」

「人はともしびを灯すと、それを量りかごの下ではなく、燭台の上に据え、それは家の中にいるすべての人の上に輝くのです。同じように、あなた方の光を人々の前に輝かせ、人々があなた方の父に栄光を帰するようにしなさい。マタイ5章は信仰を伝えることが信仰だと、広く神の威光を掲げよとしるしています」

「そうか………あくまで、言うか……あと5秒だけ、チャンスをやる。4」

「………」

「すべて失って後悔せいや。3」

「………」

 黙っている陽湖の身体が恐怖で硬くなっているのが、のしかかっている鮎美には伝わってくる。

「優しくなんか突っ込まんよ。えぐり込んで引き裂くしな。2」

「…ハァっ……ハァっ…」

 処刑される寸前の人間のように陽湖は怯えているのに、意志を曲げない。鮎美の瞳を見上げて祈っている。

「どんな悲鳴をあげるんやろね。1」

「……アーメン」

「アホが!!」

 怒鳴ったけれど、鮎美は言ったことを実行しなかった。もともと実行する気はなく、ただの脅しだった。

「骨の髄まで、アホやな……くそ……」

「………神よ……お救いくださり、ありがとうございます」

「ちゃうわ! うちの判断じゃ!」

 これ以上は犯罪行為として揉み消せなくなるという自己保身の結果だった。

「あんたを守ったんは、この国の刑法と、うちの理性や! せいぜい感謝しい!」

「はい。シスター鮎美、あなたの良心にも感謝をささげます」

「………どこまでも………どこまでも、……アホやな……お前はああぁあ!! くううう!!」

 鮎美は空に向かって絶叫した。それから膝を着いて地面を拳で叩いた。その姿は陽湖にはサタンと戦う人間に本気で思えた。今まさに神の奇跡と人の自由意志がなせる業を見ている気になる。

「神よ、シスター鮎美にも導きをください」

「………くそ………」

 悪態をつきながら、鮎美は立ち上がると、のろのろとした動作でスマートフォンを触りブラウザ画面を陽湖に見せる。

「安心しぃ。あんたの写真を投稿したりはしてない。このご時世、そんなことしたら、うちが捕まるし」

「ああ……あああ……神よ……ありがとうございます……ありがとうございます……」

 自分の下半身裸の写真が世界中に出回っていると覚悟していた陽湖は安心と感謝で嬉し涙を零した。

「せやから、神やなくて、うちの判断や!」

「シスター鮎美の良心にも本当に感謝をささげます。ありがとうございます」

「……くっ……」

 さんざん脅迫して暴行した相手に感謝されると、鮎美は自己嫌悪で背筋が腐りそうだった。

「もう帰るで。……うちがしたこと黙っておきや。あと、うちの秘密もバラしたら、あんたの写真、どうなるか………二人して破滅やからな…」

「はい、誰にも言いません」

「っ………」

 鮎美は泣きそうになって、陽湖から顔を背けた。あれだけ手酷い目に遭わせた方が泣くのは道理に合わず恥ずかしいので顔を向けられない。けれど、やっぱり母親のことは許せない。そんな複雑な気持ちで、泣き出したくなったけれど、我慢しながら山をおりた。ちょうど3時間が過ぎていて、鮎美と陽湖は家に戻った。

「ただいま」

「ただいま戻りました」

「おう」

「おかえりなさい」

 居間には玄次郎と美恋がいて、二人は少し離れて座っていたけれど、なんとなく距離が普段より近いのが感じられた。そして、鮎美も陽湖も性的経験は無いけれど、もう18歳の女性として、その女の勘が夫婦二人が昼間から抱き合っていたのだと感じさせてくる。なにか痕跡があるわけではないけれど、そう感じている。そして、鮎美が美恋と目を合わせると、恥ずかしそうにそらされたので確信した。

「……まさか……うちらを寒空の下に追い出して二人でエッチしてたとか……ちゃうやろな?」

「「っ…」」

 美恋と陽湖が赤面し、玄次郎が笑った。

「だははは! 正解!」

「ざけんな!」

「夫婦の仲直りといえば、一発だろ」

「このエロオヤジ……」

「ここに引っ越してから大阪のマンションと違って防音も無いから、美恋が恥ずかしがって、ついつい無かったからな。とくに一つ屋根の下に、よその娘さんまでいるのに、やりにくいだろ」

「だからって…」

「シスター陽湖、服が泥だらけよ。どうしたの?」

「これは……二人で山に登って、私が転んで汚したんです。すいません」

 陽湖は転んだ原因や状態については述べず、ウソでない範囲ギリギリに事実を矮小化した。

「転んで……そう。…怪我は?」

 美恋は少し疑うような視線を鮎美に向けたけれど、陽湖の言葉を信じることにした。

「平気です」

「お風呂に入ってらっしゃい。今なら、まだ温かいから」

「はい」

「母さん、エッチの後、お風呂を使ったんやね?」

「「っ…」」

「うむ、それも正解!」

「と、とにかく入ってらっしゃい!」

「は、はい!」

 陽湖が浴室へ向かい、美恋も洗濯のために脱衣所へ入る。鮎美は寒いのでストーブの前に座った。

「そんで? 母さんと、どんな話したん?」

「これからも愛しているよ、と」

「っ………そういうこと、娘に言う?」

「訊いたのは鮎美だ」

「やとしても……ああ、もう! うちもお風呂に入りたいわ! 寒いし!」

 今回は陽湖の裸が見たいわけではなくて、むしろ陽湖が怪我をしていないか、気になる鮎美が浴室へ向かうと、美恋が立ちはだかった。

「一人ずつ入りなさい」

「………うちも身体、冷えたねん」

「少し待ちなさい」

「すぐ揚がりますから!」

 母娘の会話が聞こえてきた陽湖が扉の向こうから気を遣って言ってくる。

「ええよ!」

「いいのよ!」

「気を遣わんでええよ!」

「気を遣わなくていいのよ! ゆっくり温まりなさい! アユちゃん! どうして、いつも、そうなの?! もう子供じゃないのよ! 一人で入るのが普通でしょ!」

「別に……いつもやないし。たまに、やし」

「……………。大事な話があります。こっちに来て」

 いつになく美恋が強い調子で鮎美の手を引くと、居間に戻らせ、玄次郎の前に座らせた。美恋は夫の隣りに正座する。

「大事な話があります。玄次郎さんもふざけないで真剣に聴いてください」

「また宗教の?」

「違います!」

「そうか……それなら、……それで?」

「アユちゃんの、鮎美のことです」

「…うちの………」

 鮎美は嫌な予感を覚えた。居心地が悪い。逃げたくなった。

「うち、寒いし、お風呂に入りたいんやけど」

 もうストーブで温まってきたけれど、逃げ口上に使ったものの、美恋は逃がしてくれない。

「本当に真剣な話なの。ちゃんと聴いて」

「…はい……」

 背後で陽湖が揚がってきた気配がする。陽湖も親子三人の様子を見て、やや離れたところに正座した。

「私は鮎美のことが心配なの。とても心配なのよ」

「……そう……ごめんな……週刊紙の件では心配かけて…」

「それだけじゃないの。…………」

 美恋は切り出し方を迷い、陽湖を見て、それから玄次郎を見て、鮎美へ告げる。

「私は玄次郎さんと愛し合って結婚しました」

「「「………」」」

「私は女性として、男性だった玄次郎さんを好きになったの」

「………」

 もう鮎美には話の流れが読めた。

「鮎美は男の人を好きになったことがある?」

「……別に……」

「別にじゃないでしょ! あるの?! ないの?!」

「…ないよ」

「どうして無いの?」

「………知らんし……」

 そんなん、うちが訊きたいわ、と鮎美は思いながら、陽湖が秘密をバラしていたのではないかと疑えてくる。

「女の子はね、男の人を好きになるものなのよ」

「……ふーん……そうらしいね…」

 鮎美が斜めに構えて、陽湖を一睨みした。睨まれても陽湖は動じない。玄次郎が退屈そうに言ってくる。

「母さんは何が言いたいんだ?」

「「「……」」」

 三人は男性の鈍さを改めて実感しつつ、美恋が告げる。

「鮎美が女の子ばかりに興味をもっているのを、あなたは知ってる?」

「は? いや、知らないけど……そうなのか? 鮎美?」

「……………。…………。はい、そうやよ」

 自分でも意外なほど、あっさりと認めていた。

「そうか………そうだったのか………そういや、彼氏できたことないな……えっと、それは、あれか? 女が好きなのか? 女なのに」

「……うん……」

 声が震えそうになるのを抑えて答えた。

「そうか……………。そういう系の人か………まあ、いいんじゃないか。人それぞれの個性と自由だ」

「父さん……」

 父親の反応で泣きたくなるほど安堵したのに、母親は違った。

「いいわけないわ!! 自然の摂理に反してる!!」

「そんな大声を出すなよ」

「どうして、お父さんは、いつもそうなの?! そんなアバウトに受け入れていい問題じゃないのに! この子は間違った道を進もうとしてるのよ?!」

「………いや……でも………」

「子供が間違ったとき、それを注意するのが親でしょ?!」

「……ああいうのは他人が注意して、どうなるものでもないだろ?」

「他人じゃない! 親よ!!」

「いや、親でも、ああいうのは………たぶん、そのままなんじゃないか?」

「そのままでいいっていうの?!」

「人それぞれだってことだよ」

「違う! そんな考え方は間違ってる!」

「そうヒステリックに喚くなよ」

「あなたと私の子供よ?! 私たちが愛し合って産んだ子供が同性愛だなんて、おかしい!!」

「だから、大声を出すな、近所に聞こえるぞ」

「っ………」

 言われて美恋は口を押さえた。そして涙を流した。

「鮎美、お願い。変な道に進まないで」

「………」

「人はね、夫婦になって幸せになるの」

「…………」

「私は玄次郎さんと結婚して幸せよ。少し不便なところに越してきたけれど、それでも幸せ。鮎美を赤ちゃんから育てるのも、楽しかった」

「……………」

「鮎美も、もっと積極的に男の人へ興味をもってみて。ナオくんも感じのいい人だったし、学校でもカッコいい人、いるでしょ?」

「…………おらんし……」

「………。鮎美、お願いよ。私は鮎美にも幸せになってほしいの」

「…………………幸せは……人それぞれやん」

「違うわ。男と女、それで夫婦。それが自然の摂理。神が人をお造りになったときも、そうおっしゃったわ」

「ちっ……」

 どうして母親が急にキリスト教系の考えに染まったのか、だんだんわかってきた。人権という思想の延長線上には同性愛の是認が含まれてしまう。けれど、神を持ち出してくれば、娘を説得できるかもしれないと、そう考えたのだと、わかった。そして陽湖が再び強烈に憎くなる。

「あんた、約束を破って喋ったな?!」

「いいえ、私は話していません。お母さんはシスター鮎美を心配していて気づかれたのです」

「っ……くっ……」

 憎いけれど、陽湖がこんなときにウソをつく人間ではないとも思える。

「鮎美、シスター陽湖は私の相談にのってくれたの」

「気色悪い呼び方をすんな言うてるやろ!!!」

「………。私は洗礼を受けます」

「っ! なんで、その話になるねん!!」

「正しい行いが何かを、親が子に示す必要があるからです」

「示してくれんでええわ!!」

「私が正しく生き、鮎美も見習って、正しく生きて。お願い」

「……………もう、お前、出て行け」

 一瞬、母親へ言ったようにみえたけれど、鮎美が言ったのは陽湖へだった。

「お前、この家から出て行け!!」

「きゃっ?!」

 陽湖は乱暴に髪をつかまれると玄関まで引っ張られ、外に突き出される。

「ううっ…」

 外の地面に陽湖が裸足で転がる。すでに大声で口論していたために、外には4、5人の島民が出ていて、何事かと見守っていた。鮎美は人目も気にせず怒鳴る。

「おかしな宗教を母さんに吹き込みやがって!!」

「……」

「シスター陽湖、大丈夫?!」

「はい、平気です。またサタンが暴れ出したのです。気をつけて」

「っ……お前は………お前はっ……お前はあぁああ!!!」

 鮎美が陽湖を蹴りつけようとするのを、美恋は身を挺して守ろうとし、そして玄次郎は背後から羽交い締めにすることによって娘が暴行の現行犯になることを阻止した。それでも鮎美の怒りは治まらない。

「出て行け!! うちの家から!! この島から!!! 出て行け!!! アホんだら!!」

「「…………」」

「落ち着け、鮎美、人が見てる」

 外で怒鳴りだしたことで、ますます島民たちは集まってくる。そして、もともと陽湖が毎週のように礼拝案内のリーフレットを戸別配布することを、やはり保守的な地域だけにこころよく思っていなかった島民が多く、強い関心を引いていた。

「二度と、うちらの前に現れるな!! 勝手に神の国でも楽園でも行っとけ!!」

「「………」」

「日本はな! 仏教と神道の国なんや!! イエスなんぞ知るか!! サタンといっしょに去れや!!」

「そうじゃ! 芹沢先生の言うとおりじゃ!」

 島民の中の老人が同調してきた。一人が同調すると次々に陽湖を罵る声が上がる。今までリーフレットを戸別配布しても苦情があがらなかったのは、陽湖が国会議員として期待されている鮎美の家に同居しているから言いにくかっただけで、とうの鮎美が追い出そうとしてくれるなら、願ってもないチャンスだった。

「「出て行け!」」

「「耶蘇教はいらん!」」

 誰かが空のペットボトルを陽湖へ投げつけた。さらに植木鉢まで飛んでくる。それは事件にならないように、少し狙いを外していて、陽湖の足元へ落ちたけれど、割れて破片が飛び散り、陽湖の手を切った。群集心理は危険なまでに燃え上がってきている。このままでは魔女狩りになりそうだった。

「母さん、目を覚ましてや! こっち来いぃ!」

「「………」」

 美恋と陽湖は支え合っていて、動かない。

「……シスター陽湖………」

「危険ですから、私から離れてください」

「いいえ……私は洗礼を受けます。今」

「今?」

「はい」

 美恋が西を指し示した。そこには琵琶湖がある。港の反対側で浜辺になっていて夏には子供たちの水遊びが可能な場所だった。美恋は堂々と言う。

「ご覧なさい、水があります。わたしがバプテスマを受けることに何の妨げがあるでしょうか」

「もし、あなたが心を尽くして信じるなら救われます」

 陽湖が応じて言った。島民たちには二人の会話は意味不明だったけれど、鮎美は付き合いが長くなってきているので、それが聖書の一節なのだとわかる。美恋がまっすぐに陽湖を見つめて言う。

「わたしは、イエス・キリストが神の子であると信じます」

「母さん………何を………する気なん……」

「おい、美恋、お前……」

 父娘が不安に思っているのに、美恋と陽湖は数メートル先にある琵琶湖へ向かい、そこへ入っていく。

「おい! 死ぬぞ!!」

「母さん! やめて!! 出て行くのは、そいつだけでええねん!」

 真冬なので気温より水温は高いといっても、かなり冷たい。そこへ二人は入っていき、陽湖は肩まで浸かり、そして美恋は陽湖に支えられて、頭のてっぺんまで水に浸かった。それが洗礼の儀式らしく、それだけで終わりだった。二人が浜辺に戻ってくる。罵っていた島民たちも、やや圧倒されていたけれど、そういえば似たようなことは神道や空手家でもやっているな、うじくらべでも形骸化したけれど入水が形式ではあるし人間がやることは似たようなものだな、と感じていく。陽湖と美恋が抱き合った。

「おめでとう、シスター美恋」

「シスター陽湖、ありがとう」

「「「「「……………」」」」」

「鮎美、あなたも、よく聖書を勉強して、正しく生きてちょうだい。お願い」

「……そんな勉強はしとうない………もう、勝手にしてや………」

 うなだれた鮎美はトボトボと家に入っていく。玄次郎が妻と陽湖の肩を押した。

「二人とも風呂に入れ。みなさん!! お騒がせしました! ちょっと妻は興奮していたようです! すみません! よく言って聞かせますので! どうか、今日のところは、これで!」

 何を言い聞かせるのか、自分でも不明だったけれど、とりあえず玄次郎は、その場を治めて風呂に二人を押し込んだ。

 

 

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