第25話 1月7日 鷹姫の鈍さ、母親の変化

 翌1月7日の金曜日、もともと週末ということもあり鮎美たち改選された新参議院議員と直樹たち非改選組がそろって朝食を摂りながら、来週に向けての連絡事項を受ける朝食会議があり、竹村議長の計らいで、その最期に翔子による口頭陳謝が挿入されていた。

「最期に、嵐川翔子先生から、みなさまへお話があるということです」

「っ…はい…」

 翔子は立って陳謝する予定だったのに、座ったまま動かない。

「「……」」

 左右に座っている鮎美と直樹が見ると、翔子の膝がガクガクと震えていて、とても立てそうにないとわかった。まるで寒さに震えるウサギのようで肩や手も震えているし、すでに泣いていた。目前に置かれている朝食には一口も手をつけていないし、鮎美が優しく腰をポンポンと叩いても、やはり立てないでいる。鮎美が代わって立ち上がった。

「一昨日より、みなさまへご迷惑をおかけしておりますこと、お詫び申し上げます。ご本人が大変に動揺しておられますので、代わって事情を説明いたしますこと、お許しください」

「おい、本人が詫びるんがスジやろ!!」

 総理大臣にさえ野次を飛ばした大阪の男性議員が遠くの席からでも、よく聞こえる声で言ってきた。鮎美は関西弁に関西弁で応じるとケンカになりやすいので、標準語で応じる。

「少し私自身のことを振り返って、初めて多くの人の前で話したのは、市議選の応援演説でしたけれど、恥ずかしながら緊張のあまり腰が抜けて立てなくなり、秘書に助けてもらいました。私たちクジ引きで選出された者は、その経験や度胸もそれぞれです。総理大臣にさえ物怖じされない度胸もんもおられれば、人前で話したこともない人間もおり、嵐川さんも26歳の女性として、居並ぶ参議院のみなさんの前で萎縮するのも当然かと思います。ここにいる過半数の人が、はじめての演説なり、挨拶なりで大変に緊張されたのではないでしょうか?」

 鮎美の言葉で直樹たち3年の経験がある議員も3年前の自分を思い出している。ごく一部には社長であったり教師であったりして、人前で話すことに慣れている者もいるけれど、多くが不慣れで緊張したことを鮮明に覚えていた。

「演説や挨拶でも、はじめては緊張します。それやのに、自分が除名されるかもしれん立場で陳謝するのは、本当に怖いもんやと思いますから、まず私から事情を説明させてください」

 鮎美が昨夜のことを翔子のプライベートなことも含めて話していき、連帯保証人制度と銀行の悪辣さによって、翔子が苦しい青春を送ってきたこと、今も奨学金の返済も含めて苦労していることを語った。

「このような次第ですが、今は嵐川さんも自分の態度を深く反省し、自眠党で一から勉強していきたいと誓ってくださいましたので、どうか、ご理解ください」

「なんで自眠なんや?!」

「それは…」

「ボクも眠主へ誘いましたよ」

 直樹も立ってくれる。

「芹沢先生とボクで話し合い、結果として自眠党でという話になりましたから」

「コウモリは黙っとれ!」

「野次馬も黙ってくれると、うれしいんですが」

「何をっ?!」

「静粛に、なにより嵐川くんの声を少しでも聴きたい。発言できますか?」

 議長の竹村が促してくれる。鮎美と直樹は翔子を見たけれど、まだ立てそうにないので左右から腕をもち、支えて立たせた。

「翔子はん、少しでもええから、何か言うて」

「っ…も……もうしわけ……ありません…でした……は、反省して…おります……ゆるして……ください…」

 支えられたまま翔子が震える声で謝り、頭を下げた。昨夜は一睡もしていないようで憔悴しきった顔をしている。ずっと不幸だった青春のあとで、ようやく手に入るかもしれない3960万円が消えるかも知れない恐怖は人間をここまで弱らせるものかと、見ていた全員が感じた。鮎美は可哀想になって同情の涙を滲ませて言う。

「懲罰動議を言い出した私としては、彼女の陳謝を受けて、一度の失敗は許してあげたいと考えます。みなさん、どうでしょうか?」

「「「「「……………」」」」」

 翔子が送ってきた人生を聴くと、わずかに30万円の卑怯であっても合法的な接待を受けたことと、卑屈で狡猾な態度も仕方ないかと全員が納得しつつあるけれど、また野次が飛んできた。

「にしても、なんで自眠がもっていくんや!」

「うちといっしょに勉強してくれると決意していただきましたから!」

「芹ちゃんがもっていくんか?! そんなに手柄がほしいか!」

「手柄て……そんな風に、人が人を利用する。そんな発想そのものが今日まで彼女を苦しめてきたんです! まして弱ってる人間を餌食にするやなんて! うちは純粋に翔子はんが可哀想やから、うちが保護したいんや!! 文句あるか!!」

 もう倒れそうになっている翔子を抱きながら鮎美が言うと、会場は静かになった。結局は関西弁に関西弁で応じてしまい、かなりケンカ腰になったけれど、その分だけ熱意は伝わったし、今まで鮎美をただ最年少だから目立っているだけの高校生と思っていた周りの印象も変わった。議長の竹村がしめてくる。

「芹沢くん、太田くん、議場外とはいえ品位は保つように」

 関西弁になれていない地域の議員には二人のやり取りはヤクザのケンカに感じられるので竹村は軽く注意して終結と解散を告げる。

「私としても嵐川くんの身の上は、とても気の毒に感じます。今回のところは、さきほどの陳謝で咎なしとして、若い人の活躍を期待します。では、これにて朝食会を終わります」

 議員たちは散っていき、鮎美は鷹姫へ翔子のことを頼むと、研修に出席したものの官僚が出欠確認をとった頃合いを見て廊下に出た。同じように出てきた議員が何名もいる。その中の若い男性議員が気安く声をかけてくる。

「お、鮎美ちゃんもサボり?」

「仕事です。あんた、まさかマジでサボリなん?」

「オレもサボりじゃないって。国交省に行かないと、なんだぜ。なんか田舎から峠に道路を早く造ってくれって話があってさ。たしかに、あそこが通れるようになると遊びに行くのも、めちゃ便利だし。知事まで東京に出て来るからオレも顔を出せってさ」

「立派な仕事やね。頑張ってください」

 研修そのものは資料を読めば理解できる内容なので、地元から陳情などのある議員たちは各省庁へ向かう。鮎美も待ち合わせしていた石永と直樹、夏子、それに数名の眠主党衆議院議員たちと合流して環境省へ出向いた。夏子が担当官僚に琵琶湖の環境保全について必要な予算を確保できるよう頼んでいるのを、わかっている顔をしながら聴いているけれど、実は内容は知らない。その場にいることが大事なのだと石永に言われているので黙って立ち会い、下げるべきときに頭を下げてから環境省を出た。

「こういうときって自眠と眠主って協力するんですね」

「地元利益だからさ」

 直樹の頭を夏子が資料で軽く叩いた。

「琵琶湖の歴史は人類より長いし、淀川水系は近畿経済の生命線なの。さ、次いくよ、次。私が来てる新幹線代は県の予算なんだから東京にいられる時間は、まさに時は金なりよ」

「オレは自腹だぞ」

 石永が言い、鮎美が問う。

「行ったり来たり石永先生も大変ですね。今は議員やないんやから休暇ってわけちゃうんですか?」

「次に向けての布石なんだ」

「なるほど……。けど、眠主の陳情に協力する形でええんですか?」

「うむ、いい質問だ。実はオレも迷っている。もともと加賀田知事が当選した直後から、我が県への予算は削減される傾向にあった。とくに土木関連事業は露骨に」

「それ当時は自眠が与党やったし、嫌がらせで?」

「そーだよぉ! 超嫌がらせ! 女をイジメて楽しんでやがったの!」

 夏子が恨みを込めて言い、そして笑顔になって言う。

「ところがギッチョン、与党が自眠から眠主になっちゃった。私たちの天下! とくに、うちの県は鮎美ちゃんが自眠な以外はオール眠主。となると官僚の態度も変わらざるをえない。けど、官僚は次の総選挙で、また自眠が与党に戻る可能性も考慮してるから、何でも眠主の言うことを聞いてくれるわけじゃない。けど! 鮎美ちゃんと石永先生まで、いっしょに陳情に来てくれれば本当に地元にとって必要な事業なんだ、と前向きに検討し始めてくれる。ということで東京への陳情は共同戦線を張るわけなのよ」

「なるほど………、みんながみんなフタマタがけやね。ほな、石永先生は何を迷ってるん?」

「うむ、こうやって眠主との陳情に付き合えば、地元事業のいくつかは進むだろう。それは地元のためになる、そこはいい。けど、自眠党という立場からは、眠主党の知事など選んだから地元への国からの予算は減らされた。次こそ自眠党公認の知事を、小選挙区でも我々を議員に、という声を出したいのに、眠主党政権下でも地元事業が進むなら、別に眠主党でいいだろ? という声が出てしまう」

「あ~……それは痛いはな」

「だが、落選中のオレも自腹で陳情を頑張ってるとなれば、アピールにもなる」

「う~ん………奥深いというか、打てる手は打ちたいけど、下手な手は打ちたくないという……うちも呼ばれたからホイホイ出てきて、よかったんやろか……」

 鮎美が立ち止まって考え込むと夏子が呼ぶ。

「鮎美ちゃん、早く回らないと、鮎美ちゃんが頼んできた件まで手が回らないかもよ。普通、一年生議員の頼みなんて聞かないし、しかも他党、なのに飲んであげたけど、一番後回しなんだから急ごうね? 時間が無くなったらパスするよ」

「ぅっ、そんな……急ぎましょう! 早く!」

 その後も各省庁を忙しく回り、正午になっても昼食をとりながらの官僚との話し合いが始まったけれど、鮎美のスマートフォンが振動し、着信表示を見ると畑母神だったので周囲へ頭下げて退室してから廊下で受話する。

「もしもし、うちです」

「今、大丈夫かな?」

「…はい。陳情中なので、少しなら」

「それは、すまない。単刀直入にゆく。もう噂は聴いていてくれるだろうけど、私は都知事選に立候補する」

「そ…それは、…えっと……おめでとうございます」

「ははは、その言葉は気が早いよ」

「そうですよね。頑張ってください。応援してます」

「うん、ありがとう。そこで本当に応援を頼みたいのだが、引き受けてもらえないか?」

「え……うちが? ………うちは都民ちゃいますけど?」

「都知事選ともなれば、必ずしも応援弁士は都民に限定されるわけじゃない」

「けど、たしか都知事選の日程って国会にかぶりません?」

「早く終わった日と土日に頼みたい」

「…………」

 鮎美は学校生活と県知事選が交錯した忙しかった日々を遠い目で思い出した。あれを、もう一度、しかも今度は通常国会と都知事選でやるのかと思うと、今から疲れてくる。学校の授業だと居眠りできるけれど、できれば国会では居眠りしたくない。しかも選挙が終わるまで、ずっと東京にいることになりそうだった。

「忙しいだろうけれど、なんとかお願いしたい」

「………」

「頼む」

「……わかりました。調整します」

「ありがとう!」

「海自のトップやった人に、こうまで言われたら断れませんよ。調整は、うちの牧田と畑母神先生の秘書で、お願いします」

 鮎美は電話を切ってから気づいた。

「あ……畑母神先生は自眠やない……日本一心党や……ええんかな? 石永先生は、ええ言うかもしれんけど……党全体としては、どうなんやろ……。自眠と日本一心党は協力してたけど、今は議席が一つもないから……」

 困惑しつつ、トイレに行きたくなったので女子トイレに入り、下着をおろして便座に座った。そのタイミングで再び着信があり、それは谷柿からだった。少し迷ったけれど、自眠党総裁からの電話を無視できないので、向こうから見えるはずはないと羞恥心に言い聞かせてから受話する。

「もしもし、芹沢鮎美です」

「今、大丈夫かな?」

「はい」

 総裁からの電話に鮎美は緊張して受け答えする。要件は嵐川のことだった。

「彼女には、こちらで選任した秘書をつけますよ。いいですか?」

「はい、もちろん。あ、でも…できれば、女性秘書の方が良いかと……数が少ないと聞いてますけど」

「芹沢先生は配慮ができる人ですね。そうします。嵐川さんのこと、よく頑張ってくれたそうで、ありがとう」

「いえ、うちは勢いだけで……」

「これからも、頼みますよ」

 谷柿が電話を終えようとしたので、鮎美は慌てて訊いてみる。

「ぃ、いただいたお電話に質問で恐縮なのですが、一ついいですか?」

「どうぞ」

「実は畑母神先生から都知事選の応援を頼まれました。つい深く考えず返事してしまったのですけれど、自眠党と日本一心党の関係は今は、どうなのですか? うちが…、私が引き受けて問題ないのですか?」

「畑母神先生と親交があったのですか?」

「はい」

「どういうキッカケで……ああ、芹沢先生は石永先生と同じ地区でしたね。彼の紹介ですか?」

「はい、そうです」

「石永先生は元気にしていますか?」

「はい、今もいっしょに経産省へ出向いております」

「それは立派なことで。………ただ…」

「ただ?」

「都知事選の応援に立つことは、芹沢先生の気持ち次第で判断いただいてかまいませんが、あなたは言葉の勢いが強いと聴いています。あまり過激なこと、とくに日本が核武装するだとか、そういった発言は厳に控えてください。男性議員が言うより、女性議員が言う方が海外に与える影響は大きいですから」

「はい、わかりました」

「あと、畑母神先生の応援に立つということは自眠党内でも右寄りの議員だと、誰からも見なされるということは、わかっていますよね?」

「…はい……わかります」

「どうか発言には気をつけてください。お願いしますよ」

「はい、ありがとうございます」

 電話を終えると、ずっと我慢していた生理的欲求を解放する。下着をおろして便座に座っていたことで下半身は条件反射で生理現象を進めようとしていたのに、音を聴かれたりしたら恥ずかしくて二度と顔を合わせられないので、我慢に我慢を重ねていた。

「はあぁぁ…」

 蕩けそうな開放感に浸ってから、話し合いの行われている部屋に戻ったけれど、遅くなったので鮎美は昼食をとり損なった。午後からも夏子たちと省庁を回る。政治家だけで交渉する場合もあれば、もともとの要望をあげてきた団体の代表などと臨むこともあり、鮎美は何の団体かも、よくわからない人たちとも協力している顔をして過ごした。そして、いよいよ夕方近くになり鮎美が頼んでいた件の時間もとってもらえた。文部科学省の前で学園と教団の代表者である屋城たちと生徒代表としては陽湖が東京に出てきていて合流する。他の議員たちにとっては見知らぬ存在になるものの、お互いの協力ということで付き合ってくれて、学園に大学を設置したいという申請もできた。すべての予定が無事に終わった夏子が歩道で大きく伸びをした。コートを着ていても伸びをしたことで彼女の乳房が強調され、何人かの男性議員と鮎美は視線を送ってしまった。

「鮎美ちゃん、またバストタッチする?」

「冗談はやめてくださいよ。あ、週刊紙の件では、ご迷惑をおかけしました。お詫びするのも、忘れてて、すみません」

「いいよ、いいよ」

「大学設置の件も、みなさん、お付き合いありがとうございます」

「「「「「ありがとうございます」」」」」

 屋城たちも礼を言う。夏子たちは頷いた。

「県内に大学が増えるのは、いいことだからね。けどさ…」

 夏子は鮎美にだけ聞こえるように、鮎美の首を抱いて耳元に囁く。

「なんか怪しい教団じゃない? サリンとか琵琶湖に流さないでよ」

「そんな教団ちゃいますって。マジで、いい人らですよ。うちの母校を悪く言わんといてください」

「ごめん、ごめん、冗談だって。ね、金曜だし、これから地元に帰るんでしょ?」

「はい、そのつもりですよ」

「新幹線、予約とった?」

「いえ、まだ」

「じゃ、いっしょに帰ろう。眠主の衆議院議員さんたちは13日に党大会あるから、もう一泊するって。雄琴先生と二人じゃ淋しいし、鮎美ちゃんたちと、いっしょに帰りたいなァ」

「また、密談とか言われんとええけど」

「石永先生もいるし、大丈夫だって」

「それは、たしかに」

 東京駅に向かうと、やはり多くの国会議員が地元へ戻るために新幹線を待っている。その中に鷹姫と詩織もいて合流した。

「鷹姫、翔子はんの様子、どうやった?」

「はい、もう落ち着かれています。週末は地元に戻らず自眠党本部で指導を受けるそうです」

「それがええやろね」

 詩織が言ってくる。

「鮎美先生、テレビ出演の依頼が来ています」

「テレビ……どんな?」

「生放送の討論番組です。深夜の」

「あ~……あれか……。石永先生、どう思います?」

「牧田さん、議題は?」

「前半は参議院制度について。後半は売春の合法化について。ディレクターが、ぜひ鮎美先生に来て欲しいと言っていましたよ」

「「それ絶対に仕組んだ」」「な!」「やろ!」

 石永と鮎美がつっこんだけれど、詩織は悪びれない。

「ディレクターとドイツにいたとき付き合っていたので。とりあえずOKで返事しておきましたけど、ダメですか?」

「勝手に……日程調整できるんやろな?」

「お任せください」

「はぁぁ……ほな、また来週な」

「来週は火曜日から東京でしたね?」

「そや。月曜日は成人式があるねん。二十歳の集いと違(ちご)て今回は、うちが祝われる側やから来賓やないけど、答辞は陽湖ちゃんといっしょにするから、研修は欠席やな」

「資料はまとめておきます。では」

 詩織と屋城たち教団幹部は東京に残り、陽湖や鮎美たちは新幹線に乗る。また盗撮されても問題がないよう3列シートを対面させ、窓側から陽湖、鮎美、鷹姫と同級生で並んで座り、対面させたシートには直樹、夏子、石永が座った。夏子が男に挟まれて言う。

「私と石永先生だけ撮れば不倫に見えるかもね」

「安心してくれ。オレは週刊紙の中ではホモだ」

「うわぁ……可哀想。ホモ疑惑も痛いね」

「うむ、だから雄琴と並んで座るのは避けたい」

「ボクもホモ疑惑は勘弁願いたいな」

「あの…」

 鮎美が迷いつつも指摘する。

「男性同性愛者のことはホモではなくゲイと言われる方が、政治家として言葉の選び方に合うと思います。……僭越ながら」

「鮎美ちゃん、細かいね」

「……言葉は選べと、指導されてますから」

 直樹が自分のスマートフォンで予定を確認しながら言う。

「異常者は異常者だよ、どう呼ぼうと同じだ」

「………」

「シスター鮎美、お昼、まだなのですよね? これ、いかがですか?」

 話題を変えるために陽湖が浅草で買った菓子を勧めてくれた。

「それ、お土産なんちゃうの?」

「いいんですよ」

 陽湖が開封してまで勧めてくれるので鮎美は食べた。

「みなさんも、どうぞ」

「「「ありがとう」」」

「シスター鷹姫も、どうぞ」

「……ありがとう」

 遠慮していた鷹姫も食べる。鮎美が食べながら言う。

「浅草、どやった?」

「私たちはお寺には、あまり入らないので周辺観光だけ……」

 万が一にも文科省への集合時刻に遅れたくなかった陽湖たちは朝から東京へ来ていて、少し時間を潰していたらしかった。鮎美が口の中の咀嚼物を噴きそうになりつつ、なんとか飲み込んでからつっこむ。

「浅草に行って寺に入らんかったら、何の意味があるねん!」

「これを買いたかったんですよ。たくさん買いましたから、どうぞ遠慮無く」

「ボクはカートが来たらビールでも買いたいところだけど、立場もあるからねぇ。それに未成年の前で…、いや、18歳の子たちの前で飲酒というのも、議員として微妙だし。あ、月曜には成人式だったね。ボクは井伊市の高校に来賓で出向くけれど、加賀田知事と芹沢先生は?」

「私は午前に朽木市、午後に阪本市の高校が入ってるかな。あと夜には高校に通ってない子たちの成人式があるよ」

「さっきも言うたけど、うちは来賓やなくて今回は祝われる側やよ。けど、学園内の講堂やなくて、阪本市にある立派な礼拝堂でやるらしいわ」

「主な来賓は?」

「西沢先生が来てくれるねんて」

「ああ、供産党は宗教色がゼロだから、いいかもね」

「そういう人選の配慮もあるんや……なるほどなぁ。あ、答辞、陽湖ちゃんといっしょにするんやけど、原稿、もう決まった?」

「はい、ほぼ決まっています」

 陽湖がカバンから原稿を出して見せる。

「う~ん、無難に普通やな。政治活動でも無いんやから、もっと面白い感じにせん?」

「面白い感じですか、どんな風に?」

「せっかく二人なんやからボケと突っ込みに分けて。鮎美でーす、陽湖でーす、二人合わせて、ピチピチシスターズでーす。みたいな始まりにすんねん。それなら退屈な話にならんから、みんな聴くよ」

「え~……漫才じゃないですか、それ……イヤですよ。一応、宗教色は薄いですけれど、礼拝堂でやるわけですよ。保護者だけでなく近隣から信徒のみなさんも祝いに来てくださるんですから」

 夏子が口を挟んでくる。

「漫才といえば、今度の都知事選、元お笑い芸人で宮崎県知事だった南国原(みなみこくばる)先生と自衛隊のトップだった……えっと…」

「畑母神先生ですわ」

「そうそう。二人とも変わった名前よね」

「そこかい!」

「眠主は南国原先生を推すみたいだけど、自眠はどうする気?」

 夏子の問いは石永に向けられていた。石永は顎に手をあて考え込む。

「オレ個人は畑母神先生を応援しているが、自眠党としては半々かな。こちらから見ると地域が遠いから、あんまり関係ないというのが正直なところだ。むろん、関東の先生方は関わるだろうがな」

「あ、言い忘れてましたけど、うちに畑母神先生から応援要請が来て、とりあえずOKしたんですけど、どう思いはります?」

「反対♪ 鮎美ちゃんは私を応援すべき」

「これで数理経済学者にして知事だからな……我が県の。それはともかくオレ個人は賛成だ。手伝えることは手伝うよ」

「ありがとうございます」

 鮎美たちは駅弁を食べながら新幹線が静岡県に至までは色々なことを話していたけれど、やはり疲労感も強く全員が眠ってしまい、井伊駅で降りるはずだったのに寝過ごしてしまった。

「しまった……」

 直樹が起きて動き出した新幹線の車窓から遺憾そうに井伊駅の看板を見ている。鮎美や夏子たちも起きた。

「あ……ってことは…」

「京都まで行くね。これ。はぁぁ……」

 夏子がタメ息をついたので石永が厭味を言う。

「誰かさんが新駅建設をストップしたからな。京都まで行かないと戻れない」

「寝過ごしたのは全員の責任だし、私が止めて無くても、まだ完成してないよ」

 しばらく新幹線が走ると、三上市の新駅建設予定地を通過した。鮎美が真っ暗な外を見て言う。

「ここを加賀田知事はんと通るなんて微妙な気分やわ」

「そうね。御蘇松先生は元気にされてる?」

「……うちは知らんけど……石永先生は知ってはる?」

「ああ、父のところへは訪問があった。もう年齢もあるから表立ったことはせず、のんびり過ごすそうだよ。やれることは、やった男の余生だ、ある意味、羨ましい」

「私たちが御蘇松先生の年齢になるには、まだ30年、40年、鮎美ちゃんたちなら、もっと先の話ね。2060年くらいかな」

「そのころ、うちらの日本は、どうなってるんやろ。数理経済で予測つきますの?」

「変数が多すぎて無理。その頃までに、またインターネットや携帯電話網みたいな技術的イノベーションがあるかもしれないし、悪いことなら世界大戦もあるかも、人口だけでも予測値に過ぎなくなる。さすがにペストや結核みたいに人がバタバタ死んで人口半減なんて事件は想定しないとしても、小さな戦争なら、ちょこちょこやるし。通貨価値だって、どうなることやら。神のみぞ知る世界よ」

「神は人を愛しておられます。正しく生きれば必ず良いところへと導かれるでしょう」

「「「「「……………」」」」」

 陽湖がもたらした沈黙を鮎美が意図的に破る。

「鷹姫、もう島に戻る時間ないかな?」

「はい、宿泊先を探しますか?」

「そうしてくれる。うち、温泉がある旅館がええな。差額は払うし、陽湖ちゃんもいっしょに泊まろう」

「私は……お金が……」

「石永先生、うちの政治資金から陽湖ちゃんの宿泊費を出すのは、あかん?」

「ぎりぎりOKだ。陳情の帰りに、こちらの責任で遅くなったという形だから」

「やった。決まり」

「いいなァ、私も、いっしょに泊まりたい! いっしょに予約して、宮本さん」

「はい。………眠主党の者と宿泊するのは、問題では?」

 鷹姫の疑問に石永が答える。

「逆に、深夜におよぶ会談ということで経費としては通りやすい。別に戦国時代ではないのだから、いっしょに泊まったところで問題はないよ。オレと雄琴の分も予約してくれないか、もう京都からだと三上駅止まりの列車ばかりになる」

「え~……ホモと泊まるのか……ボク、危険なんじゃ…」

「お前、露天風呂でチョークスリーパーかけて沈めてやる」

「母さんに帰れんくなったメールしとこ」

「お母さんはシスター鮎美が帰宅すると想って、はりきって夕食を作ってらしたのに…」

「明日の昼か、夜にでも食べるよ。鷹姫、明日の予定は?」

「午前中は六角市教育委員会主催の新年餅つき大会へ訪問される予定です。お昼は同じく六角市の老人会が行う新年会に呼ばれており、午後からも三つの新年会があります」

「はぁぁ……政治家が新年会、忘年会に顔を出す習慣、なんとかならんの?」

「それは、どっちかというと投票で当選したわけじゃない鮎美ちゃんたちの方が、なんとかしやすいかな」

「だが、そういった市井の場へ顔を出すことで市民の声を聴くことができる。おろそかにしてはいけない」

「さすが二世議員は言うことが違う」

「阪本市の石山寺近くにある温泉旅館であれば、朝食付きで予算内、全員が宿泊できる空きがあります。予約しますか?」

「決まりね。予約して」

 京都駅で降りた6人は在来線で坂本駅まで移動してタクシーに分乗して旅館に着き、鷹姫に予約を任せたことを後悔した。

「鷹姫………たしかに全員で、いっしょに泊まるとは言うたけど……」

 鮎美は予約されていたのが一番広い部屋で最大15人が泊まれるものの、男女いっしょの一室だったので戸惑う。夏子も驚いた。

「このメンバーで大部屋を予約して六人で泊まるって発想になるなんて……」

「すいません。やはり、自眠党と眠主党で部屋を分けた方がよかったのですか?」

「ちゃうて……こういうときは、男女別にするねん。小学校のキャンプ合宿やないねんから」

「申し訳ありません。以後、気をつけます」

「優秀そうな秘書さんにも意外な穴があるね。フロントに変更できないか、訊いてみるよ」

 夏子は旅館のフロントに問い合わせたけれど、もう空き部屋は無かった。

「はぁぁ……ま、いいか。遅い時間だし、今から別の旅館に行くのも大変だし、この二人は立場があるから変なことしないでしょ」

「「………」」

 直樹と石永は黙って頷いた。鮎美がスマートフォンで他の旅館を調べながら言う。

「他も無いなぁ……前から思ってたんやけど、琵琶湖の周りって温泉が少ないことないです? 他の県やったら、有名な温泉地でのうても、調べたらいっぱいあるのに」

「火山が遠いからな。このあたりから、もっとも近い火山でも岐阜県と長野県にまたがる御嶽山まで300キロほどある。火山が無ければ温泉は少ないんだ。琵琶湖の周りだけでなく県内の山地でも温泉は少ない。地熱があるから少しは出るけど。県の観光政策上の課題ではあるが、逆にいえば全国的に見て災害が少ない地域でもある」

 石永の説明を夏子が補足する。

「その分、県の防災意識も低いというか、経験が無いかな。台風だって直撃しやすい和歌山県とか高知県に比べると、上陸して弱まってからしか来ないし。ま、それはともかく、私はいいよ、男女いっしょでも」

「うちもええけど、陽湖ちゃんは……大丈夫?」

「みなさんが、いっしょなら安心ですから」

「ほな、もう遅いし、温泉に入ろ」

 荷物を置いて、すぐに露天風呂に入った。裸になった陽湖が手で胸と股間を隠しているのを夏子が珍しそうに言う。

「月谷さんは恥ずかしがり? ここ、混浴じゃないから、男連中は来ないよ」

「いえ、ちょっと……いろいろ…」

 陽湖は鮎美の性的指向を知っているので、なんとなく全裸を鮎美の視線に晒すのは抵抗があった。夏子と鷹姫は何も気にせず、どこも隠さない。鮎美は興奮しないように自制しつつ、湯に浸かった。今は他の客はおらず鮎美たちだけだった。

「チョークスリーパー!」

「うわっ?! うぐっ!」

 男湯から叫び声が聴こえてくる。遅い時間なので男湯の方も他の客はいない様子だった。

「ふはははは! チョークスリーパーはな、前腕と二頭筋で絞めるのがコツだ!」

「ううっ! あたってる、あたってる! ケツに何かあったってるから! キモいキモい! ギブギブ! 離せよ! マジでホモか?!」

「うるさい! お前を3年間育てるのに、いくら党費がかかったと思う?! 一言もなく出ていきやがって!」

「ううっ、すいません、すいません! キモいから離して! ごめんなさい!」

 熱めの湯だったので鮎美は上半身を揚げる。

「男はアホなことやってるなぁ……」

「石永先生は体格がいいから、モデル体型の雄琴先生じゃ一方的ね。あの二人の裸なら、ちょっと見てみたいかな」

「っ…な…」

 夏子の発言に陽湖が驚いて真っ赤になったけれど、もともと男性に興味をもっていない鮎美と鷹姫は何とも思わない。

「チョークスリーパーか………鷹姫、ちょっと技、かけさせて」

「どうぞ」

 道場で稽古することが日常である鷹姫は鮎美に向かって無抵抗になる。鮎美は背後へ回った。

「チョークスリーパーは後ろからやねん」

 鮎美は右腕を鷹姫の首の前に巻きつけると、軽く絞めながら左腕で右手の甲を押さえて絞めを補強しつつ、左手で鷹姫の後頭部も押さえる。

「絞め技の一種ですか?」

「そうそう。小学校のとき、よくプロレス技は真似したもんやわ」

 男子たちがやっているのを見て、よく真似をしてクラスの女子に抱きついていた鮎美は今も鷹姫を抱きしめる。

「この絞め技は道着がなくても、できますね」

「シスター鮎美、シスター鷹姫、お風呂で、そんなことしなくても……」

 鷹姫は純粋に技を受けているけれど、鮎美は明らかに興奮してきていて顔が赤い。裸の鷹姫を抱きしめる喜びを感じているとしか思えなかった。

「ちょっと力を入れてみるから、抵抗してみてや」

「はい。……うっ……くっ…」

 鷹姫は絞め技から逃れようと首に力を入れ、絞めている鮎美の右腕を両手で外そうとしたけれど、技が決まっていたので困難だった。

「さすがの鷹姫も、ここまでキメた後やと無理なんやね」

「…ぅく……ぅぅ…」

 それでも降参せずに抵抗を試みている鷹姫の手足から力が抜けていく。ぐったりとした鷹姫の身体を抱きしめているのも快感で鮎美は離したくなかったけれど、失神させてしまう前には力を抜いた。

「大丈夫?」

「ハァ……はい、平気です。……」

 鷹姫は頷くと、真剣な顔で何かを考えながら両手を宙で動かしたりしている。夏子と陽湖には何をしているのか不明だったものの、武道経験がある鮎美にはわかる。

「何か反撃、思いついた?」

「はい」

「やってみる?」

「いえ、ここでは怪我をさせてしまいます」

「寝技に持ち込む気やな」

「そうです」

 露天風呂なので湯船や足元は岩とコンクリートで造られている。あまり派手に動くと怪我をするので鷹姫は反撃を控えたけれど、鮎美は別の技で鷹姫を抱きしめたくなった。

「フロント・チョークもやらせて」

「どうぞ」

「ホンマは腋の下に首を挟むんやけど、ちょっと変則的に…」

 鮎美は再び無抵抗になった鷹姫へ前から抱きつくように首へ右腕をからめ、右肩で鷹姫の首を圧迫しつつ、左手で鷹姫の後頭部を前へ押さえる。鮎美の右頬と鷹姫の右頬がぴったりと合わさる抱擁にしかみえない偽フロント・チョークだった。

「このままギューって♪」

「…ぅっ…」

「シスター鮎美………」

 それ単にシスター鷹姫を抱きしめて頬擦りしたいだけじゃないですか、プロレスという名のセクハラですよ、と陽湖はぴったりと裸の身体をくっつけて鮎美が興奮しているのを見て、邪悪なことをしているように感じたけれど、注意もしにくい。夏子が呆れつつ言う。

「若いっていいね。あっちの男同士も似たようなことやってるかと思うと、そりゃホモ疑惑が出るわ。けど、いくら真冬とはいっても鮎美ちゃんも宮本さんも二人とも腋の毛、ぜんぜん処理してないんだ。意外ね、最近の女子高生って、そうなの?」

 絞め技を演習している二人は腕をあげたりもするので、夏子の目についていた。相変わらず鷹姫は一度も剃っていないし、鮎美も冬服に変わってから、毎日が忙しいのと鷹姫と同じように伸ばしてみよう、という感じに処理をしていなかった。鮎美が鷹姫を抱き絞めながら答える。

「半袖も着る機会ないし、外泊も多いから、ついカミソリまで持ち歩かんさかい」

「女の子が……そんなことじゃあ急に彼氏ができたとき慌てるよ?」

「男なんか、どうでもええし!」

「あらあら。月谷さんは処理、どうしてるの?」

「わ……私は、最近、ようやくアトピーが治って、三日に1回くらい剃っても荒れなくなりました」

 陽湖が恥ずかしそうに答える。見られたくないようで腕を閉じて手で腋を押さえている。

「アトピーだったの。治ってよかったね」

「はい、このシャンプーのおかげです」

 陽湖は宿泊予定がなくても必ず持ち歩いているボディケアセットの入った防水ケースを見せる。中にはシャンプーやボディーソープなどが小分けの容器に移し替えられていた。それが有名なマルチ商法の会社が製造している商品だと、夏子は社会人経験があるので知っていたけれど、あえて何も言わない。絞められていた鷹姫が首に力を入れて問う。

「反撃してもよいですか?」

「ええよ」

「では」

 絞められているだけだった鷹姫が右手を鮎美の左腋へ入れて、右腕を自由にすると鮎美と同じように相手の首へ巻きつけて絞める。鮎美も息苦しくなった。

「ぅっ…くっ…」

「技としては隙が多いようですね」

 さらに鷹姫が力を入れて鮎美の喉を肩で圧迫していく。同じ形で絞め合う状態になった。

「こうなると力比べです」

「うちかて負けへんよ。くっ!」

「私に勝てるつもりですか」

 二人が密着して首を絞め合っている。もともと筋力も鷹姫が勝っていて、しかも鮎美は真剣に絞めているのではなくて、どうしても肌に感じる鷹姫の感触が心地よくて、本来は相手の後頭部を押さえて絞めを補強するはずの左手を鷹姫のお尻に移動させているので、じわりじわりと絞め負けていき、ぐったりと手足から力が抜けていく。意識を落とされる前のフワフワとした浮遊感と、裸の鷹姫に力一杯抱きしめてもらっているという幸福感で陶然とした表情になっていく。

「……ぁぁ…」

「私の勝ちですね」

 鷹姫は落としきってしまう前に力を抜いた。鮎美が倒れないように両手で抱いて支えている。

「大丈夫ですか?」

「…うん……でも、もう少し、このまま…」

 鮎美は抱いてもらえて幸せそうにしている。陽湖が微妙な表情で見つめた。

「………」

 シスター鷹姫が鈍いからって好き放題しすぎなんじゃ……シスター鷹姫も何も考えないで男女同じ部屋で予約しちゃうし……この二人って心配……私も秘書か何かで見守った方がいいかな……お母さん、すごく心配してらっしゃるから、と陽湖は娘の同性愛を悩んでいる美恋のことを想い出した。四人の女性が風呂から揚がって客室へ戻っても、まだ直樹と石永は戻っていなかった。

「二人とも気を遣って、遅めにしたのかな」

 夏子と陽湖は浴衣の中にシャツを着込んでいるので少し暑かった。鮎美と鷹姫は下着だけの上に浴衣を着ている。広い畳の部屋に戻った鷹姫は意欲的な顔で鮎美に頼む。

「もう一度、あの技をかけてください。後ろから絞める方の」

「チョーク・スリーパーやね」

 求められると鮎美も嬉しいので抱きつくように鷹姫を絞める。

「どや? 反撃できる? くっ…」

 鮎美は鷹姫が全体重をかけてきたので支えきれず膝を着いた。その瞬間に鷹姫は後方へ跳ねるように反り、鮎美ごと後ろへ倒れる。

「うわっ?! けど! チョーク・スリーパーはグラウンド状態でも逃がさへんよ!」

 再び鮎美は絞めるために腕へ力を入れるのと同時に両脚を鷹姫の腰へ巻きつけ固定しようとしたけれど、鷹姫は待っていたように鮎美の右足首を捕らえると捻った。

「うぎっ?! 痛っ!!」

 たまらず鮎美は首を離して逃げるけれど、鷹姫は逃がさず足首を握ったまま今度は両脚で鮎美の膝関節を逆方向へ曲げようと力を入れる。

「ううっ?!」

 鮎美が呻いていると、石永と直樹が缶ビールを片手に戻ってきた。

「おお! 膝十字か! 見事に決まっているな!」

 石永が嬉しそうな表情になる。鷹姫と鮎美は浴衣姿なので裾が乱れて太腿が露わになっているけれど、その肌の魅力よりも技の美しさに目がいってる顔だった。

「ここまで完璧だと、もう抜けられまい」

「ううっ……ギブ! 降参! まいった!」

「降参ですね」

 鷹姫が満足そうに離した。さきほど露天風呂で落とされかけた雪辱を晴らした形になり満足している。

「ハァ……痛かった……」

「シスター鮎美、ちょっとお話があります。二人で」

 陽湖は乱れている二人の裾を男性の視線から守るように直しつつ言った。

「え? うちと二人で?」

「はい」

「まあ、ええけど。何よ?」

「ちょっと注意したいことがあります」

「うぅ……なんとなく、わかるような…」

 陽湖は調子に乗りすぎている鮎美を注意するために二人で出て行き、石永は呑み干した缶ビールを捨てて、鷹姫に問う。

「宮本さん、剣道だけじゃないのか?」

「柔道と弓道も心得はあります」

「おお、すごいな。いい身体してるもんなぁ」

「「……」」

 横で聴いていた直樹と夏子はセクハラ発言ではないかと感じたけれど、言われた鷹姫が嬉しそうにしているので問題ないようだった。

「それ相応に鍛えていますから」

「さっきの膝十字も完璧だったもんな。寝技も強い?」

「はい」

「よし、ちょっとやらないか。オレはプロレスだけど、押さえ込みルールは柔道式で、打撃なし関節技あり、浴衣を破らないよう道着をつかむのは無しで」

「お相手しましょう」

 二人とも最初の相手が不甲斐なかったので欲求不満が燻っていて、広い畳の部屋という環境に血が騒いでいた。石永が受けに回って寝ころぶと、鷹姫が仕掛けていく。道着をつかめないというルールは鷹姫には新鮮でプロレス慣れした石永が有利に動くけれど、すぐに鷹姫も慣れていく。

「ハァ…ハァ…静江より、強いな…ハァ…」

「…ハァ…ハァ…面白いルールですね…ハァ…」

「プロレスは、いいぞ。ハァ…」

 いつも妹と技をかけあっている石永は女性の身体に遠慮もしないし、性的興奮もしない。鷹姫も女子相手では剣道も柔道も常に勝ってしまうので、男性を相手にすることに慣れている。相手を押さえ込むために石永が額を胸につけてきても平気だったし、石永の首に脚を巻きつけ内腿で男の顔を挟んでも羞恥心は無く、むしろ楽しかった。

「「…ハァ…ハァ…」」

 直樹が缶ビールをチビチビと呑みつつ呆れる。

「なんか、すごいことしてるね、あの二人」

「そうね。先生に襲われる女性秘書にしては、彼女も元気すぎるけど。ね、ビール、私の分は?」

「そう言うと思ってたから」

 直樹は買っていた缶ビールを夏子に渡した。呑みながら夏子は小声で直樹に言う。

「石永先生、マジでホモじゃない? 女子高生とあんなことして勃ってないよ」

 浴衣で暴れているので石永のトランクスは見えているし、そこにある膨らみも程度が判る。大きくはなっていない、平常モードだった。直樹は見たくないトランクスと、見てしまいそうになる鷹姫のショーツから目をそらしている。

「雄琴先生、お風呂で大丈夫だった? 勃起されなかった?」

「キモかったけど、勃たれてないよ。あの人はプロレスが好きなだけだよ。ああいうこと、よく妹さんとやってたよ。シスコンじゃないかってくらい」

「昔、シスコン疑惑もあったらしいね」

「その話、眠主党に入ってから聞いた。自眠党内では誰も言ってないのに」

「あるあるだよ。相手陣営のあることないことウワサにして流すの。私も政治の世界に入ったばっかりだけど、うんざりするところだよね、スキャンダルで相手を落とそうとするの。先月、朽木市の市議選、応援に来てた?」

「いや。琵琶湖の向こう側だし、ボクは行ってない。たぶん、芹沢先生も呼ばれてないだろうな。あそこは保守的な地域だからクジ引き議員を嫌ってるかも」

「きっとそうね。若い候補者でさえ陰口いわれて苦労してたもん」

「どんな?」

「若い会計士の男性候補者だったの。無所属で立候補したけど、立候補前に私には挨拶してくれたから覚えてるんだけど、選挙前から変なウワサが流れてね。その彼が市内に開業した会計事務所の受付嬢に手を出して妊娠させて仕方ないから結婚したって話。けど、本当は中学から交際してた彼女を受付嬢にして開業して、事務所が軌道に乗ったから結婚してハネムーンで妊娠したらしいの」

「ひでぇ……順序逆にしてセクハラ疑惑かよ……にしたって責任とって結婚してるんだからハッピーエンドなのに。で、当落結果は?」

「彼のトップ当選、有権者の若年層が期待したみたい。けど、議会では年寄りに囲まれて居心地悪そうだし、トップ当選なのに一年生だから扱い軽いし。年末に会うことがあって話したら、参議院の年齢バラバラ男女半々なのが羨ましいってさ。結局、政治の世界って50代60代のオジサン社会だから。男のくせに陰湿な陰口まで流すし。若いってだけでバカにするくせに利用したがるし」

「県議会もオジサンばかりだね。ストレス貯まってる?」

「あいつら、腹の底では若い女が知事なのが気に入らないのよ。田舎の首長選挙に人気だけで当選するわけないでしょうが、悔しかったら対案もってきなさいよね、対案!」

 夏子が缶ビールを呑み干し、二つめを買いに行くか、我慢するか迷っていると、鮎美と陽湖が缶ジュースをもって戻ってきた。

「っ…鷹姫に何してんのよ?!」

 悲鳴のような鮎美の声を聴いて、石永と鷹姫は絞め合っていた力を抜く。筋力では石永が上だったものの、鷹姫の筋力も強く、柔道とプロレスという根底技術の違いもあって夢中で戦っていた二人は汗だくになって息を乱し、抱き合うように畳の上にいた。ちょうど鷹姫が下で押さえられ、押さえ込みが完成しないように石永の腰に両脚を回して踵を足首にかけ解けないようにしているところを、石永は男の意地で腕力で鷹姫の脚を解こうとして両膝を押し下げていて、その隙へ鷹姫は石永の首を絞めるために腕を回して抱き寄せ絞めていた。一見して熱烈な正常位に見える体勢だった。

「「ハァハァっ…ハァ…」」

「鷹姫……」

「シスター鷹姫……」

 陽湖も驚いているし、誤解して真っ赤になる。二人が持っていた缶ジュースが畳の上に転がった。石永が誤解されたことに気づいた。

「いや、ちょっとグラウンドをやってただけなんだ。ハァ、誤解しないでくれ。ハァハァ」

「………誤解て……」

 言われて鮎美は二人の浴衣は乱れていても下着は乱れていないことと、観客に直樹と夏子がいることに気づいた。言われてみると、さきほど自分と鷹姫がやっていたことの延長でしかないと理解できる。

「………」

 鮎美が唇を噛んで、落とした缶ジュースを拾った。陽湖は強姦現場を見かけた女子のように腰を抜かして座り込む。

「いったい……どういうこと……どうして加賀田さんも、雄琴さんも黙って見て……。目の前で襲われてるのに……」

「いや! だから! 違うって! 襲ってない! プロレスなんだ! プロレス!」

 慌てて釈明する石永の様子が可笑しくて夏子はクスクスと笑った。

「写真でも撮っておけばよかったよね、雄琴先生」

「そうだね、いい材料に使えたかもしれない」

「……プロレスって……どう見てもセクハラにしか……、シスター鷹姫、だ、大丈夫ですか?」

「はい。平気です。いいところだったのですが、次からは道場でやりましょう、石永先生」

「おう! そうだな!」

「っ……うちの……うちの秘書と!! そういうことせんといてください!!」

 鮎美が叫んで涙を零したので、夏子と石永、直樹は誤解した。二人が抱き合っていたと誤解した後に、鮎美が涙を零す理由は一つしか思い当たらない。

「……鮎美ちゃん……」

 そうだったの、ぜんぜん気づかなかったけど、この子、石永先生が好きなんだ、そっか、だから高校生なのに選挙も頑張って応援して、いろんな活動も全部、石永先生に認めてもらうため、と夏子は既婚者への女子高生の切ない想いを想像した。

「オレは……」

 気づかなかった、オレのこと好きでいてくれたのか、こんな歳でも女性ってのは気持ちを隠すのが巧いな、けどオレが結婚してることは知ってるはずだし、この子の気持ちを利用したつもりはない、だがどうするべきだろう、下手をすると眠主党に行くとか言い出されるかもしれない、それは絶対に避けたい、くっ……困った、どうするべきだ、と石永は悩む。これまでにも衆議院議員という地位や、精悍な顔つきと体格のおかげで女性にモテたことは多いので順当な誤解だった。

「……ボクは、そろそろ寝たいな……」

 気づかなかったけど、わかってみれば彼女が頑張ってきた理由もそこにあったわけか、なるほど誘っても眠主に来てくれないわけだ、けど石永先生が鞍替えしてくれればセットで来てくれるかもしれない、と直樹は冷静に考えた。

「…っ…っ…ぐすっ…」

 鮎美が涙を零すのを鷹姫は心配そうに見上げた。

「どうして泣いているのですか、芹沢先生?」

「っ! こ……これは目にゴミが入っただけよ!」

「そうですか。近くにコンビニがありました。目薬を買ってきましょうか?」

「っ…鷹姫…」

「「「「………」」」」

 あまりにも鷹姫が言われたことを言葉通りにとるので、誰もが驚く。そんな鷹姫に鮎美は慣れてきているので笑みをつくった。

「そやね、めちゃ目が痛いわ。行ってきて」

「はい」

 鷹姫は乱れていた襟元を直すと、すぐに財布と携帯電話をもって出て行った。鷹姫がいなくなると鮎美は客室のトイレに一人で入り、気持ちを落ち着けてから客室に戻る。ちょうど走って鷹姫が戻ってきた。

「ハァ…ハァ…買ってまいりました。どうぞ」

「おおきに」

 受け取った目薬をさして客室で休む。けれど、脳裏にこびりついた石永と鷹姫が抱き合っていた光景は強烈で、いつかは鷹姫が男性を受け入れて、結婚してしまうのだと想うと、また涙が零れた。

「ぐすっ……ぅぅっ…」

 我慢しようと思うのに泣きそうになってくる。鷹姫が心配してくれた。

「まだ痛みますか?」

「ううん、…目薬のおかげで……だんだん治ってきたよ。鷹姫、あんた汗臭いわ。うちのために走ってくれて悪いけど、もう一回、お風呂に入って身体を洗ってき。髪も顔も、ちゃんと洗いぃ。あと、男の人とはな、道場以外で乱取りせんとき。変に思われるよ。ほら、みんなの顔を見てみ、ちょっと困った顔してやるやろ?」

「「「「…………」」」」

「はい。わかりました」

 鷹姫が客室を出て女湯へ向かうと、鮎美は布団に潜り込んだ。布団の中で涙は零したけれど、声は漏らさないようにして眠った。鮎美が眠ってしまい、続いて鷹姫も眠ると、石永と直樹も寝たけれど、夏子と陽湖は寝付けなかった。静かに音を立てないように夏子は布団を出て、ビールを買うために廊下へ出ると、陽湖もついてきた。

「何か飲む? おごってあげるよ」

「ありがとうございます」

 ビールとお茶を買って、客室には戻らず、フロント近くにあるソファへ座った。

「さっきの話だけどさ」

「はい」

「宮本さんは本気で目にゴミが入ったから鮎美ちゃんが泣いてると思ったのかな?」

「はい、……たぶん…」

「鈍いところのある子かな、と感じてたけど、あそこまで鈍いと……なんて言うか……すごいね」

「はい、そう思います」

「はぁぁ………けど、こっちも鮎美ちゃんが石永先生を好きだなんて気づきもしなかったよ」

「………それは…」

 誤解です、と陽湖は言えなかった。言ってしまうと、鮎美の性的指向を話すことになるし、話さなくても気づかれてしまうかもしれない。どこまでも異性愛者の常識で考えることで固定している夏子が、涙の意味を誤解するのは仕方ないことだとわかるけれど、陽湖は同性愛者の生きづらさを擬似的に感じた。夏子はあまり美味しく無さそうに酔って睡魔に襲ってもらうためにビールを呑む。

「まあ、私が鮎美ちゃんと過ごした時間なんて限られてるから、そんなもんかもしれないけど、月谷さんは気づいてた?」

「……いえ………どうなのかな……単に私と同じでシスター鷹姫が男性に襲われてると誤解したから泣いただけかも……私も、びっくりしたから、あんな……姿……」

「いきなり、あれだとね。私も見ててバカなことしてるな、とは思ったけど、体育会系の人って、男女でああいうこと平気でする人、たしかに大学でも見かけたし。当人たちは普通のことしてるつもりなのに、異常に見えるっていうね」

「……普通…………普通と異常って、どこで境目があるんでしょう?」

「数学的には偏差値で35以下65以上とか、知能指数なんかだと75もしくは70以下ってラインを引いてるけど、国語的な異常の定義は難しいかもね」

「…………。人口のうち数%。3%や5%、1%くらいの人たちというのは異常ですか?」

 陽湖は質問してから、鮎美のことがバレてしまうのではないかと後悔して付け足す。

「私、みなさんから見て、変わった宗教を信仰してますから。やっぱり異常者に見えますか?」

「う~ん……アイヌ語を話す人が1%以下だから異常者かといえば、ノーだよね。高血圧の人は人口の何割もいるけど、健康かといえばノーだよね。何が普通で何が異常か、どこまでが正常で、どこからが異常なのか、そういうことはさ、これからも人類が問い続けていくよ。地球の歴史を一年として見れば、私たち人類は大晦日のカウントダウンみたいなもんだからさ。もう寝よ」

 夏子は親しみを込めて陽湖の肩を撫でると、客室へ戻るように促した。

 

 

 

 翌1月8日の土曜日、鮎美たち6人は旅館の大部屋で朝を迎えたけれど、鮎美だけは布団から出ずに丸くなっていた。

「じゃ、私もう行くね」

 県知事として忙しい夏子は浴衣からスーツに着替えると、食堂からそのまま出発するつもりなので石永たちに挨拶して客室をあとにする。直樹も予定があるので布団から出ない鮎美のことには触れず、客室を出て行く。

「ボクも井伊市の餅つき大会に呼ばれてるから行ってくるよ」

 女子高生3人と部屋に残された石永は迷いつつも、布団の上から鮎美の肩を叩いてみた。

「そろそろ起きないと間に合わないぞ」

「……触らんといてください。セクハラですよ」

 布団の中から鮎美の声がした。かなり不機嫌そうで男として扱いに困る。

「………オレも予定があるんだ……呼ばれてはいないけれど、六角市の餅つき大会に顔を出しておくつもりだからさ。先に行っているよ。芹沢先生は少し具合が悪いから遅くなると伝えておく。年末から、ずっと忙しかったもんな、ゆっくり休んでくれ」

「…………」

 鮎美が返事をしないので鷹姫が代わりに頭を下げる。

「わかりました。ありがとうございます」

「じゃ」

 石永が出て行くと、陽湖と鷹姫、鮎美の三人だけになった。まだ朝7時なのでチェックアウトまでは時間がある。

「芹沢先生、まだ目が痛みますか?」

「…………陽湖ちゃんしか居いひんにゃから、鮎美って呼んでよ」

「鮎美、まだ目が痛みますか?」

「ううん……もう平気」

「では、どこか具合が悪いのですか?」

「………」

「シスター鮎美………元気を出してください」

「………元気が出るよう、祈ってみてよ」

「わかりました」

 返事をした陽湖は本当に祈り始める。膝を着き、手を組み、真剣に神へ祈る。

「天にまします我らの父よ、願わくば御名を…」

「なんで神さまは父なん? 母は? 女やないの?」

「……シスター鮎美、祈りは中断できません。最後まで祈らせてください」

「………」

「天にまします我らの父よ、願わくば御名を崇めさせ給え。御国を来たらせ給え」

 陽湖は鮎美のために祈った。

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」

「「………」」

 本当に心を込めて祈ってくれたので、鮎美は引きつつも、少し元気が出た。祈りを終えた陽湖が語り始める。

「なぜ、神が父であり、母ではないかということですが…」

「もうええよ。それ、どうでもええし」

「シスター鮎美……」

「鮎美、もう少し寝ていますか? 電車ではなくタクシーで直行すれば時間的余裕はあります」

「鷹姫…………。………寝技、教えて」

「……今、ですか?」

「夕べ、石永先生と色々してたんやろ? ああいうの、教えて」

「………」

「うちが相手やったら嫌やん?」

「そういうわけではありません。わかりました、やりましょう。少し特別なルールの加わった寝技で相手の道着をつかんではいけません。自分の道着も使えません。そも浴衣ですから破れます」

 やる気になった鷹姫が説明を始めたので陽湖が引く。

「え~……やるんですか……」

「月谷も加わりますか?」

「いえ……私は見てます」

「道着をつかめないこと以外は、おおよそ柔道と同じです」

「つまりプロレスやんな。ほな、いっそ浴衣を脱いでやろ」

「たしかに、その方がいいかもしれませんね。どうしても、つい襟や裾をつかみたくなりますから」

 鷹姫が浴衣を脱ぎ、鮎美も布団から出て浴衣を脱いで二人とも下着姿になる。

「では、まず基本的な形から教えますから、私に乗ってきてください」

 下着姿になった鷹姫が仰向けに寝て、寝技を受ける体勢になると、鮎美は一気に興奮した。その興奮が見ている陽湖にもわかるのに、鷹姫は実直かつ真剣に寝技を解説しながら教授している。

「そう、そのまま鮎美の胸で私の胸を体重をかけて圧迫してください。それで私は呼吸も苦しくなり、より抜けだし難くなります」

「ハァ…ハァ…。さっきの縦四方固め、もう一回、復習させて」

「わかりました。では、そのまま膝で私の腕を踏みつけて動きを封じてみてください。そうそう」

「ハァ…ハァ…」

 鷹姫にのしかかったまま鮎美が鷹姫の股間へ顔を進めていくのを見ていると、陽湖は強い罪悪感を覚えた。

「………」

 これセクハラしてるだけなのに、シスター鷹姫は気づいてないし、嫌がってないからセクハラじゃない? でも、明らかにシスター鮎美は悪い衝動に負けて変な興奮をしてる、どうしよう注意すべきかな、でも夕べ石永先生とのことを見て、すごく傷ついたから可哀想だし、でも……シスター鮎美も一生懸命に議員として頑張ってストレスがあるのはわかるから……けど、これじゃ外面だけいいワガママなアイドルと、何でも言うことをきくマネージャーみたいな関係で、どんどん過激なことを要求していくかも、と陽湖は注意すべきか迷う。夕べは風呂場で裸でからんでいたのを注意したけれど、今は一応下着はつけている。けれど、体勢やからみ方は夕べよりひどい。同じような体勢でも石永と鷹姫のときは二人とも変な興奮はしていなかったので今から思えば、すがすがしくさえ感じるし、鮎美と鷹姫のからみは鮎美だけが邪心をもって興奮しているので、まがまがしくさえ感じる。

「ハァ…ハァ…」

「覚えが早いですね。教え甲斐があります。ですが、ときどき舐めるのはやめてください」

「ハァ…一回、ハンディつけて勝負しよ。ハァ」

「いいでしょう。どんなハンディを?」

「鷹姫の片手を浴衣の帯で縛るねん」

「わかりました」

 素直に、利き腕である右手を差し出す鷹姫の手首を縛ると、右腕をあげさせて首の後ろへ回して首輪にもして固定した。鮎美は汗ばんだ鷹姫の腋を舐めたそうに見ながら付け加える。

「ハァ、勝負やし、一回につき、ハァ、一つずつ賭けよ」

「何をですか?」

「負けた方は下着を脱がされるんよ」

「……」

 すでに二人ともブラジャーとショーツしか身につけていないので一回の負けで、どんな姿になるか想像がつく。しかも鷹姫は右手首を首に固定されたので動きづらい。

「片手やと自信ない?」

「いえ、それでやりましょう」

「だ…ダメダメです!! シスター鷹姫も、なに見え透いた挑発にのってるんですか?!」

「あ、陽湖ちゃん……」

 すっかり鮎美は陽湖の存在を忘れていた。そして邪魔そうに言う。

「陽湖ちゃん、悪いけど喉が渇いたからジュース買ってきて」

「露骨に追い出そうとしないでください! 私がいなくなったら、なにする気ですか!」

「陽湖ちゃんが怒鳴るなんて珍しいね。ハァ」

「それだけのことをしてるからです!」

「ジュース買ってきてよ」

「………。言ってきかないなら…」

 陽湖は鮎美へ近づいて耳元に囁く。近づくと鮎美の汗の匂いがして、陽湖は不快に感じた。いつもは嫌いではないけれど、今は気持ちが悪い。その気持ち悪さを我慢して、絶対に鷹姫へは聴こえないように耳の穴へキスしそうなほど唇を近づけて囁く。

「あのこと、言いますよ。バラしますよ」

「っ…」

「嫌なら、これ以上は、やめてください。見ていられません」

「…………」

 興奮していた鮎美が一気に青ざめて冷静になった。

「…おおきに、うち……どうかしてたわ…」

「鮎美? やらないのですか?」

「鷹姫……」

 ごめんな、なにも知らん子供みたいに無垢な鷹姫を、こんなカッコにして、ごめんな、と鮎美は謝りつつ手首と首を縛っていた帯を解く。

「鷹姫、陽湖ちゃん、朝ご飯、食べにいこ」

「「はい」」

 浴衣姿で3人で朝食をとり、鮎美は時計を見て言う。

「どうせ電車では間に合わんし、タクシーで行くんやったら、お風呂に入ってからいこ。汗もかいたし」

「わかりました」

「……」

 それ私たちの裸が見たいだけじゃないですよね、という陽湖の視線に鮎美は申し訳なさそうに肩をすくめた。三人で露天風呂に浸かると、陽湖は真冬の朝空を見上げて言う。

「あ~……気持ちがいい………けど、こんな贅沢していて、いいんでしょうか?」

「「………」」

「ここに泊まったの、税金ですよね?」

「……鷹姫、ここ、いくらやったの?」

「朝食付き、夕食無しで9980円ですから基準内です」

「ほな、ええんちゃう。何も不正はないし」

「「…………」」

「風邪ひかんように、しっかり温まっておこな」

「「はい」」

 風呂から揚がると、三人とも制服に着替えて、呼んでおいたタクシーに乗って六角市の市民広場まで移動した。そのタクシー代は県最南部から中央部までの移動だったので高速代を入れて21100円だった。開始時刻を10分過ぎていたけれど、石永が場をつないでいてくれたので挨拶には間に合った。子供たちと笑顔で餅つきをして、多くの人と記念写真を撮って、つきたての餅を少しだけ食べて、次は老人会の新年会へ行く。もともと陽湖は参加予定ではなかったけれど心配だったのと、石永が年配の支持者からの勧めを断り切れずに飲酒してしまい、静江が石永の運転役として同伴することになったので再びタクシーで移動して新年会を回った。三人で4つの新年会を巡り、どこでも人気者だったけれど、何度か身体に触れられて陽湖は嫌な思いをした。

「やっと島に帰れるんですね」

「お疲れ様。付き合ってくれて、おおきに」

 三人で連絡船に乗ると、懐かしささえ覚える。陽湖は不本意に男性から身体を触られた記憶を振り払うように頭を振って言う。

「お酒って、どうして人を、あそこまで悪くさせるのかな………いっそ、禁酒にすればいいのに」

「そういえば、宗教的には飲酒ってOKなん?」

「禁止はされていません。ですが、大酒飲みは戒めるべきことになっています。コリント第一、兄弟と呼ばれる人で、淫行の者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、ののしる者、大酒飲み、あるいはゆすり取る者がいれば、交友をやめ、そのような人とは共に食事をすることさえしないように」

「……新年会、ゆすり以外は、だいたいあるかも……ケンカもしよるし、油断すると身体に触ってくるし、……なるほど、ああいうところで食べても美味しくないわなぁ」

 どの会場でも議員と秘書2名分の料理が用意されていて、静江の代わりに陽湖が秘書役として行動していたので、少しは食べたけれど、味を感じている時間は無かった。鮎美が温泉でほぐれたはずの肩を回しながら言う。

「ゆすりもあるかもな。町内会の新年会なんかは、呑み喰いに参加しとうない住民からも町内会費を集めて、そこから支出するし、町内会費を払わんかったら村八分やから、ある意味ゆすりや」

「ひどい話です、それ。ちゃんと会費制にして、町内会運営費と分けるべきですよ」

「そうすると、顔を出す人が激減するし、地域の交友が減ってしまうねん。良し悪しでな、シンプルな運営にすると、人間関係も疎遠になる、そうなると地域の問題を解決する力も弱くなってしまう。かといって集団の縛りが強いと、個人主義な人は煩わしいぃて都会へ出て行く。難しい問題やわ」

「………シスター鮎美、大変なんですね。私もお手伝いしてあげたいです。あの話、受けようかな……」

 陽湖は以前に時給制の秘書補佐を検討してみないかと言われていたことを思い出している。

「受けてくれるなら、うちも嬉しいよ。時給1000円、手の空いたときだけでいいよ。メインは宗教活動やろ」

「はい、お願いします」

「よっしゃ、決まり」

 鮎美は陽湖と握手をして、微笑み合った。短い船旅が終わり、島に到着すると港で鷹姫とは別れ、陽湖と自宅へ帰る。

「おかえり」

「おかえりなさい」

 父と母が迎えてくれた。

「なんや、久しぶりな気がするわ」

「鮎美、明日の夜も泊まるんだよな? 二連泊は久しぶりかもな」

 玄次郎がビールとジンジャーエールを開けながら言ってくる。美恋は温めた正月料理を卓袱台に並べていく。それを陽湖が手伝い、久しぶりに家族で食卓を囲むことになって鮎美は手を合わせた。

「いただきます。………?」

 食べ始めようとして、鮎美は大きな違和感を覚えた。

「………」

 陽湖が食前に祈るのは、いつもの光景なので見慣れているけれど、母の美恋まで祈っているのには、強い違和感を覚える。そして、父の玄次郎はビッと右手を胸の高さにあげると、手のひらを前へ向け、威厳を強調するかのように口角をさげて顎に皺をつくっている。まるでナチスドイツの総統のようなポーズと表情で、ふざけてやっているのが明白だった。けれど、母の表情は真面目で陽湖と同じく心から祈っているように見える。

「……父さん……何してんの?」

 まず鮎美は話しかけやすい、むしろ突っ込み待ち状態に見える玄次郎に問うた。

「うむ、一家の主として祈りを受けているのだ」

「………」

「「……………」」

 美恋と陽湖は祈りを終え、目を開けた。鮎美が恐る恐る問う。

「……か……母さん、何をしてたん?」

「祈っていたの。日々の糧が与えられる幸せに」

「うむ、オレが稼いだおかげだな」

「あなたのおかげです。そして、神の」

「「…………」」

 鮎美と玄次郎は反応に困る。陽湖が嬉しそうに言う。

「お母さんも、神の存在に気づいてくださったのです」

「………母さん………マジで?」

「ええ。アユちゃん、あなたも正しい生き方を意識してみて。今の言葉も女の子らしく無いわ。女の子は、女の子らしく、そう生まれてきたの。神がお造りになったのよ」

「お造りといえば、この刺身、美味いぞ、鮎美。ビワマスだ」

「……そ、…そうなん……」

 かなり意図的に父が話題を変えたので鮎美は箸で刺身をもちあげて食べた。

「うん、美味しいわ」

「お隣さんが一本釣りしたのを分けてくれたんだ。頑張ってる芹沢先生に食べてほしいってな。よかったな、鮎美、あとで礼を言っておけよ」

「うん、そうするわ」

「こっちも食べてみろ。匂いの少ない鮒寿司だ」

「う~ん……鮒寿司は……」

 鮎美が迷っていると、玄関の外に人の気配がした。呼び鈴が鳴らされ、美恋が立ち上がる。

「はい」

 鍵はかかっていないので、来客が戸を開けた。

「芹沢さん、おつり持ってきたよ」

「ありがとうございます、原田さん、明日でもよかったのに」

 美恋は小銭を受け取ると、来客を見送って居間に戻ってくる。

「母さん、おつりて何の?」

「シャンプーと健康食品を買ってもらったの」

「……あのマルチ商法の? あんなん島の人に売り込んでるん?」

「売り込んでるわけじゃ……」

「私のアトピーが治ったのを聴いた人が、親戚の娘さんにも試してみたいって買ってくれたんです」

「そうなんや………。けど、たまたま治っただけかもしれんし、あんまり期待させんときや。そもそも商法に問題あるし。……まさか、けっこう島の中で広めた?」

「えっと……どうでした、お母さん?」

「5件ほど会員になってくれてるわ」

「………それ、うちの名前を出してへんやろね。……いや、出さんでも芹沢いうたら一件しか無いか。くれぐれも、国会議員として勧めてるわけやないって念押ししといてな。地位の濫用せんといてな。はぁぁぁ……ちょっと帰宅せんうちに、ずいぶん変化してるなぁ……」

 夕食を終えた鮎美は陽湖が入浴し、美恋が台所を片付けているタイミングで父へ問う。

「母さんはいつから、あんな祈りなんかしてはるの?」

「ああ……その……お前が週刊紙に載ってテレビに出た後からなんだ……けど、責任を感じることはないぞ。ちょっと、ノリでやってるだけだろう、すぐに飽きてやめるさ」

「………。母さんは父さんと違(ちご)て飽きっぽい人や無いやん」

「オレだって飽きないものは飽きないぞ。ビールとか釣りとか!」

「……アホ……」

「ま、しばらく様子を見よう」

「………そやね……父さんは、なんでヒトラーのポーズしてたん?」

「あれはナチ式敬礼を受ける総統のみがするポーズなのだ。ああしていると、二人から祈ってもらってる気になれるからな」

「……つまり、対抗してアホなことしてるだけやな……」

「オレ一人で食べ始めても、虚しいだろ」

「それは……そうかも…」

「あ、そうだ。鮎美なら今から頑張れば、総統になれないか。ハイル、アユミ!」

 玄次郎が右腕を水平に伸ばしてから45度挙げピンと伸ばしてきたので、うんざりする。

「父さん、それ、外でやらんといてな。一応は参議院議員の父親なんやし」

「サーッイエッサー!」

「……うち、もう寝るわ。朝、お風呂に入ったし」

 かなり疲労感を覚えた鮎美は自室に入り、早めに休んだ。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る