第30話 1月17日 食事と排泄、桧田川の想い人
翌1月17日の月曜日、午前中に美恋と陽湖が面会に来てくれ、世間話と聖書の話をした後、鮎美は昼食にトンカツを母親の手から食べさせてもらい、美味しさに震えていた。
「ん~♪ 美味しいわ、最高やぁ」
「フフ、可愛い。アユちゃんに、こうやって食べさせるなんて15年ぶり? 16年ぶりくらいかしら」
母親が微笑んでくれるのは気恥ずかしいけれど、嬉しくもある。
「つまり、うちが3歳か、2歳までは食べさせてもろてたんや」
「そうよ。だいたい1歳半くらいから自分で食べ始めてくれるけど、ボロボロ零しながらだから、結局3歳くらいまでは、ちょっと手伝うの」
「その頃のシスター鮎美の写真を見ましたけど、とっても可愛かったですよ」
「うちのアルバムを見たんや。今度、陽湖ちゃんのアルバムも見せてや」
「はい」
「赤ちゃんを育ってるって、とっても楽しいのよ。私ももう一度したいくらい」
「ふーん…」
鮎美にとって妊娠は遠い出来事に感じるけれど、否定的な声は出さずに二切れ目のトンカツを食べる。
「お肉、美味しいわぁ」
味噌汁も飲ませてもらい、幸せな気分で横になった。午後からは鷹姫が来てくれる予定なので美恋と陽湖は帰り、それまでは桧田川の許可もあったので少しテレビを見る。ずっと桧田川がいるモニター室を映していた真上にある液晶モニターをテレビチャンネルに変えてもらった。
「昨日行われた鹿児島県阿久根市の出直し市長選挙が投開票され…」
「………」
一年前は気にもしなかった遠い自治体の首長選挙も、どの政党の候補者が勝つのか、気になっている。
「ブログ市長こと前職が落選し…」
「極端なことする首長は、最初だけで、あとは落ちていくなぁ……そう思うと加賀田知事、よう頑張ってるわ」
「政府がロシアのガスプロム社と、ロシア極東・ウラジオストックでの液化天然ガスプラントの建設協力で合意し…」
「北方領土は返ってこんのかな……千島樺太交換条約って有効性、どうなんやろ……まだまだ知らんことばっかりや」
「ジャスミン革命による混乱でチュニジアに足止めされていた日本人旅行者のうち117人が無事に出国し…」
「非常時の邦人救出も課題やな。9条のせいで自衛隊機の海外派遣が……はぁぁ! 世界は課題ばっかりやん!」
鮎美が大きなタメ息をつくと、桧田川が注意してくる。
「はーい、テレビおしまいね」
「え~…」
「穏やかに過ごしてほしいの。ごちゃごちゃ考えないで」
「はいはい。鷹姫、まだ来んのかなぁ」
「あ、来たみたい。息を切らして、どうしたの? 走ってきたの?」
モニター室に鷹姫が入ってきている様子が映る。肩で息をしていた。
「ハァハァ、遅くなりました。すみません」
「鷹姫、どないしたん?」
「介式師範が非番だったので、稽古をつけてもらっていて。ハァ、遅くなりました、すみません」
「うちの警護をしてくれてる人らのリーダーやんな。前に副議長についてはった美人さんの。あの人、強そうやったもんなぁ………鷹姫と知り合いなん?」
「中学の頃、剣道の強化合宿で師範を務めてくださり、それで知っていました」
「そっか……中学剣道で……あのころは、うちも頑張ってたなぁ」
「お母様に芹沢先生が中学生だった頃の写真を見せていただきました」
「うっ…、うちが居ん間に、アルバム振り返り大会してるんやなぁ。退院したら、鷹姫の写真も見せてよ」
「はい。……ですが、うちは貧しかったので写真らしい写真はありません」
「…そっか。…ごめん」
「鬼々島の公民館になら大会優勝時の写真くらいはありますけれど」
「それ、だいたい毎年あるんやろ」
「はい。私だけでなく男子も良い成績を残していますよ」
「…ふーん……岡崎はんは?」
「健一郎さんはベスト8です」
「……全国の?」
「はい」
「十分、強いんやな」
「けれど、今、介式師範に実戦の稽古をつけてもらうと剣道がスポーツでしかなかったと思い知ります」
「あの人、ごく最初に自己紹介を少し聞いたきりやから………ちょっと話してみたいわ」
「本日は17時から警護にあたられるそうです」
「そっか……」
「伝えておきます」
「おおきに。あ、鷹姫は自動車教習所にそろそろ行く時間ちゃうの?」
「はい、すみません。来たばかりで」
「ええよ、少しでも会いに来てくれて、ありがとうな」
鷹姫が教習所へ行き、しばらく鮎美は一人で病室の天井を眺めていた。静かな時間が過ぎて17時になり、介式がモニター室へ入ってきて、液晶モニター越しに敬礼してくる。
「芹沢議員がお呼びとのことですが、何用ですか?」
「ちょっと介式はんと話してみたかったんよ」
「はい、それで、お話とは?」
「別に話題が決まってるわけやのうて、どういう人なんかなぁ、と」
「………。警視庁警備部警護課警護第4係の警部です」
「う~ん……それは聞いたんやけどね。剣道強いの?」
「はい」
「…」
謙遜なしやね、鷹姫と同じタイプなんや、と鮎美は人柄を察した。このタイプとは、ゆっくり親しくなるしかないとも経験している。
「失礼やけど、耳も変形してはるやん。柔道とかも強いの?」
「はい。……。そちらのモニターには詳細に映っているのですか?」
介式が横髪に触れながら、カメラレンズを見ているような視線を送ってきた。お互いを映しているモニターは、それほど高解像度ではないし、人物の耳となると視認しにくいはずなのに、という問いだったので鮎美は付け加える。
「前に参議院の懇親会パーティーで副議長を警護してはったやん?」
「はい」
「あのとき見かけて声もかけさせてもろたんやけど、覚えてくれてへん?」
「はい」
「……。そっか、うちは覚えてるんよ。強そうな人やなって」
「そうですか」
「うちの警護も、よろしくお願いします」
「はい。お話は以上ですか?」
「もう少し。介式はんって結婚はしてはるの?」
「そういった個人的なことには答えられません」
「ほな、鷹姫とは、よく会うの?」
「ここ数日、非番の日に会っています」
「会って、何してはるの?」
「逮捕術と制圧技術、近接格闘術を教えています。そろそろ持ち場に戻ってよろしいですか?」
「うん、おおきに。また話してやってな」
介式が敬礼して出て行くと、桧田川が言う。
「あのタイプと、よく会話が続くね」
「まあ、慣れてるし。議員になってから、色んな人とも会うし」
「えらいね。けど、あの人は関東から来てるから、あんまりコテコテの関西弁で話すと失礼かもしれないよ。ちょっと怒った感じだったし」
「あれで怒ってはいはらへんよ」
「かもしれないけど、そのハルハラも、私たちには丁寧語に聞こえるけど、あっちの人には意味不明だったり、介式ハンって呼び方も、人によっては軽く扱われてるって感じるよ?」
「そうなんや……注意しよ」
「あと、私たちくらいの年齢の働いてる女性に結婚してるか、してないかを訊くのも。セクハラ」
「う~……気をつけます。前から気になってたんやけど、桧田川先生って、おいくつ?」
「それもセクハラ」
「厳しいなぁ。あ、夕ご飯なに?」
「カレイの煮付け、ホウレンソウのおひたし、けんちん汁、白米、オレンジです」
「ちゃんとしたご飯が食べられるって幸せやわぁ」
鮎美は夕食を楽しみに待った。
翌1月18日の火曜日、美恋から昼食の鳥唐揚げやキャベツのサラダを食べさせてもらった鮎美は、午後から面会に来てくれた鐘留との会話中に困った生理現象を覚えていた。
「ごめん、カネちゃん、まだ5分も話してないけど、ちょっと桧田川先生と二人にしてくれへん?」
「アユミン、どこか具合悪いの?」
「何でもないけど、ちょっと先生に診てほしいねん」
「ふーん……じゃ、アタシは廊下に出るよ」
鐘留がモニター室を出て行くと、桧田川が問う。
「ウンチ出そう?」
「………………」
鮎美は久しぶりに一回だけスイッチを押した。
「そろそろだと思った。食べると出る、自然なことだから、そんなに恥ずかしがらなくていいよ。そっちに行くね」
桧田川が廊下に出て、特別病室に入ってくると、ゴム手袋をはめるので鮎美は不安になった。
「うち……トイレでしたいです」
「ダメ」
「……そんな……」
「息むのが一番ダメ。あと我慢し続けるのも傷口によくないから、出そうなら、もう出しちゃっていいよ。そのシーツの下は防水シートだから」
「………」
「傷口の皮膚に張力、引っ張る力がかかるのが一番ダメなの。だから、トイレで息むのは、まだまだダメ。無理に我慢して緊張するのもよくないから、スルっと自然に出るのが一番いいの。けど、うまく出ないなら掻き出してあげる」
「うぅぅ……」
「ほら、息みそうになってる。力を抜いて。私がやる呼吸法を真似してね。ヒッヒッフー、ヒッヒッフー、この呼吸で力を抜いて」
「そ……それ、妊婦が産むときやるやつちゃいますの?」
「そうだよ。息まないための呼吸だから。はい、やって」
「……ヒッヒッフー……ヒッヒッフー……」
鮎美は諦めて桧田川の処置を受けた。処置が終わると鐘留がモニター室に入ってきて面会を再開する。
「アユミン、どうだったの?」
「うん、もう大丈夫やよ」
「何だったの?」
「何でもないよ」
「その顔は、何か恥ずかしいこと?」
「………何でもないから」
「ま、だいたいわかるよ。きゃははは!」
「…………」
カネちゃん、このネタで、うちのことからかうの好きやなぁ……自分がオネショ治らんから、かなりコンプレックスあるんかも……もとはといえば、ご両親が先天障碍のあった弟さん二人を除いてしまわはったことが、ずっと心に引っかかって……それはそうやろな、自分の親が自分の兄弟姉妹を……なんてこと……受け入れにくいに決まってるのに……なんとか受け入れようって……そやから、ご両親の行動を肯定するような発言をところかまわずするし……その件さえなかったら、カネちゃんは可愛いし頭もいいし、ごく普通に異性愛者で、家も立派で何不自由ない人生やったのに……そっか、ご両親も同じや……障碍のある子供なんか産まれてこんかったら順風満帆、そう思ったから、手をくだした……その選択……それを悪やと言い切るのは酷やろ……かといって三島はんが言うように命は命や……産まれた直後でも中絶でも、いっしょや……キリスト教なんかはド真剣に中絶反対するし……けど、うちら日本の神話ではイザナギとイザナミは最初の子が今で言う障碍児やったから川へ流してはる……あれは、あれで示唆に富んだ逸話なんかも……、と鮎美が長く真顔で黙って考え込んでいると、鐘留が謝りはじめた。
「ごめん、アユミン、ちょっとしたジョークだよ、そんな怒らないでよ。ごめんってば」
「うん、もう、ええよ。気にしてないから」
根はええ子なんよなぁ……自分の可愛さを謙遜せんのと、偏った人権思想を隠さんから、女子の中で孤立してしもて、転校生やったうちと孤高やった鷹姫にくっついてきてくれたし、陽湖ちゃんが生徒会長やから、四人合わせて学園の最強女子軍団とか、四天王とか、いろいろ言われてるらしいけど、実際は新年会でオジサンに酌して回ったり、今なんかベッドに縛られてトイレも行けん有様や、と鮎美はタメ息をついた。
「はぁぁ…」
「ごめん……」
「ホンマに、もうええよ」
「お詫びにさ、次からケーキでも持ってきてあげようか?」
「かねやさんのケーキか……」
鮎美が唾液を飲み込んで、傍聴している桧田川を見る。少し離れた机で論文を読んでいた桧田川が答えてくれる。
「よほど偏った食事じゃない限り、食欲のままに食べてくれていいよ」
「やった」
「良かったね、アユミン」
その後は鐘留と学校や世間のことを話して過ごした。
翌1月19日の水曜日、鮎美は食べることは嬉しいけれど、一日のうちで一番嫌な時間を前にして、憂鬱だった。
「なぁ、桧田川先生、そろそろ、この両手を縛ってるのと、トイレ、お願いやし、自由にしてよ」
「せっかく、ここまで我慢したのに?」
そっと桧田川はゴム手袋をした指先で鮎美の下腹部にある傷跡に触れた。もうカサブタは一部が剥がれて、薄い表皮が見えている。室内の無菌状態維持も必要度が低下して透明なビニールのカーテンは片付けられていた。
「あと、お風呂も入りたいわ」
「お風呂ねぇ、入りたいねぇ」
桧田川が油っぽくなった自分の髪を撫でた。
「なんとなく思うんやけど、もしかして桧田川先生も、お風呂に入ってない?」
「一応、芹沢さんに我慢させてるからね。手術の日から入ってないよ」
「………そんなことに付き合ってくれるんや……。それに、うちばっかり診てくれてるけど、他の患者さんとか、ええの?」
「あ、それにも気づいた?」
「だって、ずっとモニター室におるやん、ほぼ24時間、ずっと」
「この治療中はね、他の患者さんを診るのはキャンセルしてるの。医道倫理的にも安全面でも、本来、精神障害もない芹沢さんを拘束するのは、あまり好ましくないことだから、せめて、その場を離れずにいるわけ」
「……好ましくないって……ほな、外してよ」
「全体的には好ましくないけれど、傷跡にとっては極めて重要なことだから拘束してるのよ。もう、この段階になってくるとバイ菌よりも、芹沢さんの爪の方が脅威なくらい」
「うち、掻かんように気をつけるし」
「そう言って何人の患者さんが後悔したことか」
「うぅぅ……」
「はいはい、掻き出してあげるね。本当なら看護師とか、看護助手にやらせるようなことでも、芹沢さんは女性に見られるのも恥ずかしそうだから、私が全部やってあげてるんだから我慢して」
桧田川が処置を始めた。鮎美は目をそらして耐える。桧田川は患者の気持ちの落ち込みを避けるために別のことを話すことにした。白衣の胸にある虹色のバッチを両手が塞がっているので顎先で示す。
「私がさ、どうして、このバッチをするようになったか、聞きたくない?」
「……聞きたいですけど……個人的なことかもしれんし…」
「隠してるわけじゃないからいいよ。私の彼氏……彼氏だった、のかな。うん、まあ、私には好きな男性がいたんだよ。中学から好きだった」
「……」
鮎美は話に耳を傾けて、受けている処置の感覚は忘れようと努める。
「芹沢さんの学校と同じで中高一貫教育だったから、同じ高校にも進んだ。そして、同じ医学部にまで」
「二人とも頭良かったんですね」
「まあ、謙遜しても厭味だから肯定しておくよ。けど、彼とは中学から友達って関係で、なかなか、それ以上は進めなかった。私は受験が終わるまでは男女交際は控えようって気持ちでいたし、彼もそうだと思った。けど、晴れて医学部に合格しても、あんまり関係は進まなかった。私は焦ったよ。医学部ってさ、男子への女子からのアプローチ、ものすごいから」
「そうなんや?」
「うん、すごいよ。とくに看護学部の方からは、ものすごいアプローチが来るし、他大学の女子まで合コンを仕掛けてくるし、猛者になるとスポーツ部のマネージャーになってくるの。他大学なのに」
「え……自分の大学やない医大の部活のマネージャーになるんですか?」
「すごいよね、露骨さが」
「はい……すごすぎるというか……全力というか……」
「ひどいと、男子部員の人数よりマネージャーの人数の方が多くなるよ」
「うわぁぁあぁ……修羅場というか、壮絶な光景ですやん。もう恋愛ちゅーより生存戦略みたいな」
「それだけみんな必死だからさ、私も焦ったよ。中学からの仲だからって油断してたら盗られるって。けど、関係が長い分、幼馴染み的な感じになるというか、なかなか男女って雰囲気になれなかった。でも、他の女子からのアプローチも無視してくれて、彼女をつくらないでいてくれた。医学部男子の一部は本気で勉強だけが好きって人もいるし、国試に合格するまでは男女交際を控えようって人もいるから、そういう気持ちでいてくれるのかな、って勝手に思ってた。おかげで二人とも勉強に集中して、晴れて国試にも合格、とうとう医者になれたの」
「よかったですやん……けど、バッドエンドな話なんや?」
鮎美が話の先を予想すると桧田川は淋しそうに頷いた。
「医師として働き始めて、彼は美容外科に興味をもっていたから、私も合わせて、そばにいるようにした。いい感じにまわりの看護師たちへも、私こそが彼女候補ってオーラを出して追い払ってたし、彼も他の女子に目をくれなかったから、友達以上恋人未満な関係で、いつか男女の仲になれるって、淡く想ってた……いつか結婚して………二人で医院の経営なんて最高かもって………それまで待とうって……けど、ある日、私は待ってるのに耐えられなくなって、酔った勢いで彼のアパートに押しかけたの」
「……それで?」
「入れてよ、って言ったら、慌てて室内を片付けてくれて、そういう見栄は持ってくれるんだ、って喜んでたのに、15分後にドアを開けてくれたら、女物の靴が玄関の隅にあった。片付け忘れたんだね……」
「……別に彼女がいたん?」
「って、思うよね。私も顔に出るくらい驚いてたと思うけど、彼は親戚の子が忘れていった靴だって。靴は忘れないと思うけど、そのときは信じた。でも、部屋に入ったら化粧品の香りもして、チークブラシが一つ、部屋の隅に転がってた。そして、ベランダにはさ……外から見えない低い位置に女物の下着が干してあった………私は、いつのまにか泣いてた。彼女ができたなら、言ってくれればいいのに、って。私は勝手に友達以上恋人未満の関係って想ってただけのくせに、泣いて喚いて、彼女面して裏切りを責めた」
「………」
「ずっと彼は黙って私の批難を聴いていたけど、私が泣き止んだ後に玄関から、女物の靴をもってきて、私の目の前で履いて見せて言った。これ全部、私の物だから、って。男と女で靴のサイズって決定的に違うよね。27センチの女物の靴なんて店頭に在庫もない、ネット通販でないと手に入らない。言われてみれば下着もサイズが大きくて、彼の顔にも証拠が残ってた。私が急に来て慌てて洗顔したんだろうね、アイメイクが落ちきってなくて、泣くと黒い筋が頬にできていくの……」
「女装趣味か……トランスジェンダー?」
「トランスジェンダーだって告白してくれた。ずっと、ノリちゃんに隠しててごめん、って。言われてみると、彼と出かけても女友達とやるようなことやってた。ショッピングにも付き合ってくれたし、化粧品店にも。美容外科の勉強になるからっていう言い訳を私は信じていた。彼の一人称がボクやオレじゃなくて、私だったのも中学から秀才だったから気取ってるだけかと………けど、振り返れば、全部わかる。修学旅行のお風呂も必ず風邪を引いていて入らなかったし、言葉遣いも仕草も、それまでは上品なだけだと想ってたけど、言われたら、わかった」
「……それで別れはったんですか?」
「………。中学から15年以上も好きだった人を、そう簡単に諦められなかった。そういう私の態度が彼を追いつめるのに……、彼、…彼女は私にバレたことがキッカケで周りに隠さなくなった。それまではレーザー脱毛なんかも、医師として体験するためだ、なんて言い訳でやってたのを女性化したいからって。ホルモンも摂取して、どんどん女性化していく彼女を見ていて、私は怖くなった。そして、言っちゃいけないことを私は言った。手術するとしても、男性器だけは残してって。彼女の両親も、それを望んだし、私の両親も中学からの関係だから、いつか二人は結婚するものだって期待していてくれたから、彼女には5人からの圧力がかかった。ひどいこと、するよね、私たち」
「………」
「男性が女性になるための性転換手術って、どうすると思う?」
「……胸を造ったり?」
「豊胸は、けっこう簡単なの。けど、難しいのは性器。少しグロテスクに聴こえると思うけど、棒と袋状の男性器を女性器のようにするためには、表皮を剥いで、それを裏返して穴状にする。そして、それを肛門と尿道の間を切り開いて造った骨盤内に埋め込んで穴状の女性器にする。どう? 芹沢さんはお腹の皮膚を斬られただけで、これだけの思いをしたのに、こんな大手術が身体に、どれだけの負担になるかゾッとしない?」
「……はい…」
「さらに術後も何ヶ月もケアが必要、造った膣が萎縮しないように拡張する作業を毎日しないといけないし、できるだけ神経は残すようにするけれど、感覚が残るとは限らない。排尿障害が残ることもある。トイレで済ませられない苦痛、芹沢さんは近いうちに解放されるけど、もし今の状態が一生続くって言われたら、どれだけ絶望する?」
「………」
「そして、人間関係も激変する。どれだけ女っぽくなっても男性器が残っていれば、私は彼と結婚したかもしれない。けれど、完全な彼女となった人と私は、きっと結婚しないし、できない。みんなが悩んだ、本人も、私も、親も。けれど、その答えが出ないまま、彼女は死んでしまった」
「……自殺?」
「ううん。肋骨の一部を切り取って女性らしいウエストを造るためにタイで手術を受けてる最中に、ごく問題ない薬剤を使われたはずなのに、ごくごく稀な副作用でショック状態になって死んでしまった。芹沢さんにも説明した10万人に一人もないような副作用、それが起こった」
「……………」
「これが私がバッチを着けてる理由、つまり、ただの未練」
桧田川は処置が終わったのでゴム手袋を外した。
「芹沢さんは、あと少しで何不自由ない生活に戻れるよ。もう少し我慢してね」
「……はい…」
鮎美は深く頷いて目を閉じた。
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