第20話 12月30日 鮎美は風邪、鷹姫はM役、詩織はS

 12月30日の早朝、真冬の遅い日の出前に鮎美は目を覚ました。

「……ちょっとマシかな…」

 熱で疼いていた身体が落ち着いている。手を伸ばすとスマートフォンがあり、その明かりで体温計を探すと検温してみた。

「…37.5か………うちの勝ちやな」

 自分の身体を侵したウィルスたちに勝ちつつある実感を持ち、トイレに行きたくなったので起き上がった。

「みんなに迷惑かけてしもて……情けないわぁ…」

 一人言を漏らしながら廊下に出る。足音を立てないように歩いてトイレを見つけて用を済ませ、今度は喉が渇いたのでキッチンへ行ってみる。詩織が冷蔵庫も勝手に開けてくれていいと言ってくれていたので、お茶をもらって部屋に戻ろうとしてリビングの床で眠っている鷹姫に気づいた。

「……鷹姫?」

「…ぁ……もう立ち上がって大丈夫なのですか?」

 鷹姫も目を覚まして、鮎美の姿を見て問うてきた。

「うん、だいたい元気になったよ。7度5分やったし」

「そうですか、よかった」

「鷹姫、なんで、そんなところで寝てるの?」

「牧田さんに泊めてもらいました」

「……泊めてって……せめてソファに寝るとか……他にも部屋とか無かったん?」

「部屋はないと言われました」

「…………こんな大きなマンションに一人暮らしっぽいのに……」

「私のことは、どうかお気になさらず。まだ完全に熱が引いたわけではないのですから、休んでください」

「……うん………ごめんな…」

 まだ熱がある自覚はあり、これ以上の迷惑はかけたくないので素直に部屋へ戻って、日が昇るまで眠った。昼前になって詩織と鷹姫が粥をもってきてくれた。

「おおきに。迷惑かけて、ごめんな」

「気にしないでください。私が悪いのですから」

「うちの不注意よ。……せやけど、世話になっておいて、こんなこと言いたくないんやけど、なんで鷹姫を床に毛布一枚で寝かせてたん?」

「っ…それは……」

 知られていないつもりだったのに、知られていたので詩織が動揺する。その動揺で鮎美は不信感を強くした。

「ソファもあるのに、ひどいやん」

「………宮本さんが床でよいと言われたので…」

「他に部屋はなかったん?」

「……あります…」

「………」

 鮎美が悲しい目で詩織を見た。

「っ…」

 詩織が息を飲むほど後悔した。会話の流れで鷹姫を床へ寝かせたけれど、マンションの広さを考えれば、ひどい仕打ちで白眼視されかねない。一昨日にビアンバー巡りをした直後は、いい雰囲気にもっていけるかもしれないと感じていたのに、今は外の寒気のように鮎美の気持ちが冷え切っているのがわかる。詩織が嫉妬で鷹姫を冷遇したのだと、鮎美にはわかるし、それが悲しくもある様子で肩を落としている。とうの鷹姫は冷遇されたとは感じていないので医師からもらった薬を用意した。

「食後に飲んでください」

「…鷹姫……」

「はい?」

「夕べは床で寝てて寒くなかったん?」

「はい、床が高価なホテルのように温かい床でしたから」

「せ、設定も2度くらい、いつもよりあげたんですよ! お二人のために!」

「牧田はん……」

 鮎美が時計を見る。

「今日の予定も人と会うのは感染させたら迷惑やしキャンセルやとして、ホテルも予約がとれんなら、また泊めてもらうかもしれんけど……鷹姫の寝るとこ、もう少し考えてやってな。頼むわ」

「は、はい。今から準備しておきますね!」

 そう言って詩織は部屋を出て行った。

「………」

「食欲はありますか?」

「うん……おおきに」

 作ってもらった粥を食べて薬を飲むと、鷹姫に訊いてみる。

「うちが倒れてる間、牧田はんに嫌なことされんかった?」

「はい。何も」

「ホンマに?」

「はい」

「……鷹姫は人間関係で妙に鈍いとこあるから、気づいてないだけかも……ささいなことでも言うてよ?」

「はい、あえて言えば、私にとって嫌なことではありませんが…」

 鷹姫が昨日を思い出しながら答える。

「芹沢先生と月谷が同居していることを話したら、強く警戒しておられました」

「ああ……陽湖ちゃんのな」

「慣れてしまったので私も不覚でしたが、やはり特定の宗教の影響を芹沢先生が受けるべきではないと考えます。その点、牧田さんと同意見です」

「うん、わかったよ」

 絶対に宗教やなくて同居の件やね、と鮎美は想いながら鷹姫の頬を撫でた。撫でられた鷹姫は手の熱さを心配する。

「芹沢先生、やはり、まだ体温が高いようです。横になっていてください」

「おおきに」

 その求めに素直に応じた鮎美はベッドに戻り、天井を見上げて不思議な想いを感じた。

「きっと、ここで年明けを迎えるんやろね。去年は大阪やったのに、今年は鬼々島でもなくて、東京の牧田はんのマンションで、三人で」

 好きでいる鷹姫と、好きでいてくれる詩織の二人と年越しを迎えるのが、不思議な心地だった。

「鬼々島の家では、うちの代わりに陽湖ちゃんがいて、年末年始まで実家に帰らんと、うちの父さん母さんと過ごすらしいし。ホンマに娘が替わったみたいやろな」

「その件と関わりがあるのですが、最近、芹沢先生のお母様が月谷に誘われて日曜日の朝には礼拝へ参加しているようです」

「あ~……父さんが言うてたわ」

「警戒した方がよいかと思います」

「別に、そこまで……母さんも好奇心かもしれんし、信仰の自由も……って言うても、陽湖ちゃんも着実に侵略してくるなぁ……さすがキリスト教徒。昔やったら打ち首か島流しもんやな」

「打ち首はともかく現状で島流しといえば島流しです」

「そうなん? 鬼々島って、別に過酷でもないやん。昔の島流しって佐渡とか、八丈島ちゃうん?」

「鬼々島も流刑地として対象になっていました。室町期には今参局などが流されています」

「いままいりのつぼね?」

「将軍義政の乳母です。将軍への影響力が強く、義政の正室だった日野富子が産んだ子が早世したのは今参局による呪詛だとの疑いをかけられ、鬼々島へ流されることとなりました。その途中で富子の意を受けた者に暗殺されたか、自害されたそうですから、厳密には鬼々島に到着していませんが」

「日野富子かぁ、北条政子と並んで幕府にかかわった有名な人やね。クスっ…鷹姫は普段は無口やのに歴史のことになると語るね」

「………」

 鷹姫が返答に窮していると、詩織が戻ってきた。

「玄関を入って、右の和室へ宮本さんに泊まってもらえるよう準備しました。今、ロボット掃除機が埃を片付けているので40分くらいで入れますよ」

「「ロボット掃除機……」」

 鮎美と鷹姫が何か想像しているので詩織は言っておく。

「念のため言っておきますが、人型じゃないですよ。丸い円盤型の市販されているものです」

「あれか……。あれって役に立つん? オモチャみたいに見えるけど」

「とても役に立ちますよ。あれがなかったら、家政婦を入れないと床掃除が大変です」

「さらっとカネちゃんみたいに家政婦って言うたなぁ……このマンションといい、なんとなく、牧田はんの階級がわかったわ」

「私と結婚しませんか?」

「「……」」

 しばしの沈黙のあとに鮎美が答える。

「うちは、お金に釣られて結婚したりせんし」

「冗談ですよ。でも結婚といえば、石永さんから聴いたのですが、宮本さんは許嫁がおられるのですよね?」

「はい」

「どんな人ですか?」

「……。……」

 鷹姫が悩む。子供の頃から知っているだけに、逆に問われると答えにくい。そして平凡な答えを選んだ。

「ごく普通の人です」

「普通って……ここで話していても、鮎美先生に迷惑ですから出ませんか?」

「はい。芹沢先生、しっかりお休みください」

「うん……おおきに」

 鮎美は二人の会話の続きが気になったけれど、今は熱があるので自重する。詩織は鷹姫とリビングに戻った。

「それで宮本さんの許嫁って、どんな方なのですか?」

「ですから、普通の人です」

「もしかして話したくない?」

「いえ、別に」

「率直に言って、その人と結婚するの嫌ですか?」

「いいえ、嫌ではありません」

「では、好きなのですか?」

「……。嫌ってはいません。他の男性と同じです」

「他と同じって……、特定の男の人を好きになったことはありますか?」

「いえ、ありません」

「………。……もし、……もしかして、……男より女性が好きだったりします?」

 詩織が緊張しながら問うと、鷹姫は首を傾げた。

「その好きというのは友人としてではなくですか?」

「え、ええ。そう。恋人として女性を好きになったりしますか?」

「いいえ、なりません」

「……」

 詩織は勘が外れていなかったので安心すると同時に、鷹姫を理解できずにもいる。

「じゃあ、初恋の相手は?」

「そもそも恋をしたことがありません。あの…、この会話に何か意味があるのですか? 芹沢先生がお休みとはいえ、私たちは何か仕事をした方が良いのではないでしょうか?」

「女子高生なのに、仕事人間ですね……」

「あなたは少し秘書としての自覚に欠けませんか? 蒸し返しになりますが、夜中に芹沢先生を連れ出したりして。自分の役割を心得ていますか?」

「……」

「いくら久野先生からの推薦があったとはいえ、業務に専念する気がないのであれば、お辞めになった方がよいです」

「ぅっ……そこまで言う………一応、私の方が年上だって、覚えてます?」

「長幼の序を持ち出すならば、それに相応しい態度をなさい。かつ秘書としては私が先達です」

「…………わかりました」

 わかりましたよ、あなたは企業に入ったら男には目もくれず課長部長と出世していくタイプですね、コンパ合コン無関係、いくつになっても処女で恥じない、気がついたら役員だけど未婚、あ、そっか、親御さんは見抜いたんだ、それで許嫁を決めたのですね、賢明な判断かも、決められたら決められたで逆らいもしない、結婚相手なんて誰でもいい、そんな生き方をする人、バイの私とは対極にいる人、剣道をしなさいと言われたら日本一になるまで剣道、きっと勉強しなさいと言われたら東大に入るまで勉強、出世しなさいと言われたら仕事一筋、だから秘書としても全力で秘書、あくまで秘書、鮎美のことを好きだから、そばにいるわけじゃない、鮎美のことを守るのも秘書の役割だから守ってるだけ、そっか、そういうことか、と詩織は心の中で納得した。

「わかればよいです」

「はい、すみません」

 しかも素直で単純、他人の悪意に鈍いし、根に持たないタイプね、と詩織は理解する。

「では、ここにいて可能な仕事をします。ここに印刷機はありますか?」

「はい、あります」

「貸していただけますか。経費は請求してください」

「少々の量なら、かまいませんよ」

「些細であっても会計処理はすべきです」

「はい」

「石永さんから芹沢先生の演説会などで配る団扇のデザインが届いています」

 鷹姫が小型のノートパソコンを開いて、メールに添付されていたファイルを見せる。

「これらのデザインの中から、三つを選び印刷会社に依頼するのですが、その絞り込み作業を最終決定は芹沢先生がされるとしても、私たちで前段階まで絞り込もうと思います」

「わぁぁ♪ 可愛い! これ、すごく可愛いですよ!」

 デザインは元となる写真も豊富で可愛らしいアイドルのようなものから、勇ましく拳を握って若い男性政治家のようにガッツポーズするものまであった。詩織が嬉しそうに見ている。

「これ欲しいです。これも可愛い。こっちのはカッコいいし」

「………。さしあたって、すべて一枚ずつ印刷してみてもらえますか?」

「はい」

 思ったより楽しい作業だったので詩織も意気揚々と進め、すべてを印刷すると壁一面に貼り付けた。

「たしかに、そうしていただく方が一望にできて選びやすいですが、壁紙が傷みませんか?」

「気にしないでください」

 リビングの壁一面が鮎美の写真で埋め尽くされる。プロのカメラマンが撮影しただけあって写りも良く、メイクもプロに頼んでいるので濃すぎない範囲で美しいし、さらに一部の写真は加工修正されているので、もう女優やアイドルと比肩しても見劣りしない見栄えだった。

「水着写真まで………これ、やり過ぎでは? ……とても、いい写真ですけど、演説会で水着写真は一部の人にはウケても…」

 ごく少数ではあるけれど、学校指定の水着姿で写っている鮎美や、ビキニ水着で写っているものまであった。

「私もそう思います。撮影に立ち会ったとき、カメラマンが言い出して撮ることになったのですが……」

「鮎美先生は水着撮影OKしたのですか……。カメラマンが、どう言って撮ることになったのです?」

「たしか……18歳のスタイルで撮れるのは今だけだから、撮っておいた方がいいよ、などと言っていた気がします」

「…なるほど……さすが…」

 うまく女心をくすぐったわけですね、と詩織は水着姿の鮎美を見て頷き、この写真が本気で欲しくなった。

「これ団扇にデザインされる前の元データは、もっと沢山あるのですよね?」

「そう思います。かなりの枚数を撮影していましたから」

「女性の目で見て、よりよい写真があるかもしれませんから、元データを私のメアドに送ってもらえませんか?」

「はい、そうします。私はデザインだとか、センスといった感覚に欠けるところがあって善し悪しがわからないので助かります」

 すぐに鷹姫はデザイン会社へメールを打ってくれている。その間に詩織は写真を鑑賞しながら団扇のデザインを絞り込んでみた。

「水着も捨てがたいですが、今回は秘蔵するとして、やはりフレッシュなイメージと若さ、情熱、清廉さを感じさせる、このあたりのデザインがよいかと思いますよ。けれど、たしか、団扇を配るのは自眠と眠主の間で論争になっていませんでしたか?」

「そうです。もっと早くに用意するはずだったのですが、団扇が財物にあたるのではないかという論争が起こり、結局は骨組みのない厚紙性の団扇であれば政策メッセージを伝えるための印刷物という扱いになり問題ないという結論に落ち着いたので着手しています」

「くだらない論争……」

「同感ですが、公選法上の解釈は重要です。よりくだらない上に芹沢先生の負担が増すのですが、可能であれば一枚一枚にサインしていくようにと」

「サイン…………どのくらい印刷されるのですか?」

「まず2万枚です」

「一枚あたり10秒かかるとして……一時間で360枚、一日かけても3600枚、三日目には腱鞘炎になると思いますが……」

 詩織は団扇の山を前にしてタメ息をつく鮎美の姿を想像した。

「もう完全にアイドル扱いですね」

「…………」

「政治家としては戦略的に間違った方向ではないですか?」

「同感です。ですが、石永先生の秘書たちが言い出したことですから……」

「あのオジサンたち………わかりました。この件は私から彼らに言ってみます」

 そう言って、すぐに詩織は男性秘書らに電話をかけ、サインは求めてくる支持者にのみ、その場で可能な枚数だけということで話をまとめ、鮎美の負担を軽くした。それが終わると絞り込んだデザインに印をつけて鮎美が回復するのを待つ。夜になって、ほぼ平熱にまでさがった鮎美が最終的な三つのデザインを、静江や石永もネット上のテレビ電話会議でまじえて決めた。

「ほな、これと、これと、これな」

 一つは通学カバンを両手で股間の前に持ち、まっすぐ前を向いて少しだけ首を傾げた女の子らしい立ちポーズで、二つめは両足を肩幅に開いて立ち真剣勝負というロゴ文字を背景にした男性的なポーズ、三つめは琵琶湖を背景にして振り返りながら広げた片手をさしのべている上半身カットのポーズで、どれも制服姿で露出は顔と手だけにしている。街中に貼りだしているポスターに比べると、少しだけ個性を出したものの、やはり無難なものとなり水着姿は候補にものぼらなかった。静江がパソコン画面越しに問うてくる。

「それで、もう体調は完全なんですか?」

「うーん……学校で言うたら普通の授業なら明日は出席、プールとか体育祭なら欠席しておこかなくらいに回復してるよ。けど、明後日には完全やろ」

「明日も、どこにも出歩かないでください。東京は人が多いからインフルエンザも流行ってますよ」

「了解しました。経験者は語るやね」

「私は地元でもらったんです」

「どこにいても危ないわけやし、もう油断しませんわ」

 石永もパソコン画面越しに言ってくる。

「国会は会期中に体調を崩す議員もいるけれど、新年祝賀の儀は一日限りだから気をつけてくれよ」

「はい、おとなしくしてます」

 静江と石永との通信を終えると、鮎美は念のためにベッドへ戻り、鷹姫は壁に貼り付けられている写真を片付け始めたけれど、詩織が止める。

「その写真、どうされるのですか?」

「廃案になったものは廃棄します」

「もったいない……もったいないので、もらってもいいですか?」

「はい。どうぞ」

 鷹姫は剥がした分を詩織に渡し、他の仕事を始めた。詩織はすべて丁寧に剥がすと自室に持ち込み、自室の壁に貼ってみた。リビングほど壁面が広くないので一面で終わらず部屋の四方に貼ることになった。

「…………」

 どちらを向いても鮎美のポスターがある。さらに気になっていた水着姿が手に入っていないか、パソコンで確認してみると年末なのにデザイン会社は上得意からの求めに応じてくれたようで何百枚ものデータが送られてきていた。

「………これをデスクトップの背景に……あ、これも、すごい……」

 もともとモデルやアイドルとしての警戒心をもっていたわけではない鮎美がカメラマンにのせられて撮られた写真は水着姿とはいえ、かなり刺激的だった。立ち会ったらしい鷹姫と静江も芸能事務所のマネージャーとしての警戒心を学んでいたわけでもないので、どんな写真に仕上がるか、深く考えなかったのかもしれない。

「これなんか裸よりエッチ……」

 四つん這いになった鮎美を後方から撮ったり、足を開いて立っているところをローアングルから撮っていたりした。

「…ハァ……」

 見ているうちに興奮してきた詩織は迷ったけれど、その場で欲求不満を解消してから、デザイン会社へ警告メールを送り、これらのデータを絶対に流出させないよう強く抗議しておいた。

 

 

 

 2010年、最期の日、明日は早朝から準備しなくてはいけないので早めの夕食としての年越しソバを食べていた鮎美と鷹姫、詩織は感慨深く今年を振り返った。

「うちの人生にとって今年は激動やったなぁ」

「はい、私もです」

「私もですよ」

 世田谷の高級マンションのリビングで一人の議員と二人の秘書が2010年を思い返している。鮎美にとっては大阪からの転居、そして当選、それからの激動の日々だったし、鷹姫にとっても順調な剣道の修練に加えて身近に引っ越してきた鮎美の当選と秘書への就職からの激動の日々であり、詩織にとっては所属していた会の陳情活動で出会った鮎美への恋と秘書への強引な就職だった。

「そういえば、牧田はんの春風会の活動は、どうなん?」

「春の会から分裂してから低調です。自眠党が低調なのと似たようなものですよ」

「そっか………前から訊いてみたかったんやけど……」

 少し迷い、鮎美が前置きする。

「答えとうなかったら、ノーコメントでもええんやけど………牧田はんって風俗業の経験あるん?」

「あるといえば、ありますし、無いといえば無いですね」

「そ…そっか。変なこと訊いて、ごめんな」

 鮎美は遠回しなノーコメントだと受け取って謝ったけれど、詩織は微笑む。

「いえ、気になるとは思いますよ。どうして女の身で売春を合法化する団体なんかに所属していたんだろう、学歴も職歴もあったのに、と」

「………率直に言えば……そうやけど…」

「ごちそうさまです」

 鷹姫が一番に食べ終えて手を合わせている。二人の会話には興味をもっていない様子だった。

「私は風俗業に就職した経験はありませんが、利用した経験はあります」

「そ……そうなんや……」

「ビアンバーでの出会いもいいですけれど、必ずしも自分の好みの人が都合良くフリーでいてくれるとは限らないじゃないですか。私は性欲が強い方なんです」

「……へ……へぇ…」

 話を振ったのは自分なのに鮎美は鷹姫の反応が気になって落ち着かない。鷹姫は、ごちそうさまと言ったものの、ソバの一杯では足りないという淋しそうな顔をして、空になった器を見ている。

「宮本さん、まだソバは残っていますから、湯がきましょうか?」

「…あ…………お二人は?」

「うちは病み上がりやし、軽めにしておくわ」

「私も十分です」

「……では………」

「遠慮しなくていいですよ。湯がきますね」

 詩織が2杯目を用意しながら話す。

「風俗業もいろいろですけれど、電話してもビアンお断りなところも多いですよ」

「え…そうなんや?」

「不思議ですよね、たいていの男性からの求めには応じるのに、女性だと電話口だけで断るなんて」

「そ…そやね」

「でも、応じてくれるところもありますよ。私ね、けっこうSなんです。ノンケの子が仕事だからと頑張ってくれるのを楽しんだり、逆に教え込んだり、そんな風に利用した経験はあります。しっかりMになってしまった子もいましたよ。ノンケなのに快感ほしさに言うことをきくようになってくれたりね」

「………」

「牧田さん、お話の腰を折って申し訳ないのですが、Mというのは、どういう意味ですか?」

「「………」」

「以前に石永さんにも訊いたのですが、教えてもらう機会が無く、卑猥な言葉なのはわかりますが、意味を知らないのも不勉強かと思います。さしつかえなければ、教えてください」

「ええ、いいですよ」

 微笑んだ詩織は湯がく予定だったソバを鍋に入れず、冷蔵庫から高価なハムを出した。

「私の話は、ようするに情が移った風俗嬢の子たちの立場を少しでも良くしてあげたい。そのためには合法化が一番だと考えたからです」

 詩織はハムを一口サイズに包丁で切り、皿に盛っていく。

「さて、Mの意味でしたよね。宮本さんはSMも知らない?」

「はい、知りません」

「Sはサディズムの隠語、Mはマゾヒズム。異常性欲の一種です。名称はSM傾向のある人物をかいたオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホに由来しています。そして、Mとは肉体的精神的苦痛を与えられることによって性的満足をえる人や傾向のことを指します。逆にSはMへ苦痛を与える人や傾向のことです」

「そうですか、ありがとうございます」

「そんなあっさりと理解できるものでもないですよ」

「そうなのですか?」

「ええ、本格的なSMは過激なのですが、入口程度のことなら一般的なカップルも遊びで試したりしていますから、少し私もやってみますね」

 そう言った詩織はハムを盛った皿を鷹姫の前に置いた。当然の流れとして三人で食べるものと思ったのに、詩織は命令口調で告げる。

「おあずけ」

「……」

「うちらは犬か」

 食べようとしていた鮎美が文句を言ったので詩織は微笑みかける。

「鮎美先生は観客なので、どうぞ食べてください。宮本さんと私で少し遊びますね。私がS、宮本さんがM役ですよ」

「……鷹姫に変なことせんといてよ」

「はい。宮本さんは性的なことに疎いようですから、食欲の方で遊びますね」

 詩織は皿を鷹姫へ近づける。

「宮本さん、どうしても我慢できなくなったら犬みたいに食べてもいいですよ。けど、人としてのプライドがあるなら、食べていいと言われるまで我慢してください。いいですか?」

「はい」

「ではまず、お皿に顔を近づけてハムの匂いを嗅いでみてください」

「はい…」

 素直に鷹姫は皿へ顔を近づけて匂いを嗅いでみる。冷蔵庫から出されて常温となりつつあるハムは肉とスパイスの香りがして食欲を刺激してきた。

「どうです? 美味しそうな匂いでしょ?」

「はい…」

「鮎美先生、食べないんですか?」

「おあずけされてる人の前で食べられんよ」

「じゃあ、あーん」

 詩織がハムを指先で摘むと、鮎美の口元へもっていく。

「食べてみて、どんな味か、感想をください」

「……。……」

「ゲームを進めないと、いつまでも宮本さんが食べられませんよ? はい、あーん」

「……」

 迷ったけれど、鮎美は口を開けた。詩織は食べさせながら、少し唇にも触れてから手を離した。

「どうですか? 美味しい?」

「……美味っ……このハム、めっちゃ美味しいやん。どこのハム?」

「ドイツから取り寄せたハムです。お肉料理については、やっぱり欧州に一日の長がありますよ」

 そう言って詩織も一欠片食べる。

「うん、やっぱり美味しい」

「………」

 鷹姫の口は黙っていたけれど、お腹が切なそうに鳴いた。

「っ…」

 お腹を鳴らしてしまい鷹姫がパッと赤面して顔を伏せる。その姿が可愛らしくて詩織だけでなく鮎美まで失笑した。

「「クスっ」」

「………」

 鷹姫の耳まで赤くなっていくので、鮎美は可哀想に感じた。

「牧田はん、もうやめてあげてよ。鷹姫は、こういうの弱そうやもん」

 鷹姫は剣道で鍛えた体格と筋肉の量に相応して食欲は旺盛な方で、それは鮎美も知っているし、詩織も数日で感じ取っていた。そして、その食欲旺盛さを自制して隠してもいるし、恥じてもいるけれど、隠しきれるものでもなく鮎美も詩織もわかっている。

「弱そうだから、そこを責めるんですよ」

「……鬼や……真性のSや」

 また、鷹姫のお腹が鳴った。

「フフ、口では黙っていても、身体は正直ですね。そんなに欲しいの?」

「………」

「……食欲やのに、なんかエロいセリフに聞こえるわ……」

「宮本さん、これはゲームですから、私が少々きつい言い方をしても、あなたはできるだけ従順に振る舞ってくださいね。女王様と奴隷、主人とメイド、そんなような立場関係だと思ってください。そして、どうしても我慢できないときは、ギブアップと言ってください」

「はい…」

「SMにギブアップとかあるんや?」

「ありますよ。本当に苦しいときのストップを決めておかないと危険なプレイもありますから。今の場合は遊びのはずなのに、宮本さんが本気で怒ってしまうのがゲームの破綻です。だから、もう我慢できない、まいった、というときの終わりは決めておきます」

 また、鷹姫のお腹が鳴る。

「フフ、食欲って満たされてると意識しませんが、かなり強い欲望なんですよ。ときに殺意さえ覚えるほど」

「それをわかってて責めるんや……鬼やわ」

「そろそろ限界ですか?」

「……いえ…」

 負けず嫌いという鷹姫の性格も感じ取っていて詩織が問い、想定通りに否定してくれた。

「限界を迎える前に、少しだけ」

 詩織は指先でハムを一切れ摘みあげると鷹姫の口元に運ぶ。

「あーん、して」

「はいっ」

「もっと大きく口を開けて」

「……」

 素直に鷹姫は口を大きく開くけれど、詩織はハムを入れない。

「……」

 そのうちに鷹姫の口から唾液が飛んで詩織の手についた。

「手に唾が飛んできましたよ。謝ってください」

「……はい…すみません…」

 恥ずかしくて鷹姫が涙ぐんで謝った。

「なんちゅー理不尽な…」

 可哀想で鮎美が口を挟もうとしたけれど、その口にハムが入れられる。

「ぅっ…」

 目で抗議しつつも、吐き出すのはもったいないので食べた。詩織は手をティッシュで拭いてから、戸棚からアイマスクを取り出した。

「次のゲームをします」

「「………」」

「三人での目隠しジャンケンです。宮本さんが勝てば、一切れ、食べさせてあげますね」

「誰が目隠しすんの?」

「もちろん、宮本さんです」

 そう言ってアイマスクを鷹姫に渡した。

「ルールは単純、三人でジャンケンをして宮本さんが単独で勝った場合のみ、食べられる。引き分けはもちろん宮本さんが勝っても勝利者が2名であるときは除外します。そして、宮本さんは目隠ししたまま行います」

「そんなん不正されてもわからんやん?」

「ですね。こちらを信じるしかないのです」

「しかも単独での勝利のみって……確率的に…」

 鮎美と鷹姫が数学的思考を行った。

「「……9分の一…」」

「そうです」

「ひどっ…」

「逆に言えば9回で一回は食べられるはずですよ」

「まあ、そやけど……」

「では、宮本さん、目隠しをしてください」

「…はい…」

 美味しそうなハムを一瞬だけ見てしまってから鷹姫は目隠しをした。

「ジャンケンをする前に、必ずおねだりをしてもらいますね」

「「………」」

「私にハムを食べさせてください、って言ってみてください」

「……私にハムを食べさせてください」

「では、ジャンケン、ポン!」

「「…」」

 鮎美と鷹姫も手を出したけれど、詩織がチョキで鮎美と鷹姫がグーだった。

「あら、残念。勝利が2名ですから除外しますね」

「………」

「ごめんな、鷹姫、うちもチョキを出してあげればよかった」

「…ということは、牧田さんがチョキですか?」

 見えない鷹姫は手を予想してみた。

「そうやよ。ごめんな」

「いえ、いずれ勝てます。気にしないでください」

 なるべく平然と鷹姫は言ったけれど、お腹が盛大に鳴ったので恥ずかしくて、また頬を赤くした。

「フフ、可愛い」

「………」

 あかん、可哀想やのに可愛く見えてまう、気の毒やのに、ちょっと楽しい、うちもSっ気があるんかな、と鮎美は赤くなっている目隠しされた鷹姫を見つめて少し興奮した。

「では、また、おねだりさせますね」

「「………」」

「どうか私にハムを食べさせてください、と言いなさい」

「………どうか私にハムを食べさせてください…」

「では、ジャンケン、ポン!」

「「…」」

 今度も詩織はチョキ、鮎美はパーで、鷹姫がグーだった。

「残念でしたね。三つ巴です」

「ごめん、ホンマごめん。なんで、うちはチョキにせんかったんやろ……ホンマごめん」

「偶然ですから気にしないでください」

「今度、うちは必ずチョキにするわ。ずっとチョキにする。これで確率3分の1や」

「鮎美先生、不正行為はペナルティーを考えますよ。もちろん、罰は宮本さんに」

「ぅっ…」

「さ、今の宣言は忘れて、次の手を考えておいてくださいね。私だって三回連続チョキとはならないかもしれませんよ」

「……こくっ…」

 鷹姫が口の中に湧いていた唾液を飲み込んだ。もうとっくにソバは消化してしまって胃は空っぽという感覚だった。おまけに視覚が封じられたのでハムの匂いを強く感じてしまう。食べたくて、次から次へと唾液が口内に湧いてくるので、また飲み込んだ。

「おねだりさせますよ。どうかどうか私にハムを食べさせてください、お願いします。って言ってごらんなさい」

「……どうか私にハムを食べさせてくださいお願いします…」

「間違っていますよ。どうかどうか私にハムを食べさせてください、お願いします。です」

「………どうかどうか私にハムを食べさせてください、お願いします」

 そう言う鷹姫の口から唾液が飛んだ。

「フ、いいでしょう。では、ジャンケン、ポン!」

「…」

「くっ…」

 詩織はパーで鷹姫はグー、鮎美はチョキだった。

「また三つ巴ですね」

「「………」」

「四回目、おねだりなさい。どうぞ私にお肉を食べるチャンスをください、お願いいたします。ちゃんと心を込めて言いなさい。でないと、言い直しさせますよ」

「………どうぞ私にお肉を食べる……チャンスをください、お願い申し上げます」

「違いますよ。どうぞ私にお肉を食べるチャンスをください、お願いいたします。です」

「……………、………」

 鷹姫が唇を一文字に引き結び、両手を握った。食欲が満たされないことで、苛立ちのような感情を覚えている様子で、詩織は冷たく言い募る。

「ギブアップなら目隠しを取って、いやしく食いつきなさい」

「…………。セリフを、もう一回、言ってもらえますか、お願いします」

「どうぞ私にお肉を食べるチャンスをください、お願いいたします。ですよ、一回で覚えなさい。この愚か者」

「……」

「……」

 牧田はん明らかに鷹姫に言われたこと根に持っての復讐やん、と鮎美は感じて詩織を見た。詩織も自覚はあるので余裕で微笑んだ。鷹姫が覚えたセリフを言う。

「どうぞ私に…お肉を食べるチャンスをください、お願い…いたします」

「まあまあ合格ということにしてあげます。次からは、もっと心を込めなさい。では、ジャンケン、ポン!」

 詩織がグーで鮎美もグー、鷹姫はチョキだった。

「残念、宮本さんの一人負け」

「………」

 見えない鷹姫は確かめようがないけれど、鮎美が異議を唱えないので信じるものの、ただジャンケンして負けただけ、それも何度でも勝負ができる設定なのに、泣きそうな感情が湧いてきて鼻が赤くなった。唇の先が少し震えている。詩織が楽しそうに微笑んで問う。

「次こそ勝てるかな? もうギブアップかな?」

「……もう一度、お願いします」

「鷹姫……えらいね。頑張りぃ。うちも鷹姫が勝てるよう祈るから」

「おねだりなさい。愚かな私にお肉をください、どうか、食べさせてください、食べたくて食べたくて、もう我慢できません、って」

「………ぉ…愚かな私にお肉をください、…どうか、食べさせてください、食べたくて…食べたくて…、もう我慢できません!」

 かなり唾液を飛ばしながら最後の方は叫ぶように言った。

「フフ、いい声ね。じゃ、チャンスをあげますよ。ジャンケン、ポン!」

「「…」」

 詩織がチョキで鮎美もチョキ、鷹姫はグーだった。

「……やった! 鷹姫の勝ちやよ!」

「そ…そうなのですか? ……私の勝ち……やっと…」

 やはり見えないので勝利の実感は遅れて湧く。

「あなたの勝ちよ、喜びなさい。そして食べさせてあげる。そうね、私より鮎美先生が食べさせてあげて」

「よっしゃ」

 鮎美がハムを摘んだ。

「鷹姫、あーんして」

「はい」

 鷹姫が素直に口を開け、そこに優しくハムを入れた。

「…………………ああ……美味しい……」

 蕩けるような声を漏らした鷹姫は身震いするほど味わっている。

「このハム、めちゃ美味しいやん」

「はい……とても……」

「牧田はん、これって高いん?」

「そういう無粋なことは訊かないでください。このハムを造っているところは、かつてドイツ皇帝へも納めていましたし、今も英国王室御用達だったと思いますよ。このジョニーウォーカーと同じに」

 そう言った詩織は小さなグラスへ琥珀色の液体を酒瓶から注ぐと、一息に呑んだ。

「お酒、呑むんや…」

「もう勤務時間ではないですよね?」

「せやね。っていうか、秘書業も議員と同じで終わりがわかりにくくて、ごめんな」

「お詫びは口先だけじゃなくて、唇でしてほしいものです」

「………もう酔うたん?」

「いえ。さてと、宮本さん、もう一枚、食べたい?」

「はい」

「素直な返事ね。フフ、どんな快感でも焦らされた後に与えられると格別でしょ。さ、ご褒美が欲しければ、また頑張って勝ちなさい。ジャンケン」

 また詩織がゲームを続ける。

「ポン」

「「…」」

 詩織がパーで鮎美もパー、鷹姫はグーだった。

「一人負けね」

「「……」」

「ジャンケンの心理を教えてあげましょう。人間、防御的な気持ちの時はグーを出しやすいのです。今みたいに目隠しされているときなんて、とくに。逆にパーは開放的な気分のとき、そしてチョキは確率的には初手にもちいられることは少ない。指の動作が複雑ということもあり、ひねった策として出す傾向にありますよ」

「「………」」

「ですから、いじめる側がジャンケンを提案したとき、いじめられている側はグーを出しやすい、ということを、いじめる側が覚えていると、とても勝ちやすいのです」

「なんちゅー卑怯な……」

「さて、親切に教えてあげた私は、次は、何を出すでしょう。そして、あなたは勝ちたいならパーにする? それとも、またグー?」

「「………」」

「いきますよ。ジャンケン、ポン」

「「…」」

 詩織がグーを出し、鮎美はチョキ、鷹姫はパーだった。

「あらあら、残念でしたね。あなたは素直にパーを出したのに、鮎美先生がひねってしまいました。色々言う私の裏をかこう、という思考は悪くないけれど、結果は残念でしたね」

「ごめん……鷹姫、うちのせいで……」

「いえ、お気になさらず」

「フフ、また、おねだりもさせますよ」

 アルコールのせいで少し頬が赤くなった詩織がセリフを考える。

「美味しいハムを、また私に食べさせてください。お願いします、牧田様。と言いなさい」

「……。美味しいハムを…また私に食べさせてください、おねがいします、牧田さ…ま」

「もっと心を込めて、へりくだって言いなさい」

 詩織が尊大さへ心を込めて言った。

「………美味しいハムを、また私に食べさせてください。お願いします! 牧田様」

「よろしい。ジャンケン、ポン!」

「「……」」

 三人ともグーだった。

「フフ」

「くっ……9分の一なんて、ひどいわ…」

「負けてもペナルティー無しなんて、優しいゲームですよ。さ、おねだりの時間です」

「「………」」

「お腹を空かせた私に、その肉片をください。牧田様、お願いします。と言いなさい。もちろん、心を込めて」

「……、お腹を空かせた私に、その肉片をください! 牧田様、お願いします!」

「いやしい子ね。さ、ジャンケン」

「「…」」

「ポン!」

 詩織がチョキ、鮎美はパー、鷹姫もパーだった。

「フ」

「……。うちらの負けやわ…」

「…そうですか…」

「おねだりは……そうですね。食べたい、食べたい、食べたい、どうか、食べさせてください、お願いします、お願いします。と言いなさい。大きな声で」

「……食べたい! 食べたい! ハァ…食べたい! どうか食べさせてください! お願いします! お願いします! お願いします!」

 かなり空腹感のこもった心からの絶叫だった。叫んでいる鷹姫の頬は赤くなっている。それが苦痛のせいなのか、羞恥心のせいなのか、それとも特殊な興奮によるものなのかは本人にもわからなかった。

「…ハァ…ハァ…」

「うーん♪ いい声ね。泣きたいときは、泣いてもいいですよ。さ、ジャンケン、ポン!」

「「…」」

 詩織はチョキ、鮎美もチョキ、鷹姫はグーだった。

「ご褒美タイムですね」

「鷹姫の勝ちやよ!」

「ああ……ハァ…」

 鷹姫が身震いして、ご褒美を待っている。息を吐く、その唇から少しヨダレが見えるほどだった。

「鮎美先生、食べさせてあげて」

「鷹姫、口を開けて」

 鮎美はハムを手で取って、鷹姫の口へ運ぼうとしたけれど、その途中で詩織の右手が鋭い素早さでベキッと音がするほど、鮎美の指を握って逆関節に反らした。

「ぐうあああああああああああ~~?!」

 鮎美は悲鳴をあげて冷や汗を流しているけれど、詩織は冷厳と言う。

「言ったはずです。不正行為にはペナルティーと」

「ううっ…」

 鮎美は一度で2枚のハムを鷹姫に食べさせようとしていて、その2枚がテーブルに落ちている。

「イカサマは見逃しませんよ」

「…ひ…ひどいわ…。指が折れるかと…」

「いいえ、慈悲深いです。指を折らなかっただけ」

「くっ……、ゲームや言うたのに、容赦ないなぁ…」

「ゲームは本気でやるものです」

「……わかった……ええわ。この指は罰として受け入れるわ」

「何を言っているのですか。罰は宮本さんにくだします。そう言ったはずです」

「そんな……うちの不正やのに…」

「M役は宮本さんです」

「…くっ……鷹姫、ごめん…」

「気にしないでください……それで、罰は?」

「口の利き方を考えなさい。罰は何でしょうか、牧田様。と言いなさい」

「……罰は何でしょうか、牧田様」

「音を聴いて苦しみなさい」

「「…音? ……」」

「鮎美先生、テーブルに落としたハムを2枚とも食べながら、その可愛らしいホッペを宮本の耳にピッタリとつけなさい。美味しく食べている音を聴かせるのです」

「………なんちゅー発想すんねん……めちゃめちゃ鬼やん……」

「ゆっくり、しっかり罰を与えたら、逆にご褒美として5枚を一度に食べさせてあげます。口いっぱいに肉を頬張って最高の快楽を感じなさい」

「「………」」

「その分、罰はきついですよ。道具も使います」

 詩織はキッチンへ行くと、クッキーを生地から切り抜くときに使う金型を持ってきた。

「金型を咥えさせますから、大きく口を開けなさい」

「……はい…」

「ゆっくり咥えて」

 詩織は怪我をさせないように刃の無い方を口内にして入れ、咥えさせた。直径3センチ程度の抜き型なので、これで鷹姫は口を開いたままになる。

「では、鼻で呼吸せずに口で息をしなさい」

「……。ハァ……フー……ハァ……フー…」

 鷹姫が口呼吸する。金型の直径は十分なので息苦しくはないけれど、息をする度にヨダレが垂れていた。目隠しされ、金型も咥えてヨダレを垂らしている鷹姫の姿は扇情的で鮎美はレズビアンとして興奮したし、詩織もバイのサディストとして高ぶった。

「鮎美先生、罰を与えて」

「………」

「ハァ……フー……ハァ……フー…」

「鮎美先生が、やらないなら私が罰を与えましょうか?」

「ぅ、うちがやる!」

 鮎美は落としてしまったハムを口に入れると、鷹姫の耳へ頬をつけて噛み始める。

「…もぐ…もぐ…」

「…ハァぁ…フーぅ…ハァぁ…フーぅぅ…」

 咀嚼音を聴いた鷹姫の口から滝のようにヨダレが溢れてテーブルに水たまりをつくっている。もうハムのことしか考えていない様子で、自分の姿が客観的に、かなり変だということには思い至っていない。

「…もぐ…もぐ…ゴク…」

「ぁぁ…フー…ハァ…」

 切なくてアイマスクに涙まで染み込ませた。

「こんなにヨダレを垂らして。グショ濡れですね」

「ハァ…フー…ハァ…フー…」

「鷹姫……」

 鮎美は可哀想に想っているのに、自分が興奮していることにも気づいていた。タラタラと透明な汁を垂らしている鷹姫を見ていると、それが食欲によるものだとわかっていても、別の想像をしてしまう。

「そろそろ、ご褒美をあげますね」

 詩織が金型を抜いてやり、ハムを5枚、手に取った。

「三つ数えたら、口に5枚もハムを入れてあげます」

「ハァ…ハァ…」

 もう金型を抜いてもらったのに、鷹姫は口呼吸してヨダレを垂らしている。早く食べさせて欲しいと、舌がねだっているようだった。

「大きく口をあけて、舌も出しなさい。その舌の上にのせてあげますよ」

「はい…ハァ…ハァ…」

 鷹姫が舌を出すと、舌先からもヨダレが滴った。

「三……あと少しの我慢です」

「ハァ…ハァ…」

「鷹姫……」

 人間って、こんなに大量のヨダレ出るんや、と鮎美が驚くほど、鷹姫は唾液を垂れ流している。

「二…美味しいですよ」

「ハァハァ」

「一。食べなさい」

 詩織が優しく鷹姫の舌へとハムをのせた。パクリと音が聞こえるほど鷹姫が食いつき、ハムを頬張っている。噛みしめ、味わい、身震いして、涙まで流した。

「ああ……あああ………美味しいぃ…」

「フフ、可愛い。おねだりしたら、お皿にあるハム、全部を食べていいですよ」

「…全部……ハァ…ハァ…」

「ただし、手を使わずに、お皿から直接に口で食べなさい」

「ハァ…ハァ…はい…」

「お皿は移動させて、ここに置きます」

 そう言いながら詩織はテーブルにあった皿を足元の床に置いた。見えなくても音で鷹姫にもわかる。

「おねだりの言葉は、もう我慢できません、全部ください、牧田様。です」

「ハァ、もう我慢できません! 全部ください! 牧田様!」

「ええ、いいですよ。食べなさい」

 詩織が許可すると、鷹姫は床に這ってハムを食べ始めた。

「ハァハァもぐハァもぐ…」

「「…………」」

 詩織と鮎美は足元にいる鷹姫を見下ろしている。鷹姫は視覚が封じられている上、手も使うなと言われたので、深海魚やミミズが食べ物を探すような動きで嗅覚と唇の触覚を頼りにハムに食いついている。その姿は犬の食事より下等生物に見えた。

「鷹姫……」

「美味しそうに食べてますね。1枚残さず食べなさい」

「はい…ハァ…もぐ…ハァ…もぐ…」

 鷹姫が食べ終わるまでに、そう長い時間はかからなかった。もう皿に残っていないか、唇と舌で探し回り、小さな欠片も舐め取って平らげた。

「…ハァ……ハァ………」

 顔をあげた鷹姫の口周りだけでなく鼻先にもハムの油がついてテカている。

「フフ、ごちそうさまです、は?」

「ハァ…ごちそうさまです」

「いい子ですね。さて、犬より下品に喰い漁った今の気分は、どうですか? 宮本鷹姫さん」

「っ………」

 我を忘れて食欲を満たしていた鷹姫がフルネームで呼ばれて鞭打たれたように身体をビクリとさせた。

「やっちゃいましたね」

「……わ…私は……」

「宮本さん、あと少し私の言うとおりにしてください」

 詩織が尊大な言い方から、優しい保育士のような口調に変えた。

「宮本さんは今の変な気分を忘れるために、大きく深呼吸してください」

「……はい……はぁぁ…」

「そうそう、私の指示に合わせて、息を吸って」

「……すーっ…」

「吐いて」

「はぁぁ……」

「吸って」

「すーーっ…」

「ゆっくり吐いて」

「はぁぁぁ…」

「次に吸ったら、しばらく溜めて」

「すーーっ…………」

「その息を吐いたとき、このゲームは終了です。もう変な気分も飛んでいきます。はい、吐いて」

「はぁぁぁ……」

「はい、ゲーム終了です。お疲れ様でした」

 言うと同時に詩織が目隠しも取ってやった。

「ぅっ……」

 まぶしさで鷹姫が呻いた。詩織は油の付いた口元を拭くためにハンドタオルを差し出す。

「これで口の周りを拭いてください」

「あ…ありがとう…ございます…」

「どうでした? こんな感じなのがMとSの遊びです。自分の別の一面を見つけたみたいですよね?」

「……………」

 鷹姫が真っ赤に顔を染めた。その様子を見て詩織は可笑しそうに指摘する。

「ほら、このテーブルのヨダレ。これ、あなたが垂らしたんですよ」

「言わないでください!」

 鷹姫が急いでテーブルを拭いている。恥ずかしくて泣き出しそうな目をしている。詩織はゆっくりと語る。

「ちなみに、今のゲームにはSM要素だけじゃなく催眠術も少し加えました。視覚を封じられると、人間は人の声に支配されやすくなりますからね。そうして生理的欲求を我慢させていくと、どんどんストレスが高まります。焦らして焦らして、たった9分の一しかない勝率と、その目で勝利を確認できない苦痛、その結果、ご褒美の甘美さは理性を忘れさせるほどになります。さんざん焦らした後、一気に与えられる解放の快感、まさか自分がイモムシみたいに床へ這ってハムを食べるなんて思いました?」

「「…………」」

「自制心もプライドも、すっかり消えていましたよ」

「「…………」」

「大晦日のゲームとしては、ややハードプレイになってしまいましたね」

 詩織が保温状態にしていた鍋へ、ソバを入れた。残りのハムも切って新しい皿に並べる。鷹姫がうなだれているので鮎美は手を引いて洗面所へ導く。

「鷹姫、顔を洗いぃ」

「…はい……」

 ハンドタオルでは拭いきれなかった油を洗顔して落としてリビングへ戻った。詩織がおかわりのソバを用意していてくれる。

「どうぞ」

「……ありがとう…ございます…」

「もうゲーム終了ですから、遠慮無く食べてください」

「………はい…」

 あまり美味しく無さそうに鷹姫がソバを食べ始めた。詩織と鮎美はハムを食べる。鮎美が空気を変えるためにテレビのリモコンを持った。

「牧田はん、テレビつけてええ?」

「どうぞ」

 テレビでは紅白歌合戦が始まっていたので鮎美が国営放送について共闘を持ちかけてきた地方議員が居たことを思い出した。

「そういえば、NHK料金について、見ない人は払わなくて済むようにしよ、支払ってない人はスクランブルにでもなるようにして、っていう提案もあったなぁ。うちも賛成やったけど、自眠党としては様子見って言われて放置してしもたけど、牧田はん、ドイツとかも国営放送あるの?」

「ありますよ。ただ、ナチスがマスメディアを濫用した教訓から国ではなく地域ごとになっていますが、費用徴収は日本より強制的です。たしか、近年のインターネットの普及に合わせて制度を再設計し、今まで公共放送受信料だったものを放送負担金と変え、個人でなく世帯ごとに課すという方向になりそうでした」

「そうなんや。まあ、民放は広告を入れてくれるスポンサーに逆らえんし、公的な報道は必要やわなぁ。けど、職員の平均給与がやたら高かったりトップの報酬が総理大臣なみとかは、おかしいやろ。そのへんを是正するシステムも今はないし、お手盛り天国や。スポンサーではなく民意によって公的な報道が行われるようになるとええのになぁ」

「民意を、どうやって確かめるのですか?」

「たとえば、報道機関ごとに、もしくはジャーナリストごとに立候補して国民から投票してもらうとか、で、獲得票数に応じて予算がもらえるねん。任期も決めて再選もありで」

「それだと、人は好みのジャーナリストを選び、衆愚化しませんか?」

「一部はそうなるやろけど、賢明なジャーナリストと賢明な国民もいはるやろ。結果、報道の内容も多様化するやろし。今みたいに政治家の失言と不倫ばっかり追いかけるアホみたいな体制よりマシになると思うよ。たかが女子高生が議員になっただけで、何十人もの人手をかけて追い回すなんて無駄、やめるやろ。今現在、もっとも重要なんは鳩山政権が打ち出す最小不幸社会の内容やん。けど、それの是非を論じるどころか、細野先生の不倫やら、しょーもないことばっかり追いかける。別に細野先生に何人愛人がいても国政の本質に関わりないやん」

「ヒトラーは愛妻家だったそうですよ」

「人間色々やね」

「私も独占欲は強い方です」

「……覚えときます。話を戻すと国営放送の費用徴収の徴収コストも無駄やわな。税金と一元化したら、この手間も省けるのに独自予算が欲しいから続けてる。個別徴収をやめて、その分だけ所得税なり住民税を0.数%あげたらええのに。税金と一元化して余った人手を三島はんが言うように障碍者へのケアにあてたら世の中、ずっと人に優しくなるやろに。報酬もケアに取り組む人にこそ高額報酬になったらええねん。医師と介護士で報酬に差がありすぎやろ。もはや貴族と奴隷なみやん」

「鮎美先生、歌を聴いていますか?」

「いんや。どうでもええ。鷹姫、聴いてる?」

「いえ、聴いていません」

 誰も紅白歌合戦を聴いていないので詩織はチャンネルを変えた。別のチャンネルでは豪雪のために避難所で年越しする人たちのことを報道していた。

「この豪雪も災害といえば、災害やね。国会議員なはずの、うちが、こんなところでのんびりしてるのは罪悪感さえあるわ」

「「…………」」

「だからといって、駆けつけても足手まといなだけで、何かしたいなら消防か自衛隊にでも入って訓練うけろちゅーねんな」

 どうにもできないことを自嘲した鮎美は紅白歌合戦にチャンネルを戻した。三人とも興味がないのでテレビは流れているだけになる。鮎美は歌謡ではなく政治について考え続けた。

「ダイエットで一食抜くだけでも、つらいのに、災害で丸一日何も食べられんかったら、つらいやろなぁ」

「……私は……自分が情けない…」

「鷹姫、ごめん。さっきのこと言うてるわけやないよ」

「………」

「でも、宮本さんは私の2倍は食べますよね」

「……すみません」

「謝らなくていいですよ、元気でいいじゃないですか。それで太らないわけですし」

「…………」

「鷹姫……そんな気にせんとき。太らんにゃし、ええやん。羨ましいよ」

「……………」

 鷹姫が泣きそうな顔をしてから、真顔になって鮎美と詩織を見た。

「ずっと直したいのに直せないのです。小学校の頃から、男子より食べると言われても………つい……学校給食でも…」

「そら朝稽古して夕方も稽古するやん」

 それに鷹姫の家は母さんがおらんかったし貧しいから、学校給食はかなり重要な栄養源やろ、それで食べてしまうのがトラウマになったんかな、と鮎美は心配したし、詩織も謝る。

「すみません。なにか、心の傷をえぐってしまったみたいで。SMプレイは、あくまでプレイですから、ごっこ遊びだと思って日常生活には持ち込まないものなのですが……食べることについて、何かあったみたいですね。ごめんなさい」

「……いえ……もう、いいです……明日は早いですから、そろそろ休みませんか?」

「そやね」

「そうですね」

 三人は席を立ち、食器を片付けてから眠った。

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