第19話 12月22日 小笠原、ビアンバー
翌12月22日の午前2時19分、鮎美のスマートフォンと鷹姫の携帯電話がけたたましい警告音を発した。
「…ぅ~…」
「…ぅぅ…」
二人とも強い疲労で深く眠っていたのに、激しい警告音で叩き起こされる。
「母さん、もうちょっと寝かせて……、……やなくて…ここは? あ、そっか、ホテル」
「この音は……いったい…」
強い眠気のために頭が働かないけれど、ホテルに宿泊したことを思い出し、そして鳴っている情報端末を手にすると表示された内容を見て、目が覚める。
「地震っ?!」
「小笠原……マグニチュード7超?!」
鮎美も鷹姫も眠気が飛んだ。日本人なので地震には慣れていても、マグニチュード7となると別だった。
「お、小笠原って、どこやった?」
「太平洋の離島です!」
「人は住んでるん?!」
「そのはずです」
「テレビつけて!」
「はい!」
テレビとスマートフォンで情報を得ると、父島近海を震源地とした地震が発生し、小笠原諸島に津波警報が、高知県などに津波注意報が出されている。
「日本列島から、だいぶ離れてるなぁ……」
「はい、東京から南南東に1200キロです」
「一応は東京都なんや」
「そのようです」
「死傷者は、まだ情報がないけど……。この久野先生がつくらせはった国会議員向けの地震情報アプリ、優秀やな」
「阪神淡路大震災で初動が遅れたことの戒めと言っておられましたから」
「国会議員向けと言いつつ誰でもダウンロードできるしな。で、うちらは、どうしよ?」
「…………」
「ここにおってええんやろか?」
「……わかりません」
「かといって、今すぐ国会に行ってもしゃーないよな。内閣は動くかもしれんけど、衆議院の解散中でもないから緊急集会も関係ないし、うちは役職もなにもない一年生議員やし」
「小笠原へは自衛隊が派遣されるかもしれませんが……」
「そやね………うちらが行っても、やれることないし」
「ともかくは連絡を待ち、どのような状況にも対応できるよう準備しておくことくらいだと思います」
夜中に起きたものの、行動すべきことは見あたらず、鮎美と鷹姫は情報を待った。しばらくしてテレビが津波が観測されたことを伝えてくれた。
「最大で22センチの津波かぁ……」
「マグニチュードは7.4と出ています」
「たしか、マグニチュードは地震の規模やんね。震度は揺れの強さ……関東大震災でM7.9やったんやから、7.4って相当やん。やのに、津波は22センチなんや……膝までも無いやん」
「今のところ小笠原でも死傷者は報告されていないようです」
「震源の真上が神戸やった前回と違て、何もない海やもんな」
鮎美は掌に浮いていた汗を腿で拭いた。それで身体がベタついていることに気づく。
「お風呂に入らんと寝てしもた………今のところ問題なさそうやし、うち、お風呂に入ってくるわ。鷹姫、悪いけどテレビを見てて。スマフォは持って入るし」
「はい」
鮎美は浴室に入って全裸になると、お湯を入れながら湯船に入る。シティホテルの大口径蛇口なので、そんな入り方でも、すぐに湯が貯まる。ときおり鮎美はスマートフォンで情報をチェックしていたけれど、さほど大きな情報は無かった。
「問題なしかな」
つぶやいていると鷹姫が浴室のドアをノックしてきた。
「鮎美、入ってもいいですか?」
「っ…え…」
落ち着きつつあった気持ちが激しく揺れた。安いビジネスホテルではないのでトイレとバスは別になっている。あえて鷹姫が入ってくる理由は無いはずなのに、許可を求められて鮎美は頬が赤くなるのを自覚した。
「ど、どないしたん?」
「お見せしたいものがあるのです」
「そ、そうなんや。うん、ええよ。入って」
鷹姫は、いつでも外出できるように、きっちりと冬制服を着た姿で手に新聞をもってバスルームに入ってきた。
「これを見てください」
高価なホテルに宿泊すると、すべての客室に新聞が投函されることは珍しくない。鷹姫が持ってきた新聞を両手が濡れている鮎美に見えるよう広げて向けてくれると、驚いた。
「うちが載ってるやん! しかも一面トップに!」
「はい。昨日の取材内容が、そのまま載っています」
全国紙の一面には国会前で取材を受ける鮎美の写真が載っていて、史上最年少議員が誕生という見出しがついている。インタビュー内容や西村の死去によって任期開始が早まったことなどが書かれていた。
「うわぁ………せやけど、地震の方が大ニュースやと……」
「地震発生は午前2時過ぎです。昨日のニュースとしては芹沢先生のことが大きかったのだと思われます」
「そっか………それにしても、まさか一面トップに……」
怖いような、恥ずかしいような、少し誇らしいような、鮎美は議員バッチを着けたばかりの自分が堂々と前を向いて質問に答えている姿を顔を赤くしながら見ている。今現在、バスルームとはいえ自分が全裸なのに、鷹姫は完全に服を着ているという状態も赤面に拍車をかけてくる。
「……はぁ……」
熱い吐息が漏れた。鷹姫は冷静に言ってくる。
「おそらく他の新聞でも扱いは小さくないかと思います」
「うん……そやね……これから、ますます注目されるかも……」
読み終わった鮎美は礼を言って鷹姫に新聞を閉じてもらった。鷹姫が出ていき一人になると髪と身体を洗ってから、裸のまま客室に戻った。鷹姫はテレビと携帯電話を交互に見ていたものの、とくに目新しい情報はない様子で、全裸で揚がってきた鮎美を見て一言つげる。
「風邪を引きますよ」
「……」
鮎美は裸のまま鷹姫に近づくと、彼女の髪の匂いを嗅いだ。
「夕べ、お風呂に入った?」
「いえ」
「……ぃ、いっしょに入る?」
「遠い小笠原諸島とはいえ、非常時ですから二人とも入浴してしまうのは問題でしょう」
「………そやね」
「服を着てください。風邪を引きますよ。それに窓から盗撮される危険もゼロではないと考えます」
客室の窓は、窓というより琵琶湖に面した壁面の一つが全面ガラス張りで夜明けの紫がかった不思議な色合いが空と湖面を染めている。外からはマジックミラーになっていて鮎美が裸でいることは見えないはずだったけれど、二人が知らない撮影方法が存在して遠くから撮られるかもしれない。その忠告をしてくれた鷹姫は上着を脱いで鮎美の肩にかけてくれた。そうされると、鷹姫の匂いに包まれて鮎美は陶然として振り返り、少し身長差がある鷹姫を見上げて言う。
「キスしてくれたら着るよ」
「……何を言っているのですか?」
「………」
思わず言ってしまって自分でも、何を言っているんやろ、と鮎美は自嘲した。
「冗談よ」
「鮎美の冗談は、どこが可笑しいのか、わかりません」
「ごめん、ごめん。お風呂、入ってき。うちは、ちゃんと服を着てるから」
「はい。では…」
鷹姫が入浴しにいき、鮎美は昨日と同じ下着を着ける。
「これからは泊まる予定やなくても、替えのパンツくらい持っておこ」
一人言を漏らしながらスマートフォンで再び情報を確かめたけれど、大きな問題は無さそうだった。そのうちに日が昇り、空と湖面が明るくなる。
「キレイやな……夜景は見損ねたけど。東京と違て、たいしてイルミネーションないやろ。経済発展の程度がハンパやから星も見やすいわけでもないし」
「そろそろ朝食が始まります」
揚がってきた鷹姫が言ってくる。顔を見ただけで空腹そうなのがわかったので頷いた。
「腹が減っては戦はできんちゅーもんな。行こか」
「はい」
二人で2階のレストランに降りると食べ放題の朝食が始まっていて、早朝なので高齢の宿泊客が多い中、通常の三倍くらい食べている鷹姫と鮎美を見て老夫婦がクスクスと笑った。そして、婦人の方が声をかけてくる。
「大変な食欲ですね、お嬢さん方」
「………」
鷹姫は恥ずかしそうに口元を手で覆ったけれど、鮎美は卵焼きを食べながら答える。
「食べられるときに食べておかんと、今日も忙しいかもしれませんしね」
「あら、もしかして議員さんのセリ…芹……えっと…歳をとると、すぐに出てこなくて…」
今も鮎美は議員バッチの着いた制服を着ているので、すぐに議員だとわかるけれど、婦人は名前を思い出せない様子だったので微笑して名乗る。
「芹沢鮎美です」
「そうそう芹沢さん。失礼しました。私は加賀田雪子と申します」
「加賀田……」
「そう、今の知事をさせてもらっている夏子は私の孫ですよ」
「あの人の…、お婆さんですか……」
そう言われると、面影を感じる。
「芹沢さんは夏子の言うとおり、元気で感じのいい人ですね」
「…いえ…、元気くらいしか取り柄はありませんけど」
「夏子がね、言っていましたよ。一度で諦めず何度でも口説いて味方にしたい人だって」
「はは…、それは、どうも」
鮎美が困った笑顔で答えていると、いっしょにいた夫の方も老眼鏡をかけて鮎美を見てくる。
「おお、今朝の新聞に載っていた議員さんじゃないかね」
「はい、どうも。おはようございます」
「夏子が知事選で苦労させられた相手だと言っていたよ」
「ぅっ…その節は、どうも……。たまたま党が違いましたんで敵対してしまいましたが……。……うちも夏子はんのことは、好感ももってますよ」
「ほぉ」
「それは良かったわ。夏子に言っておきますね」
「はは…」
その後も何人もの客に声をかけられて、なかなか食事を進められなかったけれど、急いでいるわけではないので一人一人と丁寧に会話して記念撮影にも応じた。ようやく客室に戻ってきた鮎美はベッドに倒れ込む。
「朝から疲れたわぁ……はぁぁ…」
「ご苦労様です」
「うっ……今になって眠たい……」
「はい、私も」
思い返せば昨夜は22時過ぎに眠ったのに4時間足らずの翌2時に地震速報で叩き起こされ、そこから何もできないものの情報を得ようと頑張っていた。お腹がいっぱいになると、目まいがするような眠気が襲ってきた。
「えっと……告別式は12時からやんな……タクシーで行くんやったら、あと何時間、寝ていられるんかな……今、何時?」
「今は8時30分です」
「もう、そんな時間……けっこうレストランで大勢と話したから……、ちょっと寝たいわ。どのくらい寝られる?」
「ホテルのチェックアウトが11時です」
「ほな、ギリギリまで」
「はい」
二人とも目覚ましをセットすると目を閉じた。深く眠り込み、10時55分になって客室を出る。鷹姫が支払い手続きをして、その間に鮎美はタクシーを呼んでもらい、再び西村家を訪ねた。タクシーが西村家に近づくと、鮎美と鷹姫は集まっている報道陣を見て、タメ息をつきそうになった。
「夕べは、おらんかったのに」
「芹沢先生、お疲れではないですか?」
「う~ん……」
鮎美は右手で左肩を揉んだ。
「ま、これも仕事のうちや。頑張ろ。……そもそも、西村先生の死を悼む告別式やのに……」
「はい、そこを忘れたくないものです」
二人がタクシーを降りるとフラッシュが焚かれ、レポーターがマイクを向けてくる。
「今のお気持ちを一言お願いします」
「今は西村先生の死を悼む時間やと思ってますから、インタビューは後にしてもらえますか? 時間をとりますから」
「……。わかりました、後で、お願いしますね」
鮎美と鷹姫は報道陣に道をあけてもらい、再び読経の中で焼香した。
「…………」
そう言えば陽湖ちゃんは焼香とか仏教的なことはせんのかな、他宗教の葬儀とか出られんのかな、あかん、気が散って余計なこと考えてまう、西村先生の死を悼みに来たのに……、それにしても、うちしか議員は来てないみたいやけど、県議とか阪本市の市議とかも来んのかな、無所属って、そんなもんなんかな、と鮎美は焼香の後に周囲を見たけれど、西村の親族と近所の人たちがいるくらいで弔問客そのものも国会議員にしては少なかった。いよいよ出棺となり霊柩車が行くと、告別式は終わった。
「芹沢議員! お時間をいただけますか?」
「……。はい」
「わずか18歳で議員となられたこと、どう思われますか?」
「……」
何回同じこと訊くねん! と鮎美は苛立ったけれど、それは顔に出さない。
「どれだけ勉強しても足りんとは思いますけれど、全力で取り組みたいと決意しております」
「所属されている自眠党は総選挙で大敗されましたが、どう思われますか?」
「……。それが有権者の選択ですから、受け止めて次のアクションにつなげていきたいと思います」
うちも口からでまかせ、テキトーに言うようになったなぁ、次のアクションって何やねん、テキトーなカタカナ表現やわぁ、と鮎美は答えながら自嘲する。その後の質問にも無難に答えていたけれど、時間を区切らなかったこともあり、政治とは無関係の質問までされる。
「現在、交際されている男性などはいますか?」
「…………ノーコメント」
ややぶっきらぼうに答えてしまい、レポーターを睨んでしまったタイミングでフラッシュを焚かれ、鮎美は後悔したし、内心で舌打ちした。そんな表情に鷹姫が気づいてくれて、言ってくれる。
「そろそろ次の予定がありますので、芹沢先生は行かれます」
「あと一つだけ! 西村議員が亡くなったことで早めに議員となられたお気持ちは?!」
「……前例のないことばかりで戸惑いもありますが、西村先生も無所属なりに阪本城の城跡保存などに取り組んでおられ、そのお気持ちも引き継ぎたいと思います」
やっとインタビューを切り、鷹姫が待たせておいてくれたタクシーに乗った。
「あいつら、色々訊くけど、記事にするのは、ほんの一部やん。うざいわぁ」
「お疲れ様です」
「うん、おおきに。次の予定って何やった?」
「何もありません。とりあえず支部に戻るくらいです」
「おおきに。あんたもウソが巧くなったね」
「………」
「ごめん、余計なこと言うて」
「いえ」
二人で支部に戻ると石永と静江ら自眠党関係者の他に、鐘留と陽湖までいた。
「アユミン、おめでとう!」
「おめでとうございます、シスター鮎美」
「……。あんたら……」
さきほどまで告別式にいた鮎美と鷹姫は違和感を覚えたけれど、石永も弁えて言ってくれる。
「西村先生の逝去は残念だけれど、ともかくは無事の就任おめでとう、芹沢先生」
「はい…、ありがとうございます」
「ささやかだけれど、みんなで祝おうと芹沢先生の友達も集まってくれたんだ」
「……。せやけど、小笠原の地震はどうなってますの?」
「あれは芹沢先生には何の仕事も回ってこない。マグニチュードは大きくて夜中に起こされたけれど、津波は小さかったし、被害も少ない。気にしなくていい」
「そうですか、それは良かったですわ」
安心した鮎美は友人たちからの祝意を受けたものの夕方になると、自眠党を支援してくれている企業や団体の忘年会に今話題の人物として急遽呼び出されて顔を出さねばならず、また自宅に帰ることはできなかった。
12月28日、やっと連日の忘年会への出席が年末近くなったことで終わった鮎美は支部で鷹姫と勉強していた。大学受験する気のない鐘留と、受験を予定していない陽湖も顔を出している。
「月ちゃんって、なんで受験しないの? 就職?」
「神に仕える活動を予定しています」
「うわっ……特殊なニートみたいだね、それ」
「………いっしょにしないでください」
陽湖は飲み終わった全員の茶器を片付けようと立ち上がったけれど、小さな音量で常につけられているテレビが政治関連のニュースを流しているので音量をあげた。
「活力党の小沢六郎党代表が衆議院政治倫理審査会へ出席する意向を正式に表明しました」
ニュースキャスターの声を聴いて鮎美と鷹姫もテレビを見る。
「このオッちゃんの顔、うちは好きやったのになぁ」
「え~…アユミンって、こういう男が趣味なんだ?」
「ちゃうちゃう、このオッちゃん、大阪でお好み焼き屋でも経営したら、うまくいきそうな他人を引き寄せる顔してへん? きっと人気店になるで」
「「「…………」」」
鐘留も鷹姫も陽湖も、否定も肯定もできなかった。
「ほんでも、このオッちゃんも、お金の問題やったっけ?」
「はい。土地の取引か何かだったと思います。詳細を調べますか?」
鷹姫の問いに鮎美は首を横に振る。
「いや、ええよ。うちには直接関係なさそうやし。でも、結局は政策的な失敗やなくて、お金か女で転落するんか……もっと政策の是非を討論して、どの政策を採用するのが日本のためになるかとか、そういうレベルで進まんのかな?」
「来年1月には党首討論が予定されています」
「そやったね。活力党、どうするんやろ、眠主との連立がないとなると、眠主単独では3分の2にいかんし、供産との連立もなさそうやし」
「となれば、参議院の重要度が増します」
「アユミン、参議院の議席数って、どうなってるの?」
「総数203で自眠が59、眠主が90、供産18、活力3で無所属は33やよ」
「すごいね、暗記してるんだ」
「アホな女子高生ちゃいますから」
「過半数は102からってことは、眠主は12人でいいから無所属を味方につければいい?」
「そうやねん。たった12人や」
「あのキザったらしい雄琴は90に入ってるの?」
「入ってるよ」
「あいつ殺しちゃえばいいじゃん。自眠に、そういうヒットマンいないの?」
「………。静江はん、そういうことってあるん? 今でも」
「バカな女子高生みたいなこと訊かないでください。ありません。せいぜい脅迫電話や銃弾が送りつけられるくらいですし、逆効果になるのでやりません」
「嫌がらせはありえるんや……低レベルやなぁ…」
「低レベルといえばアユミンのエロ画像、ネットに色々出回ってるよ」
「そうなんや。どこに?」
「芹沢鮎美スペースエロで検索してみなよ」
「うちの名前と、エロでか」
鮎美は好奇心で調べてみる。スマートフォンではなく支部のパソコンで検索し始めた。静江が心配そうに言ってくる。
「そういうものは、あまりご覧にならない方が良いですよ。少し若くて美人な政治家が出ると、だいたい作成されますから。ニュースキャスターなんかでも」
「………あ~……こういうエロ画像にするんや……これ、うちの身体ちゃうやん」
ネット上には鮎美の顔に女性の裸体を合成した画像が出回っていた。次々と出てくるのを鮎美が見ているので静江は心配になる。
「あまりご覧になると傷つきますよ」
「う~ん………うちの身体とちゃうし……」
自分の身体ではないので羞恥心と嫌悪感は少ない。けれど、どう見ても自分の脚という下着が写った画像も見つけた。
「あ、パンチラあるやん。しかも、本物、これ、うちやん!」
「アユミン、あんま気にしない方がいいよ」
言い出した鐘留も本物写真が見つかったようなので心配そうに言ってくれる。本物写真は選挙応援中のもので、壇上に座っているところや、選挙カーのハシゴを登るときの一瞬を撮ったものだった。
「………こんなもん、撮りおって……」
「前にも言ったけど、アタシがモデルしてたときも色々あったから。男なんてゴミだよ、ゴミ。気にしないで、アユミン」
「シスター鐘留、あなたが言い出して見せたのですよ」
「………うん、おおきに、気にせんとくわ。けど、率直に、うちって男から見てどう見える女なんやろ? 顔とか身体とか世間並みで言うと」
「上の下」
「……。元モデルに言われると、喜ぶべきなんかな」
「正直な評価だよ。世の中、上には上がいるから。ちなみにアタシは上の中、そしてアタシの家のお金持ち度も、せいぜい上の中。上の上なんて世界のトップ100人。だから、アユミンは、せいぜい上の下。アユミン可愛いけど、可愛いだけで芸能界に入るには可愛さが足りない。可愛いプラス何かあれば、けっこういい線いくと思う」
「ははは…おおきに。静江はん、どう思う?」
「男性にもよるでしょうけれど、可愛らしい顔といい、細すぎず太すぎないスタイルといい、きっと日本一可愛らしい国会議員ですよ」
「……参議院は女が半数やけど、衆議院は男ばっかりやん」
話ながら検索を続けていた鮎美は自分そっくりのAV女優が存在してDVDが売り出されているのを、いっそ買ってやろうかと開き直った気持ちで見ながら鷹姫に問う。
「鷹姫には……う…うちって、どう見えてる? 可愛いと想ってくれる?」
「……」
鷹姫が鮎美の顔を見る。さらに、室内にも貼ってある鮎美のポスターも見た。
「はい。良い顔をされています」
「……おおきに…」
「芹沢先生、そろそろ東京へ向かった方がよいと思います。年末ですから」
「あ、そやね」
「え? アユミン、今から東京に行くの? お正月は?」
「うちは議員擬制されたから、西村先生が出席する予定やった新年祝賀の儀に呼ばれてるねん」
「新年祝賀の儀って何?」
「宮中行事でな、天皇陛下と皇族さんらに新年の挨拶しにいくような行事や。議員とか、最高裁の裁判官とか、外国の大使とかが呼ばれるねん」
「新年って、まだ四日もあるじゃん」
「行事は1月1日やけど、前日では不安やし、東京事務所のことやら議員宿舎やら色々あるさかい、もう行くねん。ごめんな、せっかく来てくれたのに」
「いいよ、いいよ、ヒマつぶしだし。あ、でも、月ちゃんは何か狙いがあるみたいで、そわそわしてるね? ワイロでも渡すのかな?」
「違います! あ、あの……シスター鮎美、お忙しい中、申し訳ないのですけれど、見て欲しい物があって」
「うちと陽湖ちゃんの仲で遠慮せんでええよ。家族みたいに同居してる仲やん。ま、うちが帰宅せんから、父さんが陽湖ちゃんが娘になったみたいや言うてたけど。で、何?」
「はい、これです」
陽湖は通学カバンからA4サイズの封筒を出した。
「教団が新設したい学園の大学について、校舎の完成図や学部の概要なんです。東京でも、お忙しいと思いますけれど、どうか、ご予定の空きで文科省への申請を手伝ってください」
「うん、わかったよ。新幹線の中で読んでおくわ」
鮎美は大学資料を受け取り、他の団体からの陳情資料は静江などに管理を任せているけれど、これについては自分のカバンに入れた。
「ほな、いってきます」
「いってきます」
「「「いってらっしゃい」」」
東京へ向かうのは、もう何度目になるのか、年末の混雑した中、鮎美と鷹姫はグリーン車で東京駅に着いた。今回もホームで詩織が待っていてくれる。
「遠路、お疲れ様です」
「新幹線のおかげで、そんなに疲れてないよ。国会議員が新幹線、無料なんは当たり前な気がしてくるわ」
「新幹線の無い地方の国会議員は大変なのでしょうね」
詩織が鮎美のカバンを持ちながら言った。
「そやね、切実かも。沖縄、北海道は飛行機やろけど、中途半端に遠い北陸なんかは雪も降るし大変やろな」
「議員宿舎の件ですが、他の同期となる参議院議員たちと公平にするため、亡き西村先生の部屋を引き継ぐのではなく、新年となってからクジ引きで決定するそうです」
「クジ引きで選ばれた議員が、またクジ引きで部屋を決めるんか、なんかシュールやな」
「今夜は事務所に近いホテルをとりました。年末でしたのでシングルを二つですが」
「牧田はんは、どこに住んでるん?」
「世田谷に叔父が建てたマンションがあり、その一室を借りています」
「……金持ちやな」
「広いですから、そちらに、いっしょに泊まりますか?」
「遠慮しときます」
「では、ホテルへ案内します。まだ早いですが、お二人ともお疲れにならないよう、しっかり休んでください」
「「はい」」
詩織の案内でビジネスホテルに到着した。一人部屋を二つという予約なので鷹姫と別々の客室に入る。
「狭っ……東京のビジネスホテルって鬼ほど狭いなぁ」
それほど安価ではなかったのに、圧迫感のある客室で天井も低い。
「だいたい何でも東京に集中させすぎやねん」
淋しいので、つい一人言を漏らしていると、ドアがノックされた。
「はい?」
「私です」
「牧田はん、どないしたん?」
「緊急でお伝えしたいことがありまして」
そう言われてたので鮎美は、すぐにドアを開ける。
「何やの? 緊急って」
「鮎美先生のことが大好きです。私と付き合ってください」
「……それ、前にも言うたやん」
「あと何回かは、言いますよ」
「そのうち、諦めるんや?」
「しつこいのはマナー違反です。鮎美先生はビアンの世界、ぜんぜん知らないでしょ?」
「………」
「ちょっと遊びに出ませんか?」
「………うちは仕事で来たんやし」
「新宿2丁目って聴いたことあります?」
「……新宿なら、東京23区の一つちゃうん? たしか、特別区、特別地方公共団体の一種で、原則として市と同じ扱いやけど、都との関係は府県と市より緊密で、都の統制力は強いはずの」
「ほら、何も知らない。何ですかその蘊蓄オジサンみたいな回答」
「………」
「日本最大のセクマイが集まるところですよ」
「……セクマイって何よ?」
「セクシャルマイノリティーの略です。ホントに何も知らないんですね」
「変な略し方するからやん。セクシャルマイノリティーくらい知ってるし! 性的少数者ってことやろ。勉強したし」
「資料ばっかりで勉強して実地を知らないから、ちょっとした言葉を知らないんですよ。自分と同じ人間と話したこと、ほとんど無いでしょう?」
「……」
「田舎だとそうですよね」
「大阪は都会やし」
「ビアンバーに行きませんか。男子禁制、女子のノンケの人も少しは来ますけど、基本的にビアンだけが集まるお店ですよ」
「そんなとこがあるん? 合法的に?」
「バーですから保健所には届けているでしょうね」
「……うちは18歳やし」
「別に呑めない人も、たくさん来ますよ。下戸だと言えば無理に勧められません」
「………」
「年末の新宿2丁目は、賑やかですよ。オフィス街は帰省で静かになりますが、田舎の家族のもとへ帰りにくいセクマイは、ずっと東京にいますから」
「………」
「見てみたい、見に行きたいって、顔に描いてあります」
「………。うちの立場で、そういう街や店に行けるわけないやん。もう全国で顔を知られてるねんで」
数日前に各紙の一面トップに載せられたことで、もう鮎美の顔を知っている人間は全国に多い。自惚れでなく紅白歌合戦に出場する歌手より有名度は高いと感じているし、東京駅でも議員バッチを着けていることもあって、かなり注目されている。
「そう言うと思って変装の準備もしてきましたよ。ほら」
詩織がカバンから嬉しそうにカラーウィッグや伊達眼鏡、カラーコンタクトまで出している。衣服も目立たないカジュアルを鮎美のサイズで買ってきていた。
「どうです? 行ってみませんか? 少しだけ」
「………」
「着替えてみてください。それでバレそうになければ行きましょう」
「……」
「メイクもありますよ、カラコンを入れて伊達眼鏡して、地毛は隠してカラーにすれば、完全に別人ですよ」
「………」
「ほら、こっちに座って。まずはカラコンを入れますね。コンタクトレンズの経験は?」
「……ないよ」
「では、私が入れてあげますね」
詩織に流されて鮎美はブルーのカラーコンタクトを着けられ、地毛を三つ編みにされてネットで仕舞い込まれ、同じくブルーのカラーウィッグをかぶせられた。ウィッグは鮎美の地毛と同じ長さで背中まである。
「次はメイクです」
メイクをされるのはポスターの撮影や演説時にも経験しているけれど、それは鮎美本来の印象を補助するためのナチュラルなメイクで、詩織が今してくるのは印象を変えるメイクだった。大きめのつけ睫毛を上だけでなく下にもつけられ、アイメイクも濃い。口紅も艶の強い色をつけられ、ファンデーションも三種類を駆使され、顔の立体的な印象まで変えられた。
「ここまで可愛くなったのに、もったいないですけれど、伊達眼鏡をしましょう」
「………」
「ほら、鏡を見て来てください」
詩織に言われてバスルームの鏡を見ると、別人になった自分がいた。
「……こ…ここまで変わるんや……誰やねん、こいつ……」
「あとは関西弁も控えてくださいね。関西人って遠慮無く関東でも関西弁を使いますけど、かなり目立ちますし、人の記憶に残る印象が強くなりますから」
「………」
「では、着替えてください」
「……」
「着替えも手伝いますね」
「ええよ、一人でできるし」
「関西弁」
「……いいよ、…一人でできるから」
やや恥ずかしくて顔が赤くなるのを自覚したけれど、メイクが濃いので赤みは出ない。
「議員バッチはもちろん、学生証とか、うっかり落として困る物は持ってこないでくださいね。悪いことをするわけじゃないですけど、カミングアウトする気が、まだ無いなら」
「…………」
着替えた鮎美は財布から現金を抜いて直接ポケットに入れた。
「では行きましょう」
「………少しだけやしな」
「関西弁」
「……少しだけ…よ」
「クスッ…可愛い。鮎美先生、あ、うっかり名前を呼んでもまずいですね。偽名を……セリザワですから、セリカにしましょう。まったくの偽名だと呼んでも反応できないことが多いですが人間、頭の二文字まで合えば、そこそこ反応できます」
そう言いながら詩織もカラーコンタクトを入れている。鳶色のコンタクトをつけた詩織は四分の一がドイツ人なので印象が大きく変わる。
「ホンマに外人みたいや」
「……関西弁」
「…本当に外人みたい…」
「あと、外人という日本語は、私は嫌いです。せめて外国人と言ってください」
「………。クォーターってことで差別されたことある?」
「無いと思いますか? この単一民族国家で」
「ごめん」
「私も芹沢鮎美の秘書としてチェックされると、まずいですからウィッグもかぶります。冬なので温かいですし」
手際よく地毛をまとめた詩織が金髪のウィッグをかぶると、ほぼ日本人には見えなくなった。
「さ、行きましょう」
「…うん」
二人でビジネスホテルを出ると地下鉄に乗る。ウィッグの前髪で顔を隠している鮎美は視界が狭い上、東京のことがわからないので詩織が手を引いてきた。
「セリカ、こっちですよ。迷子にならないでください」
「あ…うん…えっと……あんたの……あなたの、名前は?」
「そうしたね、では、シオにゃん、で♪」
「シオにゃん、って……」
「雰囲気では、私がタチでセリカが猫ですけれど、いいじゃないですか」
「……」
「ビアンカップルのフリをしてないと、バーでナンパされますよ」
「………」
鮎美は拒否はせずに地下鉄内で別のことを感じた。
「…………」
変装してるおかげで、うちのことに誰も気づかへん、めちゃ気楽やわ、と鮎美は議員バッチを背負っているときには無い開放感を覚えていた。この半年、ずっと議員という肩書きを背負ってきたけれど、今は誰も鮎美に注目しない。田舎なら目立つはずのブルーのウィッグをかぶっていても、誰一人として気にも留めない。電車に乗っていることもあって高校2年生までの大阪で過ごしていた、ただの女子高生という気分が蘇ってきた。
「……こんなに気楽な………」
「セリカ、次で降りますよ」
「うん……シ、シオにゃんは東京に詳しいね」
「それほどではないですよ。ただ、自分がバイだと2丁目などには、よく行きますから」
「そ、そんな大きな声で…」
「クスっ、いいじゃないですか、セリカがビアンでも誰も気にしませんよ。とくに、この街はね」
駅から街に出ると、手を引かれて鮎美は恐る恐る歩いたけれど、やっぱり誰も鮎美が芹沢鮎美参議院議員であることに気づかない。
「……思ったより……普通なんや…」
「関西弁」
「思ったより……普通で……」
「何がですか?」
「街の雰囲気とか……あと、うちの…私の変装への反応とか…」
「どこも外観は普通のバーですからね。でも、よく見ると手をつないでるカップル、ノーマルとは違うことも多いですよ。ほら」
たしかにジロジロ見ないように観察すると、普通の街と違って同性愛者が多かったし、人目を忍んでいる気配がない。むしろ見せつけるように路上でキスしていたりもする。
「……路上チュー…」
細野の顔を思い出した。
「東京では路上チューって普通にすること?」
「ドイツでもしますよ」
「………」
「あと中央アジアの方々は挨拶代わりに抱擁されますし。自分の生きてきた世界だけが普通ではないこと、すぐにわかりますよ。さ、こっちです。私の馴染みの店に行くと、私であることがバレますから、あまり行かない店ですがメジャーなところに案内します」
そう言った詩織はゴールドラクーンというバーの扉を開いた。
「「いらっしゃい。どうぞ!」」
女性店員が歓迎してくれる。言われなくても鮎美にも女性店員も同性愛者なのだろうと見当がついた。鮎美は目を伏せているけれど、店員からの視線を感じる。それは普通の同性からの視線ではなくて、コートに包まれた鮎美の身体やメイクの奥の顔を見ているような目線だった。店はカウンター席が15ほど、テーブル席が20ばかりで、少し踊れるような何もない場所もあった。音楽は控え目で、いい匂いがするので香を焚いているようだった。
「セリカ、こっちへ」
「…う…うん…」
詩織がカウンターに座ったので、鮎美も隣りに座る。バーテンがいて男性っぽいスーツを着ているけれど、スタイルは女性だった。
「お飲み物は、何にしましょう?」
「私たち下戸ですから、私はダージリンを、セリカはミルクティー?」
「…うん…」
関西弁を出さないようにと意識していることもあって鮎美は口数が少なくなる。そんな様子を詩織もバーテンも可愛く想った。
「お連れさん、可愛いですね」
「……」
「セリカ、誉めてもらえて良かったですね?」
「………べ……別に……」
ウィッグをかぶって前髪で顔を隠し、両サイドの髪も垂らして頬まで隠しているので、ほとんど顔貌は見えていないはずだった。バーテンが惚れ惚れするような手つきで紅茶を淹れている。一つ一つの動作がキビキビとしているのに女性的で美しい。
「ダージリンです、どうぞ」
「ありがとう」
「ダージリンのミルクティーです、どうぞ」
「おおき…っ…」
「はい?」
「…お……大きな……お店……ですね」
おおきに、と言いそうになったのを鮎美は誤魔化した。
「はい、ビアンバーとしては一応、老舗ですから。セリカちゃんはビアンバー自体が初めて?」
「………」
「失礼、セリカちゃんって呼ばせてもらっていい? 私は天蛾(てんが)って呼ばれてます」
「…は……はい…」
「お姉様の方は?」
「シオにゃんと呼んでください」
「クスっ、もしかして、シオにゃんが猫で、セリカちゃんがタチだったり?」
「っ…」
鮎美がビクリとすると、詩織が言ってくれる。
「セリカは、まだ経験が無いんですよ。私が口説いても、まだ怖いみたいで」
「………」
別に怖いわけやないもん、と鮎美は不服に想ったけれど反論はできない。
「きっと初めては今好きな、あの子がいいのかな。でも、あの子は絶対にノンケですよ」
「……」
見抜かれていて鮎美は完全に顔を伏せた。天蛾が興奮気味に言ってくる。
「可愛い……5年前の私みたい。絶対にバレたくないって、しっかり変装までして。でも、この世界に興味はあるんでしょ?」
「……」
答えられなくて鮎美はミルクティーを飲んだ。さらに天蛾が何か言う前に鮎美のスマートフォンが振動した。
「あ……ここ、……電話は?」
「小声ならいいですよ」
「……ちょ、…ちょっと出ます」
着信表示は鷹姫だったし、きっと話せば関西弁になる上、標準語で話せば、それはそれで鷹姫に不思議に思われそうで鮎美はバーを出た。
「もしもし、うちよ」
「お部屋におられないのですか?」
「う、うん。ごめん、黙って出て」
「今は、どこに?」
「え……えっと……ま、牧田はんが東京の下町を案内してくれるって」
「そうですか。ご夕食は、どうされますか?」
「あ……ごめん。……けっこう遠いところにいるから……ごめん…鷹姫、ごめん、一人で食べておいて、ごめん」
「わかりました」
「ごめん、ごめんな、勝手なことして」
「いえ、そんなに謝らないでください」
「夕食、何でも好きな物を食べておいて、うちが奢るから」
「いえ、出張の度にそれでは……。それなりのお給料をいただいておりますから気にしないでください。では」
そう言った鷹姫が電話を切った。
「……鷹姫……」
すっかり詩織の勢いに流されて、鷹姫へ伝言することさえ忘れていた自分が情けなくて涙が滲む。
「………」
店の前に立っていると、見知らぬ女性に声をかけられる。
「どうしたの? そんな顔して」
「っ…」
優しく慰める感じだったけれど、明らかにナンパで鮎美は店へ逃げ込んだ。
「…ハァ…」
「「おかえりなさい」」
「…うん…」
鮎美は冷めてしまったミルクティーを飲む。その背後で人が入店してくる気配があった。
「なんだ、相方いるのね」
さっきの女性の声だった。馴染み客のようで天蛾が挨拶する。
「いらっしゃい、朝槍(あさやり)先生」
「いつもの頂戴。ここ、いいかな?」
朝槍が隣席に座ってよいかと、鮎美と詩織に訊いてくる。
「…」
「どうぞ」
鮎美は答えなかったけれど、詩織はこころよく返答した。
「お邪魔するね」
「…っ…議員バッチ…」
鮎美は隣りに座った朝槍が薄い橙色のスーツに議員バッチを着けているのに気づいた。けれど、百人いる女性参議院議員の中にも、数少ない女性衆議院議員の中にも、朝槍という姓はいないような気がするし、国会議員の議員バッチとは違うように見える。あまり観察して、こちらの顔を見られたくないので、すぐに鮎美は顔を伏せた。
「あ、ごめん。政治家とか嫌いだった?」
「…い…いえ…」
「朝槍さん……あなたのお顔、どこかで……」
詩織も思い出せそうで、思い出せずにいると、天蛾が言ってくる。
「朝槍先生を知らないなんて、東京に来て日が浅いの?」
「はい、私は名古屋……いえ、北海道、セリカも北海道出身ですから」
「嘘っぽいわね。どっちかというと言葉の感じは西の方じゃない?」
「天蛾、詮索はやめてあげなよ。はじめして、私は朝槍那由梨(なゆり)、みんなはナユって呼ぶよ。朝槍先生でもいいけど。で、一応は東京都議です。ビアンってこともカミングアウトしてるから、この界隈では有名人よ。もし、都に住民票を移していたら、次の選挙は、よろしくね」
「都議でしたか……」
詩織が納得したように頷く。東京で生活している詩織にとっては、ときおりポスターを街中で見かけていたはずだったので、どこかで見た顔だと思ったのだった。朝槍はショートカットが似合っていて化粧気が少ない女性だった。大きめのイヤリングが目を引くし、ショートカットのおかげで形のいい耳も丸出しになっている。
「失礼ながら、どこの政党なのですか?」
「無所属よ」
「そうですか…」
「いきなり、そういう質問をするってことは、あなたも政治関連の? えっと…」
「シオにゃんです」
「…。シオにゃんのお仕事を訊いてもいい?」
「先月まで高校の教師をしていましたが、女子生徒に手を出したのがバレてクビです。幸い父が政治家でしたから、新聞には載らず、処分もなく依願退職で済みました」
「あ~……やっちゃったのね」
「よくある話ね」
「…」
よくあるんかい! 全部ウソやんけ! と鮎美は心の中で激しく突っ込んだ。
「で、セリカも学校を中退して私についてきてくれたの。ね、セリカ」
「…」
いやいや、さっき天蛾はんに話したことと整合せんやん! と鮎美は突っ込みたくて震えたけれど、天蛾の方は客が話すことの整合性は気にしていないし、そもそもセリカもシオにゃんも本名でないとわかっていて納得している上、天蛾もまた本名ではない。天蛾は鮎美の手を見つめて言う。
「どおりで肌がピチピチしてると思った。羨ましい」
「じゃあ、さっきの電話は、ご両親と?」
朝槍の問いに鮎美は困ってしまい、答えない。すぐに朝槍は察した。
「ごめんね、これ以上の詮索はやめるわ。でも、困ったことがあったら相談してね。都でも生活困窮者の対策はしているから、説明しにくい事情でも私が間に入ってあげるよ」
そっと朝槍は名刺をテーブルに置いてくれた。政治家が名刺を手裏剣のようにバラ撒くことは理解していても、今は朝槍の好意と真心を感じたので名刺をポケットに入れる。いつもなら、名刺を受け取るだけでなく自分の名刺もすかさず返すのに、今は架空の少女セリカなので黙って頭を下げた。
「はい、朝槍先生お気に入りのホワイトホーススペシャル」
「ありがと」
朝槍はウイスキーとテキーラのカクテルを一息に呑み干した。
「天蛾、話を変えて愚痴っていい?」
「どーぞ」
愚痴を聞くのもバーテンの主要な仕事なので天蛾は快諾する。
「眠主党も政権とって豹変するヤツがいてさ。なんだか、がっかりよ」
「お疲れ様ね。今日は何をしてたの?」
「また忘年会。企業団体がらみのが一段落したから眠主の内輪でやるのに呼ばれて行ったの。けど、行くんじゃなかった」
「ノンケの男とお酒飲んで話したら、どうなるかくらい予想つくでしょうに」
「予想はしてたけど、少しは期待もしてたの。総選挙前は、私たちの同性婚実現運動にも理解を示してくれてたのに、与党になったら憲法上慎重な検討を要するとか言い出してさ。あとはレズビアンって、どういう風に愛し合うのかとかエロ興味の、くだらない話ばっかり。って、愚痴いっても、しょうがないよね、ごめん。もう一杯ちょうだい」
「私もジンジャーエールをください。セリカは?」
「…」
黙って頷いたのでジンジャーエールが来る。グラスに注いだだけのジンジャーエールではなくハーブとライムが入っていた。朝槍が問うてくる。
「セリカさんはともかくシオにゃんは呑まないの?」
「下戸ということにしています。セリカが呑める年齢になったら、いっしょに呑みましょうね」
「クビになっても教師ね。まあ一人で酔っても、つまんないし」
朝槍は二杯目のカクテルは、ゆっくりと呑んでいる。鮎美も少し余裕が出てきて、店内を観察した。やはり女性客だけで男性はいない。そして、踊っていたりイチャついていたり、口説く相手を探していたり、黙ってスマートフォンをいじっていたりする。
「セリカさんの手、キレイね。触っていい?」
「ぇ…」
朝槍に問われて鮎美が固まる。あんた都議やん、たとえ手でも立場的にええの、と鮎美は混乱している。詩織が鮎美の肩を抱いてきた。
「ダメですよ、私のだから」
「シオにゃん、ケチね」
「ナユ先生、お相手は?」
「いるんだけど、私がカミングアウトしたことが原因で、ちょっとうまくいってなくて。あの子は目立ちたくないって……マンションから出なくなっちゃって」
「そうですか……それは気の毒に……」
「もともとおとなしい子だから。セリカさんも、あんまり話さないね。こういうお店、初めて?」
「…はい…」
圧倒されつつも最低限の返事はした。
「大事にしてあげなよ、シオにゃん」
「それは、もちろん」
「シオにゃんは次の仕事あてあるの?」
「お気遣いありがとうございます。大丈夫ですよ」
「なら、いいけど」
「…あ…あの…」
鮎美が口を開くと、二人とも黙って待ってくれる。
「…あの……ちょっと質問……しても……よいでしょうか…」
関西弁を封印してビジネスライクでもなく、女の子らしく話すとなると、インタビューを受けるより難しくて、途切れ途切れになる。
「いいよ、どうぞ」
「……あ…朝槍先生は、どんな気持ちでカミングアウトして……おられるのですか? そ…そして、それは都議選の前に……後に?」
「前によ。私は女性同性愛者です、そういう者が存在します。そして選挙に出ます。私たちは少数ですが、たしかに存在しているのです。無視しないでください、って気持ち」
「………あ、ありがとう、ございます……。あの……もう一つ、いいですか?」
「ええ、いくらでも」
「…同性婚は……憲法上可能やと……可能だと思われますか?」
「へぇ……そこに興味がくるわけね……セリカさんは身体より理屈で入る方かな……一応、私たちの勉強会は可能という結論にしているわよ。もっとも、私たちはセクマイの集まりだから、その結論が恣意的だとノンケに言われれば、反論しないといけないけど」
「どのような反論を?」
「基本的人権の本旨をかえりみれば、両性という文言にとらわれず解釈すべき、という反論」
「なるほど……」
「フフ、セリカさん、私たちの勉強会に参加する?」
「ぃ…いえ……」
天蛾が注文を受けていないのに、朝槍のカクテルグラスが空になっているので、国産ウイスキーをシングルで提供しながら言う。
「酔いが醒めるような会話してるわね」
「フフ、この子が欲しくて教師の立場を捨てた気持ちがわかるわ。シオにゃんは社会科の先生だったの?」
「さあ、どうでしょう」
「そう、詮索は無しってことね。じゃあ、セリカさん、他に質問は? 先生が何でも教えてあげるよ」
酔ってきた朝槍が顔を近づけてくる。鮎美は顔を伏せたまま問う。
「ライフイージス、命の盾の会、という団体は……、この界隈で…、どういう評判ですか?」
「命の盾……ああ、あの三島さんの?」
「はい」
「狭い世界だから知ってるけどさ………う~ん……評判かぁ……」
朝槍の雰囲気で鮎美が少し察する。
「あまり良くないんですか?」
「まあ……私たちは差別を無くすべき、という立場だから……色々受け入れるべき立場なんだけど……あの三島さんは色々な問題をごっちゃにしすぎなのよ。本人が同性愛者で性同一性障碍もあるってだけでも、ややこしいのに。お子さんが障碍児だったから、その差別とも戦うって気持ちは立派だけど、あらゆる問題が積み上げられた感じで、とくに出生前診断の問題は、健常者から見れば財政的負担が青天井に増えることが予想されるわけで、結果としてマイノリティーへの拒否感が強まると思うの」
「………」
「私たち同性愛者の同性婚を認めたところで、大きな財政的負担は生じないけれど、障碍者が増えるのは、それに見合う財源の確保がいるでしょ? それは徴税でまかなうか、国債で先送りするか、どちらにしても負担しなければならない。……って、バーに来て、こんな話をするとは思わなかったわ……もう一杯、そうね、セリカさんの髪が青いからブルーハワイをちょうだい」
「ブルーハワイね」
天蛾がカクテルを作る間、酔った頭脳で難しい問題へ回答をした朝槍は音量ゼロでついているテレビを見上げた。テレビは今年の世相を振り返っていて、鮎美も見上げると、そこに鮎美の姿が映った。朝槍が興味をもって言う。
「ちょっと音量あげて」
「はいはい」
天蛾が店内の雰囲気を壊さない程度に音量をあげた。
「どれだけ勉強しても足りんとは思いますけれど、全力で取り組みたいと決意しております」
言った覚えのある鮎美のセリフが流れてくる。朝槍がテレビを見上げながら言う。
「この子、この前、東京駅で見かけたわ」
「「……」」
鮎美と詩織は、そろそろ店を出ようかと考えるけれど、今出ると逆に怪しまれる気がした。天蛾がブルーハワイを置きながら言う。
「クジ運がいいだけで何の苦労もしないで、この子の年収600万って話よ」
「それは誤解、けっこう、この子は頑張ってるよ。ジリ貧の自眠が期待かけて磨いてるし、私も期待してる」
「朝槍先生が?」
「私の勘だけどね、このビアンだと思うの」
「え~……どんな勘よ。ただの願望じゃないの? 朝槍先生の好みっぽい顔だし」
「「………」」
「これ見て」
朝槍が自分のスマートフォンでネット上の動画を再生する。
「このときのインタビューのテレビで流れなかった部分なんだけどさ、ネット放送ではノーカットであがってるの。で、ここ見て」
「現在、交際されている男性などはいますか?」
「…………ノーコメント」
「どう? この感じ。それまでレポーターの質問へ女子高生とは思えないくらいそつなく答えてたのに、この質問が来た瞬間、顔をしかめたし、回答も拒絶してる」
「たしかにね……この感じだと、彼氏と別れた直後か、ビアンってとこかな」
「ノンケのレポーターが無神経に訊くから苛立った感じでしょ」
「あの人たちは女と男が付き合うのが当然って考えてるから、自分が無神経なこと訊いたことにも気づかないのよ。ま、私たちでない限り気づかない程度の証拠ね。私としても半々ってとこかな。彼氏と別れた直後でも、こういう反応はありえるでしょ。ノンケたちは、そう解釈してそうだし」
「きっとビアンよ。爪もキレイだし」
「それ完全に願望じゃん、っていうか妄想の領域」
「噂だけど、この子を獲得しようと眠主は10億円も積んだって話よ」
「10億も?」
「けど、自眠への義理を立てるって蹴ったらしいの」
「すごいわね……まあ、女子高生だと、お金の価値がわからなくて逆効果だったのかな」
「見てみたかった。知事室に誘われて10億で自眠から眠主にって言われて、この子が啖呵きって蹴るとこ! そういうときの関西弁ってカッコいいよね」
「………」
いやいや10億とか見てないし、ミルクティーごちそうになっただけやし、ホンマに噂って真偽テキトーで流れるなぁ、だいたい知事室に10億も持ち込んだら、どっちも贈収賄とか、贈与税とか、いろいろヤバいことなるやん、そもそもカバンに10億も入らんし、と鮎美は突っ込みどころ満載な噂話に辟易しつつ、もう顔をあげられないし、声も出したくないので、詩織の膝を指先でつついた。それで理解してくれる。
「そろそろ出ますね。ごちそうさま」
詩織が財布を出して会計を済ませる。鮎美は黙って会釈だけして天蛾と朝槍に背中を向けた。店の外に出ると、粉雪が降っていた。
「寒っ…」
「セリカ、お腹空いてませんか?」
「…うん…」
「別の店で食べましょう」
「うん……さっきの店の支払い」
鮎美がポケットから現金を出すと詩織は断る。
「おごらせてください」
「……おおきに」
「関西弁」
「……ありがとう、シオにゃん…」
「それにしても有名人ですね、あの芹沢鮎美って」
詩織が他人事のように言った。
「………」
「でも、真横にいても気づかないのですから、安心していいですよ」
「……生きた心地がせんかったわ…」
「関西弁、治りませんね」
「……。……」
鮎美は黙ってポケットへ入れていた朝槍の名刺を見なおした。ただ票集めのために配るだけの名刺ではなく、きちんと事務所の連絡先やメールアドレスなども書いてあるタイプの名刺だったので真心を感じる。
「………勇気のある人……」
「その彼女だって18歳のころは隠していたかもしれません。焦ることはないのです」
「…シオにゃん……」
「ここに入ってみましょう。私も初めての店ですが」
小百合の前庭という店名のバーへ、二人で入った。
「暑っ…」
「かなり暖房が強いですね」
「あ、いらっしゃい。どうぞぉ」
派手な化粧の女性スタッフが大きな声で言った。靴を脱いであがるタイプの店のようで下駄箱がある。店内はカウンターが5席、テーブルが二つ、そのテーブル席は掘りごたつ式になっていたし、絨毯が敷かれていて洗練されたセンスは無いけれどアットホームな雰囲気がある。二つのテーブルには先客がいたので詩織と鮎美はカウンターに座った。
「何にしますか?」
「夕食がまだなのです。何かおすすめはありますか?」
「今夜はママが出てて、私だけだから料理はできなくて。よそから仕入れてる冷凍だけど美味しいピザがあるよ」
「では、それを」
「お飲み物は?」
「ソフトドリンクはありますか?」
「それなら、そこの冷蔵庫から好きなの、取って。一つ300円」
そう言われたので詩織と鮎美はカウンター横にある冷蔵庫からウーロン茶の缶を取った。そして、どうにも暖房が強くて暑いのでコートだけでなく上着も脱いでハンガーにかける。詩織はキャミソール姿になり、鮎美は半袖になった。
「お客さん、うちは初めてだよね」
「はい」
「お連れさんは未成年?」
「お酒は呑ませられませんが、成人していますよ」
「しっかり顔を隠してるけど、実は芸能人だったり?」
「………」
鮎美は黙って首を横に振った。店内は狭いのに大きな鏡が沢山設置されていて、テーブル席の先客たちが深いキスをしていたりするのが、振り返らなくても見える。ピザが焼ける良い香りがしてきた。
「私たちが世間に顔を出しにくい趣味してるのはわかるけどさ、ここでは顔くらい見せてよ」
「……」
趣味ちゃうやん、指向やん、そこ大事なんちゃうの、と鮎美は思ったけれど口にせず、ウィッグの横髪を少しだけ掻き上げた。
チン♪
トースターが音を立て、焼き上がったピザを提供してくれる。
「「……美味しい…」」
期待していなかったのに意外にも美味しいピザだった。
「サンジェルノ・ド・ジバンのピザだから」
「「……」」
「あ、知らない? そこそこ有名店、行列できるくらい。あそこの女社長がバイでさ、旦那も子供もいるけど、うちのママとできてるから格安で仕入れてるの。ちなみに、私もバイ」
「私もです」
詩織が答えると、嬉しそうに微笑んできた。
「へぇ、私はカノン。本名は忘れちゃった」
「シオにゃんです」
「あなたは?」
「…セ…セリカ…」
「セリカもバイ?」
「う…うちは……わ、私は…………」
ビアンです、と言おうとしたのに声が出なかった。
「そんな緊張しなくていいよ。タバコ吸っていい?」
カノンが二人の食べ終わるタイミングで訊いてきたので詩織が鮎美を見てから答える。二人ともタバコを好きではないけれど、仕事柄よく男性たちの副流煙には慣らされてきたので不快さを忘れる術を身につけつつあった。
「どうぞ」
「二人は吸わない方?」
「はい」
「…うん…」
「じゃ、遠慮するよ」
そう言ってカノンは出しかけたタバコを片付けた。
「で、セリカの趣味は?」
「え………えっと………じょ……女子…だけ……です…」
今度は、かろうじで言えた。
「ビアンか、ビアンバーだしね。そう言えばバイバーって無いよね。つくったら、受けるかな?」
「…語呂が…」
語呂が悪いやん、と突っ込みたかったけれど、関西弁を封印すると、突っ込みにくかった。
「シオにゃんとセリカ、今夜これから、どうするの?」
「もちろん、ホテルに戻って楽しいことをします」
「あ、もしかして観光? 東京の人じゃない?」
「はい、北海道から来ました」
「っ…」
誰が道産子やねん! そのネタまだ引っ張っとるんかい! と突っ込みたいのを耐えた。
「ってことは常連にはなってくれないね。一期一会、せっかくだから三人で楽しいことしない? あと2時間で私の交替が来るからさ」
「「……」」
「2時間も待てないなら、ここで始めてもいいよ。どうせ、あそこの2組も、もう始めちゃってるし。裸にさえならなきゃOKだよ」
言われて振り返るとテーブル席にいた2組はキスだけでなく、お互いの手を相手の衣服の中に入れている。経験の無い鮎美にも、その手が股間の奥まで入っていそうなことはわかった。さきほどの店と違って、かなり管理は緩い様子で、あまり秩序を感じない。
「ね、私も混ぜてよ。シオにゃん、お願いだにゃぁ、その獲物を分けてにゃぁ」
「フフ、さて、どうしましょう。セリカ、二人がかりで可愛がってあげましょうか?」
「っ……」
鮎美が激しく首を横に振った。
「セリカが嫌がっているので、ごめんなさい」
「そっか……」
残念そうにカノンが諦めた。鮎美がポケットから一万円札を出してカノンに渡す。
「もう帰るの? セリカの顔、もっと見ていたかったな」
「……」
「2600円になりますね。無口なセリカがシオにゃんにベッドで、どんな声を出さされるのか、聴きたかったにゃ」
「セリカは恥ずかしがりですから。カノン、美味しいピザをありがとう。早々に切り上げて悪いのですけれど、他のビアンバーで、もう少し初心者向けというか、過激でないところを教えてもらえませんか?」
「それならゴールドラクーンかな」
「そこは、さっき行ったので」
「じゃあ、ゲイも来るけど、ソロモンの甘い夢は?」
「そこは……」
そこは詩織の行きつけだったので今夜は避けたい。
「セリカが男性のいるところは避けたいので」
「女子だけで初心者向けだと……あ、SSSがいいよ。カラオケもあって軽い感じだよ」
「はい、行ってみます」
カノンから場所を聞いてSSSという大きめの店に入った。そこはバーというよりダンスホールのような店で広くてピアノも置いてあった。
「セリカ、踊りましょう」
「え……でも……」
「見よう見まね、何か技術があるわけではないですよ」
ピアノ演奏に合わせるわけでもなく、女と女で手を取り合って揺れている。広い店には何十人と客がいたけれど、すべて女性だった。踊りながら詩織が言ってくる。
「隠すことも恥じることも無いのです」
「……シオにゃん…」
「こんなに大勢、自分と同じ人たちがいるというのを、この場で感じて、どうですか?」
「………安心……したかも…」
「良かった」
「シオにゃん……」
「ただ慎重に、あなた自身が傷つけられないように行動を選んでください」
「…慎重に……選ぶ……」
「世間は私たちにとって、冷酷で残酷で醜悪です」
「………」
「他人は他人の痛みに無関心ですし、人はそれぞれの欲望に夢中です」
「…………」
鮎美が黙っていると、詩織は踊るのをやめて抱きしめた。それからキスをしようとしたけれど、鮎美が戸惑ったので諦めた。
「セリカ、そろそろ帰りましょうか」
「うん……今日は……ありがとう、シオにゃん」
終電が無くなる前にホテルへ戻った。深夜、ホテルまで歩くと、鷹姫がホテル前にいて、変装している鮎美と詩織を見て、別人かもしれないと迷いつつも、体格や輪郭で判断して近づいてくる。
「芹沢先生ですか?」
「あ…うん……そう……ごめん……遅くなって……外で待っててくれたの……」
「どうして、これほど遅くなったのですかっ?!」
その詰問は鮎美というより詩織に向けられていた。
「少し社会見学をしていただいただけです。この時間帯でしか見られない世情もありますから」
「だとしても不用心です! こんな時間に!」
「置いて行かれて拗ねてるの?」
「そんな話はしていません! 芹沢先生の安全を考えるべきだと言っているのです! この愚か者!」
鷹姫は挑発に対して叱咤で応え、詩織は年下に本気で叱咤されて感情が動いた。
「鮎美先生は私が守りますっ!」
「深夜に連れ回して言うことですかっ! だいたい、その珍妙な姿は何ですかっ! 名実ともに参議院議員なのですよ!」
「たまには息抜きも必要でしょう!」
「…や……やめて……ケンカせんといて……うちが悪かったから……ごめん」
鮎美が歩道に積もりかけた雪へ涙の雫を落とすと、鷹姫と詩織が冷静になった。ホテルの客室に戻り、変装を解いて詩織は終電で世田谷へと帰り、鷹姫と二人になった。
「ごめん、ちゃんと言ってから、行けばよかった」
「いえ、もうよいのです。ですが、今後は注意してください」
「うん……気をつけるよ、ごめん」
「では、おやすみください」
鷹姫が出て行くと、一人になる。
「…………」
入浴しなければ、と思うのに気力が湧かない。冷たい身体のままベッドに横たわった。
翌日の12月29日、鮎美は発熱して東京の休日診療所へ受診していた。医師が検査結果を伝えてくる。
「インフルエンザではありませんね。ただの風邪です」
「よかっ…ゴホッ…ゴホッ」
「「よかった」」
そばにいた鷹姫と詩織も安堵した。
「お薬を出しておきますから、しばらく寝ていてください」
「はい、ゴホッ…1月1日までには治りますか?」
「ええ、おそらく」
東京に来た最重要スケジュールである新年祝賀の儀への出席は果たせそうだった。三人で待合室に戻ると、詩織が謝る。
「ごめんなさい、私のせいです」
「ちゃう…ゴホッ…うちが…不注意で…ゴホッ…」
「あなたのせいです。反省なさい!」
容赦なく鷹姫が言うと、素直に謝っていた詩織が黙って鷹姫を睨む。
「……」
「鷹姫…今日の予定は? ゴホッ…」
「健康であれば、改装された東京事務所へ行き、2、3組の訪問客を迎え、雑誌社が取材を願い出ていましたが、もともと年末ということもあり予定は少なく、どれもキャンセルしても問題ありません。どうか、お休みください」
「お休みされるにしても、さきほどからホテルを探しておりますが、どこも年末で満室です。ですから、私のマンションに来ていただけませんか? 客間もあります。看病するにしても、ホテルでは何もありませんし」
「「………」」
「少しでも早く横になられた方が良いです」
「…そやね……ほな……お願いするわ…」
タクシーを呼び、世田谷にある詩織のマンションへ三人で移動した。マンションは大きな玄関にコンセルジュが待機している高級マンションで、詩織が住んでいるのは39階の8LDKだった。高速エレベーターであがり、個別の玄関をカードキーで開けると、中に案内してくれる。中は24時間の冷暖房がされているようで暖かかったし、詩織は鮎美のために、さらに2度ほど気温設定をあげた。
「こちらです。どうぞ」
詩織が自分の部屋の向かいにあるドアを開けた。部屋のドアには、AYUMIというプレートがかけられていたので鮎美は計画めいたものを感じる。
「…あんた……うちを、ここに……」
「いずれ泊まっていただく日もあるかと思い、準備していました。こんなに早くそうなるとは思いませんでしたけれど。それが役に立ちそうで良かったです」
準備していたと言うとおり、ベッドも家具もそろっていて看病するにも十分だったので今は有り難い。ふらふらと鮎美は二人に支えられてベッドへ横になった。
「…ハァ…ハァ…」
「また熱があがってきているようです。牧田さん、体温計はありますか?」
「はい、すぐに」
詩織は自分の部屋から体温計をとってくると、鷹姫には渡さず、鮎美の胸元のボタンを外すと腋の下へ入れた。すぐに電子体温計が反応する。
「39.9度……」
「芹沢先生……ご気分は?」
「…そんくらい……平気や……心配せんでええ……ハァ……寝るわ」
ぐったりと鮎美は目を閉じた。今は制服ではなく詩織が変装のために持ってきたカジュアルな服を着ているけれど、このまま寝かせるのは身体に良くない。
「鮎美先生、パジャマがありますから着替えてください」
「…ハァ…」
鮎美は返事をしないけれど、拒否でもない。詩織はタンスからパジャマを出してきた。ちょうど鮎美の身体に合うサイズだった。
「脱がせますね」
「…自分で…」
自分で着替えようとしたけれど、指に力が入らない。もう判断力も無くなってきたので鮎美は身体を任せた。衣服と下着も脱がされて、新しい下着とパジャマを詩織と鷹姫が着せてくれた。
「ゆっくり、お休みください。何かあれば内線電話で呼んでください」
「早く良くなってください。何か欲しいものはありますか?」
「ううん……今は何も…」
そう言って目を閉じているので、詩織と鷹姫は部屋を出た。
「…………」
「…………」
詩織が黙ってリビングへ行くので、鷹姫も続いてリビングへ入った。部屋にいる鮎美へ声が聞こえないくらい離れてから詩織が言う。
「鮎美先生は私が看ていますから、宮本さんは東京事務所へ行って今後の準備などしていてもらえますか? 訪問客もキャンセルになったことですし、大掃除などしていてください」
「いえ、私は芹沢先生のそばにいます」
「……。私一人で十分ですから」
「こうなったのは、あなたが原因です」
「だから、私が責任を持って看病します」
「信用できないと言っています」
「………。では、勝手にしてください。言っておきますけど、宮本さんの部屋はありませんよ。泊まるなら、そこの床にでも寝てください。毛布一枚くらい貸してあげます」
「わかりました。ありがとうございます」
「え……?」
この子、今、本気でお礼を言ったの……いくつも部屋がある一人暮らしなのは見てわかるはずなのに……、ソファもあるのに床へ寝ろなんて言ったのに、と詩織は驚くけれど、道場の床で寝てきた鷹姫は違和感をもっていないし、あまり詩織からの悪意も感じていない様子だった。
「………」
「………」
「私は雑誌社に電話しますから、宮本さんは訪問してくださる予定だった石永先生の支援者へ謝りの電話を入れてくれますか?」
「はい」
二人で分担して予定がキャンセルになることを謝り、それが終わると、また沈黙になる。
「………」
「………」
「………」
「………」
しばらく沈黙が続いた後に鷹姫が鮎美のカバンを開けると、陽湖から渡された大学資料を取り出し、それを静かに読み始めた。
「………」
「……それは何の資料ですか?」
「芹沢先生が、ご友人から陳情を受けた大学新設に関する資料です。文科省への申請を手伝って欲しいとのことです」
「大学新設……そのお友達は、どんな人ですか?」
「同級生の生徒会長です。良い人なのですが、私には理解できない神を強く信仰されています。この大学も、その信仰を是とする大学です。芹沢先生とは半年前から同居されていて仲が良いのですが、あまり信仰の影響は受けて欲しくないと懸念しています」
「同居っ?! いっしょに住んでるんですかっ?!」
「はい」
「どうして、いっしょに住んでるの?!」
「……話すと長いですよ?」
「鮎美先生の生活は私も秘書として知っておくべきです! 教えてください!」
「それもそうですね。では、もともと私と芹沢先生が通っている高校そのものが、幸福のエホパというキリスト教系の学校なのです」
「幸福のエホパ……あの…」
「ご存じですか?」
「ええ、ドイツでも見かけましたし、フランスとロシアではカルト指定されていたと思います。どうして、そんな学校に鮎美先生が? あなたも」
「私の家から近くて便利だったのです。芹沢先生も同じ理由です」
「そんな理由で宗教学校に……私は大学からドイツで暮らしていたのですが、日本人の宗教感覚は、いい加減すぎますよ。普通、信仰していない宗教の学校に通わないものですし、親も通わせないものです。そんなことをしたら大問題になります」
「そうなのですか。それはともかく、私たちの学校では9割の生徒は、その宗教を信仰していません。けれど、ごく少数の生徒は強く信じています。その代表が月谷陽湖です。生徒会長……生徒信仰なにがし…総括…会長という正式名称もありますが、忘れてしまいました。ともかく代表です」
「その月谷さんが鮎美先生と同居を?」
「はい。学園の理事や校長からの手引きで芹沢先生が議員となることが判明してから、クラスも移籍し、強制的に隣席となり、私たちの島に引っ越しまでして接近してきたのです。それで近くに借家を借りていたのですが、あまり立派とは言えない借家で、お優しい芹沢先生は見かねて、いっそ同居するように言われたのです」
「そんな怪しい人と同居するなんて!」
「………身元は……、身元調査はされていません。ですが、悪い人ではないと感じます。強い信仰心をもっておられ、やや発言が意味不明であることもありますが、芹沢先生も仲良くされています」
「そんなことで、あなたはいいんですかっ?!」
「…………」
鷹姫が深く考え込む表情になった。
「…………やはり、芹沢先生が宗教の影響を受けるのは好ましくないです」
「そっちじゃなくて!」
ああもう! この子ノンケな上に、鈍すぎる! と詩織は苛立ったけれど、情報を得るために冷静になる。
「その月谷さんは鮎美先生と暮らしていて、怪しいことはされませんか?」
「されます」
「っ、どんなことを?!」
「島内すべての家に、怪しげなパンフレットを毎週のように投函されています」
「それは、あの人たち全員がやってることでしょ?! うちのポストにも入ってるから! そうじゃなくて! スキンシップとかいって、やたら鮎美先生の身体に触ったり髪を撫でたりしてませんか?!」
「………。そういったことは、どちらかといえば、芹沢先生が月谷へされ、彼女に迷惑がられています」
「それを先に言ってくださいよ」
詩織は興奮して喉が渇いたので紅茶を淹れる。鷹姫の分を淹れずに一人だけで飲もうかと迷ったけれど、それも大人げないので鷹姫にも淹れた。
「どうぞ」
「いただきます」
二人で紅茶を飲み終わると、また沈黙になった。
「…………」
「…………」
詩織が茶器を洗うために片付け始めると、鷹姫も手伝う。それから詩織は鮎美のために粥を作ることにした。弱火で米を炊きながら、鮎美のことが気になったので部屋の前まで行ってみる。
「…………」
寝ている様子で静かだったので、すぐにキッチンへ戻る。
「芹沢先生のご様子は?」
「眠ってくれているみたいです」
「何か手伝いましょうか?」
「いえ」
手伝いを断られた鷹姫は静かに資料を読んだり、予定を確かめたりして過ごし、夜になると毛布一枚を借りてリビングの床へ横になった。
「………」
「………」
本当に床で寝る気なの、そこにソファもあるのに、部屋だって鮎美先生のために用意した部屋以外にも客間があるのに、一言お願いすれば私だって折れるのに、何なのこの子、意地になってるの、それともバカなの、と詩織は寝る体勢になっている鷹姫を見つめて思った。
「………」
「………牧田さん」
「何ですか?」
「あなたは眠らないのですか?」
「もう寝ます! おやすみなさい」
詩織は床暖房を切ってやろうかと迷ったけれど、それをすると意地悪すぎて自己嫌悪に陥りそうなので24時間暖房はそのままにした。
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