第18話 12月21日 議員バッチ、不倫、通夜

 翌早朝、鮎美と鷹姫は党支部前の安価なビジネスホテルを日の出前にチェックアウトして、タクシーで井伊駅まで行き、始発の新幹線で東京駅に着いた。ホームに降り立つと、詩織が待っていた。秘書らしく栗色のスカートスーツを着こなしているし、腰まである明るい色の髪にスーツが似合っている。

「おはようございます、芹沢先生」

「おはようさん」

「おはようございます、牧田さん。これから、よろしくお願いします」

「はい、こちらこそ、よろしくお願いしますね」

 詩織と鷹姫が握手しているのを、鮎美は複雑な気持ちで見てしまい、すぐに目をそらした。

「牧田はん、話は伝わってるやんね?」

「はい。すぐに国会事務局へ向かいましょう」

「東京のこと、わかるん?」

「ジェトロに勤めていたとき、霞ヶ関がらみの仕事もありましたから」

「そうなんや……ふーん…」

「芹沢先生、今夜はお泊まりですか? まだ議員宿舎は間に合いませんから夜景がキレイなホテルを予約しますよ? それとも、私のマンションへ来てくれますか?」

 そう言った詩織が荷物を持っている鮎美の手を握ってきた。秘書としてカバン持ちをする動作のおまけで指をからめてくる。

「ぅ、うちらは日帰りなんよ! お葬式があるさかい!」

「そうですか、それは残念」

 詩織は荷物を受け取って、三人で東京駅から国会へと移動し、鷹姫が石永たちが用意してくれた書類を提出すると、係官から鮎美へ議員バッチが渡された。

「これが議員バッチなんや……」

 鮎美はバッチを冬制服の胸に着けてみる。真新しく金色に輝いている。

「………」

 それほど重くないのに、ずいぶんと重く感じたし、やたら大きくも感じる。

「………」

「よくお似合いですよ、芹沢先生」

 詩織が誉めてくれた。

「おおきに。鷹姫、どう? どう見える?」

「はい……普通だと思います」

「「………」」

「あ、……すいません……よく、わかりません。他の議員先生方と同じバッチですから、普通にそれでよいと思いますが……」

「ええよ、ええよ、鷹姫のそういうところ好きやし」

 そう言った鮎美が地元へとトンボ返りするために国会の敷地を出ると、マスコミのカメラに囲まれた。しまった、油断した、と鮎美が思っているうちに、鷹姫が前へと回り込んでくれるし、詩織もガードに入ってくれる。鷹姫は藩士が参勤交代の藩主を護衛するように、それ以上近づけば斬る、というような気合いを放っているし、詩織も穏やかでありながらも元ドイツ警官らしく鮎美の盾となるように立ってくれている。おかげでレポーターとカメラマンたちは一気に鮎美へ迫ることができなかったけれど、食い下がってくる。

「取材をさせてください!」

「もう議員ですよね?!」

「公人として取材を受ける義務があるはずですよ!」

 今までは議員予定者ということで、よほどの事件を起こすか、選挙活動などの公の場に顔を出さない限りは取材を自粛するということになっていたけれど、前任者の西村が亡くなったことで議員擬制された鮎美は取材可能対象になるようだった。カメラとマイク、フラッシュに囲まれ、鮎美は数秒ほど混乱したけれど、守ってくれている鷹姫の肩に手をおいて平静を取り戻した。

「取材をお受けします。ですが、地元で西村先生のお通夜がありますので10分だけ」

 鮎美が答えると、鷹姫と詩織は防御をやめて鮎美の左右に立った。女子高生2人とクォーターという組み合わせが絵になるのでフラッシュが目の眩むほど焚かれた。それでも三人とも堂々と立つ。すぐに女性レポーターが質問してくる。

「今のお気持ちを一言お願いします」

「……。覚悟はしていましたが、思ったより議員バッチを重く感じます。そして、これを受け取るのが早まった原因を考えると、………西村先生の想いというものも……少しはわかるつもりです」

「西村議員と親交があったのですか?」

「親交と言えるほどのものは…、正直、昨日、お見舞いで会ったばかりです。最期の時間に、私へ、これまでの活動のことを頼むと言われて」

「どのような活動ですか?」

「県南部にあった阪本城を含めた風景の保存についてです」

「18歳で議員となられたこと、どう思われますか?」

 レポーターたちは田舎の城跡など、まったく興味が無い様子だった。鮎美は追悼の想いを踏みにじられた気がしたけれど、平静を保って答える。

「重い責任を感じます。まさかとは思いますが、緊急事態があるときは参議院が緊急集会を開くわけですから。そのとき参議院が半数であれば、およそ百人で日本のことを決める、その責任の重さを考えると怖いくらいです」

「緊急集会は衆議院の解散時に緊急の必要があるときですが、次の解散はいつだと思われますか?」

「………。4年以内にあると思いますから、私の任期中に一度は来ると思います」

 ややズレた質問にも丁寧に答えていると、約束した10分が過ぎたことを詩織が告げてくれる。

「10分が過ぎました。芹沢先生は葬儀のため地元へ戻られます。道をあけてください」

「道をあけてください!」

 詩織と鷹姫が協力して歩道をあけてくれ、鮎美は東京駅へ移動できた。

「はぁぁ……ビビったわ」

「「すみません、予想すべきでした」」

 詩織と鷹姫が謝ってくれるけれど、鮎美は微笑む。

「ええよ、うちも失念してた。きっと石永先生らも慌ててたから思い至って忠告してくれることもできんかったんやろ。にしても、マスコミってすごいな」

「ええ、まったく。けれど、いきなりの取材攻勢でしたのに芹沢先生の落ち着いた対応は立派で、私は惚れ直しましたよ」

「っ、…」

 言われた鮎美はドキリとして多数のカメラを向けられたときより緊張する。詩織は微笑みながら言ってくる。

「お通夜に私も同伴してもいいですか? 石永さんは、まだ病み上がりですよね」

「鷹姫だけで大丈夫やし、新幹線がタダなのは、うちだけやから牧田はんは東京におって。これから東京事務所の準備もあるやろ?」

「はい。ですが、石永先生の東京事務所をそのまま流用するので、やることは少ないのです」

「そやったね」

「ご許可いただければ、少しは女性議員らしい内装に変えるよう指示いたしますが、どうされます? 実際、落選された石永先生の経費負担を軽くするのに貢献しているのですから、少しは芹沢先生の色を出しても文句は出ないはずですよ」

「……う~ん……ほな、石永先生の元秘書らと相談しながら進めてみたって」

 話しながら東京駅で駅弁を買い、再び二人で新幹線に乗った。クリスマス前だったので自由席は混雑していて、通常の指定席もいっぱいだったのでグリーン車を初めて利用する。もともと男性でもゆったりと座れるシートなので鮎美の身体だと、持て余すくらいだった。

「…………」

「…………」

 もともと鉄道に興味をもっている方ではないので鮎美も鷹姫もグリーン車に少しも感動せず黙って座っていると、通路の向こう側に座っていた男性が声をかけてきた。

「芹沢鮎美先生ですね?」

「え、はい、そうですけど……あなたは……うわっ、路上チューの…」

「…。あははっ、そういうアダ名で呼ばれると痛いなぁ……ははは…」

「す、すんません、つい……えっと……細い……太い……」

 慌てるあまり鮎美が相手の名前を思い出せずにいると、鷹姫が耳打ちしてくれる。

「眠主党の細野太志先生です」

「あ、そやった。失礼しました。細野先生」

 鮎美は細野とは当選直後に校長室で会っていたけれど、直樹と違い、鬼々島への上陸は島民に阻まれたし、総選挙前に不倫が発覚しているので、ちょうど鮎美を党へ勧誘するべき時期に、別の女性と熱心に会っていたタイミングになるので、竹村との会談をセッティングされた以後は接点が少なかった。

「いえ、こちらこそ急に声をかけて、驚かせて、すみません」

 そう言う細野の視線が、鮎美の胸に落ちてくる。それが乳房ではなくて胸にある議員バッチを見ているとわかるので睨みつけたりはしない。

「芹沢先生は少し早く任期が始まったそうですね」

「もう聞いてはりますか」

「永田町は情報が勝負ですから」

「………」

 情報勝負やのに不倫とか路上チューとか痛いやろなぁ、あかん、この人の顔を見てると路上チューのことしか思い出せん、この人かって衆議院議員なんや、うちみたいなクジ運と違て、立派なところもあって人物で選ばれて当選してるやろに、イメージが不倫しか無い、どんな人やったっけ、っていうか、うちに話しかけた目的は何やろ、と鮎美が不倫報道のことばかり考えていると細野も悟った。

「そんな顔をしないでください。自分も反省しています」

「そ…そうですか…」

 だいたい男って、どういう風に女を好きでいるんやろ、うちが鷹姫を好きなんと同じ感覚なんかな、おっぱい揉みたいとか、キスしたいって思うんかな、それとも子作りしたいって感じなんかな、男は女と性交できるわけやし、それがメインなんかな、と鮎美は政治家同士で話しているのに、政治のことに思考がいかない。不倫という行動をした男を間近に見て、男が女を、どう想っているのか、そればかりに気がいってしまう。

「やはり自分は嫌われていますかね」

「いえ……そういうわけでは……うちは男に興味ないし」

 思わず言ってしまったけれど、細野は浅い意味にしかとらなかった。まだ女子高生でしかない鮎美が男性に興味が無いというのはありえることで、そこを深く詮索する気はなかった。むしろ、単に一人の与党政治家として参議院の一席を占める鮎美と少しでも近づいておきたいという政治的に純粋な動機が働いているだけだった。

「芹沢先生の通っておられる学園に、自分も中学の頃は通っていましたよ」

「そ…そうなんですか……え? ってことは、信仰も?」

「いえ、それは。ただ近所の私立中学というだけで選び、高校は井伊東に行っています」

「井伊東? ……」

 そこって賢いんかな、アホなんかな、どっちやろ、と鮎美は悩む。鮎美たちが在籍している学園は中学高校がエスカレーター式の中高一貫教育で、学園中学に在籍していると、ほぼ無試験で高校に入れるものの、あまりに成績の悪い生徒は高校へあがれないし、かなり成績の良い生徒は公立の進学校を受験したりするので、学園外の高校へ行ったということは成績が中程度ではなかったことを示している。ただ鮎美は大阪出身なので県内の高校を名前だけでレベルを判断することができなかった。そっと鷹姫に訊いてみる。

「井伊東って、どんな学校なん?」

「県北部で一番の進学校です。剣道部もそこそこに強い、文武両道の優良校です」

「へぇ…」

「たいしたことは無いですよ」

 ありきたりな謙遜をした細野は確認するように訊いてくる。

「芹沢先生こそ、大阪で優良校におられたのに途中で移られているのは、やはりあの学園の信仰をもっていらっしゃるからですか?」

「いえ、信仰はまったくありません。転校したのは、父が鬼々島に住みたいと言い出して、それもええかな、と」

「そうですか。せっかく隣席になった偶然へ感謝して、もう少しお話しさせていただいてもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ」

 地元へ戻ってからの仕事は、お通夜への出席だけなので鮎美は細野へ頷いた。

「加賀田知事のお誘いを蹴られたそうですね。眠主党のどのあたりがお気に召しませんでしたか?」

「気に入らないということではなく、自眠党で頑張ると決めたので初志貫徹ということと、自眠党の人たちに恩義もありますから、それを守りたかったという仁義です」

「なるほど、そう言われると説得の糸口が無い」

「やっぱり、うちを口説く気で話しかけてきたんやね? …あ、失礼、つい本音を、すんません」

 鮎美が思わず本音でつっこみ、それを恥じて赤面した。

「ははは、面白い人だ」

「……すんません。年上相手に失礼でした」

「いいですよ。本当のことではありますから。今や、あなたの存在は喉から手が出るほど欲しい」

「……」

 鮎美は夏子が、手から触手が出るほど、と言っていたことを思い出した。夏子に言われると少しは心が揺らぐけれど、男性である細野に言われても何とも思わない。嫌悪感も無い。男という生き物が女を口説くということも、よくわからないし、男に口説かれるというのも、よくわからない、その先にイエスが無いので、まったく無意味な行動に思える。鮎美は、また政治のことではなく色恋のことを考えていたので頭を振って雑念を追い出そうとする。それを見て細野が言ってくる。

「芹沢先生は、お疲れですか?」

「いえ、大丈夫です。……細野先生が、うちと隣席になった偶然を感謝してくれはるんやったら、このさい、うちも細野先生に訊いてみたいことがあります」

「どうぞ、なんなりと」

 細野は余裕をもって頷いた。その胸には議員バッチがあり、スーツも決まっている。不倫報道という傷を負っていても与党政治家の幹部議員としての貫禄があった。

「…………」

 鮎美は前後の座席を見回した。グリーン車なので他の政治家が乗っている可能性は高いけれど、近くには見えない。そして細野が座っている席の奥は空席だった。

「そっちに座ってええですか?」

「…、どうぞ」

 瞬時に細野は密談だと悟った。鮎美が秘書の鷹姫にも聴かせたくない話をするのだと期待して奥の席へ移動する。鮎美は細野が座っていたシートに移った。これで小声で話せば誰にも聴かれずにすむ。

「……」

 鮎美が切り出し方を迷っている目をすると、細野は待ちかねて促した。

「お話というのは?」

「……とても失礼な質問ですが……」

「かまいませんよ」

「………不倫されるというのは、どういう気持ちでされるのですか?」

「っ……は…はは……」

 細野は癖になっている笑って誤魔化す笑顔になったけれど、鮎美は真剣に訊いてみたかった。

「好きになって結婚した奥さんがいて、それでも不倫するって、どういう気持ちでしはるんですか?」

「……うっ……うーん……」

 笑って誤魔化すのでは鮎美が納得してくれない目をしているので細野は困る。鮎美は重ねて問う。

「議員という立場も危うくなるやないですか。総選挙でも眠主党への風が無かったら危うかったと……大変失礼ですが思います」

「………」

 苦笑する細野の頬が少し震える。

「そこまでして、どうして不倫しはったんですか?」

「……………本当のところを訊かせろと?」

「はい、お願いします」

「それを訊いたところで自眠党に有利に働くことは何もないよ。あの件は完全に利用され尽くした。それでも自眠は負けた。今さら何も出てこないぞ」

「うちは、ただ男の人が、どういう風に女を好きになって、それで結婚までしたのに、また他の女を抱くっていうことの動機が知りたいんです。動機というか、気持ちというか、結婚した女性のことかって好きでいるわけでしょ? せやから離婚もしてない。ほな、なんで不倫されたんです? どういう心で?」

「…………」

「教えてもらえませんか? 政治抜きに」

「……わかったよ………君は、まだ女子高生なんだね、純粋な……。男と付き合ったことは?」

「ありません」

「だろうね」

「それと関係が?」

「あるよ。男っていうのはさ。………これ、ホントに政治抜きでオフレコで語るからね。そこ守ってよ。ここだけの話で頼むよ。どうせ、どこの男も同じような話をするけど、よそで細野が言ってたとか、漏らさないでくれよ?」

「はい、誓って」

 つい鮎美は陽湖のように真剣に頷いた。そういう雰囲気に細野も中学の頃には接したことがあるので信じることにした。

「男っていうのはさ、好きになった女性以外にも欲望を覚えるんだよ。ついつい、よそに目移りする。だからって、好きになった女性は、そのまま好きでいるし、そりゃ離婚する男もいるけど、離婚したくなくても、まだ奥さんを好きでいて、これからも奥さんと人生のパートナーでありたいと想っているくせに、ついつい、ちょっと若いキレイな子に惹かれたりするんだよ。それは、もう本能というか、どうしょうもない衝動というか、それは抑えるべきなんだけど、つい! つい! 気がついたら手を出してしまっているんだ! ものすごく後悔するくせに! そのときは欲望に突き動かされて止まらない! ただ……ただ、それだけだよ……」

「…………」

 なんや、それやったら、うちと同じやん、うちは鷹姫を好きやのに、つい陽湖ちゃんのお尻に触るし、カネちゃんにもスキンシップしてしまう、あかんとは想うのに、ついつい、やってまう、うちも男も同じなんや、と鮎美は拍子抜けしつつも納得した。

「そうですか……ありがとうございます。変な質問して、すんません」

「いや……いいよ……別に………」

 細野は話を戻して鮎美を眠主党へ勧誘する流れを作りたかったけれど、鷹姫が突然に立ち上がると、通路を歩いてきた男性の前に立ちはだかり詰問する。

「芹沢先生へ何か用ですかっ?!」

「っ…い、いや…何も! 何でもない!」

 男は慌てて否定したけれど、鷹姫が続ける。

「さきほども芹沢先生へ何か向けていましたね! 見せなさい!」

「何でもないって言ってるだろ! やめろよ! ぐっ、うわっ?!」

 男は抵抗しようしたけれど、鷹姫が柔道技で組み伏せると、ポケットから小型のカメラが出てきた。

「盗撮……、痴漢行為です、鉄道警察に連絡します!」

「ち、違う! 違うぞ! オレは取材していただけだ!」

 組み伏せられながらも男が自分の財布から名刺と身分証明書を出した。それを細野と鮎美に見せつける。

「オレは記者だ! 痴漢じゃない! 取材の自由を制限すると許さないぞ!」

「「………」」

 細野と鮎美は名刺を見た。よくある週刊紙の名があった。鷹姫が迷う。

「芹沢先生……どのように処置するのが良いですか?」

「うっ…う~ん……取材の自由と、列車内での盗撮って、どっちの法理が優先され……。というか、うちを撮ってたん?」

「ああ! お前、もう公人だろ!」

「………失礼な、ヤツやな…」

「もう上から目線か!」

「なんやて!」

「芹沢先生」

 細野が興奮しかけている鮎美の肩に手をおいた。

「こういう連中を相手に怒っても仕方ないよ。失礼も非礼もない。こういう生き物なんだ」

「細野先生……」

「不倫野郎が何を気取ってやがる」

「だとしても、総選挙で私は国民から信託をいただいた。この期待に全力で応えることをもって禊ぎとする」

「ちっ……くそ! 離せよ! 暴力だぞ!」

 舌打ちした記者は自分を組み伏せている鷹姫を睨んだ。

「…………」

 鷹姫は迷っているけれど、手の力は抜かない。細野が決めた。

「秘書さん、もう離してやりなさい」

「……。芹沢先生、どうされますか?」

「う~ん……細野先生が、そう言わはるんやったら、それでええんちゃうかな」

「わかりました」

 鷹姫が手を離した。

「くそっ、覚えてろよ!」

 凡庸な悪態をつきながら記者はグリーン車を出て行った。

「芹沢先生の秘書さんは見かけによらず強いなぁ」

「鷹姫は剣道日本一ですよ。きっと柔道でも、かなり強いはずです」

「いいボディガードだ。それにしても……」

 細野が言葉の途中で考え込むと、鮎美は言葉を引き継いだ。

「それにしても、覚えてろよ、ってリアルに言う人間がいるとは思わんかったわ」

「ははは……そこじゃなくてさ。秘書さんは、さきほども何か向けていた、と言ったよね。そのときもカメラだった?」

「おそらくは、そうだと思います。不審な動きをしていて、さらに、再び通りかかったので不審者と断定しましたが、記者だったとは……」

「そうか。撮られていたか……。けど、お互い、やましいことはない。芹沢先生と隣り合って座っていたのは、話があったからで、話の内容は眠主党への勧誘だったと、もし何かあれば正直に答えてほしい。それで、お互い問題ないはずだから」

「わかりました」

「オフレコの方は言わないでよ」

「はい、わかってますって」

 鮎美は元の指定席に戻って座り、その後は国政や県政について、細野の見解を聴いて時間を過ごしたし、年齢差が大きいので、だんだんと教師と生徒のような会話になり、眠主党が目指している新しい政治について鮎美は多少なりと好感をもった。井伊駅で細野は降りたけれど、鮎美と鷹姫は県南部の阪本市で行われる通夜に出席するので京都駅まで新幹線に乗り、在来線で少し戻って阪本駅で降りた。そこからはタクシーで西村の自宅へ向かい、その途中で鷹姫が気づいた。

「芹沢先生、香典と数珠が要るのではありませんか?」

「あ! そや! 運転手さん、コンビニに寄って! 鷹姫、香典の公職選挙法での扱い、もう一回、調べて」

「はい」

 コンビニで準備をしてから鮎美と鷹姫は西村家を訪ねた。ごく普通の一戸建てで、やや狭いくらいの家だった。そこに葬儀業者が提灯を設置し、西村の親族が受付をしている。

「「………」」

 鮎美も鷹姫も葬儀の経験はあったけれど、それは親に連れられて行くような形でしかなかったので、やや気後れする。

「こんなとき社会経験のある静江はんが居てくれたら…」

「そうですね……」

 とくに鮎美は真新しい議員バッチを胸に着けている。金で装飾されたバッチを着けたまま葬儀に参列して良いのか、それとも今だけは外しておくべきか、迷う。

「このバッチ……どうしようかな……隠した方がええかな?」

「……すみません……わかりません………。ですが、そのバッチは見せびらかすものではなく議員である自覚を持つものだと、石永先生らも言われていましたから……西村先生を引き継ぐという意味では着けている方が良いのではありませんか?」

「………うん……そやね。ほな、そうするわ。あとは作法と手順やけど……」

「あそこで香典を渡し、記帳するようです……おそらく」

 少し遠くから観察していると、近所の人々が受付をして香典を渡し、帳簿に名前を書いてから中へ入っていく。それを鮎美と鷹姫も見習って同じようにしてみる。

「この度は、ご愁傷様でした」

 鮎美が記帳すると、受付をしていた西村の息子が確かめるように顔を見てくる。

「オヤジの後に議員になるアユミちゃん? あ、失礼、父の後に議員に当たった芹沢さんですか?」

「はい。……この度はご愁傷様です」

「わざわざ来ていただき、ありがとうございます。病院でもお会いしましたね。父も最期に芹沢さんに会えて喜んでいたと思います」

「……」

 どう返答していいか、わからず、鮎美は困った笑顔で会釈する。鷹姫は付き添いなので記帳せず、香典を静かに差し出した。二人で狭い一戸建ての中に入ると、無理矢理に家具をどかせて場所がつくってあり、20人ばかりの弔問客が正座している。その奥には棺と祭壇があり、すでに遺影もできていた。その写真は癌になる前の元気だった頃の写真で参議院議員になったばかりの時期に写真屋で撮ったものだったので立派だったし、胸には議員バッチが光っている。

「………」

 鮎美は同じバッチをしている人が死んだということを、どう受け止めていいか、わからず目を閉じて頭を下げた。

「………」

 周囲から、かなり視線を感じる。それは鮎美の顔とバッチに集中している。いつまでも立っているわけにもいかないので鮎美と鷹姫はできるだけ詰めて正座した。座ってからも視線は感じたけれど、しばらくして僧侶が入ってくると読経が始まり、順々に焼香する。鮎美も焼香して遺影へ手を合わせた。

「……………」

 西村先生………、鮎美は会ったばかりの人が死に、その最期に少しは関わったことを想い、目を閉じて冥福を祈った。極楽浄土もキリスト教的な死後の楽園も、まったく信じていないので、ただ静かに眠ってください、としか想えない。それから、遺族の方にも頭を下げると、元の場所に正座した。鷹姫も同じように焼香すると手を合わせ、戻ってくるときには泣きそうな目をしていたので、鷹姫の母親が早世したことを鮎美は意識した。想い出したのかもしれない、と考えたけれど私語は慎み、戻ってきた鷹姫の手を握った。

「……」

「……」

 焼香が終わり、僧侶の読経も終わると、故人に縁遠い者から退席していくので鮎美たちも外に出る。

「「………」」

 静かに表通りへ歩き出すと、誰かが声をかけてきた。

「新しい議員の芹沢アユミちゃんですか?」

「はい、そうですけど…」

 ふり返ると、近所の人らしい中年の女性が嬉しそうな顔でサインと記念撮影を求めてきた。

「…………。わかりました。けれど、少し西村さんの家から離れてからサインだけ。撮影は、こんなときですから、すみません」

 うんざりした顔をしないように注意しながら鮎美はサインに応じた。他にも5人がサインを求めてきたので静かに応じて、鷹姫が拾ってきてくれたタクシーに乗った。ドアが閉まり、タクシーが動き出すと運転手には聞こえない程度の声で言う。

「こんなときにサインとか、どんな神経してるねん………アホちゃうか……」

「人は他人の死に無頓着なものです」

 いつも口数の少ない鷹姫が言った。

「鷹姫………」

「私たちだって、知らない人の死には無頓着です。今日、日本のどこかで誰かが交通事故で亡くなっていても、気にもしません。それが他国であればなおのこと、百人が虐殺されていても話題にさえなりません」

「…………」

「……すみません、余計なことを言いました」

「ううん。鷹姫が考えること、何をどう思うのか、知りたいから、いつでも好きなように言ってな。あんたは無口すぎるわ」

「………」

「ほら」

「………困らせないでください」

「ごめん、ごめん」

「これからの予定ですが、もう島に戻るのは難しい時刻です。明日も正午までには西村家へ告別式のために駆けつけなければなりませんから、阪本市内のホテルに泊まりますか?」

「え………あ、そっか…」

 鮎美は時刻と場所を考える。すでに21時近い。今から六角市に戻っても22時を過ぎるし、明日の朝には阪本市に戻ってこなければならないことを考えると、経費で宿泊しても問題ないし、その方が疲労も軽くすむ。

「そやね、どこか予約してみて。うちも、探すわ」

「はい」

 二人でホテルを探し、鮎美が琵琶湖岸にあるシティホテルを予約した。

「ちょっと高いけど、県内の観光資源も確かめておかんとね」

 高層階から琵琶湖を眺望できる人気のホテルに二人でチェックインした。客室に入ると気が抜けたように、ダラリと歩く。

「疲れたわぁぁ……」

「夕食は、どうされますか?」

「なんか食欲ないし、ええわ」

 性欲もないし、と鮎美はベッドに寝転がりながら鷹姫を見上げた。愛しいけれど、今は欲望も疲労のせいなのか、蠢かない。

「朝昼も駅弁でしたから、ちゃんと食べてください。健康管理も仕事のうちです」

「……う~ん……。もう、ここから出とうない」

 人目を意識して議員として振る舞うのも疲れるし、週刊紙などのマスコミまでいると思うと、外を歩くのが億劫だった。鮎美は議員バッチの着いた上着を脱いで、スカートも脱ぐ。ブラウスとショーツ姿になって外出を拒否しているので鷹姫が困る。

「今ならホテル内のレストランは開いていますが、すぐにラストオーダーです。私がコンビニで何か……いえ、もう少し健康的なものを……」

「議員って贅沢してるかと思ったけど、駅弁にコンビニ弁当、選挙のときはオニギリって意外と貧相な生活やなぁ………今夜の夕飯、どうしよ……ホテルのレストランなんて気張るとこ面倒やし………安い牛丼屋でも近くにないかなぁ」

 鮎美はブラウスまで脱いでから、ベッドサイドのテーブルにある冊子を開いた。そこには部屋の説明やルームサービスが記されていた。

「ルームサービスにしよ」

 経費でいけるかな、あかんかな、飲食は厳しいし、けど、ここに泊まったのは葬儀っていう交際費の対象になる行為やし、ええかな、けど、こういうところから活動費って感覚がゆるくなるんかな、どうしよ………、と鮎美は考え込み、静江ならともかく鷹姫に領収書を取ってもらうことになるので控えることにした。

「うちが私費で奢ってあげるし、鷹姫も何でも好きなもん、頼み」

「芹沢先生………」

「その呼び方、いやよ」

「鮎美………、たしかにコンビニのお弁当よりは健康的かと思いますが……ハンバーグとライスが3600円もします。……この頃、私は金銭感覚がおかしくなってきた気がします。西村家からホテルまでのタクシー代だけでも5000円を超え、このホテルも3万円……。そもそも東京まで、小さなバッチを受け取るだけに使った交通費も考えると………食事はともかく交通費と宿泊費は税金なのに………」

「………。うちも金銭感覚が、かなり庶民とズレてきた気はするわ。……」

 鮎美は下着姿でベッドに寝転がり天井を見上げながら、つぶやく。

「他の感覚も、だんだんズレてきたかも………西村先生が亡くなる直前……うちは、風景保存のことを頼まれて……わかりました、覚えておきます、としか答えられんかった。やるとは約束してあげられんかった。政治家らしい小賢しい言葉の逃げ方や……もう亡くならはるのは目に見えてたんやし、いっそウソでも、必ずやります、全力で取り組みます、って答えてあげるべきやったんかも」

「…………」

「……」

「…………」

「鷹姫は、どう思う?」

「………。たしかに、ウソでも確約されれば、より喜んでくださったかもしれません。けれど、死の間際にある人間は勘が鋭くなるとも言います。下手なリップサービスよりも、芹沢先生が覚えておく、とおっしゃったことは心からの言葉なのですから、それは伝わったと思います。ですから、あの場面では………おそらく、最良の解答をされたと考えます」

「………うん………おおきに……気が楽になったわ、ありがとうな」

 あんたの今の解答もベストよ、ありがとう、と想い鮎美は寝返り滲んでいた涙を枕で拭き、顔を埋めた。そうしていると疲労感が襲ってくる。人の死の重さと、まだたった一日だけ胸に着けた議員バッチの重さ、その二つの重さで心底疲れていて、鮎美はすぐに眠ってしまった。

「鮎美……眠ったのですか……」

 鷹姫も一日を振り返る。昨夜の忘年会を中座してビジネスホテルで眠ったのは0時過ぎ、なのに日の出前に起きて始発新幹線の中で仮眠したとはいえ、議員バッチの受け取りと不意打ちだった取材攻勢、他党幹部議員との会話、そして通夜、それらを考えると鮎美が疲労困憊して当然だった。

「お風呂にも入らず………でも、起こすのは……」

 迷ったけれど眠ってもらうことにして鷹姫は静かに鮎美の身体へシーツをかけると、自分も制服を脱ぐ。空腹を覚えていたけれど、朝になれば宿泊費に含みの朝食があるので今は我慢することにした。

 

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