第17話 十二月 過去と現在、うじくらべ、死去

 翌朝、ホテルから靖国神社へと移動した鮎美と鷹姫、静江の3人は畑母神と合流していた。以前に靖国神社へ来ることがあったら伝えてくれれば案内しよう、と言われていたので連絡しておき、昨日の今日で来てくれている。

「畑母神先生、急に連絡したのに、ホンマに来てくれはって、すんません」

「気にしなくていい。下野して、すっかり時間に余裕があるからね」

「せやけど、都知事選に出はるかもしれんのでしょ?」

「ははは、それについてはノーコメントと、しておこう。さ、行こうか」

 出馬を否定しなかった畑母神を加えて4人で靖国神社を参拝する。参拝の後に大戦時の遺品や兵器が展示されている施設に入り、畑母神は説明をしてくれながら鮎美たちに訊いてくる。

「毎年、閣僚の参拝があるか、ないか、報道される問題は知っているね?」

「「「はい」」」

「このことを第三国に売り込んで問題を大きくしたのは朝田新聞なのだが、問題の根幹はキリスト教にある」

「え? 文句を言うてるの、仲国と麗国ちゃいますの?」

「表面的には支那と朝鮮だが、キリスト教という邪教が世界に不幸をまき散らしているのだよ。これについて歴史を振り返って知っておいてほしい」

「は…はい」

 陽湖ちゃんを連れてこんでよかった、と鮎美は思いつつ畑母神の話に傾聴する。

「戦国期にポルトガルの宣教師たちが来日し布教を始めるも、後に禁教となったのは学校でも教えるが、歴史の見方として、鎌倉幕府では頼朝の子孫ではなく北条家が台頭し、元寇の影響もあるが短期に幕府が終わり、次にできた室町幕府も南北朝に別れ、なかなか安定せず、結果として戦国期に突入している」

「……」

 鮎美は鷹姫の方を見た。興味をもって聴いている顔をしている。静江は遠い昔のことに、まったく興味をもっていないけれど、話しているのが海上幕僚長だったこともある政治家なので礼儀正しく熱心に聴いている顔はつくっていた。畑母神が続ける。

「この戦国期を、ようやく家康の代で平定し天下太平となったわけだが、この時期において、まっとうな日本人なら内乱など起こしはしない。ところが、島原の乱が起こった。キリスト教に感化された者たちが首謀者となって。失敗には終わったが、これは一種の侵略行為なのだよ」

「そう言われると……そういう見方もできるかも……日本って国を、一つの身体やとみなすと、一部の細胞がキリスト教ってウイルスに冒されてたから、これを排除したって感じに。……戊辰戦争でも、フランスが慶喜に味方して内乱を長引かせようとしたって話もあるし」

「うむ、その通りだ! よく勉強している!」

「いえ、ときどき鷹姫が話してくれるので」

「なるほど、宮本さんは、よい秘書だね。過去の戦い方を知っていることは、未来を見るのに、きわめて重要だ。これからも芹沢さんを支えてあげてほしい」

「はいっ、もったいなきお言葉、これからも精進いたします」

「……」

 可愛い子だな、と思わず畑母神は孫の頭を撫でるように鷹姫のポニーテールを結っている頭を撫でそうになったけれど、最近ではセクハラと言われると立場が苦しくなるし、自分と鮎美の知名度を考えると、今しも左翼的な週刊紙が望遠カメラで狙っている可能性もあるので頷くだけにして話を続ける。

「侵略の常套手段として被侵略国の内部を分裂させるというものがある。このとき実利で釣る場合もあれば、信仰という便利な道具で人の心を釣る場合もある。ことにキリスト教は拡大を意図した邪教であるから、自らの侵略を正義としか感じていない」

「……はい…」

 ホンマに陽湖ちゃんがおらんで良かったわ、と鮎美は今でも毎週リーフレットを島内全戸に配布している陽湖のことを想った。彼女のような熱心な信者が長く島にいれば、いずれ信者が増え、もしかしたら島原の乱のような決起をするのかもしれない、という可能性を考え、畑母神の話にも頷けるものを感じた。とくに中世の領主であった大名にとって領民の一部が神道仏教から改宗し、欧州の教皇下にある唯一絶対の神を信じてしまうようになると、天皇から征夷大将軍という名目を受けて支配している体制に、ほころびが生じることになる。徹底した弾圧が行われたのも、自衛といえば自衛に感じた。

「幕末に開国で欧米が求めてきたのも、布教の自由と自由貿易であるが、自由という名目だが、実質的には国民精神の破壊と、経済の破壊にすぎない」

「精神と経済の……破壊……」

「国民精神と国家経済を破壊しておけば、後に武力制圧が容易くなるのだよ。もっとも一部のバカ者を除いて明治の元勲方はキリスト教になぞ染まらなかった。廃仏毀釈には少々やり過ぎの感もあるが、それだけ焦っていたということだ。その時期でも欧米が圧力をかけて求めてくる布教の自由を認めざるをえず、神道を保護して遇しながら仏教を冷遇しつつ、キリスト教布教を認めるという矛盾した政策をとらざるをえなかった」

「はい」

 そのあたりは高校の日本史でも習うので鮎美も、よく知っていた。

「江戸期の庶民教育の高度化と、厚い神道への信仰もあって現在でも国民に占めるキリスト教徒の割合は1%にすぎないが、逆に言えば100人に1人、国内に侵略者の手先がいるとも言える」

「…そうですね…」

 また鮎美は陽湖のことを思い出した。陽湖はキリストの愛を説いている自分たちが、侵略者の手先などと言われて、どう感じるだろうか、と想うと同時に論理としては畑母神が正しい気がする。

「では靖国の問題に戻るが、靖国に英霊が祀られていると信じているのは、科学的事実でも歴史的事実でもなく信仰だ。これに本来は第三者が文句を言うのは信仰の自由に抵触する問題のはずだと思わないかね?」

「っ、たしかに!」

「信仰の自由を憲法で押しつけたのは400年前からの侵略の流れにすぎないし、欧米人は公の場でも聖書へ宣誓するのに、我々には政教分離を押しつけている。支那人朝鮮人が我々の信仰を弾圧しても、欧米人は素知らぬフリだ。まあ、支那人朝鮮人たちも滑稽ではあるがね。我々が信じている英霊を、彼らもまた、そこにいると信じて妨害してくるのだから、無宗教を是とする仲国政府は神道など野蛮な盲信と蔑視し黙視すればよいのに黙っていられないし、麗国はかなりキリスト教に犯されている。ひるがえって我々は、いまだ2600年の信仰を守っているわけだよ」

「なるほど……勉強になりました。ありがとうございます」

「「ありがとうございます」」

 鮎美たちは靖国神社をあとにすると、国会議事堂へ畑母神の先導で移動した。そして議事堂内の食堂で昼食をとりながら鮎美が言う。

「案外、普通にカレーとか、うどんがあるんですね。もっと高級なもんばっかりかと思ってましたわ」

「ははは。国会議員というのは、ある意味では日本の頂点かもしれないけれど、経済的には金持ちばかりでもないよ。私も給料取りだったから資産らしい資産は退職金と年金だけだ」

 場所が場所なので他にも国会議員や政治関係者が多く、畑母神を見知っている者は少なくない、また鮎美や静江の顔も覚えられていたけれど、お互い食事中なので遠慮して声をかけてくる者はいない。カツカレーを食べている鷹姫が言った。

「芹沢先生、これで十分に豊かな食事だと思います」

「鷹姫……」

「うむ、そうだったな」

 山菜ソバを食べていた畑母神が感心したように頷く。

「この豊かさに慣れていると、つい忘れてしまうが十分に贅沢な食事だ。君たちの世代では知らないだろうが、北朝鮮が地上の楽園だと宣伝されていた頃、かの地の指導者が国民に約束したのは、白米と肉のスープだという話だ」

「お米とスープて……」

「それが最高の贅沢に聞こえる生活だったのだろう」

「結局、それも核ミサイルに変わって……、お米とスープは出んかったんかな。やったら、最初からミサイルを約束したら、ええやろに」

「う~む……ミサイルの方も約束していただろうな。そして、その公約は守られた、といえば守られたことになる。朝鮮戦争後、瀬戸際外交を繰り返しつつも、彼らの立場で見れば国民の安全は守られた」

「……たしかに、向こうの立場からすれば……向こうかって武装せな、落ち着かんやろし。こっちも9条あっても、武装したし…」

 鮎美が武力と平和について考えていると、トレーを持った若い男性が通りかかりに声をかけてきた。

「お久しぶりですね。芹沢さん」

「あ、西沢はん」

 やや懐かしいという感情さえ覚えた鮎美は、供産党の衆議院議員2期目となった西沢に挨拶して微笑む。

「お久しぶりやね。その節は、どうも」

「芹沢さんは、まだ自眠党に?」

「まだちゅー言い方はないですやろ。ソ連崩壊したのに、まだ供産党やってるやん」

「ははは、たしかに」

「…………」

 ソバを飲み込みつつ畑母神は二人の会話を聴いていて、一昔前なら乱闘になりそうな要素があったのに、二人ともお互いへ何の悪感情も持っていない様子なので時代の変化を感じていた。トレーに鷹姫と同じカツカレーを載せている西沢が問う。

「芹沢さん、ごいっしょしてもいいですか?」

「えっと…」

 鮎美は年長者である畑母神へ視線を送る。畑母神は鷹揚に頷いた。

「供産党の議員先生とテーブルをともにする機会は、めったとない。さ、どうぞ」

「ありがとうございます」

 西沢が座ってカツカレーを食べ始めると、静江と鮎美は彼が左手の薬指に指輪をしていることに気づいた。おそらく以前は無かった気がする。静江が好奇心で訊いてみる。

「西沢先生、ご結婚されたんですか?」

「ええ」

「いつ頃?」

「総選挙の後に」

「それは、おめでとうございます」

「静江はん、笑顔やのに、なんか怖い顔になってるで」

 鮎美が余計なことを言うと、静江が笑顔で睨んでくるので目をそらして西沢を祝う。

「そうやったんですか、おめでとうさんです」

「うん、ありがとう」

「電撃結婚やったん? ぜんぜん報道された気配ないけど」

「一議員が普通に結婚したくらいでは報道されないですよ。電撃かどうかは……三年くらい前から付き合っていたんですけど、妊娠しているのがわかって、それで入籍だけして。今は忙しいので来年の通常国会が終わってから挙式しようと」

「ふーん……妊娠か……なんや、うちには縁遠い世界に思えるわ」

「そんなことないですよ、芹沢さんのような可愛らしい人なら、いくらでも…あ、いえ、こういうことを言うと最近はセクハラになりますね、失礼」

「男も大変やね、最近は窮屈そうで」

「「ははは…」」

 西沢と畑母神が軽く異口同音して笑った。お互い公人男性として発言には気をつけなければならない身分というのは実際に窮屈だったので自嘲した笑いだった。

「芹沢さんは今日は何をしに国会へ?」

「もう来月から任期が始まるし、見学に」

「それは良いですね」

「そういえば、供産党と眠主党って連立政権したりするん?」

「…ははは…」

 笑って間をとる西沢を、畑母神が可笑しそうに本当に呵々と笑った。

「ははは! 若さゆえの率直さ、見ていて愉快だよ!」

「え……うちはなんか、あかんこと訊いてます?」

 わかっていない鮎美に静江が言ってくれる。

「今、その問題は国会で一番、微妙で慎重で難しい問題なんです。訊いても西沢先生も答えられないし、まだ答えも決まってないかもしれないんですよ。何の前置きも無しに訊くのは、失礼ですよ」

「そうなんや……それは、すんません」

「いえ、お気になさらず。そういう率直さは、これからの政治に必要なのかもしれない。密室で決めていた時代から、よりオープンな時代に」

「ほな前から訊いてみたかったんやけど、もし供産党が単独で3分の2以上あったら、やっぱり日本を供産主義化するん? 私有財産は憲法で保障されてるやん、そのあたりは、どうなんの? 自衛隊も解散させるん?」

 高校生らしい率直な質問に、西沢は眼鏡を指で持ち上げてから理知的に答える。

「もし、単独で3分の2という結果になるなら、その直前の総選挙で、どういう公約をあげていたかによると思いますよ。半世紀前の日本供産党と、今の我々では、やはり考え方も少しずつ変わってきていますし、それは自眠も同じです。また、さらに半世紀後は、より考え方も変わっているでしょう」

「ふーん……変化はするんや……ほな、今のところは?」

「今現在で言えば、やはり企業の横暴が目につきますね。経団連が推す自眠が零落して、連合が推す眠主があがってきたのは、そういう民意のあらわれでしょう。我々も躍進しました」

「たしかに……」

「………否定はできないな」

 畑母神も右派で保守的な方向性をもっているものの、もともとは自衛隊員というサラリーマンであったので西沢の言い分もわかる。二人が理解を示すと、西沢は勢いをえてカツカレーより熱く語る。

「大企業の横暴はひどいっ。とくに企業の内部留保が増加しているのに労働者の賃金が下がっているのは、搾取以外のなにものでもない」

「そやけど、もし自分が大企業の経営者やったとして、政府が内部留保に課税してくるとか、強引に内部留保を吐き出させるみたいな政策をとったら、それはそれで何か対抗策をこうじるんちゃうやろか。お抱えの税理士やら弁護士を使って。国際的に資金を飛ばしたりしよらん? しかも、飛ばした先が必ず信用できるとは限らん、その企業が外国業者に騙されて、お金だけ取られても主権がおよばんかったりするから司法的に解決することもできんかったりするやん。徴税権がおよばんちゅーことは、そういうリスクがあるちゅーことやし、泣き寝入りすることになるわな。表にできんお金なんやから、訴え出ることも難しいもん。そういう怪しげなところに日本の金持ちのお金が流れるのは、国民全体としても損ちゃいます?」

「………芹沢さん……もう完全に女子高生ではなくなってますね」

「誉められた思とくわ。ほんで実効性ある内部留保の吐き出させ方、あるん? そもそも、それは正義なん?」

「正義ではあると考えます。もともと、さきほど言ったとおり労働者の賃金は買い叩かれて低下しています。にもかかわらず企業は過去最高益をあげている。これは正当な分配がなされていない証拠です。これを是正してこそ正義です」

「……そやね……たしかに正義や。買う方は買い叩きたいし。労働者には労働しか売るもんがないから叩かれる」

「資本主義は本質的に労働者への搾取を行う性質があるのです」

「せやから修正資本主義として社会保障を充実させてるのが現状やん。ところが、財源である課税が法人は税理士を使こてチョロチョロ逃げよる。…。源泉徴収される給料取りは逃げようもない。うちも経費を使うってことを少しは実感として体験して勉強したけど、ここに来る交通費が経費なんは国民感情としても納得できるやろけど、なんぼ自社が稼いだお金でもわざわざベンツやらの高級車を社長連中が経費にしよるのは納得いかんやろ」

「そう! そうなんですよ!」

 我が意を得たりと、西沢が拳を握る。

「課税がね、まったく不平等なんですよ! ちゃんと金持ちから取るべきなのに今は中流以下の人たちから徴収してばかりだ! こんなことではいけない! とくに消費税はひどい! あれは累進課税の逆をいっている!」

「せやね、社会保障を維持しようとしたら、結局は累進課税を保たんと、どうにもならん。金持ちは、ますます金持ちになるし、貧乏人は、どんどんジリ貧や。自助努力いうても最低賃金では、どうもならん」

「うん、うん、やっぱり芹沢さんは、わかってくれてるなぁ。あなたは自眠にいるような人じゃないですよ。今からでも供産党に来てくれませんか? 大歓迎です」

「お誘いは、おおきに。けど、うちはコロコロと寝返るような生き方は嫌なんよ」

「そうですか……けど、芹沢さんと国会で会うのは楽しみですよ」

 西沢が握手を求めてきたので鮎美も応じた。食後には西沢と別れ、閉会中の議事堂内を見て回る。静江が説明してくれた。

「まず正面から向かって左側が衆議院です」

「「……………」」

 鮎美と鷹姫は、その目で初めて衆議院の議事堂内を見た。テレビや教科書などで見たことはあるので、驚くようなことはない。少し前まで衆議院議員だった畑母神が言ってくれる。

「議長席から見て右側から与党が座り、以降は政党の議席数順に左へと座っていくから、少数だった私たちは、いつも最左翼を守っていたよ」

「最右翼政党やのにですか」

「ははは! さすが、大阪出身だね。つっこみが速いし遠慮ない」

「すんません、つい反射的に」

「芹沢先生、次に参議院をご覧ください。こちらへどうぞ」

 静江が反対側へと誘導してくれる。中へ入ると、鮎美が衆参の違いに驚いた。

「えらいガランとしてますやん。衆議院の方は所狭しって感じやったのに」

「はい。もともと衆参ともに最大議席数635で設計されたのですが、参議院をクジ引きで選ぶことになり衆議院を1200議席としたので、机や通路も狭小化して無理矢理に改築しましたから衆議院は、とても密集して座ります。逆に参議院は、人口最少県を1議席とし、その最少県の1.5倍の人口がある県から2議席で半数改選があり、3議席の県となるには3倍の人口を要しますから私たちの県も140万人で2議席県、芹沢先生と雄琴先生の2名のみです。そして人口の多い東京などは1300万人を最少県の59万人で割りますから22議席があります。それでも2位の神奈川は15、大阪も15、愛知埼玉も12で、総計すると現在は203議席しかありませんから、以前の参議院に比べると、とても空席が目立ちます」

 参議院の内装は改築されておらず635席可能なところ203席しか利用されていない様子で寂寥感さえあった。

「勉強してはいたけど、こうやって見ると参議院はオマケにすぎんってモロに出てるなぁ……実感するわぁ」

「たしかに二院制を廃して一院制にする布石とも言われていますが、逆に1200分の1という存在と203分の1という存在は6倍からして重みが変わってしまいます。それは参議院を無視して強行採決するには3分の2を要するということを考えたとしても、参議院議員1人の重みは大きいのです。とくに今回の半数改選で101人のうち81人が続投を希望しながら国民審査を通ったのは56人、不信任となったのが25人で他に20人が続投を希望せず、合計45人しか新たに選出されなかったうちの一人が芹沢先生です」

「そうやったね。うちの前任者は胃ガンで辞退やったかな」

「はい。さらに改選組のうち5人が自眠から眠主へ、そして6年任期だった雄琴先生を含む9人もが総選挙前後に自眠から眠主へ流れてしまい、新たな参議院の議席数は自眠59、眠主90、供産18、活力3、無所属33という状態になっています」

「かろうじで眠主の単独での過半数は無しやけど、供産と組めば過半数かぁ」

「このさい眠主から分裂した活力が加わっても過半数でないということが救いですが、無所属が、どう動くかで本当にわからないのです」

「せやね」

「なにより新たに選出された45人のうち自眠に入ってくださったのは芹沢先生を含めて11人だけ。私たちにとって、どれだけ芹沢先生が貴重な存在か、わかってくださいね?」

「わかってるって。……まあ、そう言われると、うちみたいな小娘に谷柿先生や久野先生が会ってくれはる重みも感じるわ」

 鮎美は大変な時期に自眠党の議員になるという実感をあらたにしつつ、国会議事堂の見学を終えて新幹線で帰る。その途中、新幹線が静岡を過ぎたあたりで鷹姫が小声で鮎美に問うた。

「お昼に西沢先生と話されたおり、芹沢先生の国際的な共同歩調での通貨発行増による実質的な課税案について説明されなかったのは、なぜですか?」

「あ、気づいてた?」

「はい。一瞬、迷うような表情をされてから口をつぐまれましたから」

「よう見てくれてるね」

 鮎美は二つ、言いそうになって黙ることにした件があった。一つは鷹姫が察した件で、もう一つは大企業や大金持ちに限らず、玄次郎のような小規模自営業主もサラリーマンと比べれば、はるかに税を逃れていることだった。後者については口外しないことは父との約束でもあるし、もともと自営業主に税逃れがあることは公然の事実でもあり、また供産党でさえ、眠主商工会とのからみで個人事業主への課税には積極的でないと、もう鮎美は勉強していたので言わずにいたのだった。

「芹沢先生の案は素晴らしいと思います。供産主義者が、どう感じるか、私は興味があったのですが、あえて黙られたということは今はまだ秘密にされるということですか?」

「そやね、それもあるし、その課税案の名称もないから、語るには長くなるし。まあ、消費税でも仕組みを語り出したら、めちゃ長い上、うちの中でも固まってないプランやから、もう少し練ってから他人に話すわ」

「わかりました。あとで石永さんにも口外せぬよう言っておきます」

 鷹姫と鮎美が見ると、静江は座って眠っている。

「静江はんには、あえて何も言わんでも、ええんちゃうかな。そんなに興味はもってない感じやったし、逆に秘密って言うと、石永先生へ話しそうやし」

「たしかに……ご賢察です。味方といえど、知らせぬ方がよいことはありましょう。敵を欺くにはまず味方から、とは有名すぎる故事ですから」

「はは…」

 ふと鮎美は鷹姫へも話していないことが自分にあるよう、鷹姫にも自分へ話していないことがあったりするのかもしれない、と思った。鮎美は玄次郎の件と自分が同性愛者であることを黙っている。玄次郎の件は年月が過ぎれば漸次時効となっていくし、たとえ発覚しても鮎美の立場に大きく影響することはないと予測できる。けれど、同性愛者であることは年月で変わることではないし、きっと鮎美の立場に大きく影響する。それでも鷹姫には言えずにいる。言ったときの反応が怖かった。それと同じように鷹姫にも何かあるとすれば、二つ気になっていることはある。

「……」

「……」

 一つは継母、郁子との関係、ありがちなことに前妻の子として継母から冷遇されているのではないかと心配して、鷹姫が道場で寝ていると聞いてから、それとなく様子を探ったり、島の婦人会の女性たちへも遠回しに問いかけたりしていたけれど、杞憂だったようでイジメられている事実は無さそうだった。そして所詮は女子高生に過ぎない鮎美の問い方では遠回しにしたつもりでも婦人会の女性たちは真意を見抜き、そんな心配はしなくていいと笑い飛ばしてくれた。すでに鷹姫をイジメようにも、生活の大半は学校と党支部で過ごしているし、鮎美といっしょに外泊することも多い。そして、今や鷹姫は一家の大黒柱であって、給料を家計へ入れている。よほど郁子が愚かな女でない限り大丈夫だと思えたし、万一そんなことがあれば以前に提案したように六角駅そばにマンションでも借りて、いっしょに住めばいい。

「……」

「……」

 あと一つ、気になるのは許嫁の岡崎が四つも年下なことだった。鷹姫が24歳のとき岡崎は20歳ではあるけれど、今は高校3年生と中学2年生でありバランスが悪い。鷹姫が高校生になったとき、まだ岡崎は小学生だった。島で許婚を決めておく風習を、鮎美も居住期間が長くなってきたので知るようになってきたけれど、だいたいの組み合わせで年齢が近いし、歳の差があっても男が年上であるケースばかりで逆は鷹姫と岡崎しか聞いたことがない。たまたまなのか、何か理由があるのか、気になっていても訊く機会を逸していたし、鮎美にとって許婚のことは考えたくないことでもあったので、今も問う気持ちになれなかった。

「鷹姫……」

「はい?」

「寝られるときに、寝ておこか」

「はい」

 二人とも目を閉じて井伊駅まで眠った。

 

 

 

 本格的な寒さが到来した12月20日、鮎美は求められて病院へ見舞いに来ていた。

「胃ガンかぁ……どのくらい悪いんやろ?」

「どうでしょう……」

 問われた鷹姫も困った顔をしている。静江がインフルエンザで寝込んでいるので二人で面会に来たのは70歳になる西村広松のところへだった。鮎美の前に参議院議員となったものの闘病のため3年の任期を終えると、続投を希望せずに引退を決めている。その西村から会いたいと連絡があり鮎美は、かねやの菓子と花を持って見舞いに来ている。

「4階のE11やね」

「はい」

 鷹姫と二人で病院のエレベーターに乗り、廊下を進む。

「…………お年寄りばっかりやね…」

「そうですね………」

 廊下には車イスに座った高齢者が何人もいて、ぼんやりとしている。鮎美たちが通っても、とくに反応することもなく、ただ座っている。

「「…………」」

 鮎美と鷹姫は病気で入院している高齢者たちの前を静かに通り過ぎ、目的の病室に辿り着いた。そこは個室でネームプレートに西村広松とあったので間違いなかった。鮎美がノックをして入室してみる。

「こんにちは、芹沢です」

「やぁやぁ、よくぞ来てくれやったね」

 病室のベッドに寝ていた西村は声を絞り出して歓迎してくれたけれど、一目見て鮎美にも鷹姫にも病状は思わしくなく医学的な知識はないけれど、この老人が近いうちに他界するだろうことを感じた。それほど西村は痩せていたし、もともとは農業に従事していたのか、日焼けした褐色の肌をしてるのに、それが血色の悪さでドス黒く見える。声も必死に絞り出しているという感じの、しゃがれた声だった。

「すまんね、年寄りのワガママで呼び出して」

「いえ…、お身体、大事にしてください」

 鮎美がもってきた花を渡そうと思うものの、西村はベッドから起き上がる力も無いようなので迷っていると、西村は微笑みをつくってテーブルに置いてくれるよう頼んだのでそうして、鷹姫も菓子を置いた。

「どうぞ…お口に合えば、よいのですが…」

「ありがとう」

 そう言って咳き込んだ西村は話す体力も少ないことを悟っていて、すぐに本題へ入る。

「いきなり頼み事をして、すまんけんど、話を聞いてくれるかい?」

「はい」

「ワシが議員となって手がけておった町内の風景保存会のことでな」

「風景保存会ですか…」

「……」

 鮎美は聞いたことが無かったし、鷹姫は後のために無言でメモを取る。

「阪本市に阪本城があったのは、知っておるかい?」

「……いえ」

「はい、知っております。明智光秀の城であったと」

 県民となって一年と経たない鮎美は知らなかったけれど、鷹姫は城主まで知っていた。西村が目を細めて喜ぶ。

「あの城の遺構を保存してのォ、観光資源として人の集まるようなキレイな場所にしておるところなんじゃ。けど、ワシがおらんようになったら行政が振り向いてくれんかもしれん。頼むわ、どうか、風景保存会のことを覚えておって、予算をつけちゃってほしいんじゃ。阪本の城下町を人々が訪れるようなええとこにしたい。琵琶湖の中にまで続く石垣の痕跡も利用してな。六角市に古い堀があって琵琶湖から市街地まで水路が続いておるのは、知ってくれてるかい?」

「「はい」」

 その水路は登下校に利用しているので毎日のように見ている。

「ああいう風情あるところにしてな、京都まで通じる疎水を観光舟で行き来できるようにしたいんじゃ。頼むわ」

「わかりました。覚えておきます」

「すまんな、ワシは無所属やったから、あとを頼めるもんが、たまたま後任になる芹沢さんしか思いつかなんだ。3年やってきて経験から思うたが、無所属でやれることは、ほとんどない。芹沢さんは自眠じゃったね」

「はい」

「煩わしいことも多いじゃろし、屏風と商人は直ぐでは立たぬというようなこともあるじゃろけど、短気は損気やと思うて頑張ってくださいや」

「はい、ありがとうございます」

 そこまで話した西村の咳き込みが止まらなくなったので看護師を呼び、容態が悪化した様子だったので心配だったけれど、駆けつけた看護師に病室から出るよう言われたので廊下で待つ。

「…………」

「…………」

 鮎美と鷹姫が静かに立っているそばを看護師たちは慌ただしく出入りしている。二人が帰るべきか、待つべきか、決断できずに時間を過ごしていると、看護師から連絡を受けた西村の息子が会社から直行してきた。少しばかり挨拶を交わすと、あとは家族に任せることにして鮎美と鷹姫は病院を出る。

「……寒いわ…」

「そうですね」

 外は寒かった。

「贅沢やけど帰りもタクシー使う?」

「芹沢先生が風邪をめされると困りますから、そうしましょう」

 病院から駅までは遠いし、港までは歩ける距離ではない。二人はタクシーで港へ向かった。その途中で鷹姫の携帯電話に連絡が入った。

「はい、もしもし。芹沢鮎美の秘書、宮本です」

 少し話した後、鷹姫は携帯電話を鮎美に向けた。

「東京で新たに秘書となる牧田さんから、ご挨拶したいと連絡が入っています」

「あの人か…」

 詩織を秘書とする方向で話が進んでいたので鮎美は驚かなかったものの、少し戸惑いつつ鷹姫の携帯電話を耳にあてた。

「もしもし、うちです」

「牧田詩織です。この度は私を秘書にしていただき、ありがとうございます」

「……久野先生に推薦されたら断れんよ」

 思わず本音が出た。

「東京での業務はお任せください。まずは着任のご挨拶をさせていただきたいと連絡をさしあげたのですが、芹沢先生の方から秘書業務にあたって注意すべき点や心構えなどありましたら、ご教授願いたく存じます」

「注意すべき点かぁ………やっぱり、お金の管理かな。とくに変な団体から献金とかもらわんように。あと、経費の使い方も恣意的にならんように」

「はい。変な団体の基準ですが、春の会や春風会は変な団体に入りますか?」

「ぅっ……微妙に、あれがギリギリのラインやと思うて」

「はい」

「ほな、あとは東京で、よろしゅうお願いしますわ」

「はい、こちらこそ、よろしくお願いします。芹沢、鮎美先生」

 詩織は姓と名の間に、わずかな間をおいて呼んだ後、電話を切った。

「はぁ…」

 鮎美がタメ息をついていると、タクシーが港に駐まったので連絡船で島へ戻る。

「これから島の忘年会やったね」

「はい」

「……お酒も入るし……わずらわしいわぁ……西村先生が無所属やったん、わかるわぁ。次から次へと付き合いばっかり。しかも酔っぱらって、うざいし」

「飲酒を禁じましょうか?」

「それは絶対に不評を買うからやめておこ」

「はい。………飲酒とは、それほど大切なことなのでしょうか……理性を失い、愚行に走るだけのように見えますが……」

「うちも呑める年齢やないから、わからんけど、まあ呑みたい人にとっては、そのための忘年会みたいなもんやろ」

 連絡船が島の港につくと、すでに顔を赤くした役員たちが桟橋で待っていた。

「おー! おかえり! もう始めておるで!」

「もう呑んでるんかい」

 騒がしい酔っぱらった役員たちと公民館に入り、鮎美は挨拶をさせられる。マイクを渡され、上座に立った。

「こういうときは長い挨拶もいらんでしょうから、一つだけ。たまたま、ご縁があって、うちは、この島に来ましたし、さらに、たまたま議員に選ばれてしまいました。けど、どっちのご縁も大切にしたいと思います。ほな、乾杯!」

 見知った人ばかりなので短めの挨拶にした鮎美がウーロン茶のグラスを掲げると、拍手と乾杯が始まり、もともと騒がしかった公民館がさらに賑やかになる。茶谷も来ていて鮎美のグラスにウーロン茶を足してくれた。

「あ、おおきに。茶谷先生も、どうぞ」

 女子高生にして、すでに宴席での基本的な立ち振る舞いを静江から教えてもらっている鮎美は瓶ビールを茶谷のグラスに注いだ。

「いよいよ新年から任期が始まるね。頑張ってくださいよ、芹沢先生」

「はい、せめて欠席だけはせんように体調には気をつけます」

「そういえば静江さんは、まだインフルエンザが?」

「そろそろ熱は引いたみたいですけど、まだ出てくると逆に周囲に感染させますさかい」

「たしかに、それは危ないな」

 そう言う茶谷がいつものように鮎美の肩に触れようとしてくるのを警戒していると、反対側から男性役員に背中を軽く叩かれた。

「アユちゃん先生、お茶かいな? ちょいビールくらい呑みぃや」

「はは…」

 親しくなってきたので背中に触れられるくらいは許容範囲だったけれど、それを許すとエスカレートしやすいので身を引きつつ、飲酒も遠慮する。

「いえ、うちは、まだ18歳ですし」

「アユミンが失脚したら困るくせに勧めちゃダメだよ」

「あ、カネちゃん、来てたんやね」

「楽しそうだしね」

 鐘留は自社製の琵琶牛しぐれ煮を手土産に島の忘年会に参加していたし、歓迎されている様子だった。

「陽湖ちゃんは?」

「あっち」

 陽湖と玄次郎、美恋もいて、それぞれに同世代の島民に話しかけられている。とくに陽湖へは少し年上の男性からの声かけが多い様子だった。

「めちゃナンパされてるやん」

「まあ宗教さえなければ可愛いから」

「カネちゃんもナンパされるやろ」

「テキトーにかわしてるし、しつこい奴には、アタシと釣り合うつもり? って感じにすれば、引き下がるよ。アユミンへも可愛いわりにナンパ少ないでしょ?」

「う~ん……四月に越してきたときは、それなりに声かけられたけど、全部断ったし諦めてくれたんやろ」

「っていうか、アユミンは議員になることになったし、アタシは元モデルで家はお金持ち、男って女が立派だと引くよ。まあ自然に釣り合いってのが本能でわかるんだろうね。いいことだよ」

「似たようなこと静江はんにも言われたなぁ」

「あ、月ちゃんが逃げてきた」

 次々と男性から声をかけられることに疲れた陽湖が逃げるようにそばへきた。

「陽湖ちゃん、お疲れさん」

「シスター鮎美こそ、この一年お疲れ様でした」

 三人で会話しようとしたけれど、すぐに漁師や婦人たちにも声をかけられる。それに応えているうちに太鼓の音が響いてきた。

「なんか始まるん?」

「許婚選びをするらしいよ」

 鐘留が興味津々という目で宴会場の中央を見つめる。中央には女子が2名いて古びた呉服姿だった。一人は中学生、もう一人は高校生だったけれど鮎美たちとは違う公立高校へ通うために下宿している子が年末なので戻ってきている様子だった。

「許婚って、こんな公開の場で選ぶんや。まさか、クジ引き?」

「きゃははは! そんな議員みたいないい加減な決め方しないって。6年後にチェンジってわけにいかない一生の問題だよ」

「はは…そやね。けど、親同士の話し合いで決めるもんやと思ってたわ」

「そういう場合もあるらしいよ。でも、あの二人は可愛いし、申し込み多数だったのかもね。ほら」

 呉服を着ている高校生へは3人の男性から申し込みがあったようで、こちらも古びた和装の袴姿だった。男性3人は一度、女性と対面して座った後にクルリと背を向けて座った。武道のたしなみがあるらしく座り姿も様になっている。

「男の服も女の子の服も古いし、きっと代々、この行事で使ってる服なんだろうね」

「そやね。カネちゃんの地区は、こういうことするの?」

「まさか。この島だけだよ、こんな独特なの。アタシも初めて見るぅ♪」

 鐘留が期待していると、自治会長が宣言する。

「これより、うじくらべを行います。嫁御の前へ甲冑を!」

 甲冑と言っていたけれど、運ばれてきたのは剣道の道着と防具だった。そして3組の防具が専用の台で甲冑のように立てかけられ、道着もかぶせられた。

「嫁御よ、くらべなさい」

「……はい…」

 恥ずかしそうに顔を伏せていた呉服姿の高校生は3組の防具のそばによると、それぞれに顔を近づけるような動作をして回り、そして1組の前で止まると、背を向けている男性の後頭部を見つめながら、迷っている顔になった。どうやら選ぶといっても、もともと気のある男性は決まっていたようで迷っているのは、今すぐ結婚するか、もうしばらく独身でいるか、ということらしき顔をしている。独身でいるなら島外で就職となるし、結婚となれば島内での生活になる。

「……………」

「「「「「………………」」」」」

 賑やかだった宴席が静かに彼女の決断を待つ空気になっている。そして決断したようで道着へ手を伸ばすと、それを羽織った。

「か…薫大将は吉田殿です」

「「おおお!!」」

「「おめでとう!!」」

「吉田くん、やったな!」

「雛ちゃん、おめでとう!」

 これで決まりのようで島民たちが盛り上がっている。鐘留も盛り上がって手を叩いて喜んでいるので鮎美は意外だった。いつもの鐘留なら冷めた目で、くだらない風習だとバカにしそうなものなのに、とても興奮していた。

「すっごい、すっごい! この島、すごいね!」

「そ…そやね……」

 わけわからんわ、こんな風に鷹姫の許婚も決めたんかな、それとも親同士の話し合いなんかな、と鮎美は男女の結婚ということに根本的に興味がないので、ぬるくなったウーロン茶を啜り、陽湖に茶化して問う。

「陽湖ちゃんとこの教団も、合同でお見合い結婚式せぇへんの?」

「ぅ~……あの教団と、いっしょにしないでくださいよぉ……うちは基本、自由恋愛です。信徒か、信徒になる人限定ですけど、お見合いとか、そういうのは無いです」

 陽湖が拗ね、鐘留はまだ嬉しそうに興奮していた。

「うじくらべって、そっか! やっぱり氏比べじゃなくて、宇治十帖の宇治なんだ! きゃははは、すごい、すごい、この島、超すごいよ! 天才的!」

「カネちゃん、何をそんなに喜んでんの?」

「わかんない? さっきの儀式さ、女の子が男の匂いを比べて、好みを選ぶって形式なんだよ!」

「ああ、そう言われると、そんな感じの動作やったけど」

「それを源氏物語の宇治十帖に出てきた薫の君と匂宮にかけて、宇治くらべなんだよ」

「……ふーん……まあ、風流やね」

「違うよ。そこじゃなくて、すっごい科学的に正しい選び方なの!! こんな閉鎖された島だと近親交配を避けないとガイ児が産まれるよね? それを避けるには遺伝子の形質が自分とは、なるべく遠い配偶者を選ぶ必要があるの!」

「ああ、それは、そやね。で?」

「で、匂いが重要なシグナルになるの、剣道着って臭いじゃん! たぶん昔の鎧も! けど、自分と遠い遺伝子形質の異性の匂いは好ましく感じるの! スイスの動物学者ヴェーデキント博士が1995年に行った実験でね、男性たちに2日間着用してもらったTシャツを女性たちに嗅いでもらって、好ましい匂いを選んでもらったの。で、お互いの遺伝子を調べると、やっぱり形の遠い異性を好ましいと感じてるんだよ! これによってガイ児は防げるし、しかも免疫力は増すの!」

「ああ、そういえば、そんな話、カネちゃんから借りた本にあったね。そっか、そう考えると、この島の人ら、すごいな」

「でしょ?!」

「1995年に実験される千年前から、やってるとしたら、たしかに天才的やわ。生きる知恵やね」

「きゃははは! 最高!」

 大喜びする鐘留へ、陽湖が悲しそうに言う。

「もう少し、人と人の気持ちとか、恋ということを考えませんか?」

「いいよ、恋ってことで考えるとね、こんな小さな島で育つと同世代は全員が幼馴染みになっちゃう。わかる?」

「それは……そうかもしれませんね」

 人口が千人に満たないので同年齢は10人前後であり、すべての学年で中学校まで1クラスしか無いらしかった。

「幼馴染みってさ、映画や小説なんかだと運命の出会いみたいに描かれる場合もあるけど、現実的には結ばれないのが普通。気持ち悪いって感じるんだよ。兄弟姉妹とセックスするみたいに、人間は幼児期をいっしょに育った異性を家族に近い存在と認識してしまって、性的な対象になりにくい。逆に、アタシや月ちゃん、アユミンみたいに18歳になってから登場した女子には、みんな大興奮、きっと、そこそこにブスでもチヤホヤされるよ」

「……それと恋は関係あるのですか?」

「だから、自然な恋が発生しにくい環境だから、うじくらべで補完してるんだよ。きゃははは! いい感じにカンペキ! 匂い比べの、宇治比べは、DNA比べなんだよ!」

「風流も、もののあわれもないなぁ………たしかにDNA的には、そうやろけど……恋の板挟みで、身投げしはった宇治川は、琵琶湖から流れ出る瀬田川が名前の変わったもんで、大阪では淀川になる………えっと、身投げしはったお姫様、なんて名前やったかな……花散る里?」

「さあ?」

「陽湖ちゃんは、知らん?」

「あんな分厚い本、そうそう読めないですよ」

「あんた、聖書は読破してるやん。登場人物も、だいたい言えるし」

「別に読書家だから読んだわけじゃないです。むしろ、こういうことはシスター鷹姫が詳しいはず…」

「宮ちゃん、さっきから見ないね?」

「鷹姫はたぶん厨房の方でお手伝いしてると思うよ」

 静江から手作りの宴席では秘書は席につかず厨房へ出向いて手伝いを申し出るよう教育されているので、それを実践しているものと思われた。

「嫁御よ、くらべなさい」

 鮎美たちが会話しているうちに、次の女子中学生の番になったようで今度は2人の男子が彼女へ背を向けて待っている。けれど、彼女は選びたくないという顔をしてから、チラリと岡崎の方を見た。それは一瞬だったので鈍い男性たちは気づかなかったけれど、島の女性たちは気遣って、そっとしておくことにした。許婚は強制ではないので流すこともできる。高齢の女性がつぶやく。

「これは、舟が流れるね」

「流れようね」

 つぶやきを聴いて男性たちも察した。

「まあ、白川の娘さんは、まだ中学生じゃしな」

「おう、一番、気難しい時期じゃし、決めても、まだ早いからのォ」

「流れでもええのォ」

「中学生は難しいなァ、いっそガキのうちに決めておくのが、うまいこといくこともあるし。白川の嫁御や! どうする? 流れるか?」

「……………」

 選択を迫られた白川は顔を伏せたまま黙って宴会場を出て行く。風習を知らない鮎美たちは彼女が場を放棄したのかと思ったけれど、島民たちにとっては想定内の事態らしく数人の婦人が白川の後を追うだけで宴会が再開していく。鮎美と鐘留、陽湖は見届けたいのと心配なので白川の様子を見に行った。

「「「…………」」」

 白川は公民館を裸足で出ると、すぐ近くにある琵琶湖岸へ歩いた。そして、裸足の足先だけを琵琶湖の水に浸けてから言う。

「舟は流れました。すみません」

「いいんよ。冷たかったね。ほら、履き」

 足を濡らすのも予定の行動だったようで婦人の一人が白川に下駄を用意している。

「「「…………」」」

 意味がわからない鮎美たちへ、別の婦人が教えてくれる。

「昔はね、故事にならって婿さんを選べんかったときは琵琶湖に身を投げて、申し訳ないと謝ったんやけど、こんな寒いのに、そんなことさせられんしね」

「「「琵琶湖に身投げ……」」」

「すぐ助けるから大丈夫やったけど、今では足を浸けるだけになってるわ。源氏物語からきてるらしいよ」

「ほな、やっぱり源氏物語の…えっと…名前が…」

「お話中に、すみません」

 急に鷹姫が深刻そうな顔で割って入ってきた。

「鷹姫、どないしたん?」

「緊急でお伝えしたいことがあります」

「緊急……。すんません、また今度」

「お忙しいようで。ご苦労さまね」

 婦人と離れると鷹姫が耳打ちしてくる。いつも鷹姫の耳へ口をよせるのは鮎美なのに今は、その逆なのがくすぐったいけれど、嬉しい。そんな甘い喜びは報告内容で吹き飛んだ。

「西村先生が……」

「はい、さきほど息を引き取られたとのことです」

「………」

 さっき見舞いに行ったばかりの人間が死んだということが鮎美の気持ちを複雑にさせる。深い悲しみを覚えるような人間関係ではないけれど、それでも一人の死は重い。ニュースや統計で知る数字としての死者ではなく、お互いに出会って言葉を交わした人間が死んだと想うと、やはり悲しかった。

「70歳……胃ガンか……」

「西村先生が亡くなったことで緊急に支部へ戻ってほしいとのことです。喪服…いえ、制服も用意して」

「そう………そうやろね。……黒っぽいコートも要るね」

 鮎美は短く鐘留と陽湖にも説明すると、許婚が1組は決まって祝い事で盛り上がっている忘年会へ水を差さないように自治会長へだけ事情を話して中座し、自宅で葬儀に参列する用意をしてから、また港に出た。もう連絡船の無い時刻なので鷹姫が頼んだ下戸で飲酒していない漁師の漁船に乗せてもらい、本土へ渡った。

「若いのに、大変だね。風邪ひかんとな」

「「ありがとうございました」」

 漁船を出してくれた礼を言い、タクシーで党支部に行った。支部内には石永と名目上は鮎美の秘書であり実質的には石永の秘書である3人の中年男性がいて、いろいろと資料や法律の条文を読んでいる。石永たちが鮎美と鷹姫が入ってきたのに気づいた。

「二人とも、遅くにご苦労様」

「いえ。お通夜は、明日ですか?」

「あ、ああ…そういう話より、もっと困ったことが…いや、困ったことではないが、前例のないことに直面しなければ、ならない」

「前例のない?」

「まあ、どのみち数日ではあるが、芹沢先生は、すでに議員予定者ではなく議員として擬制された。と言えば、わかるかな?」

「あ……任期前就任ですか?」

「そうだ。本来は来年1月からの任期だけれど、西村先生が亡くなったことで参議院に空席ができる。衆議院であれば補欠選挙を行うところだし、現在の参議院制度でも任期が6ヶ月以上残っていれば、再選挙のクジ引きがされるわけだが、すでに6ヶ月どころか、あと11日だ。このような場合、次の参議院議員をもって任期を繰り上げ、その任にあてるという規定になっている」

「はい……そうでした……一回だけは読みましたけど……まさか……自分が……すんません。不勉強で詳しくは覚えておりません…」

「いや、我々も今、確認しているところだし、どういう手続きになるか前例もないので選挙管理委員会と相談しながら進めることになる」

「そうですか…」

「呼び出すだけ呼び出して本当にすまないが、今すぐ何かということは無さそうで二人には向かいのホテルを取ったから、そこで待機していてくれ」

 石永は支部の向かいにあるビジネスホテルを指した。

「「はい」」

 いざ緊急というとき鬼々島にいては市街に出てくるだけでも一時間近くかかることもあり、とりあえず呼び出されたというのは理解できる。

「それと、もう芹沢先生は議員となっているから、つい私も年下の女性ということで口の利き方を間違ってしまうが、今後は気をつけていく。君たちも注意するよう」

「「「「はい」」」」

 鷹姫と3人の男性秘書が返事をした。石永は鮎美へも言っておく。

「芹沢先生も、えらぶる必要はないが、地位に相応しい振る舞いをしてください」

「うっ……難しいことを……えらそうでなく、立派そうって……」

「これまでも、うまくやっていますよ。これからも、少しずつ気をつけてください」

「努力します」

 鮎美と鷹姫は資料をもらって向かいにあるビジネスホテルに入った。ビジネスホテルといっても実体はビジネス旅館といった方が適切なくらいの粗末な建物で一泊3980円、連泊すれば2980円にまでさがるタイプの宿で、これまでも選挙活動で一部の男性スタッフは使っていたけれど、議員たる鮎美や石永、そして女性である鷹姫や静江が泊まるには少し抵抗のあるところだった。それだけ今は緊急事態なのだろうと感じたし、石永たちは支部で雑魚寝するのかもしれない。そのための毛布などもあるけれど、さすがに若い異性である鮎美と鷹姫には宿を確保してくれたのだと思った。

「とりあえず、休憩しながら資料を読もか」

「はい、そうしましょう」

 鮎美と鷹姫は部屋に机やテーブルがないので畳の上で資料を読んだ。

「そっか、参議院は半数を維持してんと、あかんのや」

「衆議院が解散された場合の緊急集会に応じる必要がありますから」

「国に緊急の必要があるときは……か。大災害か戦争ってとこかな」

「石永先生が、この憲法54条の参議院の緊急集会だけしか緊急事態条項がないのは憲法の不備だと言っておられましたが、私も同意見です」

「うーーん……」

 鮎美が畳の上を寝転がる。

「たしかになぁ……うちが憲法の作り直しを考えるとしたら……今の自眠党の改憲案は、せいぜい焼き直しにすぎんから、もっと抜本的に……」

 鮎美が考え始めたとき、戸がノックされて宿の女将が言ってくる。

「お布団を敷かせていただきます」

「あ、はい。お願いします」

 寝転がっていた鮎美は鷹姫と同じように正座して女将を迎える。女将は慣れた手つきで布団を敷きながら教えてくれる。

「大浴場は12時に閉鎖します。部屋にはシャワーしかありませんので、ご了承ください」

「「はい」」

「では、ごゆっくりお休みください」

 女将が出て行き、鷹姫は資料を置いた。

「あと30分でお風呂が閉まります。いっしょに入りましょう」

「え……あ…、うん、そ、そやね」

 言われるまで鮎美は今夜、鷹姫と二人きりで泊まることを意識していなかった。いつもなら内心で葛藤しているはずなのに、今は西村の死があったからなのか、その死が重責を繰り上げてきたからなのか、性欲が無い。

「そういえば、うちら夕ご飯も食べてへんかったね」

「……すみません、私は少しいただいております」

 島の忘年会で鮎美は挨拶をしたり酌をしたりと忙しかったけれど、鷹姫は婦人会の方に呼ばれ、手巻き寿司や揚げ物を食べている時間があった。他の忘年会やパーティーなら常に鮎美のそばにいるけれど、島に戻ると安心感もあってバラバラに行動している。

「クスっ、そんな申し訳なさそうな顔せんでええよ。秘書も体力が大事や」

「何か買ってきます」

「ええよ、食欲ないし。お風呂に入って寝よ」

 浴衣とタオルをもって二人で大浴場へ行く。大浴場といっても湯船は一つ、その湯船も一般家庭の4倍くらいの広さで温泉でもなかった。鷹姫が衣服を脱いで裸になっていく背中を見ていると、さすがに鮎美は心臓が反応するのを自覚して目をそらして、自分も裸になる。

「……」

 人が亡くなった、こんな時まで、うちは何を考えてるねん、と鮎美が自戒すると性欲もおさまった。二人バラバラに身体と髪を洗い、湯船に浸かる。

「………70歳まで生きたんやったら長生きかな」

「男性の平均寿命にはおよびませんが、長生きと言ってよいかと思います」

「うちらなんか、まだ18や………あと52年………半世紀もある。2060年頃って日本は、どないなってるやろ」

「…………わかりません」

「そやね、統計の数値も予想にすぎんし………逆に半世紀前は戦争やった。西村先生は戦争を体験したんやろか」

「お見舞いに行く前に読んだ資料で、西村先生の戦争体験が書かれていて、4歳の頃、飛来した米軍戦闘機の機銃掃射に遭い、わき腹にカスリ傷を受けたそうです。田んぼに逃げ込み助かったそうですが、危なかったと」

「4歳って……あの時期やと、戦闘機ってプロペラやんな」

「はい、おそらく」

「低空飛行やったら4歳児やって、わかるやろに、それでも撃ったんか………鬼畜やな」

「はい、まさに鬼畜の所業です」

 鷹姫が頷いたとき、鮎美のスマートフォンが鳴った。防水仕様なので風呂場に持ち込んでいたのを手に取り、相手が予想通り石永だったので受話する。

「はい、もしもし」

「すまない、もう寝ていたかな?」

「いえ、大丈夫です」

 見られているはずはないけれど、鮎美は片手で胸を隠しながら石永との会話を続ける。

「明日、東京へ行ってもらうことになりそうだ」

「はい。東京で何を?」

「議員バッチを受け取ってほしい。本来、初登庁のさいに国会事務局から受け取るものだが、もしも万が一、緊急集会が開かれるような事態が生じたとき、議員バッチが無いと議員であっても議場に入れない。混乱している状態でバッチが手に入らず出席できないとなれば問題だから、くだらないとは思うが、形式も必要だから受け取っておいてほしい。ちなみに衆議院議員のバッチより一回り大きく金張りだよ。雄琴は、あまり着けなかったが議場以外でも、なるべく着けているべきだと私は考えている。それが議員としての自覚をもたらすものでもあるから」

「はい、わかりました。明日の朝一番で東京へ向かいます」

「そして、忙しくて悪いが、トンボ帰りして西村先生のお通夜と翌日の告別式に顔を出してほしい」

「わかりました」

 電話を終えると鮎美は鷹姫に同じことを話した。それから、もう12時の5分前で誰もお湯を使うことがないと思ったので湯船に潜った。

「……………」

 お湯に身を任せて、しばらく漂う。

「ぷはっ!」

 息苦しくなって飛び出した。

「ハァ……ハァ……あ、思い出した! 浮舟! なあ、鷹姫、源氏物語の宇治編で、宇治川に身投げしたんは、浮舟やなかった?」

「はい、そうですが……」

「ああ、やっぱり、スッキリしたわ。だから、舟が流れるとか言うてたんや……はぁぁ……」

 鮎美は再び湯船に漂う。今度は背泳ぎだった。鷹姫が注意してくる。

「芹沢先生、子供のようなことはおやめください。どうか、議員としての自覚をもってください」

「ごめん、ごめん。………っていうか、二人っきりのときは鮎美って呼んで言うたやん」

「………」

 鷹姫が迷った顔をしている。そして鷹姫の唇が、それはもうやめませんか、と言い出す前に鮎美は頼む。

「うちは議員やけど、一人の人間よ。気の休まるときがほしい。鷹姫と二人っきりのときくらい、そうさせて? な? 二人のときは上下関係なしに接してよ」

「………はい」

 返事をした鷹姫は厳しく睨んできた。

「な……なによ? 鷹姫…」

「お湯で泳ぐのはやめなさい! このバカもの!」

「ううっ……容赦ないなぁ……」

「行儀の悪いことをするからです!」

「はい…うぷっ?!」

 背泳ぎしていた鮎美は脳天を手刀で打たれ、ブクブクと沈んだ。

 

 

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