第13話 十月 日曜礼拝、畑母神・元海上幕僚長
翌週の日曜日に、鮎美と鷹姫、陽湖は朝一番の連絡船で本土へ渡り、路線バスで学園前に着くと、鐘留の制服姿を見て鮎美が驚いた。
「カネちゃん、まともな制服もってたんや?!」
「冬服はね」
鐘留は冬服を着ていたけれど、まったく改造されていなくてスカート丈も袖も購入時のままだった。制服の移行期間である10月は夏冬どちらで登校しても良かったけれど、鮎美にとっては鐘留と知り合ってから初見になるので驚いている。
「あの露出狂みたいなカネちゃんが……なんで?」
「だって、いつもの夏服だと礼拝堂には入れないって月ちゃんが連絡してきたし。そろそろ季節的にもね」
鮎美が日曜礼拝に参加すると聴いて鷹姫はもちろんのこと、鐘留も興味をもって参加すると言い出し、陽湖はそれを歓迎しているので学園前に集合したのだった。鮎美が鐘留の制服姿を見つめながら言う。
「スカート丈もそのままとか……もしかして、礼拝堂に入るために再購入したん?」
「まさか。そこまで好奇心を覚えるような建物でもないしね。冬服は、ずっと三年間このままだったよ」
「……なんでなん? スカートくらい、ちょっと切るとか折るとかせんの?」
「冬に着るんだよ。そんなことしたら寒いじゃん」
「………それだけの理由なん?」
「なんでアタシが寒いの我慢してまで男子諸君にサービスしないといけないの? 暑いときは脱ぐ、寒いときは着る、人類の知恵だよ。知恵の実、美味しかったのかな? アダムもレビューくらい残せばよかったのに」
「参加する前からケンカ売るようなこと言わんとき」
「きゃはっ♪」
「シスター鐘留の周りだけは一年中、冬だと良いですね」
「来週から気温さがるみたいだし、アタシの夏服姿も男子には気の毒だけど見納めだったかもね」
「そうなんや……」
鮎美は少し残念に想ったけれど、どちらかといえば露出しすぎの夏服姿より、今の方が好みだった。鐘留が長めのスカートをつまんで腿を見せて言う。
「女子高生としてのアタシの夏も終わったんだねぇ。詩的に、立てば勃たせて、座ればパンチラ、歩く姿はチラリズム、と謳われたのに」
「ははは……。けど、改造なしのカネちゃんも逆に新鮮で可愛らしいよ」
「ありがとう、アユミン。でも、真冬には期待しないでね」
「真冬になると、どうなるん?」
「ロシア人♪」
「は?」
「芹沢先生、緑野は単に我慢がないだけです」
「シスター鷹姫の言う通りですね。真冬になるとモスクワのロシア人みたいなカッコで登校してきますよ。スキーウェアのような上下に、分厚いコートと手袋、毛皮の帽子。雪の日なんてゴーグルと防寒マスクまでして。六角市は北極でも南極でもないのに」
「一切の露出がないカネちゃんか……極端やなぁ」
「自宅の部屋だと、裸に近いカッコだよ。パーッと脱いで大解放」
「光熱費とか地球温暖化とか無視やなぁ……」
「シスター鮎美、そろそろ中に入ってください。皆さんも」
陽湖に促されて鮎美たちは入学して始めて礼拝堂に向かった。学園敷地のやや奥にあり、そばにあるグラウンドには自家用車が100台以上も駐まっているので参列者だと思われる。自分たちの通っていた学校が日曜日には別の顔をもっていたようで軽い驚きだった。鮎美は礼拝堂の建物を見上げた。
「建物そのものは、意外と平凡というか普通の建物やね。言われんかったら、わからんわ」
「過度の装飾は偶像崇拝と同じです」
「ポリシーやねぇ」
鮎美は着ている制服に着乱れがないか、さっと触って確認した。鷹姫も剣道場に入るときのように身なりを整える。鐘留は手鏡で制服と顔を見て頷いた。
「じゃあ行こう♪ 学園の伏魔殿へ」
「「「………」」」
「ん? 違った? ちょっと前に自眠党の大臣が外務省をそんな風に言ってなかった?」
「言ってはったけど、今の場合はちゃうやろ。つまみ出されるで」
「きゃははは。ラスボスいるかもよ?」
「あの……シスター鐘留、お願いですから礼拝堂の中では、絶対にふざけたりしないでください。お願いします。本当に」
陽湖が切実に頭を下げて頼んでくるので鐘留も頷いた。
「ごめん、ごめん、そんな泣きそうな顔しないで、もうふざけないから」
「本当に、お願いします」
「鷹姫、カネちゃんがいらんことしたら対応Cで」
「はい」
「アユミン、対応Cって何?」
「取り押さえて警察に通報」
「う~ん……アタシも、そこまで悪いことしないよ?」
「いやいや、さっきの発言だけでも、刑法ギリギリちゅーか、アウトっぽいで。えっと刑法の180条……くらいやったかな…」
「芹沢先生、188条では?」
「うん、そのくらいやったかも。それにあったやんね。神社とか、お寺とか、礼拝堂とか、他人さんが真面目に信仰しとるもんに公然と失礼な行為をしたら懲役か、罰金やったで。説教とか礼拝を妨害したら、もっと重い刑罰やった」
「へぇ……アユミンと宮ちゃん、よく勉強してるね」
「一応これでも立法府に所属する予定やから。ってことでカネちゃん、気をつけいや」
「はーい」
話ながら鮎美たちが礼拝堂に近づくと、スーツ姿の長身の男性が立っていた。風格のある男性は鋭角のデザインがされた眼鏡をかけていて理知的な雰囲気と、陽湖と通じる潔癖さが感じられた。
「ラスボス登場♪」
「カネちゃん」
「はいはい」
男性が鮎美を見て、微笑みをつくった。
「ようこそ、シスターたち」
「どうも、おはようございます」
相手が握手を求めるように手を出してきたので鮎美も慣れた動作で握手する。いつもの握手と違ったのは鮎美だけでなく、そばにいた鷹姫や鐘留へも握手を求められたことで二人はぎこちなく応じた。最後に陽湖とも握手して微笑み合い、ここへ鮎美を連れてきた労を誉めるように背中を撫でている。撫でられた陽湖の嬉しそうな表情で鮎美は、彼女の想いに気づいて、少し淋しかった。男性が名乗る。
「はじめまして。と言っても何度か、学園の全体行事に私も顔を見せていますが、この礼拝堂を総括する屋城愛也(やしろあいや)です」
「芹沢鮎美です」
「今日は日曜礼拝にようこそ。どうぞ、中へ」
「はい…、どうも…」
促されて鮎美たちは礼拝堂内部に入った。
「なんや……以外と、普通やね…」
「つまんないね」
内部は座席が並び、中央に少し高い壇がある程度で、他は文化ホールか、市民コミュニティーセンターと似たような造りだった。外観に装飾が無かったように内部にも装飾がない。
「何にも無いね。月ちゃん、これで終わり? 地下から巨大な神の像とか、出てくる? それとも天井から降りてくるとか」
「……シスター鐘留……一年生から学園にいて偶像礼拝のことを学びませんでしたか?」
「マリア像くらい、あったっていいじゃん」
「…………」
「これで、ええんちゃうか。どこぞのサリン撒いたヤツらは発泡スチロールで像を造ったらしいけど、銅で造って金メッキしようが、木に彫ろうが、コンクリートで造ろうが、所詮は物や。神さんやない。いっそ、何もないほうが清々しいわ」
「はい、シスター鮎美の言われる通りです」
「皆様、どうぞご着席ください」
さきほどの屋城がマイクで全体に声を響かせている。もう定刻だったので鮎美たちも近くの座席に座ると、礼拝が始まり、聖書の朗読と説教、賛美歌の合唱が何度か繰り返され、そして終わった。また、鐘留が拍子抜けして言う。
「こんだけ? 学校での聖書研究の授業と似たようなもんじゃん」
「そうやね……」
鮎美も拍子抜けではあった。学校と違うことといえば、参加している学校教師は多いけれど、誰一人として先生とは呼ばず呼ばれず、みなシスターブラザーで呼び合っていることと、鮎美たち初参加のメンバーに気づくと笑顔で握手を求めてくることくらいだった。
「アタシ、先生たちと握手するとか、卒業式くらいだと思ってた」
「うちも……」
「どうでしたか、シスターたち」
屋城が壇上から降りて問うてくる。
「はは……どうも……こうも……普通やな、と」
「祈りは日常です。日常であり非日常でもあるのです」
「……禅問答みたいなことを…」
禅は武士の文化なので、なんとなく期待して鮎美は鷹姫を振り返ったけれど、実に興味なさそうに立っているだけだった。
「これからも、どうか再び参加してください。次第に理解していただけるでしょう」
「………」
鮎美は迷い、それから屋城を見据えた。
「………」
「……」
さすが大勢の信徒さんらのリーダーや、そんだけのオーラと風格はある、けど、うちもヒマやないねん、単刀直入に行こか、と鮎美は気圧されずに問う。
「うちが議員になるちゅーことで陽湖ちゃんを使って勧誘してくれはりましたけど、真の狙いは何ですか?」
「神の教えを知っていただくことです」
「それは最終目標として。もっと直近、もっと世間的な目的もあるんやないですか?」
「………。ええ」
屋城が頷いた。
「それは何ですか?」
「聞いてしまえば、きっと、これも普通のことですよ」
「ほんで何でしょう?」
「ここの学園には大学がない。その設置には色々としなくてはいけないことも多いのです。シスター鮎美、あなたが議員に選出されたことは、私たちにとって福音です」
「大学の設置………なるほど……」
「任期が始まれば、お願いしたいことも多くなるでしょう。ご協力ください」
「………」
「………」
意図的に沈黙した鮎美に対して、屋城も黙って、まっすぐに視線を合わせてきた。そこに、やましさは一欠片も無くて熱意だけを感じるので、鮎美が微笑んで言う。
「ま、うちにとっても母校になるわけやし、文科省とのパイプ役くらい、やりますわ。信仰をもつか、どうかは、別の話として」
すっきりとした鮎美は屋城と握手をしてから礼拝堂を出た。鷹姫と鐘留もついてくる。
「アユミン、もう終わり?」
「好奇心は満たされんかった?」
「ぜんぜん」
「ごめんな。うちも拍子抜けやったわ」
「芹沢先生、そろそろ党支部へ向かう時刻です。石永さんのお迎えが来るかと」
「そうやね」
鮎美と鷹姫が校門へ向かおうとすると、陽湖が走ってくる。
「ハァっ、ハァっ…きょ、今日はありがとう!」
「うん」
「……ま……また…」
「また、明日、学校で。っていうか、ご近所さんやし、また島でね。あと、母さんがシャンプー到着したって、さっきメールくれたわ」
「ありがとう、シスター鮎美」
「ほな、またね」
「失礼します」
鮎美が手を振り、鷹姫は会釈した。
「アタシは? 置いていく気?」
「カネちゃんが党支部に来てもしゃーないやん」
「党員だよ、一応」
「せやったね。いっしょに勉強する?」
「う~ん……とりあえず、ついていく」
予定外に鐘留が加わり、静江の車で党支部に着く。鐘留の姿が今までの露出しすぎの夏服から、規定通りの冬服に変わったことは礼拝堂の信徒だけでなく、支部内の党員にも好印象を与え、家柄もあって歓迎されて鮎美の友人として遇される。そして、いつも通りの勉強の後に、石永が難しい顔をして週刊紙の表紙を睨んでいたので鮎美が問う。
「どないしはったんですか、石永先生?」
「ああ、いや……ちょっと女子高生に、これは…」
石永は週刊紙を片付けようとしたけれど思い直して見せることにした。
「不快かもしれないが、知っておかないと情報に遅れていることになるから……一応、知っておいてくれ」
「はい。………ふーん……SMクラブで、ご乱交……E議員の隠された性癖……女性を犬扱い……」
鮎美は週刊紙の記事を読み、また問う。
「E議員って自眠党なんですか?」
「でなければ、こんな顔はしていない」
「………総選挙、近いんですよね?」
「だから、こういう顔なんだ」
「お兄ちゃん、白髪が増えるよ」
「うるさい」
「うちは、これを知って、どうするべきなんですか?」
「知るだけでいい。コメントを求められても無視でいい。ただ、知らずにいると驚くかもしれないから教えただけなんだ。すまない、不快だったろう」
「いえ。わかりました」
鮎美は神妙に答えたけれど、鐘留は記事を読んで笑う。
「きゃはっはは、お座り一回1万円、三回まわってワンで3万円だってプライドの無い女。電柱にオシッコするとか、もう人として終わってるじゃん」
「緑野さん、これから来客があるから静かにしていてね」
「はーい。じゃ、これ、お返しします」
静江が注意すると、鐘留は礼儀正しく石永に週刊紙を返した。態度も軽いし、口も悪いけれど、鐘留は育ちの良さなのか、ところどころで礼儀にかなった言動をとるので静江たちも憎みきれない。
「静江はん、その来客って、また陳情系ですか?」
「ええ。今回は、お兄ちゃ…、いえ、石永先生と芹沢先生の二人に」
「わかりました」
「やれやれ」
石永は陳情の内容を知っているようで疲れた顔をしていたけれど、アポイントを取っていた団体が訪問してくると、議員らしく誠実な顔で出迎えた。訪れた団体は女性3人で40歳前後と思われた。鮎美も石永と同じように誠実な顔をつくって団体を出迎え、テーブルを囲んで面談する。
「石永議員と芹沢議員が春の会に賛同されているというのは本当ですか?」
開口一番に団体代表の女性が問い、鮎美と詩織たち春の会の幹部が握手している写真を見せてきた。
「これ…あのときの……どこで、これを…」
「春の会のホームページに載っていました。芹沢議員と会談し、理解をえたと」
「…会談はしましたし……理解は……。あと、うちは、まだ正式には議員やないですよ」
団体の女性たちに責めるような雰囲気があるので鮎美が戸惑っていると、石永が鮎美の肩を叩いて頷く。
「芹沢さんは、まだ議員ではないから、あまり積極的に発言しなくてもいいよ。私が対応するから」
「は…はい…おおきに、ありがとうございます」
鮎美は肩に触れられたけれど、茶谷のときのような嫌な感じは受けなかった。その石永に対応を任せて聴いていると、団体が求めているのは売春の禁止と風営法の罰則強化で、女性の人権を踏みにじる売買春を無くすよう訴えに来たのだと、わかった。とくに春の会の活動は敵対視しており、女子高生の鮎美が彼らのホームページに載っていたのは、まことに遺憾だと何度も言い、鮎美は曖昧に頷いて、その場をしのいだ。長い面談が終わり団体が帰ると、鮎美はテーブルに伏したし、石永も疲れた様子でタメ息をついた。
「はぁぁ……やっと帰ってくれたか」
「石永先生、春の会に賛同議員として参加してはったんですね」
鮎美が言うと、石永は咳払いした。
「言っておくが、そういう店に行ったことは無いよ」
「ふーん……」
鮎美は今まで気づかなかったけれど、石永が左手の薬指にリングをしているのに目をやった。
「石永先生は結婚してはるんですか?」
「ああ」
「お兄ちゃんは彩先輩と中学からラブラブだから」
「静江、余計なことは言わなくていい」
「余計な賛同なんかしてるから、フェミニスト団体に叱られるんだよ」
「わかっている。だが、売春を合法化し、反社会的勢力の資金源を断つことも重要なんだ。春の会の言い分にも理はある」
「はいはい、あ、その件で畑母神先生が、これから来るって。まだ京都だから時間かかるかもしれないけど、芹沢先生にも会っておきたいらしいよ」
「畑母神先生が。そうか、わかった。芹沢さん、遅くなって申し訳ないが待っていてくれないか」
「はい。畑母神先生って……聴いたことあるような……けど、自眠党やないんちゃいます? たしか、少数政党の……」
「日本一心党の代表よ」
「立派な人だから芹沢さんも会っておいた方がいい」
「はい。……党代表……」
「お兄ちゃんは畑母神先生が大好きよね。同じ核武装論者だし」
「日本に核って、また……」
鮎美は秘書としての鷹姫を盗られそうになったことを思い出して、そばで資料を読んでいる鷹姫の手を握った。
「はい?」
「何でもないよ、こうしたかっただけ」
「そうですか」
「アユミンって、よく宮ちゃんに甘えるよね」
「ええやん、別に。それで、その畑母神先生って、どんな人なんですか?」
「海上自衛隊のトップ、海上幕僚長から衆議院議員になられた人だよ。自眠党とは少数政党ながら共同歩調を取ってくれている。いずれ防衛大臣、いや、総理になっても、おかしくない人だ」
「総理ですか……」
「年齢的に無理でしょ、お兄ちゃんの方が可能性あるよ、あと5期くらい当選して、いい歳になれば時運によっては巡ってくるかもね。にしても、さっきのフェミニスト団体が来てる間、緑野さんが不規則発言するんじゃないかって心配だったけど、よく黙っててくれて助かったわ」
「あの人たち、人の話なんて聴いてないよ。自分が言いたいこと言って帰っただけじゃん」
「それは、その通りね。ちなみに緑野さんは売春って、どう思ってるの?」
「アタシに無関係なことを、アタシが考えてもしょうがないよね。どうでもいいことだよ」
「なるほど。宮本さんは?」
「………。……」
問われて鷹姫が考え込む。鮎美はシュークリームや抹茶パフェで鷹姫の裸体を買ったことがあるので、焦りを覚えた。
「た、鷹姫は、そういう話、苦手やもんな」
「はい。よくわかりませんが、暴力団の資金源となるのは、好ましくないでしょう。是非はおいて金の流れを断つか、把握するか努めた方が良いと考えます」
「君は、やっぱり優秀だな」
石永が感心すると、鮎美は守るように鷹姫を抱いた。
「譲りませんから!」
「わかっているよ、すまなかった」
「緑野さんからいただいた御菓子があるから、コーヒーを淹れますね。そろそろ畑母神先生もいらっしゃるでしょうし。宮本さん、手伝ってちょうだい」
「はい」
静江と鷹姫がコーヒーの準備をしていると畑母神が秘書と現れた。挨拶と握手を型通りに進め、熱心な国防論者である畑母神と石永の話は危機管理について弾み、鮎美にとって興味のある分野ではなかったけれど、重要な話であることは理解できるので真剣に聴いて2時間あまりが経過した。不意に畑母神が話を春の会のことに移してくる。
「石永くんは春の会に賛同議員として名を連ねているそうだね。芹沢さんを紹介もしたとか」
「はい。それが何か?」
「売春など合法化しては、いかんよ」
「……。清廉な畑母神先生なら、そうお考えになるかもしれませんが、反社会的団体の資金に…」
「そういう問題ではない」
「では、何が?」
「国家百年の計と言うだろう。今現在のことだけでなく百年後の日本を考えてもみなさい」
「百年後ですか…」
石永も鮎美も百年後を考えてみるけれど、あまり想像できない。売春が合法化されることで生じるリスクは感染症の増大と、利用者の増加だったけれど、前者は合法化時の衛生強化で対応可能と考えているし、後者は実際のところ繰り返し買春を行う愛用者は全男性の4%程度で、パチンコなどの依存症に比べて問題は軽微だと考えていた。
「畑母神先生、我が不明にて計りかねます。どうか、ご教授ください」
石永の方が国会議員としての年季は長いけれど、海自のトップを務めて定年退官した畑母神に対しては年齢差もあってへりくだっている。畑母神も自然と教え諭すような語り口になっていた。
「売春を合法化するということは、国家が売春に対して不作為でなくなり、作為的に、これを認めたことになる。当初は良いかもしれない。暴力団への資金は激減し、衛生状態も改善、労働問題や搾取も減るかもしれない。だが、数十年後、若い頃に売春を生業としていた者は多くの場合、中年以後は金に困るだろう。そうなると、何を考えるか。人権団体や弁護士にそそのかされ、やはり売春は人権の蹂躙だったと言い出し、合法化した国家に責任があると言って損害賠償を求める訴訟を起こすだろう。我々は従軍慰安婦問題で、この構図を、すでに経験したはずだ。歴史に学ばなくてはいかんよ」
「な……なるほど……先生の、おっしゃる通りだ」
石永が深く頷いている。
「百年後の日本に負債を残さんようにな。あまり春の会へは、深入りせんように」
「はい、わかりました」
「え…」
そんな、あっさり立ち位置を変えるのん、なんぼ尊敬する先生の言うことでも、詩織はんらの味方して、女子高生のうちまで紹介したはずやのに5分と経たずに旗色を変えるのん、と鮎美は驚いたけれど、何も言えなかった。畑母神が時刻を見て腰を上げた。
「遅くにすまないね。芹沢さんに会えて、よかった」
「ぃ、いえ! こちらこそ!」
鮎美も慌てて立ち、握手を交わした。畑母神は鷹姫とも握手をする。
「宮本さんは覚えていないかもしれないけれど、君を見るのは、これで三度目になるよ」
「え……、申し訳ありません。……いつのことでしょうか?」
「今年の9月と、去年の9月、君が個人戦で優勝するところを来賓席から見せてもらった。ますます腕をあげたね。今年は余分な緊張もなく実に堂々としていて剣の切れが冴えていた」
「それは失礼いたしました」
「いやいや来賓席にいるオジサンたちの顔を覚えていないのは仕方ない。それより、石永くんから聴いた宮本さんの考え方、本当に素晴らしい。君は、いつまでも秘書におさまるような人物ではないよ」
「……」
「いっそ、我が党から公認候補で衆議院選に出てみないか? まだ準備も間に合うだろう」
「……」
「…た……鷹姫は、うちの…」
鮎美が困っていると、石永が言ってくれる。
「畑母神先生、まだ彼女たちは二人で一人前というくらい不可分ですから。何より、引き抜きは、ご遠慮ください」
「そうだな、いや、失礼した」
畑母神が支部を去り、鮎美は気になっていることを石永に問う。
「あの……石永先生、春の会は、どうしはるんですか?」
「そうだな……いきなり脱退はしないまでも、それとなく距離を置くか。脱退してしまうと、彼らからの票を失うし。もともと売春の合法化は難題でもあった、すぐに進捗しなくとも文句は言わないだろう。芹沢さんは女性だから、迷っている、と答え続ければいい」
「それって応援だけさせて、こっちは応援せんちゅーことですか?」
「露骨な言い方だね。そういう物言いは今後は避けた方がいい」
「………………はい」
「芹沢先生、宮本さん、緑野さん、そろそろ送るわ」
かなり遅くなったので静江の車で、まずは鐘留を自宅前に降ろす。一人娘を遅く帰した詫びを静江と鮎美が述べるため、緑野家の玄関まで訪ねると、鐘留の両親が出てきてくれた。優しそうな母親が言ってくれる。
「わざわざ送ってくださって、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、娘さんを遅くまで、すみませんでした」
父親も頭をさげてくる。鐘留の父親は小柄な菓子職人らしい清潔な手をした男性で玄次郎より若くみえた。
「どうもっす。ちょうど新作の糸切りコンニャクゼリーが出来上がったところですから、試食してやってください。あ、でも、まだ研究段階ですから写真とかネットやSNSにはアップしないでくださいよ」
企業秘密の試作品まで渡してくれた。鮎美は礼を言って玄関を出ると、少し歩いてから振り返った。まだ、鐘留と両親は見送ってくれている。鮎美も手を振りかえして背を向けながら思った。
「…………」
あんな穏やかそうなお母さんが産まれた子に障碍があるからって、わざと死ぬようにうつ伏せに寝かせて息を止めるやなんて、しかも二人も………ある意味で殺人犯……カネちゃんは、その殺人犯と毎日同居してるわけで……怖い夢を見るのは……当たり前かも、と考えた。三人暮らしは鮎美と同じだけれど、家の広さは、まったく違う。この広い家だと夜は淋しいだろうと想った。静江が嬉しそうに言う。
「かねやさんの新作が発売前に食べられるなんて超ラッキー! 一つ分けてくださいね」
「はいはい、そこのコンビニで三人で食べよ」
最寄りのコンビニで試食した後、次に港へ向かう。その車中で静江は運転しながら言う。
「少し前、タカ井に泊まった夜に、鮎美ちゃんと宮本さん、盲導犬の真似事したって?」
「っ?!」
疲れた頭で、ぼんやりと詩織のことを考えていた鮎美が目を見開いて驚く。
「な…なんで、それを?!」
「宮本さんから聞いたわ」
「っ…鷹姫……」
絶望的な顔で鮎美は鷹姫を見たけれど、同じように疲れている鷹姫は眠そうな目で答える。
「はい…、言いました…県知事選の後半でしたか…」
「なんでよ?!」
「鮎美ちゃんが演説してるとき、ちょっとした話題の流れで裏で宮本さんから聞いたわ」
「話題の流れって…」
「宮本さんが視覚障碍者からの陳情内容について訊くから、そんな団体じゃないよ、って話から、けど一人は視覚障碍者だったからとか、そんな話の流れよ。思い出すと恥ずかしいことしたって自覚はあるのね?」
「っ………」
鮎美が顔を伏せて震える。静江は前を見たまま続けた。
「二人が視覚障碍者の体験をしようと思ったのは、えらいかもしれないけど、そのとき裸だったんでしょ。旅館の部屋とはいえ、仲居か誰かに見られたら、どんな誤解を受けるか考えて行動してください」
「…………」
「はい、すみませんでした」
黙っている鮎美に代わって鷹姫が反射的に謝っている。静江は港の駐車場に車を駐めながら言う。
「スクープされた週刊紙の記事と似たような誤解を受けるわよ、最悪の場合。鮎美ちゃんが帯で首輪してて犬歩き。それを連れてる宮本さんが目隠しって、どんなプレイって思われるかもしれないから。実際、プレイとしては、どっちがMか、わかんない状態ね。ご主人様不在のMカップルとかスクープされたら超痛いわね。あ、カップルじゃないか。でもMはMね、ドMな二人に見えるよ」
「…………」
「Mというのは何ですか?」
「ぅ………う~ん……宮本さんは、それ知らないんだ……」
「はい、知りません。すいません」
「う~ん………まあ、そのうち教えるわ」
「はい、お願いします」
「ってことだから、知らずに変な誤解を受けないよう二人とも気をつけてね」
「はい」
「……はい……」
ぐっしょりと背中全体に汗をかいた鮎美も返事はした。車から降りるときも、足が震えていて、うまく立てずにフラつくほど、まだ動揺している。
「……………………」
なんで静江はんに言うんよ、鷹姫っ、なんで……、あのときのこと……他人に言うやなんて……二人だけの時間……ちゃう、………鷹姫はホンマに視覚障碍者と盲導犬やって思い込んで……けど、それでも……、と鮎美は脳内で大パニックになっている。額と腋からも噴き出すように汗が流れて、顎や肘に滴っている。
「芹沢先生、迎えの舟が来ましたよ」
「う……うん……」
「大丈夫ですか? 足元がおぼつかないようですが」
「あんたは……」
泣きそうな顔で鮎美は鷹姫を見たけれど、港が暗いので、鷹姫からは見えない。
「はい?」
「ううん……何でもない……。あの盲導犬ごっこの話、金輪際、誰にも言わんといてな」
「はい、わかりました。そんな足取りでは乗船時に湖へ落ちますから、お手を」
鷹姫が手を握って腰を支えてくれる。その優しさは嬉しいけれど、あの夜のことを口止めしなかったからといって他人に言う神経は理解できない、鮎美は漁船に乗ると座り込んで丸くなった。
「……………」
頭の中が、いろいろな出来事と人物、問題でグルグルと回る。犬、目隠し、鷹姫の裸、国防、危機管理、売春、フェミニスト、鐘留の冬服姿、礼拝、宗教、聖書、楽園、大学の設置、陽湖の白ストッキング、マルチ商法、電マ、詩織の指、畑母神、石永、裏切り、静江の土下座、御蘇松の落選、新幹線とダム、自眠党、茶谷、セクハラ、週刊紙、総選挙、眠主党、供産党、社会保障、障碍者、出生前診断、赤ちゃん殺し、三島、性同一性障碍、同性愛、鷹姫の身体、鷹姫の気持ち。鮎美は頭痛を覚えて呻く。
「ぅぅ…」
「芹沢先生、どうかされましたか? どこか痛むのですか?」
「……うん………うちは、もう疲れた……いろんなことで頭が、いっぱいや……」
鷹姫にすがりついた。
「……芹沢先生…」
「もう日本も世界も、どうでもようなってくる……鷹姫……二人で、どっか遠いとこ行きたいわ」
「………。今はお休みください。とてもお疲れなのです」
そう言った鷹姫は目を閉じさせるように鮎美の瞼を撫で、身体を支えた。
翌朝、鮎美は悪夢に魘されて涙を流していた。
「っ…ハァ…ハァ…夢…」
目を覚ますと、すぐに悪夢の内容は薄れていくけれど、まだ覚えている部分だけでもお腹の底が凍りつくような心地だった。たしか鷹姫を裸にしたり、目隠ししたり、舐めたりしたことが、すべて世間に露見して、議員の鮎美が同性愛者であると週刊紙に報じられ、誰からも蔑まれる夢で、鐘留に嗤われ、陽湖に避けられ、とうの鷹姫からは嫌悪され、両親にも見放され、なのに鮎美自身は裸で犬のように外を歩いていて、その首輪を石永と静江がもっていて、もう用済みだと言われて捨てられ、行くあてもなく彷徨っていると、衆議院議員になった鷹姫が通りかかって、冷たく見下してくる、そこで目が覚めた。
「…ハァ………ハァ……ぅぅ……」
寝汗と涙で、枕が濡れている。
「……うちは……なんで……」
同性愛者なんかに生まれたんよ?! と鮎美は考えないようにしてきたことを、はっきりと意識してしまい、呪わしくて枕を叩いた。それから自殺の方法を考える。思春期になってから今までにも何回も考えたことがある。首吊りは怖いし苦しいかもしれないし、いかにも自殺なので両親が悲しむ。
「………」
両親の悲しみを軽くするなら、交通事故がいい、赤信号ギリギリで飛ばしてくる車や歩行者を邪魔そうに走るトラック、あれに轢かれてみたら、いいかもしれない。けれど、即死でなければ、とても痛くて苦しそうだった。
「………」
自分の苦痛から逃げるために苦痛を味わうのがバカらしいなら、苦しくない自殺方法も知ってはいる。練炭、超高層階からの転落、凍死、でも、もっと楽な死に方がいい、拳銃でもあればいいのに、と考えると三島からもらった資料にアメリカでの思春期の自殺における13%が性的な悩みによるものだったという数字を思い出した。
「………」
「アユちゃん、そろそろ起きなさい!」
階下から美恋の声がした。
「……。はーい!」
自殺を考えていたはずなのに、ごく普通の声色で母親へ返事ができた。今までと同じく本気で死のうと思ったわけではないのかもしれない。鮎美は制服に着替えて朝食を両親と食べると、外に出た。5メートルも歩くと、陽湖に出会った。
「おはようございます、シスター鮎美」
「おはようさん」
「昨日は、ありがとうございました」
日曜礼拝に参加して、大学の設置に協力すると約束したことも大きかったようで、陽湖は明るい笑顔をしている。その笑顔が急に憎らしくなって鮎美は陽湖の襟首をつかむと、壁まで追い込んだ。
「っ?! な、なにを…」
「うちを利用できて満足なん?」
「何を言って…」
「屋城はんにも誉めてもらえたやろ?」
ずいぶんと年上ではあるけれどハンサムな屋城に向ける陽湖の眼差しで確かめなくてもわかっている。当たり前のように異性愛者でいる陽湖が憎くて鮎美は腕に力を込めた。
「ぅぅっ…く、苦しいです、や、やめてくだ…」
華奢な陽湖は壁に押しあてられて泣きそうな顔をしている。このまま首を絞めて殺してやりたいというバカな衝動まで覚えてから、鮎美は手を離した。
「ごほっ…ハァ…ごほっ…」
「………」
「ハァ…ハァ…どうして? 私が何か悪いことをしましたか? 何を怒っていらっしゃるのですか?」
「……。うちを利用したやん。自分らの計画のために」
「利用だなんて……そんな……。私は友達としてお願いして…」
「友達? うちが議員になるってわかってから、わざわざクラスまで変えて、引っ越ししてまで近づいてきて、しつこうされたら、うちかて応じなしゃーないやん。そこまで、しておいて友達?」
「っ…」
「うちが議員になるってことで、いろんな人らが、うちを利用しに来る。あいつも、こいつも、みんな、うちを利用することばっかり考えおって! そん中でも、あんたが一番タチが悪いんよ!! 友達面して接近して!! 頼みたいことがあるんやったら、友達とか言わんと陳情です言えや!!」
苛立ちをぶつけるように鮎美は陽湖を蹴りつけようとした。
「っ…」
蹴られると感じて怯えた陽湖の顔を見ると、鮎美は暴力を思い止まったけれど、暴言は続ける。
「友達いうんは宗教勧誘したり! 頼み事を陳情するもんやない! うちと、あんたが友達?! あんた、うちの何を知ってるんよ?! 勝手に寄ってきて! 利用するだけ利用して! どうせ、用が済んだら屋城はんに誉めてもらって、終わりやろ?! ざけんな! ちょっとでも友達できたって期待した、うちがアホやったわ!」
「わ……私は……そんなつもりは…」
陽湖が何か言う前に、さすがに近所の老人が騒ぎに気づいて顔を出してきた。
「どうしたのォ? 女の子が大声出して」
「……。何でもないです。騒いで、すんません。さ、学校いこう」
まるで二重人格かのように、怒りから真顔になった鮎美は老人を誤魔化して、陽湖の手を引いた。老人から離れてから、鮎美が手を離すと陽湖が背後から、すがってきた。
「ごめんなさい! どうか許してください!」
「………」
「おっしゃる通り利用したと言われれば否定できません。狙って近づいたのも事実です。でも、シスター鮎美と友達でいたいのは私の本心なんです! だから、どうか!」
「…………」
鮎美は背後から抱きつくように陽湖からすがられて、それを快感に想ってしまう自分に心底嫌気がさした。別に本気で怒っていたわけでも、陽湖を嫌ったわけでもない、むしろ逆だった。だから、陽湖を少しでも喜ばせようと日曜礼拝にも参加してみたし、面倒かもしれないけれど大学の設置にも協力すると言ってみた。なのに、結局のところ陽湖は屋城が好きなのだと感じると、強い苛立ちを覚えたし、それが嫉妬なのだと今わかった。
「どうか、許してください! 私と友達でいてください!」
「……陽湖ちゃん……ごめん、うちも言い過ぎたわ」
「シスター鮎美……」
「この頃、色々あって……うち自身も悩みもあって……思いっきり、八つ当たりやったね。うちの方こそ、ごめん」
「いえ、私の勝手な願いを忙しい中、本当に、ごめんなさい。……何を、お悩みなのですか? 私で協力できることがあれば、いくらでもしますから」
「……それは………」
「どうか言ってください」
「………」
言えるわけがない、という思いと、言ってしまいたい、という思いが心の中で拮抗し、鮎美は質問する。
「……誰にも言わんって約束してくれる? 絶対に、誰にも」
「はい、誓って」
「…………」
鮎美は陽湖の誓いを信じたくなった。少なくとも、神に仕える、と志している陽湖なら約束を破って言いふらしたりはしない気がする。鷹姫にも屋城にも黙っていてくれるだろうと期待できる。
「………放課後、うちに付き合ってくれる?」
「はい」
もう遅刻してしまうので、そこまで決めて船着き場へ向かった。鷹姫と老船頭が待っていてくれて、小舟に三人並んで乗った。
「芹沢先生、遅かったようですが、やはりお疲れですか?」
「うん……まあ……。あ、鷹姫、今日の放課後な、支部に行くの休みたいわ。静江はんに連絡してみてくれる?」
「わかりました」
すぐに鷹姫がメールを打っていてくれる。今は選挙もなくアポイントも無かったので休みは簡単にもらえた。小舟が古堀に着くと、鐘留が冬服姿で待っていた。
「おはよう、アユミン、宮ちゃん、月ちゃん」
「カネちゃん、おはようさん」
「おはよう」
「おはようございます、シスター鐘留」
「アユミン、なんか疲れた顔してるね。大丈夫?」
「「………」」
陽湖と鷹姫が、やっぱりという顔で心配してくれる。
「おおきに。いろいろ勉強も仕事もあって、ちょっと疲れ気味やけど大丈夫よ」
「ならいいんだけど、お肌に疲労が出るレベルになると、ソバカスが増えるよ」
「っ…」
鮎美が気にしていることを鐘留が言い、それが表情に出たので女友達として陽湖が怒る。
「シスター鐘留! 今のはひどいです!」
「ごめん、ごめん。アユミン、気にしてたんだね。気にしなくていいよ、それは、それで可愛いし」
「……別に……今さら……」
とくに欠点というほどではないけれど、小学校の頃から気にしていることだったので鮎美は歩く速度を速めて校舎に向かった。
「アユミン、ごめんってば」
「もうええから!」
自分でも、どうして、こんなに気分が落ち着かず、苛立つのか、だいたいわかっている。鷹姫を好きでいても、陽湖を好きになっても、鐘留を好きになっても、どの道、その先に待っているのは袋小路でハッピーエンドは存在しない。それがわかっているのと、議員となるための勉強の多さ、陳情の煩わしさ、正義や仁義が何なのか、わからなくなる世間の複雑さ、それも嫌で、結局、すべてが嫌だったし、嫌気がさしている根源は自分の同性愛指向だった。
「…くっ……うちなんか、生まれてこんかったら、よかったんや…」
つぶやきは追ってきていた鐘留には聞こえた。ひどく動揺して本気で謝る。
「アユミン……ごめん、そこまで気にしてると思わなくて……ごめんなさい、本当に、ごめん」
「もうええ言うてるやん! それ関係ないから!」
つい怒鳴ってしまうことにも自己嫌悪するのに止められない。ずっと苛立ったまま午前中を過ごし、お昼になって鐘留が泣いて謝ってくるので、ともかくは和解したけれど、疲労感は強かった。そして授業中も、ずっと迷っていた。相談にのるという陽湖に本当に話してしまうのか、話していいのか、話して大丈夫なのか。陽湖は信頼に足るような人物に感じるけれど、反面で同性愛を、はっきりと否定している。他の友達なら、引くことはあっても個人の自由という結論に至りやすい問題だけれど、陽湖の判断基準は神であり、その神は容赦なく否定している。
「…………」
「芹沢先生、早く帰ってお休みになってください」
いつの間にか、放課後になっていた。鷹姫が帰宅を促してくれるけれど、鮎美は横に首を振った。
「うち、ちょっと陽湖ちゃんと寄り道してから帰るわ。鷹姫は先に帰って稽古でもしていよ。いつも、うちのせいで練習不足やろ」
「はい。………ですが、……」
鷹姫が陽湖を見る。
「お二人で大丈夫ですか? この者は異教徒です」
「………鷹姫、この学園内やと、うちらは多数派ながら学校の運営方針から見れば、不信心者どもやで? 何より、そういう言い方、やめてやりぃ。うちらかて島に住んでるからって田舎もん扱いされたら嫌やん? 陽湖ちゃんは陽湖ちゃんであって、うちはうち、鷹姫は鷹姫、異教徒とか島育ちとか、大阪育ちとか、そんなん、たまたまやん。人として、どうなんか、それが肝心ちゃうの?」
「はい、おっしゃる通りです」
鷹姫が久しぶりに一人で島へ帰り、鐘留とも別れて鮎美と陽湖は路線バスで駅前に出た。
「シスター鮎美、どこかへ入りますか?」
「うん、そうやね……静かに話できるとこが、ええかな」
「喫茶店かミックにでも入りますか?」
「ミクドかぁ……ファーストフードって気分でも無いし……喫茶店も、ちょっと…」
人目があるところは嫌だった。それでなくても最年少議員候補予定者として顔が売れているので駅前に出ると、視線を感じる。鮎美はスマートフォンで検索して行き先を決めた。
「ここにしよ。カラオケルームのあるネットカフェやし、外に声が漏れへんやん」
「はい、この店なら、あっちですね」
土地勘のある陽湖が案内してくれてネットカフェのカラオケルームに二人で入った。カラオケをするための部屋なのでテーブルとマイクスタンドがあり、派手な色のクッションが並び、靴を脱いであがるタイプの個室だった。防犯カメラと扉に透明なガラス窓があるので人目が無いわけではないけれど、声は漏れないはずだった。
「けっこう広い部屋ですね」
「めちゃ広い部屋やん。大阪やと、この三分の一がせいぜいやで」
「それだと二人でも狭くないですか?」
「うん、二人が並んで、ぴったりくっつくほど狭いよ」
鮎美は大阪にいた頃、後輩だった女子と二人でカラオケに入ったことを想い出した。二名で申し込むと、一畳もない部屋になることがあり、カップルか女子二人がせいぜいで男二人だと狭くて居られないようなところに何時間もいっしょにいた。そして、防犯カメラはあったけれど、気にせずキスまではした。そんな仲だったのに、自室へ連れ込んで裸にしたら青ざめて逃げてしまった。その子は本気では同性愛ではなかった。そして今、陽湖と入った部屋は十分な広さがあり密着するようなことはない。鮎美は党支部で学んだ知識を思い出した。大阪市と六角市では地価が、まるで違う。
「この広さは路線価からの相場やろなぁ」
「言うことが女子高生じゃないですね」
「………」
「ごめんなさい」
「ええよ、別に。オジサンがするような勉強ばっかりさせられたせいやし」
「私、何か飲み物を取ってきますね。シスター鮎美は何がいいですか?」
「二人で行こ。自分で見て選ぶわ」
貴重品だけ持ってカバンを置き、ドリンクコーナーで鮎美はアッサムティーを、陽湖はアイスコーヒーを選んだ。部屋に戻って一口飲むと、静かになる。
「………」
「………」
カラオケをしに来たわけではないのでマイクも端末機も使わないし、分厚い曲リストを開くこともない。
「………」
「………」
鮎美は話そうと思っても口が重くて、何から話していいか、わからないし、陽湖は静かに待っている。わざわざカラオケルームまで借りるあたり、喫茶店ではできない話なのだと察していた。
「………」
「………」
「………」
「……シスター鮎美、話しにくいことなのですか?」
「…うん…」
「私は絶対に誓いは守ります」
「………おおきに…」
礼を言った鮎美は語りだそうとしたけれど、唇を震わせただけで話せなかった。三回呼吸をしてからアッサムティーを飲む。
「……………」
どうしよ、ホンマに言うの、言うてええの、言うてどうなるの、どうなるもんでもないやん、けど誰かに聴いて欲しかったから、ここまで来たんちゃうの、と鮎美は悩み、両手で唇と頬を覆った。
「………」
「………」
明らかに何か深い悩みを持っていて、それを言えずにいる様子なので陽湖は自分から話すことにした。
「私も人に言いにくいことがあるんです。先に私の話をしてもいいですか?」
「え……うん、ええよ、どうぞ」
「ありがとう。……」
いざ言い出すとなると陽湖も少し覚悟が要ったけれど、意を決して口を開いた。
「わ…私のお尻のアトピー、ひどいと思いません?」
「………そうやね……一番、お尻がひどいかもね……気にしてるのん?」
「ひどくなったのは……、よく………叩かれたからです」
「っ…誰に?」
鮎美は驚いて問うた。陽湖は静かに答える。
「両親です」
「虐待やん!」
「いえ、指導です」
「指導って……」
「私が神の教えに従えるよう、両親が指導してくれたのです。子供の頃というのはサタンの影響を受けやすいですから」
「…………」
「わかっていますよ、世間一般の人たちからは、少し奇異に見えてしまうことも」
「わかってんにゃったら……」
「それでも、私たちは、それが正しいと信じています」
「…………せやからって、アトピーで荒れやすい肌を……あんなに、なるまで……」
「そうですね。……つらかった……。木の棒……イチジクの樹から取った枝で叩くんですよ。すごく痛くて………庭にある樹………今でも見るのがつらいです。島に暮らしてるおかげで、見かけなくて済むから、うれしいくらい……」
「陽湖ちゃん……」
鮎美は言葉が無くて、せめて優しく陽湖の背中からお尻にかけてを撫でた。
「虐待ではないと今でも思っていますよ。でも、私に子供ができたら……間違ったことをしてしまっても、ちゃんと言い聞かせて反省させて、そうやって悔い改めさせてあげたい」
「……」
鮎美は今朝、苛立ちにまかせて陽湖を蹴ろうとしたときの、彼女の表情を思い出した。恐怖して怯えきった顔だった。自分や鷹姫なら竹刀で打たれても負けずに戦う気持ちがあるけれど、格闘技そのものを習わない陽湖には戦う意志も技術もない、それで一方的に叩かれると、そこには恐怖と服従しかない。それゆえ、ああいう表情になるのだと心の痛みとともに知った。
「なんぼ神の教えでも……一歩間違ったら警察沙汰やん…」
「少々極端な指導方法だとして、ブラザー愛也が赴任してきてからは無くなりました」
「屋城はんか……常識ありそうな人やったもんな……」
「先に話してしまって、ごめんなさい。誰にも言わないでください。このことを知っているのは両親の他は、ブラザー愛也とシスター鮎美だけですから」
「うん、もちろん。………」
「………」
「………」
「シスター鮎美の、お話というのは?」
「うん………うち………うちは…」
促されて鮎美はカミングアウトしようとしたけれど、喉と舌が動いてくれない。胸の奥から吐き出したいのに、喉につかえて言葉が出てこない。鮎美は左手で胸を押さえて喘いだ。
「……ハァ………ハァ……」
「シスター鮎美………」
陽湖が優しく背中を撫でてくれる。それで言えるようになってもよさそうなものなのに、どうにも言葉にできない。声にして自分の性的指向を告白することができない。防音措置が施されたカラオケルームは黙ってしまうと、痛いくらいに静かで鮎美はエアコンが効いているのに額へ汗を滲ませた。気の毒に思った陽湖がグラスのアイスコーヒーを飲み干して言う。
「お代わりをもらってきますね。何か、もらってきましょうか?」
「おおきに……うちは、まだ、ええよ」
陽湖が出て行き、鮎美は一人になると頭を抱えて呻った。
「ぅぅ…」
「……」
陽湖は廊下から振り返ってルーム内をガラス窓から見る。丸くなって震えている鮎美が見えて、相当に悩みが深いことが感じられたし、言いたいのに言えず苦しんでいるのも、わかった。
「……シスター鮎美……」
あえて陽湖は時間をかけて飲み物を選び、迷ったわりに結局はアイスコーヒーを注ぎ、鮎美と食べるためにチョコレートクッキーの小袋を買った。
「遅くなりました。これ、いっしょに食べませんか?」
「うん、おおきに」
鮎美は潤んだ目で返事した。ハンカチを握っていたので泣いていたのがわかる。陽湖は袋を開けて鮎美に向けた。
「おおきに」
鮎美は一つだけクッキーを食べて、アッサムティーを飲んだ。陽湖も食べて感想を言う。
「あんまり美味しくないですね」
「こういう店のやもん。カネちゃんがくれる、かねやのクッキーに比べ…、ごめん。うちの口も、いつのまにか贅沢になって、せっかく陽湖ちゃんが気を利かせてくれたのに、ごめんな」
「いえ、美味しくない物は美味しくないですから。けれど、贅沢な話ではありますね。世界には飢えて苦しむ人も多いのに」
「そうやね、日本では食品の半分が破棄されてるって数字もあるくらいやから」
「半分ですか…」
「けど、食糧自給率も50%弱やねん。うち、考えるんやけど、破棄分を考えたらギリギリ、カロリーベースで食糧自給率100%になるんちゃうかな。贅沢せんと、国内で獲れるもんを米粒一つ、小魚一匹まで食べたら」
「さすが議員予定者、言うことが違いますね」
「はは………」
鮎美は力なく笑って黙り込んだ。こんな話をするために、ここにいるのではないと、わかっている。わかっているのに、切り出せない。陽湖がクッキーを摘み、カラオケの端末を見る。
「何か歌いますか?」
「……ううん…」
「実は私、カラオケ苦手なんですよ」
「そうなん? なんで?」
「小さい頃から、ずっと賛美歌ばっかりで、普通の女子高生が知ってるような曲を知らなくて」
「そっか……ガチで信徒な一家なんやね……」
「シスター鮎美の、ご家庭は? ご両親と何度かお話させていただきましたけれど、ごく普通の人という感じでしたが」
「そうやね。普通よりは父さんの考え方が、お気楽というか、スチャラカというか、道楽もんなとこあるけど、母さんは普通やし。まずまず普通の家庭やと思うよ。……」
うちが同性愛者であったこと以外は、と鮎美は心の中だけで言った。
「…………」
「……シスター鮎美、そんなに話難いことですか?」
「…………うん………ごめん……待たせて…」
「いえ、………おトイレに行ってきます。何度も席を立って、ごめんなさい」
陽湖は女子トイレに入り、白ストッキングとショーツをおろすと便座に腰をおろす前にお尻を撫でた。
「………」
最後にお尻をイチジクの枝で叩かれたのは小学6年生の頃で、級友が貸してくれたCDプレーヤーで流行の曲を聴いていたのが両親にバレた日だった。身体を押さえつけたりはされなかった。お願いします、と自分で言い両手を椅子についてお尻を叩かれる度に、ありがとうございます、と大きな声で叫んだ。世俗の曲を聴きたいという気持ちが失せるまで、完全に悔い改めたと自分が確信するまで、お願いして叩かれるうちに、このまま死ぬのではないかと思うほど痛かったけれど、両親はやめずに叩き続けてきた。
「……私を愛していたから……叩いてくれた……はず……」
結局、痛みで失神するまで叩かれた。悔い改めました、の一言を改悛児が言えるまで叩くという慣習通りに叩き続けられ、どこかで両親が自主的にやめてくれるのではないかと期待していたのに、言わなければ血が出ても、傷になっても、失神するまで叩かれて、失神から目覚めたときも、叩かれていて、このままでは殺されると恐怖して、言った。
「…………」
あれから六年、両親との関係は悪くないつもりなのに、鮎美へ接近するために島で一人暮らしをするようになってから、気持ちが大きく解放されていた。それだけに、鮎美のためになることを、何かしてあげたかった。
「……シスター鮎美……同性愛者だと告白することは、そんなに苦しいのですか……」
もう鮎美の性癖には気づいていた。いつも鷹姫を見つめているし、その目が語っている。視線だけでなく、かなり迷惑そうにされているのに抱きついたり頬擦りしたり、お尻や胸に触れているときもある。鮎美自身は我慢し、隠しているつもりでも、隣席から観察していると、よくわかった。陽湖や鐘留にさえ、男子が女子を見るような目を向けてくるし、スキンシップも多くて困惑するほどだった。それらの行動と以前の議論で確信している。
「………でも、告白してもらって……私は何と言うべき……」
教義に従えば、そのような衝動は我慢し続け、男性との結婚を目指すべきだったけれど、それを教え諭したとき鮎美が、どう反応するかは悪い想像しかできない。
「……我慢し続けるべき………もし、私だったら……」
同性を好きになるという感覚は、まったく理解できないし共感もできないけれど、それを食欲に置き換えてみると少しはわかるかもしれない。まわりの人間は普通に食べているのに、自分だけは我慢しなくてはいけない、それも一生涯、一口も食べず、どんなに食べたくても我慢させられ、ずっと点滴か何かで生かされているとしたら、それは一種の地獄かもしれない。お前が食べるのは間違ったことだ、お前たちは食べてはいけない、と制約される者の気持ちを考えると、盗むな、殺すな、といった教義とは別のことに思えてくる。
「……シスター鮎美………あなたを苦しみから救ってあげたい……。でも、どうしたら…」
いい方法など知らなかったし、せめて話を聴こうにも、言うだけでも鮎美は苦しんでいる。
「あんなに言いづらそうに………」
陽湖はトイレを済ませると、鏡を見つめた。陽湖の顔立ちは鮎美と似ていて、女の子らしい細い顎をしている。似ていないのは胸の大きさや筋肉で、今は帰宅部でも中学では鍛えていた鮎美とは比べものにならない。鮎美がその気になれば簡単に押し倒されるし、そうされたこともある。
「けれど、あなたは我慢されました」
本気で陽湖が嫌がることまではされなかった。鷹姫に対しても一線は越えないようにしているのは感じる。
「そろそろ……」
あまり長くトイレに立っているのも変なので陽湖はカラオケルームに戻った。
「遅くなりました」
「うちもトイレに行くわ。荷物、見ておいてくれる」
「はい」
入れ替わりに鮎美が席を立ち、また陽湖は一人で考える。けれど、考えたところで答えの出るものではなかった。すぐに鮎美は戻ってきて、また同じように二人並んで座った。
「………」
「………」
再び沈黙が続き、鮎美の涙がスカートへ落ちる音がして、陽湖は心が痛んだ。
「無理に話そうとしなくてもいいんですよ。やっぱり、他人に言えないことなら黙っているのも大切なことですから」
「っ…ぅっ…ごめん……ごめん……うちは……うちは……っ…」
もう一度、言おうとしたけれど、やはり言えない。喉から声を吐き出せない。それが情けなくて鮎美は顔を両手で覆い泣き出した。
「ぅうっ…ううっ…ごめん………陽湖ちゃんが……せっかく……ううっ…陽湖ちゃんは話してくれたのに……ううっ…うちは卑怯や……ううっ……うちは……うちは……ハァっ…ハァっ…う、うちは……」
また告白しようとして苦しくなり、過呼吸でも起こしそうな様子なので陽湖は手を握って見つめた。
「シスター鮎美、言わなくていいです。言わなくていいんですよ」
泣いている背中を撫で、そっと抱きしめた。鮎美は号泣した後、枯れかけた声でつぶやいた。
「うちは…世界が…呪わしい……、この世界は、なんで、こうなんやろう……間違った存在なんは……世界なんか……人なんか……どっちも、なんかな……。こんな世界、壊れてしまえって何度も思った………世界が壊れんにゃったら……うちが壊れ………もともと壊れてるんかな……うちは壊れた……欠陥品なんかも……」
「………」
いくつもの人と世界についての聖書の一節が陽湖の脳裏に浮かんだけれど、それを言っても慰めにならないと、わかっているので黙って過ごした。
「シスター鮎美、そろそろ帰らないと連絡船が無くなります」
陽湖が時刻を見て告げると、泣き止んだ目で鮎美も腰を上げた。
「ごめんな、陽湖ちゃん、今日は付き合ってくれたのに」
鮎美は伝票を持つと会計に向かった。陽湖は半分出すと言ったけれど、あまり豊かではない生活をしていることは知っているし、自分の都合で入店したので鮎美は全額を支払った。路線バスで港まで行き、連絡船の終便に乗る。
「………」
ぼんやりと鮎美は船の窓から湖面を見ていて、つぶやいた。
「キリスト教も……この世界、壊れてしまえ、もう一回、神さんが造り直す、って考えなんやね?」
「そういう表現が正しいとは言い切れませんが、黙示録には、そうありますし、地上に楽園が訪れる前に、大破壊があることは預言されています」
「………神さんに祈るって、どんな気分なん? それで救われんの?」
「はい。………一度、いっしょに祈っていませんか?」
「…………」
鮎美は否定も肯定もしなかった。代わりに身近なことに気づいて誘う。
「こんなに遅くなって夕飯の用意も大変やろ。うちの母さんに言うて、いっしょに食べられるよう頼んでみるわ」
「いえ、それは…」
「遠慮せんでええよ。帰って一人で何か食べるもんあるの?」
「……すみません。今日は買い出ししてから帰るつもりだったので……実は冷蔵庫も空っぽで……お米だけはあるのですが…」
「誘って良かったわ」
鮎美は母親に電話をかけて夕食の人数分に都合をつけてもらった。港から家まで歩き、二人で玄関に入った瞬間、鮎美は陽湖の眼を両手で塞いだ。
「父さん! 友達を連れて来てるから!」
「おお、すまん、すまん」
風呂上がりで全裸だった玄次郎が急いでパジャマを着ている。玄関から居間が丸見えの構造なので隠れる場所もない。目隠しされた陽湖は赤面しつつ待った。
「もういいぞ」
「ったく」
鮎美が目隠しをやめる。
「いらっしゃい。月谷さん。まあ、座って」
「はい、お邪魔します」
もう夕食の準備は、ほぼ終わっていて鬼々島で獲れた魚の天ぷらとタコ焼きだった。陽湖は大阪人の食生活に軽いカルチャーショックを受けたけれど、それは顔に出さないようにした。
「いただきます」
鮎美は食べ始めるけれど、陽湖は食前の祈りを捧げる。目を閉じて頭を下げ祈っている。それは昼休みでも見慣れた光景だったので鮎美は何とも思わなかったけれど、玄次郎は興味深そうに陽湖の顔を見つめている。
「ほぉ、本当に祈るんだね」
「静かにしたりぃ。まじめに祈ってはんにゃから」
鮎美はタコ焼きを箸で半分に切ると、オカズとして食べ、白米も口にする。祈り終わった陽湖が目を開けた。
「いただきます」
「「「どうぞ」」」
穏やかに食事が始まり、ビールを呑みながら玄次郎が陽湖に問う。
「月谷さんは、いつから信仰を?」
「生まれた頃からです。両親が信仰していましたから」
「それを素直に受け入れたわけか……」
「父さん、あんまり信仰のこと言うたらんとき」
「わかったよ」
玄次郎が遠慮すると、美恋が言ってくる。
「あのシャンプーは合ってるの? お肌の調子は?」
「はい、とてもいいです。少しずつ良くなってくれて。ありがとうございます」
その質問には嬉しそうに陽湖が微笑んだ。食事が終わると、陽湖は片付けるのを手伝い、帰宅しようとする。
「ごちそうさまでした」
「月谷さん、お風呂にも入っていく?」
美恋が勧めた。
「いえ、そこまでは…」
「ええやん。陽湖ちゃん、いっしょに入ろう」
「……。……」
陽湖が困った顔をしていると、美恋が察した。
「アユちゃんは後になさい。あなたは友達とお風呂に入ると、いつもふざけすぎるから」
「う~……そうやね。つい、はしゃぎすぎるから。陽湖ちゃん、一人で入ってき」
鮎美に背中を押してもらって陽湖は風呂もいただいた。陽湖が揚がるタイミングで鮎美が脱衣所に入ってきて、新品のショーツと鮎美のパジャマを渡してくれる。
「いっそ泊まっていきよ」
「そんな、いきなり来て、それは…」
「もう、あと寝るだけやん。うちの部屋に客用の布団を敷いたし」
言いながら鮎美が裸になる。受け取ったパジャマを着るべきか迷っている陽湖は見るとはなしに、風呂場へ入っていく鮎美の背中とお尻を見た。鮎美の背中もお尻も肌荒れ一つ無く羨ましいほど可愛らしかったけれど、触りたいとは思わない。
「………」
いつまでも迷っていては裸のままなので陽湖はパジャマを借りた。
「ドライヤーを、お借りします」
「どうぞ。月谷さん、この化粧水も使ってみる?」
美恋が化粧水も勧めてくれたので試してみた。
「どう?」
「はい、いい感じかもしれません」
肌に馴染む感じで良かった。髪を乾かしているうちに鮎美も揚がってきて、二人で鮎美の部屋に泊まることになった。鮎美も女の子らしく化粧水やクリームを使って肌と髪を整えている。
「これも使ってみぃ」
「ありがとう」
クリームも、ごく少量を塗ってみて試してから肌に広げた。
「シスター鮎美のご両親は、いい人ですね」
「う~ん、まあ、父さんも道楽もんなだけで悪人ではない…、あ、玄関に入ったとき、見てしもた?」
「っ…」
見てしまっていた陽湖は赤面して顔を伏せた。
「ごめんな、いらんもん見せて」
「…いえ…」
「あんなもん、ゴリラかゾウやと思って忘れておいて。うちも、そうしてるし」
「……いつも、ああなのですか?」
「まあ見慣れると注意する気にもならんし。子供の頃から、ああやったし。こっち来ても変わらんなぁ……。ま、島の爺さん婆さんでも、ふんどしで歩いてたり、おっぱい丸出しやったりするやん。とくに夏場」
「………開放的な島で、驚きます」
「陽湖ちゃんのお父さんは裸で歩いたりしはる?」
「いえ、しません」
「そうなんや。やっぱ、それが普通よな」
鮎美は布団へ入って横になり、ふと気づいた。
「けど、アダムとイブって最初は裸やってんろ。ってことは、神さんも実は裸を奨励してはるん? いずれ来る楽園でも、みんな全裸なん?」
「ぅ…………いえ……そ……そんなことは………無いはず……す、すみません。勉強不足な部分です。ブラザー愛也に訊いて…っ、い、いえ、そういう質問は、ちょっと……」
「陽湖ちゃん、あの人のこと好きなん?」
「っ……」
わかりやすく陽湖の顔が赤くなる。
「そうなんやね、やっぱり」
「………」
陽湖が背中を向けて布団に入った。
「ごめん、ごめん、わかりきってるのに確かめて」
「………」
「あの人、結婚してはるの?」
「いえ」
「よかったやん」
「………」
「信徒同士やし、可能性はあんにゃろ?」
「……はい……」
「………。男の人を好きになるって、どんな感じ?」
「どんな感じと言われても………自然と、そうなったというか……」
「自然と……か…」
「………」
「うち……男の人を……好きになったこと……無いねん」
ぽろりと言えたので鮎美は続ける。
「好きになるのは………女…………やったり……。ぃ、……今も………た………鷹姫が……好きなんよ」
「………」
背中を向けていた陽湖が寝返って鮎美を見つめた。鮎美は目をそらしているけれど、顔は真剣かつ深刻だった。そして本来、好きな人について友達に語った時は、顔を赤くしているものなのに、鮎美の顔は湯上がりなのに青ざめ、唇と手は恐怖で震えていた。
「………」
「………」
目をそらしていた鮎美が陽湖の目を見る。
「今の話……誰にも言わんといてな」
「はい」
陽湖は震えている鮎美の手を握った。
「誓って」
「おおきに。……もう寝よ。おやすみ」
鮎美が照明を消し、静かに二人で眠った。
翌朝、鮎美が目を覚ますと隣で眠っていた陽湖は窓辺で祈りを捧げていた。
「………」
「………」
キレイな子やなぁ、素直で可愛らしいし、鷹姫に会う前に陽湖ちゃんに会ってたら好きになってたかも、と鮎美は静かに想った。陽湖が祈りを終え、目を開けたので思わず言ってみた。
「もし、うちに好きよって告白されたら、どうする?」
「……。神に祈って黙想します。よりよい答えが見つかるように」
「…………おおきに、即拒否でないだけ、嬉しいわ」
身支度をして陽湖は台所を手伝い、鮎美は玄次郎と新聞を分け合って読む。
「父さん、この事件、どう思う?」
「ん、ああ、これか」
障碍者団体向けの割引郵便制度の悪用事件で無罪判決を受けた厚労省局長の木村敦子に関わる証拠品として押収したフロッピーディスクの内容を捜査に有利なように改竄したとして証拠隠滅の疑いで大阪地検特捜部の主任検事が逮捕された事件で、改竄の事実を知りながら隠したとして当時の上司だった前特捜部部長と副部長が犯人隠避の疑いで逮捕されたことについて鮎美が問うと、玄次郎は少し考えて言った。
「いまだにフロッピーディスクとか使ってるのか、って思うぞ」
「え~……そこなん……っていうか、フロッピーって、どんなものなん?」
「ほらな、鮎美の世代だと知らなかったりするだろ。MDって知ってるか?」
「そんな音楽を録音する伝説のアイテムがあったことは聞いたことあるよ」
「あんな感じの形で一回り大きくて、記録できる容量は、せいぜい2メガだ」
「2ギガやなくて? それ、写真一枚、入らんのちゃう?」
「そんな骨董品と言ってもいいような物を、官公庁や病院なんかは、いまだに事務処理で使っていたりする」
「へぇ……非効率やなぁ」
「いい面もあってな、サーバーに入れておくより外からの攻撃に強かったりする。なにしろ、現場にいって棚からディスクを出してPCに入れない限り、読み取れないし、書き込めないから」
「ってことは、この事件も、逆に言い逃れできんのや? 特捜部の部長まで有罪になったら検察庁は大変やん」
「たぶん、主任検事を切り捨てるだけで終わるだろうな。世の中、そんなもんだ」
「トカゲの尻尾切り?」
「そういうことだ。鮎美も気をつけろよ。大きな組織は末端を切り捨てて本体を守るからな。この事件でも直接的な指示や隠匿の認識が部長にあったかの有無が焦点になるだろうけど、そんなもの否定してしまえば物証はない。けれど、フロッピー改竄の事実は動かない。となると末端を切って終わりだ。鮎美も自眠党の末端といえば末端なんだから気をつけろよ。基本、違法なことは自分の手でするな。指示もメールや文書で出すなよ、できれば電話もさけて口頭で。その口頭の指示さえ、曖昧な方がいい。そうすれば、あとは秘書が勝手にやったことにして切り捨てられるからな」
「……うちは鷹姫を切り捨てるくらいやったら、自分が死ぬわ」
「そうか、宮本さんは友達だからな。だったら、切り捨てる用の秘書を用意してもらっておけばいい」
「ひどいなぁ……」
「まあ、鮎美にそんな汚れ仕事を回してはこないだろうけど、何年かすれば、そんなこともあるかもしれないぞ」
「朝から娘に変なことを吹き込まないの」
美恋が怒りながら、ご飯茶碗を並べ、陽湖は焼いたハスを並べてくれる。夕食と同じように四人で卓袱台を囲んだ。
「朝食まで、ごちそうになって、すみません」
「いいのよ、三人分も四人分も手間は変わらないから」
「いっそ、月谷さんも、鮎美の隣の部屋で住むか?」
「「え…」」
鮎美と陽湖が驚いたけれど、玄次郎はわりと本気だった。
「どうせ、部屋は余っているし、高校卒業まで、あと半年も無い」
「ええやん、それ! 陽湖ちゃん、いっしょに暮らそう!」
「そんな……ご迷惑ですし……」
一番迷惑がかかりそうなのは家事を担当する美恋だったけれど、意味ありげに微笑んでくれる。
「いいわね、それ。毎日、月谷さんが帰ってきてくれるなら、あなたもパジャマを着てくれるでしょうし」
「ぅっ……ぐっ……しまった…」
いつも裸で寝ていた玄次郎が呻く。
「まさか、よその娘さんの前で裸にならないわよね?」
「………ま、まあ、どうせ、半年だ。いいだろう、たまにはパジャマを着てやろう。これから冬だし。この家は寒そうだからな」
「月谷さん、ずっと、ここにいていいわよ。お嫁に行くまで」
「え……お嫁……でも……」
「迷うんやったら、しばらく、あっちの部屋も借りたままにしといたらええやん。いっしょに暮らしてみて、やっぱり戻るなら、戻ればええし」
「シスター鮎美…………お父さん、お母さん、お申し出は、とても嬉しいのですが……あの……私が世間一般とは、少し違う宗教を……信仰していることは、ご存じですよね?」
「戒律違反になるのか?」
「いえ、恋人との同棲は禁止されていますが、今の場合は下宿のようなものですから、その問題はありません。むしろ、芹沢さんのご家庭にとってこそ、私の存在は問題になりませんか? 私は、ことあるごとに神の教えを口にしますし、島の全戸にリーフレットを配布したりしています。とくにシスター鮎美には神の教えに気づいてほしいと学校でも諭してしますし、もし同居すれば、いつでも娘さんに影響を与えることになってしまいます」
「「………」」
鮎美と美恋が黙り、玄次郎は笑った。
「どのみち鮎美は、そういうのは信じないだろう。もし、信じたとすれば、それは、それで新しい道が見つかって良いことかもしれないし」
「「「………」」」
「個人的には宗教は好きだよ。とくに若い頃は、いろいろと勧誘を受けて集会や礼拝にも行ったし」
「あなたは昔からバカだから」
「うむ。キリスト教系だと、統合教会も覗いたし、造価学会の説教に付き合ったこともある。空理教も建物が立派で見物だったな。人類史を振り返れば建築と宗教は不可分だし。何より月谷さん、客観的に見た宗教の素晴らしさは何かわかるかな?」
「……客観的に……ですか…」
主観的には神の教えは絶対で、それに従うことは至福であり使命であったけれど、客観的には変に思われたり差別されたことしか思い出がない。客観的な素晴らしさと言われると、陽湖は即答できなかった。
「…よく……わかりません……救われることですか?」
「では、信仰を持っていない人々にとっての幸福とは何だと思う?」
「…………信仰がなければ………お金、ですか?」
「三分の一だけ正解。答えは、お金、健康、人の愛だ」
「お金……健康……人の愛……」
「神の愛は、もちろん関係ないからね。信仰のない人間にとっての幸福には、お金が要る。だいたい属する社会の平均所得の1.5倍から2.5倍あたりで感じる幸福度はピークを迎え、それ以上の金持ちになると上がりにくく下がりやすい。次に健康。ま、説明は要らないだろう、健康だから仕事もできるし遊びにも行ける。そして人の愛、孤独はつらいからね。家族でも友人でもいい、何人かは親しい人が欲しいじゃないか。さて、この三つが満たされれば、だいたい幸せだと思わないかい?」
「……はい……そう思います」
「ところがだ、この三つを満たせる人間は、けっこう少ない。全人口の10%前後だろう。何かしら人間は問題を抱えたりするからね。そこで宗教の出番となるわけだよ。宗教の客観的素晴らしさは、人に幸福感をもたらすのに予算を必要としない。資源も要らない。医薬品も友人も伴侶も無くて大丈夫。神がいる、救いがあると信じさえすれば、幸せになれる。実に人類にとって不可欠な発明品であり、宗教の便利さは電気やガソリンを超えているんだよ」
「……………」
「陽湖ちゃん、遅刻するし、もう行こう」
「今夜も、いらっしゃい。カレーにするわ」
美恋が、もっとも人数分の調節がしやすいメニューを言って、来てもいいし、来なくてもいいと暗示してくれた。もう時間が無いので短く礼を言って鮎美の家を二人で出ると、陽湖の家に寄った。カバンに入れてある教科書を手早く今日の時間割に合わせて詰め替える。
「お待たせしました」
「ほな、行こか」
二人で船着き場へ向かい、鷹姫と合流して小舟に乗った。
「ってことで、もしかしたら、陽湖ちゃんは、うちに住まはるかもしれんねん」
「そうですか」
それを聞いても鷹姫は関心を示さなかった。
「……いっそ、鷹姫も、うちに住まへん? もう一部屋、空いてるし。道場で寝るよりええやん?」
「いえ、稽古の時間が取りやすいですし、さすがにご両親に迷惑でしょう」
「朝起きて、即稽古やもんなぁ……あんたは剣に、陽湖ちゃんは神に、対象は違っても、似たような生活してるなぁ……」
「「………」」
「うちも議員として頑張らんとなぁ……」
「シスター鮎美のお父さんは、とてもユニークな方ですね。あのように神を表現されたのは初めてです。否定される方や、個人の自由で片付ける方が多いのに」
「もとが建築家やからかな。どう役立ってるかとか、どういう機能があるかとか、そういう方面から考えるんやろ。根本は道楽もんやけど」
「シスター鷹姫のご両親は、どんな方ですか?」
「父は道場主に相応しい剣士です。母は亡くなりましたが、良い母でした」
「……それは……ごめんなさい…」
「いえ」
平然と答える鷹姫が、それでも母を恋しく想っていることを知っている鮎美はそっと陽湖からは見えない角度で鷹姫の腰を撫でた。いつもなら放って置かれる手に鷹姫が応じるように手を重ねてくれた。小舟が古堀に着き、鐘留が大きな家から出てきた。
「さて、残り少ない高校生活、今日は、どうして過ごしましょうかねぇ」
「カネちゃんも、うちの秘書にならへん?」
「秘書かぁ……面倒そう。どうしてアタシ? 月ちゃんの方がこまめに役立ちそうだよ」
「なんか事件があったとき、切り捨てる用の秘書が欲しいねん」
「きゃははっは!」
冗談だったとわかった鐘留が笑っている。陽湖がタメ息をつき、鷹姫は真面目に言う。
「いざというときは私を切り捨ててください」
「鷹姫………あんたには、ずっと、そばにおってほしいのよ」
「ラブラブだねぇ。主従愛でホットケーキが焼けそう」
「シスター鷹姫、あなたは冗談がわかっていないときがありますよ。シスター鮎美は間違っても秘書を切り捨てるような人ではありません。さきほど、お父さんの前でも同じ話題になり、そんなことをするくらいなら自分が死ぬと、おっしゃいましたから」
「芹沢先生が……」
「きゃははは、戦国時代じゃないんだから、切り捨てるとか死ぬとか、無いって」
鐘留が笑いながら校門へ向かっていった。
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