第11話 九月 県知事選・同性愛はサタンの仕業?

 火曜日の午前中、教室の机に伏して眠っていた鮎美は次の授業が聖書研究なので隣席の陽湖に起こされて、不機嫌そうに目を開けた。

「おはよう、シスター鮎美」

「………。おはようさん、エホパの陽湖」

「え? ……その呼び方は何なのですか?」

「あんたも、うちに好きなアダ名をつけたやん。せやから、うちも好きなように、あんたを呼ぶんよ。エホパの陽湖。エホコにしよか」

「きゃははっは! それウケる!」

 そばにいた鐘留が爆笑している。鷹姫は静かに数学の教科書を片付け、聖書を机の上に置いた。鮎美も仕方なく聖書を出すけれど、陽湖が真面目な顔で言ってくる。

「エホコはやめてください。神の名を、みだりに扱わないでください」

「怒ったん?」

「アタシがつけられそうになったネルネルよりマシだって」

「怒ってはいません。けれど、畏れ多いことです。神は喜ばれません。そのような扱いを繰り返せば、シスター鮎美は呪われるでしょう。どうか、やめてください」

「……感じ悪いことを真顔で言いおって…」

「きゃはは、シスター陽湖は本気の本気で神さまを信じてるの?」

「はい、エホパは常に私たちとともにおられます」

「「「………」」」

「これをシスター鮎美に読んでいただきたくてもってきました」

 陽湖は薄い冊子を鮎美に差し出した。とりあえず鮎美は受け取る。

「こういうの、うちのポストにも入ってたわ。大阪でも、こっちでも。よくも鬼々島まで渡ってくるなぁ……」

「私たちはエホパの教えを全世界に知っていただくことを喜びであり義務であると感じていますから」

「…はぁぁ……」

 鮎美がタメ息をつき、鐘留が言う。

「あれだよね、自分がハマってる漫画とかを押しつけてくるヤツに近いよね」

「中二病と、いっしょにしたらカネちゃんも呪われるで」

「アタシは神に祝福されてるよ。とっても、すっごく神さまに愛されてる」

「シスター鐘留は、エホパを感じておられるのですね?」

「うん、ばっちり」

「ウソつけ」

「だって、アタシは、こんなに可愛くて健康、しかも、お金持ちの家に生まれたんだよ? この世に神がいるとしたら、超アタシを祝福してるよ」

「幸せな考え方やね。けど、たしかに地球上70億人の中でカネちゃんちくらいの金持ちは、ほんの数%、おまけに可愛さもあってとなると、幸運に幸運が重なった最高のイージーモードで人生スタートしてるわな。それは神に愛されてるといえば、そうなんかも。どうよ、シスター陽湖はん?」

「どのようなキッカケであってもエホパを感じることに繋がるのであれば、それは祝福ですよ。けれど、驕慢はサタンの仕業です」

「暑苦しい考え方やね。暑苦しいといえば、あんたのカッコも暑苦しいなぁ。スカート丈が、そのまんまなんはともかくストッキングといい、インナーといい、見てるだけで暑苦しいわ。露出してるの、手ぇと顔だけやん。それも教義なん?」

「ごめんなさい。これは別の事情があって、教えとは関係ありませんよ」

 今日も陽湖は厚手の白いストッキングを履いていたし、上半身もブラウスの下にハイネックのインナーを着ていて、袖丈は手首まであった。どちらも白なので清楚な雰囲気はあるけれど、気温から考えると不自然な姿でもあった。

「宗教以外に何の事情があんの?」

「単にアトピー性皮膚炎なのです。とくに脚はひどくて。今朝は肘と首にも薬を塗ったので紫外線から守っています」

「そっか……そら気の毒に、ごめんな、いらんこと訊いて」

「いえ」

「アタシと違って神さまの祝福が足りないんじゃない? きゃははは」

「……」

「カネちゃん、女の子が気にしてるとこ、エグるのやめよか?」

 鮎美が鐘留を睨む。

「信仰は好きでやっとっても、アトピーは好きでなったわけやないやろ」

「怖っ…アユミン、大阪仕込みだから超怖いよ、ごめんごめん。きっと、そのうち治るよ。神さまの祝福にもサンタクロースのプレゼントにも遅配はあるのかもね」

「……」

「こいつの言うことは気にせんときな、陽湖ちゃん、顔にはアトピー出んで、よかったね。可愛い顔してんにゃから身体も早う治るといいね」

 そう言って鮎美は陽湖の頬に触れた。少し乾燥肌だったけれど、色白で可愛らしい顔をしているので、もっと触れていたくなるけれど変に思われる前にやめる。陽湖が嬉しそうに微笑んだ。

「シスター鮎美は優しい人なんですね。好きになりました」

「っ…」

「はじめてシスター鮎美の心を感じました」

「……別に、うちは一般論として言うただけや」

 鮎美は照れて顔を背けた。陽湖は気にせず、別の気になることを言っておく。

「ところでサンタクロースは聖書とは何の関係もない習俗であることを知って…」

「知ってるから」

 うんざりしたように鐘留が答える。

「それ一年生のときの聖書研究で習ったから。あ、でも、アユミンは知らないか」

「何を、うちが知らんて?」

「サンタクロースとキリスト教って関係ないんだって」

「……マジで?!」

「マジらしいよ。ま、詳しい説明は、そこのシスターさんに頼もうか」

 鐘留に指名されて陽湖が説明しようとしていると、聖書研究を担当する教師が教室に入ってきた。陽湖が教師に提案する。

「先生、シスター鮎美が、まだサンタクロース伝説とキリスト教に関係が無いことを知らずにいます。知る機会を与えてあげてください」

「そうか。彼女は転入生だったね。よろしい。今日の授業は、その話にしよう」

「………」

 授業内容を変えさせるやなんて、けっこう陽湖ちゃん権力あんなぁ、と鮎美は感じたし、ナザレのイエスの誕生日が聖書の記述によれば12月ではないと推測されることと、サンタクロースそのものはローマの豊穣の神に由来することを教えられたけれど、鮎美にとっては実に、どうでもよかった。逆に、ほとんどキリスト教の内容を知らないくせにクリスマスが強固に日本へ定着しているのは、平成の天皇誕生日が12月23日で祝日になることが大きいのではないかと考えたし、先月の終戦記念日が8月15日と、仏教上のお盆に重なることも運命の皮肉を感じていた。

 

 

 

 選挙戦最終日の夜、鮎美は御蘇松と新駅建設予定地で最後の演説をしていた。御蘇松が声を張り上げて言う。

「どうか、どうか、みなさま、この御蘇松にお力添えくださいますよう! お願い申し上げます!」

 集まっている聴衆は基本的に御蘇松を支持している層ばかりなので拍手と声援が起こる。これまでに弁士を務めてきた石永などの衆議院議員たちや直樹や県議たちもいて、声の限りに最後のお願いをし、鮎美も枯れた声で叫ぶ。

「お願いします! ホンマに、どうか、お願いします!」

 毎日毎日応援してきた御蘇松の手を鮎美は思わず握りしめると、高く掲げた。

「御蘇松さんは立派な人です! うちもお父さんとも、お爺ちゃんとも思うほど! だから、どうか! どうか、頼みます!!」

 男性の手を、こんなにも想いを込めて握ったのは初めてだったし、感情が高ぶったせいか、涙まで流した。最高潮に盛り上がった演説は拡声器の使用ができなくなる時刻をもって終了し、その後は聴衆へ握手をして回る。いったい何人と握手をしたのか、出陣式の3倍ほど集まっていた聴衆との握手を繰り返しているうちに、鮎美は胸やお尻に何度か触られたけれど、顔に出さず、文句も言わず、笑顔で乗り切った。ワンタッチで一票なら、それは清き一票とは言いにくいけれど、欲しい一票だった。

「本当に、お疲れ様でした芹沢先生」

「芹沢先生、大丈夫ですか」

 静江と鷹姫が寄り添ってくれる。もう声が出ないので鮎美は黙って頷いた。そのままビジネスホテルへ向かうために車へ乗り込もうとしたとき、御蘇松が声をかけてきた。

「芹沢さん、本当に、ありがとう」

「御蘇松先生」

 お互い声が枯れていたし、疲れ切っていたけれど、笑顔で握手を交わした後に自然と抱き合っていた。本当に心から御蘇松に当選して欲しいと思っているし、当初は不要だと思っていたダムや新駅も何度も自分で説明するうちに、明らかに必要だと考えるようになっている。

「また明日、頼みます」

「はい、御蘇松先生に入れてから、うかがいます」

 明日の投票日に選挙事務所で再会することを確かめ合って別れた。鮎美は静江の車に乗せてもらうと、続いて乗ってきた鷹姫の膝へ倒れ込む。

「……」

「お疲れ様です。どうぞ、休んでください」

「……」

 声を出すだけで喉が痛いので黙って頷いた。ビジネスホテルに着くまでの時間、ずっと鷹姫は鮎美の肩や背中を揉んでくれたし、撫でてもくれた。それが幸せで、ずっと感じていたかったけれど、眠くて眠くて目を閉じてしまう。到着してからも鷹姫が優しく運んでくれて客室に入ると、制服を脱がせてくれた。

「お風呂の用意ができました」

「……」

 ぼんやりと目を開けていた鮎美は自力で立ち上がりつつも、頼るように鷹姫の手を引いた。それで鷹姫も察してくれる。

「お背中流します」

「……」

 声が出せない代わりに握っている鷹姫の手を反対の手で撫でた。バスルームに二人で入ると、鷹姫が下着を脱がせてくれる。

「……」

 ブラジャーを外してくれるし、ショーツをおろしてくれる。鮎美は顔が赤くならないよう努力したけれど、やっぱり赤くなる。それに鷹姫は気づかずに手早く自分も全裸になると、鮎美の身体へシャワーをかけてくれる。肩や背中を撫で洗いしてくれて、胸の下や腋の下の汗も流してくれる。股間も流してくれてから、鷹姫はシャワーヘッドを戻して両手にボディーソープをつけると、鮎美の首から洗ってくれる。首、胸、腋、背中、それから両腕を指先まで丁寧に撫で洗いしてくれて、お腹もお尻も洗ってくれる。

「…ハァ…」

 鮎美は股間を洗ってもらい、興奮する自分を認識していた。ものすごく疲れているのに気分が高揚していて、いけないと想いつつも要求してしまう。

「…もう少し…奥まで…洗って…」

 枯れた声で求めると、鷹姫の指が股間の奥まで入ってくる。

「…ハァ…」

「……」

 黙って丁寧に鷹姫は洗った。

「…ハァ…」

 その指、もっと奥に入れてよ、舐めてよ、キスしたいよ、鷹姫、鷹姫、と鮎美は心の中で鷹姫の名を連呼したけれど、声に出すことは耐えきった。

「…おおきに…毎晩…ありがとうな……今夜で……終わりやね…」

「選挙戦も長いようで終わると、あっという間でした」

「………」

 やっぱり声を出すと喉が痛いので、黙って頷いた。二人で湯に浸かってからベッドに横になると、もう興奮よりも疲労が勝り、鮎美は深い眠りに落ちた。

「もうお休みですか?」

 鷹姫の問いに答えは無かった。

「髪が濡れたままでは風邪を引きますよ。喉も荒れているのに」

 起こさないよう静かに鮎美の髪を乾かしてから、掛け布団をかけてやり、鷹姫は鮎美の寝顔を見つめた。思い返すと、初めての演説前には腰を抜かしていたのに、この県知事選では歴戦の弁士のように堂々としてくれている。むしろ誰よりも大きな拍手を浴びていた。鷹姫は寝顔を見つめながら、誇らしさを覚えていた。

「……立派な政治家になってください。国を支える、一つ柱に。そんなあなたを私は微力を尽くして支えますから」

 そう囁いて、鷹姫も明日のために眠った。

 

 

 

 朝、泥のような眠りから鮎美は鷹姫に起こされてビジネスホテルの朝食を摂り、静江に港まで送ってもらうと朝一番の連絡船で鬼々島へ渡り、投票する。

「御蘇松善行、と」

 今回は声に出して氏名を書き、投票箱に入れた。続いて鷹姫も入れる。

「よっしゃ。ほな、御蘇松先生の事務所に行こか。島の皆さんも、よろしゅう頼みますよ。ま、投票所の中で連呼はできんけど、誰に入れるか、わかってますよね?」

「おう、任せとけや。寝たきりのジジババも全部、連れてきちゃるわ!」

 すっかり良好な関係になった自治会の役員とも握手をして、鮎美と鷹姫は再び連絡船で本土へ戻り、御蘇松の選挙事務所へ駆けつける。もう表立っての選挙活動はできないので事務所は世間話をする支持者や応援者たちで賑わっていた。先に着いていた石永が声をかけてくる。

「芹沢さん、静江、宮本さん、ご苦労様」

「おおきに、ありがとうございます。石永先生も、ご苦労さんです」

「お兄ちゃん、焼けたね。日焼け止め、何度か忘れたでしょ」

「ありがとうございます。石永先生も、ご苦労様です」

「公の場でお兄ちゃんはやめろって」

「ごめん、ごめん、ついね」

 もう予定に追われる忙しさから解放されて、なごやかな時間が過ぎていく。鬼々島からも数人の自治会役員などが駆けつけ、茶谷や鈴木も顔を見せている。昼食に提供されたオニギリを食べながら、どこかの自治会から来た役員が言った。

「ここ数年、せっかく来ても、質素な飯ばっかりになったのぉ」

「酒も出んしなぁ」

 誰かが相槌を打っている。

「……」

 アホちゃうか、そもそも豪華な食事も酒も公選法違反やちゅーこと、ええ歳して知らんのか、こいつら、と鮎美が睨みそうになっていると静江が耳打ちしてくる。

「芹沢先生、ご予定、忘れてませんよね?」

「……まあ覚えてる…」

 ここで注意しても何の利益にもならないことはわかっているので我慢した。ぼやいている男たちには鈴木と茶谷が声をかけ、機嫌取りをしていたけれど、鮎美にも声がかかる。

「酒じゃのうても、ええわい。可愛い子に茶でも注いでもらおか」

「うちで良かったら、いくらでも。けど、お尻に触ったら蹴り入れまっせ」

「おお怖っ、芹沢先生、言うことピシャっとしてはるなぁ」

 ほどよく機嫌を取っている鮎美を見て、静江がつぶやく。

「切り替えが早いわね………けっこう大物になるのかも。そういえば、こういうとき宮本さんは…」

 鮎美と同じくセクハラのターゲットになりやすそうな鷹姫を心配して見ると、お茶を注いで回りながらも、ときどき彼女に触ろうとしてくる男たちの手を絶妙な間合いと速度でかわしていて、まるで背中に目でもついているのかと思うほどだった。

「さすが、剣道全国1位」

 感心している静江の肩から背中にかけてを茶谷が撫でた。

「静江ちゃんも芹沢先生を、立派な先生に教育してくれてはるな」

「はい、まあ」

 と答えつつ軽い肘打ちで茶谷のわき腹を突いた。何度も似たようなことがあったので茶谷は笑いながら去っていく。

「懲りないヤツら……男って、もお…」

「すまないな、静江」

「お兄ちゃん、そろそろ私の車を買い換えて。飽きてきちゃった」

「ぅっ……大きく出たな……あんまり目立たない車にしろよ」

「ヤッタ」

 しっかりと見返りを確保した静江は接待を続け、夕方になる。さらに、ダラダラとした時間が過ぎて、夜になり開票時刻となった。事務所内にある雛壇中央に御蘇松が座り、そばには応援弁士を務めた鮎美たちが座る。御蘇松がマイクで挨拶をはじめた。

「泣いても笑っても、もはや開票時刻となりました。今少し、みなさま、この御蘇松にお付き合いください。みなさま方の今日までのご支援、ご指導の数々、次の4年間に活かして行きたいと思っております。本当に、ありがとうございました」

 儀礼的な拍手が起こり、さきほどまでとは違い、緊張した時間が始まる。マスコミのカメラも何台も入ってきて、御蘇松たちを囲む。鮎美も緊張して姿勢正しく待った。

「……まだ出ないか……」

 直樹が小さな声でつぶやいた。鮎美も小さな声で問う。

「当確って、県知事選は、どのくらいで出るんですか?」

「大差なら、すぐだよ。接戦だと遅くなる」

 一分が三分に感じるような時間が一時間半も流れ、つけっぱなしだったテレビから不穏なニュースが流れてくる。

「加賀田氏に当確、加賀田夏子氏に当確が出ました。ただ今、県知事選の当確が…」

「……ウソやろ…」

 鮎美のつぶやきは、その場にいた全員の気持ちを代表したものだった。

「………雄琴はん、当確って絶対なん?」

「いや………ごく、ごく稀に覆ることもあるらしいけれど……」

 ほのかな期待をする直樹の気持ちも、その場にいた何人もが抱いたものだったけれど、いつまで経っても覆ることはなく、テレビの向こうで夏子が支持者たちと万歳三唱をしてインタビューを受けている。

「加賀田さん、勝因は何だったと思われますか?」

「もったいない、この単純な一言につきます。県民のみなさんが賢明な判断をされたということです。何百億円もの県の借金を増やす政策にノーを突きつけたのは、県民のみなさんです」

 夏子が笑顔で言っている。花束が贈呈され、また万歳もして華やかなムードが流れるテレビの向こうと違い、こちらは沈痛な沈黙が支配していた。いまだ当確は覆らず、完全に絶望的となった頃合いにマスコミが御蘇松にインタビューを始めた。

「御蘇松さん、今のお気持ちをお願いします」

「………。ひとえに、私の力不足です。……支持してくださった皆様には、大変に申し訳ない……」

「今後については、どのようにお考えですか?」

「これまでの事業を新しい知事に引き継ぎ、滞りのない県政を託していきたいと思っております」

 一通りのインタビューが終わると、また重い沈黙が事務所を覆う。何人かは黙って帰宅し、他にも御蘇松に会釈してから帰っていく者もいるし、また頑張ってや、と声をかけて立ち去る者もいる。事務所内の人数が半分以下になった頃、ぽっつりと誰かが言った。

「相手が女じゃからって、小娘なんぞ使いすぎるでじゃ」

 大きな声ではなかったけれど、静かだったので鮎美たちの耳にも入った。鷹姫は心配そうに鮎美を見た。鮎美は下を向いて、泣いているように見えた。事務所内で泣いているのは鮎美だけで、声はあげていないけれど、涙が手の甲に落ちている。

「…っ…っ…」

「「芹沢先生、そろそろ…」」

 鷹姫と静江が異口同音に退出を促した。そっと立たせて事務所を去る。去る前に何か御蘇松と挨拶を交わさせようかとも秘書として考えたけれど、二人とも気力が無いようなので遠慮した。駐車場に行くと、島の役員たちがいた。

「ワシらの舟に乗せちゃろ」

「ありがとうございます」

 鷹姫が泣いている鮎美に代わって答えた。静江の車で役員たちの軽トラを追いかける。当選だったなら酒宴という流れだったけれど、落選では早々に帰宅するしかない役員たちも意気消沈している様子で、どこか軽トラのテールランプも悲しそうに見える。運転しながら静江が明るい声をつくって言った。

「鮎美ちゃんは、よくやってくれたよ。みんな、それはわかってるから」

「…っ…っ…」

「芹沢先生は立派でした」

「…っ…っ…うちは悔しいわ……なんで……なんでやねん……今の段階で新駅を止めて、どないすんねん。たしかにダムは要らんかもしれん。けど、新幹線の駅やで? 他県やったら喉から手が出るほど欲しがるもんやで? いまだに新幹線の走ってない県かってあるのに!」

「「………」」

「ちょっと借金が増えるくらいなんやねん! どんだけケチくさい県民や! 経済効果かって20年先くらいしか考えてないやん! 井伊市に駅があって30年、50年、めちゃめちゃ役に立ったやろに! もっと長いスパンで、もっと広い視野で考えられんの?! 阪本市も! 井伊市の連中も! 自分らが直接に潤わんかったら県全体の発展は無視かっ?! しかも動き出した計画を止めたら、これまでの投資がパーや! それどころか違約金やらなんやら! JRとの信頼関係もメタメタになるやろ?! これは北陸新幹線の湖西ルート案にも響いてくるで! 遠回りの京都北部案にもっていかれるかもしれん! 日本海側は、うちらの島みたいに結束しよるもん! クソっ! 畜生!! アホどもが!」

 鮎美は自分の膝を打って悔しがっている。鷹姫も静江もかける言葉を思いつけなかったけれど、港に到着して降りる前に静江が言った。

「芹沢先生は、もう議員先生です。さきほどの言い様、女子高生が言うようなことではないですから。けれど、県民や有権者を悪く言うのは秘書の前だけにしてください」

「………。ご忠告、おおきに。静江はんもお疲れさんです。ゆっくり休んでください」

「ありがとうございます」

 静江と別れ、鮎美と鷹姫は久しぶりに島へ向かう舟に乗った。湖上に波は無く、水面が月を反射している。舟が動き出すと、心地よい風が鮎美の涙を気化させた。

「……けど、これが民主主義の結果か……受け止めるべきなんか……」

「衆愚という言葉が生まれた由縁でもあるかもしれません。日本にシンガポールのようなハブ空港が建設されず中程度の空港ばかり乱立したのも衆愚の結果でしょう。ゼネコンの技術力と国の経済規模を考えれば世界一の空港があってもおかしくないのに、どこもドングリの背比べ、悪しき平等です。ドングリをいくつ集めても栗にも柿にもなりはしない」

「フフ……鷹姫、あんたも知識がついて、女子高生らしい無いこと言うね。いんや、あんたは最初から女子高生らしい無かったかな」

「………誉めてくれたのですか?」

「もちろん」

 舟が島に近づくと、操船していた役員が警笛を大きく鳴らした。鮎美は何も思わなかったけれど、鷹姫は長年の経験から鳴らす必要が無いのに鳴らしたように思え、振り返って操舵席を見た。

「…」

「…」

 役員の中年男性と目が合い、なんとなく意図がわかった。前を見ていた鮎美が声をあげる。

「うわぁ……キレイや……」

 真っ暗だった島が警笛に反応して照明をつけ始め、一気に明るく輝いていく。家々の明かりや漁船のライトも灯り、これほど明るくなるのかと感嘆するほど光り輝き、また湖上に反射して倍にもなった。鷹姫が言ってくる。

「選挙の敗戦で芹沢先生が意気消沈しているのを知った島の人たちのささいな計らいです。どうか、元気を出してほしい、一度の敗戦で心折れないでほしい、と」

「うん……うん……おおきに……ありがとうな…」

 鮎美が感動の涙を拭った。

「あんたらの島、最高やな」

「私たちの島は、もともと源平の合戦での敗者の集まりですから」

「そんな話らしいね、源氏やったん? 平氏やったん?」

「両方です」

「両方?」

「平安末期、平氏に追われた源氏が島へ隠れ潜み反撃の機会を狙っていました。けれど、頼朝の挙兵についての報が島ゆえに届かなかったか、報を罠とみなしたのか、動かずにいた。もしかしたら、田畑のわずかな島ですから日々の生活に追われ、兵糧がなく動けなかったのかもしれない。そのうちに今度は源氏に追われた平氏が島へ逃げ込んできたのです」

「………両方ってことは、殺さんかったんや?」

「はい、敗者を鞭打つに忍びなかったのでしょう。自らが辛酸を舐めたがゆえ、温情をもって迎えたと口伝されています。以後は双方武士として精進し、いざというときに備え続けようと、それが私たちの祖先です」

「鬼々島っていうても、優しい鬼なんやね」

 舟が港に着くと、百人以上の島民が出迎えてくれた。鮎美も元気に手を振って応え、桟橋で両親たちとも会い、それから見知ってはいるけれど、ここにいないはずの人物に出会って驚いた。

「あんたは……なんで、ここに…」

「先週から引っ越していました。お二人がぜんぜん島に帰ってこないので、あえて黙っていましたけど」

 陽湖が微笑み、握手を求めてくる。また、ほぼ条件反射で鮎美は握手に応じた。

「まさか、うちを勧誘するためだけに?」

「お友達になりに。私とエホパ、両方と友達になってほしくて来ました」

「……。ま、……ええわ。多様性の受容こそ、民主主義の光りかもしれんしね……」

 やや疲労感を覚えた鮎美だったけれど、また大きく手を振って島民たちに応えた。

 

 

 

 翌日、月曜の朝なので学校へ向かうけれど、家を出る前に鮎美は玄次郎に頼む。

「父さん、新聞、もっていっていい?」

「ああ」

 玄次郎は読んでいた新聞を折りたたんで鮎美にくれた。

「おおきに。いってきます」

 家を出て3件隣りまで進むと、陽湖が待っていた。

「おはよう、シスター鮎美」

「おはようさん、陽湖ちゃん。あんたの家、ここ?」

 鮎美は空き家だった小さな家を指した。家と小屋の中間くらいの建物で外壁はトタン板だったし平屋で15坪ほどしかない。室外機があるのでエアコンはありそうだった。

「はい、ここをお借りしました」

「……。率直に訊いてええ?」

「どうぞ」

「陽湖ちゃんの家って、貧しいというか、お金に困ってる?」

「えっと……豊かではないです。それでもアフリカや途上国で苦しむ人々に比べれば十分に恵まれていますし、なんとか寄付もしていますから、私は幸せです」

「まあ、海外の貧困はマジ底辺すぎるもんなぁ……けど、ここ、家賃は、いくらなん?」

「月3000円だったので借りてみました。あと、シスター鮎美の家に近いですから。両親は六角市の市街地に住んだままですし、一人暮らしとしては十分に広いですよ。キッチンとシャワーもありますし」

「お風呂は無いんや?」

「湯船は無いですね」

「たまにやったら、うちにおいで、お風呂を借りられるよう、母さんに言うておくわ」

「ありがとうございます。……シスター鮎美って、こう言っては何ですけれど変わった人ですね」

「どこが?」

「私が幸福のエホパの信徒であると知って、しかもシスター鮎美に教えを説きたいと、はっきり言ったのに、少しも避けるとか、差別するという風がなくて驚きます。嬉しいといえば、嬉しいのですが、こういう人もいるのかと不思議な想いです」

「少しは避けてるで。あんたが信徒やなかったら、今頃、もっと仲良かったんちゃう」

「クスっ…フフ、本当に面白い人」

 可笑しそうに笑う陽湖の笑顔を可愛いと想ってしまう鮎美は船着き場に向かって歩き出す。

「一人暮らしかぁ、夜は、かなり淋しいんちゃう?」

「いえ、いつもエホパがいてくださいますから。それに、島の人も親切ですし。ただ、若い男性の方に、よく声をかけられるのは困ります」

「男より女が好きなん? 実は同性愛みたいな?」

「また面白いことを言いますね。私が結婚できるのは同じ信徒か、信徒になってくださる方だけです。あと、同性愛は罪深いことですよ」

「そ、そうなんや。けど、最近はキリスト教徒でも同性愛をカミングアウトする人、多うない?」

「大変に残念なことですが、聖書の教えを間違って解釈されています。はっきりと聖書には間違った行いが書かれているにも関わらず、歪めて理解されているのです」

「あ~……ガチで原理主義の宗派なんやね。そういう宗派が集まってアメリカでも同性婚に反対してデモとかも起こってるもんなぁ」

「お詳しいですね」

「ぃ、…いや! し、新聞とか読むし! 議員として一般教養を高めてるから!」

 鮎美が中年男性のように小脇に挟んでいた新聞を強調した。それから話を変える。

「この島は古い地域やから、あんまり布教とかせん方がええよ。うちは差別せんけど、人によっては、どう反応しはるか、わからんし」

「ありがとうございます。ですが、神の教えを説くのに憚ることはありません」

「そう言うような気はした」

 二人は船着き場にあるゴミ集積所の横を通り過ぎる。島から出る生活ゴミは舟で市街地にある焼却所へ運ばれており、ここには島中のゴミが集まっている。そのゴミ袋の中に、明らかに陽湖が各戸のポストへ投函したと思われる幸福のエホパについてのパンフレットが多数見られた。

「…………」

「き、気にせんとき! みんな興味ないってだけやから! っていうか、うちらが配布した選挙のチラシやらも、あっという間にゴミになってるし、ほら」

 陽湖が配ったパンフレットだけでなく公選法の範囲と公費で撒かれた文書の類もゴミ袋の中に入っていて、御蘇松や夏子の顔写真が捨てられようとしている。そして、本来は業者が回収するはずの掲示板まで勝手に解体されて、使える板や木材は日曜大工などに流用されつつあり、鮎美は島民の公選法に対する順法精神が心配になった。

「シスター鮎美は本当に優しい人ですね。こういうのには慣れていますよ。子供の頃から」

「そ…そうなんや。……子供の頃から信徒なん?」

「はい、13歳で洗礼を受けました」

「洗礼か……独特の響きのある言葉やなぁ……。ってことはご両親も信徒なん?」

「はい、祝福された永遠の夫婦です」

「永遠の夫婦か……その夫婦の中には、やっぱり同性婚はありえんの?」

「ありえません」

「……ふーん……ってことは、あんたら信徒には同性愛者は悪魔の手先か、サタンの化身に見えるんやろね。できれば抹殺したいような」

「いいえ、私たちは同性愛者を憎みません。シスター鮎美、あなたはタバコが嫌いだからといってタバコを吸う人を抹殺したいと思いませんよね? 極端に行動してもタバコを世界から消し去るだけで済みませんか?」

「…………」

「私たちは悪い行いから遠ざかってほしいと願うだけで、誰かを抹殺したりしたいとは決して考えません」

「………」

 鮎美が黙って歩いているうちに乗るべき舟に着いた。すでに鷹姫が乗っていて老船頭も待っていてくれる。

「これに乗せてもらうの、久しぶりやな。この人数、乗れんの?」

「三人とも、めんこいで大丈夫じゃ。ワシも骨と皮じゃしの」

 小舟に鮎美と陽湖も乗り込んだ。沈むことはなく喫水線に余裕はあり島を離れて学校へ向かう。乗り込むとき、乗船に不慣れな陽湖のスカートがめくれて白いストッキングの股間が見えたのと、出発してからも座席らしい座席が無くて船底にある救命具に座っている陽湖のスカートの中が見えそうで見えないのが鮎美の視覚を刺激してくる。とうの陽湖は老船頭には背中を向けているので、同性相手にスカートの裾を強くは意識していないようで舟が揺れると、鮎美の位置からは股間が見えた。

「…………」

 我ながら病気というか、サタンというか、陽湖ちゃんの顔と手しか露出してへんのはカネちゃんの露出しまくりと違って、むしろ脱がせてみたくなるわ、さっきお風呂に誘ったんも無意識に狙ってたんかなぁ、うちは鷹姫が好きやのに、他に目移りして情けない女やな、けど、鷹姫には手を出さんて決めたし、いっそ教義でタブー視してる陽湖ちゃんを襲ったら、どんな顔するんかな、無理矢理脱がせて………って、まさに、うちがサタンやな、悪魔中の悪魔や、ご両親にエクソシストされるかも、と鮎美は余計なことを考えていたけれど、黙って見つめる鮎美の視線に陽湖が気づいた。

「シスター鮎美、私の靴に何かありますか?」

「あ、…いや……靴やなくて…」

 靴ではなく白ストッキングの股間を見ていたとは言えないので鮎美は誤魔化す。

「救命具に座るのは……いざというとき使うもんやし。けど、他に座る場所ないし、船底は汚れてるから……」

 鮎美と鷹姫は舟の骨格が座席のようにもなる横板に座っているけれど、他に座れそうな場所はない。今まで二人しか乗せなかったので問題はなかったけれど、三人だと落ち着く場所が無かった。

「鷹姫、もうちょい端っこまで行って」

「はい」

 鷹姫が舷のギリギリまでつめ、鮎美は中央に移ると、少しだけ余裕ができたスペースに陽湖を誘う。

「陽湖ちゃん、こっち座り。ちょっと狭いけど」

「ありがとうございます、シスター鮎美」

 揺れる舟の中で陽湖が転ばないよう鮎美は手を差し出し隣りへ導いた。女子3人がかろうじで並んで座れる。

「芹沢先生、やはり狭いので私が船底に座ります」

 鷹姫が腰を浮かしかけたので鮎美は腕を回して止めた。

「スカートが汚れるかもしれんやん」

「それは、そうですが、少々、暑苦しいですし」

 腰を抱かれては鷹姫も立てず、お尻を横板へ戻した。

「ええやん、ちょっと幸せな感じせん? この平和な海、小さい舟、なんとなく今が幸せって感じが」

「はい、ガリラヤの湖を思い出します、私は」

「私は呉越同舟という故事を思い出します」

「敵がおるの?」

「異教徒がいますから」

「……異教徒って……そうかもしれんけど」

 うちは両手に花って気持ちなんやけど黙っとこ、と鮎美は中央で二人の体温を感じながら古堀の船着き場まで過ごした。少し到着が遅かったので鐘留が退屈そうに小石を堀へ投げ込んでいる。

「あ、おはよう、アユミン、宮ちゃん、シスターエホパ」

「カネちゃん、きっと、それも陽湖ちゃんは嫌がるから、やめてやりぃ」

「じゃ、月ちゃんにしよ」

「シスター鐘留も面白い人ですね」

「面白くて可愛くてお金持ち、最高でしょ? っていうか窮屈そうだね。でも、楽しそうアタシも島に引っ越そうかなぁ」

「家賃は格安やで」

 四人で学校へ歩くと、道路に県知事選の掲示板が残っていた。鮎美が無念そうに御蘇松のポスターを撫でた。

「御蘇松先生、今頃どうしてはるやろ。新駅、どうなるやろ」

「放課後、その件についての会議の結果を聴くことになりそうですが、まだ昨日の今日ですから新しい情報は無いかもしれません」

「そうやね……」

「せっかくアユミンが頑張って応援してあげたのに、このオジサン負けちゃったねぇ。やっぱり美人には勝てないのかなぁ」

「選挙民も、そこまでアホではない………と思いたいね。けど、顔で選んだ人も、少しはいるやろな。加賀田はん、なかなかに可愛いし。………うちも、自眠所属やなくて、議員予定者でもなくて、ただの18歳になったばっかりの女子高生やったら、顔で選んで加賀田はんに入れたかも」

「アタシもアユミンに頼まれなかったら夏子ちゃんだったかもねぇ」

「私もシスター鮎美から依頼がなければ、どちらかといえば加賀田さんに入れたと思います」

「そっか……そら負けるわな。一夜明けて冷静になると負け戦やった気がするわ。応援してるうちに、どんどん勝てる気になってたんやけど、それは当事者だけやったんやね」

「芹沢先生は善戦されました誇りに思います」

「おおきに、鷹姫も、よう支えてくれて、ありがとうな」

 すっと鮎美は右手を出して鷹姫を見つめた。心から握手したいと想っている相手と、あまりしていなかった。鷹姫も微笑んで手を握る。

「次も頑張りましょう」

「うん、そうやね」

 二人で気持ちの切り替えを終え、学校に向かった。

 

 

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