第9話 九月 鮎美の逆鱗、売春の詩織、鷹姫の涙

 9月の日曜日早朝、鮎美は始発の新幹線で剣道全国大会へ向かう鷹姫を見送るためにホームにいた。

「ごめんなっ! 応援しに行くって約束したのに、ごめんな!」

「もう謝らないでください。去年も一人でしたから」

 武道の盛んな鬼々島に比べて、鮎美たちが通学する高校はキリスト教系の一派であることもあって、人が争う競技をよしとしていないのでサッカーやバスケ、バレー、野球などの球技系の部活はあっても、剣道、柔道、弓道などの直接的な争いに近い競技の部活は無く、毎年鷹姫は個人登録で出場していた。そして、この高校を選んだのは信仰ではなく、単に交通費が島嶼助成金による援助で無料になり、他の高校を選ぶと時間の都合から下宿になってしまうことが理由だった。実際、鮎美と鷹姫以外の島に籍を置く高校生は3年間、井伊市や三上市などに住んでいたりするけれど、それも費用がかかり、鷹姫はもっとも安価で済む方法を選んでいる。そんな事情を知った鮎美は東京まで応援に行くと約束したけれど、運悪く県知事選スタートの日に重なってしまった。

「ごめんな、ホンマごめん」

 それでも鮎美は東京へ行く約束を守ろうとした。静江に説得されても反論したし、直樹に言い含められても一蹴した。さらに石永に諭されても言い返した。けれど、眠主党の代表選挙が行われ、やや自眠よりだった小沢六郎が敗れて、鳩山直人が選出されたことで自眠党内の緊張感も変わり、いよいよ県知事選が近づくと鮎美のスマートフォンに衆議院議長の久野から電話が入り、とうとう折れていた。

「鮎美、そんなに泣くようなことでもないでしょう」

「せやけど……鷹姫との約束やったのに…」

「私は気にしていませんから」

 新幹線がホームに停車したので鷹姫は竹刀と防具を持って乗り込む。去年もらったトロフィーを鮎美が手渡す。

「鷹姫……荷物も多いのに、ごめんな……鷹姫……無事でな…」

「そんな今生の別れみたいな顔をしないでください。ただの日帰りですよ」

 始発で行って試合は9時から、個人戦は一日で終わるので夜には戻ってくる。

「では、行ってきます」

「うん、いってらっしゃい」

「………」

 ドアが閉まり、新幹線が動き出すと、すぐに鮎美が見えなくなり、井伊駅も遠くなる。

「あとは征くのみ」

 しばらくは鮎美のことも政治のことも置いて、剣道だけに集中すると決めると、鷹姫は大きな開放感に包まれた。

「去年は重圧を感じたのに……今年は、心が凪いでいる」

 一昨年は一年生で初優勝してしまい、二年生のときは周囲からの期待と注目によって重圧を感じていたのに、今は自分でも驚くほど開放感を覚えていた。試合をして勝つ、その一つのことだけに集中すればいい、という状況は快感でさえあった。

「高校最期、勝ってみせます」

 決意して井伊市を出た。鷹姫を乗せた新幹線が見えなくなると、鮎美は涙を拭いた。

「鷹姫、頑張ってや。うちも頑張るし」

 なぜ自分が最愛の鷹姫ではなく、知らないオジサンにすぎない御蘇松を応援しなくてはならないのかについては、もう考えない。決めたことなので精一杯やると決意してホームから出ると、駅のロータリーで車を駐めて待っていてくれた静江と三上市へ向かう。

「たしかに、三上市に新駅があったら、車で行かんでも速攻やな」

「それ庶民の感覚からずれてるわよ。任期が始まれば新幹線がタダになる国政議員と違って、普通の庶民は、そんな短距離を新幹線に乗らないから。あと、県民の足はメインが車よ」

「そうなんや。うちには自動車を運転する感覚もイマイチわからんよ」

「う~ん、それは問題かもしれないけど、かといって万が一にでも交通事故を起こされると面倒だから、やっぱり任期中は運転させない方がいいかな。都市部の先生方だと、まったく一切運転しない人、珍しくないし。運転って中間層がやることなのよね。下層は車を所有できないし、上層は所有して運転もさせるから。あ、高速に入るから後ろもシートベルトして」

 静江は急いで三上市へ向かうために高速道路を使う。前を見ながら鮎美に告げる。

「座席の背にあるファイル」

「これは……三島はんの」

 鮎美はファイルを開いて、三島由紀子の経歴を見た。

「へぇ、あの人って元は自衛隊員やったんや。二佐って、えらいの?」

「出世としては早い方ね。しかも、女性自衛官」

「あ、そうなるわけか……不本意なんかな……途中で辞めて…」

「二つもトラブルを起こせばね」

「……クーデターって、今どき……やることなん……」

「そっちは計画が露見してる。隠し事のできないタイプなのかもね」

「あとの一つは? ファイルに無いけど……」

「男ばかりの自衛隊に女の身体で入った彼女、もとい彼が交際関係でトラブルを起こすのは時間の問題だと思わない? 政治的には高い志を持つ人が、性欲において禁欲主義とは限らないもの」

「………」

「ま、とりあえず、どんな人か、党も調べたから結果は知っておいて。さ、それは忘れて今日の仕事。ファイルの最後にあったでしょ?」

「うちの演説の原稿やね」

 これから三上市で行われる御蘇松の出陣式でのスピーチが用意されていた。高速道路を走る車の中で、鮎美は原稿に目を通してから問う。

「えらい抽象的な内容ですやん。もっと新駅とか、ダムの必要性について言わんの?」

「三上市民と市議選があった六角市以外の県民にとっては鮎美ちゃんは初登場のパンダなのよ。この意味、わかるよね?」

「はいはい、可愛く元気に、やね?」

「そうそう。あと出陣式に来るのは支持してくれてる人とマスコミだけだから、必要性とか理屈とか要らないのよ。雰囲気と勢いが大切なの」

「ほな、チアダンスでもしよか」

「ダンスが終わってから、たっぷりセクハラされてもいいならね」

「うっ……、やめときます」

「それが賢明ね。っていうか、女を武器にするのは微妙に難しいよ。票の半分は女性なんだから」

「女性有権者って、やっぱり女性に入れるん? ……って、なんかエロい言い方になったけど」

「考えすぎ。で、意外と女性は女性に入れないよ。もし、そうなら全国の知事の半分は女性になっても不思議はないでしょ?」

「あ~……なるほど……。立候補も男性に多いけど……票も…」

「結局、政治とか立候補って男性の脳に向いた活動なんじゃないかな。ま、これから参議院は半数が女性になるから、それで社会が、どうなるか見物ではあるけど」

「高速道路無料化より壮大な実験やな」

「あの無料化実験も、実質、ほとんど通行量の無い路線ばっかりで実験というより地方への飴玉って感じね。わかってる人間が見れば、ただのガス抜きだって一目瞭然。最大のガス抜きと言ってもいい参議院を国民全体から公平にクジ引きで選び出す政策も一時しのぎにしかならなかったのかな……眠主党の勢い、止まらない感じ……県知事選やばいかも……」

「眠主党が政権を取ったらホンマに全国、高速を無料にするんやろか?」

「否定的だった小沢さんが代表選に落ちて、鳩山さんが来たからね。沖縄の基地は動かせなくても、通行料くらい実行しないと財政うんぬん以前にカッコがつかないでしょ」

「カッコと財政やったら、カッコなんや……」

「眠主党にしてみれば、さんざん自眠党が国債残高を増やした後だから今さらってのもあるかもね」

「このままのペースで国債が増えて人口減が続いたら日本は、どうなるんやろ……」

「対外債務が少ないから平気っていう学者と、ひどいインフレになるって説があるけど、逆にデフレになるって説もあるから、ようするに、みんなわからないのよ」

「日本は資源もないのに……」

「強みは物づくりだったんだけどねぇ」

「その製造業も正規と非正規雇用に別れて分断されて……眠主の支持基盤になってる連合は、どっちの味方なんやろ?」

「もちろん、正規雇用者の団体だけど、そこに非正規をどこまで含めるか、彼らも悩んでるんじゃないかな。含めちゃうとコスト増だし、含めないと労働者の味方って看板がウソ臭くなるし。どっちにしても自分たちの維持と拡大が目的。みんな、そう。結局は欲望の調整が政治なのよ」

「……欲望の調整……」

「鮎美ちゃんだってカッコいい彼氏つくって幸せな結婚して、お金に不自由しない生活がいいでしょ?」

「…………どうかな…」

 鮎美は目をそらして車窓を眺めた。

「秘書の立場としては彼氏つくるなって言ったけど、25歳から30歳くらいで、ちゃんと結婚しないと男って女が30過ぎると、結婚してくれ、から、結婚してやる、に変わるよ」

「………静江はんって、うちや雄琴はんには口を慎めいうくせに、けっこうズバズバものを言いはりますよね」

「私は場所と相手を選んでるもの。それに議員じゃないし」

「…………」

「でね、女が議員って立場だと男との関係も難しいの。けど、鮎美ちゃんは、ちょうど二期目が始まるとき24歳で適齢期だし、今の調子なら国民審査で落ちることは無さそうだし、やっかみを受けないよう一期目での結婚は控えて、二期目スタート時期なら、産休をとっても後半で活動して盛り返せば、衆議院への鞍替えも可能なんじゃないかな」

「………」

「私もお兄ちゃんの手伝いが面白くて、この歳まで結婚しなかったけど、やっぱり後悔する部分もあるのよね。適齢期に結婚しておくべきだったって。女の幸せってタイミングが大事なんだって、つくづく思うわ。だから鮎美ちゃんも一期目後半くらいで手頃な男性を見つけておくのが最善かな」

「………」

 鮎美は黙って静江を強く睨んだ。けれど、前を見て運転している静江は気づかない。

「ちなみに鮎美ちゃんって今まで彼氏いたことあるの?」

「…やかましいねん…」

 鮎美の放った声は、呻るような低い声だったけれど、つぶやきだったので運転中の静江には聞こえていない。

「え? 何て? ま、いいけどさ。とにかく計画的に結婚しないと、あっという間に30過ぎるよ。気をつけなさい」

「車、止めたって」

「え?」

「トイレ!」

「選挙事務所まで我慢して。時間がおしてるの」

「漏れるし、すぐ止まって」

「どぉーして駅で済ませておかないのよぉ。もォ」

 静江は加速してサービスエリアへ急ぐと停車させた。

「早く済ませてきてよ。もぉ、本当に子守りみたい」

「………さいなら」

 鮎美はドアを開けて降りると、トイレではなくサービスエリアの施設外へ通じる歩行者出入口へと歩いていく。

「ちょっ?! どこ行くの?!」

 静江が嫌な予感を覚えて車を降りて追いかける。

「どうしたの? トイレは、あっちよ?」

「……………もう行かんし……」

「じゃあ、車に戻って。出陣式まで時間がないの!」

「………せやから、それに、もう行かん」

「何言ってるのよ……あ、また、寸前になって怖じ気づいたのね」

 静江は市議選のスタート時に鮎美が立てなくなったことを思い出した。そして、鷹姫を真似て気合いを入れてみる。

「しっかりしなさい!」

 パシッ!

 鮎美の脳天を狙った静江の手刀は、あっさりと鮎美の手で払われた。もともとは大阪代表で出場して準々決勝まで残った鮎美、静江の手を払うのは容易なことだった。剣道経験のある鮎美の鋭い払いで静江は痛みを覚える。

「痛っ……」

「さいなら」

 鮎美はサービスエリアから出て一般道を歩き出した。

「どこ行くのよ?! どうするのよ?!」

「ほっといてや!」

「そんなわけにいかないでしょ?!」

「もううんざりやねん!!」

 鮎美が叫んだ。

「うちの人生を何やと思てるねん!!」

「何を怒って…」

「彼氏どうのこうの言うたり!! 結婚せい言うたり!! なんやねん?!」

「そ……それは……ごめん。まだ18だから、そういうの怒らない歳だと思って……ほ、ほら、私みたいに30過ぎちゃうと、ヤバい話題でも、鮎美ちゃんなら、まだまだ未来があって、いい彼氏つくるチャンスいっぱいあるって」

「余計なお世話なんよ!!」

「ごめんなさい、私が悪かったから機嫌を直して」

 静江は思春期後半の女子高生に余計なことを言ってしまったと後悔し、謝ったけれど、鮎美の激昂は治まらない。ズンズンと歩いてサービスエリアから離れようとする。

「お願い、待って!」

「………」

 無言で歩いていく。静江は慌てて追う。

「とにかく出陣式だけは出て! 党内での立場もあるのよ?!」

「………」

「鮎美ちゃ…」

 パシッ!

 引き止めようとする静江の手を、また鋭く払った。

「もう、うんざりや。自眠党も辞める」

「辞めて、どうするのよ?!」

「眠主でも供産でも、無所属でもええ!」

「っ…、ちょ……ちょっと、待って…」

 静江はゾクリと背筋が凍るのを感じた。今このタイミングで鮎美を失うのは、きわめて危険だった。一人の参議院議員を失うだけでも一大事なのに、最年少という注目が集まりやすい存在で、しかも今回の知事選は眠主が推している女性候補と拮抗しそうで、接戦になる予想だった。下手をすると鮎美を失ったことで負けるかもしれない。そして、それが自分の発言で鮎美の機嫌を損ねたのが直接要因となってしまう。青ざめた静江は鮎美の前に回り込んで頭を下げる。

「ごめんなさい! 私が悪かったから!」

「………どいて」

「本当に、ごめんなさい! この通り! どうか、許してください!」

 さらに深く頭を下げて謝る。

「……どけ言うてるやん。蹴るで」

「私が悪かったです! すみません! さっきのは失言でした! どうか、どうか、許してください! 本当に、すみません! 申し訳ありません! ごめんなさい!」

 とうとう謝っているうちに静江が土下座を始めたので、鮎美は冷静に戻った。足元で静江は何度も何度も謝りながら、両手をアスファルトについて、額まで擦りつけて謝っている。そんな姿を見ていると、沸騰していた鮎美の怒りは冷めていった。

「……あんたら……ホンマに…選挙のためやったら……何でもするなぁ……」

「どうか、どうか、もう時間が無いんです! お願いします、戻ってください!」

「わかったよ、もうええよ。戻るわ」

「ありがとうございます! 芹沢先生! ありがとうございます!」

「もうええて」

 二人で車に戻り、もう会話はなく出陣式へと急いだ。鮎美もできれば原稿を暗記に近い状態にしておきたいので何度も読み、気がつけば御蘇松の出陣式が行われる選挙事務所前の会場に着いていた。

「すごい規模やな……市議選と、ぜんぜんちゃう」

 会場は広くて変形するトラックを使ったステージまで用意されていて、音響設備も準備されているので、ちょっとしたコンサートでもあるかのような状態になっている。静江が運転する車が近づくと、一般来場者とは違う奥の駐車場へと案内され、市議選と同様に匿われるように建物へ入った。建物は閉店したレストラン跡だった。中に入ると大勢のスタッフが色々と準備をしているし、外でも駐車場の案内をしていた。静江が恐る恐る言ってくる。

「芹沢先生、ストッキングが破れていて恥ずかしいので、少しだけ離れてトイレに行かせてもらってよろしいですか?」

 静江は土下座したときにストッキングが破れて、少し血が滲んでいた。

「あ、うん。ええよ。うちも大人げなかった。ごめんな」

「いえ、私こそ、すみません。どうか、どこにも行かないでください」

「わかってるって。この段階で逃げんから」

 静江がトイレへ行き、再び鮎美は原稿へ視線を落としたけれど、誰かに肩を撫でられて顔をあげた。

「あ、茶谷先生」

「ご苦労さま」

「茶谷先生も御蘇松先生の応援に?」

 っていうか肩を触んなや、と鮎美は笑顔で苛ついた。

「ははは、市議程度では知事の応援演説はさせてもらえないものだよ」

「そういうもんですか?」

「そうだね。市長選で多選の市議なら対象になるけれど。何よりワシは六角市の人間、ただの頭数で来ている。知事の応援は市長や県議、石永先生がされるよ」

 いつまでも茶谷が肩に触れているので、鮎美は身を引いて逃げた。

「すんません、原稿に集中したいんで」

「おお、そうだね。ごめん、ごめん」

「………」

 別に丸暗記する必要は無かったけれど、鮎美は原稿を見ることで茶谷との会話を終わらせた。なのに、すぐ他の市議や見知った顔が現れるので挨拶せねばならず忙しかった。静江がトイレから戻ってきてからは、睨みをきかせてくれるので肩に触れられたりすることは無くなり、直樹も現れてくれた。

「雄琴先生も応援演説に?」

「ボクは井伊市の市民だからね。参議院議員としては候補予定者だけど芹沢先生が最良の人選なんだ」

「いろいろあるんですね。市議選のときは、誰かの応援演説を?」

「一応呼ばれたね。まあ、六角市の市議選だから、誰の応援をしたか、もう忘れたけど」

「ええ加減なもんやね」

「県内に、いくつ市町村があると思う? その度に呼ばれて、全部覚えられるかい?」

「うっ……たしかに…」

 やはり直樹と話すのは年配の議員と話すより気楽だった。そこへ、現職知事で今回の候補者でもある御蘇松が挨拶に来る。

「芹沢さん、今日はご足労いただき、ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ大役に緊張しております」

 もう慣れてきたので鮎美は挨拶と握手を自然に終え、御蘇松は挨拶回りに忙しいので、それほど会話することもなく去っていく。

「そろそろお時間です! ご来賓の先生方はステージへお願いします!」

 スタッフが叫び、鮎美は建物を出てステージに向かった。静江と直樹が励ましをくれる。

「頑張ってください、芹沢先生」

「気楽にやればいいよ。ミスっても、たいしたことない」

「おおきに。ほな」

 鮎美は緊張しすぎないように首を回して、試合前のように胸の中央を軽く叩いた。

「鷹姫がいなくても頑張るから」

 東京で鷹姫も頑張っているのだからと想い、ステージにあがった。ステージにはパイプ椅子が置いてあり、それぞれに紙が貼ってあり、誰が座るのか、わかりやすいようになっている。三上市長や県議、衆議院議員の石永、三上市に大きな工場を構えている自動車会社の役員、農協の役員、それらに混じって参議院議員候補予定者芹沢鮎美の名もあった。

「君が芹沢さん? 若いねぇ」

「はい、どうも」

 農協の役員に声をかけられた。もう何百回も言われたセリフなので笑顔で流してパイプ椅子に座る。

「…………」

 制服のスカートでステージ上はかなんなぁ、と鮎美は不安を覚える。鐘留ほどではないけれど少しは丈を短くしているスカートで椅子に座ると、ステージの高さと聴衆の目線の高さの都合で、ぴったりと膝を閉じていないと下着を見られてしまいそうだった。しかも、多くの聴衆は鮎美ばかり見てくる。見るだけでなく撮影もされているので絶対に膝を開くわけにはいかないと思い知った。

「……はぁぁ……」

 内腿の筋肉がくたびれそうやな、と鮎美は万が一のためにスカートの裾を膝の間へ少し挟んでおき、原稿を膝の上に置いた。そんなことをしているうちに市長の応援演説が始まり、鮎美はキョロキョロしないように注意しつつも聴衆を見渡した。

「………」

 ざっと千人以上はいるし、報道のカメラも多い、その半分が自分へ向いている気がした。

「………」

 剣道の全国大会やと観戦者は、もっと多かったかなぁ、けどマスコミは出陣式の方が明らかに多いな、と鮎美は緊張すること無く、並んでいるカメラを眺めた。

「………」

 また明日の新聞にも載るんやろか、テレビにも、うちの演説が流れ……それはないか、特定候補への応援演説を流すと、報道機関の選挙への公平性が崩れるから、と鮎美は増えた知識でいろいろと思いつつ、とうとう自分の番を迎えた。

「芹沢さん、お願いします」

「みなさん、おはようございます。芹沢鮎美です」

 順調に滑り出し、鮎美は原稿を読まずに自分の言葉で話す。

「今日は御蘇松知事の応援をさせていただくということで内心でホッとしております。どうしてか? この前は六角市の市議選で自眠の先生方みなさんを応援したんですけど、うちの票は1票しかありません。自分の口で何人も応援しておいて、入れられるのは1票だけ。なんや申し訳ないというか、ウソついてる気になってしもて。けど! 今回は迷うことなく御蘇松知事に自分の1票を入れられる。単純明快さっぱりスッキリで気持ち良う応援できます! さて、あんまりアドリブで話すと慣れんことで余計なことまで言いそうですさかい、そろそろおとなしい原稿を読ませてもらいますことをお許しください」

 そこまで言って鮎美は予定通りの原稿を読み、一礼した。大きな拍手が湧き起こり、鮎美は再び頭を下げる。そして、ホッと安心して大役を終えた実感とともにパイプ椅子に座った。後に続いた石永が演説の中で鮎美のことを、いじってくる。

「みなさん、さきほどの芹沢さんのスピーチ、なかなか素晴らしかったですよね。自分が芹沢さんの後になっているのは、もし彼女が失敗したときのフォローで、こういう順番になっていたわけですが、もう、そんな心配がまったく要らない、彼女は堅実で確かな方です。今日、この出陣式、みなさんも見慣れた知事より18歳で議員になる彼女を見に来た感もあるかもしれませんが、彼女がどうして我々の自眠党を選んでくれたのか、最初から彼女は自眠だったわけではありません。供産党の話も聴き、眠主党の竹村先生とも会っていたそうです。それでも、いや、その上で我々のところへ来てくれた。正直で堅実な彼女が堅実に県の発展を考えてきた自眠に、そして堅実な県政を8年続けて、いよいよ新駅の実現も目の前としてくださった御蘇松知事を応援している。もちろん、私もです」

 石永は二世議員らしく原稿無しに手慣れた弁舌で話をまとめていき、出陣式の最後として全員でのガンバロー三唱に入る。みなが起立して右手を拳にして大きく突き上げつつ叫ぶ。

「「「「「ガンバロー! ガンバロー!! ガンバロー!!!」」」」」

 まるで部活やな、と鮎美は思いながらも、こういうノリは嫌いではないので元気に拳を突き上げた。無事に出陣式が終わり、御蘇松が選挙カーに乗って出発すると解散となり、マスコミが鮎美へインタビューしようと狙ってくる。静江と石永が事前に調整していたので数分間だけ応答する予定だった。

「芹沢さん、18歳で議員となられること、どのように感じておられますか?」

「はい、とても責任の重いことだと痛感しています。勉強することも多くて。正直、まだ戸惑いの方が大きいですけれど、しっかり頑張っていこうと思っています」

「芹沢さんが自眠党に所属されたきっかけは?」

「雄琴先生に誘っていただき、石永先生や久野先生にお会いするうちに、長く日本を支えてきた自眠党が、未熟な私が勉強させていただくにも最良ではないかと思い、選んでいます」

「鬼々島にお住まいですが、以前は大阪ですよね。なぜ、鬼々島に?」

「父が道楽…いえ、父が鬼々島の雰囲気をとても気に入っていて、ぜひにと。私も気に入っています」

 三つの質問に答えたところで静江が止めに来る。

「そろそろ終わらせていただきます」

「あと一つだけ…」

「芹沢先生、こちらへ」

 静江が背中を押してくれるので、マイクとフラッシュの集中砲火から退散して車に乗った。静江の運転で、すぐに会場を離れる。もう撮られていないと確信すると、鮎美は伸ばしていた背筋をもたげ、だらりと手足も弛緩させた。

「はぁぁ……疲れた」

「お茶をどうぞ」

 静江が冷たいペットボトルをカップホルダーに入れておいてくれた。

「おおきに。けど、ホンマに市議選とちごうて応援も一件だけやし楽やね。人の多さは、すごかったけど」

「あれだけの人の前で堂々されているところは、尊敬します」

「そんな風に静江はんに誉められると恥ずかしいわ」

「………。この後のご予定、覚えておられますか?」

「たしか、石永先生の仲介で、どこぞの団体の陳情を聴くんやなかったっけ?」

「はい。………ただ、その陳情内容で、もしかしたら芹沢先生が不快な気持ちになられるかもしれません」

「ふ~ん………っていうか、二人きりやのに、えらいかしこまって話しますやん。なんで?」

「さきほどお怒りを買いましたので……本当に、すみませんでした」

「ああ、あれ………まあ、もうええよ。いつまでも怒ってもしゃーないし」

「すみません。……そして、これから会う団体も………ご気分を害する可能性があって……」

「どんな団体なん? 関西弁撲滅の会とか?」

「いえ……女性にとっては不快な団体かもしれません」

「ずばり言うと?」

「………売春を合法化させようという団体です」

「売春………売春かァ……」

「芹沢先生には今日以降も知事選の応援に立っていただきたい場面も出てくると思います。兄の仲介ではありますが、ご不快でしたらキャンセルいたします」

「…………」

 鮎美がお茶を飲みながら少し考え、結論する。

「会う約束はしたわけやし、うちに売春せい言うわけでもないし、話くらいは聴くわ」

「ありがとうございます。では、予定通り三上市の商工会議所へ向かいます」

 静江は早めの昼食を最寄りの喫茶店で済ませてから、商工会議所の駐車場へ車を駐めた。二人で降りて、ビルの三階にある小さな会議室に入った。約束の時間だった午後1時の10分前だったけれど、会議室では、すでに男が二人、女が一人、待っていて鮎美と静江を見ると、代表らしき男が挨拶してくる。

「お会いしていただき、ありがとうございます。春の会、代表の石川芳樹(いしかわよしき)です」

 ベージュ色のスーツを着て、整えた髭をたくわえている石川の次に女性が挨拶してくる。

「副代表の牧田詩織(まきたしおり)です」

「書記の吉野時夫(よしのときお)です」

 詩織は艶やかな美人で、吉野は丸いサングラスをかけた細身の男だった。それぞれと鮎美は握手して、向かい合って椅子に座った。

「やはり、お若いですね。芹沢先生、先生とお呼びした方がよいでしょうな」

「どちらでも。私の若さは本題ではないですよね。どうぞ、お話に入ってください」

 他の団体からの陳情を聴くときより、やや鮎美は硬い態度になってしまっていたけれど、それは石川も女性相手に自分たちの団体が主張していることからくる当然の反応として受け止めて、本題に入る。

「私たち、春の会は現在は違法なこととされながらも全国で行われている売春を合法化してほしいと考え、活動しています」

「そうですか……、それで?」

「女性の、しかも、お若い芹沢先生を前にして言い出しにくいことではありますが、あなたと同じ年齢、いや、もっと若い子たちが不当かつ不法に搾取されている実体は、ご存じですか?」

「……いえ……なんとなく、……そういう世界もある……というくらいにしか」

「でしょうな。性的な風俗産業というのは、パチンコは賭け事ではない、というのと同じく法的な方便によって誤魔化されています。本番行為がないことを前提にファッションヘルスやデリバリーヘルス、古くはソープランドなど形と名称を変え、続いてきているのです」

「……本番行為とは何ですか?」

 鮎美が首を傾げると、石川は微笑して詩織の方へ視線をやり、話すことを促した。詩織は年齢のわかりにくい美人と言っていい女性で、明るい色の髪を腰まで伸ばしていて栗色のジャケットとスカートを着ている。姿勢の良さは鷹姫に通じる凛としたところがあるのに、女性らしい艶めかしさも強くて、肌の露出は控え目なのに男を誘うオーラのようなものをまとっている。その艶っぽい唇が鮎美の知らない言葉を語ってくれる。

「本番行為というのは性行為のことです。男性性器を女性性器へ挿入し、射精することを言いますが、射精まで至らなくても挿入すれば該当しますし、コンドームなどの避妊具の使用の有無は関係ありません」

「………」

 鮎美は不快な顔をしないように努力したけれど、結局は表情筋が感情を表してしまい、顔に出た。それでも陳情を聴く議員という態度は崩さない。

「わかりました。続きをお願いします」

 石川が続ける。

「本番行為が無いと称しつつも、実際には行われていたり、また客も、それを期待して来店し、それらを警察は黙認したり摘発したりするというハンパな対応を取るために、風俗産業そのものがグレーゾーンの仕事として位置づけられ、社会から無視されています。これが大きな問題です」

「……どのような問題が?」

「社会から無視されるということは、そこで働く女性たちの権利は守られず、健康保険や労災保険、年金などの基礎的な労働者としての社会保障制度からも外れ、また運営そのものが反社会的団体、いわゆるヤクザによって直接、間接に行われるため、何らかの被害に遭っても女性たちは声をあげられず、ただ使い捨てにされるのです」

 石川は何枚かの写真を見せた。それは病気になって捨てられた女性や反抗して暴行された女性の写真や、その死体の写真で鮎美は背筋が寒くなった。

「こんなに……ひどい状態なんや…」

「これを解決するためには、まず売春そのものを合法化し、正当なサービス産業として位置づけ、まともな株式会社なり社会福祉法人なりが運営するものに転換していく必要があるのです」

「……そのために…売春を認めよと……そういうことですか……、サービス産業……」

「石永先生には、ご理解いただいております。そうですよね、秘書の石永さん」

 石川が追認を求めてくると、静江は嫌そうに返事する。

「ええ…」

「そうなんや……」

 静江と鮎美が女性として賛同しにくい空気をもっていると、詩織が語る。

「お二人は女性として、売春を悪いことだと感じますか?」

「ええ、感じます」

 静江は即答した。

「芹沢先生は、どうですか?」

「……まあ、……無い方が……ええかな…って…」

「私は、そうは思いません。売春は素晴らしい行為です」

「「………」」

「少し観点を変えてみてください。たとえば、一生女性に縁が無さそうなモテない男性や、不幸にして妻に先立たれた男性、好きな女性に告白したけれど手酷くフラれた男性、彼らに一夜でも幸福感を与えることは、悪ですか?」

「「………」」

「もっと掘り下げましょう。一生女性に縁が無さそうな男性、これを、もっと具体的に不幸に考えます。事故や病気、生まれもった障害によって、どう見ても女性に相手にされない、見るだけでも気持ち悪い外見の男性というのも存在します。彼らに奉仕することは、悪ですか?」

「「…………」」

「実は、そのような不幸な男性へ奉仕する看護婦の団体があります。とくに脳性マヒなどの疾患によって自分の手さえ、うまく動かせない男性。彼らが、どれだけ不幸かわかりますよね? 自分の手さえ、うまく動かせない、ということは自分で自分を慰めることさえできないのです」

「「………」」

「けれど、彼らにだって性欲はあります。そして男性の性欲というのは私たち女性が想像する以上に強烈なものです。どうにも抑えきれない衝動です。よく痴漢で逮捕される公務員が報道されますよね。彼らは、そんなにバカだったのでしょうか? もともとは公務員になれるくらいには優秀な人だったはずですし、努力もしたはずですし、日々の業務もこなしていたでしょう。けれど、ひとたび逮捕されれば、それらの努力が一瞬にして水泡に帰すとわかっていながら、それでもなお、衝動に負けてしまう。性欲とは、それほど強い衝動です」

「「…………」」

「お二人は今までの人生でセクハラを受けことがありますか?」

「ええ」

 静江は忌々しく頷いたし、鮎美も正直に答える。

「……まあ…」

 鮎美は茶谷の顔と手の感触を思い出して、肩の皮膚が気持ち悪くなった。

「そのセクハラをした人は愚劣でバカで、どうしようもないクズのような、何一つ長所のにないゴミ以下の人物でしたか?」

「…………そこまでは……」

「……長所も、あるとは……思うけど…」

 静江も政治の世界で生きてきたので、軽く肩を撫でられたり、腰に手を添えられたりと微妙に拒否できないセクハラを何度も経験してきたけれど、それを行ったのは多少なりと権力のある男性で、その権力に至るまでに努力もしているし実力もあったりする。鮎美も茶谷が市議として鬼々島の振興に尽くしてくれていることは知りつつあるし、いちいち肩に触ってくることさえなければ尊敬してもいい人物だと感じていた。

「お二人は地位のある男性に接する機会が多いでしょうね。そんな社会の上流にいるはずの男性でさえ、ちょっと私たちの身体に触りたい、撫でたい、そんな欲求に負けて、自分の地位が大いに危うくなるかもしれないのに、ついつい手を出してしまう。それほどに性欲という衝動は強く。また、彼らは、あわれで、かわいそうです」

「「………」」

「肩やお尻を少しくらい撫でたところで私たちは妊娠させられませんし、彼らも大きな満足がえられるわけでもない。なのに、やってしまう。実に、あわれです」

「そうかもしれないけど、それで牧田さんは何が言いたいのよ?」

 話題が女性として関わりの強いことなので、つい静江が秘書としての立場を忘れて質問してしまう。詩織は話を結論へ近づける。

「つまりは、立派な男性でさえ性欲に負けるほど、その衝動は強いし、また障害者などの弱者である男性もまた強い性欲をもっているということです。そして、立派な男性の方は、それなりに満たされる方法を自分で確保するでしょうが、弱者は、ずっと満たされない。ずっと苦しむのです。これほど、あわれなことがあるでしょうか」

「……否定はしないけど……」

「気の毒やな……」

「さきほど話した彼らへ奉仕する看護婦の団体ですが、どのような奉仕をされるか、想像してみてください」

「「……………………」」

 静江と鮎美が、それぞれに想像した。心優しいナースたちが、あわれな男性へ奉仕する光景を、ぼんやりと考えた。

「お二人の想像ほど、素晴らしい奉仕ではありませんよ。まず利用者とのトラブルを避けるために、あまり若い看護婦は所属していません。主に50歳以上のベテラン看護婦です。そして奉仕の内容ですが、ゴム手袋を着けて男性の性器を摩擦し、射精に至らせるもので、その間、利用者は看護婦の身体へ触れたりしてはいけません。キスさえ、ありません。ただ、ゴム手袋を介して刺激し、射精させるだけです」

「「………」」

「こんなものが人間的な性行為ですか?」

「「…………」」

「私たち女性で喩えれば、どうにも身体がうずいて淋しいときに、50歳以上の手慣れた男性が来て、事務的に下着をおろしてきて股間に電マをあてて女がイったら、終わり。そんなの性行為ですか?」

「………」

「………電マって……何ですやろ?」

 鮎美は知らない言葉を訊いた。詩織が親切に教えてくれる。

「電気マッサージ器の略です。このような形をした物が家電屋に売っているのは知りませんか?」

 詩織が両手の指先で、こけしのような形を宙に描いた。それで鮎美は思い出す。

「ああ、あの、肩にあてるやつ」

「あれの本当の使い方は私たちの股間にあてます。一度やってみてください、とても気持ちよくなりますから」

「…………。お話の続きを、どうぞ」

 鮎美が頬を赤くして、視線を彷徨わせつつ詩織を促した。詩織は整然と語る。

「人間的な性行為を、あわれな男性にも体験させる売春という行為を、お二人は悪だと思いますか?」

「「…………」」

「悪ですか?」

「……良い側面もあるのかもしれないけれど……」

「ええ面もあれば、悪い面も……あるやん」

「悪い面とは、売春に従事する女性が不幸になることですか?」

「そうよ」

「そうやね」

「その不幸を無くすため、きちんと労働者としての権利が守られ、搾取されずに正当な報酬を得て身を立てることができれば、それは不幸ではなく幸福な労働になりませんか?」

「「…………」」

「私たちは売春を合法化することで、あわれな男性に素晴らしい性の喜びを与え、搾取されている女性たちを救いたいと考えています。どうか、賛同してください。芹沢さん」

「うちは…………」

 鮎美が頭を抱えて悩む。

「……う~………」

 茶谷だけでなく、自分も鷹姫が迷惑そうにしても、ついつい抱きついたり頬擦りしたり匂いを嗅いだり舐めたりしてしまっている。実は茶谷より自分の方が罪深い気さえするし、それだけ性欲という衝動が強いことは実感として理解できる。そして売春が両者納得の上で搾取無く社会保障も充実して行われるなら、いっそ有りではないかとも思えてくる。とくに女から見向きもされないような男性が、どれだけ不幸か、どれほど苦しいか、わからなくもない。どんなに想っても相手にされないという不幸は、自分が生まれてきたことさえ呪わしくなるほどで、それが一時でも満たされるなら施すべき善行とさえ思える。けれど、売春する側の女性はどうだろうか、現状より改善され労働者としての権利が守られるようになっても、本当に不幸ではないのだろうか、搾取されない援助交際のような関係にしても、お金に困っていたり、お金が欲しいから実行するのであって、金銭のために身体を切り売りするという行為を肯定するのには、大きな躊躇いがある。そんな鮎美の悩みを見越したのか、ずっと黙っていた吉野が口を開く。

「私の職業はマッサージ師なのですが、患者さんの身体を揉んだり押したりして、気持ちよくなってもらい。肩や腰の痛みをなくしたりできる。他人様に喜んでいただける、とても素晴らしい仕事だと思っています」

「「………」」

「この両手で他人様に触れ、それなりの対価をいただき、気持ちよくなってもらう、という点で、妊娠しないように避妊して、他人様の身体に女性が女性として触れ、気持ちよくなってもらい、対価をえる行為と、何が違うのか。法律で売春を禁止している意味がわからない。むしろ、禁止するからこそ、アンダーグラウンド化し、従事者を不幸にする」

 吉野は丸いサングラスを外した。そこに目はなく傷跡だけがある。

「私は、この通り若い頃にヤクザ同士のくだらぬ縄張り争いで両目を潰されましてね。障碍者として国の補助でマッサージ師の資格をいただき、細々と生きております。ヤクザで前科者、その上に障碍者では、女性は相手にしてくれない。けれど、いくらかの金銭があれば、こんな私でも楽しめる。不幸中の幸いというか、目が見えませんからな、顔の善し悪しで女性を差別したりしない。だいたい、いつもCランクの子を選んでいますが、目が見えない分、あの子たちの心を感じられる。いい子ばかりですよ。それだけに、彼女たちが社会から無視されているのは我慢ならない。ヤクザ者だった私に国家資格を与えてくれたように、彼女らにも光をあててほしいのです」

「………」

 鮎美は何も言えず、相槌さえ打てないでいる。そんな気配を吉野は察して、薄く微笑して付け加える。

「また、せっかく議員先生に会えたついでに言ってしまえば、私たちマッサージ師という仕事も、最近は国家資格を持たないアンダーグラウンドな整体師やら、○○式マッサージなどという看板が目立ち、不当に圧迫される有様でしてね。それでいて、整体師や偽マッサージ師などに従事する人たちはスーパー銭湯などの大資本に搾取されている。こんな状況も、法律をつくれる先生方には、ぜひともなんとかしていただきたい。芹沢先生にも、覚えておいてほしいもんですな」

「………本当に、社会には私の知らない、いろいろな問題があることを痛感いたします」

 鮎美が三人を見て答える。

「本日のお話もまた、より理解を深めるべき問題であると感じます。今すぐ賛同することはできませんが、よく勉強して、あなた方の想いに応えられるよう前向きに検討させていただきます」

「「「よろしくお願いします」」」

 再び鮎美は三人と握手したし、最初の握手より気持ちはこもっていた。その握手をする姿を今度は写真に撮りたいと言われて了承したし、鮎美は吉野との握手が終わった後に訊いてみる。

「吉野さん、ぶしつけで無神経な質問かもしれませんけど、一ついいですか?」

「なんなりと、どうぞ」

「目が見えない状態で、……女の人と、…せ、性行為するのって、どんな感じなんですか?」

「クスッ…面白いところに興味をもたれますね」

「…す…すいません…」

 鮎美は再び顔が赤くなるのを感じた。吉野は説明してくれる。

「目が見えていた頃より、肌の知覚や、相手の息づかいが感じられて、いいものです。似たような体験がしたければ、目隠しでもして食事をされてみられるといい。新鮮な体験になると思いますよ」

「目隠しで……ご飯…ですか…」

「あと、晴眼者でも結局は暗い部屋でセックスしますからな。視覚というのはセックスにとっては入口に過ぎないのかもしれない」

「そ…そうですか……おおきに」

 会談が終わり、会議室を出た鮎美はトイレへ行きたくなったので静江と別れる。

「うち、トイレ行くわ。ちょっと待ってて。静江はん」

「はい、どうぞ」

 もう急ぐ予定はないので静江は頷いた。鮎美は商工会議所のトイレに入って、用を済ませると手を洗う。その背後に詩織が通りかかった。

「「あ…」」

 二人とも、鏡越しに目が合い、お互いに気づいた。

「さっきは、どうも」

「いえ、こちらこそ」

 お互い生理現象のおかげで偶然に再会した。詩織は立ち止まって背後から鮎美の姿を見つめる。手を洗っている鮎美の足元から膝の裏、腰の丸み、くびれたウエスト、そして首筋へ視線をやり、それから囁いてくる。

「あなたはビアンですね?」

「っ…」

 ビクリと驚いた鮎美が咥えていたハンカチを落としてしまうのを予想していたように、詩織は手を回してきて途中の空中でキャッチしてくれたけれど、そのまま鮎美の胸に触れてくる。

「同じ種類の人間というのは、わかるものです」

「…………。さ、触らんといてください」

 鮎美はハンカチを受け取ってから、まだ胸を触っている詩織の手を払った。

「もっとも、私はバイですけれど」

「………」

「電マも知らなかった可愛い議員先生はカミングアウトしないつもりですか?」

「……っ……っ…」

 鮎美は混乱と困惑で身震いし、詩織は気の毒そうに微笑んだ。

「隠しているのもつらいですけれど、認めてしまうのも大変ですよね」

「…っ…」

 鮎美は何も言えず、否定もできず、狼狽している。もう否定できないほど、うろたえてしまっているし、詩織は確信的だった。

「安心してください。誰かに言ったりしませんし」

「……」

 その一言で鮎美は泣き出しそうなほど安堵した。もし世間に知れたとき、どうなるのか、考えるだけで怖い。黙っていてくれるという詩織は初対面に過ぎないけれど、三島と同じように少数者にしかわからない苦痛を味わってきたなら、その言葉は信じたい。詩織がまた胸に触ってきた。

「あなたは経験も無いのですね。吉野に、あんなことも訊いて。目が見えない状態でなんて、どちらかが目隠しするプレイで簡単に楽しめるのに。電マも目隠しも知らなかったけれど、興味津々なのですね」

 囁きながら詩織が反対の手を鮎美の股間に近づけてくる。触ったりはせず股間の近くで、人指し指と中指だけを立てると、クネクネと動かしてみせた。

「ノーマルに恋をしても、苦しいだけですよ。あの人たちは私たちとは違う人間なのですから」

「………」

「こっちに、おいでなさい。何もかも教えてあげます」

「………」

 不本意に胸を触られているのに、鮎美は不快感と快感を半分ずつに感じた。そして、クネクネと動く詩織の指が、どこに挿入されたときの動きなのか、見ているだけでわかった。

「う……うちは…」

 飲み込まれそうな魅力と逆らいがたい誘惑を詩織から感じて、鮎美は足が竦んだ。けれど、似たような体験をしてきた経験から、再び詩織の手を払って胸を守る。圧倒的な力の差を感じたのは、竹刀をもって鷹姫と対戦したとき、そして久野や竹村と面談したときで、それが剣道なのか、政治的カリスマ性なのか、そして性的な魅力なのか、という違いはあっても、こちらを飲み込んでくるという意味では同じだった。鷹姫へは何百回打ちかかろうと勝てないし、久野や竹村の支持者や秘書として働けるなら、それは喜びだったし、そして詩織にベッドの上へ誘い込まれたら、恋も想いも関係なく、ただ肉体的な快感で翻弄されつくすのだと、わかった。わかったから、負ける前に鮎美は逃げた。

「し、失礼します!」

 やっと、それだけ言うことができて鮎美はトイレから逃げ出した。

「ハァ…ハァ…」

「どうかされましたか、芹沢先生?」

「な…なんでも…ないです。この後の予定は?」

 鮎美は平静を装って静江と接した。静江は申し訳なさそうに言ってくる。

「予定は無かったのですが、今さきほど御蘇松知事の選挙参謀から連絡が入り、六角市内を選挙カーで回るとき、芹沢先生にもご同乗願いたいそうです」

「選挙カーに?」

「三上市を出発されてから県南部の阪本市などを回っておられたそうですが、風というか、空気感からくる手応えが悪いようです」

「そんなん、わかるんや……」

「なんとなくに過ぎないでしょうけれど、道行く人の反応などで感じるものです。それで、ご同乗願えませんか?」

「うちは、何したらええの?」

「窓から手を振って笑顔で挨拶するだけですよ」

「ほな、やらしてもらいましょか。5万も日当もろたんやし。朝の演説だけでは悪いわ」

「市議選と違って応援する候補者は一人きりですから、お小遣い稼ぎたいなら日数で頑張ってください。あ、ご要望でした井伊市の料理旅館タカ井は予約が取れましたよ。選挙カーでの地区回りが終わったら、ゆっくり骨休めしてください」

「ヤッタっ! おおきに!」

 静江の運転で六角市まで戻り、電話で決めた合流地点で御蘇松の選挙カーと邂逅した。市議選の選挙カーより、スピーカーも大きいし、後続車もあって2台の普通車が続いていた。鮎美が近づくと御蘇松が礼を言ってくる。

「芹沢さん、ありがとう。こちらに乗ってください」

「はい」

 鮎美は御蘇松が乗っている助手席の真後ろの席へ導かれて座り、ブルーのハチマキを渡される。今朝も同じハチマキを運動員や聴衆の一部がしていたのを見ていたので、この色が選挙戦においての御蘇松のシンボルカラーなのだと鮎美も知っている。渡されたハチマキを額に巻きつける。

「相手候補の加賀田はんの色は緑でしたっけ」

 鮎美が後頭部でハチマキを結ぶために両腕をあげていると、隣にいた男性運動員の視線が胸にくるのを、なんとなく感じたけれど表情には出さずに結び終える。

「芹沢先生、これが予備のマイクになります」

 運転席の真後ろに乗っているウグイス嬢が男性運動員を介して鮎美へ有線マイクを渡してくれる。

「芹沢先生も元気に挨拶してくださいね」

「はい。……模範のセリフとか、ありますか?」

「そうですね。こんにちは、御蘇松です。どうか、御蘇松への応援をよろしくお願いします。もしも、こちらへ手を振ってくださる方がおられれば、ご声援ありがとうございます。勇気をいただきました、ありがとうございます。といったところです」

「わかりました」

 選挙カーが走り出し、六角市を回る。たいていはウグイス嬢が本職なのでマイクを握って声をあげ、ときおり御蘇松自身も声をあげる。鮎美は窓から外へ手を振りながら、ときおり知らない市民が自分を見て反応してくれるのを、面はゆく感じたけれど、笑顔を返していく。

「あ、あれ、鮎美じゃね?」

「お、芹沢も乗っとるぞ」

「鮎美ちゃんだぁ!」

 と好意的に手を振ってくれる市民もいるし、ごく稀に不快そうに睨んでくる市民もいる。知らない人に睨まれるのは精神的にダメージだったけれど、しばらくすると慣れたし、反対する人間がいてこそ民主主義かもしれないと考える余裕もできた。

「腕がダルいわぁ」

 ただ、振りっぱなしの腕はダルかった。

「揉んであげるよ」

 隣にいた男性運動員に言われたけれど、鮎美は断る。

「いえ、けっこうですから」

 何度か鮎美は身体を触られたので、もう彼に対して不快感しかもっていない。とくに鮎美も知っている市民や同じ学校の生徒、島民などを歩道に見かけたときは、車窓から大きく身を乗り出して手を振ったりしたけれど、そのとき支えるように腰をもってくれたのはよしとしても、だんだんとお尻の方まで触られるようになったので、今にも嫌悪感が爆発しそうだった。そして、爆発した。

「触らんといてくださいよ!」

 お尻の真ん中を撫でられて鮎美は怒鳴った。

「……あ…ああ……ごめん、……うっかり手が当たって…」

「うっかりが7回もあるかい!!」

 言い訳が余計に怒りへ油を注ぎ、鮎美の怒声が車内に響く。ウグイス嬢は、すぐにマイクの主電源を切った。御蘇松が驚いて振り返ってくる。

「どうかしましたか、芹沢さん?」

「この男が何度も、うちに触ってくるから嫌なんです!!」

「うっかり手が当たっただけっすよ!」

「「………」」

 御蘇松とウグイス嬢は鮎美の言葉を信じたけれど、鮎美を説得してくる。

「申し訳ないね、芹沢さん、狭い車内で」

「芹沢先生も、よく頑張って挨拶してくださって助かりますわ」

「今は挨拶とか関係ないんちゃいますか! うちは触んな言うてるんですよ!!」

「気がつかなくて申し訳ない。君、もういいから、後続車に乗って」

 御蘇松は男性運動員を選挙カーから後続車へ移した。

「これでいいかな?」

「……はい……騒いで、すんません」

 なんで、うちが謝ってるねん、と思いつつも鮎美は謝っていた。御蘇松が言ってくる。

「すまないけれど、井伊市を回るのにも乗ってきてくれるかな? 芹沢さんがいてくれると、ぐっと反応が良くなるし」

「……わかりました…」

 もうやめたかったけれど、そうも言えず、井伊市へも同乗する。その途上で田んぼしかない道路を走っているとき、ウグイス嬢が連呼をやめて、そっと言ってくれる。

「芹沢先生のおかげで、さっぱりしましたよ。あの人、私の膝も触ってきていて、うっとおしかったですから」

「そうやったんや……」

 それなら、もっと早く言ってほしかったわ、と鮎美は怒鳴ったときに言ってほしかったと口惜しく思った。それから井伊市を回ると、市民の反応の悪さを実感した。もともとの新幹線駅がある井伊市にとって御蘇松の新駅構想は評判が悪く、誰もが反対という雰囲気で選挙カーが通っても、うるさそうにされたり、ひどいと露骨に中指を立てたジェスチャーを送ってきたり、鮎美が乗っているとわかると、さらに性的に下品と思われる鮎美が知らないジェスチャーを送ってきたりされた。こちらへ好意的に手を振ってくれたのは、ごく少数の御蘇松を支持する市民と、わずかに鮎美と同じ学校へ通っている高校生数人だけだった。井伊市内は六角市ほど長く回ることはなく選挙カーは次の目的地だった県最北部の浅井市を回る。ダム建設が予定され、対立候補はダムにも反対している浅井市では御蘇松への支持はあって雰囲気は良かった。そこから、さらに、人口の少ない県北西部の朽木市を回ったのは日が暮れる頃だった。夜になると拡声器による連呼はできなくなるので選挙カーは三上市の事務所へ戻った。静江たちが出迎えてくれる。

「お疲れ様です、芹沢先生」

「…うん…おおきに…」

 ずっと声を出していた鮎美は喉が痛いので静江への返事は必要最低限だったけれど、静江はわかっているので笑顔で喉に優しい麦茶と飴をくれた。

「予定通り井伊市で宿泊されますよね?」

「…うん…」

 疲れていた鮎美が疲れを忘れる。どのみち、もう島には戻れない時間で、わざわざ船を出してもらうよりもビジネスホテルに泊まるのが普通の選択だったけれど、鮎美の要望で露天風呂付き料理旅館へ予約を入れている。東京で試合を終えた鷹姫も新幹線で帰ってくるので井伊駅で合流し、静江には自宅へ帰ってもらうので二人きりなるつもりだった。すぐに車へ乗り、喉を癒やすために飴を舐めつつ、静江の運転で井伊駅に向かう。

「ごめんな、静江はん。うちの都合で振り回して」

「それが秘書ですから」

 静江は朝も始発に鷹姫を乗せるために早朝から動いていたし、今は夜遅い。明日の朝は月曜日になるので鮎美と鷹姫は井伊駅から在来線で六角駅へ行き、もっとも多くの生徒たちが通学に利用しているのと同じ路線バスで登校する予定だった。

「鷹姫は、あと40分で井伊駅に着くみたいやけど、うちらは?」

「30分くらいでしょう」

「よかった。おおきにな」

「いえ……」

「長い一日やったなぁ」

「……そうですね」

 鷹姫を見送ってから静江の発言で気分を害し、出陣式に行かないと言い出したので静江が土下座して、その場を納め、それから大勢の前で演説した後は売春を合法化したいという団体の陳情を聴き、さらに予定外だったけれど御蘇松の選挙カーに乗って県内を回った。

「もう朝のことが、ずいぶん前のことに感じるわ」

「…はい……あの…」

 静江が何か言いにくそうにしているので鮎美は、なんとなく予感した。

「また、何か、うちに仕事が?」

「明日も選挙カーに乗ってほしいと依頼されています」

「明日は学校やで?」

「学校を休んでいただくと評判にかかわるので午後3時から、すぐに、と。その時間に学園前へ到着するようなルートで走るので、校門前からお願いしたいとのことです」

「………こき使うなぁ……」

「申し訳ありません。………でも、日当は出ますよ」

「………。一つ条件あるわ」

「伝えてみます。どのような条件ですか?」

「御蘇松先生と運転手以外は、同乗するのは女の人だけにして。今日も身体を触られたりして、めちゃムカついてん。なんで真剣な選挙活動中に、あんなことするヤツおんねん! ホンマ腹立つわ!」

「申し訳ありません」

「いや、静江はんが悪いわけやないし」

「運動員の中には臨時雇いのアルバイトなどもいて規範意識が低いこともあるのです。そのバイトの応募も、市議や県議の子息などでニートや引きこもりというか、失業中の者を紹介であてていることもありまして……。仕事としては投票日までの、ごく短期なので人材の確保が難しいのです。本当に、申し訳ありません」

「バイトやったんか………まあ、うちもバイトみたいなもんやけど……それなら、それで真剣にやらんかいや……ああ、疲れた」

「短い時間ですが、車中で仮眠されては? 休むのも議員の仕事ですから」

「うん、おおきに」

 鮎美は目を閉じて井伊駅までの時間を少しだけ眠った。目を開けたときには井伊駅のロータリーに停車していて、新幹線が到着する3分前だった。

「おおきにな。あとはタクシー呼ぶわ」

「いえ、先生をお一人にするのは時刻的にも立場的にもできません」

「……そっか……窮屈な身分になったなぁ……」

「夜の駅前に18歳の女子高生が一人、他の生徒でも避けた方がいいことですよ」

「たしかに……」

「宮本さんと合流したら、旅館まで送ります」

「ごめんな、静江はん」

「お気になさらず」

「………あと、土下座させてから、すごい他人行儀になってしもたけど……ごめんな」

「…………」

「もう、前の静江はんには戻ってくれへんの?」

 鮎美が悲しそうに問うと、静江は以前のように微笑んで言う。

「戻ってもいいんだけどね。戻ると、つい年下相手に色々言いたくなって、また怒らせると怖いから。とりあえず選挙中は下手に出ておくわ」

「………ホンマに選挙第一なんやねぇ……」

「この知事選の他、いくつかの首長選挙が秋の総選挙へ響いてきますから」

「そういうもんなんや。あ、もう時間やし改札に行くわ」

 鮎美は車を降りて改札に向かった。ちょうど新幹線が到着したタイミングで続々と人が出てくる。日曜なので観光客とビジネス客が半々くらいで、鮎美は自分が注目されるのではないかと思ったけれど、みんな自分の帰宅や荷物のことを気にしていて、鮎美に気づいたのは、ほんの数人だったし、気づいても何も言わずに通り過ぎていく。ただ一人、鷹姫だけは立ち止まって言ってくる。

「ただいま、戻りました」

「おかえりなさい。優勝やったんやね」

 一目見て、結果はわかった。今朝、渡したトロフィーをまた持って帰ってきている。あまり笑顔を見せない鷹姫が誇らしげに微笑んだ。

「はい、勝ちました」

「おめでとう」

「ありがとう」

「……よかったぁ…」

 鮎美が嬉しくて涙を滲ませるので、鷹姫は防具の入ったカバンを置いて、鮎美の頭を撫でた。

「鮎美が泣かなくても」

「嬉し涙は女の愛敬や」

 そう言って鮎美は大きくて重い防具の入ったカバンを持ってやり、車に戻った。静江も優勝を察して祝ってくれる。

「おめでとう、宮本さん。常勝不敗ね」

「ありがとうございます」

 すぐに静江は車を走らせて駅から5分ほどにある料理旅館の前に車を駐めた。一日5組限定の格式ある料理旅館タカ井は井伊市でも昔から有名で、その店構えも藩屋敷のようで、ここへ宿泊すると聞いて鷹姫は戸惑った。予約を入れた静江が手続きをして戻ってくると問う。

「あの、石永さん。経費で出るのは一泊1万円までではないのですか? それに、私は今日は党の仕事をしていませんから、経費支給の対象にならないと思います」

「ああ、それは大丈夫よ。差額は芹沢先生がもってくれるそうよ。あと、今から芹沢先生に付き添ってくれるのが、宮本さんの仕事って考えれば、支給対象で通るわ」

「そうなのですか……」

「私は家が近いから帰るし、あとはよろしくね。それと、遅い時間だから本来なら厨房も閉まって松花堂弁当くらいになるところだったんだけど、宿泊者の名前に芹沢鮎美があったから特別に遅くまで待ってくれていて、ちゃんとした会席料理を出してくれるそうだから、そのお礼は二人で礼儀正しく言っておいてね。もしかしたら、写真撮影を依頼されるかもしれないから、そこまではOKしてあげて。サインはアイドルじゃないからって、お断りして」

「はい……」

「じゃあね」

 静江は車で帰り、鷹姫と鮎美は女将が案内してくれる。

「こちらへ、どうぞ」

「おおきに。遅い時間に、ごめんな」

「お仕事、お疲れ様です。3時頃、前の通りを選挙カーで通られましたよね。元気なお声が響いてきましたよ」

「……そう言われると……なんや恥ずかしいですわ……」

 鮎美と鷹姫が案内された部屋は12畳の広い和室で奥には専用の露天風呂もあり、一泊一人5万円だった。テーブルには料理の一部が用意されていて、前菜や食前酒代わりの煎茶が並んでいる。女将が部屋の説明の後に訊いてくる。

「お食事になさいますか? 先にお風呂になさいますか?」

「鷹姫、お腹空いてるやんね? 汗もかいたけど、あんまり厨房に待ってもらうのも悪いし、ご飯が先でもええ?」

「はい……あの…、芹沢先生、ここの差額は、いくらに…」

「気にせんでええよ」

「ですが…」

「ま、応援に行けんかった、お詫びというか、優勝のお祝いというか、そんな感じやから気にせんといて。な?」

「………はい……ありがとうございます」

 二人が着席すると、食べるペースに合わせて料理が運ばれてくる。前菜からして凝った和食でウニの仙台味噌和えや、カラスミと紀州梅の巻物、刺身になると大トロや手長エビが見たこともないような切り方と飾り方で出てくる。

「めちゃ美味しいわ」

「は…はい…」

「やっぱ、ご飯って、親しい人と、ゆっくり食べるもんやね。何回も高い店で会食したけど、半分政治の話しながらやと美味しさも半減やもんな」

「…そ……そうかもしれません…」

 天ぷらは揚げたての物が二度に分けて配膳され、肉は琵琶牛のヒレステーキだったし、さらに、香ばしいハモとウナギの白焼きまで出てくる。戸惑っていた鷹姫も若さゆえの食欲と、あまりに美味しい食事に感動して食べ続けた。

「うち、これは苦手やわ」

 鮎美がフナを米で漬け込んだ伝統的な熟鮨が出てきて困った顔をしている。鷹姫は美味しそうに食べてから問う。

「鮒鮨は島でも造っていますが、お食べにならないのですか?」

「父さんは喜んで食べてるけど、うちと母さんは苦手やねん」

「……自家製のものは材料費と手間だけで済みますが、市場に出回っているものは、とても高価ですよ。食べないと、もったいない」

「もったいない……もったいないかァ、今は嫌なフレーズに聞こえるなぁ」

「県知事選の相手候補のキャッチフレーズですね。ダムと新駅で数百億の投資になるのが、もったいない、と言っていました」

「自眠党のオっちゃんらは、もったいないババァとか、悪口を言うてるけど、たしかに費用対効果を考えると、わからんでもないねん。とはいえ、数十年前から動かしてきた計画を、にわかに思いつきで中止するのも、どうかな、とも思うし。東海道新幹線かって建設時は無用の長物って言う反対派もおったけど、おかげで東京日帰りできて今ではJRのドル箱路線やし、ダムかって50年100年に一度の水害とか、アホみたいにデカい琵琶湖やけど、20年前には日照りで、すごい渇水になったらしいし」

「あのときは島から本土まで歩いて渡れるようになるのではないかと言われるほどだったそうです」

「琵琶湖から始まる淀川水系のおかげで大阪府民も潤ってるし、全国的に見ても渇水の心配が少ないのは、めちゃありがたいことやしな。それに、うちは大阪で育て、鷹姫は琵琶湖の鬼々島で育って、別々なようやけど、ずっと淀川の水でつながっておったんやね。和歌みたいにロマンティックやと思わん? ……」

 鮎美が嬉しそうに、そして少し頬を赤らめて言ったけれど、鷹姫はよく味わった鮒鮨を飲み込んだだけだった。

「美味しい……島とは少し漬け方が違うのでしょうか……風味が違う……」

「どっちが好みなん?」

「難しいです。食べ慣れた島のものも美味しいですし、こちらのお店のも味わい深いです」

「ふーん……」

 鮎美はお皿ごと持ち上げて少し匂いを嗅いだけれど、食べたく無さそうに皿を置いた。

「もったいないの一言で公共投資を削るのもなぁ……そら、福祉予算や教育へ回すのも悪くないけど、公共投資かって、そこで働く建設業従事者から、材料屋さんまで二重三重に潤うわけやし」

「難しいですね」

「あかん! 忘れよ! 明日の朝までは忘れるねん! 鷹姫、これ食べてくれる?」

「はい、喜んでいただきます」

 鮒鮨を鷹姫に食べてもらい、シメにご飯と郷里の漬け物が出てきて、最後にデザートの宮崎県産カボスのシャーベットを運んできたのは仲居ではなく板長と女将だった。

「芹沢先生のお口に合いましたでしょうか?」

「これ以上ないほど美味しかったですわ」

「そう言っていただけると、幸いです」

「遅い時間に、ごめんな」

「いえ。あの…よろしければ記念撮影をさせていただいても、よろしいでしょうか?」

「はい、喜んで」

 美味しい物を食べた余韻で鮎美はこころよく記念撮影に応じた。並んで撮影すると板長の衣服からは魚の匂いがしたけれど、それは嫌な匂いではなくて新鮮な食材の香りだったので鮎美は、いつも以上の笑顔で写真を撮られた。

「お疲れでしょうから、すぐに布団を用意します。お風呂は用意できておりますから、どうぞ」

「おおきに、ありがとうな」

「遅い時間に、お食事をご用意いただき、ありがとうございました。ごちそうさまです」

 鮎美と鷹姫が礼を言い、すぐに布団が2組、並べて敷かれると二人きりになった。

「……」

 鮎美が何を言うべきか迷い、黙ってしまうと鷹姫が言ってくる。

「お風呂を、お先に、どうぞ」

「せ…、せっかくやし、二人で入ろ! な! 十分、広いやん!」

 和室に隣接した露天風呂は2名以上で入っても十分に余裕があり、むしろ複数人で入ることを想定した設計だった。そして、この部屋専用なので鮎美と鷹姫だけで入れる。

「……」

 鷹姫が広さを確かめるように外の露天風呂を見ていると、鮎美は焦って言い募る。

「い、いろいろ鷹姫には話もしたいし! きょ、今日の選挙戦のこともそうやし、面談した団体とか、いろいろ! 秘書として伝えておきたいこともあるんよ!」

 業務にかこつけると、鷹姫が秘書として問うてくる。

「出陣式は無事に終えられたそうですが、面談は、どうでしたか?」

「あ、うん。えっと…」

 やや話しにくい陳情内容なので鮎美は話を少しぼやかす。

「視覚障碍者の人とか来てはってな。目が見えないと、いろいろ苦労するみたいな、そんな話とか」

「視覚障碍者ですか、たしかに東京駅でも見かけましたが、苦労しておられる様子でした。助けてあげたいと思ったのですが、私も乗り換えで時間が無くて、おそらく通り過ぎる誰も彼もが、同じでしょう。みな忙しそうでした」

「そうなんや……あ、そや、ええこと思いついた」

 今夜のチャンスを逃したくない鮎美は策を弄した。備え付けの浴衣の帯を手にすると、鷹姫に言う。

「視覚障碍者の苦労を体験してみて、どんな感じか、うちに言うてみてよ。そのために鷹姫に目隠しして、お風呂に入ってもらうんよ。もちろん、うちが手助けするから」

「目隠しして、お風呂ですか……」

「お願いやから、やってみて」

「そう言われるのでしたら」

 鷹姫は帯を受け取って、立ったまま目隠しするようにキュッと後頭部で結んだ。剣道の防具を着け慣れているので結ぶ動作も様になっているけれど、やはり視界がゼロになると何もできずに困る。

「どうなん? 何か見える?」

「いえ、何も」

「ほな、この状態で…ぬ…脱がせるよ」

「脱ぐくらいは自分でできそうです」

「うっかり転んだら、危ないやん! うちが脱がせてあげるよ!」

「そうですか、ありがとうございます」

「ほな、脱がせるしな」

 鮎美は鷹姫へ近寄る。目隠しで何も見えない鷹姫を脱がせるために胸元のボタンを外す作業は、とっさに言い出したことだったけれど、想像以上に鮎美を興奮させた。いつもは遠慮して見つめることを控えている鷹姫の唇や頬、鼻梁を、どれだけ見つめても視線に勘づかれることがないので、見たいだけ見られるし、ボタンを外していくと鷹姫の匂いが拡がってくる。始発で東京まで日帰りの大会出場をしてきた鷹姫の身体は、いつもより匂いが強くて鮎美は見えていないのをいいことに、顔を近づけて嗅いだ。鷹姫の身体からはトマトと肉を煮込んだような匂いがして、鮎美は満腹なのに口の中に唾液が湧いた。

「………息がくすぐったいです……どうして、そんなに近づくのですか」

「ごめん、ごめん。ハァ…ちょっとボタンが爪の先に、引っかかって」

 すべてのボタンを外してブラウスを脱がせる。そうやって鷹姫を上半身ブラジャーだけの姿にすると、鮎美は全身の血が騒いで叫びそうなほど興奮した。

「ぶ…ブラも、外すよ…ハァ…」

「はい……」

 ブラジャーも外すと、鷹姫の乳首に吸いつきたくて鮎美は口を手で押さえて我慢した。そして、吸ったり舐めたりする代わりに鷹姫の腋の匂いを嗅ぐ。さっきより強い匂いで、煮込まれたトマトと肉へタンポポの汁とヒメジオンの茎の香りを足したような濃い匂いがした。

「…ハァ…ハァ…」

「くすぐったいです。匂いを嗅ぐのは、やめてください」

 見えていなくても気配で十分に伝わっているようで鷹姫が一歩さがった。その動きでプルンと乳房が揺れて、もう鮎美は理性が消し飛びそうになったけれど、かろうじで踏み留まった。

「スカートを脱がせるしな」

「…はい…、いえ、やはり自分で脱ぎます。そのくらいできそうですから」

 鷹姫が自分の手でスカートのチャックをおろそうとすると、鮎美は手首を握って止めた。

「あかんて、自分の手も満足に動かせん障碍者の気分を知ってほしいねん。せやから、手も縛るしな」

「手まで……」

 鷹姫は手首を握られたまま腕をあげさせられ、後頭部へ回されると目隠ししても余っている帯で頭部に固定されるように結ばれた。さらに反対の手首も同じように頭部に結びつけられて、両手の自由を完全に奪われた。鷹姫の両腋がよく見えるようになって、生えそろった毛が鮎美には美しく見えたし、汗の匂いが拡がって、わざわざ嗅がなくても十分に感じられる。

「どうなん? 目も見えず、手も動かせん気分は? ハァ…」

「……とても不自由で不安です」

 声を出すと鷹姫の乳首が揺れる。それを摘みたくて吸いたくて、けれど、その前にスカートを脱がせることにした。チャックをおろし、ホックを外して、ゆっくり丁寧に足元までさげる。すらりと美しく、それでいて大腿四頭筋が力強そうな鷹姫の脚がすべて見えるようになった。鮎美は内腿を舐め回したくなったけれど、それも今は我慢する。

「ショーツも脱がせるよ」

「………」

 鷹姫は返事をしなかったけれど、拒否もしなかった。

「…ハァ…」

「………」

 鷹姫はショーツをおろされ裸にされた。あとは靴下だけになる。

「…ハァ…」

「………」

「…ハァ…靴下、脱がせるから、バランス取れるように抱きしめるよ」

 鮎美が口実をつくって鷹姫の腰回りを片手で抱いた。鮎美はしゃがんで鷹姫の靴下へ手を伸ばしつつ、下腹部へ頬をあてるようにしている。

「こっちの足をあげて」

「……やはりバランスが取りにくいです。このように抱かれるより、座らせてもらえませんか?」

 鷹姫は視界が無く、しかも両腕を大きく挙げさせられたまま固定されているので、どうにもバランスが悪くて不安定だった。

「そうやね、ほな、ゆっくり座らせてあげる」

 鮎美は裸にした鷹姫のお尻をつかんで布団の上に座らせた。

「座ってるのも、腕あげたままやと、しんどいやろ。寝てしまい」

「……はい…」

「寝かせるな」

 裸の背中を抱いて、ゆっくりと布団に寝かせた。

「楽になった?」

「………はい……」

「ほな、靴下を脱がせるよ」

 今度こそ、靴下を脱がせる。とうとう帯とポニーテールにしている髪ゴム以外は、すべて裸にした。それで、もう我慢できなくなって鮎美は舌を鷹姫の肌に近づけながら言う。

「くすぐったいけど、我慢してな」

「っ…」

 鷹姫はお臍を舐められて身をよじる。

「な…何をするのですか?」

「ちょっと舐めたかってん、ごめん」

「ふざけないでください。いつも、犬みたいに私を舐めて」

 ついつい勉強中や休憩中に静江などがいないとき、そっと鷹姫のうなじや耳を舐めたことが何度もある、その度に迷惑そうにされたけれど、やめられずにいる。今回もやめられそうになかったし、今回は鷹姫が抵抗できない。何も見えないし、手も動かせず、布団に寝ていることしかできない。

「本当に視覚障碍者の体験なのですか? ふざけているだけではないですか?」

「……えっと……、視覚障碍者が、人なつっこい犬に、なつかれたときの対応を考える訓練ってことで、よろしく」

 そう言って、もう鮎美は遠慮無く鷹姫を舐め始める。頬を舐めて、うなじを舐めて、乳首を吸って、腋を舐めた。

「…く…くすぐったいですから……やめてください……コラ、やめなさい。……犬に言っても……犬なら……お座り!」

「……。ワン♪」

 鷹姫が思いつきで命令し、鮎美は従いたくなったので、その場にお座りした。

「よし、いい子ですね」

「……ハァ……ハァ…」

「………。もう飼い主のところへ帰りなさい」

「キュ~ん……」

 悲しそうに鳴いて、また鷹姫を舐める。より犬のように頬をペロペロと舐めて、唇まで舐めて、どさくさ紛れにキスもした。

「コ、コラ、もう! お座り!」

「ワン♪」

 素直に従うけれど、お座りするのは5秒だけで、すぐに鷹姫を舐めにかかる。もう我慢のない犬程度にしか思考力がない風に振る舞っている。

「ああ、もう……」

 とうとう鷹姫の方が諦めてくれたので思う存分に舐めた。

「……そんなに舐めて……鮎美……お腹を壊しますよ……」

「ワン♪ ワン♪」

「………いつまで犬なのですか……」

「ワン♪」

「……………そろそろお風呂に入りたいです。……それに、トイレも」

 入浴前に裸にされて鷹姫は生理現象を覚えてきていた。

「もう犬はやめて、そろそろ帯を解いてください。トイレへ行きたいです」

「………。うちが介護してあげるよ」

「そ……それは嫌です!」

「ええから、ええから」

「よくないです! 嫌です!」

「障碍者やったら、他人の世話にならんとトイレも行けんやろ。そういう体験やねん」

「………」

 鮎美は犬でいるのをやめて鷹姫を客室のトイレに導いた。いつも顔を赤くしたりすることの少ない鷹姫が頬を染めて恥じらっている姿は鮎美の脳裏に強く残った。トイレから出て鷹姫が疲れた声で願う。

「もう腕がつらいです。どうか、両手を解いてください。手は使いませんから」

「そうやね」

 ずっと腕をあげていたので血行が悪くなってきている。鮎美は手首を縛っていた帯を解いた。

「はぁぁ……」

 鷹姫が弱気なタメ息をついている姿も珍しかった。実直に手は使わずダラリと下げて、そのまま畳へ座り込んでいる。いつも背筋をピンと伸ばして凛々しくしているのに、今は弱々しく背も丸くなっていた。そんな鷹姫の頬を右手で優しく撫でて言う。

「そろそろ、お風呂に入れてあげよか」

「……はい……お願いします…」

「うちも裸になろ」

 鮎美は制服と下着、靴下を脱いで鷹姫の分も片付けると、入浴の準備をしてから、もう少し犬になりたくなった。浴衣の帯は、もう一本あるので、それを首輪のように自分の首へ巻いてから、反対の端を鷹姫の手首へ巻きながら言う。

「うちは盲導犬な。うちが引っぱる方に歩いて」

「…はい………色々なことを思いつきますね……」

 もう鷹姫は疲れ切った声で答えたけれど、素直に従ってくれる。鮎美は四つん這いになって、ゆっくりと部屋の中を歩き回る。鷹姫は何も見えないので引かれるまま、そろそろと歩いている。常は凛として背筋を伸ばしている鷹姫が今は腰が引けて一歩一歩恐る恐る歩いているので、それが可愛らしくて鮎美は引くのをやめて、鷹姫の足元に伏せると、足の甲を舐めた。

「ワン♪」

「……どういう意味のある行為ですか?」

「舐めたかっただけ」

「…………盲導犬、失格ですよ。そんなところに顔をやって危ないです。蹴ってしまうかもしれませんよ」

「ワン♪」

「…………まだ、お風呂に着かないのですか?」

「あと3周したらワン」

「……はぁぁ……視覚障碍者にとっての100メートルというのは、とてつもなく長いのでしょうね……」

 鮎美は12畳ある和室を3周してから露天風呂へ通じる戸の前に四つん這いで立った。

「ワン♪ ワン♪」

「ここを開けろ、と?」

「ワン♪」

 犬語で心が通じて嬉しかった。鷹姫が手探りでガラス戸を開けた。そのまま露天風呂に出る。

「…うっ…膝が痛いわ…」

 四つん這いで石畳の上を歩くと、膝が痛かった。

「もう犬はやめては、どうですか?」

「……そうやね。このままやと帯も濡れてしまうし」

 鮎美は立ち上がって首輪にしていた帯を解き、鷹姫の目隠しにしている帯も解きながら言う。

「まだ目は開けたらあかんよ。手も使えん障碍者のままな。うちが手で手を引いてあげるから安心して歩き」

「……はい…」

 鮎美は向かい合って鷹姫の両手を持ち、後ろ歩きで洗い場に近づく。洗い場には高齢者が利用することも想定したようで背もたれのある浴場椅子が置いてあり、ちょうどよいので使うことにした。

「背もたれのある椅子があるから、そこに座らせてあげるな」

「はい…」

「ゆっくり、お尻をおろすんよ」

 鷹姫の裸のお尻を両手で包みながら、ゆっくりと座面の方へさげていく。

「そう、そこそこ。背もたれもあるから楽にしてみ」

「はい……はぁぁ…」

 無事に座れたというだけで大きく安心する。

「ほな、身体を洗ってあげるな」

「……はい……お願いします」

 まだ目を閉じているし、両手も使えないつもりでいるので鷹姫は素直に全身を手洗いされた。鮎美自身も手早く身体を洗うと、シャワーで流した。

「髪は、あとで洗うわ。湯船に入ろ。立たせるし、うちの手を握って」

「はい」

 両手を握ってもらい誘導される。畳だけの和室内と違い、どういう物があるか、まったく知らない露天風呂を移動するのは、かなりお互いに神経を使った。

「そこ、大きな石が階段になってるから、30センチほど足をあげて大きく一歩」

「は、はい…」

「そうそう。あと、もう一段あるんよ」

「はい」

「ええよ。次はお湯の中になるけど、深さ20センチくらいで石段があるから、そこへ一歩」

「はい……こう、ですか?」

「うん、いいよ。次の一歩は深いけど、それで湯船の底やから」

「はい……………はぁぁ…」

 やっと湯船に浸かって足のやり場に神経を使わなくて済むとなると、深いタメ息が漏れた。鮎美も誘導が思ったより大変だったので息をつく。

「はぁ……けっこう介護役も大変やね」

「………疲れました……まだ、目を開けてはいけませんか?」

「うん、布団に戻るまで頑張って」

「……はい…」

「ゆっくり身体を、こっちに預けて。楽な姿勢で支えてあげるし。うちらだけの湯船やから髪を浸けてもええやろ」

 鷹姫の背後に回って頭を抱くようにして身体を湯に浮かせる。

「どんな感じ? 目が見えんで、お風呂に浸かってるのは」

「……気持ちいいような……不安なような……」

「この体勢って不安?」

「いえ……湯船の広さも不明ですし、五里霧中………いったい、どんなところに自分がいるのか、和室からチラっと見ただけですから、………けれど、本当の視覚障碍者は、まったく何も予備知識なく、チラっと見るなんてこともできずに駅や入浴施設に行くのですから、本当に大変ですね。………胸を揉むの、やめてください」

「ごめんごめん、つい柔らかそうで」

「……はぁぁ……」

 また鷹姫が弱気なタメ息をついている。そろそろ二人とも熱くなってきたので鮎美が誘導する。

「髪の毛、洗ってあげるわ」

「…はい……お願いします…」

「こっちに、おいで」

 また手を引いて浴場椅子まで案内する。座らせるときに今度はお尻ではなくて股間に触れたまま導いた。

「あの……あまり身体に触らないでください」

「触らんかったら誘導できんやん? 痛かった?」

「……痛くはありませんけれど……」

「ほな、髪の毛、洗ってあげるな。ジッとしててな」

「…はい……」

 鮎美はポニーテールにしている髪ゴムを丁寧に抜き取ると無くさないように自分の手首に巻いて、鷹姫の髪を自分の髪を洗う何倍も気を遣って優しく洗う。

「キレイな髪やね……って言ってあげたいけど、めちゃ枝毛あるやん。剣道ばっかりで、ぜんぜん気を遣ってないんちゃう? リンスしてる?」

「…いいえ…、洗う…だけです…」

「やっぱりか。ま、それが鷹姫らしくて、カッコいいかもしれんけど。美容室も行かんと自分で切ってるんやもんなぁ……ワイルドやわぁ」

「………………っ…」

「ごめん、痛かった?」

 鮎美は鷹姫が表情を曇らせたので、髪を痛く引いてしまったのかと思ったけれど、鷹姫は否定する。

「…いえ…」

「痛かったら、言うてな」

 より慎重に鮎美は髪を洗っていく。優しく頭皮も指先で撫でて洗う。

「……っ……っ……」

「ごめん、痛い?」

「…いえ…っ……っ……っ…」

「鷹姫………」

「痛くないです……っ…っ……っ…」

 痛くないと言うけれど、鷹姫は目を閉じたままの瞼から次々と涙を零している。その涙は止まる気配が無くて、もう肩を震わせ、顔を歪めて号泣のような泣き方をしている。声だけは押し殺しているのが余計に痛々しかった。

「……鷹姫………ごめん…」

 鮎美は深く自省した。調子に乗りすぎたし、鷹姫の気持ちを考えていなかった。この露天風呂付きの客室なら、誰にも邪魔されることもなく好きなだけ好きなように鷹姫と過ごせると思って予約した。けれど、鷹姫に何か同意をえたわけではない。あまり細かいことを気にせず無頓着な鷹姫なら、なし崩し的に身体を擦り寄せても受け入れてくれるかもしれないという淡い期待で、ここまで振る舞ったけれど、鷹姫の立場で考えてみれば、これはセクハラだったしパワハラだった。

「…っ……っ……ぅぅっ…」

「鷹姫………ごめん……もう、せんから…」

 対等な友人関係だったのは少し前までのことで、今は議員と秘書という主従関係に近いような労働契約があり、鷹姫の家は貧しくて月給30万円、卒業すれば50万円というのは願ってもないことだったし、鷹姫が家計へ給料を入れたおかげで、おさがりばかり着ていた妹たちは初めて新品の衣服や靴を市街地へ出て買ってもらい、とても喜んでいた。

「…っ……っ……ぅっ……っ…ぅっ…」

「そんなに泣かんでよ……うちが悪かったから…」

 絶対に辞めたくない仕事、その上司からの理不尽な要求、少し考えればわかることだったのに、鮎美は自身の悪行から目をそらして考えないようにしていた。このくらいなら受け入れてくれる、このくらいなら大丈夫、という考え方で人倫の彼岸を渡っていた。けれど、鷹姫の涙を見て、どれだけ自分がひどいセクハラをしたのか、自覚していく。もし、同じように逆らえない関係で助けも呼べない密室に自分が連れ込まれ、意味不明な理屈で目隠しされたり両手を縛られたりして、身体を誰かに舐め回されたら、泣くほど嫌だと、すぐにわかる。

「…っ……ぅーっ……っ…」

 まだ鷹姫は指示された通り、目を閉じて、両手も使わず、泣いている。丸くなって肩を震わせて、閉じた瞼から大粒の涙を次々と零して泣いている。鷹姫の喉が震えていて、嗚咽を抑え込んでいるのが、よくわかった。

「鷹姫………。……ごめん……泡だけ、流すよ」

 シャンプーの泡がついたまま泣いているのも、あわれなのでシャワーで髪を流した。

「……っ……っ……」

「鷹姫、……もう目を開けてもええよ。手も使ってくれてええから。うちがホンマに悪かった。二度とせんから、許して」

「…っ……っ…」

 鷹姫が手を使って涙を拭いた。それでも、まだ涙が溢れてくる。少し目を開けて、鮎美に背中を向けて泣き出した。

「…ぅっ…くっ……こっちを見ないでください…」

「うん……ごめん…」

 鮎美も自省と自己嫌悪と淋しさで胸が痛くなって泣きそうになる。結局、受け入れてくれない、それが当たり前、もし自分が男だったら、男で議員で鷹姫が秘書だったら、今夜は想い出に残る夜になったかもしれない、許嫁がいても絶対ではないし中学生にすぎない、けれど、現実は二人とも女だった。身を切られるほど切ない。わかっていたことなのに、なぜか、何度も希望を抱いてしまう。鷹姫が離れていかないのは秘書として働こうという意志があるからで、けっして性的なパートナーにはなりえないのに、そばにいてくれるから、つい期待している。

「……鷹姫……ずっと、そうしてると身体が冷えるよ。お湯に入ろ」

「…はい……ぐすっ……取り乱して、すみませんでした」

「鷹姫、そんな謝らんでよ。……悪いのは、うちやから」

 再び二人で露天風呂に浸かった。もう鷹姫は自分で足元を見ているので、かなり離れて湯に浸かる。

「…っ…っ…」

「……鷹姫……」

「…っ…」

 まだ泣いている背中が痛々しくて、抱きしめたいけれど、それが一番悪いことなのだと自分を戒めると、いっそ死にたくなってくる。もし鷹姫が泣かなかったら、布団に戻った後、何をするつもりでいたか、ほのかに想っていて具体的には考えないようにしていたけれど、押し倒して抱きしめてキスをして舐め回して指を挿入したかもしれない、きっと、そうした。鷹姫が嫌がったら卑怯にも金銭や立場を道具に使ったかもしれない。どうしても欲しかったし、手に入れたかった。

「……うちは……最低やね……。議員どころか……生きてる資格もないわ……」

「…っ…ぅっ…」

「どんなに謝っても許されへんと思うけど、ホンマに、ごめん。この上は、どうしてくれてもええよ。鷹姫の気の済むようにして」

「…ぐすっ……泣いたりして、申し訳ありませんでした。どうか、忘れてください」

 こちらを向いた鷹姫が申し訳なさそうに頭を下げたので鮎美は驚く。

「っ、そんなっ、鷹姫! 謝るのは、うちの方やから!」

「もう大丈夫です。続きをなさってください」

 そう言った鷹姫は伏せていた目を、また完全に閉じた。

「……鷹姫…」

「どうぞ」

「…………」

 鮎美の腹中に自省したはずなのに邪悪な欲望が湧いてくる。ここまで覚悟しているなら、もう据え膳同様に食べてしまいたくなる。蹂躙して、うまくすれば快楽を覚えてくれるかもしれない。そんな歪んだ想いにかられた。

「……あかん。……ちゃうやろ。……そんなん、あかん……」

 それでも、さっきの鷹姫の涙を想い出すと、もう欲望のままに振る舞うことはできなかった。

「もう、やめよ。もう、ええんよ。ごめんな、ホンマに、ごめん。そんなに無理して受け入れてくれんでええんよ。な、鷹姫」

「………」

「鷹姫が泣くほど嫌なこと、うちはできんから。もうせぇへんから安心して。ごめんな、鷹姫」

「……鮎美……本当に、そんなに謝らないでください。突然に泣き出したりした私が悪いのです。ご心配をかけて、すみません」

「…鷹姫……謝るのは、うちの方やって。いっそ、殴ってくれても、竹刀でシバキ倒してくれてもええから」

「鮎美………、どうして……そこまで……。……聴いてください。私は、みなが言う空気を読むといったことが、とても苦手です。ノリというのも、よくわかりません。今の場合、ただ髪を洗ってもらっただけなのに、泣き出した私が変なだけではないですか?」

「……鷹姫?」

「言いたくはなかったのですが、やはり聴いてください。私が泣いたのは、つい母のことを想い出してしまったからです」

「……お母さんの? ……って、亡くならはった?」

「はい、母が事故で亡くなる前の晩、まだ幼かった私の髪をお風呂で洗ってくれていたのです。母は妊娠していて、すぐに妹ができるはずでしたから、明日からはタカちゃんが自分一人で洗いなさいね、と言って。それが母について覚えている最期のことです。翌日、急に陣痛が来た母は小さな舟で本土へ渡って病院へ行こうとしたのですが、無謀な運転をしていた水上バイクに衝突され、それがもとで母も妹も喪いました。鮎美に髪を洗ってもらっていて、そのことを想い出してしまい、どうにも泣けてきて……すみません。ですから、誤解されているようですけれど、私が泣いたのは視覚障碍者や肢体不自由者の真似をするのが嫌だからではありません」

「……鷹姫……」

「もう大丈夫です。髪を洗われる以外は……。ですから、続けてください」

「そうやったんや……お母さんの……気の毒に……。その水上バイク、ひどいわ……」

「母の死は無駄ではありません。それ以後、鬼々島の周辺での水上バイク、ジェットスキーの航行は全面的に禁止されましたから。私は母を誇りに思っています。他の島民も、漁網を荒らす彼らに迷惑していましたから、母と妹の存在は無駄ではないのです」

「……そうやね……島の役に立って……」

 それでも生きていて欲しかったんやろ、せやから泣いたんやろ、と鮎美は同情の涙を浮かべて、瞬きで払った。

「鷹姫、もう十分に勉強になったから、目を開けてくれてええよ。ホンマに、もう十分やから」

「はい、では」

 目を開けた鷹姫は気丈に顔を引き締めている。悲しくても本当に母親を誇りに想っている顔だった。

「ええお母さんやったんやね」

「はい、だから私は母が見守ってくれていると想い、それに恥じない生き方をしたいのです。剣道で成績を残すこともそうですし、都会から来た鮎美には、おかしく感じられて変に思うかもしれませんが、許嫁を受け入れることもまた母がしたように子をなし、順調に次の世代につなげていくという、人としての基本的な役割を果たしたいからです。とくに母の子は私一人なのですから」

「っ…り…立派な心がけやね…」

 鮎美は平静をよそおって答えたけれど、すぐに胸が締めつけられ、頭をハンマーで叩かれ続けているような苦痛を覚えて、涙が出てきた。さっきまでの鷹姫と同じように涙が止まらなくなって、どんなに手で拭いても溢れてくる。

「鮎美……そんなに泣かないでください。もう昔のことですから」

「ぅっ…ぅっ…うちは………、……うちは、こういう話に弱いねん。……ごめん、先に揚がって。こっちを見んといて」

「はい、失礼します」

 鷹姫が揚がるまでに、声をあげて泣いてしまいそうで鮎美は湯の中に潜った。お湯の中で大泣きして、その涙が止まるまで、かなりの時間がかかった。

 

 

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