第8話 八月 少数者の排除、靖国
翌日の午前10時過ぎ、鐘留は夏休み中の高校生らしく遅い時間に自室のベッドで目を覚ました。
「……」
大きなベッドで小柄な身体を起こすと、悪夢の余韻に眉をしかめ、それから夜尿で濡らしてしまった下着の中のナプキンの感触を自嘲する。
「高校生にもなって……バカみたい」
つぶやいただけでは感情を処理しきれず、ベッドサイドにあった飲み残しのジャスミンティーをグラスごと投げた。
ガチャン! ビチャ…
ガラスの割れる音が響いて、すぐに静かになる。いつまでも濡れたナプキンを肌につけていたくないので取り去って丸めると、ゴミ箱へは入れずにバックに隠した。室内のゴミ箱もトイレの汚物入れも家政婦が掃除するので捨てると必ずバレる。中学3年の頃には、月経以外のタイミングで汚物を増やすと家政婦が不審に思って調べて母親にまで報告するとは考え至らず、治ったと思わせていた夜尿が続いていることを知られて殺意が湧くほど恥ずかしい思いをしたので、ずっと外出したとき捨てることにしている。鐘留はシャワーを浴びると、いつもは露出過多な私服を着ているのに、今日は落ち着いた柄のブラウスと長めスカートを選び、ブランド物のバックを持って玄関を出る。庭で母親に出会った。
「おはよう、カネちゃん」
「…おはよう」
「どこか出かけるの?」
「………」
無視すると、それ以上は追求されない。庭にいた母親が2本の楠に祈っていたのが、気に入らない。障碍をもって生まれた二人の弟が事件にならない死に方をした後、植えられた木だった。
「カネちゃん、その服、よく似合ってるわ」
「…そ」
「いつも、そういう服を着てくれると、母さんも安心よ」
「ちっ」
鐘留は舌打ちして庭を出ようとしたけれど、手土産を確保する必要があるので母親を振り返った。
「どこに持っていっても恥ずかしくない常識的なお茶菓子を、そこそこ多めにちょうだい」
「多めって、どのくらい?」
家が菓子店と精肉店とロープウェイを運営しているので、茶菓子は売るほどあった。
「…う~………」
問われて鐘留が悩む。そして黙って行くより、やはり説明して行くことにした。
「アタシ、友達の関係で自眠党員になるから。その支部に持っていくの。ああいうところに持っていく常識的な御菓子で、あんまり高すぎて接待とか賄賂とか言われて断られない程度の御菓子をちょうだい」
「もしかして芹沢さん? ニュースにもなってた」
「まあ、そうだよ」
「いいお友達ができたのね」
「ちっ」
「すぐに用意させるわ」
隣接している店舗から母親は大きめの折り詰めを2箱、袋に入れて持ってきた。
「この季節、水菓子もいいけれど、カネちゃんが持っていくのに重いから一番人気の糸切りクッキーにしておいたわ」
「…。ありがと。じゃ」
受け取った鐘留は道路に出てタクシーを呼び、自眠党支部を訪れる前にネットカフェへ入った。カウンターで自分名義ではない偽名の会員カードを出して入店し、パソコンの前に座るとIPアドレスを誤魔化す操作をしてからクラウド化してあるプログラムデータを使う。
「燃え上がれ♪ ライフイージス。その薄っぺらい盾、紙みたいにメラメラと」
気に入らない団体がネット上で他者から批難されるように仕向け、その様子をしばらく眺めて、トイレに行きたくなったのでバックを持って個室に入る。用を済ませてからバックから丸めたナプキンを出すと、汚物入れに捨てた。これで、おしっこしか染み込んでいない生理用ナプキンが誰の物かはライフイージスへの悪戯同様、わからなくなる。
「できそこないの命なんて、もともと受精しなきゃいいのにね。自分で殺しておいて樹なんか植えるなよ、バカ」
溜まった感情も水洗トイレに流していく。
「けど、さすがアタシの親、ちゃんと始末してくれて良かったよ。変な弟なんか生きてたらアタシの人生が楽しくないし。その判断は正しかったよ、パパとママは間違ってない。間違ってないよ」
自己暗示のようにつぶやいてトイレを出る。時刻を見ると、ランチタイムだったので退店した。
「お昼時に行くのは迷惑かな」
鐘留は近くのパスタ店へ入り、一人で昼食を済ませてから、再びタクシーで今度こそ自眠党支部を訪れた。それほど大きくないビルの一階テナントにあり、美容室ほどの広さの支部でガラス壁にはテレビで見かける総理大臣のポスターや石永と直樹のポスターも貼ってある。鐘留はドアを開けて入ってみる。
「ハーイ♪ 入会希望者でーす」
軽い調子で訪問したけれど、落ち着いた服装と手土産のおかげで、受付にいた党職員は年齢が近い鮎美の関係者ではないかと感じてくれ、すぐに鮎美と鷹姫に会うことができた。間仕切り一つ奥に二人と静江もいて、何かの資料を読んだりして勉強していた。
「入会しに来たよ」
「おおきに」
「で、これワイロ。今後とも、よしなに。お代官様」
鐘留が手土産の菓子の折り詰めを、いかにも怪しげに差し出しながら、いやらしい微笑をする。
「当家に伝わる黄金色の菓子にございます」
足にキスをしなさい、という冗談を言った鐘留が今回はどういう冗談を言っているのかわかるので鮎美も大阪育ちらしくノる。
「鐘屋、そちも悪よのォ。クックク」
「お代官様ほどではありませんよ。ヒヒヒ」
「言いおるわ。はーははっはは!」
「ヒッヒヒヒ♪」
「……………?」
鷹姫が会話のノリが理解できずに不思議そうに見ていると、静江がタメ息をついた。昔の悪代官と悪徳商人のチープな演技を自眠党支部内でやらないでほしいという残念な思いと、ときどき本当に残念なことに議員と業者の癒着はあったりもするので、冗談が冗談で終わらないこともあり、18歳の二人の悪のりは目障りだった。
「はぁぁ…芹沢先生の友達って、宮本さんみたいな、まともな人ばかりでもないのね」
「アタシは個性的なの。障害は個性って言うけど、逆に個性が障害ってことで、よろしく」
「カネちゃんはおもろいな。ま、このへんにして。静江はん、とりあえず入党の書類、あります?」
「はいはい。ともかく歓迎するわ。かねやのお嬢さん」
家柄は調査するまでもなく、そして鮎美の友人でもあるので、すぐに手続きは進み、鐘留は党員になった。静江がお茶を淹れて、もらった茶菓子を並べながら言う。
「できれば形だけでなく、いろいろと活動にも参加してくださいね。すぐに知事選もあるから、いい勉強になるわよ」
「ヒマで気が向けばね」
「たっぷり期待してお待ちしてますよ」
軽口を叩きながら、しばらく鐘留は滞在したけれど、明らかに鮎美と鷹姫は勉強することが山積みという様子だったので、そろそろ帰ろうかと腰を上げかけたとき、また来客があった。
「ライフイージスの三島である! 芹沢殿にお会いしたい!」
入口から奥まで響いてくる三島の声がした。三島の雰囲気から受付の職員がアポイントのない訪問を拒否している様子だったけれど、鮎美は呼んだ。
「お会いします! どうぞ!」
「ありがたい。お邪魔する」
門前払いされなかった三島が奥に入ってくる。今日は一人でハチマキはしていないけれど、黒のスーツは着ている。それがよく似合ってもいるものの、男物のスーツを女性の身体で着ているので、かえって胸が目立つしブラジャーも着けていないのが、わかる。
「送った資料は読んでいただけただろうか?」
「はい。どうぞ、座ってください」
鮎美が議員の卵として振る舞っているので静江は静観することにしたし、鐘留も興味のない顔をつくって、お茶を啜った。鷹姫は秘書らしく鮎美の近くに立って、もしも三島が危害を加えるようなことをしてくるなら、すぐに対処できるよう油断しない。三島は着席を促されても立ったまま、問うてくる。
「単刀直入に訊く。芹沢殿は我々に賛同していただけるだろうか?」
「ずいぶん性急ですね」
「命の危機だ、こうもなろう」
「せっかちな男は色よい返事をもらえまへんよ」
「……」
男と言われて、三島の険しい気配は少しやわらいだ。
「どうぞ、座ってください。三島はんとは、ゆっくりお話したいですから」
「わかった」
三島が着席した。
「資料は読ませていただきました。うちの知らんかったことばっかりで、まだ理解が深まったとは言えませんが、あなた方が主張したいことは、わかったつもりです」
「では、賛同いただけるか?」
「逆に問います。とくに三島はん、あなた個人に」
「何だ?」
「あなたは性同一性障碍と同性愛を併発していると言われましたが、同性愛というのは病気でしょうか?」
「資料を読んだならば、知っているだろう」
「ええ、同性愛は指向だそうですね」
「わかっていて、なぜ問う?」
「本当に同性愛は病気ではないのでしょうか?」
「今さら何を。病気では無い。指向だ」
「けれど、性同一性障碍は病気なのですよね?」
「そうだ。脳と身体の性別が一致しない病気だ」
「そして、三島はんは自分を男やと感じているけれど、身体は女、せやけど同性と認識する男を好きになる、そういう状態ですよね」
「そうだ。だから何だ?」
「小児性愛者のことは、どう思いはりますか? あれは病気ですか、指向だと思いはりますか?」
「むっ………」
三島の勢いが止まり、考え込む。
「………我の知識では、あれは病気だ」
「ええ、うちが勉強した結果でも、小児性愛はペドフィリア、精神医学上は病気と分類されます。けれど、あれが指向でない論拠はない」
「だから何だ?」
「あなた方は指向であっても、病気であっても、ひっくるめて社会の多様性を認めていくべきだ、という主張ですよね?」
「そうだ」
「ほな、小児性愛者も存在を是とするんですか?」
「…………。是とする。その者が違法なことをせぬ限り」
「では、日本では13歳以下との性交は同意の有無に関係なく…」
鮎美の発言の途中で静江が声をあげる。
「芹沢先生、ご予定、忘れてませんよね?」
そのセリフはあらかじめ決めていた暗号で、冷静になれ、という意味だったし、さらに静江は視線で、議員は陳情者と議論してはいけない、と伝えてくる。その意図を察して鮎美は語る。
「三島はんは先送りや検討する、って答えでは結局、納得されませんよね。他の議員予定者へも談判に行ってはる噂は聴いてます。だいたいの予定者は勉強中で即答できんちゅーことでお茶を濁してるらしいですけど、うちはこの人とは、とことん理解を深めておきたいんです。結果、どう転ぶとしても」
「芹沢先生……」
「良い覚悟だ。若いのに肝の据わった女だな」
「話を戻します。日本では13歳以下との性交は同意の有無に関係なく罰せられます。売春も同じく。けれど、小児性愛者が海外の、それらの法が整備されていない国で、おのれの欲望を満たすことも、あなた方は是としますか?」
「………いや、道徳に反する。是としない」
「つまりは結局、小児性愛者の存在を認めないのと、同じですよね、それでは」
「……………。他者に危害をおよぼすことなく、代償行為によって欲求を満たせばよい」
「同じことを同性愛者に言えますか?」
「当然だ。同意あっての関係だ」
「道徳とおっしゃいましたし、また他者に危害を、とも。では、同性愛は道徳に反しないのですか? 人の道に外れた愚かな行為ではありませんか? そして、他者という存在をパートナーだけでなく、より広く自分たちの両親、家族というところまで含めたとき、同性愛は他者を傷つけることになりませんか?」
「…………芹沢殿は、もしや…」
そこまで言いかけて三島は黙った。そして自重していた鐘留が自重に飽きた。
「アユミン。ユキちゃんたちの団体が言いたいのはさ、メインは出生前診断の方だよ。外れクジを引かないように、あらかじめ間引いておくのはダメって話。だよね?」
「……。言い様は低劣だが、そうである。だが、その前に言っておく。我のもつ道徳において同性愛は不徳ではない。また、多様性を認める道徳においては両親をふくめ、周りが傷つくことはない」
「それは自分の道徳を他者に押しつけることに他なりませんよ。信仰の自由というものがありますが、宗教の中には同性愛を厳に禁じる宗教もある。そして、道徳と宗教は峻別しにくい。自らの信条を他者に強制することは不徳かつ不当ではないですか?」
「強制ではなく啓蒙であれば是である」
「……………。それで、あなたの両親は納得されましたか?」
「幸いにして、我は同性愛であっても身体は女であったからな。男と結婚しているゆえ」
「っ……そんなんズルいわ」
「………………。出生前診断の話をさせていただく」
「……どうぞ」
「あらゆる命の可能性を認めるべきだと、我々は考えている」
「………………その子の一生が疾患のために苦痛に満ちたものだとしても?」
鮎美はライフイージスから送られた資料だけでなく、鐘留からも遺伝子や遺伝病についての書籍を借りていたので知識を蓄積しつつあった。そして、どうして鐘留のような軽い雰囲気の女子高生が先天疾患などという重いテーマの本をもっているのかは、生後まもなく息を止められた弟二人のことを考えれば、問わなくてもわかることだった。鮎美へライフイージスから送られた資料には障碍があっても、自分らしく生きる人々の姿が紹介されていたし、鐘留から借りた書籍には重い疾患のために苦しむ本人と家族のことや、まだ人格や自我が確かではない生後間もない赤子を殺すのは倫理学的に妊娠中絶と同程度のことだ、と説く生命倫理学者の理論があった。そして、出生前診断で胎児に障碍があるとわかった両親の95%が妊娠中絶を選ぶというのは、どちらにも書かれていた情報だった。三島は鮎美からの問いかけで、鮎美が受け取った資料以上の知識を学んでくれていることは喜ばしく察したけれど、その出所が鐘留でありそうなことも察した。
「たしかに、病気の中には長く苦しむ上に二十歳となるまでに必ず死ぬ、現在の技術では救いようのないものもある。だが、その苦痛を感じる機会も与えぬのは、人間精神の挑戦と可能性を否定するのと同義だ」
「生まれてこなければ、よかった……そう考える機会を与えよ、と?」
「そうだ」
「そして両親も苦しむのに?」
「必ずしも苦しみだけではない」
「………障碍児をもった両親、同性愛者の両親、その何割が苦しみを味わっていると考えますか?」
「思想と精神の虚弱さが苦しみだと知覚させるのだ」
「…………思想と精神の虚弱さもまた生まれもった障碍かもしれませんよ、誰しもが強い心をもっているわけではない」
「あのさ、アユミン、関西弁が引っ込むくらいガチで討論してるとこ割り込んで悪いけど、同性愛者と障害児の話って、別々じゃない? エッチする相手が、ちょっと変わった趣味なだけで他は健康な人と、何の役にも立たない迷惑でしかない、できそこないは別でしょ?」
「カネちゃん………近い未来に同性愛者は出生前診断で割り出されると、うちは予想するよ。せやから、この二つはリンクするねん」
「え? 同性愛って検査でわかるの?」
「今は無理でも、二卵性双生児の片方が同性愛者であった場合と、一卵性双生児の片方が同性愛者であった場合では、もう一方が同性愛者である確率は倍ほどちゃうねん。これ、カネちゃんが貸してくれた本にあった話やで」
「う~ん……遺伝子が関与してるってこと?」
鐘留は自分で買った本であっても、遺伝疾患については興味をもって読んでいても、同性愛などの記述については読み飛ばしたので頭に残っていなかった。
「そうや。指向って言葉で修飾してるけど、結局は遺伝性の疾患と科学的には同じかもしれんねん。それどころか、小児性愛も殺人嗜好でさえも親による躾けは関係ないってデータもある。ダウン症と同じく、もって生まれた障碍かもしれん。厳密には染色体トリソミーと一部の塩基配列が生み出す不都合な個体の性質は別もんかもしれんけど、本人に責任なく、そうなるって意味合いにおいては同じやねん。そして、もしそうなら、いずれは遺伝子検査によって判明するんよ。その胎児が将来、どういう子になるか、だいたいわかってしまうかもしれんのよ」
「ふ~ん………じゃあ、近い将来に生まれなくなるから、いいんじゃない。全部、検査して中絶すればいいよ」
「……そうやね……。そう考える人もおるやろね……たくさん……」
「ほら、たしか最小不幸社会とか、誰か言ってたじゃん。自眠党のえらい人が」
「それ眠主党の鳩山直人やし」
「ああ、あのカイワレ宇宙人ね」
「あと最小不幸社会の意味も大きくちゃうし」
「え、いいじゃん。ガイ児もホモも生まれる前に、みんな処理すればさ。あと、そういう遺伝子要因もってる人もチェックしていけば、次の世代は最小不幸社会だよ」
「っ……カネちゃん……」
鮎美が疲れたように机へ肘をついて手を額にあてた。目を閉じて肩を落としている。その様子を見て三島が頭を下げて起立した。
「本日は時間をいただき、芹沢殿には深く感謝いたす」
「…いえ…」
「我が18歳であった頃、この胸を刀で切り落とし、腹を裁いて死する願望を何度も抱いた。だが、今は生きていて良かったと考えている。新しい社会を築くために、この命、賭する覚悟であるゆえ」
「………」
「貴君の壮健なるを祈る」
そう言い放ち、三島は去った。鐘留が拍子抜けする。
「なに、あれ? まだ話の途中じゃん。お腹でも痛くなったのかな」
「……………」
鮎美は黙り、鷹姫が言う。
「おそらく芹沢先生がお疲れなのを察したのでしょう。思想はともかく士道ある男…男なのでしょう」
「鷹姫………………鷹姫って武士道が好き?」
「はい。正確には鬼々島の武士道、鬼々士道を範として生きています」
「どんな武士道なんそれ?」
「一人は島のために、島は国のために、表に立たずとも確かに支えよ、です」
「………剣道を男より強くなってるのも、そのへんの心がけで?」
「はい」
「……………もしかして鷹姫って男に生まれたかったって思ってる?」
「父は、そう望んだようです。ですから私の名は発音だけでは男に聞こえませんか?」
「たしかに……」
「高きを目指せ、鷹のように。けれど、母が女の子なのに、それではかわいそうだからと、姫の字をつけるよう願ってくれたそうです」
「ええお母さんやね」
「はい」
「それで鷹姫自身は男に生まれたかった? 女でいるのは苦痛?」
「いえ、別に苦痛ではありませんし、男に生まれたかったとも思いません」
「女の子でいたいんやね?」
「別に、そちらにも、とくに拘りはありません。正直、どちらでも良いです。なぜ、みなさんは男か、女かに、そんなに拘っているのですか? 人は人ではないですか」
「…………」
「こういう人もいるんだね。きゃははは」
笑った鐘留が話を続ける。
「男と男でエッチとか、すごいよね。穴あるから成立するんだろうけど、キモいし汚い」
「………。カネちゃん、男性同性愛者の中にもアナルセックスをよしとしない人らもいるよ」
「ふーん……じゃあ、どうするの?」
「それは………うちらにも手も口もあるやん」
「ああ、なるほど。ってことは棒が無い女と女のエッチもそんな感じ?」
「やと思うよ……たぶん」
「おっぱいくっつけ合って喜ぶのかな。きゃははは♪ バカみたい!」
「………」
「あ、そういえばアユミン、女子からラブレターもらってたよね。どうしたの?」
「断ったよ、ほら」
即答した鮎美はスマートフォンを出して、ラブレターを送ってきた女子とのメッセージ履歴まで見せて鐘留に確認させた。
「無難に断ったんだね」
「かわいそうやったけど、本人のためでもあるから」
「また、次のお姉様を捜すのかな?」
「どうやろね。この子の感じやと、告白のお試しってだけでガチやないと思うよ。次あたり男子に興味をもちやると一番ええんやけどね」
「男子といえば、男子からもらったラブレターは、どうしたの?」
「……ああああ?!」
鮎美が大声をあげて立ち上がった。
「しもたぁぁあ!!!」
「「どうしたの?!」」
「どうしたのですか、芹沢先生?!」
鐘留と静江、鷹姫まで大声をあげる鮎美に驚いている。
「すっかり忘れてた!! 市議選の日! 朝9時にデートやったのに!」
「行く気だったんだ」
「ちゃうよ! 断るつもりやった! けど、自分で行くか秘書に頼むか迷ってるうちに、忘れてしもて! あの日も忙しかったから!!」
「あ~あ~、何時間、待ったんだろうね。ってか、せめて連絡くらいしてあげなよ」
「連絡先なかってん! 女子の方は、ちゃんとあったのに。あったらメッセージで断れたのに」
「じゃ、仕方ないね。どうせ1時間も待たずに帰ったんじゃない?」
「う~………悪いことしたわ………今から謝っても、今さらかな?」
「そろそろ失恋の傷が癒え始める頃だから、そっとしておいてあげなよ」
「……そうやね……そうするわ…」
鮎美が椅子に座った。
「アユミンに振られたショックで男同士に目覚めてたりして」
「…………」
「ま、何にしてもキモい連中には、二丁目とか養護学校に入っててほしいよね。宮ちゃんは、どう? 宮ちゃんも女子にモテそうなタイプだよね。女の子に告白とかされたら、どうする?」
「お断りします」
「っ…」
鮎美が息を飲んで硬直したのには、誰も気づかず鐘留が続ける。
「すっごく可愛い子でも?」
「同じことです。そも、緑野であれば、どうするのです? とても可愛らしければ交際するのですか?」
「う~ん……う~ん……いや~ぁ、無理かなぁ……チューまでならいいけど、その先はキモい。ってか、やっぱりチューもキモい♪ 舌とか入れられたら、ゾッとするよ。シズちゃんは、どう?」
「年上に向かって、そういう呼び方、あまり好ましくないわよ」
年上らしく小言を言ってから静江は答える。
「この歳になると、いろいろ経験も増えるのよ」
「ってことは、したの?」
「大学院にいた頃、そういう趣味の子がいて告白されたわ」
「うわぁ……で?」
「思い返すだけでも気持ち悪い。告白されてから、やっと気づいたの。それまで私の洗濯物を引き受けてくれたり、お弁当を多めに作って分けてくれたり、いろいろ親切にしてくれるから、私の父が議員だから就職先でもお願いしてくる気かな、って普通によくある下心かと思ってたのに。まさか、そういう気持ちで私に接してたなんて」
静江が嫌悪感を振り払うように前髪を払った。
「わかってしまうと、思い当たることがいっぱい出てきて、サークルの旅行で温泉にいっしょに入ったときも変だったし、着替えのときの視線とか、やたら触ってきたこととか、私が着なくなった服をあげたら喜んでたこととか、そういうの全部が気持ち悪くなってきたの。だって、それって大きな裏切りでしょ? 今の今まで同性だと思ってたから平気で着替えたり、洗濯物を預けたりしてたのに、そんな下心があったなんてことは男よりタチが悪い。泊めてあげたことも、男だったら用心したのに。私が寝てる間にキスでもされたかもしれないと思うと寒気がする。あのとき思ったわ、ああいう人たちは結婚指輪をつけるみたいに何かマークをつけてるべきよ」
「ぅ…、うち…、ちょっとトイレ!」
お腹ではなく顔を押さえた鮎美はトイレに駆け込む。駆け込むまで間に合わなくて、涙が溢れてきて顔と手が濡れた。
「っ、うーっ…うーっ…」
声をあげて泣くとトイレの扉が薄いので静江たちがいる部屋まで響いてしまう。鮎美は声をあげないように必死で口を両手で押さえて泣いた。
「きゃははは♪ シズちゃんの体験って、なんかリアルだね」
「鮎美ちゃんにラブレターを送った人は正直でいいわよ。最初から、そうですって言ってから近づいてるんだから」
まだ続いている会話が扉の薄さのせいで聞こえてくる。溢れて止まらない涙が手から流れ落ちて手首をつたい、肘まで滴ってトイレの床へ降っている。
「…うーっ……ひーぅ…」
「そうだねぇ、見てわかる障害と違って、ああいうのは黙ってると、わかんないね」
「いっそ小指に指輪をするとか、なにか、人類共通のマークでもあるといいのに。ううん、指輪だと外せるから、見えるところにタトゥーでもさせるかね」
「だいぶ恨んでるね?」
「当たり前でしょ、男の前だったら平気で着替えないのに、油断させて。盗撮とかも、その気になったら、いくらでもできるし」
「あ~、それは怖いかも」
「ああいう人たちは女子トイレと女子更衣室も入ってほしくない。障碍者トイレを使ってよ、って思うわ。わりと真剣に。こっちの人権侵害だと思わない?」
「人権なんて幻想だよ。赤信号と同じくらい」
「…ぅーっ…ぅぅ…」
耳を塞ぎたい。聴きたくないけれど、口を押さえていないといけないので鮎美は耳を押さえられず、便座に座ったまま丸くなる。泣きやむことができなくて、ずっと泣いていると、鷹姫が扉の前に近づいてくる気配がした。
「芹沢先生、具合が悪いのですか?」
「…ぅ……うん……ちょっと…」
涙声にならないように努力したけれど無駄だった。
「お声が……それほどに、痛みますか?」
痛いのは、お腹でなくて胸だった。胸が張り裂けそうに痛くて、痛みが涙に変わって溢れてくる。
「医者へ行きますか?」
「ううん……心配せんとって……そのうち、戻るから……そこに、おらんといてよ。恥ずかしいわ」
「はい、失礼しました」
鷹姫が離れていき、やっと鮎美は口を押さえていなくても嗚咽しなくて済みそうになった。それでも涙が止まるまでには、まだ時間がかかり、静江が近づいてくる。
「鮎美ちゃん、大丈夫?」
「へ…平気です……ちょっと、冷たいもん飲みすぎたかも」
「そう。体調管理も仕事のうちよ」
「はい…すんません…」
「あんまり痛かったら遠慮しないで言いなさい。病院へ連れて行ってあげるから」
そう言って静江が離れていく。鮎美は苦労して気持ちを落ち着け、顔を洗ってから戻った。
「アユミン、大丈夫?」
「うん、もう大丈夫やと思うよ」
取り繕うのにも慣れてきている鮎美は平静を装った。
「そ。じゃ、そろそろ長居したし、アタシは帰るよ」
鐘留は立ち上がって、ふざけて敬礼する。
「同志諸君、また会おう!」
「はいはい」
鮎美が脱力気味に流し、静江が付け加える。
「お父さん、お母さんにも、よろしくお伝えくださいね」
「忘れなければね」
そう言って鐘留は支部を出ると、またネットカフェに入りパソコンで遊び、差別を助長するような書き込みをネット上にあげると、日が暮れて気温が下がる頃に退店して駅前を目的なく歩き回った。
「ちっ……さっさと帰れば良かった」
歩き回ったおかげで、数ヶ月前まで交際していた男子が一つ年下の恋人とデートしているのを見かけてしまい、舌打ちしてからタクシーを拾った。乗り込むと、エアコンの涼しさと運転手の声が迎えてくれる。
「ご利用ありがとうございます。どちらまで、いかれますか?」
「かねや本店」
「…。かねや本店ですね。承りました」
横柄な客に慣れている運転手は、ぶっきらぼうな若い女性を目的地まで運んだ。鐘留は親からもらったカードで支払い、家に帰る。部屋に戻ると、投げて割ったグラスは家政婦が片付けており何事も無かったように整っている。
「………ヒマだなぁ………アユミンたち忙しそうだし……」
受験勉強する気はない。どうせ、婿養子を迎えて、その男が事業を引き継ぐのだと思うと、努力する気になれない。時間もお金もあるけれど、やりたいことが無かった。生まれもった美貌と親のコネでモデルになってみたけれど、制約も多くて面倒になり辞めてしまうと、少々パソコンを勉強したくらいで、すべてに飽きている。面白そうなのはクジが当たって議員になるという鮎美の今後くらいだったので、見守りたいと思っている。
「……………アユミン………お昼、泣きそうな顔してた………あいつのせいだ……ライフイージスの……」
鐘留は三島が立ち去る直前の鮎美の表情を覚えていたので、自分のスマートフォンで発信者非通知設定にしてから三島へ電話をかけた。三島の携帯電話番号はネット上に堂々と公開されていたし、鐘留側が非通知でかけても2コール目で受話してきた。
「命の盾の会、ライフイージスの三島である。お悩みであるか?」
三島は妊婦の相談も受けているので、非通知であっても優しい声で語りかけてきた。
「うん、お悩みだよ」
「その声は……、いかなる悩みであるか?」
三島は鐘留の声に気づいたけれど、とりあえずは慈善的なNPO法人の代表として応答した。
「うざい団体が、アタシの大事な親友のところに来るから悩んでるの」
「……それは我々のことか?」
「うん」
「………」
「二度と、アユミンのところに来るな。アユミンは忙しいし、キモい団体に迫られて、お昼だって泣きそうな顔してた。どうしても討論したいならアタシが相手してあげるよ」
「……なるほど…」
三島は鐘留から電話を受ける前に、鷹姫から電話をもらっていた。その内容は、昼の訪問時に途中で鮎美は気分が悪くなり、それを察して退席してくれたことへの礼と、まだ勉強中なのでライフイージスの政治的方向性に、すぐに賛同することはできないが、今後も三島から知識をえると同時に交流をもちたいので、これからは秘書である鷹姫に連絡すればアポイントがとれるよう調整する、というものだった。二度と来るな、という鐘留の主張とは正反対のもので三島は鐘留の独断専行なのだと察した。そして友人を想う鐘留が、鮎美には多数派ではない性質があることに気づいていないのだとも察する。三島は昼の面談で、もう鮎美には少数者の性質があり、おそらくは女性同性愛者なのだと見込んでいた。そして、もちろん、それを鐘留に告げてはいけない、ともわかっている。本人が隠しているなら言うべきでないし、まして鮎美は最年少議員として世間から注目されている立場なので、下手に発覚すると思い余って自殺ということさえ考えられた。
「アユミンを、これ以上に傷つけたら許さないから。アタシの家、超お金持ちだし、命の盾だか、ガイ児の盾だか知らないけど、凹ませて燃やしてやる」
「かなり滑稽ではあるが、朋友を想う貴殿もまた人間精神の可能性を宿しているな」
「は?」
鮎美が泣きそうになったのは鐘留が同性愛者も障碍者も、すべて産まれる前に排除してしまい、現存する者も管理すればいい、と主張したからで、近しい友人に自分の存在を全否定されたことからくる悲しみだったのに、それに気づいていない鐘留は、三島には滑稽すぎた。
「まずは貴殿の名を訊こう」
「………。緑野鐘留」
いくつか偽名を思いついたけれど、鐘留は正直に名乗った。
「緑野殿が我と論議するというか」
「うん、だからアユミンには近づかないで」
「どう論戦をはるのだ?」
「じゃ、お互いの立場は、はっきりしてるよね。アタシは出生前診断に賛成、ユキちゃんは反対派」
「うむ、できれば、そのユキちゃんという呼び方はやめていただきたい」
「できない♪」
「……であるか、まあよい。で?」
「ユキちゃんたちが主張しそうなことを先取りしてあげるよ。検査の偽陽性ってあるよね?」
「それを知っているか……」
軽そうにみえる鐘留が出生前診断に限らず、医学上の検査は必ず的中するものではなく中には陽性と判定されたのに実際には陰性である結果もあり、これが出生前診断となると命に関わり、障碍があると見込んで妊娠中絶したのに実は、まったく健康な胎児であったということもある、ということを知っているようで意外だった。
「芹沢殿へ送った資料を緑野殿も読んだか?」
「パラパラっと」
その読み方では偽陽性反応についてまでは認識しなさそうなもので、鐘留の口調は事前に知っていた感じのものだった。
「で、何が言いたいのであるか?」
「その前に、妊娠中絶の是非を、どうする? 強姦されて妊娠することだってあるじゃん。それでも中絶はダメ?」
「妊娠中絶は、さけられるなら、さけるべきであるが、強姦といったケースでは、やむをえないだろう」
「じゃ、中絶はアリってことね♪ やっぱ、女の権利だよね。リプロラクティブライツ」
「そういう言葉を女子高生が知っているか……」
「産む産まないは女の権利、アタシたちは産む機械じゃないし」
「それで?」
「妊娠中絶がありなのはさ、やっぱり胎児には意識とか自我が無さそうだからってのも大きいよね」
「………」
「これをさ、もう少しだけ期間を広くとってさ。出産後2週間くらいでも、そんなに赤ちゃんの自我とか意識なんて無さそうだしさ。偽陽性反応で、うっかり健康な胎児まで殺しちゃうことを考えたら、いっそ産まれてから障害の有無をチェックして、でもって決断すれば、いいよ」
「非道なことを考えるものだ」
「そうかな? 日本の神話にもあるじゃん、イザナギとイザナミが最初に産んだ子はガイ児っぽかった、だから川に流した。次の健康な子から育てた。これ基本、だから模範として神話になった。カインとアベルも、カインちょっと迷惑系の人だよね。現代で言うとムシャクシャして包丁振り回す系の人、これも検査でわかるなら、さっさと殺しておけばよかったんだよ」
鐘留は記紀や聖書に詳しいわけではないけれど、自分の考えに合う部分だけは記憶している様子だった。
「そして神話だけじゃないよ、生命倫理学者でマイケル・トゥーリーって人も提唱してる」
「緑野殿は障碍をもった子を邪魔者としか考えないようだが、彼らには素晴らしい感性がある」
「そんなの、健康な幼稚園児にお絵かきさせても、いっしょだよ。脳のレベルが、そこから進まないだけ。だいたいさ、アタシだけじゃないよ、邪魔者だって思ってるの。政府もそうじゃん、国民全体も。いったい財政赤字、どれくらいある? 医療が全部無駄とはいわないけど9割は無駄だよ。9割カットできたら3兆円で済む」
「緑野殿は家が金持ちであると言ったな。いかほどに豊かであるか?」
「たぶん数十億円くらい」
「困窮する家庭に分けてやる気はないか?」
「ない♪」
「であろうな」
「……、だったら訊くなよ」
「医療の9割が無駄であると言ったが、産業の大半も無駄であると思わぬか?」
「え……? ………う~ん……たとえば?」
「とくに金融、広告、さらには悪徳産業は150%も無駄な労力である」
「悪徳産業ってなに?」
「特殊詐欺をふくめた、ほぼ犯罪、もしくは犯罪に近いような商法、さらに、これらを取締り、処罰する人手も、もともとの悪徳行為がなければ、ずいぶんと警察官や刑務官、弁護士の数も減らしうる。また、事実として生活保護の支給を手厚くしたところ、刑事犯は減っている。国と国民全体が弱者を助け、弱者を助ける事業へ、予算を振り向ければ、社会は変革していくのだ」
「まあ、そうかもしんないけど……、あ、言っておくけど、うちは悪徳商法の会社じゃないよ。まじめに美味しいお菓子とお肉を売って、観光客を山の上に運んでるからね」
「もし、人類が肉食をやめれば、地球上の飢餓が解消される、という話を聴いたことがあるか?」
「あ~、あるある、アホなベジタリアンがたまに言うね。カロリーベースで考えると、肉をつくるのに10倍の穀物がいるから、とか、なんとか。でもさ、どうせ飢餓を解消しても、そんなの一瞬だよ。また産めよ増やせよで、発展途上国はアホみたいに人口を増やして、次こそ、とんでもない飢餓になるよ。これ、実験室での細菌の増え方とか、生態系でのシカとオオカミの関係なんかと、いっしょ。食料が増えると、アホみたいに個体数を増やす、で、次に飢餓がくる、景気の波みたいに、増減する、そんなもんだよ」
「緑野殿は、ずいぶんと人間存在に失望しているのだな」
「失望? ………まあ、人なんてヒトだよ。ただの生き物、自分の欲望が優先」
「もし、日本社会が障碍者と少数者に優しくなれば、多くの問題が解決する、とは思わないか? 人類が肉食をやめるというほど難しいことではない、げんに日本社会には、それだけの豊かさがある。財源や人手が足りぬ、というのは、おかしな話だ。日本に限れば飢餓で死ぬ者は、ほぼいない。食料はある。薬もある。そして人手も、金融はATMが機能すればよい、余計な投資商品を売りつける営業、いらぬ借金を増やす営業をやめれば、今の50分の1の人手で機能するだろう。広告も、生活物資は十分にあるのだ、やたらと消費を喚起せず、あるもので充足すればよいし、足りぬ物は足りぬときに買えばよい。そもそも多すぎるコンビニも人手を無駄にしている。そうして、余った人手を障碍者に向ければ、みな幸せになろう」
「それって……ざっくり言うと銀行に就職しないで、介護施設とかに就職しろってこと?」
「そうだ」
「………それは無理でしょ。給料とか、いろいろ」
「社会構造を大きく変革すればよい」
「うわぁ……それ革命とかクーデターにつながりそうだね」
「以前にクーデターに挑戦したが、失敗に終わっている」
「したんだ……挑戦………。アタシは今けっこうヤバい人と通話してる?」
「今は、その失敗に学び、議員一人一人へ働きかけることによって日本社会の変革を目指しておる。その一環としてのライフイージスである」
「……壮大だね……まあ、議員一人一人に働きかけるのは、クーデターより正解っぽいけど……」
「一つ、緑野殿へ問いたい」
「うん、なに?」
「緑野殿には家族など近しい者に障碍者がおられるのか?」
「っ…さあ? なんで?」
「普通の高校生であれば、知らぬようなことを、よく学んでおられるからだ。そして、近しい者、とくに兄弟姉妹に障碍者や難病者がおられる場合、健康な子は親の愛情不足を感じて、その原因となった障碍や疾病をもつ兄弟姉妹を憎み、邪魔者だと感じる。親が自分を愛してくれないのは、彼らのせいだ、と」
「っ! うっさい!!! ママも、パパもアタシを愛してる! 最高に一番に!! ガイ児の兄弟なんかいない!! ガイ児なんか、みんな殺せばいいんだ!! クズはゴミなんだから!! 死ね!!!」
金切り声で叫んだ鐘留はスマートフォンを投げていた。広い部屋でスマートフォンが飛び、壁に当たると床に落ちた。確かめるまでもなく壊れている。
「ハァ……ハァ……」
鐘留は泣きそうになってから、なにも無かったように、つぶやく。
「……ちょうど、新機種が出てるし……アユミンと、宮ちゃんの番号が、わかればいいや……」
過去のデータを振り切り、フラフラと鐘留は大きなベッドに倒れ込んだ。
「……………」
しばらくベッドの上にいると眠くなってくる。
「………やばい……寝そう……」
眠たくなってきた鐘留は、とても面倒で自分でも認めたくないけれど、シーツを濡らしてしまうと家政婦に知られるので、寝てしまう前にナプキンをあてがってから、横になった。
「……悪い夢……見ませんように……」
願ってから、目を閉じた。毎晩、恐ろしい夢を見る。思い出せない場合もあれば、よく覚えている場合もある。覚えているときは、たいてい実の親に自分も殺される夢だった。手足が動かせなかったり、身体が幼児になっていたりして、抵抗できないまま、息を止められる。この子もダメだった、そう言われて殺される。苦しくて怖くて、そして悲しくて、起きると、いつも夜尿していた。
炎暑の8月15日、朝から暑いのに鮎美と鷹姫、鬼々島の自治会役員と戦争遺族は剣道場がある小山の中腹から、さらに登った頂上付近にある神社に来ていた。鬼々島に人が住み始めた頃からある神社には、もともとの祭神に加えて第二次大戦での戦死者も合祀され石碑が建てられている。
「護国の神となりし茶谷宋次郎、宮本弥助、宮村正次郎、岡崎甚八郎…」
漁師と神主を兼業している七十代の老人が祝詞をあげている。鮎美は参議院議員の候補予定者として参列を求められていたので、仕事の一つとして訪れていたけれど、戦死者のうちに鷹姫の曾祖父の弟がいると聴くと、複雑な気持ちだった。大戦など遠い昔の歴史上の出来事と思いつつあったのに、実感として自分たちと地続きの世界なのだと認識が変わってくる。とくに自分も国政をになう立場の一員として参拝すると、これまでの初詣や七五三などで神社を訪れたときとは比較にならない厳粛さを感じていた。
「……戦争……」
つぶやいた鮎美の前では、遺族が深く祈っている。鮎美も立ち去るのに気が引ける部分もあったけれど、次は県全体の戦没者を祀っている井伊市にある護国神社へ12時までに行くという予定があり、また背後には神前が空くのを待っている島民が行列となっているので頭をさげて参道をおりた。途中、鷹姫の父である衛と継母の郁子、妹二人とも擦れ違ったので会釈し、鷹姫と港に出て連絡船で対岸に渡った。
「鷹姫……今日も暑いなぁ……」
大戦について思うことはあったけれど、口をついて出たのは身体を襲っている猛暑についてだった。鐘留のようなキャミソール姿になりたい暑さだったけれど、立場と参拝のマナーから制服を着て革靴を履いている。
「はい、暑いです」
二人で船をおりると、迎えに着てくれていた静江の車に乗り込む。エアコンの効いた車内で水分もとると、まっすぐに井伊市へ向かう。運転しながら静江が言ってくる。
「護国神社では少し遠いところに駐めますから、今のうちに涼んでおいてね」
「え~……なんで遠いとこに?」
「国政議員だからドーンと近いところに駐めるのもありだけど、二人とも若いし、私も! まだまだ若いし、そもそも議員として駆け出しで今日は暑い中、90歳を超える遺族の方々やベテラン議員、多選だと10期も務めてる県議や市議の先生方も来る中、近いところに駐めてみる?」
「いえ、一番遠いところで、けっこうでございます」
「よろしい」
静江は護国神社の付属駐車場ではなく数百メートル離れたコインパーキングに車を駐めて、そこからは歩く。途中で同じく遠い駐車場に駐めた石永と直樹も合流した。二人とも男性秘書たちを連れている。
「暑いな」
「ホンマに」
石永と鮎美は一言だけ交わした。炎天下で、とても会話を続けようという気になれないので、お互い軽い会釈だけで護国神社へ向かう。神社に着くと遺族や保守系の議員が参列しつつあり、初詣とは違う厳粛な雰囲気があった。それでも、たまに鮎美は知らないオジサンから声をかけられる。
「芹沢さんですか? 井伊の市議で谷村と申します。どうぞ、よろしく」
「あ、どうも。芹沢です。よろしく」
とりあえずの社交辞令はするけれど、暑いのと参拝が主目的であるので名刺交換などはせず、石永や直樹らも一言二言、顔見知りの議員たちと挨拶しつつも境内に参列していく。神前に禰宜が立ち、巫女が太鼓を叩き、遺族たちが並び、その後方に一般参列者や議員たちも並び、祝詞が始まる。
「くにがまもりさきもりとなりてかみなりかみかしこみかしこみて」
日本語のはずなのに、あまり理解できない言葉を聴きつつ、鮎美は周囲がしているように起立したまま少し頭をさげておく。神社に来るのは今朝を除けば、初詣以来だったし、大阪の天王寺区にある生國魂神社へ参ったのも玄次郎が混雑を避けたいということで一月も五日を過ぎた頃だった。そして四月からはキリスト教系の学園に転入し毎朝の礼拝などを経験していたので、久しぶりの神道行事に祝詞の意味はわからなくても懐かしい感じはした。
「お兄ちゃんは、やっぱり今年も、このまま靖国神社へも行くの?」
神事が終わったので静江が石永に問うた。
「ああ、行ってくるよ、当然」
「ご苦労様ね」
新幹線があるので昼過ぎからでも日帰り可能だった。石永が静江と鮎美へ問う。
「やっぱり芹沢さんは連れて行かない方がいいかな?」
「……うちは……どうやろ……」
「先週、支部の会議で決めたでしょ。まだ早いし、あそこ今日はマスコミと運動家が集まってグチャグチャよ。そんなところに鮎美ちゃんを連れていかないで。どう報道されるかわからないし、単純に危ないし」
「そうだなぁ……本来は日本の戦死者を政治家が崇めるのは当然なのに、仲国と麗国あたりが、うるさ…」
石永がつぶやいていると、そばを眠主党の細野が通りかかった。お互い、目があったので会釈し、鮎美も目を伏せつつ会釈した。とくに言葉を交わすことはなく通り過ぎた細野は直樹と一言二言交わすと去っていく。石永は鷹姫に目をとめた。
「宮本さんは靖国へ行ってみたくはないか?」
「え……はい、あそこは大戦だけでなく戊辰戦争を含めた1853年からの殉難者を祀っていますから、行ってみたいと思っていました。全国大会で武道館へ行くことがあっても、いつも日帰りで時間がありませんでしたから」
「おお! これから、どうだい?」
「それは……」
「交通費は、オレが出すよ」
「鷹姫…」
鮎美が不安そうに鷹姫の袖をつかんでくるので、はっきり断る。
「いえ、私は芹沢先生とともにありますから、いずれの機会といたします。お誘いいただき、ありがとうございます」
「そうか……」
「お兄ちゃんっ! 宮本さんに、ちょっかい出すのやめなさい。彩先輩に言いつけるよ」
「うっ、そういう邪心は一切ないぞ!」
「お兄ちゃんに無くても、いっしょに行動してるところを週刊紙にでも撮られたら、やっかいよ」
「はいはい。もう新幹線の時間だし、行ってくる。じゃ」
石永が足早に去り、鮎美たちも遠い駐車場の車に戻った。
「「暑ぅぅ…」」
鮎美と静江が異口同音し、エアコンが効くのを心待ちにする。静江が車を出して六角市へ戻るために進むと、再び護国神社の前を通ることになった。
「あ、今、歩道にいた車イスの老人を見た?」
「そっち見てなかったわ」
「私も見ていませんでした」
「そう」
「えらい人か、有名人なん?」
「鮎美ちゃんの前に参議院議員となってる西村先生よ。癌で引退される。まあ、無所属だし接触の機会はないかな。にしても、この暑さの中、車イスで参列なんて立派なことね」
「さっき、細野はんも見かけたわ」
「いたね。眠主は半々くらい来てたかな。同じ眠主党内でも右派と左派で、ずいぶん違うし」
「うちは護国神社って初めて来たわ。他の神社より、ちょっと雰囲気ちゃうね。ピシッとしてるというか、空気感が違う感じやったわ」
「とくに今日は、そうなるよ。さて、今日も支部でお勉強する気力ある?」
「きっと大学受験するみんなも頑張ってるし、うちも頑張るわ。鷹姫も付き合ってくれる?」
「はい」
いい返事をしてくれる鷹姫を、鮎美も静江も貴重な存在だと思いつつ、支部での勉強に向かった。
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