第5話 六月 初陣で腰が抜ける。出生前診断と殺人

 暑くなってきた日曜日の朝、鮎美と鷹姫は知らないオジサンを応援するために、六角市内にあるコンビニ跡地に来ていた。知らないオジサンの名は、鈴木義則(すずきよしのり)という平凡な名で、本当に知らなかったけれど、そういえば市内の道路に立っている小さな看板には、たまに同じ名が書かれていたような気もする。いずれにしても日本全国に何人か同姓同名がいそうな名前で、立派な人もいれば平凡な人もいて、中には前科者もいるかもしれないけれど、ここにいる鈴木は自眠党会派の市議を3期務めているものの、今回の選挙は危ぶまれていた。

「あのオっちゃん、なんで選挙が危ういんやったっけ?」

 鮎美が小声で鷹姫の耳元へ問う。二人は短期賃貸されている元コンビニ建物の奥の奥へ隠されるようにパイプ椅子を用意してもらい、出番を待っていた。

「たしか、割の良い地域商品券を奥さんと、その友人らが入手しやすいよう便宜をはかった疑いをもたれていると………誰かが話しているのを聴きました」

「せこい疑惑やなぁ……」

 鮎美は余計な雑念は忘れることして手にしている原稿を何度も読み直すことに専念する。原稿は党が選んだ女性秘書が準備したもので、女子高生なら鈴木を、どう応援するかを考えて書かれたものだった。

「うちの言葉は一つもないのに……うちの口で言うわけか……」

「少しならアレンジしてもいいのよ」

 声をかけてきたのは女性秘書の石永静江(いしながしずえ)だった。六角市を含めた県内の衆議院議員選挙区第9区から選出されている石永隆也の妹で35歳、英語と料理を得意とする才媛で人当たりもよく、最年少参議院議員となる予定の鮎美を補佐するにたる人物と目されていた。議員秘書らしくグレーのパンツスーツを着ているし、化粧も派手すぎず地味すぎない。

「そう言われても、うちには何も……この文章で完璧やと思います」

「頑張ってね。これが芹沢鮎美の初陣でもあるんだから」

「「初陣……」」

 鮎美と鷹姫が、また少し緊張した。定刻が近づいてくると、どんどん人が外に集まっているのを気配で感じる。元コンビニの駐車場は車と人でいっぱいの様子だった。静江が様子を見てから戻ってくる。

「鈴木先生の出陣式に来たというより、鮎美ちゃん…芹沢先生を見に来たって人が多いわね。やっぱり」

「芹沢と市議選には直接の関係は無いはずではないのですか?」

 鷹姫の問いに静江は注意から入る。

「呼び捨てにする癖、直しなさいね。私も、つい鮎美ちゃんって呼ぶけど、私的な場では、いいとしても公の場では芹沢先生、最低でも芹沢さんにして」

「はい、すみません。芹沢先生と市議選には関係が無いはずでは?」

 素直に鷹姫は変更したけれど、先生をつけられて鮎美が恥ずかしくなる。

「同級生の鷹姫に、そう呼ばれるのは……っていうか、そもそも女子高生に先生をつけるのは、おかしゅーないですか? うちは、普通の呼ばれ方がええですわ」

「そうね、クジ引き議員の一部は、同じようなことを言って先生をつけられるのを避けてるけれど、党としては選出された以上、自覚を持って勉強し、先生と呼ばれて気後れしないほど国民の代表たる意識をもって。という意味で原則、先生をつけるよう指導しているわ」

「「…………」」

 そう言われると二人の女子高生に反論はなかった。

「で、鈴木先生の市議選と芹沢先生には直接の関係は無いけど、公の場に芹沢鮎美が顔を出すのは、これが初めてになるの。鈴木先生の人望だと今回は出陣式に、せいぜい100人も来ないから鮎美ちゃ…いえ、芹沢先生の初陣には、ちょうどいいかと設定したのだけれど、やっぱり珍しいからかな、300人くらい集まってる。報道陣も多いし。報道関係は明らかに芹沢鮎美が狙いね」

「「報道……」」

「クジ引き議員は、その任期が始まるまで原則として取材や報道を自粛することになっているけれど、選挙活動は公の場だから。でも、何か質問されても答えなくていいわよ。あと、出番が終わったら、即退場して移動だから、それも打ち合わせ通りに」

「「はい」」

 秘書というより教育係兼世話係をしてくれている静江へ二人が緊張した返事をしていると、外で鈴木の演説が始まった。

「皆様方には早朝よりお集まりいただき、この鈴木…」

 マイクで話している声なので建物内まで響いてくる。予定では最初に鈴木が挨拶し、さらに県議と商工会議所の役員、鈴木が住んでいる地域の自治会長が話し、そして鮎美の番となり、その次は農協の役員が話して応援演説は終わり、最期に再び鈴木がマイクを握って感謝と抱負を述べ、そのまま選挙カーに移乗して選挙運動に出発する、という流れになっている。

「次に県議会議員の大寺先生…」

 外では県議が挨拶と演説をはじめ、そろそろ鮎美の出番が近いので静江が促す。

「芹沢先生、そろそろ定位置に」

「…っ………」

 鮎美は立とうとしたけれど、膝が震えて椅子から立てなかった。

「…あ……あかん……脚に力が……」

「芹沢先生、深呼吸して。大丈夫、原稿を読むだけ。周りなんて気にしなくていいの」

 静江は優しく鮎美の背中を撫でる。その背中は制服のブラウスが汗で濡れてブラジャーが透けそうなほどだった。時間が迫ってくるけれど、静江は慌てない。

「大丈夫、大丈夫、カチコチに緊張してたって、みんな最初は同じなんだから。鈴木先生だって12年前の出陣式はかみまくりだったし、今回もかんでるし。私のお兄ちゃんだって初演説のときは農協と農業の発音がぐちゃぐちゃになったり、北朝鮮を知多挑戦とか言ってたもん。知多半島はミサイル撃たないって、みんなクスクス笑ってたよ。それでも、みんな拍手して、とりあえず出発すれば、それでいいのよ」

「……で……でも……」

 完全に鮎美は怖じ気づいてしまい、椅子に座ったまま腰が抜けている様子だったので静江は抱きしめてみる。

「私が支えていてあげるから、ゆっくり立てみて」

「…っ……っ……無理……うち、もう無理……」

「鮎美ちゃん……」

 もう時間がない、さすがに静江が困ってしまった。代わって鷹姫が鮎美の前に立つ。

「石永さん、どいてください」

「宮本さん、どうするの?」

 静江の問いには、鷹姫の手刀が答えた。

 ベシッ!

 鮎美は脳天を打ち据えられた。

「しっかりなさい! ここまで来て、泣き言を漏らして、どうなります!」

「ぅぅ……痛い……めっちゃ痛い……」

「痛いようにしたのです。目が覚めましたか?」

 頭蓋骨と手の衝突だったので鷹姫も痛かったけれど、それは顔に出さない。

「立ちなさい!」

 バン!

 今度は鮎美の背中を叩き、それでヨロヨロと鮎美が立ち上がると、お尻も叩いた。

「腰が引けています! もっと堂々と!!」

「…ぅぅ……鬼や……」

 ようやく鮎美は自分の脚で真っ直ぐに立った。

「歩いてみなさい」

「………」

 もう震えは止まり、鮎美は普通に歩けた。静江が落ちていた原稿を拾って渡してくれる。

「読むだけですよ、頑張って」

「はい…」

「「行きましょう、芹沢先生」」

 静江と鷹姫が左右に立ち、鮎美を守るようにしてコンビニ建物を出た。ちょうど地域の自治会長が応援演説をしているところだったけれど、そもそも運悪く偶然に選挙の年に自治会長に当たってしまっただけの初老の元サラリーマンは用意してきた原稿を棒読みしていたので、聴衆も飽きてきていて一斉に鮎美へ注目してくる。その視線を静江は遮るように歩いて鮎美へ囁く。

「周りは見なくていいですよ。順番が来たら原稿を読むだけ。読んだら一礼して、あとは車で移動。それだけ、それだけです」

「……」

 鮎美は小さく頷いて、予行演習のときに決められていた立ち位置まで歩き、立ち止まると聴衆は見ずに少し上を向いて視線を固定した。静江と鷹姫は左右に立つ。

「制服が初々しいのう」

 誰かが囁いている。鮎美と鷹姫は学校の制服姿だった。聴衆たちは多くが平服で、演説した関係者などはスーツ姿、選挙の運動員たちはおそろいのオレンジ色の上着を羽織っている。もともと誰も聴いていなかった自治会長の演説は続いているものの、私語が飛び交う。

「あれが新しい参議院のか」

「誰がやっても同じかもしれんけど、あれは…」

「大阪の子らしいで」

「あの制服は、どこの高校や?」

「ほれ、あれ、あの、私立の…えっと…」

「琵琶湖姉妹学園やろ。元シスター系で共学になった」

「そうそう、それ」

「役には立たんでも、自眠のアイドルには使えるかもな」

「可愛らしい顔してはるし」

「アイドルに使えるなら、中年のおばはんにクジが当たるより良いかもな」

「たしかに。この地区も有名になるし」

「有名になってから、おかしなことしよると困りもんやぞ」

 口々に鮎美を見た感想を漏らしているけれど、鮎美は脳内で原稿を繰り返して聴かないことにする。鷹姫が叩いてくれたおかげで、堂々と立っていられた。

「次は参議院議員候補予定者の芹沢鮎美さんが鈴木先生のために駆けつけてくださいました。どうぞ、お願いします」

 順番が来て、まだ少し脳天が痛かった鮎美は緊張すること無く一礼してマイクを受け取った。

「はじめまして。ご紹介にあずかりました芹沢鮎美です」

 第一声から、うまく滑り出してくれたので静江は安堵したし、鷹姫も無表情のまま内心で微笑み、軽く竹刀を握るように手を握った。鮎美は演説を続ける。

「私が初めて鈴木先生にお会いしたのは忘れもしない。私の当選を祝って、わざわざ鬼々島まで駆けつけてくださったときのことです」

 忘れるどころか、知らんちゅーねん、と鮎美は何度原稿を読んでも思ったことを反芻した。たしかに、あの日、多数の自眠党関係者が島に上陸していたので、その中に鈴木が居たのかもしれないけれど、まったく覚えていない。嘘はつきたくないのに、と思いつつも原稿を読み進める。

「鈴木先生の穏やかな人柄と揺るぎない信念を感じ…」

 鈴木はんはともかく久野先生と竹村先生は初対面でもオーラ感じたかも、と一介の市議と両院議長の差を思い返しつつ、鮎美は原稿を読み終える。

「鈴木先生のご健闘を心より祈念いたします。……」

 最期まで一言一句変えずに読み切った鮎美は物足りなさを感じて続けた。

「今日は用意された原稿を読むのが精一杯でしたけれど、いずれ自分の言葉で皆様に話したいと思います。そして、せっかく応援したんやから鈴木先生には、ぜひ当選してほしいですから! 皆さん清き一票をお願いします! うちも初めての投票を鈴木先生にさせてもらいます!」

 少なくとも鮎美自身の言葉が入った演説に対して、拍手が起こった。聴衆も慣れない演説を女子高生がやりきったことに心から拍手を送ったし、党関係者も安堵とともに大きな拍手をしている。鮎美は一礼してさがった。さがると、すぐに静江が手を引いて鮎美を車へ乗せる。

「芹沢さん、一言…」

 狙っていた報道関係者がマイクを向けてくるけれど、静江が強引に手を引くのでレポーターにぶつかってしまい、謝る。

「うっ、す、すんません。急ぎますんで」

「一言だけ今のお気持ちを…」

 まだ向けられてくるマイクを鷹姫が間合いに踏み込んで背中で遮った。鮎美と鷹姫が乗用車の後部席に乗り、静江が運転席へ急いで回る。静江にまで報道陣がカメラとマイクを向けているけれど、現職代議士の妹として慣れた対応で答える。

「すいません。次の会場へ急いでおりますので失礼します」

 出陣式の時間帯は本当に予定が押しているので静江は車を出す。もう一カ所の応援演説に行かねばならないし、そういう場合は本来なら鮎美の順番は前の方になるものだったけれど、慣れない鮎美が失敗しては困るので出陣式の中ほどに順番をもってきて、しかも同じく不慣れで一般人でしかない自治会長を直前にもってきたので、聴衆の鮎美への印象は、しっかりと話せる立派な女子高生という像に仕上がっていた。静江は少し車を走らせてから、やっと安心のタメ息を漏らした。

「はぁぁ…初陣、無事終了ね。お疲れ様、鮎美ちゃん」

「あれで、よかったんやろか……」

「上出来よ。リップサービスも良かったし、堂々としていたわ」

「そっか……へへ…」

 鮎美も成功を実感して気の抜けた声で笑った。

「この調子なら立派な女子高生議員になりそうよ。弁も立ちそう」

「うちは口から生まれてきたと、よう言われますから」

「調子に乗りやすいのね。一時は、どうなることかと思ったけれど、宮本さんの存在も精神安定剤になってくれて、よかったわ」

「あれは痛かったわ……めちゃ思いっきり叩いたやん」

「腑抜けていたからです」

 鷹姫が言い、ちょうど赤信号で停車したので静江もハンドルを離して、物真似をして鮎美の先刻の様子を思い出させる。

「…あ……あかん……脚に力が…………で……でも………っ……っ……無理……うち、もう無理……」

「ちょっ、静江はんっ! やめてや!」

 鮎美が真っ赤になり、ずっと無表情だった鷹姫が失笑する。

「…くすっ…クスクス…フフ」

「う~! 笑わんといてよ! 鷹姫のアホ!」

「失礼いたしました。芹沢先生、クス…」

「く~っ…」

 鮎美が呻りながら鷹姫の腕をつかんで揺すっている。もう信号が青に変わったので静江はバックミラー越しに二人を見て言った。

「その様子なら次は平気そうね。原稿はある?」

「あります! あと、さっきのは忘れてくださいよ! もう物真似やめてや!」

「フフ。それは無理かな。お兄ちゃんの知多挑戦も、私の持ちネタだから」

「う~ッ……」

 恥ずかしくて呻っている鮎美を乗せて静江は5キロほど走り、鬼々島に近い地域の市街地にある会場で駐まった。そこでも市議選立候補者の出陣式が行われていて、また閉店したコンビニ跡だったけれど、建設会社の資材置き場も隣接していて、そこも駐車場として利用されており、今度は千人を超える人が集まっている。そのうちの半数は鬼々島の島民が舟で渡ってきているようだった。鮎美も知っている顔が多いし、鷹姫は生まれた時から島民なので、ほぼ全員の顔を知っている。三人が乗った車が近づくと拍手と文句で迎えられた。

「やっと、おでましか」

「なんで鈴木のとことフタマタがけなんじゃ」

「鈴木が危ないで使われたんやろ」

「ワシらの芹沢を勝手に回しおって」

「鮎美ちゃん、がんばってね!」

「コラコラ、芹沢先生って言わな」

「急げよ、茶谷先生が出発できんじゃろが」

 口々に色々と言われている中、鮎美は用意されているマイクの前まで急いだ。すぐに原稿を取り出して読み上げる。鈴木の時と同じく静江が用意したものだったけれど、鬼々島に近い地区の立候補者は元島民で三男だったので市街地に家を買った茶谷弘幸(ちゃたにひろゆき)という52歳の男性で2期務め、3期目を目指しており、原稿の内容もそれにそくしたものに変わっている。それを読み上げた鮎美は最期に一瞬だけ迷ったけれど、今回は自分の言葉を一切付け加えずに一礼して終わった。

「ま、無難に終えよったな」

「上等上等、あんなもんじゃろ」

「宮本の娘を秘書にしたらしいな」

「お友達内閣じゃな。ははは」

「あの子ならボディーガードには役立つかもしれんが、愛想のない子じゃからな」

「どうせクジが当たるなら大阪から来た子より、島の子に当たりゃよかったに」

 また色々なことを言われているけれど、鮎美は茶谷と握手しているので気づいていない。鷹姫は聴こえていたけれど、愛想のない子と言われるのには慣れきっているので何とも思わず、無表情で拍手している。司会進行役がマイクを握った。

「茶谷先生が出発されます! 皆さん、お見送りのほど、よろしくお願いします!」

 鮎美との握手を終えた茶谷が選挙カーの助手席に乗り込むと、ウグイス嬢が連呼を始める。

「茶谷弘幸でございます。茶谷弘幸、これから出発いたします。みなさま方の温かい声援をいただき、茶谷弘幸はこれからの選挙戦を戦い抜きます。茶谷弘幸、茶谷弘幸でございます」

 ゆっくりと選挙カーが動き出し、茶谷は助手席の窓から身を乗り出して会場にいる支持者たちへ手を振り去っていった。次の瞬間には、ここにも待ち伏せていた多数の報道陣が鮎美を囲んでくる。

「芹沢さん、高校生で議員となられること、どう思われますか?」

「今の気持ちを一言お願いします!」

「なぜ、所属政党に自眠党を選ばれたのですか?」

 矢継ぎ早の質問攻めに鮎美は打ち合わせ通り、別の原稿を出して答える。

「私、芹沢鮎美はこの度、参議院議員候補予定者に選出されました。このことに最初は大きく戸惑い、どうすべきか深く考え、思い悩みました。あまりに若すぎるのではないか、これは皆さんもご心配される通りです。けれど、与えられた機会に背を向け、逃げ出すことも最善とは思えず、どこまで国民全体のため役立つことができるかはわかりませんが全力で務めていきたいと考え、お受けいたしております。これから学ぶことは山積しており軽々ご質問などには答えられませんこと、お詫び申し上げます」

 鮎美が一礼すると、静江と鷹姫が守るように左右から報道陣との間に入る。その鷹姫にもマイクが向けられた。

「秘書に指名された芹沢さんのご友人ですか?」

「………」

 何も答えなくていいと静江から指導されている鷹姫は剣道試合で相手を見据えるように構えた。その隙のない、そして動じない態度で鷹姫の経歴を思い出した別のレポーターが横から質問してくる。

「剣道の全国大会で優勝された宮本鷹姫さんですよね?」

「………」

 また鷹姫が相手を見据えているけれど、急いで静江が対応する。

「彼女もまだ勉強中ですから。これから他の候補者の事務所へも回りますので。もう失礼いたします」

 取材を打ち切って再び車に乗った。移動する車内で、やっと鮎美も鷹姫も安心して息をつく。

「はぁぁ…」

「ふー…」

「お疲れ様。まあ、あの人たちも今日のところは、あれで記事が書けるでしょう」

「疲れたわぁ」

 ぐったりと鮎美が隣にいる鷹姫へ身をもたれさせる。鷹姫も鮎美の方へ重心をよせて答える。

「…ええ……疲れました……私は何もしていないのに」

「宮本さんは役立ってるよ。いい感じに」

「……そうですか……」

「二人ともお疲れみたいだから、ちょっと休憩しましょう。どうせ、今のタイミングだと、どの事務所に顔を出しても候補者は出払っているから、お昼前後に回ることにして」

「あと7件か……自眠党の候補は、全部回らないと、あかんのや……」

「お兄ちゃんや雄琴先生は無所属の候補のところへも顔を出してるよ」

「「………」」

「とりあえず、鮎美ちゃんは自眠だけでいいから頑張って」

 そう言った静江はドライブスルーのあるコーヒー店で三人分の飲み物を買い、ショッピングセンターの立体駐車場で人目と日差しを避けて休憩させてくれた。

「そういえば、鮎美ちゃん、二回目は原稿通りで、ぜんぜんアレンジしなかったね。どうして?」

 静江がアイスコーヒーをストローで吸いながら訊いてきた。鮎美はアイスミルクティーを味わってから答える。

「なんとなく……っていうか、とっさに鈴木はんのときと同じことを言いそうになったんやけど、うちは鈴木はんに投票するって言うてしもたから、同じことは言えんと思て」

「あ~……なるほどぉ……」

 冷たい物を飲んだせいか、静江は少し頭を押さえてから鮎美に言っておく。

「鮎美ちゃんが誰に投票するのかは、もう言わない方がいいよ」

「そうなんや?」

「うん、一応ね、票割りでは鬼々島の住民は全員が茶谷先生に投票することになってるから」

「「………」」

「宮本さんも、まだ聞いてなかったみたいね」

「はい……」

「静江はん、投票って自由なんちゃうの?」

「自由だよ。だから、たぶん鬼々島の人も1割くらいは革新系に入れてるんじゃないかな。でも9割は自眠。だから自眠も鬼々島の地域振興には本気でかかる」

「……もちつ、もたれつなんや……」

「ともかく鮎美ちゃんは茶谷先生に入れるような顔しておいて。鈴木先生に会うことがあったら鈴木先生に入れるような顔もして」

「………またフタマタ………はぁぁ……自眠同士やん」

「六角市は市長が眠主党で自眠もつらいからピリピリしてるの。いろいろ言動には気をつけてね」

「…はーい……」

 重い返事をして鮎美は目を閉じた。お昼時になって他の自眠党候補者へ挨拶と激励をすべく選挙事務所を回り、本日のノルマを果たすと、ぐったりと疲れた。

 

 

 

 翌日の月曜朝、鮎美の父、玄次郎は新聞の地方欄に市議選が始まった記事といっしょに芹沢鮎美が自眠党所属として活動を始めたことが書かれ、出陣式で応援演説をしている娘の写真まで載っていることに気づいた。

「………」

 しばらく娘に伝えるべきか、黙っておくべきか迷い、知らずに登校するよりは知っておいた方がいいと判断して、疲れた顔で朝食を摂っている娘に言う。

「鮎美、お前、新聞に載ってるぞ」

「んー……あ、ホンマや……」

 疲れているからか、自分の姿が新聞に載っているというのに、反応は薄かった。朝食を終えた鮎美は登校のために船着き場まで歩き、鷹姫に出会った。

「おはようさん」

「おはよう」

 挨拶を返しつつ、鷹姫は額の汗をハンカチで拭いた。拭いても、すぐに汗が噴き出してきている。

「どないしたん? 汗びっしょりで」

「昨日、稽古ができなかった分、朝稽古を長くやりすぎてしまい、バタバタとしたものですから」

「……あんた、えらいなぁ……」

 心から誉めつつ、鮎美はポケットからハンカチを出して鷹姫の首筋を拭いた。ポニーテールにしている鷹姫のうなじが夏の日差しを汗で反射させて光っている。

「急ぎましょう。もう定刻です」

「そうやね」

 二人で小舟に乗ると、湖上の風が最高に心地よく汗を気化させてくれた。水路となっている古い堀を小舟で抜けて、高校の近くで降りると、最近は毎日のように現れる鐘留が堀の直上にある自宅から出てきた。

「おはよー、アユミン、タカちゃん」

「おはようさん、カネちゃんの家って館みたいに立派やな」

「今さら? あ、もしかして、アユミンってアタシの家が何屋さんか、知らない?」

「知らんよ。民宿とか?」

 見えている家が通常の一戸建て住宅の五倍くらいある大きさで、洋式を取り入れた古い日本建築だったので鮎美は民宿か旅館かと考えたけれど、鐘留は首を振る。

「違うよ。A、ケーキ屋さん。B、お肉屋さん。C、ロープウェイ屋さん。さて、正解は、どれでしょう?」

「う~ん……Cで!」

 鮎美は近くにロープウェイが見えているので決めた。近くに山があり、その山頂には高名な古刹があるのでロープウェイが建設されている。鮎美と鷹姫が通学に使っている中世の堀と合わせて観光名所になっていた。けれど、また鐘留は首を振る。

「外れ♪ っていうか、三分の一だけ正解」

「三分の一……? ほな、答えは、三つとも?」

「そうだよ。かねや、って聞いたことない?」

「あるある! ああ、あの! ケーキ屋の!」

 何度も直樹が手土産として持参してくれたケーキの出所だった。

「かねやって肉も売ってんの? あと、ロープウェイも?」

「まあね。多角経営ってヤツだよ。もともとは初代の鐘吉さんが和牛を秀吉に納めたのが始まりだけど、明治期にケーキも始めたし、戦後からロープウェイもやってるよ。無料券ほしい? あげるよ」

「タダより高いもんはないちゅーし、うちは公職につくから他人様からタダで何かしてもらうのは、グレーゾーンに入りやすいねん。遠慮しとくわ」

「へぇ、さすがは議員予定者だけあって、アタシんちがお金持ちって聞いても顔色が変わらないね」

「…あんた…」

「カネちゃんだよ。かねやのカネちゃん。お金持ちで可愛い女の子、超運がいい星のもとに生まれた最高の人生」

「……。カネちゃんがクラスで浮いてる理由がよーわかるわ。見た目が可愛いのと、家が金持ちなんを遠慮無く自慢してたんやろ?」

「自分に自信をもつのはいいことだよ」

「誇ってええのは、鷹姫みたいに努力して得たもんだけや」

「アタシが美人なのも、お金持ちの子なのも、先祖代々の努力のたまものだよ」

「財産の相続はともかく美人は、たまたまやろ」

「ちっちち。美人だって遺伝するから、お母さんも可愛いし、きっと初代の鐘吉さんだって、お金がある分、キレイなお嫁さんをもらって、それを代々繰り返してるから、どんどん洗練されていくよね。クジャクの尾羽がより美しく、ウグイスの声がより華麗になるみたいにね」

「……。人徳の洗練をはかった方がええよ」

「きゃははは、琵琶商人の通った後には草も生えないっていうもんね」

「琵琶商人って何や?」

「あ、これも知らないの。やばいよ、議員になるのに。琵琶商人っていうのはね、このあたりで中世から活躍してた商人のこと。遠く江戸や北陸なんかにも進出してる。今でこそ大きな顔してる松阪牛も神戸牛も、もとはといえば琵琶牛を蒲生氏郷が育てたのが始まりだし」

「和牛の本家なんや?」

「そうそう」

「けど、松阪牛の方が一番って感じがするで」

「それはねぇ、琵琶牛の売り方が琵琶商人らしくてね。よその県から持ってきた牛まで、たった一晩だけ飼育して琵琶牛として売り出したりしたからだよ」

「……ブランドってもんを……」

 鮎美が呆れ、鷹姫が付け加える。

「羊頭かけて狗肉を売るとは、よく言ったものです。恥を知りなさい」

「恥ねぇ……。そういえばタカちゃんって、いつも汗臭いけど今朝は余計に匂うね。女子として恥ずかしくない?」

「別に」

「女の子なんだから、ちゃんとしないと。せっかく顔がキレイなのにさ。総合女子力でランキングさがるよ。タカちゃんが気合い入れてメイクしたら、アタシに匹敵するかもよ」

「あなたに一言いっておきます。二度と私のことをタカちゃんなどと呼ばないでください」

「タカちゃんはタカちゃんだねぇ」

「……。目障りですから失せなさい」

「タカちゃんが消えれば? 臭いし」

「あなたは存在が不快です」

「臭いのも不快だよ」

「………」

「………」

 鷹姫と鐘留が睨み合って、今にも暴力沙汰になりそうなので鮎美が間に入る。

「待ち待ち! 朝からケンカせんと!」

「別にケンカなどしていません」

「タカちゃんが、そういうなら、そうかもね」

「その呼び方をやめなさい!」

「フフン」

「せやから、やめいて!」

 鮎美が鐘留へ注意する。

「本人が嫌がってるんやから、やめいや!」

「え~……」

 鐘留が残念そうにする。

「でないと、あんたのこと、うちはネルネルって呼ぶで!」

「うわぁ……嫌な呼び名。鐘留だからネルネルって。かねやの御菓子は、どんなに練っても味は変わらないよ?」

「嫌やろ。せやから、タカちゃんもやめたりぃ!」

「ん~………鷹姫、タカキ……姫だから、ヒメちゃん!」

「プッ…クスっ」

 鮎美が失笑しそうになりつつ振り返ると、鷹姫が冷たく睨んでくるので笑うのをやめる。

「あかん、ヒメちゃんも無しや!」

「じゃあ、カキちゃん」

「養殖されるみたいやん!」

「きゃはははは、しょーがない、宮ちゃんにしてあげるよ」

「しょーがないやないやろ」

「芹沢、時間の無駄です。もう行きましょう」

 鷹姫が校門へ向かって歩き出したので、鮎美と鐘留が続く。鮎美が校舎に入ると、他の生徒たちからの視線を強く感じた。新聞に載ったせいで、じわじわと拡がっていた噂が一気に拡がっている様子で注目されている。

「芹沢先輩! サインください!」

「いっしょに写真を撮らせてください!」

「ええよ」

 サインも撮影もこころよく受けた。静江からは怪しげな業者との撮影は避けるよう言われているけれど、高校生同士のツーショットなら悪用しようもないと考えている。けれど、教室に入って机の中にラブレターが2通もあったのには、少し驚いた。

「………」

「アユミン、モテるね。きゃはは、それ1通は女子からじゃん」

「そうみたいやね」

 男子からと女子から1通ずつラブレターをもらってしまった。

「どうする? どっちと付き合う?」

「どっちも断るよ。党からも交際は控えるよう言われてるし」

 あとで返事を書くことにしてカバンに入れた。一日の授業を受けて放課後になり、校門へ向かうと、今日も静江が待っていた。直樹が専属担当として勧誘の役目を果たしたのでバトンタッチして静江が待っていることが多いし、党としても男女という組み合わせはさけたいので、いずれ用意される東京での鮎美の秘書も女性であることを条件に検討されている。

「お疲れ様です、芹沢先生、宮本さん」

「静江はんも、ご苦労さんです。………あの人らは…」

 鮎美は見知らぬ集団がいたので違和感を覚えた。待ちかまえるように校門付近にいた集団は7名で、うち2名が車イスに乗った障碍者のようだった。その集団が鮎美に近づいてくる。

「芹沢殿であられるかっ?」

 集団のリーダーらしき人物が鮎美へ問うてくる。

「は…はい、そうですけど?」

「ぜひ、お話をさせていただきたい! 私はNPO法人ライフイージス、命の盾の会、代表の三島由紀子(みしまゆきこ)と申す!」

 強い勢いで言ってきた女性は30代半ばくらいで、喪服のような黒いスーツを着ているし、黒のハチマキまで頭に巻いている。その頭は女性なのにスポーツ刈りで、化粧もしていない。異様な雰囲気を感じさせる人物だったので、鷹姫がいつでも踏み込めるように腰を落とした姿勢を取り、静江は秘書らしく対応する。

「陳情でしたら党の方に…」

「いいえ! 芹沢殿に直接お会いして話したく! 彼らも待っていたのです!」

 三島の背後には車イスの障碍者が二人いる。生まれつきの障碍なのか、顔立ちが健常者とは異なっているので年齢がわかりにくいけれど、身体の大きさからして青年期くらいかと感じられた。夏の日差しの中、ずっと鮎美たちが校門を出てくるのを待っていたようで汗を流している。

「ぜひ! お願いする! 芹沢殿!」

「うちは……まだ正式には議員やないんですよ…」

「少しでも早く理解しておいてほしいのだ! 命が危うい窮状を!」

「………」

「秘書の石永です」

 静江が事務的に名刺を出した。

「あらゆる陳情は党で受けます。芹沢先生の任期は始まっていません」

 もう静江は三島が何を言おうと無視して追い返す対応に入っているけれど、三島も静江を無視して鮎美に迫る。

「芹沢殿! どうか、お時間をいただきたい! 一時間! いいや30分!」

「……それくらいなら……」

 鮎美が勢いに押された。そして鐘留が好奇心を刺激されて言ってくる。

「立ち話も何だしさ。アタシんちの喫茶店、貸してあげようか? 平日だし、二階を貸し切れるかもよ」

「おお、ありがたい! ありがとう、お嬢さん」

 鐘留が電話をかけて場所を用意してしまい、仕方なく静江も承諾する。すぐ近くにある鐘留の家が経営する喫茶店の二階に全員で入った。着席して、すぐに静江が三島に問う。

「それで、三島さんのお話というのは?」

「芹沢殿は出生前診断という言葉を聞いたことがおありか?」

「…しゅっせいぜん……いえ、知りませんけど」

「妊娠中に母体の血液や羊水を検査し、胎児の障碍の有無を調べる検査である」

「そんなんあるんや……」

「この命の選別につながる検査を全面的に禁止していただくべく我々は活動しておるわけです」

「そ…そうですか……」

「芹沢殿にも、ぜひ我らに賛同していただきたい」

「……。……党と相談して…」

「芹沢殿ご自身の認識も深めていただきたい!」

 強い気迫を発してくる三島に対して、鮎美は興味をもったことのない問題だったので、答える材料がなかった。代わりのように鐘留が口を開いた。

「女の選択権ってものもあるよね。産む産まないは女の自由。どんな理由でもさ。っていうか、アタシは自分が産む子供が障害児だったら嫌だな」

 歯に衣着せぬ性格の鐘留がスカートから露出している脚よりも忌憚なく意見を吐くと、三島は鋭く鐘留を睨んだ。

「よくも、この二人を前に、そんなことが言えるものだ」

「言論の自由だよ♪」

「そんな自由はない!」

「黙秘権を行使されちった。きゃははは」

 わざと舌足らずに可愛い声で発音した鐘留は笑っているけれど、静江は深刻な声で告げる。

「芹沢先生と、この生徒はクラスメートという以外は何の関係もありませんし、今の発言は彼女独自の思想にすぎません」

「うわっ、アタシ切り捨てられたよ。せっかく、みんなにおごってあげたのに」

「うちらは、おごってもらうのはアカンねん。言うたやろ」

「じゃあ20万円ね」

「どんなぼったくりやねん?! アイスティー一杯やんけ!」

「部屋の貸し切り代が込み♪」

 鐘留が両手をあげて空間の空気を掻き混ぜると、彼女が肘の内側に着けている上等な香水の香りがした。鮎美は鐘留の可愛らしい腕から肩、大胸筋の張りと腋のラインに視線を向けつつも呻る。

「くっ……琵琶商人の通った後には草も生えんって、ホンマやな。堺の商人でも、そこまでやらんで。可愛い顔して悪魔やな」

「きゃはは、だから、おごってあげるよ?」

「こちらのお店には私が適正な支払いをいたします」

 静江が冷たい声で言い、三島が怒鳴る。

「我々は芹沢殿の認識を問いたい! いかに、お考えか?!」

「そ…、そんなん急に言われても…」

「たとえ胎児でも人権はある! 生まれつき障碍があるからといって命を奪われていい道理はない!」

「…そ……そうかもしれませんね…」

 鮎美が困っているので、援護したくて鷹姫が口を開いた。

「人権という概念は、中世の神と同じに人間が想定したものにすぎず、必ずしもその存在が立証されたものでないことは、台風や地震、疫病に向かって、私たちには人権があるので侵害するな、と言うことが無駄であることからも明らかではないでしょうか。本当に無条件に人々が幸せになれるのであれば、事故や災害による死も生じず、そもそも障碍をもって生まれるという事象そのものが生じないはずです。耐えるしかない不幸というのも起こりえるのではないですか」

 鷹姫自身、幼い頃に母を亡くしている体験から来る言葉だったけれど、三島の受け取り方は否定的だった。

「貴殿は障碍児が産まれてくるのが間違いと言いたいのか?!」

「いえ、生物学的な自然現象として一定数の個体に欠陥が生じるのは、ありえることですし、そういった個体は自然界においては淘汰されているでしょう。弱きは敗れ、生きる力の無い者は死する、それだけのことです」

「弱者に生きる資格無しと?!」

「違います。弱者あっての強者、強者あっての弱者です。ゆえに己を磨き精進するのです」

「そうそう♪ ブスあっての可愛いアタシ、可愛いアタシあってのブス。ゆえに自分を磨き、もっと可愛くなるんだよ」

「あんたら、意外と似たところが……」

「芹沢殿は、いかにお考えか?!」

「うちは……、出生前診断でしたっけ。知ったばかりの言葉なんで、いいも、悪いも、わかりません。そりゃ、気の毒な境遇にある人たちも、いるんやな、とは知りましたけど…」

「障碍をもって産まれることは不幸ではない。この子たちは、こんなにも可愛い」

「………」

 鮎美は反応に困る。いっしょに来た二人の障碍者は話の流れがわかっているのか、いないのか、ただシュークリームとオレンジジュースを付き添っている母親らしき女性に介助されて口にしているだけだった。うまく自分で手を動かせないけれど、自分の手で食べたいという思いが強いのか、何度も失敗しながら食べているのでクリームが口の周りや手についていく。鐘留が迷惑そうに、そして汚いものを見たくないという表情で問う。

「どこが可愛いの? ただのできそこないじゃん。どう見ても不幸。アタシだったら死にたくなるよ」

「心の醜い人だ」

「顔は可愛いでしょ? 身体も」

「人は見た目が、すべてではない」

「うん、うん。見た目と匂いだね。たいていの生き物は、見た目と匂いでエッチする相手を選ぶよ。それが純粋な恋。でも人間は不純だから相手の年収なんかを見る。どっちにしても不幸だね、可愛くないのは、とっても不幸」

「……。性根の腐った友人をお持ちのようだ。芹沢殿は!」

「きゃはは、アユミンは差別しないからね。心が醜くて性根が腐ったアタシでも友達にしてくれるよ。ユキちゃんは心がキレイで性根に防腐剤がかかってないと人と友達になれないみたいだね、かわいそう」

「……」

 もう三島は鐘留を無視することに決めたようで、黙って鮎美を見据える。鮎美は責めるような視線を受けて、たじろぎつつも答える。

「NPO法人、ライフイージスでしたね。今後、勉強させてもらいますから、資料などいただけますか?」

「ええ、送らせていただく。そして、またお会いしたい。次は歪みきったご友人は抜きで」

「きゃははは♪ 気に入らないものを切り捨てるなら、中絶するのと似たようなものだね。せめて次は同情と脅迫の道具に、何も理解してない子たちを連れてくるのは抜きにしてあげなよ、アユミンがかわいそう」

「……失礼する!」

「待ちなよ、あと一つユキちゃんに訊きたい」

「……」

 三島は黙って鐘留を睨んだ。鐘留は動じずに問う。

「ユキちゃんってさ、顔けっこう美人だよね。なのに、なんで頭はスポーツ刈りでメイクもしてないの? もったいないよ」

「………。……」

 少し迷ってから三島は質問した鐘留にではなく鮎美に言う。

「我が身は、女に生まれているが、性自認は男である。つまりは性同一性障碍だが、我は同性愛の指向をもっているゆえ、男性と結婚し子をなした」

「その子も障害児だった?」

 訊きにくいことを鐘留は平然と訊き、三島は鮎美へ答える。

「性同一性障碍ではなく21番トリソミー、ダウン症児である。芹沢殿におかれては、多様性を受容しうる社会を築く議員として活躍していただきたい」

 三島の視線を受けて、鮎美は身じろぐ。

「……性同一性障碍………同性愛………その二つって同時に一人に起こるんや……起こるんですか?」

「極めて稀に」

「…………そうですか………と、ともかく勉強しておきます」

「宜しく頼む。では、失礼する」

 三島たちが立ち去り、静江は頭痛がする頭を抱えた。

「静江はん、大丈夫?」

「………かねやのお嬢さんはともかく、宮本さん」

「はい?」

「秘書は意見なんか述べなくていいのよ」

 静江の顔は微笑なのに、とても怒っていて怖かった。

「…はい……」

「アタシは、なにか間違ったこと言った?」

「言いまくったやろ。意図的に」

「きゃははは♪ だって、あいつらムカつくし」

「……ある意味で性根とか、人徳、性格なんかも、もって生まれた障碍なんちゃうかと、カネちゃんを見てると思うわ」

「そう? じゃあ、昔話を一つ」

「ろくな話やなさそうやな」

「昔々18年くらい昔、あるお金持ちの家に一人娘が生まれました。可愛くて可愛くて超可愛い娘さんです」

「へぇ…」

 それが誰のことか、わかるので鮎美は冷めた目で、可愛らしい鐘留の顔を見つめて聴く。

「けれど、両親は男の子がほしかった。なので、また産みます。けれど、あらあら大変。ちょっと欠陥品みたいです」

「…物扱いせんとき…」

「仕方がないので、そっと、うつ伏せに寝かせました。これで息が止まります」

「…………」

「さあ、再チャレンジ、また産みました」

「……………」

「またまた欠陥品です」

「………」

「もう一度、神さまにお返し。チェンジです。けれど、バチが当たったのでしょうか、お母さんは子宮の病気になり、一人娘は一人娘のままになりました。そして、なんと怖い怖い両親のヒソヒソ話を一人娘は9歳のころに聴いていたのです」

「……マジか……」

「おかげで一人娘はオネショをするようになります。夜が怖い。夜は怖い怖い夢を見てガクガクブルブル。なんと高校生になってもオネショが治りません。ついでに心も、とっても歪みましたとさ。おしまい」

「………カネちゃん…」

「この物語はフィクションであり、実在の人物、団体とは一切関係ありません」

 そう言った鐘留は目をそらして鼻歌を歌いながらストローでアイスティーを飲み干したけれど、唇が震えていて蒼白だった。そして言い訳のように付け加える。

「寝る前の水分を控え目にしてナプキンあてて寝ると、布団までは濡らさないよ」

「「「…………」」」

 鮎美と鷹姫、静江が返答に困り黙る。

「誰かに言ったら友達やめるね。それまではアタシたちはマブダチ♪」

「はいはい。ウソかホンマか、わからん話、誰にも言わんよ。ほな、静江はん、そろそろ支部に」

「そうね」

 やや遅くなったものの、今日も党支部で学ぶべきことを教え込まれ、市議選の選挙事務所も数カ所回り、日が暮れてから島に戻った。港に降り立って、それぞれの自宅へ別れる前に鷹姫が鮎美へ問う。

「一つ、訊きたいことがあります」

「なんよ?」

「私は不快なほど汗臭いですか?」

「鷹姫……」

 今朝の鐘留からの言葉を気にしているのだと想い、鮎美は鷹姫の手を握って、目を見つめた。

「気にせんでええよ」

「別に気にしていません」

「………ホンマに気にしてない顔やな……」

 鮎美は心配したけれど、鷹姫は平然としている。

「気にはしていませんが、他人に迷惑なほどであれば気にするべきなのかと思うのですが、どうでしょう?」

「う~ん………」

 鮎美が考えつつ、鷹姫の襟元に顔を近づける。二人には5センチほど身長差があるので近づくと鮎美の鼻先が、鷹姫のうなじの高さになる。

「……ちょっと、鷹姫の匂いを嗅いでみてもええ?」

「はい、お願いします」

「…………」

 鮎美は両手で鷹姫の胸のボタンを一つ外して顔を近づける。朝稽古をしてから一日過ごした鷹姫の胸元は汗の匂いがして、それは微かではなくて、はっきりと匂うけれど、鮎美は不快には感じず、むしろ嗅ぎつづけたい匂いだと知覚する。

「…………」

「どうですか?」

「……もう少し……」

「…………」

 鷹姫は息がくすぐったいけれど、耐える。鮎美が、もう一つボタンを外してきた。

「「………………」」

 さらに鮎美が三つ目のボタンを外してくる。

「………鷹姫……抵抗せんの?」

 四つ目に手をかけた鮎美が問うと、鷹姫は首を傾げた。

「何の抵抗をするのですか?」

「………うちがアホでした……」

 鮎美が真っ赤になって顔を背けた。

「そんなに臭いですか? 顔を背けるほど……すみません。今まで気づかず」

「ちゃう! ちゃうよ! ええ匂い…、っ、ちゃ、ちゃう…、と、とにかく、あんたは大丈夫! あんたは大丈夫やから気にせんとき!」

「そうですか。では、気にしません」

 そう言った鷹姫はボタンを留めてから帰っていった。

「………あんたは大丈夫や………けど、………うちは病気かも……」

 鮎美は暗くなった道を歩き、疲れた心と身体で自宅に帰った。遅めの夕食を両親と食べ、入浴してから自室の布団に寝転がった。

「はぁぁ……疲れたぁ…」

 心身の疲労が強いし、どちらかといえば心が疲れている。

「……任期は、まだ始まってないのに………こんなんで、うち、やっていけんにゃろか……」

 枕に顔を埋めると、シャンプーの香料と自分の髪の匂いがした。

「…………鷹姫……」

 想い出すつもりはなかったのに、鷹姫の匂いを想い出した。

「………………」

 フラリと立ち上がった鮎美は制服のスカートからハンカチを出して、その匂いを嗅いだ。

「………」

 洗濯洗剤の香りがする。今朝、鷹姫のうなじを拭いたハンカチからは望んだような匂いはしなかった。

「…………病気や………また、この病気に……前の学校でも失敗したのに……」

 高校2年から3年にあがるとき、父から引っ越しすると言われて、あまり反対しなかった。むしろ、内心でほっとしていた。

「……結局、あの子は彼氏つくって………そっちから告ってきたくせに……夕子のアホ…………」

 大阪の学校で、後輩女子から求められて交際していた。けれど、手をつないで校舎や街を歩くことはあっても、それ以上のことは求められなくて、逆に自宅に招いた時、ベッドに押し倒したら、はじめは照れて微笑んでいたのに鮎美が本気で求めると、青ざめて逃げてしまった。その日以降、避けられたし、すぐに彼女は男子と交際を始めてしまった。

「………この子も、どうせ……」

 鮎美はカバンから2通のラブレターを出した。女子からもらった方を読む。

「……憧れ……憧れと現実はちゃうし……」

 文面を読めば、だいたいの気持ちはわかった。

「やっぱり、この子も、お試しの告白ごっこをしてるだけや……女子同士なら安全やって思って……」

 鮎美はラブレターに書いてあった連絡先へスマートフォンで丁寧な断りの返事を送った。

「これで失恋ごっこもできるやろ」

 鮎美はスマートフォンを置いて、もう1通を手に取った。

「こっちは、どうしよ……」

 男子からもらったラブレターを読んでみる。

「一つ年下か……日時指定の呼び出しって……男って勝手やな。連絡先くらい、書いとけちゅーねん。そもそも日曜日は市議選の応援があるし。そのくらい、わからんか? まあ、わからんわな。うちも、そんなんあると思わんかったもん」

 文面は好意を抱いていることと、次の日曜日にデートを申し込んできていたけれど、日曜日は朝から夜まで予定がつまっている。

「朝9時に六角駅か……鈴木先生の事務所から、すぐやな……自分で断るか……静江はんか、鷹姫に行ってもらうか……私用に秘書を使うのは、あかんかな……けど、日曜が予定いっぱいなのは公務のせいで……」

 公私の区別がわからなくなってくる。

「……この男子……大津田(おおつだ)くんにしても、来年は選挙権をえて投票できるし……邪険にするのも……って、うちも、せこいな……どうせ、うちが国民審査を受けるのは6年後やのに。……清き一票か……わざわざ清きを付けるあたり、汚れた一票もあるんやろうなぁ……」

 鮎美はラブレターを放り出して、またハンカチの匂いを嗅いだ。

「………鷹姫…………あかん、忘れよ! 鷹姫のことは考えない! 忘れる!」

 頭の中から彼女のことを追い出すのに苦労し、気がつけば0時を過ぎていた。

 

 

 

 深夜、鮎美は鷹姫のことを頭の中から追い出すと、鐘留のことを考えていた。

「カネちゃんは……、夜が怖いとか……」

 もう日付が変わっている。鮎美はスマートフォンで鐘留が起きてるか、メッセージを送ってみた。

「起きてる?」

「まあね。何?」

 即返信があった。鮎美も女子高生らしく即返信する。

「どうしてるかなっと思って」

「心配してくれたの? アユミン超優しい!」

「元気そうやね」

「ううん、超淋しい! 夜は怖いの。今すぐ会いに来て!」

「うちらの間には太平洋より大きな大海があるねん」

 相手がふざけているので鮎美も軽い返事を送る。

「泳いできて!」

「死ぬちゅーねん」

「夏だし、片道30分」

「夜中に遠泳せいてか?」

「愛があれば平気」

「ないから」

 とりとめのない女子高生同士の短文送受信をしているうちに、眠くなってきた。

「もう、寝るわ」

「うん、おやすみ」

「オネショせんときや」

 何気なく送ったメッセージの直後に鐘留から電話がかかってきた。

「もしもし? どないしたん?」

「超ムカつく!」

 怒った低い声は震えていて感情が滲んでいた。

「オネショのことバカにして!」

「そ…そんなつもりやないよ。うちは心配して…」

「ウソ! 超からかってる! 心ん中で笑ってる!!」

 いつも余裕ぶった人を食ったような話し方をする鐘留が今は神経質な金切り声で言ってくるので鮎美は動揺して謝る。

「…ごめん…カネちゃん……ごめんな、怒らせるつもりやなくて…」

「もともと話すつもりなんかなかったのに! あんな変な団体が来るから!! アユミンのせいだ!」

「うん、ごめん、ごめんなさい」

 ともかく謝罪一辺倒で応えていると、だんだん鐘留も落ち着いてくる。それでも震えた声で言ってくる。

「文字記録が残るメッセージなんかでオネショのこと送らないで。誰かに見られるかもしんないじゃん」

「そうやね、ごめん。うちの配慮が足りんかったよ、ごめん」

「アユミン、スマフォにちゃんとロックかけてる? 暗証番号設定して」

「えっと……」

「超ザルじゃん! そんなスマフォにアタシの記録を残さないでよ! バカ! 超バカ!」

「ごめん! すぐ、すぐ設定するし!」

「あとアタシとのメッセージ記録も電話おわったら、すぐ消してよ。絶対」

「うん、必ず。ごめんな、カネちゃんが、そんな気にしてるって思わんかってん。ごめん、ホンマごめん」

 心から鮎美が謝ると、やっと鐘留の機嫌も直った。

「今回だけ許してあげる。アユミンは友達だし」

「うん、ありがとうな」

「………。ごめん、アタシもヒス起こした……ごめんね」

「ええよ、誰かて気にしてることや触れられとうないことあるもんね。うちが悪かったんよ、ごめんな」

「ありがとう、アユミン。アユミンがいてくれるなら修学旅行も安心だよ」

「修学旅行……って、いつ? 3年生やのにあるの?」

「あ、これも知らないの? 転校してきたんだもんね。受験が終わった三月だよ。ほぼ卒業旅行みたいな感じであるよ」

「三月かぁ……なんで、三月なんかに、もう大学に入る寸前やん」

「詳しく知らないけど、なんか宗教的理由だよ。うちの学校ってキリスト教系じゃん。元シスター系とかなんとかで普通のキリスト教と違って、神のことエホパって呼ぶし」

「うち、転校してから気になってたんやけど、みんな信仰心、どのくらいなん?」

「ぜんぜん♪ 少なくともアタシは。たぶん95%の生徒は、何も信じてないよ、普通に家の仏教とかじゃない。その仏教も信じてないかもね」

「ほな、先生らは?」

「先生たちは半々らしいよ。半分が信仰してて、もう半分は供産党系だって」

「日教組かぁ……」

 もう鮎美も自眠党の大人たちから色々な話を聴いているので、学校教師に供産主義者が多いことは知っていた。

「とにかく修学旅行は三月って決まってるらしいよ。で、修学旅行から帰ってきた翌日に卒業式」

「それ卒業生を泣かしたろゆー狙いを感じるわ」

「きゃははは♪ そうかもね」

「それに三月やと、うちは通常国会中やから行かれへんかも」

「えーっ?! 行こうよ! 淋しいよ! アユミンと友達になった真の目的は修学旅行でハミらないためなんだよ!」

「……」

「ね、行こう♪」

「はいはい、考えとくわ。けど、国会やからなぁ……。うわ、もう2時やん。寝るわ」

「うん、おやすみ」

「おやすみ」

 やっと鐘留とのコミュニケーションを終えると、すぐに睡魔が襲ってきてけれど、尿意も覚えた。

「……おしっこ……どうしよ……朝でも、ええかな…」

 このまま寝ても、朝まで保ちそうな尿意だったけれど、少し不安もある。

「………カネちゃん……この歳で、オネショが続いてるとか……あの性格………けど、両親が殺人なんて………しかも、自分の弟を……二人も……そら、抱えきれんと、性格も歪むし……オネショも続くかも……」

 布団の中で寝返りした。一階におりてトイレに行く面倒さと、このまま寝たいという眠気を天秤にかけている。

「……あかん、うちも疲れてるし、ちゃんと行っておこ。もし、オネショなんかしたら一生もんやし」

 眠たかったけれど、鮎美は布団から出て静かに階段をおりた。一階では意外にも玄次郎がキッチンでビールを呑んでいた。

「父さん、こんな時間に起きてるん?」

「ああ、トイレのついでに呑みたくなってな」

「ほどほどにしときや」

 そう言って鮎美はトイレに向かおうとしたけれど、一つ気になることが心に浮かんだので父へ問う。

「父さんって、うちに秘密にしてるような悪いことある?」

「……。ない」

「あるんや」

 返答までに間があったので直感していた。鮎美はトイレにいくのを後回しにして玄次郎の前に座った。

「あるんやったら、今のうちに言うてみてよ」

「………まあ、……お前は議員になるしなぁ……普通は言わないものだが、言っておく方がいいか……いや……うーん……」

 玄次郎が悩んでいる。

「どんな悪いことなん? それは犯罪にもなること?」

「…………」

 黙って玄次郎はビールを呑み干した。黙られると、鮎美は急激に不安が大きくなってきた。もしも、自分の父親が鐘留の両親と同じように殺人などしていたら、どうしよう、という不安が湧いてくる。

「…父さん……」

「………そもそも秘密というのは、言わないから秘密なんだぞ」

「そやけど、気になるやん」

「絶対に他で言わないか?」

「うん」

「母さんにも黙っているか?」

「母さんにも言うてないことなん?」

「要らない気苦労をかけるだろ。お前だって知らない方が楽だぞ」

「けど……知っておいた方がええかもしれんやん。うちは公職につくし」

「…………そうだな………母さんが起きてくるとなんだから、外で話そう」

「…うん…」

 パジャマのまま二人で外に出た。夜風が気持ちいいくらいだったけれど、重い心地だった。父が過去に何をしているのか、どんどん不安が大きくなってきて悲しくもなる。静江から法律についても教えられ始めているので、刑法についても、もう普通の高校生よりは色々と知っていた。

「港の方は、もう人が出ているのか」

 玄関を出て港に向かおうとすると、夜空が照明で明るくなっていて漁船のエンジン音までしたので玄次郎は島の反対側に行く。島は大小二つの山があり、ヒョウタン形に近い。そのくびれ部分に鮎美たちの家があるので、少し歩くと砂浜に出た。玄次郎は砂浜に手作りされた桟橋を進み、先端に腰をおろした。ここなら誰かに聴かれるという心配はない場所だった。

「鮎美、電話をもってきているか?」

「ううん」

 パジャマと下着しか身につけていなかった。

「要るの?」

「いや、最近のは録音機能があるからな」

「うちが、そういうことするって思うん?」

「相手が誰であっても用心するものだ。とくにヤバい話はな」

「………」

 緊張して鮎美は生唾を飲んだ。

「3分ほど、待とう。それでも聴いておくか、考えてくれ。できれば、オレは話したくない」

「3分…………うん……考えるわ……」

 長い3分を過ごした鮎美は迷ったけれど、父に頼む。

「教えてよ、父さん」

「わかった」

 再び玄次郎は周囲を見てから、小声で話し始める。

「お前と美恋を連れて家族旅行に何度も行ったが、そのとき、だいたいホテルや旅館の予約を大人3名にしていたのを覚えているか?」

「え…………あ、うん……そういえば、そうやったかも……」

 思い返すと、鮎美が小学校3年生くらいから、なぜか、いつも大人料金を払ってまで大人3名で予約されていた気がする。

「あれには理由があってな。お前にも美恋にも説明したのは、子供料金だと、夕食がお子様ランチ程度のものになるし、いっそ大人料金で、ちゃんとした料理を味あわせる方が勉強になるという話だったが、それもあるが裏もある」

「……裏って?」

「当初、予約を入れた段階では、計画としてはオレと、前の大阪での事務所で電話番を交替でしてくれていたパートの女性2人との仕事上の慰安旅行という名目だが、直前で片方が都合が悪くなり、男女二人で行くのも気まずいということと、直前キャンセルでは100%のキャンセル料が出ることから、やもえず家族で行った、ということにしたり、実際は家族で行ったのに、帳簿上はパートの女性2人と行ったことになっていたりする」

「…………経費の誤魔化し?」

「うむ」

「なんや……そんなことか……はぁぁぁ…」

 かなり覚悟していた鮎美は気が抜けて座っていた姿勢から桟橋に倒れ込む。

「父さんが、もったいぶるから、殺人とか、もっとヤバいことかと思ったやん……アホ…」

「人を殺しても一円の得にもならないが、経費の誤魔化しは、なんのかんので莫大な利益を生むぞ?」

「そうなん?」

「結局、オレは独立してから、ほとんど税金を払っていないからな」

「……脱税……まあ、9631とは言うらしいけど……父さんは自営やし6割かぁ……」

「いや、もっと脱税した」

「………」

「まあ、だいたい家族旅行は、すべて経費でおとした」

「……ディスニーランドとかも?」

「ああ」

「…………。うちがねだったらUMJの年間パスポートを買ってくれたこともあったよね。まさか、あんなんも?」

「おとした」

「え~………どういう理屈で?」

「あのときは、ちょうどいい機会だから本当にパートの女性2人へも年パスを福利厚生費の一環としてプレゼントして、鮎美にあげたことは二人には黙っておいて、これあげるから、もし税務署が来て慰安旅行の件を問われたら、いっしょに行きましたと答えてくれと頼んでおいた。そして架空のパート1名を含めた3名へプレゼントしている。ちなみに架空のパートは、すぐに辞めた」

「せこっ!」

「庶民の生きる知恵だ♪」

「そんなんしてて税務署に入られへんかったん?」

「法人でもない小さな建築事務所だからな。運もあるが一度も入られなかった。けど、さすがに、そろそろヤバいかもって段階で大阪から、こっちに逃げてきたから大丈夫だ。管轄が変わるし。大きな法人なら移転しても追われるシステムだが、個人課税部門は、そこまでリンクしてない。縦割り行政の抜けたところだな」

「庶民の悪知恵やなぁ。いったい、いくら脱税したん?」

「そのへんのサラリーマンの二倍くらいの年収だが、二分の一以下の税金しか払ってない」

「えぐ………」

「とくに保育園での保育料は大きかったな。もし正直に申告していたら、かなり取られた。あれは所得段階で、かなり累進されるから」

「うちは、そんな汚いお金で保育園に行ってたんや……」

「設計業務で、まともに稼いだ金だぞ。ただ、まともに申告しなかっただけだ」

「行政を舐めてたら、そのうち、痛い目を見るで」

「フフ、少なくとも、お前が保育園の頃は、すでに時効だ」

「あ、たしかに……」

「しかも、大阪から、こちらに事務所を移転するとき、うっかり帳簿類を紛失してしまったし、大阪から、こちらには移転したのではなく、一度あちらで廃業し、こっちでは新規開業にしている」

「うっかり紛失って……わざと捨てたんやろ?」

「覚えてないか? 四月に琵琶湖岸でバーベキューをしたろ」

「あ、うん。わざわざレンタルでキャンピングカーを借りてまで湖北に行ってしたね………あのとき、そういえば、なんか書類をいっぱい燃やしてたかも……」

「議員になる鮎美に大切なことを教えてやろう。処分したい書類は、自分の目の前で確実に処分しておけ。秘書任せにせず、灰になるまで見届けろ。あと、信用している相手でも信用するな、いつでも録音機があると思って話せ」

「………そこまで……」

「たかが脱税でも犯罪といえば、犯罪だ。やるからには完全にやる。完全にやった犯罪は完全犯罪となって発覚しない。すると、犯罪でなくなる」

「……自営業の人って、みんな父さんと、いっしょなん?」

「どうだろうな………まあ、アホみたいに、居酒屋で領収書をもらうとき、大声で経費にするとか言うヤツもいるから、多いだろうが」

「うちと母さんを連れて行ったときも、おとしてるの?」

「当然」

「………」

 鮎美は市議選の応援演説の後に静江がコーヒー店で買ってくれたアイスティーと、今日の放課後に入った喫茶店のアイスティーの味を思い出した。きっとあれは正々堂々と経費にされる。これからも出先で喉が渇いたとき、なんとなく鷹姫と飲食店に入っても経費にできるかもしれない。私的な欲求で飲食したのか、公的な必要性で面談の場を用意したのか、実にわかりにくいし、当事者が強弁すれば、あとから不正だと立証することは難しかった。鮎美は起き上がって父に言う。

「父さん、お願いがあんのよ」

「何だ?」

「これからは脱税をやめて、ちゃんと納めて」

「………そうだな、お前も注目される立場だし、オレもそろそろ。それに移転と再開業で、まともな経費も多いから、これを機にやめよう。いいタイミングだ」

「おおきに、うちも議員として経費は、しっかりしていくし。頼むね」

「わかった」

 すっきりとした気持ちで鮎美と玄次郎は自宅に戻り、トイレに入ってから鮎美は布団へ潜り込んだ。

「……よかった……脱税くらいで……」

 身内が殺人犯だったら、どうしよう、と不安だった鮎美は落ち着いて考える。

「けど……社会全体で考えたら……脱税も大問題………架空のパートも……保育料も……それに、カネちゃん……いったい、どんな悪夢を見るんやろ……どれだけ不安か……いくら障害があるからって……自分の子供を殺すやなんて………出生前診断も…難問………カネちゃんは出生前診断って言葉を知ってた感じやった……そら、そうかな……」

 鮎美は日が昇りかける頃になって、やっと眠った。そして一瞬で朝になったように感じた。

「もう朝か……もっと寝てたいわ……」

 仕方なく起きて学校へ向かう。船着き場で鷹姫に出会った。

「おはようさん」

「おはよう」

「……。今朝も朝稽古したん?」

「はい。……匂いますか?」

「どうかな」

 鮎美は顔を鷹姫の首筋へ近づける。昨日と違って、時間的余裕をもって行動していたようで鷹姫は流すほど汗をかいていないけれど、夏の朝ということもあって汗ばんでいる。

「………」

「………」

「どうですか?」

「襟の方は大丈夫やけど……腕をあげてみ」

「こうですか?」

 素直に鷹姫は左腕をあげた。その袖口から鮎美が匂いを嗅ぐ。早朝から稽古していた鷹姫の腋から、タンポポの根を抜いたときのような香りがして、鮎美は嗅ぎ続ける。

「…………」

「………。そんなに長く嗅がなければ、わかりませんか?」

「あ、いや……まあ……っていうか…」

 鮎美は一瞬だけ見えた鷹姫の腋が気になったので、ブラウスの袖口を指先で引っぱった。

「ちょっと腋を見せてみ」

「………」

 黙って鷹姫は腕をあげ続ける。鮎美は指先で袖口を引いて、奥を覗いた。

「鷹姫……毛を剃ってないの? 夏やのに。忘れてるで」

 鷹姫の腋には毛が伸びていて、毛量は少ないけれど、何ヶ月も剃ったことがないような長さに伸びていた。

「剃っていません」

「……。そんな堂々と答えられても……半袖なんやし、剃った方がええよ。剃ると肌荒れする方?」

「どうでしょう。剃ったことが無いのでわかりません」

「なっ……マジで?」

「何か問題でもありますか?」

「……そ……それは、カネちゃんやないけど、女の子として、どうかな……と思うけど……あんたって、どこか無頓着というか、剣道以外は、どうでもいいみたいなとこあるから心配やわ」

「もう、腕をおろしていいですか」

「あ、うん、ごめん」

「船頭さんが待っています、急ぎましょう」

 鷹姫が歩き出したので鮎美も続き、すぐに小舟で学校へ渡る。今朝も鐘留が元気そうに現れた。

「おはよー、アユミン、宮ちゃん」

「おはようさん」

「おはよう」

「カネちゃんの露出も、あいかわらずやな」

 鮎美は短すぎるスカートと袖も無く丈も短い鐘留のブラウスを見て言った。鐘留がクスクスと笑う。

「アユミンってさ、かなりエロい目でアタシを見るよね? 男子みたいに」

「っ、ア、アホなこと言わんといて!」

「だって今もモロに胸を見てたじゃん」

「ちゃ、ちゃうよ! いつ見ても腋の処理が完璧やなって! 毎日剃ると荒れん?」

「アタシは元モデルだよ、そんな原始人みたいな方法やるわけないじゃん」

 鐘留が微笑みながら両肘を肩の高さにあげた。真っ白い腋の肌が見えるようになり、毛穴一つ無い。

「えらいキレイやけど、どうやったん?」

「レーザー。無資格のエステサロンじゃなくて、ちゃんと医師のいるところで」

「さすが元モデル」

「そういうアユミンは?」

 鐘留が素早く鮎美の手首を握って腕をあげてくるので、慌てて逃げた。

「こ、このところ忙しかったから!」

 逃げた鮎美は両腕で自分を抱くようにして腋を守る。

「フフ、その様子だと自信ない?」

「ずっと忙しいから疲れてるし! お風呂に入るときには、もうヘトヘトなんやもん!」

「真っ赤になっちゃって、アユミン可愛いなぁ」

 二人が騒いでいると、鷹姫は腕時計を見て歩き出した。

「急ぎなさい。遅刻しますよ」

「「はーい」」

 鮎美と鐘留も歩き出しながら、ふと鮎美は振り返って鐘留の家を見た。

「………」

 立派で大きな家は朝日の中、平穏に建っている。家系も家業も江戸時代前から続いているらしい。けれど、この家の中で生まれたばかりの赤ん坊が、障害を持っていたという理由で二人も殺されている。ただ、そっと、うつ伏せに寝かせるというだけの動作で、生後間もない子は死んでしまう。そして事件にもならず終わっている。

「……っ」

 家を見ていると、鐘留の母親が庭へ出てきたので、鮎美は目が合う前に学校へ向かった。急いで水路の周辺から太い道路へ出ると、まるで待ちかまえていたかのように選挙カーが通りかかった。

「茶谷です! 茶谷弘幸です! おはようございます! 茶谷弘幸です!」

 ウグイス嬢の声が大音量で町中に響き、助手席に乗っている茶谷が窓から手を振っている。選挙カーは速度を落とし停車すると、茶谷が飛び出すように降りてきて鮎美に握手を求めてくる。

「おはよう、芹沢さん!」

「あ、は、はい。おはようございます、茶谷先生」

 鮎美は勢いに押されつつも握手に応じる。二人が握手すると、ウグイス嬢が叫ぶような声で告げる。

「茶谷先生を次期参議院議員候補予定者の芹沢鮎美さんも応援してくださっています! 茶谷弘幸です! 茶谷を芹沢さんも応援されています!! 茶谷、茶谷!」

「ありがとう、芹沢さん」

「は、はい…が、頑張ってください」

「芹沢さん、写真を撮るから、あちらを向いて」

 いつの間にか、選挙カーから降りた運動員が二人へカメラを向けている。鮎美と茶谷は握手したまま、レンズへ笑顔をつくって向けた。

 パシャ

「もう一枚いきます!」

 二枚目を撮るときに茶谷が鮎美の肩に触れてきたので、露骨に嫌な顔をしてしまった。撮影していた運動員が、それに気づいて撮り直す。

「もう一枚!」

 鮎美は笑顔をつくる努力をして、肩に触れている茶谷の手から感じる暑苦しさは忘れることにする。握手と撮影を終えた茶谷たちは、また連呼しながら選挙カーで去っていった。

「はぁぁ……」

 鮎美がタメ息をついた瞬間、また次の選挙カーが近づいてくる。

「鈴木です! 鈴木義則でございます!」

 やはり目的は茶谷と同じで、鮎美と握手し、そのことを大音量で響かせ、また撮影もしていく。静江から怪しい業者との撮影は避けるように言われているけれど、自眠党の公認候補者は怪しい業者ではないので、鮎美は笑顔をつくる努力をつづけた。やっと鈴木が去り、少し歩いて学校に近づくと、西沢が交差点で旗を持って立っていた。他にも何人か、同じ色の旗を持っている運動員がいて、供産党の候補者がマイクで演説していた。

「大塚です! おはようございます!」

「……」

 鮎美は、どんな顔をすべきか迷いながら学校へ行くために交差点を通り過ぎようとするけれど、西沢が鮎美に声をかけてくる。

「おはよう、芹沢さん!」

「お…おはようさんです」

「お手紙、ありがとう!」

 西沢へ鮎美は供産党へ入れなかったことの詫びを手紙で伝えていたので、その返礼を言われ、再び表情に困る。どんな顔をすべきか、わからない。なのに、西沢は握手を求めてくるし、人から握手を求められて拒絶したことがない鮎美は迷いながらも応じた。西沢との握手が終わると、供産党の市議選候補者まで鮎美と握手を求めてくる。また、鮎美は流れに逆らえず握手に応じた。

「ありがとう! 芹沢さん!」

「ど…どうも…」

「若い力をいただきました!」

「は…はい…」

 手を離してくれないので鮎美が困り切っていると、鷹姫が動く。

「もう遅刻しますから急ぎましょう!」

「あ、そ、そやね。ほな、頑張ってください」

 鷹姫のおかげで、なんとか振り切って、やっと学校に入った。ちょうど西沢たちは学校から100メートル離れた交差点で演説していて、公選法上の病院や学校付近での静謐を守るという条件を満たしているのだと、振り返りながら思ったけれど、とにかく今日も朝から疲れた。

 

 

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