第4話 六月 所属政党を決めると教育される

 京都へ日帰りした翌朝、鮎美は早く眠ったせいなのか、それとも気が高ぶっていたからなのか、早朝に目が覚めた。

「……霧か……五里霧中やな…」

 部屋の窓を開けると濃い霧が出ていて何も見えないくらいだった。階下で人の気配がするので降りてみると、玄次郎も起きていた。

「父さん、おはようさん」

「ああ、おはよう。………少し散歩に出ないか?」

 すでに玄次郎は玄関で靴を履いていて、ちょうど釣りに出るつもりらしかった。鮎美は数秒迷ってから頷いた。

「うん、ええよ」

 月曜の朝なので制服に着替えて散歩に出る。家と家の間を歩いて港へ向かった。途中の自動販売機でミルクティーを買ってもらい、突堤の先まで歩いた。だんだん霧が晴れてくると、多くの漁船が漁に出ているのが見えるようになる。

「………」

 鮎美は夕べは襲撃するように包囲してきた漁船が平和に漁へ出ているのを複雑な気持ちで眺めている。その気配に玄次郎も気づき、やや考えてから問う。

「……鮎美、ああやって漁に出ているけれど、淡水魚を売って、どれくらい生計が立てられると思う?」

「そういわれても………、あんまり儲からんのちゃう?」

「オレも、そう思う。では、この港を整備するのに、いくらかかると思う?」

「え………」

 言われて鮎美は港の設備を見回した。外側の突堤は百数十メートルほど湖中へ伸び、幅は20メートルほどのコンクリート製で灯台は高さ5メートルほど、内側には木製の桟橋や船着き場があり、一番大きな建物は高さ3階建て、幅15メートル奥行き10メートルほどの鉄骨製で漁協の作業場と、連絡船で来る観光客の受け入れ場を兼ねている。他には小さな倉庫が長屋のように立ち並び、それぞれの漁師にあてがわれている様子だった。

「ぜんぜん、わからんけど……何億円とか?」

「30億円は超えるだろうな。しかも、この島にはクレーン車も無い。建設時には、すべて持ち込まなければいけなかったろうし、作業船も瀬戸内海のような競合他社の多い水域ではないから、割高だったろう。でなければ、その業者も経営がもたないから」

「……そんな金額……見当もつかんわ……」

「他にも、わずか千人に満たないこの島に小中学校、保育園を整備し、維持する教員の人件費、鮎美たちを高校へ送る船頭への手当と燃料代、それらすべて税金からの支出だけれど、それを島民の人口で割ると、明らかに納税額より多くなる。逆に、東京や大阪なんかの都市部では納税額と行政サービスを享受する額は、こういう田舎へ投下される分、見合わなくなる」

「……都会のもんが損してるってこと?」

「ところが、必ずしも、そうは言い切れない。数値化しやすい金額だけを見れば、そうなるけれど、田舎の自然が人の手で維持されること、たとえ販売額は安くても水産加工品が市場に供給されること、これらの役割は、とても大きい。第一次産業がなければ、第三次産業など、やっていられないからね。都市部で大きくお金を動かしている証券、金融、不動産、広告業などは実質的には何も生産していないのに、大きな顔をして田舎から供給される食品を口にしている」

「………」

「都市部が経済的強者であるなら、田舎は政治的強者として生き残りをはかる。選挙のたびに、どの党へ投票するかわからない浮動票より、ずっと支持し続けてくれる固定票のある地域へ、政治家だって色々な優遇をするだろうさ。それは人口に見合わないインフラ設備であったり、学校の設置であったり、不漁時の補助金であったり、とね。うちが格安で借りている借家だって、半分以上は補助金があるから、そうなっている」

「……せやから、この島は自眠党支持を?」

「どこでも田舎は似たようなものだよ。田舎になるほど、その傾向が強くなるかな。けれど、この県は少し様子が違う」

「……そうなん?」

「ここは四国や東北のような完全な田舎ではなくて、京都と名古屋に挟まれ、大阪と東京も遠くない、それどころか、それらを結ぶ地点にある。高速道路の整備も早かったし、新幹線も一番に通った。おかげで大手企業の製造拠点は多い。ゆえに県民所得も低くなく、また給与所得者が多いので労働組合の関係もあり市街地では眠主党も強い地域なんだ」

「………ややこしい地域なんや……」

「それだけに、どちらも必死になるんだ」

「……………この島にとって、うちの選択は死活問題に……なるのん?」

「………」

 玄次郎は鮎美を見つめて答える。

「なる。夕べの様子を見ればわかるだろう。大人げない、というか、あれが大人の一面だ」

「……大人の一面……」

「それでも鮎美の選択は自由だ。けれど、その選択によっては、ここに住めなくなる。彼らにしても住ませておけなくなる、と言った方が正確かもしれない。鮎美が自眠を選ぶなら、彼らにとって鮎美は最高の御輿になるけれど、そうでないのなら、このうえない疫病神になってしまう。そう、せざるをえないだろう」

「………父さんは、この島、好きなんやろ?」

「憧れてはいた。けど、鮎美と比べれば、どうだっていい」

「…………」

「鮎美の選択は自由だよ。けれど、あまりゆっくり考えてもいられないかもしれない。やきもきしているのはオレたち以上だと、夕べ、わかったからな。いっそ、今日を最期に、ここから去ってもいいぞ」

「父さん………おおきに、ありがとうな」

「そんな暗い顔をして礼を言われてもな。本当に気にするな。道楽で、ここに住みはじめたんだ。いっそ母さんと鮎美は便利な市街地に住ませて、オレだけ、ここに残ってもいい」

「そ…そんなことしたら、父さんが危ないやん!」

「殺しはしないだろう。一度、体験してみたかったんだ。村八分にされる気分ってのを。いよいよ嫌になったら出て行くから、それまで、ちょっと村八分にしてもらって、その様子をブログにでも書いてみるとかさ」

「………道楽もんが……アホたれ…」

 暗い気持ちが、かなり軽くなって、そろそろ登校の時間なので親子での散歩を終え、いつも通りに小舟で送ってもらうために桟橋へ出た。少し早く来たので、鷹姫と同時だった。

「あ、おはようさん」

「おはよう。……芹沢、大丈夫ですか? かなり疲れた顔をしていますよ」

 鷹姫は目に濃いクマのある鮎美が心配になった。帰宅が遅く、気が高ぶっていて熟睡できずに早朝に起きたので明らかに睡眠不足だった。

「そうなん?」

「ええ、……何かあったのですか?」

 そう問いながら二人で小舟に乗った。すぐに老船頭が高校へ向かってくれる。大型の連絡船は島から最寄りの港を往復しているけれど、二人が乗る小舟は中世に築かれた石造りの水路を通って、高校の間近まで送ってくれる。おかげで歩くのは数百メートルですんでいた。

「うん、夕べ、……ちょっと、いろいろ……島の人ら……必死なんやなって……」

「やはり政治のことですか?」

「うん……」

「芹沢、私に何ができるとも思えませんが、手伝えることがあったら、言ってください」

「あんたが……そんな風に言ってくれるなんてね……うれしいわ」

 そう応えると、鮎美が涙を流したので、さらに鷹姫は心配になった。

「島の大人たちと、揉めたのですか?」

「……うん……もう、結論を出さんと、あかんにゃろね……」

 鮎美は小さくなっていく島を振り返った。

「………あんなに小さな島………あそこで………」

 不意に母親のことを思い出した。父は毎日、市街地に開いた建築事務所へ仕事に出る。自分も平日は学校へ行く。けれど、母親は、ずっと島にいる。そのことに思い至って鮎美は決めた。スカートのポケットからスマートフォンを出すと、直樹へ電話をかける。湖上でも電波は明瞭だった。

「もしもし、うちです」

「おはよう。どうしたの?」

「もう決めました」

 鮎美が一気に言う。

「自眠党で頑張ります。頑張りますから、島の自治会の人らに、これからも仲良うしてほしいと、うちが言ってたと雄琴はんから、伝えてもらえませんか」

「ああ、わかった。……何か、あったのかい?」

「まあ、いろいろ」

「そうか……申し訳ない」

「ええんです。その一言で雄琴はんが関わってないこと、わかったから」

「芹沢さん………、何かあったら、すぐ相談して協力するから」

「はい、ありがとうございます。じゃあ」

 電話を終えた鮎美は船底に座り込んだ。

「はぁぁぁ……決めてしもた」

「芹沢…………」

 鷹姫が心配そうに見てくれる。それで甘えたくなった。名前で呼んでみる。

「なぁ、鷹姫」

「何ですか?」

「さっき、手伝ってくれるって言ったよね」

「はい、言いました」

「うちの秘書になってくれん?」

「……秘書、…に?」

「政党に所属したら任期前でも秘書に給料がでる。うちも勉強会なんかに参加すると日当がでる。ちょっと調べたんやけど、秘書に年齢制限はなかった。っていうか、議員が18なんや、秘書が18で、あかんわけがない」

「…………」

 鷹姫が戸惑っている。けれど、その戸惑いは拒否的な雰囲気ではなく、ただ単に急な求めだったので考え込んでいるという風だった。なので鮎美は強く求める。

「お願いや、うちを手伝って!」

「……………」

 鷹姫が迷っている。黙って考え込む、その表情は動かないけれど、ポニーテールにしている髪は湖上の風で揺れている。鮎美は引き寄せたくて問う。

「進学する予定やった?」

「いいえ、進学しません」

「就職は? 高卒後、どうするつもりやったん?」

「父を手伝って道場を続け、いずれ婿を迎えて跡継ぎとなってもらうつもりでした」

「あの岡崎くんを?」

「そうです」

「……。うちの秘書を、しばらくやってくれん?」

「…………」

「お願いします。あんたとなら、頑張れる気がするのん」

「……わかりました」

 鷹姫が息を吐いてから微笑んだ。

「お受けします」

「おおきに! ありがとうな!」

 鮎美が喜んで鷹姫へ抱きついたので、小舟が大きく揺れた。せっかく抱きついたので、そのまま過ごしていると、安心感もあって寝不足だった鮎美は眠ってしまったので、鷹姫は船が学校そばの船着き場に到着してからも、静かに船頭へ頭をさげてしばらく停泊してもらっていた。秘書となるなら議員本人の健康を慮るのも仕事のうち、という意識が働いてきている。老船頭も、たった18歳で議員扱いされつつある鮎美の疲労を心配していたし、丸一日、この二人を送り迎えする以外に仕事はないので、のんびりと待ってくれる。なのに、見知ったクラスメートが声をかけてきて鮎美が起きてしまったので、鷹姫は睨んだ。睨まれても、明るく挨拶してくる。

「おはよー、アユミン、タカちゃん」

「んーっ……おはようさん。あんたは元気そうやな」

「ちっちち。アタシのことは可愛らしくカネちゃんと呼んでくれたまえよ、アユミン」

 緑野鐘留(みどりのかねる)は意図して可愛らしく立てた人指し指を振りながら微笑んだ。ショートカットが似合っている鐘留は学校からの制服改造への生徒指導がゆるいのをいいことにスカート丈を極端に短くしているだけでなく、ブラウスまで改造して袖を切り落としてノースリーブにして丈も短くしてしまい腋と臍が見えているので、白い肌がまぶしいくらいだった。

「うちのアダ名がアユミンなのはええけど、タカちゃんは気に入らんみたいやで」

「……」

 鷹姫は黙って不快そうな顔をしている。けれど、鐘留は気にしていない。

「舟に揺られて、のんびり膝枕で、うたた寝しながら登校なんて最高だね」

「そうやね。おおきに、鷹姫」

「……別に…」

 素っ気なく言って鷹姫が船をおりる。鮎美も船頭へ礼を言って続いた。すぐそこに学校は見えている。三人で通学路を歩いていると、後輩女子が何人か駆け寄ってきた。

「芹沢先輩! サインください!」

「私も! お願いします!」

 鮎美の当選は学校でも、じわじわと話題になっていてサインを求められることもあった。学校側は会議を開いて、部活や英語弁論大会などでの地区代表出場のように大々的に発表して校舎へ垂れ幕を張るか検討したものの、政治への関与を学校法人として避けるべきではないか、という慎重意見もあり、また鷹姫も剣道の地区大会で今年も優勝し、すでに全国大会への出場が決まっているけれど、もともとキリスト教精神における隣人愛を大切にする方針から武道などは奨励していないので、鷹姫についても毎年垂れ幕などはない。全国優勝してさえ無視するという徹底ぶりだったし、鷹姫は学校の部活として出場しているわけではなく高校生大会への個人登録での参加だったし、鷹姫もまた無視されていることを無視している。そのこともあって鮎美のことも学園上層部は歓迎しているけれど、校内放送や学校だよりで触れられることはなかった。それでも直樹などが頻繁に訪ねてくるので女子たちの噂にはのぼるし、彼氏ですか、と問われて鮎美は下手な誤解をされたくないので正直に答えていた。そうして鮎美が議員になるという話題が広まると、やはり寄ってくる子たちがいた。それに鮎美は笑顔をつくって応じる。

「ええよ、うちのサインなんかでよければね」

「「ありがとうございます!」」

 サインをもらって喜ぶ後輩たちは次の要求をしてくる。

「いっしょに写ってもらって、いいですか?」

「ええよ」

 携帯電話やスマートフォンでの撮影もこころよく受けた。それらが終わって後輩たちが去ると、鐘留は肩をすくめて言う。

「調子いいよね、アユミンが議員になるってわかったら近づいてきてさ」

「あなたが、それを言うのですか」

 鷹姫が呆れて言う。

「芹沢の当選がわかってから急に接近してきた緑野が、それを言うとは滑稽ですよ」

「アタシは純粋にアユミンとタカちゃんの友達になりたかったの。クラスの女子とは、もう疎遠だし」

「それは、あなたの服装や言動に問題があるからです」

「ちょっと可愛く生まれたから、それを鼻にかけただけだよ? アタシって学校で一番かわいいでしょ」

「「…………」」

「もう辞めたけどモデルだったし」

「あんたが可愛いのは否定せんけど…」

「ちっちち、カネちゃんだよ、アユミン」

 ちち、と歯の中で舌を鳴らしてさえ、鐘留は可愛かった。

「……。カネちゃんの見た目がええのは認めるけど」

 鮎美が足元から頭まで鐘留を眺める。ほっそりとした脚、形のいい腕、くびれたウエスト、憎らしいほど突き出た胸、そして目鼻立ちのあざやかさ、どれもモデルだったということが嘘でないと思えるほど魅力的ではあった。そして制服の改造は、それを際立たせるためだと一目瞭然なのでクラスの女子たちは辟易としている。

「その制服も、これでもかって露出したら、そら、みんな引くわ」

「まあ、同性の反応なんて、どうでもいいよ、って思っていたのに、かわいそうなアタシは彼氏にフタマタかけられた挙げ句、捨てられたんだよ。二つ下の子に彼氏盗られた。なのにクラスで友達もいないし、浮きまくりだから同じ浮いてるアユミンとタカちゃんたちと上層同士、友達になろうって思ったわけ。アユミンの当選を聴いたのは、その後だから、アタシは純粋だよ」

「はいはい。浮いてるもん同士は否定せんけど、それで上層とか思えるカネちゃんの脳は痛いわ」

「痛いの痛いの飛んでいけぇ~♪」

 鐘留が自分の頭に手をあててから鮎美の頭に触ってきたので、その手を払う。

「やかましわ! 頭痛が来るからやめい!」

「きゃははは。ナイスつっこみ! ギャグ入りつっこみなのが本場だよね!」

「ったく…」

 おかげで遅刻ギリギリになって登校したのに、すぐに鮎美は校長室へ呼ばれた。校長室には直樹が申し訳なさそうな顔で待っていた。

「ごめん、早速で悪いけど党員になってくれる書類を書いてほしいんだ。ごめん」

「……雄琴はん……上から言われて仕方なくって顔やね……」

「すまない。その通りだよ、ごめん。ボクは、せめて学校が終わる夕方まで待ったら、どうだ、と言ったけど、芹沢さんの気が変わらないうちに、すぐ書いてもらえってさ。ホントごめん」

 いつも調子の軽い直樹が本気で申し訳ないと思っているようで両手を合わせて頭を下げてくるので鮎美は笑顔でペンを握った。

「ええよ、ええよ。もう決めたことやし。あ、でも、一つ条件があるねん」

「島の自治会なら、もう連絡したよ」

「仕事早いなぁ……けど、それじゃなくて秘書についてやねん」

「秘書について?」

「うちの友達を秘書にしたいんよ。本人もOKしてくれたから」

「友達かぁ……いくつ?」

「18」

「………まあ、そうだろうね……それを若すぎるとは言えないか……。素行調査はあると思うよ」

「品行方正威風堂々やから心配ないって」

 鮎美は書類を書き終えると、すぐに教室へ戻れると思っていたけれど午前中いっぱい直樹からの基本事項や注意事項の説明を受けることになった。ようやく昼休みになって解放され、フラフラと教室に戻った。

「あ、アユミン、おかえりーっ」

「おかえりなさい。また疲れた顔になって……大丈夫ですか?」

 鐘留と鷹姫が迎えてくれた。

「ただいま……はぁぁ…」

 タメ息をつきながら、ぐったりと机に突っ伏した。鐘留が頭を撫でてくる。

「よしよし、お疲れさんだね。何があったの?」

「ん~……入会…、もとい入党の書類を書いた後、いろいろ注意講習やった」

「どんな?」

「怪しい人とツーショット写真を撮ったり握手するのは、あとで利用されるから危ないとか、ネットで、つぶやくのも危ないとか、彼氏がいないなら、このままいない方がいいとか、まだ運転免許は取るなとか、親にも派手な車を買わせるなとか、何から何まで、ごちゃごちゃと……はぁぁ……ダルいわ……ようするに普通にせいちゅーことやけど、制約が多すぎるねん」

「あー、わかる、わかるよ、その気持ち」

「………ホンマにか?」

 鮎美が伏せていた顔を少しあげて片目だけで鐘留を睨んだ。

「アタシがモデルやってたときも、似たようなもんだったよ。つぶやき禁止、自撮りアップ禁止、日焼け禁止、髪の毛を切るのさえ事務所に要相談、はては彼氏とは穏便に別れろ、デート禁止、いちゃいちゃ禁止、キス禁止、外泊禁止、エッチ禁止、そのくせ社長はアタシの身体にベタベタ触ってくるし、超キレたよ」

「………モデルも大変なんや……」

「だから辞めた♪ キレイさっぱり、社長の目の前で髪の毛を切り落としてやったよ。で、ほら」

 鐘留は短いスカートをめくって少しだけ下着をずらして見せた。鐘留の下腹部あたりにタトゥーが彫ってあり、金色の鐘が見える。鮎美と鷹姫にだけ瞬間的に見せたので、教室にいる他のクラスメートたちは気づいていない。

「あんた……高校生やのに……そんなとこに…」

「これで、もう水着撮影はNG、下着広告も無理、はい、さようなら」

「そんなことして違約金とか大丈夫なん? 聴いた話やけど、賠償請求されたりするんちゃう?」

「アタシが、アタシの身体に何しようと自由だよね。取れるもんなら取ってみなって、現在は裁判中だよ。一審はアタシの勝ち。セクハラで反訴もしてる」

「ちゃらそうなわりに、やること、すごいなぁ」

「けど、せっかくフリーになったのに彼氏にはフタマタかけられてた……ぐすんっ…」

 鐘留が悲しそうな顔をすると、鮎美は迷う。

「あんた、それ泣き真似なん? マジなん?」

「カネちゃんだってば」

「はいはい、カネちゃんに訊きたいことがあんねん」

 鮎美が真面目な声で言ったのに、鐘留は両手を後頭部で組み、胸を強調するようなポーズをとってふざける。

「スリーサイズなら秘密だよ」

「誰が訊くかっ!!」

「きゃははは、で? なーにぃ?」

「フタマタかけられて捨てられる側って、どんな気分になるもんなん?」

「えーぇーっ…………」

 鐘留が軽い声を少しずつ落として低くし、後頭部で組んでいた両手を胸の前で腕組みして真顔になった。

「そーゆーこと訊くの? なんで?」

「……ちょっと興味あって…」

「興味ねぇ……思いっきり心の傷をえぐるとこ、興味で訊いてくるわけなんだ。まだ、アタシたち、そんな親しくないのに」

「ぅっ……そう言われると、そうやけど……ごめん」

「さて、訊かれたことだし親友としては答えなくちゃね」

 鐘留は腕組みを解いて、赤ん坊がするような仕草で右手の親指を少し舐めた。

「どんな気分かと言いますとねぇ。悲しみかな、怒りかな、うーん……まあ、今までの人生で経験したことのないような、喪失感かな。ああ、そうなんだ、無くしたんだ、失敗したんだ、どこで失敗したのかな、もう少しうまくやれれば、アタシの勝ちだったのかな、ここで泣くと余計にミジメになるから、笑って別れてやろう……うん! こんな感じ!」

「……そうなんや……おおきに…」

「あ、あと、もう一つ!」

「もう一つ?」

「アタシの時間を返せ! って思った」

「そう……そうやろな、やっぱり……」

 鮎美が思い込むと、鐘留は腕を回して鮎美の首を捕まえてきた。

「さてさて、アタシは話したんだから、アユミンも話しなよ、いったい何の参考にするつもりで、アタシの傷をえぐったの?」

「……………」

 鮎美が答えないでいると、首に巻きつけている腕の力を強めてくる。

「言わないとアタシみたいなショートカットにしてやろうかな」

「言う言う! 言うから! 暑苦しいし離してよ!」

 鮎美が顔を赤くして鐘留から離れた。

「で?」

「参考にちゅーか……恋愛沙汰やないけど、うちもフタマタ、サンマタかけたようなもんなんかな、って」

 鮎美が視線を落とした。脳裏に眠主党の竹村や声をかけてくれた細野、供産党の破志本や西沢の笑顔が浮かぶ。彼らの気持ちに応えられなかったのが正直つらかった。

「うちは所属政党を決めるまでに、いろんな政党の人に会って話を聴いて、みんな心安い人らで……うち、どの党にも入ってあげたくなったねん」

「絵に描いたような優柔不断だね。超八方美人」

「………」

 鮎美が暗い顔で黙ると、ずっと黙って聴いていた鷹姫が猛禽類のような鋭い目つき鐘留を睨んだ。

「うわっ……怖い♪ 殺気を感じたよ」

「口を慎まなければ、手痛い思いをすると覚悟なさい」

「はいはい。で?」

「で、結局は自眠党を選んだんやけど………せっかく誘ってくれた眠主とか供産の人らに……何か言っておくべきか……それとも謝罪の手紙でも書こうかなって。カネちゃんは彼氏から謝罪の手紙もらったら、どう感じる?」

「読まずに捨てる」

「「………」」

「今さら、って感じ」

「……そうやんな…………」

 沈み込む鮎美へ、鷹姫が言う。

「政治と恋愛は別でしょう。そもそもフタマタをかけていたわけではありません。決断までに迷いがあるのは当然のことですし、相手もそれは承知しているでしょう。ですから、あながち手紙が無駄ということもなく、後日の親交に活きるかもしれません。書いておいて損はないと考えます」

「うん……そうやね……書いてみるわ」

 そう言って鮎美は午後からの授業中にノートへ手紙の下書きをして過ごした。放課後になり、昼休みに鷹姫へ伝えるのを忘れていた秘書の件を話して、いっしょに校門を出たところで直樹が待っていた。

「雄琴はん……あんたストーカーみたいやで」

「すまない。今週の日曜日も、また予定を開けてもらえないかな? それと、これからほぼ毎日、放課後の時間も」

「……。まあ……それが国民への義務やろね……何も知らん女子高生が、あと半年で国会議員やもん、そら叩き込めるだけ叩き込んでやる、ちゅーのが当然やろね。で、日曜は何があるの?」

「六角市の市議会議員選挙が始まる。その応援演説に立ってほしい」

「市議会……って、市のことを決める機関やんな? なんで国会へ行く、うちが?」

「そういうものなんだよ。ボクらは選挙を経験していないけれど、政党に所属する以上は、市議会、県議会、首長選挙、どれも応援に駆けつける。まして、芹沢さんは…」

 直樹の言葉を遮って鮎美が続ける。

「客寄せパンダに最高やもんね」

「……否定はしないよ。けれど、君だって、いつまでもパンダでなく自分の道を見つけられるかもしれない。そうして、行きたい道ができれば、お互いの協力も大切だって、わかるさ」

 直樹が真面目に言うので鮎美も理解した。

「それも仕事、いや勉強のうちかな」

「放課後に勉強へ来てもらうのも日当が出るからアルバイトだと思えるし、応援演説は直接ではないけれど5万円がもらえるから」

「5万………。直接やないって、どういうこと?」

「ボクらクジ引き議員は選挙で相互援助する動機が働きにくいから、党から特別勉強会への参加という名目で支給される」

「そうなんや……ってか、なんで名目を変えんとあかんの、応援代でええんちゃう?」

「すべての選挙には選挙資金の上限額が定まってる。六角市の市議選なら200万円。ここには選挙カーやらポスターやら、いろいろ含みだから、応援弁士への手当なんか計上したら、どの党もオーバーしてしまう。だから、暗黙の了解で特別勉強会への手当で合法化してるのさ。一応、形だけ資料なんかも配られるから」

「………そういう誤魔化しのない政治になるよう、うちらクジ引き議員が動けたらええのに……いちいち自衛隊は合憲です、みたいな、誤魔化しを……解釈やなくてルールを変えたらええのに……」

「いずれ、そうできる日が来るとしても、一朝一夕には難しいんだよ」

「そういうことも勉強していけと……」

 鮎美がタメ息を飲み込んでいると、直樹は5センチ程ある分厚い本を鷹姫へ差し出した。

「秘書になるって、君だよね?」

「はい」

「高校での内申点もいいし、素行も問題ないらしいね。島での評判も上々だって」

「………。この本は何ですか?」

「とりあえず公職選挙法についての冊子だよ、必ず読んでおいて。一週間以内に」

「わかりました」

 かなり分厚い本だったけれど、鷹姫は顔色を変えずに受け取ってカバンに入れた。カバンには教科書類の他に、図書館で借りた好きな軍記物の文庫本が入っているけれど、しばらくは文庫本ではなく法律の解説書を読むことになった。直樹は一週間以内にと注文をつけたことに女子高生でしかない鷹姫が嫌がるかと予想し、嫌がるようなら叱るつもりだったけれど、鷹姫は平然と受諾していた。

「へぇ…一言、わかりました、ときたか。いいね。なら、これから君も党支部へ来るかい? 芹沢さんと同じことを学んでおいてもらうのも大切だし、バイト代も出るよ」

「アタシも行こうかな」

 鐘留が言うと、直樹は改造された制服を見て、首を横に振った。

「高校生秘書は一人までにしておいて。給料は公費でまかなうわけだし。宮本さんだっけ? 君の他は党が用意するプロの秘書を東京と地元に一人ずつ置かせてもらうよ」

「うちが決められることは、わずかなもんなんやね………」

「だんだん慣れるさ。ボクも慣れた」

 そう言って励ましてくれる直樹に導かれ、鮎美と鷹姫はタクシーで自眠党六角支部へ連れて行かれ、みっちりと国会制度や行政法、社会常識、政治家同士の常識などを教え込まれ、とっくに連絡船の最終便が出た後になって港へ送ってもらった。港では連絡船が特別便として二人を待っていて、もう帰島時刻を気にする必要がない代わりに、遅くなるのが当たり前になったのだと悟った。

 

 

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