エピローグ
37 来客
村井時計店に戻ると時刻はもうすぐ四時になろうとしていた。店はクローズのまま、養父源造も出掛けていて家には誰にもいない。村井はほっとして、わけもなくほっとしてとりあえず奥の居住スペースへ行き冷蔵庫をあさる。
といってやはり飲料の類いや果物の缶詰と冷凍食品以外に何があるわけでもなく、彼はがっくりと来てそのまま眠ることにした。二階の自室に入ると途端に体はぐったりとなりあっという間に彼は眠りにつく。
ぼんやりと彼が目を覚ますと翌日の朝十時を過ぎており、彼は一階から届く養父源造の声でようやく来訪者の尋常ではない気配を感じとった。
「お客さんが来てるぞ」と下から響く声。
かるく身支度を済ませた彼が一階に降りていき店舗スペースのソファーに歩み寄っていくと男が村井を待っていた。
見たことのある顔だ。こじゃれた赤系統のチェックシャツにチノパンというアメカジ姿の四十代半ばとおぼしき中年男性。
「やあ」と彼は言った。
なかなかにこころが底冷えするような硬質の結界が店の周囲に張られてある。同じものは村井にはまだ作れない。
「おはようございます。デルバックの賢者さん?」
「ああ。国連付きのな。キルケマーニだ。よろしく。簡単に言うと君の師匠の後輩にあたる」
四二名いる賢者全員の顔を覚えているわけではないがこの人物は記憶にある。狡猾さが漂う賢者である。
「なんです?」
「渉外担当みたいなこともやっとるんで仕事が回されてきてな。君と移民局の揉め事について調べてみた」
「はい」
「いやここ初めて来たけど想像以上にエルフ多いな。どうなっとるんだ」
「みなさんそうおっしゃいますね。都市部だからじゃないでしょうか」
「で……、私としては君を責める気はない。問題は移民局にある」
「そうですか」
「が、忠告せずにはいられない。君は迂闊だよ」
「というと?」
「いまは対処しとるが、最初がまずかった」
言わんとすることはわかる。
「まあそれはそうです」
「ある程度までは我慢する、という姿勢では誤解を生むだけで何にもならない」
返す言葉がなかった。ここに移ってきたばかりの初期の頃は“この土地を出ていけ”という意味合いの、有形無形の圧力やハラスメントがつづいたのだが、デュカスは王族ゆえにこの土地のそうした性質を充分に知らされた上で来ているのであまり気にしていなかったのだ。
また魔法力の制御に専念していたため気にする余裕もなかった。こうした現実全般に対処を始めたのは三ヶ月前くらいからである。
「人間関係を上下だけで捉え、できるだけ他人を下に置き、他人を見下すことに喜びを見い出す人間は大勢いる。他人の不幸を喜び、貶めることを喜びにする人種は大勢いる。君はそれらに対してあまりに無頓着すぎた」
返す言葉がなかった。
「それはただ単に悪意を増幅させるだけだ。……魔法のように」
黙って話を聞きつづける村井。
「……という人の仕組みを君は取り込む算段だったのかもしれん。しかしもしそうなら人がわるいよ」
村井はまだ沈黙していた。
「そこがフェリル王族のフェリル王族たるゆえんかもしれんがね……どうにも納得はしがたい面だ」
「何も言うことはないです」
「まったく……君は人の悪意を引き出す悪魔だよ。ネオストラーニがかつて言っていたことがいま証明されている……」
「いやそれは知りませんが」
「あの人はよくわからん人だった。君が子供の頃には何やら利用価値を見い出し君を守るべくさんざん賢者会に刃向かってきていたのに、ある時点からはまるで君を目の敵にするような動きを賢者世界の裏側、国連機関の裏側で見せていた。理解しがたい変わりようだった。君のことを悪魔の子と言うようになったんだ。やがて言い方はさらにわるくなる。悪魔が送り込んできた破壊の王子だと言うんだな」
「おもしろいですけど、あながち否定できないのもつらいですね」
「だろ?」
「え……と、、忠告しにやって来られたのですか?」
「いや? 本題はそうじゃない。……移民局に関してはこちらが対処しておくから君はまあ、何というか大人しくしといてくれ。これはお願いだ」
「それは俺じゃなくて……」
「わかっとる。わかっとるが簡単なことじゃない」
「まあ……できるだけそうなるよう努力はします」
「頼むよ」
デュカスはタバコを取り出したのだがそれを見て賢者キルケマーニは言った。
「この近くに大きな池があると思うんだが。君がよく行ってる池」
X濠公園のことである。
「はい」
「いまから行かんか? 観光したいし。訊きたいこともある」
「疲れてるんですけど」
「しばらくはここの担当になるんだ。多少は接待しろよ」
「移民局に言ってくださいよ」
「そんな状態じゃない。何人か更迭したんでな、、ちょっと混乱ぎみだ」
そうではないかと思ったのだ。国連の連中は動き出すまでが鈍いがやるとなったら早い。
「そういうの最初に言ってくださいよ」
「わるいわるい」
デュカスは魔法で冷蔵庫から缶コーヒーを二本抜き出し手元に移動させ、左横の宙空に作った亜空間ポケットへ納めると、
「じゃ行きましょう」と告げた。
公園を囲む狭い道路は人通りが少ないのでここに素早く移動すればおおむね問題はない。ふたりはそこから園内に入ると整備された道を歩いた。
青空の下、中洲へ渡る橋を抜け、木立のなかの小路を通り、見晴らしのよいいつものベンチに着くとデュカスはここですと言って着席を促す。
賢者がベンチに腰を下ろすと亜空間ポケットから缶コーヒーを取り出して尋ねる。
「ふつうのやつと微糖とどちらがいいです?」
「微糖で」
デュカスもベンチに座り、プルトップをあけた。目の前には池の水面と整備された空間とその奥に地方都市の平凡な町並みがある。
「で、訊きたいこととは何です?」
「王位譲渡の話」
「ああ……はい」
半年前にデュカスは政府広報を通して自身の計画を国民に公表した。要約すると、
《計画は草案の段階だが、およそ二十年後を目処にシュトラウスに王位を譲りたい。その際には国王を選ぶ国民投票を行い、民意を問う形でフェリルの王を決定したく思う。ついては国民各々がこころの準備をしておいて貰いたい》という内容である。
建前上、譲位の根拠は従兄弟であるシュトラウスが人徳を備え国民からの人気が高いこととされており、実際デュカスはそう思っている。そこに嘘はない。しかし本音は単に魔法力増強、戦闘系魔法士としての成長に集中したいというところにある。
彼はかつて思い知らされたのだ。“ふつうの日常”や“欲”がいかに魔法力を削り、腐らせ、減退に追い込むのかを。そのリカバリーには苦しい思いをした。精神的な自由なしに法力の育成は叶わない。それが彼の抱える現実だった。
シュトラウス当人には正直にすべてを語り、計画の了承を得ている。不安を口にしつつの渋々の了承ではあったが。
「うまく事が運んだとして君自身はどうするのだね?」
「軍に籍を置いて王家専属の衛士という立場になろうと」
「叔父のアストラではだめなのか?」
シュトラウスの父、モロゾフの弟である。
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