空と五十音
「これはまた見事な筆遣いですね」
この十文字さんという方を知らないけれど、さすがに書道家というだけあって素人の僕にも力強さが伝わる。って、今はそこじゃないのでは?
テーブルに置かれた紙は半紙ではなく、よくあるコピー用紙みたい。
その下半分にはカタカナの五十音表が印刷されていて、上半分には毛筆で書かれた「空」の文字がある。崩した書き方ではなく、楷書というか学校で習うお手本のような字体だ。
「奥様もメモがあると安心していたのに、見つかったのがこの暗号のようなものなので困惑されていらっしゃって……」
「弘法は筆を選ばずといいますが半紙ではなくともこのような筆の運びができるのですねぇ。いやぁ、見事だ」
美咲さんの話にも耳を貸さず、先輩はこの「空」という字に感心しきりだ。
「そもそも本当にこれが扉の番号を記したメモなんですかね」
僕はこの奇妙な一枚の紙を見ながら誰に言うともなくつぶやいた。
すると、すぐに美咲さんから反論が飛んできた。
「扉を開けるための暗証番号が示されたメモであることは間違いありません。十文字さまが生前に『メモがある』といった場所からこれが見つかっています。他にめぼしいものがなかったということですから、これがメモであることに疑いはありません。もしそうでないなら、なぜ十文字さまは『メモがある』とおっしゃったのでしょうか?」
「私も美咲さんと同じ意見だな。可能性としてあるのは、本当のメモがすでに持ち去られていた場合だけれど、その代わりとしてこれを用意できるなんてちょっと考えられない。この見事な筆さばきこそ、十文字さんが自ら書いたことを示しているからね」
なんだよ、先輩まで。二人して僕を責めることないじゃないか。
少しふてくされながらあらためてこのメモを見る。
空
アイウエオ
カキクケコ
サシスセソ
タチツテト
ナニヌネノ
ハヒフヘホ
マミムメモ
ヤ ユ ヨ
ラリルレロ
ワ ヲ
ン
これが何かの番号を示しているというのか。まったく分からない。
わざわざ大きく自筆で書き足してある「空」が謎を解くカギなのは間違いないはずだ。
そうすると、上か。ひょっとして――。
「ちょっといいですか」
美咲さんの前から紙を手に取って窓際へ行き、空にかざしてみる。
ダメか。何か透けて見えたりするかと思ったのに。
「その発想はありませんでした」
「確かに鈴木くんらしいね。まったくの見当違いだけれど」
すなおに美咲さんが感心してくれたのに、すかさず先輩がダメ出しをしてきた。
何もそんな風に言わなくたっていいのに。ひょっとして、やきもちを焼いてます?
美咲さんへ紙を返しながら先輩にキッと顔を向けた途端、またマイセンのカップを持ち上げて僕の視線を防御している。
なるほど。にらまれても仕方ないという自覚はあるんですね。
「先輩も感心してばかりいないで、この謎を考えて下さいよ」
抗議の気持ちを込めた僕をあざ笑うかのように、驚きの答えが返ってきた。
「もう解けてるから」
「耕助さま、本当ですか!?」「ほんとですか、先輩!」
美咲さんと僕の声が重ねる。
先輩は誇らしげにするわけでもなく、持ち上げていたカップを口へと運び言葉をつづけた。
「美咲さんの言う通り、これがある番号を記したメモだという前提で考えれば難しいものではないよ」
「やっぱり『空』がキーワードなんですよね?」
「もちろん。五十音表にも意味がある。それがカタカナだということもね」
ソファの背に体を預けながら、先輩は僕の質問に答えてくれた。
カタカナ? ひらがなじゃなくてカタカナの五十音表じゃなければ意味がないと言うことか。
なぜひらがなじゃダメなんだろう?
楷書のような力強い「空」という字……カタカナ……。
「分かりました!」「わかった!」
また二人の声が重なった。
思わず美咲さんと顔を見合わせる。
僕は黙ったまま軽く頭を下げ、手のひらを上に向けて差し出して彼女に先を促した。
「この『空』という文字を構成しているのは三つのカタカナです。ウ冠にハの字、最後にエ、つまりウ、ハ、エの三文字が表す数字が暗証番号なのですわ」
その説明を聞きながら何度もうなずいていると、こんどは美咲さんが目顔で僕に続きを譲ってくれた。
「五十音表でそれぞれ三番目、二十六番目、四番目になります。暗証番号はきっと三二六四です!」
満面の笑みで答えを宣言すると、美咲さんは笑顔で拍手をしてくれた。
先輩は「そんなところかな」と言って微笑んでいる。
さっそく彼女が十文字さんの奥様へ電話をして、今日の二時に三人で自宅へお伺いすることになった。
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