第十六謎:閉ざされた扉……なら開ければいいさ IQ110(全三話)

達筆な空

 かの国から伝わったとされる仏像が古寺から見つかったことをきっかけに改名した百済菜くだらな市は食用の菜の花栽培が盛んで、早春の黄色いじゅうたんは観光資源ともなっている。

 そんな市内の大通りをママチャリで駆け抜けるのがつらい季節になった。

 黒いダウンジャケットに紺のマフラーを口元まで巻いて風を切っていく。裏道に入り、角の煙草屋が見えてきたところでジーパンを履いた足の動きを止めて店の様子をうかがう。

 ここのおしゃべり好きなおばちゃんに見つかったら、目と鼻の先にある事務所へ行くまで三十分かかることも少なくない。


(どうやら、お店の奥にいるみたいだ)


 ほっとして通り過ぎながら、煙草屋の向かいにある駐車場に目をやると青い――いやデニムブルーメタリックのショートワゴン、ボルボV40がすでに停まっている。

 僕は鈴木涼。武者小路探偵事務所で助手をしている。あのボルボは所長である武者小路むしゃのこうじ耕助先輩の愛車だ。

 僕と同じく生粋きっすいの百済菜っ子である先輩は、全国展開をしているエムケー商事の御曹司だが、ミステリー好きなお爺さ会長んの影響を受けて探偵事務所を開いた。と言っても殺人事件などに巻き込まれることもなく、会長のいたずらに付き合わされたり、犬の散歩を依頼されたりしながら暗号といえる謎をいくつも解いてきた。


(いつものことだけれど、先輩は朝が早いよな)


 急いで事務所のあるビルの横へママチャリを停め、二階へと階段を上がる。扉を開けると、珈琲のかぐわしい香りに包まれた。


「おはようございます」

「おはよう、鈴木くん。今日は早くこれたようだね」


 先輩が窓際に立ったまま振り返った。右手にはお気に入りのマイセンのカップ、左手にはソーサーを持ってたたずんでいる。スタンドカラーの白シャツにチェックのベスト、細身のチノパンという姿は、背が高く、品もあるから絵になる。


「おかげさまで今日はおばちゃんにつかまりませんでした」

「だろ?」


 いたずらっ子のように先輩がニヤリと笑った。


「え、先輩が何かしたんですか?」

「まあね。君の自転車がまだ停めてなかったから、十五分ほどおばさんが店頭から離れるように仕掛けておいたんだ」


 それですんなりと来れたのか。いったいどうやったのだろう。


「何をしたんですか? 教えて下さいよ」

「やだ。秘密だから」


 今度は得意げな笑みを浮かべて顔を斜め上に向けている。


「わかりましたよ。それじゃ、聞きません」

「えっ、聞かないの? 知りたくない?」

「それよりも先に先輩が淹れたおいしい珈琲が飲みたいんです」

「あぁそれは仕方ないね。私が淹れた珈琲はおいしいから」


 先輩は子どものようなところがあって、お世辞や謙遜といった概念が欠けている。

 見たこと、聞いたことをそのまま受け止めるから、たまに面倒なときもあるけれど、きっとその素直さが名探偵・武者小路むしゃのこうじ耕助を作り出していると僕は思っている。

 ただし、この人が淹れた珈琲はどこよりもおいしいのは間違いない。でも先輩いわく、ウチの爺やには敵わない、とのことだけれど。


 奥のミニキッチンへ行ってサーバーから珈琲を淹れて席へ戻った。

 先輩はソファに腰を下ろし、さぁ秘密を教えちゃうよとニコニコしている。僕も興味があるし、仕方ない、聞いてあげるかと促そうとしたとき、事務所の扉がコン、コン、コンと三回ノックされた。

 思わず二人で顔を見合わせる。

 ノックの後も扉は閉まったまま。こんな礼儀正しい来訪はあの人しかいない。

 席を立って扉を開けると見知った顔の若い女性が立っていた。

 白いニットにベージュのスカート、紺のピーコートを着た豪徳寺美咲さんが両手を前に重ねてお辞儀をした。


「おはようございます、鈴木さま。耕助さまはいらっしゃいますよね」


 そう言うとすーっと中へ入っていく。

 先輩に言わせると彼女とは家族ぐるみの長い付き合いで、彼女に言わせると先輩は両家公認のフィアンセということらしい。少なくとも彼女の思いは本物で、先輩のためにわざわざイギリスへ留学して『シャーロックホームズにおける仮説演繹法かせつえんえきほうの現代社会への応用』を学び、帰国したときに紹介してもらった。

 年は一回りほど離れているけれど、なかなかお似合いだとは思う。でも――。


「今日もお二人でなかよく珈琲ですか。うらやましいことですわ」


 言い方にトゲがある。

 そう、彼女はあろうことか僕と先輩の仲を怪しんでいるのだ。そんな趣味はないと言っても全然信じないし、僕のことを恋のライバルだと勘違いしている。

 まぁ僕の方も助手の座を奪われないよう、美咲さんには負けたくないと思っているけれど。


「そんな、うらやましいだなんて。もちろん美咲さんにも珈琲をお出ししますよ。鈴木くん、お願いします」


 いや先輩、彼女はそういうつもりで言ったんじゃないから。

 でもこんな時間に美咲さんが来るなんて、きっと何か相談があるに違いない。座ったばかりの席を立って奥へと向かう。


「鈴木くん、のところに頂き物のお菓子があるから、それも一緒に持ってきてくれるかな」

「わかりましたー」


 珈琲カップを用意しながら答える。

 はしが入っている引き出しを開けると――何もない。

 あれっ? そもそも高さがないからここにはお菓子の箱なんて入らないぞ。


「先輩、何もありませんよ?」


 ソファの方へ顔を出して聞いてみると、先輩がこちらに顔を向けた。


「えー、そんなはずはないでしょう。そこの吊り棚のはしに立てかけておいたから」


 ん? 吊り棚?

 アルミ製のすのこ状になった棚へ目をやると鮮やかなオレンジ色の箱が立てかけてある。


「先輩、はじめから吊り棚って言ってくださいよぉ。箸の引き出しを探しちゃいましたよ」

「それならお箸のところ、って言うよ。イントネーションだって違うし。私は悪くないね」


 こんなことでも先輩が相手だと子どもの喧嘩みたいになりかねないので「すいません」と僕が折れて、美咲さんの前に珈琲と焼き菓子を置いた。


「珍しいですね。美咲さんがこんなに朝早くからこの事務所へみえるなんて」


 やっぱり先輩も同じことを思っていたようだ。


「ええ、耕助さまに折り入ってお願いごとがありまして。もしいらっしゃらなければ鈴木さまにお渡しして帰ろうかと思っていたのですが、あの青い車が停まっていたので」


 あっ! 「青い車」って言った!

 すぐに先輩の顔を見ると、口を軽くへの字にしながら首を傾けているけれど何も言わない。僕が青い車というと、すぐに「デニムブルーメタリック!」と訂正してくるほどこだわっているくせに。

 美咲さんに甘い、甘いぞ先輩!

 にらんでいると僕の視線に気づいたのか、首をすくめながらマイセンのカップを高く持ち上げて隠れるようにしている。


「それで御用件とは」


 青い車問題はスルーして話を進める気だな。仕方ない。あらためてゆっくりと問い詰めることにして、今は美咲さんの話を聞こう。


「実は父の知り合いに十文字さまとおっしゃる書道家の方がいらっしゃったのですが、つい先日お亡くなりになって――」

「殺人事件ですか?」

「いいえ。ご病気で療養中だったとお聞きしています」

「鈴木くん、まずは美咲さんの話を最後まで聞きなよ」


 つい前のめりになって聞いたら、二人から冷めた目で見られてしまった。反省。

 黙ったまま頭を下げると美咲さんが話を続けた。


「十文字さまはご趣味で漫画本を収集されていました。そのために専用の倉庫までご自宅に作られ、ご自身で厳重に管理されていたそうです。この度のことでご遺族が中のものを整理しようとしたところ、扉には番号式のロックがかかっていて開けられずお困りとのことで十文字さまの奥様が父へ相談にお見えになりました」

「豪徳寺さまに?」

「ええ。十文字さまと親しかった父なら番号をご存じかもしれないと思ったそうです」


 疑問が浮かんだので、先輩と美咲さんの会話に割って入る。


「そんな大切な番号をいくら親しいからと言って、知人に教えたりするもんですかね」

「もちろん、奥様もそんなことは承知の上です。どこかに番号を記したメモなどが残されていないかくまなく探したうえで、困り果てて父を訪ねたのです」


 また美咲さんに冷たくあしらわれてしまい、「すいません」と小声で頭を下げた。

 まずい、今日は何だか謝ってばかりだぞ。

 どうも美咲さん絡みだとヤル気が空回りしてしまう。落ち着いて話を聞かなきゃ。


「ご家族は扉のロックのこともご存じだったのでしょう? どなたか生前に十文字さんから教えて頂いているのでは」

「わたくしもそう思ってお聞きしたのですが、誰も聞いていないそうで。『書斎の引き出しにメモが入れてあるから心配ない』と十文字さまは笑って教えてくれなかったそうです」

「そのメモは見つかったのですか?」

「はい。これです」


 美咲さんが差し出したA4サイズの紙には、印刷されたカタカナの五十音表と達筆な「空」の一文字が書かれていた。

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