第十謎:Dear K ―折り込みチラシは大切に― IQ130(全四話)
書初め
年が明けて松の内も過ぎ、お正月気分が抜けたところで今日から仕事始めだ。
とは言っても、我が『武者小路 名探偵事務所』はもともと依頼は少ないうえに暗号のような謎解き専門になりつつあるので、初日から忙しくなるなんてありえない。そう安心しきって事務所の扉を開けた僕の目に飛び込んできたのは、忙しそうに動き回る先輩の姿だった。
「何やってるんですか」
新年の挨拶もそっちのけで、ワイシャツの袖をまくり上げている先輩へ声を掛けた。そう、この人こそが大学の先輩でもあり、ここの所長でもある武者小路耕助さんだ。
「あぁ、鈴木くん。おはよう。見てのとおりさ」
白の細い縦ストライプが入った濃紺のベストを着たまま、応接セットのテーブルを拭いている。普段はここの掃除なんてしたこともないのに。家でだって、絶対にやっていないはずだ。どうせ爺やとかお手伝いさんに任せっきりに違いない。
武者小路家は全国有数の総合商社であるエムケー商事の創業家で、先輩のおじいさまが会長をしている。ここ
僕の祖母が会長さんとは旧知の仲だったことがきっかけで、とある事件を経てこの探偵事務所でお世話になっている。出身大学も同じ、百済菜っ子同士なので先輩とは気が合うと言えば合うのだけれど。
「なんで新年早々、掃除なんかしてるんですか? 年末に大掃除をしたばかりじゃないですか」
ほとんど僕がひとりで、ね。
「いやいや、掃除じゃないよ。
「清めてるって、いったい何が始まるんですか」
「そりゃもちろん、新年には――あ、忘れてた」
手に持っていたタオルをテーブルの上に置いて、先輩がすっと立ち上がった。
細身で背が高いので、男の僕から見ても絵になる。
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
僕もあわてて立ったまま先輩へ向き直って、頭を下げた。
顔を上げてからもう一度やり直し。
「で、何が始まるんですか」
「もちろん書初めだよ、書初め! 気分も新たに一年の抱負をいつも書いてるでしょ。あれ、去年はいなかったっけ?」
そういえば今よりもさらに暇だったので、去年の仕事始めは午後から来たっけ。先輩が壁に『充実』と書かれた半紙を貼っていたのを思い出した。
「これでよし、と。鈴木くんより一時間も早く来て、墨もすっておいたからね」
墨をすっている先輩の姿が目に浮かぶ。珈琲豆も自分で挽くし、地味な単純作業って意外と似合うんだよな。
そんな風に思われているとも知らずに、自分の机の上から硯を持ち上げてそぉっとテーブルへと運び、敷いた半紙の上に文鎮を置いて準備を進めている。
「今年は何を書くんですか」
「まぁ見てなよ」
ニヤリと笑ったかと思うと表情を引き締めて直立不動の姿勢をとった。
目も閉じて、精神を集中している。
僕も思わず背筋を伸ばして息を止めた。
一呼吸おいてゆっくりと眼をあけた先輩が筆へと手を伸ばす。硯からたっぷりと墨をとると左手を半紙に置いた。真剣な表情で筆を運ぶ。
そこへ入り口のドアが三回ノックされた。
振り返ってもドアは閉まったまま。これは彼女に間違いない。
迎え入れに行くのは僕の役目だろうけれど、今じゃない。そんな気がして、先輩へと視線を戻すと、ノックのことなど気にする素振りも見せずにただ半紙だけを見つめて手を動かしている。
「できた!」
満面の笑みを浮かべながら顔を上げた先輩が大きな声を出した。
テーブルを覗き込むと『記憶』と書かれている。
「達筆ですねぇ。先輩、ほんと字が上手だよなぁ」
「まぁね。字も上手だから」
この人は謙遜ということを知らない。単純に素直すぎる性格の裏返しで、他人の言葉や見たことをそのまま受け取ってしまう。面倒くさいときもあるけれど、その素直な視点こそが、この人の謎を解く能力の
自慢げにあごを反らせる先輩へ抗議するかのように、いらだたし気な短いノックが三回聞こえてきた。
「いけないっ」
慌てて入り口へ駆け寄り、ドアを開ける。正面には紺色のピーコートを着た豪徳寺美咲さんが立っていた。肩までの黒髪ストレートに、コートと同色のベレー帽を乗せて、目をウルウルさせながら口をとがらせている。
バッグを持った両手を前に組んだまま短く頭を下げると、僕の横をさっとすり抜けて先輩へと詰め寄った。
「やぁ美咲さん。おはようございます」
「耕助さま! どうしてわたくしを除け者にするんですか。鈴木さまとお二人だけで……。ひどいじゃありませんか!」
「あ、いや、そんな、え」
書初めに集中していた先輩は事情を全く理解していない。なぜ美咲さんが怒っているのかもわからず、おろおろしていた。
すぐに先輩のもとへ近寄り、ワイシャツを引っ張ってこちらを向かせ小声で話しかけた。
「先輩が書初めを始めたときに、美咲さんは来ていたんですよ」
「え、そうなの?」
「ノックは聞こえたんですが真剣な顔で書いていたから気が散ると思って」
「うん、そうだね。途中で入ってこられるのは困る」
「それで後回しにしちゃったんです」
「ということは、悪いのは鈴木くんだね」
「えーっ! 僕のせいですかぁ」
「だから、そこーっ! なんでこそこそ話しているのですかーっ!」
美咲さんは怒るのを通り越して泣き出しそう。
先輩のフィアンセを名乗るだけあって、彼女が先輩のことを好きなのは僕にも十分伝わっている。それどころか、僕と先輩の仲を疑っていて困惑しているくらいだ。
「ごめんなさい、美咲さん。ノックには気がついたんですけれど先輩が書初めをしていたので」
「書初め、ですか?」
「そう、これです」
先輩は自慢げに半紙を両手で掲げてみせた。
「まぁお上手! さすが耕助さまですわ。昔から毛筆はお得意でしたものね」
「ええ。得意でした」
「お見事です」
「でしょ?」
勝手に二人でやっていればとでも言いたくなるのをぐっとこらえた。おかげで美咲さんの機嫌がころっと直ったから良しとしよう。
それにしても書初めのお題が「記憶」とは、いかにも先輩らしい。謎解きには様々な記憶が大事だということかな。
「上手に書くコツってあるんですか」
「鈴木くんも書いてみるなら書き順を意識するといいよ。先を読むというか、次はあの場所に筆をおくということを意識して書くと、字に流れが生まれる気がするんだ」
当たり前のことのようでいて、先輩が言うと妙に説得力がある。
「ところで美咲さん、どうしてこんな早い時間にここへ?」
「あら、わたくしとしたことがすっかり忘れておりました。この近くに紅茶専門の喫茶店が出来たそうなんです。店内には古民具類が飾られていると、今朝の折り込みチラシにありましたので耕助さまとお伺いしてみようかと。チラシ、ご覧になっていませんか」
僕が来たときにはポストは空っぽだったから、今朝の新聞は先輩が持ってきているはず。二人の視線が先輩の顔に注がれた。
先輩はと言うと眉間にしわを寄せて記憶をたどるように天井へ顔を向けてから、応接セットのテーブルへと視線を落とした。
そこには書初めの下敷きとして、墨の跡がついた折り込みチラシがあった。
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