第十二謎:あの夏に忘れてきたもの IQ120(全五話)
秘密基地
信号が赤に変わり、車の流れが止まる。僕もペダルをこぐ足を止めてブレーキに手をかけた。頬に当たる風がやむと、途端に汗が噴き出てくる。まだ九時前だというのに腕を射す陽射しが痛い。
僕が生まれ育った
大通りの反対側はビル群の日陰になっている。今のうちにあちらへ移ろう。
ママチャリを降りて押しながら点滅し始めた横断歩道を渡った。再び愛車にまたがり、ペダルに足をかける。
風を切って二ブロック進み、右に曲がって細い通りに入る。その先の十字路を左へ曲がり、さらに三ブロック進むと角の煙草屋が見えてきた。向かいの駐車場には青い車が停まっている。
今日も先輩の方が先だったか。時間に厳しい人じゃないけれど急がなきゃ。
スピードを落としてあたりの気配をうかがった。
煙草屋のおばちゃんはおしゃべり好きで、話し出すと三十分は相手をつかまえて離さない。いかにここを切り抜けるかが遅刻の分かれ目になっていた。
どうやら今日はおばちゃんが店の奥に入っているのか、姿は見えない。
今しかない。
立ち漕ぎスタートで一気にスピードを上げて煙草屋を通り過ぎた。
「ミッション成功」
一人ほくそ笑んで雑居ビルの脇にママチャリを停める。階段をかけ上がって二階の『武者小路 名探偵事務所』と書かれた扉を開くと、珈琲の芳ばしい香りが漂ってきた。
「おはようございます」
「おはよう、鈴木くん」
大学の先輩で、この探偵事務所の所長である武者小路 耕助さんがお気に入りのマイセンのカップを左手に持ちながらソファで新聞に目を通していた。
日本有数の商社であるエムケー商事の創業家に生まれながら、ミステリー好きのおじい様の影響で探偵になった先輩は「名探偵である私がいることが犯罪の抑止力になっているんだからね」と日頃から言っているような人だ。
でもそれはうぬぼれや自慢ではなく、素直すぎる性格がゆえに謙遜を忘れてしまったんだと僕は理解している。
「今日はおばちゃんにつかまらなかったんだね」
「はい。ダッシュでスルーしてきました」
「鈴木くんの分の珈琲をサーバーに残してあるよ。まだ淹れてから五分も経っていないし、どうぞ」
「ありがとうございます。でも汗が引いてからにします」
バッグを自分の机に置き、中からハンドタオルを取り出して顔の汗を拭いていたらびっしょりと濡れたTシャツの背中にクーラーの風が当たって急に身震いした。
確かロッカーに着替えがあったはずだ。
新しいシャツを身につけ、さっぱりとした気分で珈琲をいれてソファに座った。
「あぁ、美味しい」
「そりゃそうさ。私が淹れたんだから」
向かい合って座る先輩が少し不思議そうな顔をしている。
先輩が淹れるコーヒーが美味しいことは僕だって十分わかっていますけど、それでも言葉にしたくなるときがあるんですよ。そう教えてあげたいけれど、きっと「ふーん、そうなんだ」で終わってしまうだろう。
「何を笑っているんだい、鈴木くん」
「いえ、こんなふうにのんびりと出来るのは幸せだなぁって」
「そうだね。この事務所が暇だということは百済菜市が平和な証拠だから」
先輩の話がズレ始めたところで入口の扉が三回ノックされた。でも扉は開かない。
こんな礼儀正しい来訪は彼女だけだ。
カップを置いて立ち上がり、扉を開けた。
「おはようございます、鈴木さま」
白いリボンのついたつば広の麦わら帽子に白いブラウス、生成りのひざ丈スカート姿の女性が両手を前にそろえて頭を下げた。
彼女は豪徳寺 美咲さん。由緒ある豪徳寺家の一人娘で、先輩の自称フィアンセ。なんでも小さい頃から家族ぐるみで付き合いがあるそうだ。
「おはようございます、美咲さん。今日は早いですね」
「わたくしが朝からいたのではお邪魔ですか?」
「いやいや、そういう意味じゃありませんよぉ」
彼女がイギリスに留学して『シャーロックホームズにおける
いくら言っても信じてもらえないんだよなぁ。
彼女の厳しい視線を苦笑いで受けながら、ソファに戻る。
「おはようございます、耕助さま」
「いらっしゃい、美咲さん。今日は早いですね」
にっこりと微笑んで先輩の隣に座る美咲さん。
ちょっと! 僕とは全然違う対応じゃないですか。当然なのかもしれないけど。
もやもやした思いは口に出さず、カップに手を伸ばそうとしたとき、またノックが聞こえてきた。
思わず三人で顔を見合わせる。
ひょっとしてこんな時間にお客さん? まさか、いつも暇なこの事務所に限って……。
僕の思いに反して扉が開き、若い女性が入ってきた。
茶色い髪を肩までストレートに伸ばし、ボーダーガラのサマーニットとくるぶしまで隠れるブルーグレーのプリーツスカートが印象的だ。
応対しに近づくと、斜め掛けにしたバッグで強調された胸に目が行ってしまい、慌てて逸らした。
「いらっしゃいませ。ご相談でしょうか」
「ひさしぶり、鈴木くん!」
え、僕のことを知ってる⁉ どこで会ったんだろう。こんなかわいい感じの女性なら忘れないと思うけど。
「えー、分からないの? 日比谷です」
そう言って笑う口元からのぞいた八重歯には見覚えがある。よく見れば、くりっとしたその二重の目にも。
「まさか……
本当にうれしそうな笑顔を見せて、彼女は大きくうなずいた。
僕が覚えている佳衣奈ちゃんは髪も短く、デニムの短パンをはいて駆け回っていた。もう二十年くらい経つのか。
「よく、ここが分かったね」
「ご実家に昨日お伺いしたらお母さまが教えてくださって」
「何だよ。母さんも連絡くらいしてくれたらいいのに」
「鈴木くん、そんなところで立ち話をしていないで座っていただいたら」
先輩に声をかけられ、彼女をソファへ案内した。
「小学校の同級生で、日比谷 佳衣奈さんです。こちらが所長の武者小路さん、それと――」
「事務所のお手伝いをしている豪徳寺です」
美咲さんを何と紹介しようか一瞬迷ったら、彼女の方から名乗ってくれた。気がつくんだよなぁ。
珈琲を淹れるから、と席を立った先輩に代わって美咲さんが場を仕切る。
「とても懐かしそうにされていらっしゃいましたが、お二人は幼なじみなのですか」
「よく一緒に遊んでいました。あの頃の佳衣奈ちゃんはボーイッシュだったからすぐには分からなかったけれど」
「秘密基地、覚えてる?」
「もちろんだよ。放課後になると毎日のように行ってたよね」
「何ですか、その秘密基地って」
美咲さんの声に誘われてあの頃を思い出す。
僕たちが住んでいたのは百済菜市の外れで、坂の多い町だった。高台の小さな公園にあった大きな木。太い幹が低いところから枝分かれしていて、背が低かった僕でも簡単に登れた。
最後にあの秘密基地へ登ったときのことは忘れていない。左を向くと美咲さんと楽しそうに話す佳衣奈ちゃんがいる。その横顔を見て、胸の奥がちくっとした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます