亭主関白
鈴虫の声が鳴りひびく涼しい夏の夜、ふたり寄り添いながら月を見上げる。
昔は何人もの家族に溢れて、狭く喧しかったこの家も、いつの間にかふたりになって広く寂しくなった。
そんな物悲しさを口にすることなく、ふたりで築いてきた人生を振り返っていた。
一瞬の沈黙のあとに、
「ばあさん」
「なんですか?」
「感謝しておる」
「なんです、急に」
「いや、いま言っとかんと、と思ってのう」
「ふふふ。こちらこそ、ありがとうございます」
「ばあさんと一緒になれて、ワシは幸せ者じゃ」
「ワタシこそ、おじいさんにお嫁に貰われて、本当に幸せですよ」
二人は手を取り合って、照れくさくなりながらも見つめ合い、また月を見上げる。
「ばあさんはワシより早く死ぬんじゃぞ」
「また突然に。まさかさっきあれだけ嬉しいこと言ってくださったのに、ワタシが死んでから他の女性のところへ行くわけじゃないでしょうね?」
ばあさんは意地悪に笑っていった。じいさんは少し不機嫌そうに、
「違うわい。ワシはばあさん一筋じゃ」
そういって握る手を少し強めた。
「あら、そうなんですか?」
「当たり前じゃ。わかっておるくせに」
「恥ずかしいのです。照れ隠しですよ」
月明りに照らされるばあさんの頬は少し赤く染まっているように見えた。
「それで、どうしてワタシに早く死ねとおっしゃるのですか?」
「別に早く死ねと言っておるわけじゃない。ワシより早く死んでくれといっておるんじゃ」
「それはどういう意味なんですか? ふつう嫁は夫より早く死んではいけないというのではないですか?」
「そんなの決まっておるじゃろ」
じいさんは大きく深呼吸をしてから、
「ばあさんはワシより早くあの世に行って、ワシを迎える準備をしておいてくれんといかん。ワシは不器用じゃから、あの世に行ってもばあさんがおらんかったらなんもできんからのう。それにばあさんを残して逝くのも辛いんじゃ。待つのはいいが、待たされるのは嫌いじゃ」
「そうですね。おじいさんはほんとうに不器用ですから」
ばあさんはクスクスと笑った。昔にあったあれやこれを思い出して、笑った。じいさんにも心当たりがあるのだろう。決まり悪そうにしてから、咳払いをして、
「とにかく、ばあさんには先にあの世で準備をしておいて欲しいんじゃ。ワシがあの世で安心してばあさんと過ごせるように先に手回ししておいておくれ。一ヶ月でいいか? 要領のいいばあさんのことだ、そのぐらいあれば十分だろう」
「はい。わかりましたよ」
じいさんは立ち上がり、ばあさんに背を向けて部屋に戻って行く。
「おじいさん」
「なんじゃ」
振り返ることなく返事をした。やっぱり不器用だと思って、そんなじいさんを愛おしく思いながら、
「これからも末永く、よろしくお願いしますね」
無視して立ち去るじいさんの後ろ姿を眺めてから、すぐにその後を追った。
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