恋の自覚──赤井葵

 翌日の午後、わたしは結衣の家の前まで来ていた。

 自分でも心拍数の増加が分かる。わたしは心臓が張り裂けそうなくらい緊張していた。

 紙袋を持っている手が震える。深呼吸をして細川君の言葉を思い出した。


「ちゃんと気持ちを伝えれば許してもらえる」


 結衣にちゃんと気持ちを伝えなきゃ。

 わたしは意を決してボタンを押した。


 ──ピンポーン


 インターフォンの音が鳴る。

 しばらく待っているとインターフォンから声が聞こえた。


「どちら様ですか?」


 結衣のお母さんの声だ。いきなり結衣が出なくてよかったと心の中で安堵する。


「葵です。結衣っていますか?」


 緊張しているのを悟られないように声だけでもなるべく冷静を装う。


「葵ちゃんね。結衣なら自分の部屋にいるわよ。ちょっと待っててね」


 言われたとおり玄関の前で結衣を待つ。

 たかが十数秒の待ち時間もこの時のわたしには何十倍にも長く感じられた。


 ──ガチャ


「葵……?」


 結衣が困惑した表情で扉を開けた。


「わたし……昨日は本当にごめん。結衣に謝りたくて……その……」


 昨夜結衣になんて言えばいいかずっと考えていたのに、緊張して言葉につまった。いつもは普通に話せるのに喧嘩をするってこんな気持ちなんだ。


「……とりあえず中に入って」


 結衣は静かにそう告げた。



 結衣に案内されて2階にある結衣の部屋に通される。


「適当に座ってて、なにか飲み物取ってくる」


 結衣は静かに言い残し部屋を出た。



 わたしは部屋の真ん中に置かれているテーブルの前に座った。

 カタコトと壁にかけてある時計が音をたてる。短針が3の数字を指している。

 わたしはやることが無くて部屋に飾られた写真を眺めていた。

 いくつかある写真の中で、わたしと結衣が中学生の時に撮った運動会の写真があった。

 2人ともカメラに向かってピースをしている。写真の中のわたしたちはとても笑顔だった。

 結衣と仲直りしたい。また結衣と笑い合いたい。

 心の中で強く願う。

 でも……今日の結衣は明らかに落ち込んでいた。結衣の声はいつもに比べて静かだし、声のトーンからも落ち込んでいるのが伝わってくる。


 わたしは本当に大切な友達を傷つけてしまったんだ……


 ちゃんと気持ちを伝えれば本当に許してもらえるのだろうか。わたしのしたことは簡単に許してもらえるものでは無い。

 でも、こんなところでくよくよしていては何も始まらない。

 わたしは結衣が来るまで緊張の糸を解くことが出来なかった。


 結衣が麦茶を入れたコップを2つテーブルの上に置く。

 テーブルを挟んで反対側に結衣が座った。

 妙な静寂が部屋全体を包む。

 どちらが先に口を開くか2人とも様子を伺っていた。

 結衣との距離感でここまで悩んだのは初めてだ。


「あのさ、結衣」


 わたしはこの重苦しい空気が嫌で口を開いた。


「なに?」


 結衣は静かに答える。


「昨日は本当にごめん。わたしが図書館で集中出来なかったのも結衣のせいじゃないんだ。それなのに……結衣に自分が悪いんだって思わせちゃった」


 わたしは頭を下げた。

 結衣は黙ってわたしの話を聞いている。

 わたしは怖くなって、結衣の顔を見た。


「私のせいじゃないなら、何が原因なの?葵は図書館にいた時も教えてくれなかった。私そんなに信用なかったかな?友達としてダメだったかな?」


 結衣の声は震えていた。


 結衣に言われて初めて気づいた。わたしは結衣を信用しきれてなかったんだ。

 今までこんなにも長い間一緒にいたのに……


「本当にごめん。たしかにあの時のわたしは結衣のことを信用しきれてなかったのかもしれない。でも、結衣に言われてそれじゃダメだって気づいた。だから、花火大会の日に何があったのかも全部話す」


 わたしはその日のことを思い出す。


「あの日結衣が飲み物を買いに行った時、実は細川君とたまたま出会って2人きりで一緒に行動してた」

「細川君……?」


 結衣は一瞬驚いたような表情を見せた。


「うん。でも、わたしが細川君と一緒に行動していたってことがみんなに知られたら細川君に迷惑かけてしまうんじゃないかって思って黙ってた」


 結衣はただ静かに聞いている。


「図書館でわたしが集中出来なかったのは細川君のせい。花火大会の日以来、細川君のことが頭の隅から離れなかった。だから、何もかも上の空だった。結衣が原因なわけじゃない」


 結衣は何も言わない。


「わたしはあの時結衣に本当のことを伝えるべきだったのに……それなのに、細川君のことを考えて行動してた……自分でもなんでか分からなかった……」

「……それを恋っていうんだよ」


 今まで黙っていた結衣が突然呟いた。


「恋……?」


 結衣の思わぬ言葉に、わたしは思わず聞き返した。


「うん。ずっと話を聞いててそう思った。わたしは葵の中にある恋心に負けたんだなって」


 結衣が麦茶を飲む。


「今思えば、葵は今まで私のことを嫌いになるなんえ1度もなかった。私に酷いことをしたこともなかった。葵が私のことを信用しきれてなかったって言ってたけどそんな事ない。恋心を隠したがるのは普通だもん」


 話しながらいつの間にか結衣は笑っていた。


「私の方こそごめん。葵はわたしのことを傷つけたりしないってわかってたはずなのに」


 結衣が頭を下げた。


「そんな事ない。もとはといえばわたしが原因なの。結衣が謝る必要は無いよ」


 わたしは慌てて結衣が頭を下げるのを止めようとする。


「じゃあ悪かったのはお互い様ね。じゃあ仲直りの握手!」


 結衣が嬉しそうな顔で言う。テーブルの上には右手が差し出されていた。


「うん」


 わたしは結衣の手を握る。

 高校生にもなって仲直りの握手をするのがなんだか恥ずかしくて、わたしたちは2人で笑い合った。


 すっかり仲直りしてわたしたちは他愛もないことを話していた。

 テーブルの上にはわたしが持ってきた少し洒落た洋菓子が置いてある。


「結衣……ひとつ聞いてもいい?」

「うん」

「恋をするってどんな気持ちなの?」

「さっき葵が言ってた通りのことだよ。恋すると頭の片隅ではいつもその人のことばかりを考えちゃう。それにしても葵があの冷酷な細川君に恋するなんてねぇ」


 結衣がクッキーを片手に言う。


「恋してるわけじゃない!あれはたまたま花火大会の思い出が鮮明に残ってただけ……」


 わたしは必死に弁明した。


「ふぅん。まぁ頑張りなよ」

「だから、恋じゃないって!」

「はいはい」


 わたしは恥ずかしくて俯いた。スマートフォンで時刻を確認する。時刻は17時を過ぎていた。


「今日早く帰らないといけないからそろそろ帰るね」

「うん。じゃあね」

「じゃあね」


 わたしは結衣の家をあとにした。



 今までわたしにとって恋なんて無縁の存在だと思っていた。わたしが人を好きになることなんてないと思っていた。

 でも、今日結衣に言われて初めて気づいた。


 わたしは細川君に恋している。

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