第2話 医師・玄明
秀嗣は小田が玄明との約束に言及しなかったのをよいことに、とりあえず玄明と待ち合わせた茶屋まで駆けつけた。
神社の参道にある流行りのこの茶屋は、甘味だけでなく、馴染みの客には酒も飲ませてくれる。
玄明は既に床机に腰を下ろして茶を啜っていた。
漆黒の長い髪を後ろで高く一つに結わいていて、遠目にも目立つ。
細面の顔立ちに切れ長の瞳がまるで若衆歌舞伎を思わせる二枚目だが、あまり表情の無い、近寄りがたい空気の所為か、浮いた噂の一つもなかった。
「待たせたな」
玄明の隣に腰を下ろしながら、茶屋の娘にいつものを、と指を一本立てて合図をする。
娘も慣れた様子で頷きながら、いらっしゃい、と声をかけて奥へと注文を伝えに行った。
玄明は茶を飲みながら、返事の代わりに目だけを秀嗣に流した。
「小田様から仕事を言い付かってたんだ。これから行かなきゃならねぇから手短に頼む」
秀嗣は大して急いでいる風でもなくそう言うと、茶屋娘が持ってきた熱燗を嬉しそうに受け取った。
盆の上には気を利かせて猪口が二つ載っている。
それを見て玄明は当たり前のように湯飲みを置き、猪口を取った。
秀嗣は
「頼みもしねぇのに…」
と口の中で呟いているが、チロリを取ってその猪口に注いでやる。
そしてもう一つの猪口に手酌で注いで、上手そうに啜った。
「――知っている。小田様には俺が頼んだ」
一息で猪口を空にした玄明は、ようやく秀嗣に向き合って話を始めた。
「薬種問屋の娘が不思議な病にかかっている」
唐突に玄明が話し出す。
しかし慣れているのか、秀嗣は口を挟まない。
「ある日茶の湯の稽古より戻ってから発症し、治るどころか酷くなるばかりだ」
玄明は今度は手酌で猪口に酒を注ぐと、その酒をちろりと舐めてから続けた。
「それがな、あの萬福寺と関係がある様なのだ」
「ああ?」
秀嗣は、先ほど聞いた名前に反応した。
玄明によれば、あの娘が稽古の帰りにその寺の側を通ったところ「泣き声が聞こえた」という。
「泣き声?」
秀嗣は片眉を上げた。
「ああ。面白いだろう?」
と玄明は薄い唇に笑みを浮かべる。
「好奇心の強い娘でな、お参りがてら音のする方へ行ってみたそうだ」
と躊躇いもせずに秀嗣の酒をまた一杯干した。
「お前、その娘を知ってるのか」
昼行灯と呼ばれる割には妙に聡いところがあると玄明は内心で思いながらも、質問を無視して先を続ける。
「境内を囲む回廊の隅っこに歩み寄ると、軒先の隙間から水が滴っているというのだ」
秀嗣は、小田が話していた『雨漏りの音』のことだろうと思い至った。
「だが、地面はどこも濡れていない。
それどころか泣き声はすれどその主も見あたらない」
ただ、その隙間から雫のようなものと泣き声のようなものが出ているという。
娘は気になってその軒下まで行くと、屋根を見上げた。
すると、ぽとりと一滴、何かが落ちてきたような気がした。
慌てて手で顔を拭うが、手には何もついていない。
気味が悪くなって急いで家に帰った。
「で?何でお前がお出ましなんだよ」
秀嗣は、怪訝そうに尋ねた。
「娘が家に戻って鏡を覗くと、顔に何やら朱い染みがついていてな。
擦ろうにも洗おうにも落ちない」
「――その雫とやらが落ちたところか」
玄明は静かに頷いた。
「それどころか翌日には倍、更に翌々日には倍の倍にその染みが広がって、今や顔の半分を埋めている」
流石に英嗣も眉根を寄せた。
「今から往診へ行く。一度見ておけ」
そう言うと、玄明は盆の上に全ての勘定を置いておもむろに立ちあがった。
玄明はいつも秀嗣が気負わぬ程度に払いを肩代わりする。
秀嗣の方も、滅多に声をかけてこない玄明の頼みには出来る限り手間を割いた。
これが幼馴染の絆というものか。
まだ腑に落ちない秀嗣は、立ち上がる玄明を見上げつつ
「おいおい、俺は医者じゃねぇぞ。何の役に立つってんだ」
と腰を上げない。
玄明は気にする風もなく、薬箱を抱えて背を向けて言う。
「医者で解決するならお前を呼ばん」
確かに、と考えた秀嗣は今朝小田の命もあったことだと思い直し、玄明の後を素直について行った。
城下きっての大店である薬種問屋丁子屋。
一人娘のおいとは、界隈でも有名な看板娘である。
際立った美人ではないものの、朗らかで、大きな瞳の愛らしい笑顔が印象的だ。
それでなくても年頃の娘が顔に痣ができるとはつらいものだろう。
職業柄付き合いのある玄明は、丁子屋からの信も篤く、屋敷への自由な出入りが許されているようだった。
勝手知ったる風情で
「御免」
と言いながら屋敷の奥へとあがりこんで行く。
丹精に手入れされた中庭を横目に回り廊下をぐるりと渡り、階段を上がって更に奥に歩を進めた。
そして、一番奥の部屋の前に丁寧に膝を突く。
「失礼いたします」
そう言うと玄明は返事を待たずに娘の部屋を開けた。
びっくりしながら及び腰でついて来ている秀嗣に、長い指でちょいちょいと手招きをする。
「本日は助手を連れております」
玄明はその言い様に文句を言いたそうな秀嗣の口を視線で封じ、共に部屋の中へ入って行った。
それから、袴の裾を静かに捌いて、伏している娘の床の横に座す。
「――お嬢様、御具合はいかがにございますか」
少し顔を近づけ、声音を和らげてそう言うと、玄明は布団に伏している娘の肩にやんわりと手を置いた。
娘の体が、ぴくりと反応する。
しかし、一向に起き上がる様子は見せない。
「お嬢様…見立てをさせて頂かねばなりませぬ。
どうかお顔をお上げ下さい」
反応のない娘に、玄明はあやすように今一度優しく声をかけた。
「お嬢様、どうか何卒――」
そして顔は娘に向けたまま、視線だけを秀嗣に移し、
「――こやつが、この怪異を解決してくれるやもしれませぬ」
と言った。
その言葉に、娘だけでなく秀嗣自身も驚いた。
そんなことは玄明から何も聞かされていない。
あたふたする秀嗣を他所に、玄明は娘の肩を支えながらゆっくりと起こしてやった。
娘が、躊躇いがちに秀嗣のほうに顔を上げる。
「あ」
秀嗣は思わず声をあげた。
娘の顔の半分を覆う朱色の痣の所為ではない。
見知った顔だったのだ。
「あ」
娘も小さく声を上げて、再び床に顔を伏せる。
「やはり知り合いか」
玄明が娘に布団をかけながら秀嗣に尋ねた。
「ああ…祭りで酔っ払いに絡まれていてな…」
あの折、秀嗣が助けてやった娘だった。
真新しい浅黄色の小袖を着て、無邪気に礼を言っていた娘の汚れのない顔を思い出すと、秀嗣は何故か怒りに似た気持ちがこみ上げた。
「おいとさん、と言ったか」
秀嗣が一歩膝を詰めた。
「
そう言うと、澄んだ瞳を真っ向から娘に向ける。
娘は布団で半分隠した顔を、痣ではない朱色に染めて、はい、と頷いた。
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