お祓家業

橋本伊織

第1話  事件

 今年最後の野分が江戸を過ぎ去って十日ほどたった頃であろうか。

次第に空気に冷たい粒が混じるような日が多くなってきて、寒さに肩を竦めながら同心・堀田秀嗣ほったひでつぐは奉行所の門をくぐった。

今日も同心部屋は平和である。

将軍様の治世がよろしいのか、同心の仕事は少ない。


 ありがたいようなありがたくないような…


そんな不埒な考えをしながら、秀嗣は早速愛用の煙管を取り出すとたばこ草を片手で器用に丸めて雁首に詰め、吸い口を咥えて行灯に顔を寄せた。

灯りがほのかに秀嗣の端整な顔立ちに陰影を加えて際立たせている。

灯芯からもらい火をすると、自分の机に坐りなおしてふうと一服、細い煙を薄い唇から吐き出した。

垂れた眦が無駄に男前の上、生まれつきの癖っ毛を一つにまとめた姿は、羽織と腰の物がなければとても同心には見えない。

見た目通り、同心としての活躍もいまいちといえた。

泰平の世とはいえ、それなりに掏りや押し入り、喧嘩のはての殺生沙汰などは起きていて、仕事がないわけではない。

だが、秀嗣はどの事件にも関わったと聞く事はなかった。

しかし、町に出れば秀嗣の人気はなかなかであった。


「おう旦那!持ってきな」


と魚屋の亭主に鯛を持たされたり、


「堀田様…」


と物陰から娘達の熱い視線を送られたりするのは日常茶飯事である。

この人気は同心としての力量というよりは、男前な風貌と、元来の世話焼きの所為といえた。

産気づいた女房の長屋へ、産婆をその背に乗っけて送り届けた秀嗣に感謝する魚屋の亭主は


「うちの息子が無事に生まれたのは旦那のおかげだよ」


と吹聴してはばからないし、

見廻りをちょっとさぼって祭りをぶらついていた秀嗣が、もののついでに酔った牢人ものから助けてやった町娘は


「助けて下すったのにこの事は二人の秘密にしておけだないなんて…」


と、さぼりが知れてはまずい秀嗣の心中も知らずに淡い恋心を抱いている。

秀嗣はただ、血なまぐさい事を好まない性質たちであった。

背丈もたっぷりと高く、剣の稽古も決して怠らないため筋肉も美しく整っている。

しかし、本業同心だけは、どうしてもやる気がないように見えた。


「朝から一服とはいいご身分だな」


秀嗣の上司である筆頭与力の小田信輔おだしんすけは、同心部屋に入るなりにやりと笑ってそう言うと、ばさりと羽織を翻して同心部屋の上座にある自分の定位置に座した。

さすがの秀嗣もばつが悪そうに、慌てて煙管を煙草盆に預けてごほんと咳払いを一つし


「おはようございます、小田様」


と床に手をついた。

小田はいかにも同心らしい眼光鋭い強面の二枚目で、同心一同の信も厚い。

しかし罪を犯した者への容赦のない振る舞いから恐れられてもいた。

早速小田は周囲を見回して、話を切り出す。


「昨日の報告を受けて、一つ気になる案件がある」


低い、しかし情けの厚い太い声で小田の声が秀嗣の頭上に響いた。

他の同心も、居住まいを改めて小田の話に注意を向ける。


「城下の西の端にある萬福寺からの訴えだ」


常の仕事には滅法及び腰の秀嗣が、ふと気になって小田の顔を見た。

ぱちり、と視線が合う。

そのまま、小田は話を続ける。


「十日ほど前から、夜な夜な奇妙な音がするというのだ」


一同からは笑いともつかない声が漏れた。

血なまぐさい話とは無縁の、雲を掴むような話に血気盛んな同心達はとるに足りない案件と思うのだろう。


「雨も降っておらぬのに、雨漏りのような水音がするそうだ」


そこで一息つくと、小田は視線を秀嗣から全員に向けなおした。


「ここ数日は水音だけではなく、よくわからぬ声が響く。

 寺の者が見回るのだが、どこにも水に濡れた形跡はなく、人が立ち入った形跡も見当たらない」


さすがに、皆がざわついた。

怪異を信じるわけではないが、疑ってかかるほどの度胸もない。

小田は同心らの心の揺らぎも気にせず続ける。


「奴らは坊主で経をあげるのが仕事だ。

 人が立ち入った痕跡がどうのこうのと云うのも、素人の了見だ」


特に僧籍のものを蔑ろにして言っているわけではない。

ただ役割が違うと、小田は言っているのだ。


「まさか幽霊だとか思ってらっしゃるので?」


と一人の同心が揶揄するように言うと


「幽霊だろうがすすきだろうが、街を騒がせるものは取り締まるのが俺たちの役目だ」


小田はそうきっぱりと言い切って、視線を秀嗣に戻した。


「秀」


この奉行所で小田だけが秀嗣をそう呼ぶ。


「見て来い」


そう小田が命じると、他の同心達も納得したように小さく安堵の息をついた。

そして、それぞれ己の業務に戻っていく。

こんな得体の知れない話など、昼行燈ひるあんどんにぴったりだと言わんばかりだ。

秀嗣は


「恐れながら小田様」


ともう一度床に手をついて慌てて言った。


「今日はこれから緒方殿からご相談を受けておりまして、立ち寄るところが…」


緒方玄明おがたげんめいは、養生所の中でも中医のみならず南蛮医学も学んだという腕利きの医者だ。

医術の為ならご禁制の薬も入手してくると言うキナ臭い噂もあるが、番屋に上がる死体の腑分けや検分に立ち会う事もしばしばで、奉行所には様々な意味で馴染みであった。

小田は目だけで頷くと、何も言わずに立ち上がり、同心部屋を退出した。




 

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