字句の海に沈む

増田朋美

字句の海に沈む

字句の海に沈む

ある日、浜島咲がいつも通り百貨店にある稽古場へ行ってみると、主宰者の下村苑子が、なにか話していた。話していたのは、百貨店の関係者だった。

「そうですか。ここもいよいよそうなってしまうのですか。」

「ええ、せっかく下村先生がここで教室を開いてくださったのに、申し訳ないのですが。」

と、、関係者は、文字通り申し訳なさそうに言った。

「では、私たちはどうしたらいいのでしょうか。」

なんて苑子さんは言っているけど、それはどうしたらよいかなんて、百貨店の関係者には、わからないというのが、本音なのであった。

「申し訳ありませんが、そういう事ですので、今月いっぱいでここから立ち退いてください。」

「そうですか、、、。」

苑子さんががっかりと肩を落としている間に、関係者はそそくさと部屋を出て行ってしまった。

「大丈夫ですか、下村先生。」

咲がそっと尋ねると、苑子さんは、小さくため息をついた。

「それでは、あたしたちもお教室を閉めなきゃいけなくなるのね。もうこの百貨店も閉店になるんですって。みんな近くの安くて品ぞろえもあるショッピングモールへ行ってしまって、ここへはなかなか来ないんでしょ。」

つまり、ここの百貨店も終わりになるという事だ

「困ったわねえ。ここは駅から近いから、いろんな人が来て良いと思っていたのに。」

「わかりました。それではどこかに新しい教室を見つけましょう。すぐにあたし、この辺りのコミュニティセンターとか、あたってみますよ。」

咲はすぐに対策を言ったのであるが、苑子さんは、すぐそれがあたまに浮かばないようであった。若いときにはそうであっても、年を取ると、人間はなかなか対策を思いつかなくなるらしい。咲にはそういうところが少しじれったく感じられた。

「そうねえ、、、。」

苑子さんは、黙ったままであった。こういう時は、すぐに頼ってくれればいいのに。私がいるのにな、、、と、はがゆいというか、何だかもどかしい感じがした。

「下村先生、あたし何とかしてみます。インターネットで、検索をすれば、音楽室なんてすぐにかりられます。そうすれば、直ぐに新しい教室を始められますよ。それを何とかするぐらい、あたしにできますから。」

咲はそういうが、苑子さんは落ち込んだままだった。

「先生。ぼっとしていても始まりません。其れよりも早く新しいところを探しに行くことを考えないと。教室は、ここでおしまいではありません。ただ場所が変わるだけの事です。」

「それはどうかしらね。」

下村苑子先生は、まだぼんやりしたままだった。

「先生、それでは、何も始まりません。最初の生徒さんの前で、うじうじしていたらだめですよ。少しづつ話していけばそれでいいじゃありませんか。」

咲は一生懸命苑子さんを励ました。

「こんにちは。」

と、最初の生徒さんがやってくる。カルチャーセンターだから、グループ稽古が多いと思われるが、時折個人レッスンを希望する者もいて、この生徒さんはその一人だった。

「下村先生、こんにちは。浜島先生もこんにちは。どうぞよろしくお願いいたします。」

と、丁寧に挨拶をする生徒さん。咲は、ほら、と下村先生に言うように促す。

「あの、稽古を始める前にちょっとお願いがあるんですけど。」

と、苑子さんは静かに言った。

「何ですか。」

「ご存知ないかもしれませんが、この百貨店は今月いっぱいで閉店ということになりました。なので、申し訳ないのですが、新しい教室が見つかったら、連絡しますから、これからもお願いできますでしょうか。」

どうも、お弟子さんに媚びるようないいかたであるが、どうしてもそういう言い方をしてしまうのであった。咲は、もうちょっとはっきり言ってもいいのではないかと思ったが、苑子さんはそれは出来ないらしい。

「そうですか。新しい教室と言いますのは何処にあるんでしょうか?」

不安そうな顔をして生徒さんは言った。

「ええ、まだ決まっておりません。決まりましたら連絡しますので。」

「わかりました。では、もう、終わりにさせていただきます。」

と、彼女はそういった。

「もう終わりって、、、。」

咲も驚いてしまうが、その生徒さんは、そうするらしかった。

「先生が、親切にいろいろ教えてくださるのはありがたいのですが、私は、この百貨店以外、行けるところがないのでありまして。」

「それはどういう意味ですか?」

咲がそう聞くと、

「ええ、ほかの建物は、みんな電車の駅から遠いでしょう?この年になると、歩くのはもう億劫になるんですよ。今更この年になって、新しい場所へ行くのも嫌ですから、申し訳ありませんが、おしまいにさせてください。」

と、そのお弟子さんは静かに答える。たしかにそのお弟子さんは、80歳を超えたおばあさんだ。そうなれば確かに外へ出て新しい事を始めるのはおっくうになってしまうかもしれない。

「まあ確かにそうですね。わかりました。」

苑子さんはそう答えたが、裏ではとても悲しい気持ちになっているのがよくわかった。

「まあ、それでも構いません。今日はそれまで習ってきた、六段の調べの総復習をやりましょう。そして、有終の美を飾ってください。」

と、苑子さんは、そう言いながら、箏の爪をはめる。咲も、急いでフルートを組み立てて、六段の調べの楽譜を出した。

「行きますよ。テン、トン、シャン、、、。」

何だか、悲しい気持ちを象徴するような音だった。

一時間、その六段の調べを稽古して、その生徒さんは帰っていく。今月いっぱいで、やめていくというその生徒さんは、何だか今までよりずっとうまくなっているようで、其れがやめていくとは、一寸悲しい気持ちになった。

「こんにちは。」

「ご精が出ますね。」

二人の生徒さんがやってきた。この二人の生徒さんは、近所の仲良しグループという事なのだが。

「どうもこんにちは。よろしくお願いします。」

「今日は、いい天気ですね。」

咲も、苑子さんも、よろしくお願いしますとあいさつした。

「お稽古の前にちょっと、お願いがあるのですが。」

また、苑子さんは、言いにくいはなしを始めた。

「ここの百貨店も、もうおしまいなのだそうです。今月いっぱいで、つぶれることになりました。だからお教室もどこかあたらしいところに引っ越します。場所が決まったら、またお教えしますから。」

苑子さんはそういうのだが、二人の女性たちは、にこやかなままだった。

「そうなんですってね、娘から聞きましたよ。それでは、あたしたちは対策として、もう地元のお箏の先生に就くことにしましたよ。」

「地元のお箏の先生?」

「ええ、富士市内にある、お箏教室です。こちらの方が、ちゃんとお箏のメカニズムがわかってくれると、娘が言っていました。娘たちも、中途半端に洋楽をやるような邦楽教室ではなくて、ちゃんとお箏教室として機能してくれるところに習いに行けと言ってきかないものですから。」

たいへんな侮辱ではあるが、それは、ある意味真実でもあった。お箏を習っていると言っても、洋楽ばかりやっていて、しかもフルート奏者と一緒にやるような教室では、中途半端としかみなされていない。

「それに、下村先生は、山田流箏曲協会にもどこにも入っていないのではありませんか。それでは、何も肩書がないんでしょ。それでは、なんだか安心して習えないのではないかって娘たちも心配しているんですよ。」

確かに、其れも又問題だった。そういうところに所属はしておらず、フリーランスの音楽家では、そういう安心感がないという事もある。

「ですから、私たちは、その地元の先生に習いますから、ご心配はいりません。先生は、お箏の基礎はしっかりおしえてくれましたから、弾き方はばっちり覚えました。ですから、私たちはすぐにあたらしい教室に行っても、対応できます。本当にありがとうございました。」

ある意味これは皮肉だった。苑子さんがしっかり教えてきた、箏の基礎的な弾き方さえ出来ていれば、どんな応用問題でも、すぐにできる様になってしまう。それではすぐに大曲も弾けるようになってしまうんだろう。

そのあと苑子さんは、お稽古を続けたが、なんだかそれでは、あたまが空っぽのような感じだった。それでは、もう、なにかを失くしてしまった様に見える。

稽古場の営業時間が終了するまでお稽古を続けたが、苑子さんはずっと空っぽになったような感じで、ぼんやりとしていた。ほかの生徒さんたちは、みんなこの百貨店が撤退してしまうということを知っていて、何かしらの対策は取っていた。地元の先生に習うとか、もうお箏をやめてしまうとか、そういう対策である。中には、山田流はもう将来性がないとして、生田流の先生に習ってしまうという、対策を取っている者もいる。それを言われてしまうと、苑子さんは、涙をぽろりと流してしまったこともあった。確かに山田流はそこが弱点である。宮城道雄とか、沢井忠夫と言った、そういう花形スターのような演奏家が全くない。生田流であれば、春の海とか、名物的な曲もあるが、山田流で春の海を弾くことはまずできない。その対策として、久本玄智や高野喜長と言った、カッコいい曲を生み出した作曲家もいるが、生田流にくらべると、知名度は極めて低かった。

「そういう事だから山田流では洋楽をやった方がいいって思ったのに。そうしたら、山田流の伝統がつぶれてしまうと、言われてしまうのよ。」

生徒さんたちのお箏を片付けながら、苑子さんは、そういった。

「そうですか。洋楽と違って、違う流派と合奏をするとかそういうことはしなかったんですか。」

咲がそう聞くと、

「しないわね。そんなことしていたら、今時山田流というものは、当の昔に消えていたわよ。日本の伝統は、悪いところをくちに出すことによって生きてきたところがあるから。」

と、苑子さんは答えた。何だかそういうところが非常に日本的である。よいところではなくて、悪いところを指摘しあう所。たぶん生田流も山田流も、互いの悪いところをつつきあって、発展してきたのだろう。

「いまさら、生田流に助けてくれという訳にもいかないから、山田流が衰退しいていると感づいても、誰も対策を取らなかったのよ。勿論対策としていろんな曲を生み出した先生方を否定するわけじゃないけど、もう、遅すぎたのよ。あたしだって、なにか、出来ればしたかったけど、家元の野村先生が、すごく保守的だったから、山田流箏曲協会にも入れなかったし。其れじゃあ、あたしは手も足も出ないわ。それを生徒さんたちはみんな知っちゃうのよね。これだけ情報化社会だと、あたしの経歴だって、すぐにみられちゃうんでしょうよ。あたしは、コンピューターに詳しくないから、よくわからないけれど、きっとあたしが協会を首になったことだって、こうして、邦楽を捨てて洋楽をやっていることだって、みんなそれに表示されているんでしょうよ。それで、この先生は偉くて、この先生は悪いって、簡単に甲乙付けることが、できてしまうのよ。それがいいのか悪いのかは、よくわから無いけどね。」

苑子さんは、もうどうしようもないといった。

と、いう事はつまり、苑子さんの社中もつぶれてしまうのであろうか。いや、もしかしたら山田流箏曲というジャンルもつぶれてしまうのだろうか。かつて、伝説の大陸として存在した、アトランティス大陸のように、有名無実な存在になってしまうのだろうか。

「もう、山田流も、終わってしまうのですかね。そんなことしてほしくないんですけど。」

咲は自分もそうなったらこまると伝えたかった。だって山田流があったおかげで、自分の居場所を見つけられた様なものなのに。それでは、すべて終わりという事になる。

「そうかもしれませんが、先生、こんなところで落ち込まないでください。単に場所が変わるだけじゃありませんか。そうしたらきっと、新しい生徒さんも来ますよ。そうでしょう?」

「そうかしらね。」

咲はなぜ苑子さんがこんなに落ち込むのか、一寸想像できなかったが、ふいに壁にかかっているカレンダーを見て、理由がちゃんとわかった。

「ああ、そうですか、薫さんの。」

そうか、月命日だったのか。そうなれば誰だって必然的に落ち込むだろうから。それは人間であれば誰だってしょうがないと言える。

「まあそれはそうですが、薫さんだって、そんな風に落ち込んでいたら、嘆き悲しみますよ。そんな話を、どこかで聞いているかもしれませんよ。」

咲が、そういう事を励ますなんて、まるで実の娘がしているような話であった。

「そうね。しっかりしなきゃね。薫もお母さんはかっこ悪いなんて、いっているかもしれないわね。」

という苑子さんの口調には、やっぱり覇気がなかった。

それではと、二人は楽器を片づけて、家にかえった。お稽古場である百貨店を出ると、咲は、すぐに地元のコミュニティセンターを訪ねる。

「あの、すみません。私、浜島というものですが、定期的に開いている部屋を貸していいただけないでしょうか。」

受付に咲はそう聞いてみた。とりあえず受付は、こちらへどうぞと椅子に座らせる。

「部屋をかりると言っても、どんな団体ですか。」

「はい、お箏教室です。」

と、受付に聞かれて咲は答える。

「ではあなたは、お箏教室の幹部というわけですか。」

と、聞かれて咲は困ってしまった。お箏教室には参加させてもらって居たが、師範免許を持っている

訳でもないし、幹部というわけではない。

「いえ、あたしは、幹部ではありません。ただのフルート奏者です。」

「ふ、フルート?」

咲は正直に答えると、受付は素っ頓狂な声でそういうのである。

「はいフルートです。」

「フルートって、お箏と一緒にやるんじゃ尺八ではありませんか?」

まあ、確かにお箏の定番の相方と言えば尺八である。フルートというのはちょっと例がない。

「あの、出来ることなら団体の代表を連れてきてくれませんかね。幹部ではないあなたがいくら部屋を借りたいと言っても、こちらはその団体の長が来なければ、何も対応できないシステムになっているんですよ。」

受付は、咲をその社中のメンバーとは見ていないらしい。確かに邦楽器である箏と、洋楽器であるフルートが一緒にやるのという例はあまりないのでこういわれてしまうのだろう。

「ええ、代表は別にいますが、私が代理で契約を取り付けることは出来ないのですか?」

「はい、出来ません。ここでは代表が捺印してくださらなければ、契約できないことになっています。」

全く、コミュニティセンターの職員もお役所気取り。代表がどうのとか、そういうばかり言ってくる。

それでは、まったく役に立たないではないか。

と、咲は思った。

「わかりました。次にきた時には、代表を呼んできます。ですから、開いている部屋があるかどうか、調べておいてください。」

咲はちょっと頭にきて、其れを言い、コミュニティセンターを出て行ったのであった。

まだ、家に帰るにはちょっと早い時間だった。日もだいぶ伸びて、最近では五時を過ぎても明るくなっている。そういうことがあってか、家に帰るという気はちょっとしない。

咲は、コミュニティセンターの前を丁度通りかかったタクシーを呼び止めて、

「すみません、大渕まで乗せていただけないかしら?」

と、お願いした。

「はい毎度あり。」

間延びした顔をした運転手は、タクシーを方向転換させて、大渕に向かった。

暫く走ると、製鉄所がみえてきたので、咲はそこの玄関前で止めてもらう。

四畳半では水穂が、静かに眠っていたが、ふいに、こんにちは、右城君いますか?という声が

聞こえてきて、目が覚めた。一体どうしたんだろうと思いながら、よいしょと布団の上に起きる。

「横になってくれていても構わないわよ。」

ふいに、ふすまが開いて、現れたのは咲だった。

「浜島さん。」

水穂はそういって、軽く咳き込む。

「今日は何の用事ですか?」

「いや大した用事があるわけでもないんだけれど、ただ、ちょっと辛いことがあって、こっちに来ちゃったの。」

咲は、ほっとため息をつく。

「ごめんなさい。具合悪いときに、申し訳なかったかしら?」

「いえ、大丈夫です。今日は、比較的落ち着いてますから。なにか話したいことがありましたらどうぞ。」

「そう、良かった。其れなら安心した。」

と、咲は言ったが、水穂が又せき込んだので、あんまり長くは居られないなあと思い直すのだった。急いで用件を言って帰ろうと思い、こう切り出す。

「ごめんなさいね。実はあたしの勤めている、下村先生のお箏教室、場所を変えなきゃ行けなくなったの。」

「そうですか。確か百貨店の中にあったとか。」

「ええ、そのお店が今月いっぱいで撤退なんですって。全く嫌なものね。あたしたちは必要としているから、そのまま百貨店を使ってたのに。それを考えてくれないで勝手に決めちゃうんだから。」

「そうですか。やむを得ない話ですね。最近は、百貨店を利用する人も少ないですしね。それで

つぶれてしまうのもやむを得ないでしょう。其れなら、公民館とか、コミュニティセンターで部屋を借りて。」

そこまで言って、水穂は三度咳き込んだ。ああ、大丈夫?と咲は、その背中をたたいてやる。

「でも、問題は、そこで生徒さんがやめちゃうという事よ。今時本気になってお箏を習う人もいないのかな。何だか、気軽に洋楽やって、すぐに始められるのを売りしていたけれど、それは、やめるのも、簡単という事なのかなあ。」

たしかにそうである。古い楽器を安く入手するのが簡単なったためか、すぐにやめるのも簡単になった。新品でしかお箏を入手できなかった時代では、その値段を考えれば、なかなかやめることもできなかったはずだ。

「私、何だか今の世の中、いろんなものを軽く見過ぎている気がするの。なんでも中古で気軽に入手できるけど、其れって、その歴史とかその重さを軽視しているような気がしてならないわ。気軽に入手できないからこそ、大切にしたいっていう感情が、これからどんどんなくなっていくんじゃないかしら。」

「咲さん、でも、今の世の中ですもの。逆らうことなどできませんよ。僕たちは、そこで生きていかなきゃならないですから。」

水穂は、しずかに言った。

「そうねえ。一生懸命やろうとすればするほど、真剣にやれる人から遠ざかって行くような気がする。何とかして、そういう人に会いたいなって思えば思うほど、そういう人には出会えないのよね。あーあ、世の中バカなのよなんて歌詞があったけど、まさしくその通りだわ。」

咲も、そういってため息をつく。

「まあ、どこの世界でもそういう物です。僕はそう割り切って生きています。」

水穂がそういうと、

「あら、あなたには、一人真剣に生きていようとする人が一人いるじゃありませんか。割り切って生きていたら、彼女まで無視することになりますよ。其れにはちゃんと答えてやらないと。」

咲はちょっといたずらっぽく言った。それにおどろいた水穂さんは、返答しようとしたのだが、代わりにひどく咳き込む。

「嫌ねえ。私、そんな難しく考えること言ってないのだけどなあ。もう、単純なことじゃない。気が付かないほうが、バカって言われちゃうわよ。」

咲は背中をたたいてやったが、咳き込んだままだった。ちょうどそこへ、看護学校から戻ってきた利用者が、咳き込んでいる音を聞いて、大丈夫ですか、と言いながら四畳半にやってくる。

「大丈夫ですか。ほらほら、一度で全部出そうとするからそうやって苦しくなるんです。それじゃいけませんよ。」

と、利用者は、水穂の背をたたいた。咲も予想していた通り、赤い吐瀉物が噴出する。それを利用者は、ハンカチーフで丁寧にふき取った。

「ああよかった。これで、学校で学んだことが生活に生かせます。俺はそういう学問を真剣に学べてすごく幸せだ。俺、やっぱり介護の勉強ができて、良かったなあ。」

何てことをいう利用者は、その顔は本当に幸せそうで、勉強することが何よりも嬉しそうだった。

「いやね、俺は、どうしても会社という所で上司の話に追い立てられながら仕事をするのがどうしても性に合いませんでしてね。思い切って会社をやめて、40過ぎて看護学校に貯金はたいて通い始めたんですよ。まあ、確かに今は貯金切りくずしの生活なので、世間的に言ったらなんと言う親不孝な子供だと、しょっちゅう言われるんですよね。それでこちらに住まわせてもらっているわけですけどね。でも、こうして学校に通って、水穂さんも居て俺はやっと自分が世の中に必要とされてきたなあと思うので。だから俺、これからも勉強を続けようと思うんですよね。」

何て、禿げ頭をかじりながら楽しそうに言う利用者は、本当に楽しそうであった。そうか、自分が受け入れられているというか、自分が世の中に必要とされていることが、本当の生きがいという物なのだろう。

「学校だけじゃありません。なんだってそうですが、俺たちは、生きているということを、しっかり噛み締められる場所がほしいという事なんですよ。そうでなければ会社あっても学校であっても、人生がむなし過ぎて、どうしようもないじゃないですか。」

そうか、そういう場所か。そういうところを作れる場所が、果たしてあるだろうか。たぶん、今の社会では極めて少ないだろうなと咲は思った。

「そうね。あなたは、そういう場所が見つかって幸せね。」

咲は、利用者にそういったが、利用者はそれはどうかなという顔をする。

「そうですかね。俺は幸せだけど、俺の周りの人たちは、どうなんだろうか。俺の周りの利用者さんたち何て、みんな居場所がないって泣いているひとばっかりなんですよ。学校でいじめがあったとか、

会社でうまくいかないとか。時には、誰かにけがをさせちゃったりとかした人もたまに来ますしね。そんな人たちは、居場所さえあれば、もうちょっと楽になれるんじゃないでしょうか。でも、他人である

俺が、そんな口出しできるかなって言うとそうじゃありませんよね。俺は、黙ってみているしか出来ないなあ。青柳先生みたいな、肩書があるわけじゃないし、水穂さんみたいにすごい大学を出ているわけでも無いですしねえ。」

利用者は、ちょっと申し訳ないというか、言ってはいけないことをいって、ごめんと言いたげな表情をしながら、そんなことをいった。

「何を言っているの。そういう思いがあるのなら、言えばいいことじゃないの。」

咲はちょっとじれったくなって、そう利用者に言ったのであるが、水穂は、その通りだという顔をして咲を見た。

「いえ、ダメですよ。僕は、ただ聞くしか出来ません。発言するのは、其れなりに肩書のある人でないと。」

そこでまた咳き込み始めたので、

「もう横になったほうがいいんじゃありませんか?」

と、利用者に言われてしまい、そうですねと頷いて布団に横になった。

「まあいいわ。もう私、帰ろうかな。」

咲は、今回の訪問は、役に立たなかったかなと思って、帰り支度を始めた。

「あ、そうだ。俺、一寸聞きたいことがあるんですがね。」

と、不意に利用者がそんなことを言う。

「どうしたの?」

咲が聞くと、

「あの、咲さんの先生がやってらっしゃる教室って、誰でも入れるんですかね?」

やぶから棒に何を言うんだと思ったが、一応答えは出さなければならなかった。

「ええ、誰でも入れますよ。よく、お箏教室は、入会に審査があるのではないかと言われるくらい、入りがたいと言われるけどうちの教室はそういう事はないから。」

とりあえず咲はそう言った。

「そうですか、でも楽器だって高いでしょう?」

「いえ、私の教室では、ヤフーオークションで買ったものでもいいことにしていますから、1000円くらいでいいことにしています。」

そう聞かれて咲はありのままの事実を話した。

「それでいい?」

と、再度重ねて言う利用者。

「一体どうしたんです?誰か習ってみたい人でもいるんですか?」

水穂が横になったまま、そう利用者に聞くと、

「そうなんですか。い、いやあねえ。俺の母が、最近ゆったりした邦楽の世界に興味があると言い出したものですから、、、。」

と、利用者は、禿げ頭をかじりながら、そういうのだった。それでは、もしかしてうちの教室に来てくれるのか、と咲も期待の気持ちを寄せる。

そうなったら、自分も、教室が自分の居場所と言ってもらえるような、教室づくりをしなければならないな。やめて行った人たちは、多分、教室を自分の居場所とは思っていなかったのだろう。逆を言えばそこさえつかんでしまえば、生徒さんはつかめる。

「是非お母さんに言ってください。堅苦しい古典のようなものは一切しませんから、気軽な気持ちで来てくれればそれでいいですと。」

「それでいいんですね。」

利用者は、そう念を押した。

「よし、かあちゃんに言ってみようかな。」

「ぜひ、言ってみてください。これ、連絡先です。」

咲はそういって、下村先生の携帯番号を手帳に書き、そのページを破って利用者に渡した。

「下村先生も喜ばれますね。」

そっと、水穂さんに言われて、さらに嬉しくなる咲である。

「ええ、私も、山田流が過去のモノになってしまわない様に、頑張らなきゃね。」

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