第3話

 



 それから間も無くして退職した怜子は、交際していたサラリーマンと結婚をした。それは、母親が逝った後だった。



 ――また、十年が過ぎていた。専業主婦の怜子は、サラリーマンの夫、田中晃たなかあきらと、小学校三年の愛娘、加那かなの三人で多摩市の分譲マンションに住んでいた。


 一円でも安いスーパーのチラシを見て、チャリンコで隣の駅まで買いに行くようなことはしないまでも、それなりに上手に家計を遣り繰りしていた。


「お母さん、ただいまっ」


「あ、お帰り」


 流しから顔を向けた。


「ね、あと三個、お手玉作って」


 ランドセルをソファーに置いた加那が側に来た。


「この間、作ったばっかりじゃない」


 たわしでさつま芋を洗いながら加那を見た。


「ちがうのぉ。せっちゃんがほしいんだって」


 せっちゃんは加那の友達だった。


「分かったわ。何色がいいの?」


「んとね、きいろかオレンジがいいんだって。わたしのがピンクだから」


「じゃあ、作っといてあげる。……小豆あずきあったかな」


「今週中にね」


 そう言って、ランドセルからお手玉を出した。


「一番初めは一の宮~、二は日光のとうしょうぐう~、三は佐倉のそうごろう~……あっ!」


「あー、惜しい」


 お手玉を落とした加那に言った。


「お母さん、やってみて」


「ちょっとだけよ」


 怜子はタオルで手を拭くと、加那が手にした二個と、ソファーにあったもう一個を持った。


「一番初めは一の宮~、二は日光の東照宮~、三は佐倉の宗五郎~、四はまた信濃の善光寺~」


「お母さん、じょうず!」


 三個でお手玉をする怜子に拍手をした。


「ほら、やってごらん」


 加那に二個のお手玉を渡した。


「一番初めは一の宮~、二は日光のとうしょうぐう~、三は佐倉のそうごろう~、四はまた信濃のぜんこうじ~」


 加那は、掴み損ねながらも落とさないでできた。


「上手になったじゃない」


「でも、お母さんのように三個はまだできない」


(! ……)




『うまなったでない』


『けど、怜子ちゃんみたいに三個は、まだできん』


『すぐにできるようになるわちゃ』


『そうかな……』


『そうちゃ、できるようになるわぁちゃ。一番初めは一の宮~、二は日光の東照宮~、三は佐倉の宗五郎~……』



 二十年前の、妙子との似たようなやり取りが甦った怜子は呆然と立ち尽くしていた。


「……お母さん、どうしたの?」


 加那が、見えてる? と言わんばかりに怜子の目の前で手を振った。


「ん? ああ。……なんでもない。三個もすぐにできるようになるわよ」


「ホントに?」


「ええ、ほんとに」



 ――そんな時、一本の電話があった。それは、予想だにしなかった男からの突然の電話だった。


「はい」


「…………」


「もしもし……」


「……あんた、中西怜子さんだろ?」


「!」


 初めて耳にする声の男は、怜子の旧姓を言った。一瞬、警察かとも思ったが、それにしては、物の言い方が乱暴だった。


「フン。かなり驚いているようだな」


「…………」


「ちょっと、会ってもらおうか」


「…………」


「多摩川の土手で」


「!」


「すぐ来なよ。亭主にバラされたくなければ」


 ガチャッ! 電話が切れた。怜子は受話器を持ったまま呆然と佇みながら思った。もう一人殺さなくては、と。



 ――それらしい男は、川縁に腰を下ろして煙草を吹かしていた。その情景は、聖児の時と重なった。二の足を踏みながら、恐る恐る近付いた。


 怜子に気付いた男は、振り向くと急いで立ち上がり、落とした煙草を靴の先で揉み消した。


 四十前後だろうか、ヨレヨレの黒いコートを着た男は薄ら笑いを浮かべながら、下りてくる怜子を待ち構えていた

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