第2話
聖児は、会社が設けた八畳ほどのプレハブを住居とし、他三名と寝起きを共にしていた。
現場に出向く前と現場から帰ってのタイムカードの打刻の都度、浴びせてくる聖児の卑しい視線は、その度に怜子に鳥肌を立たせていた。聖児の視線に入っているというだけで、不愉快で堪らなかった。顔を覆いたいほど、目を合わせたくないほどに嫌だった。
そんな時、何気に聖児のタイムカードを視て、怜子は目を丸くした。直美から聖児の苗字を聞かされた時、〈遠野〉だと勝手に思い込んでいたのだ。
その、“東野聖児”の名前を視た瞬間、十年前の光景が電光石火、怜子の目に映った。
その日、現場から帰って来た聖児は、いつものように意味の判らない視線を怜子に向けると、打刻した。事務所には怜子一人だった。
「ね、今から何か予定ある?」
怜子が気安く声をかけた。
思いも寄らない誘いに驚いた聖児は、瞬時に、エッ? と自分の耳を疑うような顔を向けた。
「……ぃゃ」
「もうすぐ帰れるから、土手の下で待ってて」
「…………」
聖児は狐につままれたような顔を向けていた。間もなく、
「お疲れ!」
他の連中が帰って来た。
「お疲れさまでーす」
怜子はいつもの愛嬌を振り撒いた。
気が付くと、聖児の姿は無かった。
――そこへ行くと、宵闇の川縁に腰を下ろした聖児が煙草を吸っていた。
「お待たせ」
怜子はわざと馴れ馴れしい言い方をした。
振り向いた聖児は、腰を下ろしたままで怜子が側に来るのを待っていた。
怜子は少し間隔を置いて腰を下ろすと、手にした黒いコートを膝の上に載せた。するといきなり、
「……嫌われとるて思とった」
聖児が言った。
(! ……案の定、富山弁だ)
「話したこと無いもんね。……北陸?
「ん? ……ぁぁ」
曖昧な返事をすると、地下足袋の底で煙草の火を揉み消した。
「どこ?」
「え? ……富山」
「えっ! 私も」
怜子は大袈裟に驚いてみせた。
「……どこやけ?」
びくつくような聞き方だった。
「ん? ……
故意に出身地を偽った。
「砺波か……。いいところや」
地名を聞いて安心したのか、緩めた表情を川面の灯に戻した。
「東野さんは?」
「俺ちゃ、……富山市内や」
明確にしなかった。
(私、あなたの住んでたとこ知ってるわよ。東野聖児さん)
怜子は腹の中で、そう言った。
「偶然だな、同郷だなんて」
「……ほんとに」
怜子は作り笑いをしながら、聖児の横顔を睨み付けた。
――翌朝、後頭部を強打された聖児の遺体が多摩川の土手で発見された。死因は
逮捕されたのは、聖児と寝起きを共にしていた魚谷卓だった。花札賭博で負けた魚谷が、イカサマだろ? 殺すぞ、この野郎! と聖児に食って掛かるのを見ていた他の二人の証言からだった。
「俺は殺ってませんよ。確かに酔った勢いでイチャモンはつけましたが、殺ったのは俺じゃないっ!」
白いものが交じった無精髭の魚谷が声を荒らげた。
「その時間、土手に居るのを見られているんだよ」
確証を得ている刑事の谷口は強気だった。
「晩飯の後に散歩してただけですよっ!」
訴えるように感情を吐き出す魚谷に耳を貸すこともせず、谷口は煙草の煙を吐いた。
「お前の軍手からは、多摩川のあの殺人現場の土が検出されたんだよ。石を掴んだ時に付いたものだろ?」
「……散歩の時にちょっと寒かったから、作業着のポケットにあった軍手をしたのは確かです。……けど、殺ったのは俺じゃない……」
魚谷は半分諦めたように軍手のことを認めながらも、殺しについては否認し続けた。だが、魚谷には動機がある上に、東野の死亡推定時刻に現場近くに居るのを目撃されている。魚谷の無実を証明できる物は何も無かった。
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