泥のついた定期券

紫 李鳥

第1話

 

 



 その光景は、三十年を経た今でも鮮明に怜子の脳裏に焼き付いていた。




 柿の木が一本ある小さな庭でお手玉をしていた。



 一番初めは一の宮

 二は日光の東照宮とうしょうぐう

 三は佐倉の宗五郎そうごろう

 四はまた信濃の善光寺

 五つ出雲いずも大社おおやしろ

 六つ村々鎮守様ちんじゅさま

 七つ成田の不動様

 八つ八幡の八幡宮はちまんぐう

 九つ高野こうや弘法様こうぼうさま

 十で東京招魂社しょうこんしゃ



 布切れで作ったお手玉には小豆あずきが入っていた。最初は二個から。上手になると三個でやる。


 そこは同級生の妙子の家。


「うまなったでない」


 怜子が褒めた。


「けど、怜子ちゃんみたいに三個は、まだできん」


「すぐにできるようになるわちゃ」


「そうかな……」


「そうちゃ、できるようになるわぁちゃ。一番初めは一の宮~、二は日光の東照宮~、三は佐倉の宗五郎~……」




 妙子が殺された

 小学校五年の時

 下校途中

 殺された




 犯人は挙がらなかった。


 怜子は父親の転勤で故郷を離れた。



 ――十年が過ぎていた。東京の高校を卒業した怜子は、デパートのマネキンや喫茶店のウェイトレスなど二、三回職を変えたが、どれも性に合わず、結局、自宅から程近い多摩川沿いにある建設会社の事務員に落ち着いていた。


「怜子ちゃん、お母さんの具合はどう?」


 社長の妻、直美が、看病やつれの気色が見える怜子を心配した。


「うむ……だいぶ良くなってるけど、まだ心配」


 茶を淹れながら、すっきりしない顔を上げた。


「お医者さんはなんて?」


「過労だろうって」


 直美の机に湯呑みを置いた。


「ありがとう。働き詰めだったんでしょ? お父さんが亡くなってからは」


「ええ。私が中一の時からずっと」


「……そう。お母さん大変だったね。孝行しないとね」


「ええ」


 怜子が笑顔を上げると同時にドアが開いた。


「いやぁ、まいった」


 社長の角田啓行がヘルメットを外しながら困惑した顔で帰って来た。


「お帰りなさい」


 怜子が声をかけた。


「あ、ただいま」


「どうしたの」


 直美が心配そうな顔を向けた。


「豊川が怪我しちまって入院することになった」


 応接間のテーブルにヘルメットを置くと渋い顔をしながら、首にぶら下げたタオルで禿頭の汗を拭った。


「あらぁ、どうしよう。で、どんな具合なの?」


 直美も同じような顔をした。


「ま、怪我は大したことないんだが、精密検査も兼ねて三週間は働けないんだとさ。ありがとう」


 湯呑みを置いた怜子に顔を上げた。


「困ったね、急ぎの仕事だって言うのに」


「ショベル使えるのはアイツぐらいしかいないからな。仕方ない、また募集するか」


 茶を飲んだ。


「仕方ないね。A新聞に電話してみて」


 直美は何度か利用している新聞社の名を言うと、広告料を思ってか、顔を顰めた。


「〈急募〉と〈ショベルカー使える人〉を言うのを忘れないでね」


 受話器を手にしている啓行に念を押した。


「分かってるよ」


「すぐに応募があるといいですね」


 怜子が直美を気遣った。


「一回の募集で決まると安く上がるんだけどね……」


 直美はそう言って出納帳を開いた。



 掲載当日、午前に二本、午後に五本の応募の電話があった。年齢は二十半ば~四十過ぎまで。その中から啓行が採用したのは、ショベルカーがこなせるという、三十一歳の東野聖児だった。


 聖児は筋肉質の浅黒い腕を、捲ったTシャツの袖から覗かせて、威圧的な目を怜子に向けていた。つり目の、その猛禽類もうきんるいのような鋭い視線は怜子の神経を尖らせた。

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