第37話 キャンディリング1

午前5時を少し過ぎたところ、まだ誰も起きてなかった。俺は静かに部屋を出て、シャワーを浴びた。そして、バスルームを少し丁寧に掃除した。シャワーから出て洗濯機を回し、米を研いでジャーのスイッチを入れた。




サークルのメンバーはただ泊まっただけだったが、一人先に帰ったユウナを思うと、引き留めておけば良かったと後悔した。昨日の段階では、ユウナも一人になったほうが気が楽だろうと勝手に考えていたが、これじゃあまるで仲間外れだった。今日は花房が終わったらユウナに連絡を取ってみようと思った。




簡単なサラダを作ろうとして冷蔵庫を開けたりしていると、遠山さんが起きてきた。




「おはようございます。」




「おはよう。」




トイレに行って戻ってくると、手伝うことはあるか聞かれたので、サラダを丸ごとやってもらうことにした。遠山さんは少し抵抗したが、すぐに手を洗って取りかかった。手早かった。家でも色々とやってるなと、思わせる手つきだった。




俺はチーズと玉葱とソーセージでオムレツを作った。六人分なので少し多目に焼いた。遠山さんに褒められた。なので俺も褒め返した。朝から気持ちが良かった。




全員で朝食を食べて、新入生は一旦帰り、ナナと二人で花房を開ける時間まで過ごした。かなり色んな話をした。俺は今日、ユウナに電気をすることを言うと、やめとけ、と言われた。




「好きなら別に止めないけどさ、おまえは好きじゃなかったとしても面倒を見そうだからな。好きじゃない奴のことまで全力になんなくてもいいんだぞ。おまえの悪い癖。ユウナのことは時間置けよ。お互いがしんどくなるぞ。」




そう言われて、何も言えなくなった。












花房を開けた。田嶋さんは今日は来ないが、おそらく俺一人でも十分だ。昨日は午前中は三人で、午後は団体を除けば四、五人いたかどうかというところだった。今日もそれ以上にはならないだろう。俺はカウンター内でグループラインをしながら接客をした。




グループラインは、風紀委員会だった。俺はしばらく学校には行けなかったことを伝えると、活動自体をほぼ誰もやっていなかった。川口さんは講義には出ているが、誰とも関わらなくなったし、中畑くんと佐藤くんと神くんが、一緒に秋葉原に行ったことくらいしか進展はなかった。俺はなんだか可笑しくなった。それで、次の秋葉原には俺もついていくとラインをした。なんにしても、近いうちに対策を考えねばならない。来週集まろうと提案すると、みんなオーケーした。












午後になり、白川組の瀬川組長が挨拶に来た。瀬川は、俺のために小指を差し出した男だ。高齢だが背筋は伸びていて、彫りの深い端正な顔立ちをしていた。




「会長、お世話になりました。」




「瀬川さん、こちらこそありがとうございました。色々と勉強にもなりました。」




「このあと横浜に行きませんか?中華料理を食べましょう。」




そう言われたが、俺はすぐに断った。岡本との付き合いから学んだからだ。ヤクザとはそもそも付き合うなということだ。しかし、瀬川の話はそこで終わらなかった。




「実は、会長にお会いしたいという者がいるのです。」




「どういう方ですか?」




「芸能事務所の社長です。」




「俺にどんな用事ですか?なんとなくはわかりますけど。」




「会長、損はさせません。今日が無理でしたら日を改めます。どうですか?」




押されたら断れないのが俺の悪い癖だ。ナナにも同じようなことを言われたが、このときの俺は好奇心も少し入っていたし、単純に中華街にも遊びに行きたかった。何より、断ってもまた明日も来そうだと思ったのだ。こういう用事は早く済ませるのが一番だ。




「わかりました。ただ、明日も店はあるし、遅くならないうちに帰ります。」




瀬川は頭を下げ、車で待つと言って店の外に出た。俺はしっかり掃除を済ませてから、着替えて瀬川の車に乗った。警備員は帰そうとしたが、着いていくと言ったので、瀬川の車の後をついてきてもらうことにした。意外にも、瀬川の車はプリウスだった。運転手が一人と、助手席にもう一人、後部座席に瀬川と俺が座った。中は、見た目よりもかなり広かった。




千葉北から高速に乗り、たっぷり一時間半かかって横浜に着いた。高速を降りて横浜スタジアムの側を通り、元町の方に進んだ。もう夕方近かった。車は中華街のはずれまで来て、でかいパーキングに停まった。




「少し早いですが食事にしましょう。」




俺は警備員も呼ぼうとしたが、瀬川に断られたため、店の入り口で待つように指示した。この日は、元自衛隊の格闘教官と、日体大の柔道家が来ていた。警備会社の制服を着たいかつい男二人が、店の入り口に立った。それだけで、ただならぬ雰囲気を醸し出していたが、そこにヤクザも加わった。瀬川の運転手と、助手席に座っていた男も、同じく店の入り口に立ったのだ。通行人がチラチラと見た。




俺は瀬川に案内されて、店の二階へ上がった。




「うちはこっちの方にも事務所があるんです。ですがこの辺りは、源藤会の総本部もありますので、道を歩いているヤクザはほぼ源藤会です。」




瀬川は階段を登りながらそう言った。二階はこじんまりとしていた。中華料理の丸テーブルが中央に置かれ、正面に大きな窓、壁際には腰の高さほどの収納があり、その上には上品な食器や花瓶が並んでいる。




そして、テーブルには二人の男が既に座っていた。俺と瀬川が階段を登ると、男たちは立ち上がり、出迎えてくれた。




「会長、ご足労いただきありがとうございました。」




席に案内してくれたのは二十代か三十代の若い男で、口髭に伸ばした髪をわけていて、もう一人は瀬川ほどではないにしても、かなり年齢は上だった。男たちが名刺を差し出した。俺は名刺など持っていないので、とりあえず両手で受け取り、テーブルの上に置いた。




元町芸能プロダクション、代表取締役、瀬川大介


神奈川芸術高等学校、理事長、田中浩三




俺は、瀬川という名前を見て、それから瀬川組長の顔を見て、腰を抜かした。




「会長。私の息子です。」




瀬川は彫りの深い整った顔立ちをしていたが、息子の大介もかなり整った顔をしていた。そして、親子どちらも掘りが深い。ハーフのような甘いマスクをしている。




「すいません。私と会っているところを見られたら、何を言われるかわからないもので。」




瀬川はそう言って頭を下げた。どうやらヤクザの対立に関わるようなことではなさそうだ。店員がお茶を持ってきた。生のジャスミンティーだった。大介は、俺が一口飲むのを待って話し始めた。












「キャンディリングって知っていますか?」




大介は紙に書いたスペルを見せながら、キャンディリングと言った。全く聞いたことのない名前だった。俺は携帯でキャンティリングを検索すると、アクセサリーやお菓子、ゲームアイテム、そんなものが出てきたが、次のページにアイドルグループが出てきた。




「それですね。」




大介は俺の携帯を覗き込んでそう言った。五人組のアイドルグループだった。ただし、高校生か中学生か、メンバーはとにかく若い。




「いくつくらいなんですか?」




「高一と中三、中二です。三月まではみんな中学生でした。」




揃いの衣装を着て踊りを踊りながら歌う少女たちの姿があった。動画の最初の方では、彼女たちの踊りは、お世辞にもうまいとは言えなかった。バラバラの動きをする五人をひたすらカメラは追ったが、ほどなくして五人が真ん中に集まり、一人を中心として一輪の花びらのような体型になったかと思うと、そこから踊りはガラッと変わった。さっきまでが前振りでこっちが本番という感じだった。踊りは激しさを増したが、細かいところまでしっかりと揃っていて、レベルの高さを感じるものだった。




俺は音を切っていたので音楽はわからなかったが、ダンスだけでも相当なものだった。そこから、ライブの様子を撮った動画へのリンクがあったので、そっちも見た。今度は、メンバーが楽器を演奏していた。




「これ、同じメンバーなんですか?」




「そうです。その映像の曲は、プロの作曲家の仮曲なんですけど、それを買い取って自分たちで作詞したものです。ネット上の「ネクストジェネレーション」という投票企画で一位を取りました。」




「仮曲?」




「作曲家が、アーティスト用に作った曲です。この曲はそのプレゼンで落とされた曲で、こっちに回ってきたんです。」




ギター、ベース、ドラム、それにボーカルが二人だった。俺はどんな曲なのか気になり、音を入れた。単純なコード進行に単純なメロディ、力のないボーカル、パンクとポップスの中間のような歌で、聴きやすさでいえば断トツに聴きやすい。何より歌詞がアイドルのものではなかった。




―君の魔法で生まれ変わった毎日


できるよって言ってくれた君に


私は応えられているだろうか


もう泣きたくない


スマホはポケットに閉まって


前を向いて歩くんだ


そして君にロックをプレゼントするね―




「いいんじゃないですか?俺は好きですね。」




「ありがとうございます。」




「それで、どんな話ですか?」




大介と理事長は顔を見合わせた。一瞬の逡巡があったが、大介が説明を始めた。












キャンディリングのメンバーは、不登校を経験して神奈川芸術高等学校に来た。神奈川芸術高校は正式な高等学校ではなく、フリースクールのような位置付けで、音楽や芸術を磨いたり、大学検定などの勉強をする学校で、田中はそこの理事長を務めている。メンバーは、部活動として歌と踊りを始めたが、田中たちではその指導が追い付かず、元町芸能プロダクションに入ることになった。




元町芸能プロダクションでは、演劇や舞台芸術を中心に活動を行っている。ミュージカル俳優も所属し、本格的な公演を開催しているが、一方でキッズクラスへの演劇指導や歌唱指導をしながら事務所の運営をしている。大介はそこの代表を務めている。




キャンディリングの名前をつけたのは大介で、五人が事務所に来たときから付きっきりで面倒を見た。歌の指導者も振り付け師も揃っていたため、事務所が一丸となってキャンディリングを育て上げた。彼女たちは金を払ってレッスンを受け、朝から夜まで自主トレをやり、曲も作った。そしてネットやイベントでライブを重ね、ファンを増やしていった。




「アイドルなので、当然男性ファンが多かったんです。でも、彼女たちが自作の曲を歌うようになってからは、あっという間に同年代の女性ファンが増えました。男性女性、どちらからも指示される異色の存在なんです。」




それはおそらく凄いことなのだろう。大介は言葉に力を込めた。




「ネットで動画を上げる度に再生数は跳ね上がりました。ツイッターでも話題になりました。昔の彼女たちを知っている人からは、誹謗や中傷もありましたが、不登校という背景が却って人気を後押ししました。そして先日、モデルをやっているミルキーというタレントが、彼女たちのファンであることを公言したのです。」




ミルキーの名前は知っていた。ハーフタレントでバラエティー番組で何度も見たことがある。そこからお墨付きをもらったのなら安泰ではないか。




「それは凄いですね。間違いなく売れるじゃないですか。」




「はい。間違いなく成功します。売れる売れないではなく、大きく売れるか普通に売れるのかというレベルなんです。言い方は悪いですが金の卵を産むガチョウです。」




確かに言い方は悪いが、その表現は言い得て妙だ。出せば売れるのだから、卵を産むガチョウそのものだ。




「何か問題でも起こったんですか?」




「はい。引き抜きです。東京のレーベルが我々に移籍の話を持ちかけてきました。まとまった金額を支払うので、キャンディリングはこちらからデビューさせると。」




大介は表情を曇らせた。それまで黙っていた田中理事長も口を開いた。




「事務所だけでなく、彼女たちの親に直接交渉を仕掛けてきたのです。」




大介は黙って頷いた。瀬川も眉間に皺が寄った。




「親は、元町芸能プロダクションには恩義がある。けど、デビューさせるなら大きなレーベルのほうがノウハウもあるし安心して任せられると思っています。」




「そいつらはいくら払うと言ってきたんですか?」




「彼らが提示したのは一千万円です。」




一千万円が妥当かどうかはわからなかったが、職員の年収二人分くらいか。少ない額ではないだろう。




「彼女たちの気持ちはどうなんですか?」




大介は首を振った。田中理事長が答えた。




「彼女たちは、元町からデビューしたいと言っています。みんな優しい子たちですから。大介さんのことが好きなんです。」




「なら、問題はないですね。」




「ですが、親はすでに移籍するという方向でまとまっています。そしてメンバーはみんな未成年ですので、子どもの意向よりも親の方針が優先されるのは目に見えています。」




大介はキャンディリングを手塩にかけて育て上げた。子どもたちは大介を慕っているが、親はより安定したレーベルからデビューさせたい。それは、どちらの気持ちもわかる気がした。




「それで、俺はなんで呼ばれたんですか?」




「はい。私どもの事務所に出資していただけないでしょうか。今説明した通り、キャンディリングは必ず成功します。出資していただいた分だけの利益は確実に回収します。」




大介は頭を下げた。俺は田中理事長を見たが、田中は、私からもお願いします、と言った。




「あの子たちには元町プロと神奈芸が必要なんです。金を稼ぐことはできるかもしれませんが、まだ子どもです。信頼できる大人が支えてあげないとダメなんです。」




すると、瀬川も大介と一緒に頭を下げた。




「会長、私からもお願いします。この通りです。」




三人から頭を下げられた。俺はもう少し聞いてみることにした。




「具体的にはいくら必要なんですか?」




「十億円です。」




「そんなにですか?」




「スタジオを新設するのと、人件費、あとは広告費です。」




そのくらいするのが普通なのだろうか。だが、さすがに十億は馬鹿げていた。もしこのプロジェクトが溶けても、出資した十億は返っては来ない。大介の懐は何も痛まないばかりか、元町プロダクションには新しいスタジオが残り、俺には赤字が残る。




「事務所の経営は誰がやるんですか?」




「経営は私が行います。コネもありますし、演出のノウハウもあります。広告会社にも繋がりがありますし。」




大介は目に力を込めた。そこまで聞いて、俺の腹は決まった。大介には覚悟が足りていない。今の状態では出資はリスクがでかすぎた。




「大介さん、理事長、瀬川さん。今までの話を聞く限り、出資はできません。」




俺は三人を見てそう言った。三人とも顔色を変えなかった。




「まず、キャンディリングの成功を願うのであれば、移籍させるのが一番いいと思います。そうではなく、利益をあげたいというのであれば見通しが甘いと言わざるを得ません。キャンディリングは生物と同じで、何がきっかけで潰れるかわかりません。所属事務所もマネージメントとしては素人です。俺には、十億の出資に対して、リスクマネージメントが全く見えません。最低限、経営は信頼できる人物に委任するべきです。」




大介は項垂れた。誰もが無言になった。




「キャンディリングは頑張っている。大介さんもそれを全力でサポートしている。それは認めるべきところだと思いますが、たた頑張っているだけでは学校の部活動と一緒です。十億の価値はないです。というより、大介さんが犠牲にするものがないですよね。俺は大介さんが、出資ではなく十億貸してくれ、というのであれば考えます。そこまでの覚悟はありますか?」




大介は俺の目を見た。そして「覚悟はあります。」と言った。




「覚悟があるのであれば貸します。ただし、思ったような利益をあがらなかったとしても、十億は返済してもらいます。そのときには事務所や土地、所属事務所の役者や利権、根こそぎ持っていきますよ。」




大介は何も言わなかった。言えなかったのだと思う。やはりリスクを負う覚悟がないのだ。




「そこまでではないようですね。リスクを負う覚悟ができたら、もう一回話を持ってきてください。そのときにはこっちも力は貸しますから。」




俺は瀬川の顔を見た。瀬川は俺を見て頷いた。




「会長ありがとうございます。こいつも勉強になったと思います。私からもよく言っておきますので。今日のところは私に免じて勘弁してやってください。」




「わかりました。瀬川さんには借りもあります。じゃあ、俺はこれで。」




俺は席を立った。




「待ってください!せめて、ライブを観てもらえませんか?」




「ライブ?」




「土用の夜に、みなとみらいにあるホールでライブをやるんです。ぜひ観てください!」




大介は俺にチケットを手渡そうとしたが、瀬川に頭を叩かれた。




「会長、チケットなんかなくても入れるように手配しておきます。当日はお迎えに上がりますので。是非見てやっていただけませんか?」




瀬川はそう言った。観るだけなら構わない。俺は了承し、店の階段を降りた。












外は暗くなっていた。瀬川とは別れ、俺は警備員二名と適当な店に入った。そしてそこで三人で死ぬほど食べた。家に帰ったのは一時を過ぎた頃で、車の中で寝ていた俺は目が冴えて眠れなくなり、パソコンを立ち上げてキャンディリングを検索した。掲示板やツイッター、5ちゃんねる、色々と見たが、確かに彼女たちは人気があった。可愛いだけのアイドルではなく、歌も踊りも本格的で、歌詞が心に染みる、そんな意見がたくさんあった。一方で、心ない中傷もあった。彼女たちの過去のことについてだ。ツイッターにはかなり具体的な中傷もあった。そのツイートを辿ってみると、おそらく本物のようだった。




「ベースのマイは児童ポルノに出てた」




ツイートと一緒に、際どい水着を着た少女が、バランスボールに座っている画像が貼られていた。「妹の秘密」というタイトルがついていた。

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