第36話 ヤクザラスト

体調が安定したので、医師から退院の許可が降りた。家に帰ってシャワーを浴びて、そのまま花房に向かった。




今日は午後から、高齢者施設の利用者が花房を訪れる。飲み物しか出せないと、予め連絡はしてあるが、それでも週に一度の散歩とティータイムは貴重なものらしく、よろしくお願いします、と言われた。そのため、何があっても店は開けなければならなかった。人との約束は、ときに人間にとんでもない力を発揮させることがある。精神的に大きなスランプに陥っていたが、ある意味、花房のお陰で社会に復帰できた感じだ。




入院中は誰も来なかった。お見舞いに行くと言ってくれた人は何人かいたが、それらは全て断った。下痢が酷かったというのもあるが、とにかく休んでリフレッシュしたかったからだ。結果として良いタイミングで休暇を取れた。




連絡をくれた人の中に、ユウナの名前があった。俺はホッとした。退院して一番に電話をしたのはユウナだった。ユウナは俺に謝った。そして、それ以上のことは何も言わなかった。その謝罪がどういう謝罪なのかはわからないが、ちゃんと連絡を取れたことが一歩前進だ。












この日、花房を開けたのは午前十時だった。田嶋さんは今日も手伝いに来た。ハナさんは元気でいるようだ。俺は田嶋さんに礼を言ったが、田嶋さんは恐縮した。それどころか、俺の家が金持ちだとハナさんに洩らしたことを謝罪してきた。別に隠していたつもりはないが、田嶋さんは、大それた恥ずべきことをしでかしたかのように振る舞った。




俺はこの日、入院中に考えていたことを実行した。店内の仕事は全て田嶋さんに任せ、俺は外に出て客を呼び込んだのだ。呼び込んだと言っても、鉢植えに水をやりながら挨拶をして、立ち止まって挨拶を返されたら「良ければコーヒーでもどうですか?」と誘う程度だ。この日は一人も来なかったが、俺は手応えを感じていた。挨拶をされたら道行く人が笑顔になった。特に老人は必ず挨拶を返してくれた。これを続ければ、花房にとって何かしらのプラスになるかもしれない。あくまで挨拶をメインに、俺は通りに立ち続けた。




そして午後、いよいよ団体客が来た。田嶋さんが、水を得た魚のように躍動した。この日も若い男性職員が連れてきたグループは元気がなかったが、田嶋さんの力によってみるみる顔に笑顔が戻った。田嶋さんは、必ず背中をさすりながら話を聞く。そして一人ひとりを蔑ろにしない。俺は若い男に見習ってほしかったが、今日も男の顔には疲労が滲み出ていた。




俺もホールに出た。カウンターにいてもやることがないからだ。女性の一人が、俺のことを覚えていてくれた。俺はわざとらしく驚き、そして笑顔を振り撒いた。












団体客は満足して帰っていった。これからまた一週間施設に籠ることを考えると、花房の役割というのは大きいのだと感じた。今日、店を開けて本当に良かった。




時刻は四時を回ったところで、田嶋さんを先に帰して店仕舞いをしていると、ヒロコが一人で店に来た。




「一樹くん、もう大丈夫なの?」




ヒロコは席には座らずに、俺に話しかけてきた。コーヒーを飲みに来たわけではなさそうだった。俺は食器を片付けながら、とりあえず飲み会のことを謝った。




「大丈夫だよ。新入生もちゃんと来てくれたし。」




「本当?何人来たの?」




「木下くんも入れて四人だよ。」




「男?女?」




「気になるでしょ。」




「うん。」




「あのね、今日料理研究会だけで飲み会するの。一樹くん来てね。」




ヒロコは俺を飲み会に誘った。




「何時から?」




「一樹くんが終わったらすぐだよ。もうみんな集まってるから。」




「本当に?わかった。今すぐ片付けるから。」




食器を洗って、店内の清掃をした。テーブルに洗剤を吹き掛けて磨き、ゴミを出した。あとは明日やろうと思い、店の電気を消して鍵をかけた。ヒロコは外で待っていてくれた。俺は警備員を帰して、ヒロコのあとに続いた。












俺たちは、俺のアパートのある東千葉駅まで戻り、そこから栄町の方に向かった。この辺りは風俗街だ。その真ん中にある、雑居ビルにヒロコは入っていった。




「本当にここなのか?」




「大丈夫。私を信じて。」




多分、俺もヒロコもあのときのことを思い出していた。ただ、今はサークルのことで動いているし、こんな街中で何かをされることもないだろうと思うことにした。




エレベーターを五階で降りると、すぐに店があった。薄暗く、照明にはブルーライトが多用され、青い光で顔色もわかんなくなるような店だ。英語のヒップホップが大音量で流れていた。カウンターが数席と、テーブルが二つ、奥にはでかいボックス席が二つあった。そのうちの一つに、ナナとユウナがいた。そして新入生と思われる女子四人が座っていた。よく見ると、女の一人は木下くんだった。




俺が行くと、ナナがマイクで盛り上げた。新入生たちは俺に挨拶をしてきた。俺も頭を下げながらボックスに入ると、ナナに手を引かれ、ユウナの隣に座らせられた。




その瞬間に、うるさいと思っていた音楽が止まり、普通の照明が点いて店内が明るくなった。他に客はいなかった。ナナが立ち上がったままマイクで進行を始めた。




「じゃあ、主役が来たから乾杯すっか。一樹のビール取って。」




カウンターを拭いていた、赤い髪の毛をした女性店員がビールを持ってきた。俺は会釈をして受け取ったが、その店員がカウンターに戻るときに、思わず二度見してしまった。店員の服装は、上が白いワイシャツに蝶ネクタイで、腰から黒いエプロンをしていて、俺の花房の格好とほとんど変わらないものだったが、後ろ姿はズボンを履いていなかった。黒いティーバックのパンツに、尻も太ももも剥き出しだったのだ。黒いピンヒールのせいか、足がかなり長く見えた。




「一樹、おまえパンツ見すぎ!」




ナナがマイクでそう言って、女性店員の腕を掴んで自分のほうに引き寄せた。




「なにこの店。」




「ナナのバイト先。」




俺がユウナに聞くと、ユウナはかなり不機嫌な表情を見せた。新入生は苦笑いをしながらナナたちを見た。




「つーか、紹介するわ。こいつが一樹。おまえらが見たこともない金持ち。ま、色々あって今は失恋中だから、狙うなら今だぞ。おまえらどうせ彼氏いねえべ?うちもいねえ。うちらみんな一樹のこと狙ってんだわ。おまえらも狙うなら覚悟して狙えよ。うちらにバレたらこの店で働かせるぞ。」




ヒロコは手を叩いて笑った。新入生にもさざ波のような笑いが起きた。ナナは挑発するような顔でこっちを見ながらマイクで喋った。




ナナの掛け声で乾杯すると、さっきの女性店員が次々に大皿を運んできた。パスタ、ピザ、チキン、ポテト、サラダ、パン、フルーツもあった。俺はカウンターに戻る女性店員の尻を、ついもう一回見てしまった。スラッとした足に、形のいい尻だった。カウンターに戻ったその女性店員と目があった。こっちを見て微笑んでいた。




ハッと横を見ると、ユウナが無言で食べ物を皿に取っていた。パスタ、ピザ、チキン、ポテト、皿からはみ出るんじゃないかというくらい豪快に盛り付け、俺の前に無造作に置いた。そして自分の皿にもサラダを取り、無言で食べ始めた。












「じゃあ、新歓来なかった奴から挨拶と自己紹介して。」




俺がマイクを持とうと立ち上がりかけたとき、ナナはマイクを新入生に回した。マイクを渡された女は立ち上がり、マイクを両手で持ちながら挨拶を始めた。




「諏訪さやかです。友だちに誘われて来ました。これからよろしくお願いします。」




諏訪と名乗った女子は、頭を下げて座ろうとした。




「おい、質問あるからちょっと立ってろ。じゃあヒロコ。」




「諏訪さんは、彼氏いますか?」




「いません。」




諏訪さんは蚊の鳴くような声で答えた。ヒロコは悪のりした。




「一樹くんのことはどう思いますか?」




「優しそうだなって思います。」




「おい、一樹!飲め」




ナナの掛け声で、俺は半分残っていたビールを流し込んだ。




「次、木下。」




木下くんは戸惑ったが、すぐに思い付いたのかマイクを受け取った。




「僕のことはどう思いますか?」




「いや、私より可愛いです。」




新入生の中で笑いが起きた。良かった。変な空間に放り込まれたが、彼女たちはちゃんと笑えていた。俺は少しナナを恨んだが、案外新歓コンパも下ネタが多かったのかもしれない。ナナたちは特別エロいのだと思っていたが、普通の女も案外みんなエロには耐性があるのかもしれない。




「オッケー。諏訪っちは危ねえな。一樹も木下もムッツリだから、おまえモテるわ。可愛い系だもんな。」




諏訪さんは、顔の前で手を激しく振った。笑顔だった。




「諏訪っち、一樹に手を出したらティーバックだかんな。」




諏訪さんは、今度は何度も頷いて、指でオーケーサインを作った。




「じゃあ次、一樹だ。自己紹介。おい、ビール!」




ナナは親父のようにビールを注文した。さっきの女性店員とは別の女性の店員がビールを運んできた。こっちの女性は、ティーバックではなく、白いフルバックのパンツだった。ただし、透けていて尻の割れ目が見えていた。




「こんにちは。二年の神谷一樹です。僕も今年から入りました。料理は好きで、家でもよくやります。僕は、ホリにも入っています。あと、風紀委員会っていう集まりを作りました。大学全体で、講義がうるさくならないような活動をしています。まだ具体的にはあまり動けていないんですけど、皆さんも協力してください。よろしくお願いします。」




頭を下げると、拍手が起こった。




「おし、じゃあ一樹に質問だ。まず、ヒロコ。」




「えっと、一樹くん、おっぱいは大きいのと小さいのどっちが好きですか?」




「おい、ふざけた質問すんなよ!おっぱいは大きいほうが好きだけど!」




笑いが起きた。俺にはこれが限界だった。ヒロコは重ねて質問してきた。




「木下くんのおっぱい、どう思いますか?」




俺は木下くんの胸を見た。木下くんは、黄色いフレアスカートを履いていて、上は白の長袖のワンピースだったが、そこに膨らみがあったのだ。




「おまえ、ブラジャー買ったのか?」




「はい。」




「いや、待てって。木下くん、今着けてんの?」




俺がそう言うと、木下くんは顔を赤くして微かに下を向いた。




「一樹、変態だなおまえ。想像しただろ。」




ナナがマイクでそう言った。新入生の女子の一人が、木下くんの胸を触った。それがきっかけで、他の新入生や、ヒロコも触り出した。俺はユウナとその様子を眺めた。




「すげえな。」




「おまえの言い方キモいから。」




ユウナは相変わらず不機嫌なままだ。




「じゃあ次の質問。ユウナ。」




ナナはユウナにマイクを渡した。ユウナは嫌な顔をしたが、ちゃんと質問をしてきた。




「体調は大丈夫なのか?」




「うん。」




「ちゃんと食えよ。」




「ありがとう。」




俺は皿のピザを一枚食べた。そしてビールを飲んだ。




「おまえらは夫婦か!」




ナナが突っ込んで、みんな笑った。




「ユウナはこの中で一番女らしいからな。おまえらなんか束で負けるぞ。」




新入生は素直に頷いていた。ナナは新入生を見ながら更に続けた。




「ま、もう別れたんだし関係ないか。でもおまえら聞けよ。女らしさでユウナに負けてたら話になんねえわ。ユウナを超えなきゃ一樹を振り向かせらんねえからよ。」












ナナは、そう言って、最初の赤髪の店員を呼んできた。そして、店員を、新入生四人の間に座らせた。




店員は酒を作って出した。かなりのやり手だった。酒を出し、とにかく相手を褒めた。場はかなり盛り上がっていた。新入生の緊張も次第にとけ始め、俺とヒロコも呼ばれたので、新入生の間に入って座った。俺は諏訪さんと、遠山さんという女子の間に入った。赤髪店員に酒を作ってもらい、みんなで乾杯した。




俺は諏訪さんと遠山さんと話をした。二人ともかなり気を遣えるいい人だった。取っている講義の話や、バイトの話など、大学生らしい話に花を咲かせた。赤髪の店員は俺たちに酒を作り、ヒロコたちの会話に参加した。器用な奴だった。




ヒロコと木下くん、そしてもう一人の新入生の福田さんのほうは、あまり会話が弾んでなかった。俺はそっちにも入ることにした。




「ねえ、木下くんさ、ちょっと胸触ってもいい?」




俺は木下くんに聞いてみた。




「ちょっと、一樹くん、やめなよ。」




ヒロコはそう言ったが、男同士だし何も問題ないはずだ。木下くんは一瞬胸を押さえたが、「いいですよ。」といって俺の目を見た。俺は何気なく触るつもりだったのに、木下くんが構えたので俺も構えてしまった。人差し指で触ろうとすると、なんかエロいと言われてしまった。




俺が触ったのをきっかけに、再び他の女子もみんなで木下くんの胸を触った。そして、赤髪店員が俺の胸板を触ったことをきっかけに、みんな俺の身体も触り始めた。その流れでみんながお互いの胸を触りあった。俺は手は出さなかった。




ナナが割り箸を持ってきた。




「王様ゲームだ!」




「ナナ先輩、まだ六時ですよ!」




ヒロコは呆れたが、ナナは王様ゲームを始めた。王様ゲームという名のキス大会だった。見つめあって何秒、キス何秒、最後にはハグをしながらキスをした。ユウナも混じった。新入生たちは、本当に嫌がらずに最後までやりきった。偉いと思った。




ナナが俺の隣に来た。




「一樹、元気になったか?」




ナナは今までにないほど清々しい顔で俺にそう聞いた。俺はナナに礼を言って、グラスの酒を飲んだ。




「ナナ先輩、こんなとこで働いてるんですか?」




「パンツ見せるだけで時給五千円だぞ。やめれねえって。」




「そんなに貰えるんですか?俺なんて時給七百円ですよ。」




「おめえ、それ最低賃金以下じゃねえか。うける。」




ハナさんに無理は言えない。本当はちゃんとしなければいけないとは思うが。




「良かったな。ユウナも笑ってるわ。」




ユウナは木下くんをしきりにいじっていた。そうなのだ。ユウナが元気になってくれたのが一番良かった。これなら普通に話ができそうだ。




「ナナ先輩ありがとうございます。今度指名します。」




「バイトだっつーの。指名しても時給変わんねえから。おまえ、本当に来るなよ。おまえなんて簡単に騙されるぞ。ここの女は十割増しで可愛く見えるからな。」




確かにそうだ。これ以上ここにいたら恋をしそうだ。












木下くんがカラオケを入れた。女性アイドルグループの曲だ。店員もみんな盛り上がった。みんなでおしぼりを振り回した。




ナナと店員が木下くんに絡んで三人でキスをした。そのあとに他の新入生にも次々と絡んで唇を奪っていった。そのノリで俺のところまで来た。二人は俺のシャツの上から、乳首を触った。俺は耐えられなくなって二人の頭を引き剥がそうと悶えたが、二人ともがっしり掴んで離れなかった。ヒロコに写真を取られた。腹が立ったので、ヒロコを責めるように二人に指示すると、二人はヒロコに向かっていった。




「やだ!やめて!本当にやめて!」




ヒロコは叫んだが、二人に腕を押さえられて服をまくり上げられた。ブラジャーが見えた。その瞬間、俺は立ち上がって大声で止めた。




ユウナもナナたちの頭をひっぱたいた。












店は八時までは自由に使って良かった。俺たちはそのあとも節度を守って酒を楽しみ、解散したあと行きたい人だけで俺の部屋に集合した。ユウナは帰ったが、それ以外は全員来た。ナナはさっきのノリでキスをしまくったが、俺はブラックのコーヒーを出し、みんなの酔いを醒ました。ナナ、ヒロコ、木下くん、諏訪さん、遠山さん、そして福田さんは、ソファーに無理やりつめて座った。




「あのさ、別に先輩に言われたからって付き合わなくてもいいんだよ。」




「無理してないです。ね!今日はすっごく楽しくて、こんな楽しい先輩がいて良かったなって思いました。」




諏訪さんがそう言った。彼女は、遠山さんと福田さんを代表して喋った。本心かどうかはわからないが、本気で嫌だったら帰っているだろう。




テーブルにコーヒーを並べて、キッチンのメタルラックからクッキーの缶を取り出し、皿に移し代えて出した。




「一樹、うちと付き合えよ。」




突然ナナがそう言った。




「え!」




「みんなで付き合うべ。まずうち、明日ヒロコ、明後日は諏訪っち、んで遠山っちと福田っち。木下はどうする?」




「あ、僕も神谷先輩と付き合います。」




「俺も付き合うなら木下くんがいいな。」




俺が言うと、みんなが囃し立てた。












十時頃になって、ヒロコは帰った。ナナは最初から泊まっていくと言っていた。木下くんも泊まりたいと言った。その勢いで、諏訪さんたちは全員泊まっていくことになった。


布団は俺のベッドを含めて三組しかない。




「みんなで寝るべ。」




ナナの提案で、和室で雑魚寝をすることになった。布団を三枚並べ、クッションや座布団を全て和室に集めて、みんな思い思いにタオルケットを被ったりして寝た。夜中の二時くらいに電気を消してから、ナナはずっと俺と手を繋いでいた。すでに誰かの寝息が聞こえていた。ナナは俺の掌に文字を書くように、指を動かしていた。くすぐったくなり、ナナの手を握ると、ナナはゆっくり動いて俺に密着してきた。耳許で、本当に小さな声で、「楽しい」と言った。

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