第35話 ヤクザ10

アパートに戻ったが、俺は迷っていた。時刻は午前二時だが、事は急を要する。電話した方がいいのか、明日にするべきか。いや、したほうがいいだろうと結論付け、ユウナに電話をした。




四コール目でユウナは、弱々しい声で電話に出た。




「一樹、ごめんね。一樹、大変なのに。あたし、一樹に迷惑ばっかりかけてる。」




「迷惑なんてかけてない。俺こそ、ユウナとちゃんと向き合えてなくて。ユウナの話もなんにも聞いてあげられなくて。ごめん。」




「いいの。あたしが悪いの。」




ユウナは泣いていた。ああ、これはきっと、ユウナの心を元に戻すことは簡単にはできないだろう、そんな気がした。俺が悪い。ユウナに時間を割かなかった俺が悪い。なぜユウナと一緒にいてやれなかったのか。




なぜ一緒にいて、ユウナは悪くないと言ってあげられなかったのか。それを今になって悔やんだ。そうするチャンスはいくらでもあった。ハナさんはユウナと一緒にいてやりなさいと言ってくれたし、中原さんだって今日の打ち合わせは止めようと言ってくれた。そういうチャンスを全て投げ出し、自分のやりたいようにやったのは俺だ。これは当然の報いだ。




俺は、別れたくない、と言いかけて、自分にそんな資格はないと思い、何も言えなくなった。何か話さなければいけないことはわかっていたが、思考がフリーズして何も言葉が出てこなくなった。




しばらくお互い無言のまま時間が過ぎた。ユウナは、




「もう、切るね。ちゃんと寝てね。」




と言った。




静かに電話は切れた。




俺は、ベッドに座りながら後ろに倒れ込んだが、壁に頭をぶつけてしまった。思わず舌打ちをした。それが頭をぶつけたことに対してか、それとも別のことに対してかはわからなかった。




明日の講義も、花房も、デモのこともどうでも良くなった。




眠気は全くなくなった。アルコールでも飲みたい気分になったが、部屋から出る気にもなれなかった。眠れないからそのまま起きていようと思い、しばらくベッドの上でぼーっとしていたが、いつの間にか眠ってしまった。










目が覚めてもしばらく何もする気になれなかった。ベッドに入りながら携帯を見ると、中原さんから電話が来ていた。俺は中原さんにすら連絡する気になれなかった。インターネットを開き、適当なまとめサイトを眺めたが、何も頭に入って来なかった。どこにも、トイレにも行きたくないような気持ちだった。




それでも腹が減ったので、ベッドから出て水を飲み、お湯を沸かした。一時間目には、今から出ればまだ間に合う時間だが、今日は花房を開けなければならない。涙ぐむハナさんのことを考えたところで、俺は全てが嫌になった。いつもであれば優先順位をつけて、手当たり次第に行動に移しているところだが、今は何をする気にもなれない。知らずに、ため息をついていた。




お湯が沸いたのでコーヒーを淹れた。グァテマラのイタリアンローストだ。いつだったか花房から買ってきたものだが、ホットよりもアイスにしたほうが俄然合う。俺はホットにしたことを後悔した。それで、一口飲んで排水溝に流した。




何をどう考えても、今日は花房には行かねばならない。花房を開けて、昼を過ぎたら帰ろうと思った。




俺はサッとシャワーを浴びて、花房の服をバッグに入れた。中原さんには電話をしておくかと思い、携帯を見ると、田嶋さんから着信があった。意外に思い、俺はすぐに電話をかけた。




「田嶋さん、昨日はすいませんでした。」




「坊っちゃん、お店は何時に開けますか?今日は私も行きますよ。」




「大丈夫なんですか?」




「奥様は大分具合もいいですし、西さんがいますから。坊っちゃん、何時ですか?」




「今から出るんで、十時です。」




「わかりました。じゃあ、私いま病院なんですけど、十時に行きますからね。」




田嶋さんは勢い良く電話を切った。ありがたかったが、なんだか気が重くなった。




中原さんにも電話をした。内容は、デモ隊への事業説明を誰がするか、ということだった。俺は、行けたら行くと曖昧に答えた。来週の頭から動き出せそうだと言っていた。さすがにそんな早くは想定していなかったが、もちろん早いに越したことはない。なるべく足場をしっかり固めるためにも、やっぱり俺から説明したほうがいいのか、それとも俺は出ないほうがいいのか、その判断も今はつかない。スランプだった。












花房に着くと、既に田嶋さんが待っていた。俺は挨拶をして店を開けた。田嶋さんは自前のエプロンをしていたが、昔からこの店で働いているかと思えるくらい馴染んでいた。俺は田嶋さんと業務の確認をした。食べ物はクッキーセットしか出さない、飲み物は俺が淹れる、二時くらいには店を閉める、そんなところだった。




田嶋さんは、とにかく働いた。一を聞いて十を理解した。俺がやっていたことの二倍は働いた。俺のやることがなくなったくらいだ。




「坊っちゃんは大学もあるし、もっとゆっくり生きていいんですよ。一人で奥様の面倒を看るだけでも大変だったんですから。坊っちゃん、大学生活は今のうちにしか楽しめないんですよ。」




そう言ってくれて、気持ちは楽になったが、やはりモヤモヤしたものは晴れなかった。俺は曖昧な笑顔でごまかした。




ぽつりぽつりと客が入り出したが、意外と誰もハナさんの不在を聞かなかった。店の入り口に黒板で、調理場できない旨を掲示したからか、客自体がいつもの半分以下だった。




十二時をまわったところで、合計六名の来店しかなかった。このままだと二時どころか、一時頃には店を閉めることになりそうだった。そう思っていた矢先に、ヒロコとナナ、それに茶髪の知らない女子が来店した。ヒロコは、珍しく黒いパンツにTシャツを着ていた。




「おーっす。」




「一樹くん、こんにちは。開いてて良かった。」




「神谷先輩、お疲れさまです。」




知らない女子が俺に挨拶をした。俺は開いた口が塞がらなくなった。




「木下くん!?」




女子だと思っていた三人目は、料理研究会の後輩の木下くんだった。木下くんは、体の前で両手を合わせ、ペコリとお辞儀をした。どこからどう見ても女だった。


ライトグリーンのホットパンツに白いレースのカーディガン、インナーも白いTシャツを着ていた。




「可愛いでしょ。私の服なの。」




「おまえ目付きエロいな。」




木下くんは満更でもなさそうな顔をしていた。ナナとヒロコは楽しがっていた。




「朝からずっと部室でメイクしてたの。私、木下くんの服借りちゃった。」




ヒロコが満面の笑みでそう言った。




「髪は?」




「ヒロコが買ってこいって言うからよ、学校行く途中で買ってきたわ。千円。」




そう言って、ナナは木下くんの茶髪のウィッグを外した。




「ちょっと、ナナ先輩!せっかくセットしたんだから!」




ヒロコがナナからウィッグを取り上げ、木下くんに被せた。そして手グシで整えた。木下くんはされるがままだ。




「これから千葉に行くの。」




「その格好で?」




「うん!」




ヒロコはノリノリだった。俺は席に案内し、オーダーを取った。カウンターに戻ると、田嶋さんが、「あの子、男の子なの?」と、目を丸くしていた。




コーヒーを淹れてテーブルに運ぶと、胸の話になっていた。




「木下、ブラジャー着けてみろよ。」




「いや、それはちょっと。」




「ヒロコ、ブラジャー貸せ!」




「そんなの嫌ですよ!木下くん、このあとブラジャー買いに行こっか。」




木下くんは、何度も言うが、満更でもない顔をしていた。コーヒーをテーブルに置きながら、木下くんに「かわいいね」、と言うと、恥ずかしがって下を向いた。ドキッとした。




「一樹、かわいいね、じゃねえだろ。おまえは。心配で来てみればよ。楽しんでんじゃねえよ。」




「そうだよ。一樹くん、聞いたよ。大丈夫?」




ナナとヒロコが俺を見た。俺は、ついに来たか、と思った。ユウナとのことを、絶対に突っ込まれると思っていたのだが、二人とも随分とストレートに聞いてきた。俺は途端に木下くんのことがどうでもよくなった。




「今回はユウナが悪い。九十九パーセントな。おまえは被害者だ。」




ナナはそう言ったが、おそらく本心ではないだろうと思った。




「私は詳しく知らないけど、ユウナ先輩、最近不安定だったから。一樹くん、疲れてるんじゃない?今日大丈夫?来れる?」




ヒロコも、俺を擁護する発言をした。




「今日ってなんだっけ?」




「今日はサークルの新歓コンパだよ。一樹くん、本当に大丈夫?」




俺はすっかり忘れていたが、確かに今日だった。途端に気が重くなった。ユウナと会わないとダメなのも気が重くなるし、飲み会自体もはっきりいって重荷だった。




「今日は行くよ。大丈夫。挨拶もあるしね。」




「一樹、無理すんなって。おまえ来なくても大丈夫だぞ。木下いるから。」




木下くんは、はにかんで笑った。




「ユウナのことは気にすんな。あいつ、いっつもああなんだ。あれでおまえのことは、ちゃんと好きなんだぞ。好き過ぎて別れたくなるんだ。意味わかんねえべ。」




ナナの言葉にハッとした。確かにユウナが、俺のことが好きだというのは知っている。それは確信に近い。好きだから一緒にいたいが、俺は時間を作れない。だから別れたい、俺のために。俺の重荷にならないように。




これは、ユウナときちんと話をしなければならない。きっと、今日がいいタイミングなんだと思う。今の状態だったら、一番辛いのはユウナだ。一刻も早くユウナを楽にさせてあげたい。飲み会が終わったら、ユウナと話そう。そう思うと、自然と前向きな気持ちになれたような気がした。




「ナナ先輩、ありがとうございます。今日、飲み会のあとに話してみます。」




「大丈夫か?今日はやめといたほうがいいんじゃね?」




「いえ、大丈夫です。早いほうがいいと思うんで。」












店を出た三人を見送ると、さっきまで淀んで見えていた空気が、澄みきったような気がした。俺が、本来見ていた世界に戻ってきた感じがした。




やらなければならないことはたくさんある。どれから手をつけていいのかわからないが、とにかく動こう。「動けば変わる。」俺は、そう呟いた。中学のときの先生が教えてくれた言葉だ。とにかく今は前に進もう。




「田嶋さん、今日はこれで終わりにしましょう。」




まだ一時にもなっていなかったが、俺は田嶋さんに提案した。「いいんですか?」と聞かれたが、長く開けているだけが誠意ではない。ここで時間を潰すよりも、俺たちの生活に戻るべきだ。もっとも、水曜の午後はちゃんとやらなければなるまいが。




俺は田嶋さんと明日の打ち合わせをして、店を閉めた。田嶋さんは病院に行くと言ったので、ハナさんのことは任せた。俺は一旦家に帰ることにした。夜に備えてちゃんと寝る、これが多分、今の俺に一番必要なことだ。




しかし、警備員の車で家に帰るタイミングで、岡本組長から電話が来た。話があるからと、星田組の事務所に呼び出されたのだ。俺は警備員に事務所まで送って貰って、あとはアパートで待つように指示をした。呼びつけたのだから、最後はきっちり送らせようと思ったのだ。だが、この判断を俺は悔やむことになる。














星田組の事務所へ行くと、応接間に通された。




「坊っちゃん、佐伯のところ、行きまひょか。」




最初から、岡本の目は座っていた。これはヤバいと思った。俺は行きたくなかったが、警備員の車を既に追い返してしまっていた。岡本が「車!」と叫び、白いジャージのヤクザが車の鍵を用意すると、




「おう、坊っちゃんに怪我させたらかますぞコラ!」




と凄んだ。そして、




「さ、坊っちゃん、行きまひょ。」




と笑顔で言われた。白ジャージのヤクザは、俺を丁寧に先導し、ドアを開けてくれた。俺は断るタイミングを逃してしまった。




車はすぐに発信した。俺たちはベンツに乗り、後ろからアルファードが着いてきた。明らかに警察に話したほうが良かった。せめて、連絡だけでもした方が良い、咄嗟にそう判断した俺は、中原さんとのラインを開き、メッセージを送ることにした。携帯を取り出すと、




「坊っちゃん、他言無用ですわ。」




岡本はそう言って、俺の携帯を自分の服のポケットに入れた。


嫌な汗が流れた。




車は高速に乗って、市原の方に向かった。岡本は段々と饒舌になってきた。ただし、目は笑っていない。手には革製のバトンのような物を握っていた。車内は無音で、岡本の声だけが響く。運転手はそれほどスピードを出してはいなかった。




「わしら、車の保険に入れないんですわ。通帳も持てない。ほんで、仕事は回ってこないようにもなりました。あれもダメこれもダメでヤクザには厳しい世の中ですがね。こんなご時世だからこそね、許せないもんはあるんです。


わしは古い人間だから下の者の面倒はきっちり見ますわ。」




車は蘇我で高速を降りて、十分ほど走ってあるアパートの前で静かに止まった。アルファードは先に着いていた。アルファードに乗っていたと思われるヤクザが、先にアパートの部屋に突入していた。見覚えのある、目付きの鋭い男が二人に脇を挟まれて立っていた。立っていたというよりも、立たされていた。その脇には、髪の毛が乱れた女が泣きながら立っていた。




岡本が車を降りて佐伯に近づいた。そして、何事か言ったかと思うと、持っていた黒革のバトンで佐伯の顎を下から思い切りついた。両脇を男に支えられた佐伯の口から、糸のような血が流れた。岡本はそのままバトンを振り上げ、しなるほどに叩き下ろした。佐伯の首が不自然に垂れ下がった。岡本は両脇の男たちに指示を出し、ベンツに戻ってきた。




「お待たせしました。戻りまひょ。」












車の中で、岡本は何件か電話をしていた。もう俺の携帯は返してくれたので、俺は今度こそ中原さんにラインをした。




岡本の事務所にいる。


佐伯が岡本に捕まった。


警察呼んでください。




車は事務所の正面に止まった。アルファードから佐伯が下ろされた。今度は自分で歩いていた。佐伯は前後を囲まれながら事務所の中に入り、部屋の中央で正座をする形になった。岡本の尋問が始まった。




「おまえが外人に依頼したんか?」




「してないです。」




その瞬間にさっきのバトンが振り下ろされた。佐伯の顔が、すごい速さで横にずれた。顔を押さえながら床に倒れたが、すぐに起こされた。




「自分、やったこと全部話しや。」




「知らないっす。」




今度は佐伯の脇腹に、バトンが突き立てられた。佐伯の顔が苦悶に歪み、胃液を吐いた。あばらが折れただけでなく、内蔵にも届いたかもしれなかった。




俺は他の組員を見たが、運転手をしていた若い組員は顔を背けていた。脇腹を突かれた佐伯は、既に泣いていた。




「おどれ何したかわかっとるんかコラ!」




佐伯の涙を見て、岡本は手を早めた。横顔をバトンで殴り、靴の爪先で腹を蹴った。何度も何度も殴り、蹴った。




佐伯はすぐに動かなくなった。岡本は水を持ってこさせ、佐伯の顔にかけた。すると佐伯は、映画のように息を吹き返した。顔は腫れて起き上がれなかったが、確かに、もう勘弁してください、と言った。












そのとき、警察官が事務所に入ってきた。最初に二名、すぐにあとから数名が続いた。黒田さんもいた。外にはパトカーが何台も止まっている。




「なんだおい、警察は関係ねえだろ!」




若い組員が声をあげたが、警察は構わずに、重要参考人として佐伯を連行した。




「坊っちゃん、ご無事で何よりです。」




黒田さんがそう言った。岡本は物凄い剣幕で悪態をついたが、黒田さんはそれに一瞥をくれ、俺と一緒に車に戻った。












車に乗った瞬間に、一気に胃が痛くなった。俺は黒田さんに胃痛を訴え、病院に連れていってもらうと、急性胃腸炎と診断され、入院することになった。一日か二日で退院できるとのことだったが、人生でたった二度の入院を、僅か一月の間に経験するとは思わなかった。




新歓コンパにはもちろん出なかったが、ナナや尾見くんには呆れられた。「また入院かよ。」今度は誰もお見舞いに来てはくれなかった。俺は煩わしいことを全て忘れてとにかく寝て過ごした。人生におけるスランプだった。

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