第16話 失踪12(修正済)
俺は迂闊だった。ヒロコが胡散臭いことなど初めからわかっていた。ヒロコの素直さ、マコトへの思い、そして俺への興味、すべてに騙されていた。
顔を上げた先には数人の男たちがいた。後ろにもだ。俺は咄嗟に後ろを振り向いたが、その瞬間にビールケースが飛んで来て腹にヒットし、よろめいた隙に頭を蹴られた。顔の左半分に蹴りが入った。俺はなんとか持ちこたえたが目が開かず、後ろから組まれてその場に倒れた。そこからはひたすら蹴られた。頭を手で覆って体を丸めたが、背中に爪先がまともに入り、のけ反るくらい激痛が走り、思わず体を伸ばした。その瞬間に腹部に強烈な蹴りが入った。胃の中のものが出て呼吸が止まった。そこで暴行は一旦止まった。
ヒロコ、と言おうとして、喋れないことに気づいた。喋るどころか呼吸する度に胸が圧迫された。尻と背中が強烈に痛んだ。自然とうつ伏せになった。呼吸は全く整わなかった。息が苦しく、小さく短い呼吸を繰り返した。口の中が血とどぶの味になった。唾が吐き付けられた。起き上がろうと少し顔を上げた瞬間に、尻を蹴られた。あまりの激痛に、再び吐いた。
「おまえが適当なことを喋ったせいで俺たち全員パクられたんだけど」
俺の息が整うのを待って、誰かがそう言った。そして俺の背中を踏みつけた。ぐうの音も出なかった。呼吸が苦しくなり、背中に激痛が走ったが、動くこともできなかった。俺は歯を食い縛りながら静かに呼吸を整え、次の言葉を待った。ふと、背中が軽くなったと思ったら、男たちは、俺のサンローランのパンツのポケットを探り、携帯と財布を取り出した。俺は腕を動かすことすらままならず、ひたすら痛みに耐えていた。
「…ヒロコは……?」
辛うじてそう口にした瞬間に、男が足を蹴り上げるのが目に入った。俺は咄嗟に目を瞑ったが、男の蹴りが綺麗に顔に入った。痛みとともに、すぐに鼻から血が溢れ出た。血は、なぜか喉にも降りてきて、俺は口から大量の血を吐き出した。
「警察に言ったら次は殺すから」
その言葉を最後に、男たちは立ち去った。路地裏の、一瞬の出来事だった。俺はしばらく起き上がることすらできなかった。呼吸をする度に胸部が痛んだが、次第にそれには慣れた。そして右の腕が動くようになり、俺はなんとか摺り這いのまま近くの壁まで行き、壁に手をつきながら立ち上がった。そして最初の路地、すなわち焼肉屋の前に出た。壁から手を離すと前のめりに転がってしまい、そのまま地面に倒れたが、周りが急に慌ただしくなるのを感じた。誰かが俺に気づき、声をかけてくれた。安心し切ったのか、そのタイミングで俺は生まれて初めて気を失った。
俺はずっと中原さんの名前を呼んだが、あれは夢だったかもしれない。でも、気づいたら中原さんが俺の顔を覗き込んでいた。俺は中原さんに微笑んだ。そして猛烈な眠気に襲われて、再び眠りについた。
次に目を覚ますと、真っ暗な中、複数の人が俺に何かを語りかけていた。指を動かせ、足の指を動かせ、眼球を動かせ、俺はそれらに全部答えた。答えなければ蹴られると思ったからだ。複数の声のうちの一人が「大丈夫ですよ…」と言った気がした。俺はそれで、そこにいるのはあいつらじゃないとわかった。突然呼吸が苦しくなった。思うように息を吸えず、体勢を変えようと思ったが足と手の指以外は上手く動かせなく、声も出なくなった。俺は死を覚悟した。そしてまた意識がなくなった。
4月19日(木)
次に目を覚ますとベッドに寝ていた。ただし、俺の体には複数の管がついていた。鼻、両腕、首、そして尿道。病院の個室だった。起き上がろうとしたが上手くいかなかった。すぐに看護師がやって来て、問診を始めた。俺はなんとなく状況を飲み込みつつあった。
「今、先生を呼びます」
出ていこうとした看護師を呼び止め、日付と場所を聞いた。
「四月十九日の木曜日ですよ。朝の五時です。場所は神谷記念病院です。」
実家の向かいにある個人病院だった。しばらくして若いドクターが来た。
「ご気分はいかがでしょうか?」
「あ、はい。クリアです」
「良かったです。手術は終わりました。外傷によって腎機能に障害が出ていたのですが、切開して縫合しています。数週間は絶対安静です。ご不便をお掛けしますがなんでも仰ってください。」
「わかりました」
ベッドサイドは医療器具しかない。心電図を測る機械の規則正しい音を聞くうちに、俺は再び眠ってしまった。
「一樹!」
尾見くんとユウナとナナ、それに中原さんが俺のベッドの周りにいた。ドアの近くの椅子には、施設に入った祖母も来ていた。祖母の入居する施設と、この神谷記念病院は繋がっているのだ。俺は咄嗟にそのことを考えていた。
「おばあちゃん!」
みんな俺を心配してきてくれたことはわかった。嬉しくて涙が出た。
「マジで焦ったぞおまえ!」
「一樹バカなにやってんの!」
「一樹…」
一斉に喋られたが心地よかった。頭はまだ回っていないみたいだ。中原さんに支えられて、祖母が俺の顔をのぞき込んだ。
「ご苦労様です」
祖母は俺の手を取っ手くれた。温かかった。俺は自然と泣いてしまった。みんなありがとう、と言ったつもりだったが、どこまでちゃんと言えたかはわからなかった。
「一樹、話せるのか?」
「うん」
「何があったのよ?」
尾見くんが聞いてきたので俺は思い出しながらゆっくり答えた。ヒロコと待ち合わせたビルのこと、男たちに暴行を受けたこと、気を失ったこと、気づいたらここにいたこと。
「なにそれ!ひっでえな!」
「ヒロコのダチかよ!あいつマジで許せねえ!」
ナナとユウナは怒りをあらわにした。
「友だちかどうかはわかりません。ヒロコもやられたかもしれない」
「昨日ヒロコ見た?」
「俺は見てないです」
尾見くんが答えた。
「あたし電話するわ」
ユウナが外に出ようとしたら、中原さんが静かに首を振って止めた。
「おじさん…」
「連絡は無用です。皆さんもヒロコさんのことは他言無用でお願いします」
「でも」
「お願いします」
ユウナは携帯をしまおうとして、急に「写真撮るか」と言った。「ひでえ顔だな」といいながら、ばあちゃんも入って全員で写真を撮った。そしてユウナは俺のおしっこの管を見て、
「おまえ、ちょっとちんこ見せろよ」
と突然言った。
「やめなよ。頭おかしいんじゃないの?」
と尾見くんが止めた。
「冗談だろ!」
「ちんことか言う女の人初めて」
尾見くんはユウナをまじまじと見つめた。うるさくなってきたので、中原さんは皆を外に出した。俺は全員に礼を言った。
五分ほどすると中原さんだけが戻ってきた。
「坊っちゃん、少しよろしいですか?」
「うん」
「遅くなりましたが、ヒロコさんの身元です。」
中原さんは携帯を見ながら言った。
「櫻田寛子、19才、住所は…、」
あの場所にヒロコはいなかった。しかし、俺が男たちに囲まれているのを遠巻きに眺めていたのかもしれない。今となってはわからないが、ヒロコに、あの場所に誘われたのは確実だ。そこまで考えたとき、携帯と財布を抜かれたのを思い出した。
「坊っちゃん、どうされましたか?」
「俺、携帯と…」
「ご心配無用です。携帯会社とカード会社には手続き済みです」
「ありがとうございます。続けてください」
「はい。ちなみにヒロコの父親は櫻田基寛、千葉四区の衆議院議員です。」
「あれ?その人って」
「以前、坊っちゃんに面会を求めてきた人物です」
「連休明けにアポを取ってる人ですか?」
「はい」
ヒロコは最後のラインで俺に聞いた。「今日のこと誰かに言った?」あれは、つまりこういうことだ。後で携帯を回収すれば、決して自分まで足がつかないからだ。それでいて俺に恐怖を負わせ、それとなく自分がやったのだと仄めかすためだ。汚いやり口だと思った。俺が警察に話したらなんと言うつもりなのか。自分も脅された、そのくらいの嘘はつくかもしれない。
「櫻田さん、今から呼び出せます?」
「今すぐにですか?」
「うん。娘と一緒に」
「かしこまりました。すぐに」
中原さんは俺の気持ちを察してくれたのか、すぐに病室を出た。俺は目を閉じて色々と考えているうちに寝てしまった。
次に目を開けると、ヒロコと見知らぬ男性がいた。櫻田基寛に違いない。ヒロコが心配そうな顔でこっちを見ていた。
「一樹くん、大丈夫だった?」
「坊っちゃん、お初にお目にかかります。櫻田でございます。この度は心からお見舞い申し上げます」
櫻田は、親子揃って頭を下げた。部屋には中原さんの他に男が二名いる。警察だ。
「ヒロコ、怪我は?」
「私?私は怪我なんてしてないよ」
「あの男たちはどこに行った?」
「え?私は知らないよ」
「俺と、あそこで待ち合わせたよな」
そう言った瞬間、櫻田基寛の顔が歪んだ。ヒロコは悲痛そうな表情を見せながら首を横に振った。
「待ち合わせなんかしていない」
「ヒロコ、本当は知ってるんじゃないのか?」
「本当に知らないの!」
ヒロコの目が一瞬泳いだ。
「俺を襲ったのはグレイのパーカーを着た奴らだ。俺は伊勢田って奴に直接聞いたんだけど、おまえが亀井って奴に金渡してたってこととか、ダストって奴らとつながってることとか、色々喋ってたぞ」
櫻田はヒロコを見た。
「私は知らないわそんなこと!一樹くん、やめてよ」
「櫻田さん」
「はい!」
「俺は暴行を受けた。櫻田さんの娘さんと待ち合わせた場所で。夜の九時だ。待ち合わせ場所にヒロコは来なかった。そこを襲われた。俺だけがやられた。一方的に。でもその犯人のことを、ヒロコは何も知らないみたいなんだ。こんなことあり得るのか」
俺はヒロコを顎で示した。櫻田はヒロコを見ながら手に力を込めて震えている。
「一樹くん、私は本当に知らないの!信じてお父さん!」
「ヒロコ!本当のことを言え!おまえ、この方がどなたかわかっているのか!」
櫻田はヒロコの頭を音が出るくらい叩いた。
「ヒロコ、おまえが知ってても知らなくても、もう関係ないんだ。中原さん、千葉四区はうちの支援がなくても当確できるのか?」
「何を仰いますか。千葉四区は神谷のものでございます。坊っちゃんのものなのです」
櫻田は直立不動で聞いている。
「神谷の子会社や孫会社でどれだけのものかご存知ですかな?なぜ先代が大型老人ホームを船橋に作ったのかおわかりですかな?先生がなぜ今の地位にいられるのか」
「当然存じております!」
「櫻田さん、俺をやった奴ら、全員ここに連れてきてくれ。それでうちは今後も変わりなく先生を応援する。連れてこなかったら俺は与党本部に行く。神谷は一生野党のスポンサーになると明言するぞ」
「坊っちゃん、マスコミに公表するのもお忘れなきよう」
「申し訳ございませんでした!」
「連れて来れるのか?」
「できます!必ず連れてまいります!」
「じゃあもう行っていいです。明日の昼までに来なかったら櫻田さんに未来はないです。俺たちはあなたと事を構えるつもりはないんだ。子どもの面倒くらいちゃんと見ろよ」
櫻田はドアの前に立ち、ヒロコと並んだ。そしてヒロコの頭を押さえつけて無理やり礼をさせ、自身も頭を下げた。警察の一人があとに続いた。俺は中原さんに目で合図した。中原さんは俺を見て力強く頷いた。
二名いた警察のもう一人が、『ダスト』に対する車両盗難事件での任意同行のことを教えてくれた。犯人に繋がる決定打がなかったこともそのとき知った。
「つまり、俺はそいつらの恨みを買ったわけですよね。伊勢田やヒロコあたりから情報がいって」
「かもしれません」
「でも、あのとき、伊勢田って奴は自分から喋っていました。車を盗んだのは自分たちの誰かだって」
「そう聞いています。仲間の手前嘘をついたのかもしれません。ただ、どちらにしても犯人は未だに不明です。主だったメンバーは全員事情聴取をしたのですが、全員シロでした。それが濡れ衣だと思われたかもしれません」
「そうかもしれないですね」
「ちなみに、襲撃犯はやはりこの格好でしたか?」
そう言って、警官は、iPadを操作して、車両盗難時の防犯カメラの映像を見せてくれた。俺が尾見くんと一緒に見た映像だった。朝のワイドショーで流れていた、パーカーの男が、機材を使って車の鍵を開け、エンジンをかける映像だった。
「そうですね。このパーカーの奴らです。でも、あいつらは絶対にヒロコの知り合い…、」
そこまで言って俺は絶句した。画面にとんでもないものを見つけてしまったのだ。
「どうかされましたか?」
警官の眼孔がするどく光った。中原さんも俺の異変に気づいた。俺は画面を指差した。
「この靴、見えます?」
警官と中原さんは画面を覗き込んだ。
「アディダス、ですかね。小文字の『a』、いや、『マル』かな。」
警官が呟いたが、中原さんはそれには何も言わない。犯人の男が、家の玄関に機械を当てているシーン、これが最も防犯カメラに近づき、なおかつ靴の模様まで見てとれるシーンだった。横から見た靴はローカットのスニーカーで、サイドに白地に黒いマルのような模様が入っていた。もちろん防犯カメラは白黒だから、それが本当は何色なのかはわからないはずだ。だが、俺にはそれが白と黒だということがわかった。なぜなら、俺はその靴を最近見ていたからだ。マルのような模様はガンチーニと呼ばれるものだ。これは留め金を意味するイタリア語で、サルヴァトーレ・フェラガモの代表的なデザインである。フェラガモのスニーカーを履いていた男を、俺は知っていた。マコトだ。
警官は、俺の話を注意深く聞き、丁寧にメモを取った。マコトが同じスニーカーを履いていたこと、マコトは先週の金曜日から姿が見えないことなどだ。すべて話し終え、中原さんの顔を見ると、無言で頷いてくれた。他に話し忘れていることはなさそうだった。警官は俺に礼を言った。
「中原さん、もしヒロコが逮捕になったら名前は出ますか?」
「未成年ですので出ないでしょう。ただ、一連の内容が漏れたら櫻田の政治生命は危ないでしょう」
俺は少し考え、警官に妥協案を提示した。
「あの、この件、ヒロコには俺の方から罪を償わせるってのはどうですか?もちろん直接暴行した奴らは差し出します」
「わかりました。ご協力感謝いたします!」
警察にしてみれば、それはおそらく不本意な結果だろう。だが、櫻田を失うのは惜しいと思ったのだ。櫻田には貸しができたはずだ。これから精一杯利用させてもらうことにする。
すでに夕方になっていた。食事は病院の味気ないものだと勝手に思い込んでいたが、目の前でステーキが焼かれた。アルコールもあった。
「坊っちゃん、少しなら構わないそうです。すべて櫻田からの志です」
「中原さん、もし櫻田が犯人を連れて来られなくても、与党から野党に鞍替えはしません。俺は今の政権を応援したいし、連れてこれなかったら正直困ります」
「坊っちゃんがお決めください。ただ、櫻田の代わりを要求することはできますな。坊っちゃん、今後、判断で迷うときにはなんなりとご相談くたさい。大きなことほど、思い付きでなく仕込みが肝心です。私でなくとも、その道に強いものはおりますからな」
「うん。今回は突っ走りすぎた。反省します」
俺は肉を食べ、酒を飲んだ。病院には似合わないバニーガールが酌をしてくれたが、俺の趣味だと思われたくないので服を着るよう命じた。バニーは最敬礼で謝罪した。櫻田から失礼のないよう言われているんじゃないかと思い、少し不憫に感じたが、これもこの人の仕事なのだと思った。
人には色んな仕事がある。金銭を得るものもあれば、信頼や安心を得るものもある。俺を襲った奴らも仕事感覚だったのか?遊びではやらないだろう。あれが遊びだとしたら、日本の未来は終わってる。
そして、車両盗難事件の犯人がマコトだとするならば、あいつは何を思ってあんなことをしたのだろうか。あれがマコトだとしたら、マコトはもうこっちには帰ってこれないような気が、たまらなくするのだ。
俺の生涯の仕事はまだわからないが、さしあたってはエミとマコトの行方を突き止めるのが最優先だ。そのために、俺は俺でできることをやろう。とりあえず、この病床でできることは、新入生へのポスターを作ることだ!俺は勝手にそう決めて、動き出そうとした。
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