第7話 失踪3(修正済)
朝から暖かい一日になった。去年買ったヴァジュラの七分袖のカットソーを着て朝食を食べた。花に水をやりたい気分だが、花はない。だが、不思議とそんな気分になった。
コーヒーを淹れた。いつもはただ、お湯を注いで茶色をつけるだけだったが、今日はちゃんとコーヒーを淹れた。最初は蒸らすようにゆっくりと、あとは数回にわけて香を楽しみながら。一瞬だが、この朝の数秒だけ、時間が止まったようなフワッとした感じになった。
去年の四月、俺は東京の高校からこの千葉総合大学へ入学した。高校の友人は皆、俺の進路を不思議がった。なぜなら俺は、東京外国語大学に合格していたからだ。「国立に受かってるのに私立に行くの!?」先生も友人も、皆口を揃えてそう言った。しかし、これには事情があったのだ。高校受験の前の年、俺の父親が亡くなった。祖父の跡を継ぐはずだった父親が死に、会社のことや色々なことを、なんとしてでも俺に教えようと、祖父は俺を自分の許に戻したのだ。
ゼロからの人間関係で大学生活をスタートした俺は、入学当初は背伸びをしたり、虚勢を張って人と付き合って、それで何かを築こうとしていた。俺と学部の友人との間には、はっきりと壁があったと思っている。しかし、今は違う。必要にかられて人と向き合っている。今の自分でいるほうが楽だし、視野も広まった気がするが、去年のような生き方の先にも、成長があったのだと思う。どっちも立派な生き方だ。
去年と一番違うのは、祖父が亡くなり祖母が施設に入ったこと、中原さんとサシで接するようになったこと、そして中原さんの事務所の職員に騙されたという経験をしたこと。世界が大きく変わった気がしたが、自分がその世界で相変わらず自分の殻にとじ込もっていては、結局同じなのではないか、という気がしている。その点、料理研究会に入部できたことは、俺にとって大きな前進だった。今流れている時間は、穏やかで重々しさがあった。焦ってはいないが、確実に前に進んでいる感じだ。地に足がついていると実感できている。
料理研究会の部室には、この日も唯一の男メンバーであるマコトがいた。俺は挨拶をしながら部室に入った。マコトはヘッドフォンを外して俺を出迎えた。そして俺に右手の握りこぶしを差し出した。俺も右手でグーを作って軽く触れた。マコトはフッと笑って携帯に目を落とした。朝のこの時間が、俺は好きになった。
マコトは丹精な顔立ちをしていた。サイドを刈り上げたストレートの茶髪は、韓流スターのようでもあった。俺は、空いている椅子に座り、語学のテキストを開いた。マコトとは二言三言言葉を交わしたが、マコトは二度と顔を上げなかった。廊下が騒がしくなったとき、俺はこんな質問をした。
「マコト、なんでこのサークルに入ったんだ?」
マコトは携帯を見ながら、器用に俺の質問に答えてくれた。
「俺は仙台から来てるんだけど、エミの高校の後輩なんだ。こっちに来て偶然エミと会って、エミに話しかけられて誘われた。なにかやるときは常にサークルで動いてたからな。お陰で大学に男友だちはゼロ」
「それすごいな」
「だろ?」
何がすごいかって、常にエミたちと一緒だということがだ。
「エミはあんな感じだから敵も多いけど、エミを慕う人間もたくさんいる」
「なんかわかるな。あの人ならどこにいっても先頭に立ってバリバリやりそうだ」
「そうか」
俺は開いていたテキストをまとめ、次の講義に行く準備をした。俺が、「行くわ」と声をかけたのと、マコトが顔を上げたのは、同じタイミングだった。
「エミ、ああ見えてすごく脆いんだ」
マコトは決して俺を見ずにそう漏らした。まるで自分に言い聞かせるように。そして俺の反応を待った。俺は曖昧に頷き、部室を出た。そこで俺たちは別れた。
エミが脆いとマコトは言った。エミはあんな感じだが、案外虚勢を張って生きているのかもしれない。あの日、出会った美紗も、とても脆かった。俺はどうだろうか。俺は自分が脆いとは微塵も思わない。それは資産があるからなのかもしれない。人生の岐路に立ったとき、同じような自分でいられるのだろうかと考えるが、きっと同じでいられるというイメージしか持てない。俺みたいな人間は強いはずだ。
誰よりも脆いのはマコト、あいつはガラスだ。何がきっかけで弾けるのか想像もできない。会ってから数日しか経っていないが、俺はそんな予感がした。そして、その予感は的中することになる。この後すぐに起こる、ある事件で、マコトのガラスの心は砕かれる。そして俺は、この穏やかな日々から追い出されることになる。それについては、順を追って語っていきたいと思う。
それは、一日が終わろうとしていた夜九時のことだった。千葉公園通りに面したアパートの、最上階の自室でソファに座り中原さんとメッセージのやり取りをしていると、携帯に着信があった。この時間に誰かから電話がくることなどほぼない。俺はふんわりとした気持ちで電話に出た。エミだった。
「おい、おまえ今からこっち来いよ」
「今から?どこですか?」
「白木屋。マジ早く来いって」
エミの後ろがかなり騒がしい。恐らくナナたちだろう。俺はヴァジュラの特注カーディガンを羽織り、昼間のことを思い出しながら早歩きでアパートを出た。白木屋までタクシーで五分、何しろ、生まれて初めて女性と酒を飲むのだ。期待のようなもので胸が大きく膨らんでいた。
エミたちはかなり飲んでいた。俺は席に座ろうとすると、「おい、そこで自己紹介しろ」と言われ、立ったまま自己紹介した。そのまま通路側の真ん中に座った。マコト以外、全員いた。マコトは来ていなかった。
「おまえさ、彼女いねえだろ」
「童貞っぽいよな」
「おまえ友だちいねえもんな」
「おまえもっと飲めよ」
俺はひたすらいじられた。反論すると笑われ、黙ると酒を飲まされた。白木屋の酒は色水の味しかしなく、俺は比較的強いジンやウイスキーのカクテルをひたすら飲んだ。だが、気持ち悪くなるだけで全く酔えなかった。俺の隣はユウナだった。確か、最初に部室に行ったときに机に座っていたが、そのときと同じ服を着ていた。そのことを指摘すると、全員から「キモい」と言われた。「ユウナ童貞卒業させなよ」と誰かが言っていた。俺は薄い酒をひたすら飲み、その辺りから記憶が曖昧になったが、俺が頼んだ厚焼き玉子が一瞬でなくなったのは覚えている。そして俺はトイレで吐き、戻ってきて座布団で躓いてよろけた拍子に倒れて、白木屋で大の字になった。身体を蹴られ、誰かに介抱された。俺の顔をのぞき混んでいたのは美紗だった気がする。そういう記憶だけが残った。寒気がして、その場に蹲って寝た。
気づいたら、場所はすでに白木屋ではなくなっていた。もっと落ち着いたバーかどこかに俺はいた。辺りが暗く、緩い音楽が聞こえ、青い光が波のように煌めいていた。エミが下着姿でテレビに出てた。そのバックでエンドレスで流れる緩い音楽は、官能的な感じがした。そのまま俺はまた寝た。
次に起きたら、全く知らない場所にいた。広いベッドで寝ていて、頭が痛く、吐き気がした。
「起きた?」
下着姿のエミがソファーで携帯をいじりながら、聞いてきた。
「エミ先輩」
エミは誰かに電話をかけ始めた。
「あのさ、あたしやっぱ行かねーわ」
それだけ言って電話を切った。俺は起きて体制を立て直した。全裸だった。
「あの、先輩」
「なに、おまえ覚えてねえの?」
エミの返事を待たずに吐き気が込み上げた。
「あ、吐きそうです」
「きったねーな。そこで吐くなよ」
「あの、俺、パンツ…」
おら、と言って、エミが俺のパンツを投げてよこした。俺のパンツはソファーにあったのだ。俺はパンツを履き、トイレに行った。そして吐いた。一度吐いたら、堰が切れたように嘔吐物が込み上げた。俺は四回吐いて、胃の中が空っぽになった。水で口をすすいで、使い捨ての歯ブラシを開けて歯を磨いた。思い出そうとしても思い出せないが、なんとなく、エミの裸を見たような気がする。
俺は部屋に戻って、エミに尋ねた。
「もしかして、しました?」
「おめえが勃たなくてやめたんだろうが」
その瞬間の俺には、恥ずかしいとかではなく、嬉しい気持ちしかなかった。
「どうする?帰んのか?」
「今、何時すか?」
「三時半」
「他の人たちは?」
俺を無視してエミは立ち上がった。パンツもブラジャーも茶色だった。肌の色も茶色。心なしか、微かな笑みを浮かべながら俺のもとに歩いて来た。初めてみる、女の下着姿だったが、はっきり言って男を喜ばせるためだけの服装、セックスするためだけに作られたものに感じた。
「そんなの、どうでもいくね?」
エミは俺の腰に軽く手を回し、目を瞑って俺に顔を近づけた。俺も目を閉じ、そしてエミを抱き締めた。エミの身体には、硬い部分がどこにもなかった。全身から甘い香りが漂い、俺はその匂いを嗅いだ途端に理性を失った。エミの腰は驚くほど細く、軽く引き寄せただけでエミは簡単に俺の胸の中に崩れ落ちた。額にキスをすると、エミは目を瞑ったまま顔を上げた。俺はエミの唇にしゃぶりついた。そしてそのまま、無我夢中で俺はエミを愛した。
その時間は、今朝アパートで感じた神々しさのようなものに似ていた。エミのことがたまらなく愛しく感じた。時おり、心のどこかに棘が刺さったような、小さな痛みを一瞬だけ感じたような気がした。
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