第5話 失踪1(修正済)

 俺は美紗とのことで決意したことがあった。人間的にもっと成長しなければならないということだ。俺が体験した話は、それこそハニートラップそのもので、俺は見事にそれにはまってしまった。今回は中原さんがいてくれたから良かったものの、今後、同じような場面になったときには毅然とした対応が必要だった。毅然とした態度、俺は夜通しそのことを考えていた。そしてそのためには、まずしっかりと大学に通わなければならないという結論に達した。


 俺は祖父が死んだ大学一年の秋から、祖母の介護のために船橋市海神の実家に篭りっきりになっていた。千葉市内にある大学には、秋、冬、そしてこの春を通して一度も行ってない。


 俺の通う千葉総合大学の歴史はまだ浅い。俺の祖父が資金を出して設立したが、できてからまだ十年と少ししか経っていないはずだ。学生は三千人はいる。その気になれば、一度も出席せずに卒業するくらい造作もないことだった。だが、ちゃんと行って学ばなければ、俺はいずれ取り返しのつかない過ちを犯すことになる。一念発起して大学に行くことにしたのだ。




 美紗の家から帰った翌日、俺は久しぶりに千葉市内にあるアパートに戻ってサンローランの長袖シャツに着替え、履歴書とバイト情報誌を購入してすぐに大学に行った。


 大学は、半年以上行っていないことになる。この四月には新入生を迎え、俺は二年生になっているはずだった。うちの大学では、三年生への進級時に単位が足りなければ留年するシステムになっている。まだぎりぎり間に合うはずだった。俺は事務に行き、履修届けを受け取ったその足で、サークル棟に向かった。


 サークルには所属していなかったが、そういう経験もいずれ必要になってくると考え、サークルにも入ることにしたのだ。ただ、今から大勢でわいわいやるようなところに入るのは気が引けた。俺は、なるべく地味そうなサークルを選んで見学に行こうと思っていた。同時に、今日中にバイト先を見つけたかった。俺は思い立ったらすぐに行動するタイプで、自分でも自分の行動力に驚くことがある。当然、それで後悔することもよくある。






 大学のサークル棟は、他の大学と比べてかなり大きいものだった。七階建ての建物一棟がまるごとサークルの活動スペースになっている。俺はまず、サークル棟一階の共有スペースの掲示板を見て、俺に合いそうなサークルを探した。どんなものでもあった。スポーツ系、文化系、真面目なものから活動してるのか怪しいものまで様々だった。スポーツは苦手だが、目的があるという点では入りやすいと思った。文化系の、例えば楽器や芸術系のサークルは、今から初めてもついていけそうにない。ボランティアサークルは人間関係で苦労しそうにないし、異文化研究会などはノリが難しそうで続けるのが無理だと思う。色々と考えているうちに、料理研究会というポスターが目に入った。料理は、基本的なことはできるし、いいんじゃないかと思った矢先に、背後から名前を呼ばれた。


「一樹?」


 振り替えると、中学校まで同級生だった尾見くんが立っていた。


「尾見くん!」


 尾見くんは、同じ中学から大学に進学した数少ない地元の友だちで、特に中学3年の受験のときはお互いの家で勉強をしたりした仲だった。うちがめちゃくちゃな金持ちだというのも知っているし、祖母が特に尾見くんを気に入っていて、よく俺と一緒に勉強をしているところに混じってきては、3人で色んな話をし合った。高校で、俺は東京に行き、尾見くんとは別々になったが、大学でまた再会した形になる。


「一樹、おばあちゃんは?」


「施設に入った」


「良かったな。どうなることかと思った。最近学校も来てなかったろ」


 尾見くんは本気で心配してくれている。人のことで本気を出してくれる、貴重な存在だ。


「一樹は卒業しなくてもじいちゃんの会社あるもんな。別に適当にやりゃあいいんじゃね?それより、なに。おまえサークル入んの?」


「うん」


 俺は料理研究会のポスターを指差した。


「なんでこんな地味なのにするんだよ!おまえ、あれだろ。女の子狙いだろ」


「違うって。今さら派手なとことか、でかいとこに入ってく自信ないし。細々と続けられるとこ探してる」


「だったらうちに来いよ!そこのホリってサークル。キャンプしたり登山行ったり飲み会開いたり、みんなでわいわいやってる」


「ホリ?」


「リーダーが堀っていうのと、ホリデイに活動するからホリなんだって。ま、みんなほとんど掛け持ちだしいつでもやめていいからさ、とりあえず一回部室来いよ」






 そういう流れで、俺はまずホリの部室に行くことになった。


 部室に入るのは初めてだった。去年の初め、いくつかのサークルに勧誘されたが、俺は東京の高校から来たことで少し気取っており、そういう勧誘を全く相手にしなかったのだ。恥ずかしいことをしたと思っている。ホリの部室は、八畳程度のスペースにテーブルと椅子があるだけであとはほとんど何もない殺風景な部屋だった。そこに、ヒッピーを地でいくような風貌の男が座っていた。


「あ、先輩。俺の友だちの一樹。入部するって」


「おー、よろしくー。好きにしてってよ」


 先輩なのか。かなり砕けた関係だ。


「尾見くんと同じ中学の神谷一樹です。よろしくお願いします」


「おー、よろしくよろしくー」


 先輩は、タバコに火をつけながら喋った。大学の施設内は全面禁煙だがサークル棟は問題ないらしい。


「先輩、こいつ、金持ちだから。なめないほうがいいすよ」


「え?一樹くん、お金持ちなの?キャンピングカー買ってよ」


「免許ねーくせに」


 先輩はニヤリと笑った。尾見くんと先輩はかなり仲が良さそうだ。いくら楽しい部活でも、みんながみんなここまで仲良くはないだろう。尾見くん繋がりなので、俺も先輩の顔と名前を覚えることにした。


「あの、名前はなんていうんですか?」


「俺はここの代表の堀慶太。堀って呼んで」


 いきなり、代表に会えた。


「自分は授業が忙しくなると思うからあんまり来れないかもしれないです」


「おう。わかったよ。一樹くんは、来れるときに遊びに来たらいいよ。部室はこの通り何にもないから、部室には一切来ない人もいるし。飲み会だけ参加のやつもいるし。あ、活動の連絡は一斉にするから連絡先だけ置いてって」


「わかりました」


 それで、俺と堀先輩は連絡先を交換した。尾見くんは部室に残るらしく、俺は一人で次のサークルを覗きに向かった。ホリは二階の雑居スペースにあったが、料理研究会は五階にあった。一旦エレベーターホールに戻って五階に上がる。そして名札を見ながら料理研究会を探した。






 通路を歩いていると、中央の部屋から大きな声が聞こえた。勢いよくドアが開き、ふわっとした黒髪で、今どきの服装をした女が出てきて、エレベーターホールに足早に消えていった。明らかに涙を拭っていた。部屋の中からは複数の笑い声が聞こえた。「ギャハハ、だっせー」看板を見ると、料理研究会と書いてあった。俺はごくりと唾を飲んだ。そのとき、もう一度ドアが開いて女が顔を出した。かわいい顔だが、きつい目付きで、日焼けした肌に、ボロボロの金髪を頭の真上でゴムで縛っていた。女は、俺を睨むように目を細めた。


「なに、おまえ」


「え?」


 いきなりそう言われ、俺は固まってしまった。


「うちらになんか用あんの?」


「あ、いや、サークル入ろうかなって思って来たんですけど。料理研究会」


「おい!」


 女は中に向かって叫んだ。


「見学だって」


 ギャルだった。女は吐き出すようにそう言うと、中に入っていった。俺は走って逃げようかとも思ったけど、美紗との出来事と中原さんの凄味を思い出し、自分を奮い立たせて無理やり部室の中に入っていった。毅然とした態度だ、心の中でそう自分に言い聞かせた。






 部屋の中は、険悪な雰囲気というわけではなさそうだった。男一名に女五名、みな容姿に自信のありそうなタイプだった。


「なに、おまえ」


 壁際の机に直に座っていた茶髪でストレートの女がそう言った。


「同じこと言うなし。うける」


 最初の女がそう言った。俺はこのままじゃどうしようもないと思い、自分から自己紹介をした。


「あの、下のポスターを見て来たんですけど、料理は一通りできると思うんですけど、見学とかしてもいいですか?」


 その場が重たい雰囲気になった。


「ポスター?」


「ああ、ヒロコが書いてたやつでしょ」


「つーか、うちら料理とかできないし」


「なに、おまえ、童貞?」


 ヤバい、うける、勃ててんじゃねえよ、女たちは口々にヤジを発した。唯一の男は、顔色を変えずにこっちを見ていた。ゾッとするほど白い肌をしていた。


「いや、別に邪魔するつもりはないんだけど。純粋に料理サークルに入りたいだけだから。邪魔なら帰るわ」


「やべ、童貞切れたうける」


「邪魔なら帰るわぁ~」


 金髪ゴム女が俺の台詞を真似ると、再び大きな笑いが起きた。そのとき、


「別にいくね?」


 中央に座っている、眉毛の角度が鋭い女が言った。その場が一瞬静かになった。


「うちら別に料理とかしねえし。パーティーしたり花見したりするだけだぞ」


「そうなんですか。俺もあんまり来れないけど、じゃあ、たまにここに来て料理してもいいですか?」


 と言うと、また一瞬静かになったが、金髪ゴムが、


「おまえ、なんか、やべえな」


 と言ったのをきっかけに、女たちが俺に質問をしてきた。


「なに作れんの?」


「作れるのは、クックパッド見れば何でも作れると思う」


「なに得意なの?」


「最近は、和食。全般的に」


「カレー粉使わないでカレー作れんの?」


「多分できる。ターメリックとクミンとコリアンダーだっけ。そういうのちょっとずつ入れてけばいいんじゃないかな」


「やべー!」


「おまえ、一年なの?」


「俺は二年です」


「二年かよ!」


「ヒロコたちと同じじゃね?」


「うちら三年」


「腹減ったからなんか作れよ」


 こんな感じで、俺は結構受け入れられた。






 その後、料理研究会の部室には三時間くらいいた。彼女たちから名前や大学のことを聞いて、俺も自分のことをなるべく話した。媚びず、かつ愛想良く振舞ったつもりだ。

 メンバーの紹介をしておくと、リーダー格できつい眉毛の女がエミ。大学三年生でギャルの代表のような格好をしていた。目は細く、ウェーブのかかった茶髪の髪をアップにすると、高級クラブのような場所で働けるような雰囲気があった。

 最初に出ていった黒髪はヒロコ、男はマコトと言っていた。この二人は二年生だ。ヒロコは、この中の誰とも違った。あまり覚えていないが、黒のカーディガンのようなふわっとした服を着ていた。今時の女の子といった感じの服装だ。マコトは、唯一の男メンバーで、物静かに話した。韓流スターのような端正な顔立ちと上品な服に、フェラガモのスニーカーを履いていた。おそらく十万円近いものだ。

 入口で俺を出迎えた、ボサボサの金髪を頭の上でゴムでまとめていたのがナナ、大きなアーモンドアイで、身長は一番小さい。かわいいタイプの女だった。茶髪のストレートがユウナ、エミたちとは毛色が異なり、こっちは明るい茶髪を左右に分けた、ヤンキーのような風貌をしていた。ジャージを着て煙草を吸いながらコンビニに行くようなイメージだ。この二人はエミと同じく三年生だった。(今名前を挙げた五人は、この『失踪』の話に大きく関わっている。)

 ちなみに、メンバーはあと二人いたが名前は割愛する。ヒロコとマコトが二年生、つまり俺と尾見くんと同い年だ。残りは全員三年生という構成になる。


 料理研究会は、二年前にエミたちが軽いノリで申請をしたら、部室が当たったのだそうだ。次の年にヒロコとマコトが別々に入ってきた。部室は彼女たちの大学での生活拠点のような形で、料理ができるようなカセットコンロ、ティファールの電子ケトル、それに電子レンジと冷蔵庫がある。水道は廊下の共用スペースにある。実際に料理をすることもあったが、ほとんど使われていなかった調味料や飲みかけのペットボトル、お菓子などが冷蔵庫に少しあり、残りの調理器具などはまとめて段ボールに入っていた。俺はそれらを見た瞬間に、食材や用具を買いそろえようと決めた。それで、必要な調味料をさりげなくチェックした。あとは彼女たちとひたすら話した。

 三時間くらいしたところで中原さんから電話が来たので、断ってその日は帰った。女の人とこんなに話をしたのは美紗の他にはいない。俺はかなり気分が良かった。サークルは二つとも最近できたものなので、もっと色々な経験ができるのではないかと感じた。






「坊っちゃん、お会いしたいという方がいらっしゃいます」


「誰ですか?」


「国会議員の櫻田先生です。会長とも懇意になされていました」


「え!」


「重く考えないでください。櫻田先生とお会いするときには私が必ず同席いたします。今回は先方の顔見せです」


「会っておいたほうがいいのかな」


「そうです」


「わかりました。俺も色々と忙しくなるから、日程がわかり次第教えて下さい」


「日程につきましては、坊っちゃんが最優先です。来月の、そうですな、連休以降でお好きな日を指定してください。私も近々家のことでそちらに参りますので、そのときに聞かせてください」


「わかりました」


 なんだか俺の人生が回り始めた気がした。俺は帰りに近所のスーパーに寄って、調味料と食材を書い、帰ってからホームセンターに足を伸ばしてガスコンロとガス缶、洗剤やスポンジ、クレンザーなど、そして台車を購入した。お金は結構かかったが、心は満たされていた。彼女たちに受け入れられたことが嬉しいのではなくて、自分で行動して変えられたことに俺は満足していた。今までの俺にはなかったことだ。まさに、毅然とした態度を貫き通したおかげだ。これは人生の格言にしようかと思った。






 夜、尾見くんから電話がかかってきた。


「一樹、晩飯食べたか?」


「まだ」


「久しぶりに行かないか?」


「いいね」


「じゃあ、駅に集合しよう。東京のほう行くか?」


「ごめん。ちょっと疲れてんだ。近くにしよう」


「わかった」




 尾見くんは面倒見がいいと自分でも言っている。大学に入ってすぐの頃、全然周りに馴染めなかった俺を気遣い、自分の学部の友だちを連れて、よくご飯や遊びに誘ってくれた。中学の頃から変わらない。仲間や後輩の面倒をしっかり見れるので誰からも信頼があつい。俺は尾見くんを一番の友だちだと思っているが、おそらく尾見くんには、俺と同じくらい大切な友だちがたくさんいるはずだ。そういうタイプの人間なのだ。少し淋しい気もするが、尾見くんといるとそんなこと考える暇もないくらい楽しいのだ。


「一樹はなに食いたい?」


「ラーメンかな」


「中華料理屋でもいいか?」


「うん」


「じゃあ、先輩のとこ行こう」


「堀さん?」


「ああ。先輩、もう六年働いてるんだって」


「ベテランじゃん。旨いの?」


「味はかなりだぞ。饅頭系は何でも当たりだ」


「ラーメンは?」


「食えばわかる。チャーシューは柔らかくて味が染みてる。スープは豚の背油で、あれは多分果物とかと煮込んでる」


「果物!?スープを?」


「多分な。他にも野菜とか色々入ってるはず。あんな味は滅多にお目にかかれないぞ」


「へー。なんて店?」


「福本。駅の、大学側じゃなくて反対側にある」


 俺たちはくだらない話をしながら、肩を並べて歩いた。尾見くんといると、なんだってできるような気になる。




「いらっしゃい。おお、尾見と、一樹くんか!」


「どうもっす」


「こんばんは」


「ゆっくりしてけよ。ビール飲むか?」


「俺は飲む。一樹も飲むだろ?」


「うん」


 堀先輩はジョッキを2つまとめて持ち、器用に注いでいった。


「これ、漬け物。俺の賄いのあまりだ」


「あーっす」


「ありがとうございます」


 俺たちは再会を祝して乾杯し、餃子とラーメンを食いながらビールを飲んだ。


「一樹、ばあちゃんも施設に入ったんだろ?じゃあ今あの広い家は誰もいないのか?」


「うん」


「もったいねえな!おまえちょっと俺に貸せよ」


「やだよ。でも、もうすぐ処分するかもしれない。今のアパートに必要なもの持ってって、大学卒業までそこで生活する」


「そういえばおまえ、マジな話、金は大丈夫なのか?遺産とかって相続税とかでほとんど残らないんだろ?大学はちゃんと通えるのか?」


尾見くんは本気で心配してくれた。


「大丈夫だよ。バイトもするし」


「おまえがバイトね」


 尾見くんはしみじみと言った。尾見くんはバイトをしていない。バイトをするくらいなら勉強をした方がましだと周りには言っているが、本当は日雇いと、長期休業中におじいちゃんの農家を手伝って金を稼いでいるらしい。「農業やってるなんて恥ずかしくて言えないだろ」と俺に明かしたことがある。俺は、明日面接に行くことを言った。


「一樹くん、何するの?」


突然、堀先輩が話に入ってきた。


「いや、もし決まらなかったら、いいバイトあるんだよー。二人とも世話するよ」


「なんのバイトですか?」


「やるなら教えるよ」


「やるから早く教えてよ」


尾見くんが酔った勢いで堀先輩を責め立てた。


「やるなら教える」


「怪しいなー。エッチなやつとかじゃないの?」


「違う違う。健全な仕事だよ。誰でもできるやつ。新しいビジネス」


「それねずみ講じゃないの?」


「違うって。肉体労働」


「肉体労働?」


「あのな、俺も一回やったことがあるんだけどな、リスクは大きいけど当たりもでかい。ま、その気になったら教えてやるよ。それより、肉まん食うか?持って帰るか?」


「もー、教えてよ!」


 尾見くんは心底残念そうにした。世の中には色んなバイトがあるらしい。俺たちは肉まんをテイクアウトして、俺のアパートに引き上げた。帰り際に堀先輩が、次の週末花見をやるぞと息巻いていた。






「料理サークルどうだった?」


「それがさ…」


 俺のアパートで飲みなおし、俺は料理研究会のことを尾見くんに話した。リーダー格のエミのこと、ヒロコのこと、そして同い年のマコトのこと。


「ふぁー!そんなサークルあったんだ!俺も行ってもいいか?」


「来てよ。一人じゃ辛い」


「行かねーよ」


 俺たちは声を出して笑った。いい夜だった。

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