第4話 美紗3
美紗のマンションは、お世辞にも良いとは言えなかったが、綺麗に片付けられていた。俺は、さっきまでのうだうたした考えがふっ切れ、積極的にくる美紗のペースに呑まれていった。
「私みたいな年上はお嫌いですか?」
「いやじゃないよ」
「本当ですか?」
「うん」
俺は美紗の腰に手を回して、今度は自分から唇を求めた。しばらくキスをしたあと、美紗は俺から身体を離した。
「ふふ。先に何か作りますね」
そう言って美紗はキッチンに行った。エプロンを着けて、手早く髪をまとめた。
キッチンから美紗の鼻歌が聞こえた。俺は、さっきまで迷っていたことがバカらしくなり、携帯の電源を切ってテーブルに置いた。そして部屋を見回してみた。ドアは閉まっているが奥にあるのは寝室だろう。リビングには小さなソファーとガラスのローテーブル、テレビ、窓際の真っ白な棚にはサボテンとパキラのような観葉植物が置いてあった。
「ゆっくりなさってくださいね」
どこか嬉しそうな声で美紗はそう言った。
「綺麗な部屋」
「恥ずかしいです」
美紗はかなり段取りよく手を動かして、スープとオムライス、ほうれん草のナムル、肉じゃが、簡単なサラダをトレーに載せて運んできた。
「どうぞ」
「美味しい!」
「本当ですか?」
「うん。これデミグラスソース?もしかして手作り?」
美紗の料理を誉めた瞬間、美紗に本物の笑顔が戻った気がした。
「嬉しいです!たくさん食べてくださいね」
「ありがとう。そんなに食べれないかな」
俺は夢中で食べた。美紗は俺を見ながら時々話しかけてきた。
「コーヒー飲みますか?」
「うん。」
至れり尽くせりだった。食後に美紗が淹れたコーヒーを飲みながら、俺は千葉市内に借りているアパートの近くのスタバの話をした。よく行くし、向こうに戻ったらバイトの面接に行くつもりだと。そんな俺を、美紗はねっとりとした視線で見た。
「一樹様」
「あ、一樹でいいですよ」
「じゃあ一樹さん。失礼でなければそっちに行ってもよろしいですか?」
「え、あ、うん」
美紗は俺の隣に移動してきて体育座りでちょこんと座った。
「一樹さん、ご卒業後は会社を継がれるんですか?」
「いや、まだ何も決めてないけど…うーん」
俺は、遠い未来にやりたいことは山ほどあったが、大学卒業後に何をするかはまるで決めていなかった。しばらく迷っていたら、いきなり美紗が俺の手を撫でながら、俺の肩にもたれ掛かってきた。俺はそのまま思い付くままに話した。
「正直、俺は何をしたいかわかんないんだけど、自分で何かを始めたいとは思ってる。お店とか、会社とか。だから卒業したあとは、どこかの企業に就職して色々勉強したいんだ。できれば一人で色んな仕事をして、何でも屋みたいな、経験できる会社か、それかコーヒーショップかな。スタバのフランチャイズとかできればいいかな。まとまったお金、祖父が残してくれたから」
美紗は俺の手を両手で挟むようにして撫で続けた。
「ちゃんと考えてて素敵です。一樹さん」
俺が美紗のほうを向くと、美紗は目を閉じて唇を俺のほうに突き出していた。俺は美紗の背中に手を回して、唇を重ねた。初めて舌を入れた。キスが終わると美紗は微笑んで、また俺の肩に頭をのせた。俺は完全に美紗のペースに乗せられていた。
「私、一樹さんと一緒にいたい」
美紗は俺の指に指を絡ませながらそう言った。俺は、なんて言っていいかわからずに、
「美紗さんは、仕事はどう?忙しいの?」
と聞いた。すると美紗の口から、人生への不満がぽつりぽつりと出てきた。
高校卒業後、進学した看護系の専門学校でいじめにあって退学したこと、実家で引きこもっていたこと、両親の勧めで見合いをして付き合った男がギャンブル好きで借金をしていたこと、男に浮気をされたこと、借金が自分名義にされ男にふられたこと、別れたあとも男に付きまとわれたこと、男から逃れるために引っ越し、安い給料で働きながら借金を返していること。
最初は無理に笑みを作りながら話していたが、美紗は話し終える頃には鼻をすすって泣いていた。手の甲で涙を拭って、軽く鼻をかんだ。そして息を吸って小さく吐いた。
「ごめんなさい。こんな話」
そう言って美紗は、今度は声を出して泣き始めた。
「ごめんなさい。一樹さん」
俺はもうどうしていいかわからず、ひたすら美紗の身体を抱きしめた。そして、しばらくそうしてときを過ごした。その間、俺は次の言葉を考えた。すなわち、借金を肩代わりするという提案だ。
ここで、美紗を見過ごせるほど俺は強くなかった。それは、美紗の境遇に憐れんだからだけではなく、単純に美紗のことを好きになってしまったからだ。俺はそれを美紗に言う決心をして、タイミングを窺った。
しばらく泣いて、美紗は少し落ち着きを取り戻した様子で、トイレに立った。トイレから戻った美紗に俺は言った。
「美紗さん、借金いくらあるの?」
美紗は戸惑った表情をした。そしてすぐに悟った様子で「これは私の問題だから」と言った。
「美紗さん、俺、美紗さんのこと大切な存在だと思ってる。美紗さんのこと大事にしたいんだ。お願い。いくらか教えて。」
美紗は躊躇いがちに「一億円」と言った。
「一億ね。わかった。俺が払うから。本当に一億だけ?それ以外はないの?」
「うん。でも、そんなのダメです。一樹さん」
「俺、美紗さんのこと、好きなんだ!俺に払わせて!誰に払えばいいの?教えて」
「一樹さん、待って。落ち着いて。」
美紗は俺にしがみついてきてキスをした。
「ありがとう。一樹さんの気持ち、嬉しい。でも、私が直接行って話すから、証書だけ書いてくれたら大丈夫です。」
「証書?」
「うん。ここに名前と住所を書いてくれれば、あとは私一人でやります。お願いしていいですか?」
「ああ、いいよ」
俺は指定された部分に名前と住所を記入した。
「嬉しいです。ありがとう。私、今までずっと、すごい、辛くて、」
紙を受け取った美紗は俺にしがみついて再び泣き出した。正直、そのときの俺には美紗の涙に耐性がついていたのか、気持ちにだいぶ余裕があった。
「今、お金を持ってきてもらう。電話するから。ちょっと待って」
俺は迷わず携帯の電源を入れた。非常識な時間だったが、金を払うことが可能かどうかだけでも確認したかったのだ。美紗に聞かれないように一旦玄関に出て、中原さんの事務所に電話を入れた。中原さんはいないが、すぐに電話が入るようにするから電源を切らずに待つように言われた。
俺はリビングに戻ってソファーに座った。美紗は不安そうな目で横から見ている。
「あ、コーヒーいいかな?」
俺は空のカップを持ちながら笑顔で聞いた。ずいぶんと気持ちが大きくなってきた。
「ごめん。待ってて」
美紗はカップを持ってキッチンに行った。直後に携帯が鳴った。
「坊っちゃん、今どちらに?」
美紗の家だと言うと、すぐに参りますとだけ言って電話は切れた。お金を都合してもらおうとしたが、よほど急いでいたらしく、言い損ねてしまった。
コーヒーを運んできた美紗の頭を撫でた。美紗にようやく最初の笑顔が戻っていた。しかし、俺の「今、中原さん来るって」という台詞を聞いたその瞬間、美紗の顔から一切の笑顔が消えた。
二十分ほどで部屋のチャイムが鳴った。その間、俺と美紗は意味のある会話をしなかった。美紗は、俺以外の男を部屋に入れたくないと言った。俺は、中原さんこそが金を持っていると言った。美紗の顔からは一切の笑顔が消え、うつろな目をしながら窓の外を覗いたりした。俺は正直にいうと、とても戸惑っていた。さっきまでの美紗との甘い時間が一気にぶっ飛んだからだ。代わりに少し冷静になってきた。
美紗は、婚約者に騙された可愛そうな過去を持つ女で、祖父の愛人でもあった。婚約者とトラブルがあったのが祖父と会う前だったとしたら、おそらく借金は祖父に清算してもらっているだろう。つまり、祖父の死後に婚約し、借金を背負ったということに他ならない。祖父が死んだのは半年前だ。半年で結婚まで辿り着くのが、普通じゃない速さだということは俺にもわかった。だが、さっきまでの俺は、それを見抜くことができないほど、何も考えられなくなっていたのだ。初めての女の部屋に初めてのキス。柔らかい身体と甘い匂い。女の身体にはまり、ある種の洗脳をされてしまっていたのだ。
美紗のことを変だと思ったのは、喫茶店での会話の中で、祖母の施設入所のことを心配していた点だった。そのときまでは、俺にも正常な理性が働いていた。
その後、美紗は俺に対して好意を示し、ベタベタと身体にさわってきた。今思えば、明らかに俺の気を引くためだけの好意だった。現に、素に戻った美紗は、俺のことなど眼中にないといった態度で何かを考えている。さっきまでは恋人のような気分にもなっていたが、今改めて美紗を見ると、その気持ちも全く信じられなくなってきた。
中原さんはすぐに部屋に入ってきた。そして、そこからは早かった。顧客の個人情報をどこから入手したのか、厳しく美紗に詰め寄った。美紗はそれを無視して、俺のもとに来た。そして俺の胸に顔を埋めた。
「私のこと、好きなんだよね。私は一樹さんが好き。ずっと一緒にいたいの」
俺は、判断に迷った。頭のどこかで、確かにこのままでもいいと思ってしまったからだ。でも、一点だけ正さねばならないことがある。祖父のことだ。祖父は本当にこの女と愛人関係を結んでいたのか。本当なら仕方ない。でも嘘なら、それは故人の名誉を傷つけたことになる。俺の最愛の祖父母を侮辱したことになるのだ。到底許せることではない。
「好きだよ。でも、一個だけ答えてほしいんだ。本当のことを言ってほしい。俺の祖父とのことだ。本当に愛人だったのか」
美紗は黙ったまま俺の身体に両手で抱きついていた。中原さんは、厳しい目でこっちを見ていた。
「ねえ、美紗さん」
美紗は俺の胸に顔を埋めたまま、下を向きながら黙った。俺の質問に即答しなかった。それが即ち答えなのだ。
俺は怒りがこみ上げて来た。俺のTシャツの胸元は、美紗の涙で濡れていた。しかし、一体何を思って涙を流したというのか。俺を騙したこと、弄んだこと、祖父を貶めたこと、許せることではなかった。美紗は再び黙った。今度は長い時間が経った。
「私からお話します。」
口を開いたのは中原さんだった。
「まず、坊っちゃんには謝らなければなりません。私どもの会社の者が、神谷様の個人情報を不正に入手していたのです。」
次の瞬間、中原さんが俺に向かって土下座をした。
「申し訳ございませんでした!」
「中原さん、そんな」
「当社の顧客データへ、内部からの不正アクセスが発覚しました。アクセスは彼女の端末でした」
「え!?」
「私どもの不手際です。本当に申し訳ございませんでした!」
「ちょっと、中原さん、やめてくださいよ!」
中原さんは、土下座をやめなかった。俺はどうしようもなく、美紗のほうを見た。美紗は、開き直っているといった感じで、土下座する中原さんを冷めた目で見ていた。
「この人は祖父の愛人だったんですか?」
「彼女の入社は昨年の十月、会長とはそもそも接点がございません」
「待って!違うの!」
美紗はいきなり顔を上げ、俺にキスをしてきた。俺は強引に美佐の身体を引き剥がし、しっかりと顔を見た。
「嘘なの?」
いきなり、美紗は今までにない声でこう言ったのだ。
「ごめんなさい。でも、契約書はあるから。ちゃんとお金払ってね」
美紗は弱々しい声で捲し立てた。俺はびっくりしたが、それ以上に美紗に対して憐れみを覚えた。よくこの状況でそんな台詞を思いつくものだと感心もした。
「契約書?」
中原さんが美紗ににじり寄った。
「坊っちゃん、契約書とは?」
「あの、この人が借金があるっていうから俺が払う約束したんです。一億」
俺は、簡単に説明をした。美紗の境遇も大まかに話したが、中原さんは若干笑いながら首を振った。美紗の顔がどんどん青ざめていった。
「契約は契約ですよね。払うって自分から言ったんです」
「その契約書、見せていただけませんか」
「第三者には関係ないです」
「私は一樹さまの弁護士です。今見せないのであれば詐欺と判断して警察に通報しますが」
その瞬間、美紗は鬼のような形相で中原さんを睨み付けたが、すぐにさっきの契約書を渡した。
「予想の範疇でしたが、これは借用書の体をなしてはいませんな」
余裕の表情を浮かべる中原さんの手から、美紗は契約書の奪い取った。
「変なこと言わないでください。契約を交わせば無効になるケースなんてほとんどありません。あなたが言っていたことです」
「押印がありません。もし、あなたが勝手に神谷の判子を押した場合、私文書偽造でその場で逮捕です」
「法律上、実印を押さなければならない義務などありませんよね」
美紗は物凄い形相で中原さんに迫ったが、中原さんはふっと笑みを浮かべた。
「では、いつまでに支払えばよろしいのですか?」
「え?」
美紗の顔からどのような色も消え失せた。
「支払いの期限が記載されていませんな。いつまでに支払えばよろしいのか、そうですな。一億年後までに分割で支払うとうことではいかがですか?一年間に一円の支払いです。どうですか?今ここで記載しますか?」
中原さんは、美紗の手から再び契約書を奪い取った。
「そもそもですが、一樹さまは未成年なのでどのような契約も成立しません。」
美紗はチラッと俺を見たあと、床に崩れ落ちた。
「この紙は私が保管いたします。あなたの詐欺は未遂とはいえ、立派な犯罪です。追って警察から連絡があると思いますが」
その瞬間に美紗は大粒の涙を流した。そして、赤ちゃんが泣くような感じで大声で泣いた。あまりにも話がトントン拍子で進んだので、俺は呆気に取られていた。美紗は声を張り上げて泣いた。嘘泣きかと間違えるくらい大袈裟に泣いた。
「中原さん、ありがとうございます。ちょっと美紗さんと二人で話したいんだけど、いいですか?」
「駄目です」
俺は何も言えなくなった。
「一樹さん!好き!」
美紗が金切り声を上げて俺に迫ってきた。それを中原さんが後ろから羽交い絞めにした。
「関係ありません。坊っちゃん、行きましょう。」
俺は最後に美紗の顔を見たかったが、大声で泣き叫ぶ美紗を、怖くて見れなかった。そのまま勢いで外に出た。すごく腹が減った。
「中原さん、ありがとうございます。すいませんでした。」
「いえ、私のほうこそ出すぎた真似を。坊っちゃん、ご実家でよろしいですか?千葉のアパートに戻られますか?」
「あ、実家です」
ではどうぞ、そう言って中原さんは、レクサスLXの後部座席を開けた。俺は移動中、ずっと自分の不甲斐なさを恥じた。同時に、中原さんに対して尊敬の念を抱いた。そして、恥ずかしい話だが、美紗の艶かしい身体と唇を思い返してもいた。
一人で部屋に戻ると、俺の頭の中は美紗の身体つきと唇の柔らかさ、そして好きだと言ってくれたあの顔でいっぱいになった。
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