第3話 美紗2
Tシャツの上から、ヴァジュラのカーディガンを着こんで家を出た。既に夜の十時を過ぎていた。肌寒い季節だが、そんなものは全く気にならなかった。俺は生まれてから一度も女とセックスをしたことがない。しかし今夜、突然そのチャンスが回って来そうだったのだ。俺は自然と足を速めた。
もし、金銭を要求されたら断ろうと思っていた。金銭から始まる人間関係なら、風俗に行ったほうがマシだと思ったからだ。もちろん、俺は風俗にすら行ったことはない。ただ、そういう店のほうが、何かあったときに対応してくれるのではないかと思う。もし弁護士事務所の女が天才的な詐欺師で、俺の心に入り込まれでもしたら、取り返しがつかなくなるのではないか。そのくらいのことを、俺は考えながら歩いた。
実家の近くには本格的なコーヒー専門店や、昔ながらの喫茶店もあった。俺は実家にいたときによく使っていた。俺に電話をしてきた女、後藤美紗は、既に指定した喫茶店にいた。
美紗の第一印象は、とにかく若いということだ。二十九歳とのことだが、それよりも若く見えた。ほんのりと赤いチークをしていて、髪は下ろして短いポニーテールのように纏めていた。
「突然来てご迷惑ではなかったですか?」
「いえ、いいんです」
俺はコーヒーを注文した。サイフォンという機械で一杯ずつ淹れてくれるので、この店は地元民から重宝されていた。
「一樹様とは、お会いしたことがございます」
美紗は愛しい者を見るような目で俺を見た。他の何も目に入っていない。真っ直ぐに俺だけを見つめた。優しい目だ。
「そうなんですか。すいません。俺はちょっと覚えていなくて」
「会長が生きていらっしゃったときです」
「美紗さんは、祖父と仲が良かったのですか?」
俺がそう言うと、美紗はクスッと笑った。
「私は会長の愛人でした。会社でもベッドの中でも、会長は私を愛してくれていたんです」
ベッドという言葉に生々しさを感じた。自分の祖父のベッドシーンを想像したわけではないが、気持ちの良いものではなかった。そこから美紗は、祖父との思い出を語ってくれた。出会いのこと、初めてのデートが東京のホテルだったこと、マンションを買ってもらったこと。
美紗が弁護士事務所に入ってから、祖父は美紗に目をかけ、何かとよくしていたそうだ。祖父は毎朝仕事にでかけていたが、仕事上弁護士や会計士と接する機会は多かったはずなので、そんなに不思議な話ではなかった。
だが、俺は祖父が不倫をしていたとは、にわかに信じられなかった。祖父は、祖母のことを誰よりも愛していた。死ぬ間際にも、最後まで祖母の手を握っていたし、そもそも祖父と接していて女の影など微塵も感じなかったからだ。
「会長は私を愛してくれていたんです」
さっき聞いた台詞を、美紗はもう一度繰り返した。俺はコーヒーをちびちび飲んでいたが、最後の一口を一気に流し込んだ。祖父が不倫をしていたのが事実だったとしても、この女が何を要求しているのか図りかねた。
電話では、何をしてくれても構わないといったが、それには相応の見返りがあるはずだ。俺は、最初に感じた通り、金銭的な見返りを要求されたりしたら、迷わずこの関係を断ち切ろうと考えていた。
「美紗さん、祖父との関係はわかりました。それで、一体今日はどういう話なんです?お金のことですか?」
俺は、目一杯真面目な顔を作って美紗に迫った。しかし美紗は、俺の凄みをクスッと流して、ウェイターを呼び、会計をした。
「一樹様、何でもお言いつけくださいませ。あなたのお力になりたいのです。会長は私を助けてくれました。そのお返しです。一生をかけてあなたに尽くします」
美紗の唇は、厚ぼったかった。ピンクのグロスの内側に、白い歯が見えた。その唇がたまらなく魅力的に感じた。そして、優しい匂いがした。
「奥様のこと、伺いました。施設に入られたって。」
「あ、はい」
奥様とは、俺の祖母のことだ。祖母は、独居型老人ホームに入居した。すでにアルツハイマーが相当進行しているのだ。美紗は悲しそうな顔を見せた。だが、俺は美紗の台詞に僅かに違和感を覚えた。
祖母を気遣ってくれるのは嬉しいし、ありがたいが、祖父の生前に不倫をしていた人間の言うことではないと思ったのだ。だが、そんなことは、俺の中ではすでにどうでも良かった。美紗から漂ってくる甘い匂いが鼻の奥まで届いていたが、それは正に男を引き寄せるフェロモンそのものだった。
「私の家に来ませんか?お一人になられて、色々とお疲れでしょう。栄養のある食事をお作りします」
美紗の、白いシースルーのカーディガンが、やたらと官能的に見えた。その下の肌色に近いインナーは、そのまま素肌をイメージさせた。胸や二の腕、どこを切り取っても男の身体とは違った。柔らかそうで、俺は今すぐその身体に飛び込みたいという欲求に駆られた。
「それでは、車を取ってきますね。こちらでお待ちくださいね」
美紗は先に店を出た。俺はトイレに行き、水を飲み、レジにあったガムを口に放り込んだ。美紗が俺を無償で受け入れてくれているということに、少し心地よさを感じた。五分ほど待っていると、黄色のクーパーが止まり、美紗が降りてきた。
「お待たせしました」
なんだか気を遣わせて悪いと思った。俺は「失礼します」と、頭を下げて、助手席に乗り込んだ。
「何か食べたいものはございますか?」
「あ、いえ、何でもいいです。でも、なんか悪いですね」
「私は一樹様と過ごせて幸せです。お一人で色々とご苦労もおありだったと思います。私になんでもお言いつけくださって結構ですよ」
全てが嬉しかった。新鮮な感じがした。俺はもっと早く美紗に会っていれば良かったと思った。
ただ一点、美紗との会話の中で、どうしても引っかかる点があった。祖母のことだ。不倫をして悲しませたとかそんなことはもういいので、今抱いた根本的な疑問を、俺は思い切って聞いてみることにした。
「あの、美紗さん」
「はい!」
俺から話しかけられて、美紗は嬉しそうな声を上げた。
「あの、ばあちゃんのこと全部知ってるんですか?」
「え?」
車内の空気が止まった気がした。俺は横目で、運転する美紗の横顔を凝視した。美紗は真っ直ぐ前を向き、一瞬右手の甲で唇を拭う動作をした。
「奥様、アルツハイマーで施設に入ったんですよね。」
「まあ、そうなんだけど、誰から聞いたのかなって。いや施設に入ったの昨日だし、誰にも言ってないんですよね。だから、美紗さんが知っていて、正直すごくビックリなんです」
美紗の顔に不自然な笑みが浮かんだ。
「その、俺が祖母のお世話を放り出したと思われるのも嫌なんで。誰にも言わないようにしていました。美紗さん、誰から聞いたんですか?」
「はい、中原からです」
「中原さん?」
「ええ」
同じ事務所の職員だし、職務上知り得たことを漏らしたのかもしれない。あるいは、顧客情報を共有したのかもしれない。どちらにしても、それほど不自然なことでもない。考えても答えは出ない。美紗は別に金銭を要求してきているわけでもないし、俺はもう気にしないことにした。
だが、頭では気にしないようにしても、本能はこの女を拒んでいた。しかし、それと反比例するように、身体はこの女を求めていた。俺の脳内はぐちゃぐちゃになっていた。自分では何も決められないような感じになり、車を止めさせ帰ることもできたが、どうしたものか決めあぐねていた。
そのうち、美紗のマンションの駐車場に車は停まった。
「一樹様、大丈夫ですか?」
助手席の俺を見て美紗は言った。
「ああ、大丈夫です」
「本当ですか?」
「あ、はい」
美紗の視線を感じたが、俺は美紗の方を見れなかった。と、そのとき、いきなり美紗は俺の首筋に腕を伸ばしてきて、両手で俺を抱きしめた。
「一樹様、なんだか無理をされている気がします」
「あ。うん。いや」
「私は、一樹様の力になりたいです。会長にされたことを何も恩返しができないままですので。このままでしたら会長になんと言っていいのかわかりません。一樹様、なんでもおっしゃってください」
美紗は俺の背中に手を伸ばし、俺を胸元へ引き寄せた。自然と俺は、美紗の胸に顔を埋める形になった。柔らかくて、いい匂いがした。人生初めての体験に、俺は思わず固まってしまった。
「一樹様・・・」
そして美紗は俺の髪を撫でた。俺が顔を上げると、間髪入れずに美紗は俺の唇に自分の唇を重ねた。十秒か二十秒か、一分くらいだったかもしれない。俺の体から力が抜けて、美紗の目が、とろけるような甘い目に変わった。
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