第2話 美紗
「六百億ですか!?」
俺はなるべく動揺を隠した声で言った。神谷弁護士会計士事務所は弁護士、会計士、行政書士が所属している大手で、俺の祖父が作った事務所だ。応接室の扉の向こうには結構な人数がいる。それらの人に動揺が伝わらないよう、俺はなるべく呼吸を整えながら振る舞った。
「相続税を差し引いた銀行預金が六百億円です。その他、不動産や証券、全てを合わせると一千億円は優に超えます」
中原さんは落ち着いた声でそう答えた。
「使っていいってことですか?」
「すぐに全額お渡しすることはできませんが、いずれ坊っちゃんのものになります。」
祖父がかなりの額を溜め込んでいることはなんとなく知っていたが、桁がニつほど違っていた。
「奥様の状態を見る限り、もうご判断なさる力はないと断言できます。このお金は、坊っちゃんのものです。ただし、坊っちゃんは未成年ですので、私が後継人という形を取らせていただきます。必要があれば遠慮なくおっしゃってくださいませ」
俺は度肝を抜かれた。同時にこれが夢でないことを祈った。意識がなくなったと思ったら夢落ちだった、そんなことにならないよう、俺は必死に頭を動かした。中原さんは淡々と説明してくれた。俺はそれを心地よく思いながら聞いた。
「ただ、老婆心ながら申し上げますと、どんなに額が大きかろうがこのお金は神谷家のお金です。今後、どのような方が坊っちゃんに近づいてきても一円も支払う必要はございません。やんごとなき事情があるとしても、必ず公証人を立てて貸すという形を取るべきです」
遺言状のことなど、色々と初めて聞くことばかりだったが、今中原さんが言ってくれたこと、すなわち相手が誰であれ遺産を分配する必要はないという忠告はありがたかった。俺は礼を言って席を立った。
帰り際、受付の女性が優しく微笑んでくれた。俺は思わず頭を下げたが、綺麗な人だった。思わず見とれてしまった。黒髪をまとめ、しっかりと化粧をし、まつ毛が長い。女性なら誰もが憧れるような小顔だった。年は二十代後半といったところだ。
「お気をつけてお帰りください、神谷さま。」
当然だが、この女は俺のプライベートなことを知る立場にいた。俺が金持ちだと知っているはずだ。
(今誘ったら、この女は俺に着いてくるだろうか?)
そう考えたが、俺は何もしなかった。もし今、声をかけたら、俺はただの人格破綻だ。ちゃんとしなければならないと、このとき俺は強く思ったのだ。
中原さんの事務所を後にして、俺は頭の中で今の自分に起きたことを整理した。何回思い出しても、聞き間違いなどではなかった。俺は祖父の遺産六百億円を相続した。それがどういう規模のお金なのかよくわからないが、きっとそれが嫌いな女はいないだろうと思った。
俺はそのまま自転車で、東武野田線の新船橋駅近くの実家に戻った。
俺の実家は一千坪の敷地に立つ一軒家で、隣は交番、向かい側にイオン、反対側の向かいに神谷記念病院とグループホーム神谷という老人ホームがある。どちらも祖父が建てたものだ。結局、それを使う前に祖父は死んだが、今は祖母が施設に入っている。
祖母のいる施設、グループホーム神谷は、祖父が設計の大部分に携わった。祖父母が、将来子どもたちに迷惑をかけないようにと、入居する施設を自ら作ったものだ。祖父母の部屋は高級な旅館と見間違えるほどで、和モダンなテイストで統一されている。一般入居者棟からは離れた場所に建っており、檜で統一された落ち着いた部屋に、生前祖父母が拘って取り寄せた家具が並んでいる。専属の介護士が一人、看護師が一人、調理師が一人そして隣接する神谷記念病院から常に医師が駆けつけられるような人員配置がなされている。
少し遅い時間だったが、俺は祖母の部屋に顔を出してみることにした。今日のことを報告するためだ。
「これは坊っちゃん。どうされましたか?」
「夜にすいません。ちょっと祖母の顔を見たくて。いいですか?」
「もちろんでございます」
初老の夜警は俺を部屋まで案内した。部屋というより離れの一軒家だ。
「今、入居者の方はどのくらいいるんですか?」
「今は60名弱です。定員ギリギリです」
「繁盛してるんですね」
「今はどこもそうです。高齢者施設は延び盛りですから」
グループホーム神谷には、実際よりもかなり多目に職員がいるはずだった。待遇は日本一に近いはずだ。祖父は最後の仕事として介護福祉専門学校を建てたが、そこから素行優良で真面目な生徒を積極的に受け入れていた。また、介護職員こそ待遇を上げるべきだとの持論を語っていた。うちの介護士は、看護師と同等の待遇を受けているはずだ。
「坊っちゃん、わざわざお越しいただきまして。こちらへどうぞ」
年配の女性介護士が祖母の部屋の前にいた。田嶋さんだ。田嶋さんは、祖母の病状が進んでからは、頻繁に家に来てくれた。始めのうちは祖母が嫌がったが、日中の2~3時間顔を出し、祖母の話相手をしてくれたりして、祖母の信頼を掴み取った。俺は田嶋さんのプロ意識に尊敬を覚えたものだ。
「奥様の看護を担当いたします西と申します。失礼のないよう努めますのでよろしくお願いいたします」
看護師も挨拶にきた。若く、綺麗な感じの人だ。
祖母の部屋は、完璧に掃除がされており、床や家具には塵一つなかった。室内は暖かく、檜の良い香りがした。一階の隅には庭を一望できる寝室がありベッドが二つあるが、生憎祖母は寝ていた。お風呂には、全ての壁には手摺がついていて、脱衣所からバスルームへの扉はガラス張りになっている。完全な介護用の部屋だった。
二階には俺の部屋もある。俺の父親が死んだときに、祖母はいつでも泊まりに来れるようにと、俺用に二階を増設したのだ。俺は二階に上がった。階段にも手摺があった。バスルームとトイレ、冷蔵庫もあり、いつでも住めるようになっている。冷蔵庫を開けると、飲み物が入っていた。すごい気遣いだった。
「祖母はどうですか?」
「しっかりされていますよ」
「なるべく俺も来れるうちは来ようと思います。よろしくお願いします。何か必要なものがあったら、俺に直接電話してください」
「かしこまりました」
実家に戻った。地上三階建てで、地下にも空間があるが、使うのはもはや俺一人だ。俺は千葉市内の大学に通っているが、祖父に我が儘を言って大学近くにアパートを借りていて、最近はそこで生活している。だから、もうこの家も使うことはないだろう。リビングのソファーに座り、感慨にふけっていたところに、電話が鳴った。知らない番号だった。
「神谷さま、弁護士事務所の者です」
いきなりそう名乗った。俺はすぐに昼間の女の顔を思い出した。
「ああ、昼間はどうも」
「今から伺ってもよろしいでしょうか?」
「え?今から?なんかありました?」
「いえ。ただ、なんでもお申し付けくださいませ。先代の会長様にも可愛がっていただきましたので」
そう聞いた瞬間に頭が熱くなり、俺の心臓は高鳴った。
「今から伺いましょうか?」
俺はその誘いを断れなかった。
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