第二話
一年の始まり、一月一日にアザナは歳を取る。
父親は相変わらず横暴で、アザナに渡された成人の神酒を奪い、飲み干して不味い(神に捧げるものなので、人間が飲むように作られていない)と怒りだしたりしたが、それも一週間の辛抱だと耐えた。
一週間の間、こつこつと身辺の整理を行っていつでも逃げ出す準備を整えたアザナは、それはもう誇らしい気持ちで成人の儀に出席した。
成人の儀は村の広場で行われる。
そこにアザナを含めた二十名ほどの成人した村人が集められ、村長が一人一人の手の甲に酒を一滴垂らした。
それを、手の甲に塗り広げ、手が赤くならなければ今後の人生で困ることはないと――そういう儀式らしい。
数十分ほどの間を持って、手の甲が赤くならなかったことに安堵したアザナは、村長に贈られる言葉を流し聞きしながら視線だけで周囲を見渡した。
タダ酒をかっくらっている父親から逃げられる位置を探る。
最後の一人に声をかけ終えた村長が、儀式終了の声をあげると村人達がざわめきだし、群れになって成人を迎えて輪になった。
その群れの中にわざと突っ込んだアザナは、夜逃げをする気持ちで村で飼育している馬小屋の裏に隠していた大きな鞄を回収すると、一目散に逃げ出した。
大きな鞄を持ったアザナを見かけて怪しんだのか、アザナの父親が声を張り上げているのが聞こえるが当然のようにアザナはそれを無視し、村人達を避けながら役場に向かう。
成人した以上、この村に残る残らないは本人の自由意志だ。
父親に追いつかれる前に村役場に突っ込むと、成人の儀でもそこから離れることが出来なくてつまらなさそうにしていた職員に声をかける。
「村ぁ出て、街行くが! えぇね!?」
「え? それはいいけど……まだ儀式終わったばかりだよね?」
「ほんだら、後は任せたぇ!」
「あ、おい、アザナくん!?」
立ち上がった職員に、成人の儀を受けた者にだけ渡される小さな酒瓶を投げたアザナは、言う。
「わんのおどんに、バレる前に、のんぢまぇな!」
「あー! もう! ありがとうね!」
手を振って笑顔を返す。
役場を出て、広場とは正反対の方向に突き進んだ。
ある程度の障害物を強引に突っ切る形での逃走だ。
とろとろ歩いていれば、アザナが村から逃げる事に父親が気づくかもしれない。
追いかけて捕まえに来られても、捕まえられないくらい遠くに逃げる必要がある。
アザナの事を、都合の良い奴隷か何かだと思っているような人だ。
成人したことによる自由意志を捻じ曲げて「子供なのだから親の言うことを聞け」と家に縛り付けるだろう。
アザナはそんな人生嫌だ。だから逃げる。
ボロ切れで包んでいるような服は、この季節で運動するにはあまり向かず。冷たい風が容易に貫通する。
村から出てすぐの森の中では大した防御力もないので、木々が掠って僅かな痛みが走る。
土の上にも大きな石があって、転びそうになりながら息が切れても走り続ける。
そうして、小さな川を一つ飛び越えたところで、足が限界を迎えたアザナは肩で息をするように荒い呼吸を繰り返しながら振り返った。
――そこに、父親に影はなかった。
天を見上げれば木々の隙間から溢れるような星空が見えた。
吐いた息は白く、汗がにじんだ体はどんどん冷えていく。
「……随分、どおくに来たぇな」
街までの道をアザナは知っている。とにかくまっすぐだ。
今は亡き母親に連れられて、何度か街まで行ったことがある。
大きな川を一つ越えて、森を抜け出た先に草原があって、草原の向こうに整備された道が一本、長々と伸びている。
その道を進んでいけば、街にたどり着く。
アザナの村に冒険者が来るのは年に一度の鼠狩りと、母親と共に街に出かける為の馬車が出迎えに来るときだ。
父親に酒を買って来いと、寒空の中母親と共に外に放り出された時の記憶を思い出しながら、アザナは歩きだす。
馬車に乗り込むのは、いつもアザナと母親。それから役場の職員が数名と何人かの労働者だ。
父親が乗ったところは一度も見たことが無い。
街の中をよく見たことはない。
冒険者に連れられて、一度だけ冒険者組合を覗き込んだ事以外だと、母親を待つために母親が入った施設の外で隠れるように座っていた思い出しかない。
母親が死んでから馬車に乗ることがなくなったアザナは、馬車の外から見た景色を思い出しながら一歩一歩を慎重に歩く。
時折草木をかき分ける音に身を縮ませながら、少しでも体を温めようと懸命に歩き続けた。
そうして、アザナが森を出る頃にはすっかり太陽が昇っていた。
――時間かかったなぁ。
遠くに煉瓦でできた道を見つけて、アザナは眠たいのを堪えて荷物を下ろした。
父親を騙す為に来ていたボロ着を脱いで、自分で仕立て直した服を着替える。
父親に売られずに残った母親の衣類だ。
貧乏臭いのは否めないが、それでもボロ着を着ているよりはマシだろう。
まだ体はクタクタだし、瘡蓋ができはじめた擦り傷は痒みを訴えている。
さて、と身を整えて歩きだしたアザナは、秒でモンスターに襲われた。
――まさか地面から襲われるとは思わなかったのだ。
こんもりと膨れ上がった土の下に、土竜鼠の尻尾が埋まっていたなどとちっとも思わず、少しだけ高い山なりの道だと思い込んで歩きだしたアザナは、いきなり揺れ出した地面に慌ててその場から走って遠ざかった。
背後を振り返ったアザナは、土の中からぶんぶんと左右に揺れながら土を掘り返して飛び出してきた尾は、しなやかな動きに反して鎧のような鱗に覆われている。
これはまずいと走り出したアザナの背後から、尾を踏まれて怒った土竜鼠が、地面から半分身を乗り出した状態で地面を掘り進みながら追いかけてくる。
疲れた体に鞭を打つように、もつれながら走るアザナは、冷たい空気を体の中に取り入れて、肺が痛む感覚を得ながら必死に走った。
土竜鼠は、土竜のように地中に潜る鼠で、見てくれは鼠の背面に鱗が覆っている姿をしている。目が大きく、可愛らしくも見えるがその体は巨体であり、毛先の一つ一つが鋼鉄のように硬い。
太い爪は長く地中の岩さえ掘れるくらいの硬度がある。
アザナが知る土竜鼠はもう少し小さいがあれは幼体だったのだろう――と、いうのをアザナは今知った。
アザナよりも倍近い巨体に追われて、疲れた体で逃げ切れる自信などない。
父親から逃げ出せたことで運が尽きたのだろう。
涙が滲むが拭う暇もなく、叫ぶ余裕もなく、ひ、ひ。と呼吸をしながら永遠にも近い数秒を走る。
そうして、十メートルほど走ったところで流石に力尽きた。
「っ――」
右足に左足を引っかけるようにしてすっ転んでしまったアザナは地面に倒れた衝撃で一瞬呼吸を忘れた。
起き上がろうとするが体に力が入らず、土竜鼠の大きな影がアザナを覆う。
死を覚悟したアザナは、酸欠のまま「ちくしょう」と辛うじて呻いた。
その時、一筋の光がアザナの上を走った。
「――――」
三秒ほど間を置いて、ドスン。と重たいものが落ちる音がした。
それから更に二秒、アザナは自分が死んでいないことに気が付いて顔をあげた。
背後に居たはずの土竜鼠の頭はふっとんでいた。
一瞬理解が追い付かず、頭がどこに落ちたのかを確認するより先に声がかかって、アザナは己に向かって振り返る少年の存在を見た。
「大丈夫?」
「ん、……大丈夫……で、あります?」
「なら、よかった」
そう言って、向日葵が咲くように笑顔を浮かべた男は古びれた剣を振った。
「はじめまして、俺の名前はアインハルト。
――ハルトでいいよ」
「え? えっと、……あ、アザナと申します。
助けていただき、ありがとうございます」
「敬語じゃなくていいよ。怪我はない?」
理解が追い付かない。向けられる笑顔に愛想笑いを浮かべて立ち上がる。
「――土竜鼠……」
「大丈夫、俺が倒したから」
「そう、でありますか……」
土竜鼠は倒された――だから追ってこない。
土竜鼠を倒してくれた――だから目の前の少年は良い人である、筈。
土竜鼠を倒せた――だからこの少年は、それくらい力がある。
アザナは思う。
アザナが村から出たのは、そこそこ強い人とパーティーを組んで、そこそこ良い暮らしをすることだ。
つまり。
「あの――」
「ん? どうしたの?」
「冒険者の方……でありますか?」
「いや――これから、冒険者になりに行くんだ」
こいつだァ――――――――!!!!
もはや喰い気味に、前のめりになるアザナに、アインハルトは気にすることなく微笑む。
「っ、あのっ、私も、冒険者になろうと思ってて、――よろしければ、一緒に行きませんか!?」
ゴマを擦る余裕はない、悠長さの欠けた仕草でアインハルトに詰め寄ったアザナは、大輪の笑顔を見て言葉を飲み込む。
「ああ! 一人だと心細くて、一緒に居てくれる人がいると心強いよ!」
これも何かの縁だと差し出された手を掴んだアザナは、色々考えていたこと全てが頭から吹っ飛び、ただ心の中で叫んだ。
やったァ――――――――――!!!!
跳ねまわりたいのを堪えて、街の方角を訪ねてきたアインハルトの目の前を歩いて誘導する。
油断すると気味の悪い笑みを浮かべてしまいそうで、時折口元を抑えるアザナの背後で、アインハルトはほっとしたように息を吐いた。
――このアインハルトとの出会いが、アザナの人生設計をかなり狂わせることになるのであった。
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