Brand new my lover. 2


 

「こんばんわ」



「こんばんわ」



 ――えーと、俺の方が先に挨拶して春美さんがそれに答えたから次は俺が話す番で……



 さっきまで張り切っていた自分はどこへやら。

 頭の回転は元々そんなにいい方ではないが、彼女を目の前にすると20%ぐらいに低下してしまう。


 だが仕方がない。


 春美さんは思考が吹っ飛んでしまうほどに美しい。

 

 シルクのように艶やかな黒髪は胸元まで映すモニターに入りきらない程にしなやかに長く伸びて。白く透き通った肌は光に溶けてしまいそうなほどに儚い。

 僅かに赤らんだ頬、小さくも細く整った鼻に潤んだ唇。

 そして大きな瞳を隠す瞼が彼女の戸惑いを示すように上下に震え――



 ――って、そんな事を考えている場合じゃない!



 俺はそこではじめて無言で彼女を凝視していた事に気が付いた。



 ――あれから何度か直接会ったはずなのに、今さら画面越しで緊張してどうする⁉

 

 いや、よく考えれば直接会ったと言ってもただ黙々と食事をしただけで会話が弾んだ記憶がない。


 

 ――以前はもっと自然に話せていたはずなのに……。


 などと嘯きながらも、理由はとっくにわかっていた。



 それは“曖昧あいまいさ”。



 一か月前――ファシリが密かにセッティングしてくれた春美さんとの美術館デートで俺は決裂してた仲を元に戻したいと言い、春美さんはそれを了承してくれた。


 そして春美さんはあの時こうも言った。


“……好きです……”


 ――そう言ったはず。


 そして俺は彼女を抱きしめた。




 ――そう言った……はず……だよな?




 あの時晴美さんは俺の胸の中に顔を埋めていたのではっきり聞き取れなくて、俺が雰囲気に飲まれて都合よく認識していた可能性を否定できない。



 だから……


 

 考えたくはないが……



 もしかしたら……




 俺の勘違いかもしれない。


 

 つまり曖昧さとは――



 ――俺と春美さんは今いったいどんな関係なんだ⁉



 と、いう事だ。


 俺と春美さんは恋人同士なのか。それとも友達なのか。


 俺は残念ながら恋愛経験が無いに等しい。


 バツイチなのだが、前妻の真理とは互いに社会的体裁を保つだけの仮面夫婦(冷え切る愛も初めから無いのだが)――とにかく全く参考にならない。


 いっそのこと”俺たちって付き合ってますか?”と聞いてみればはっきりするだろうが、それができれば苦労はしない。


 それこそ、そんなことを言ってドン引かれたら今度こそ縁を切られてしまうかもしれない。


 リスクが高すぎる。


 

 ならば曖昧な情報からではなく確定している情報から適切な行動を導き出せばいい。


 そして今確定しているのは”俺と春美さんの仲は元に戻った”だ。



 ――よしっ!


 

 俺は彼女に視線を戻して、



「……」


 

 ――あれ? 元ってどんなだっけ?



 堂々巡りである。



「あの……勉さん?」


「えっ、あっ、はい」


「何か悩み事ですか?」


「いや、そうでは無くて……」



 実際そうだけど、そうとは言えない。


「その……もし、お仕事の事で悩みがあるのなら私が聞きます! 本当に聞く事しかできませんが……」


 ――ああ! ああ! まずい! 春美さんにどんどん気を使わせてしまっている! せめてあの時交わした約束くらいは守らなければ!


 俺は気づかれないように深呼吸すると、落ち着き払った声でこう言った。


「いえ、本当に違うんです。何を話そうかと悩んでいただけで……そうだ! あの件は順調に進んでますか? 例のパリで開かれる絵画展の――」


 見失いかけていた俺を何とか取り逃がさずに済んだ。


 “彼女の前では頼れる男でいたい”


 本当の俺は優柔不断で冴えない30過ぎのただのおっさんなのだが。

 だが決して無理をしているわけでは無い。

 彼女の前ではそうありたいと言う俺の欲求であり、誠実さを証明するための誓いでもあるのだ。


「――確か12月でしたよね? もう細かい日程は決まったんですか?」


「はい。一般公開の最終日は12月20日で、その日に審査が行われてグランプリが決定されます」


「なるほど……でも本当にすごいですよね。応募して選出された中で春美さんが最年少だったんですよね?」


「それは本当にたまたまで……。美術の世界で立体構築絵画はまだまだマイナーな分野ですし……」


「え? 確か海外――特にヨーロッパ圏では盛んだと……」


「そ……それはその……大学の恩師に何度も手直しされたからで……」



 肩を縮こまらせて困惑する彼女を見て俺はしまったと思った。



 ――勢いに任せて褒め過ぎてしまったのか⁉


 ――何か話題を変えないと……不自然過ぎず、脈絡も意識した感じでかつ注意を引けるような……そうだ!


「俺もその展覧会……観に行ってもいいですか?」


「え? 私の絵を観に……ですか⁉」


「も、もちろんです!」


「え? でも、パリですよ⁉」


「仕事で海外に行くこともあるのでそこは別に気になりません」


「でも……」


 俺の言葉に嘘は無いが、確かに大学生の春美さんからしたら少し重いのかもしれない。

 

「あ、そうだ! ちょうどその頃パリでAIに関する国際学会があるのでどっちみち行こうかなと思ってて……」


 フォローのために言ったはずが、俺はまずい事に気づいた。


 ――これでは事のついでに春美さんの展覧会を見に行く事になってしまう!


 と。


 だから慌てて軌道修正。



「あの! それで……よければ一緒にパリの街を観光しませんか?」



 ――ん? 俺は今何を言った?


 かなり大胆な事を言ってしまった事に気が付いて、急いで付け足す。


「あ……あの、俺……フランス語は話せませんが職業柄ビジネス英会話レベルまでなら話せるので、多少は役に立つかな……なんて……」



 そして俺は硬直したまま彼女の反応を待った。

 すると――、



「誘って下さってありがとうございます。私フランス語も英語も話せないので勉さんがいてくれたらとても心強いです」


 ――よっしゃぁぁぁッ!


「なら――」


「でも、それはダメなんです」


 

 俺は微かにでも光明が見えた分ショックで言葉を失ったが、冷静に考えればそうだ。

 春美さんは別に遊びに行くわけじゃ無い。

 言ってみれば絵の勉強に行くのだ。

 きっと引率の先生も付いて貴重な滞在期間はもうスケジュールで一杯なのだろう。


「……ですよね。もしかして当日はその恩師の方とご一緒に?」


「いえ。それが先生はアメリカで開かれる別の展覧会に参加予定で引率はしてもらえないんです」


「え? それじゃあ誰と行くんですか? まさか一人で……」


「いえ。それは親友のレベ……例の留学生の子と一緒に……」


 春美さんが言いかけたのは留学生の本名だろうか。

 本人の同意なく本名を明かさないというネットリテラシーを純朴じゅんぼくに守っているのはいかにも晴美さんらしい。


「そうですか。確かに留学生なら言葉には困らないでしょうね」


 しかしこれで断られた理由がはっきりした。

 気心の知れた友人同士で行くのなら完全に俺は邪魔者だ。

 パリ観光の件はすっぱり諦めよう。


 だが、せめてこれだけは許してもらいたい。



「なら、俺は別口で行かせてもらっても良いですか? ぜひ春美さんの作品を観てみたいんです」


 さっと行ってさっと帰る。

 これなら春美さんもOKしてくれるだろう。



 だが、そんな俺の認識は間違っていた。



「それも……ちょっと」



 ――え? どうして⁉


 と言いたいところを寸でのところで抑えた。

 

 もしかして気持ち悪いと思われているのだろうか。


 “海外にまでついて来られるのはちょっと……キモイです”


 そんな勝手なイメージ像が頭に浮かんで俺の心は崩壊寸前。

 心の内を表に出さないようにぎこちない笑顔で取り繕って、



「わかりました。それじゃあ、またの機会にします」



 とてもじゃないがイケイケオセオセなんて真似は俺にはできず、情けなくも速攻で白旗を上げた。


 ――今日はもう駄目だ……何をやっても上手くいく気がしない。



「それじゃあ、今日はこの辺で……」



 泣き崩れない内に幕を引こうとした。その時――



「待ってください!」


「え?」


 春美さんにしてはあまりにも大きな声に俺は素の顔で驚いた。。

 そして沈黙するしかなかった俺に、至って真剣な面持ちで彼女はこう言った。




「今度の土曜日……勉さんにぜひ会ってもらいたい人がいるんです!」


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