Forever.
店を出た俺は陸橋を渡り美術館へと向かっていた。
この陸橋のデザインには美術館が関与しているのだろうか。
フランスのセーヌ川に架かるポン・ヌフ橋のような白く美しい石造り。
通路は歩道のみで売店も一切なく、等間隔にアーチ状にせり出した通路の両脇には街灯が設置され実に情緒深い外観。
真っすぐに通路の先を眺めると目に映えるのは青い空と緑に囲まれバロック調の美術館。
まるで異国に迷い込んだような不思議な感覚に酔いしれ――
ているところなのだろう本来は。
今はそんなモノよりも、俺の裾を摘まむ二本の指に全ての感覚を持っていかれているような気分だった。
日曜日だけあって人通りは多い。
だからなるべく橋の端を歩き、そのか細い指が離れてしまわないように歩調に細心の注意を払う。
店を出てからここまで交わした言葉は、
“……行きましょうか”
“……はい”
のみ。
聞きたいことはある。
例えばコンテストの進捗状況だとかどんな風に日々を過ごしていたのかとか。
だけど、彼女を騙してあんな顔をさせてしまった俺が聞いていい事ではない。
やはりまずは謝らないと――。
「あの、春美さん…… っ⁉」
急に裾を引く指が強張った。
そして俺はその理由を振り返る事もなく察した。
前方から歩いてくる5人の大学生くらいの集団。
少しチャラい感じで言葉は悪いが景観に不釣り合いな野郎共だ。
道を塞ぐようにして歩く彼らは、右側通行で渡る歩行者を押しのけながら進んでいた。
「知り合い……ですか?」
「いいえ……でも……」
彼らが近づく毎に震える彼女の指。
俺は咄嗟に彼女の腕をつかんでアーチ状にせり出した通路脇に彼女を誘導した。
ここなら彼らと万が一肩が触れ合う事もない。
それにこうやって橋の上からの景色を眺めていれば彼らを視界に入れる必要もない。
それでも声は嫌でも耳に入った。
右隣りに並んで立つ春美さんは俺の腕に体を預けるようにして佇み、その細い体を震わせていた。
今日、真理に思い知らされるまでは思い出にして忘れようとしていた春美さんの事が。
今はこんなにも愛おしい。
――他に俺にできる事はないのか⁉
蒸気した頭で考える。
――そうだ何か気を紛らわすような言葉を、
しかし声に出せたのは、
「大丈夫……だから」
というなんの根拠もない保障。
――ああ、俺は何をやってんだ。こんな事で春美さんが安心できるわけ……
しかし、俺の予想とは裏腹に腕から伝う彼女の震えは徐々におさまっていった。
そして大学生達の声が通り過ぎて聞こえなくなっても、春美さんは俺の腕に柔らかくしがみついたままポーっと景色を眺めていた。
頬を染めうっとりとしたようなその横顔に魅入られた後、俺ははっと我に返って正面に向き直った。
――これからどうすべきだろうか⁉
何事もなかったかのように紳士ぶって美術館へエスコートが正解か?
――なら、まずは長時間陽射しに当たることを気にかけた文句から入って……
とそこまで考えたところで俺は考えるのをやめた。
正しいかどうかじゃなくて、俺がやりたい事に気が付いたからだ。
ゴッホを見てみたいというのは紛れもない俺の本心だった。
そのためには美術館に足を運ばなければならない。
だけどもうそんなことはどうでもいいくらいに、俺は今ここで彼女と二人だけの時間を過ごしていたいと思った。
それからどれくらい時間がたったのかわからないが、俺の心臓はまるで疲れを知らないかのようにずっと飛び跳ね続けていた。
自信や確信があるわけじゃ無い。
彼女がそれを待っているかどうかもわからない。
だけど今謝れば受け入れてもらえそうな気がする。
俺は自己暗示をかけるように思索を巡らせて、ついにその沈黙を破った。
「ごめん……。その…………強引に腕を引っ張って」
肝心なところで怖くなって逃げてしまった。
そんな俺に彼女は燃えるように頬を赤くして
「……嬉しかったです」
と、溶けて消えてしまいそうな声を漏らした。
「うれし……かった?」
「はい。勉さんが傍にいてくれると安心……するんです」
「でも俺は……」
“そんなことを言われる資格はない”
そう言おうと思ったのに、春美さんは、
「でも私に、こんなことを言う資格なんて無い……ですよね」
と言って俯いた。
「私、勉さんに酷い事をしてしまいました。私がつらい時に支えてくれた勉さんを……、私の我儘に付き合ってくれた勉さんを……私は……あんな風に」
そのまま泣き出してしまいそうな気がして俺は慌てて言葉を紡いだ。
「違う! 悪いのは俺です! 俺が黙ってたから……俺が結婚している事を隠していたから……」
「でも……勉さんは出会い目的で私と接していたわけでは無いんですよね?」
「確かに最初の目的は製品としてのFaciliをテストする……事でした」
「ならやっぱり――」
「でも違うんです! 確かに文字チャットをやっている頃は年齢や性別が違ってもこんなに心が通じ合える人がいるんだと、いいフレンドができて良かったと思っていました。そしてライブチャットで顔合わせをして、春美さんが俺のイメージ通りの人で嬉しかった。チャットの時結婚指輪を外していたのもシャワーを浴びる前の癖で別に騙そうと思ったわけじゃない。……だけど、途中から分からなくなったんです」
「わからなく……なった?」
「はい……。それがただの癖なのか意図的にそうしているのか自分でも。そして年明けに初めて春美さんと会うとなった時俺は自分の意志で指輪を外しました。だから、何をどう言い訳しようと覆しようがないんです。俺は……、俺は……、俺は――」
「――春美さんの事を好きになっていました!」
もしこれが純情無垢な恋人同士のワンシーンなら、愛の告白になっていたのだろう。
だけど、そうじゃない。
これは懺悔なんだ。
「俺は妻がいる身でありながら春美さんの事を好きになった。こんな不誠実が許されるわけないじゃないですか……」
泣きたいのは春美さんのはずだろうに、自分が情けないあまり溢れてきたもので視界が滲んだ。
もっと誠実に生きていればまた違った形で出会えたかもしれない。
もっと早く自分の気持ちと向き合っていれば春美さんを苦しめずに済んだかもしれない。
そう思うと自分が許せなくて、震えが止まらなかった。
「私は勉さんが既婚者だと知った時……絶望しました。裏切られたと感じました」
覚悟していたはずなのに、彼女の言葉は俺の胸を抉り、声も出せないくらいの痛みに変わった。
だけどこれは俺が望んでいた事でもある。
彼女の心に傷を与えたまま逃げるなんて許されるはずがない。
いっそこのまま、俺の心臓が潰れてしまうくらいに罵って欲しい。
そう願った。
そして彼女は遠い過去を思い出すように視線を据え、迷いを捨て去ったように小さく頷いてから口を開いた。
「私が男性恐怖症になった理由を勉さんにはまだ話していませんでした」
――春美さんが男性恐怖症になった理由?
「私、小さい頃から絵ばかりに夢中で男の子と話したことなんてほとんどなくて。それで高校の時に初めて親友と呼べるほどの男友達、そして彼氏ができたんです。二人とも最初はとても優しかった。だけど、だけど……」
自分のトラウマなんてそう簡単に披露できるものじゃない。
特に彼女の心の傷は俺の想像も及ばない程深いのだろう。
喉を震わせ、涙を浮かべて、血の気の引いた青白い顔で。
あの時のように絶望の深淵を映したような真っ暗な瞳を俺はそれ以上見ていられなかった。
「辛いなら無理に打ち明けなくてもいい。春美さんが苦しんだのはもう……わかったから……」
「……ありがとうございます。私、強くなったと思ったのに全然だめだなぁ……」
「……春美さん」
彼女の言葉から大体の想像はついた。
“最初はとても優しかった”という事は彼らの本性はそうではなかったとうことだ。
精神的な苦痛を受けたのか、身体的被害を受けたのか、あるいはその両方か。
それは俺には知りようが無いが、一つだけはっきりしていることがある。
春美さんが恐れているもの。
それは男性の二面性。
特定の人物に限らず、良く知らない人も敬遠してしまうのは外面と内面がかけ離れているのではないかと危惧しているから。
それにもしかしたら顕著なのが男性というだけで、この二面性に対する恐怖は男性のみに限らないのかもしれない。
初詣の時に男性だけでなく、女性の観光客も避けていた事を思い出してそう思った。
それを理解して改めて自分が彼女にした所業を振り返った時、俺は許せなくなった。
今春美さんの隣にいる自分を。
また会いたいなんてほざいていた自分を。
いっそ、今彼女の目の前で飛び降りてしまいたいくらいに――。
なのにそんな俺を見上げる春美さんの顔は慈愛に満ちていて。
「でも私、勉さんと出会て本当に良かったと思ってるんですよ?」
「え?」
「私こんなにダメダメですけど、勉さんと会う前はもっと酷かったんです。外に出るときはフード付きのパーカーを着て視界を遮って、お母さんや友達がいないと遠出も出来ませんでした。……ですが、ファシリさんに勉さんを紹介されて、勉さんだとなぜか拒否反応が出なくて……いえ……むしろ勉さんが傍にいてくれると安心できて、他の男性の事が気にならなくなってきて……」
「でも、俺は結局春美さんを……」
「確かに――、私はまた同じ失敗を繰り返したのかなって最初は思っていました。またあの辛い日々に戻るのかなって……。ですが、不思議と男性恐怖症は悪化しなかったんです。遮蔽は必要ですが今日だって一人でここまで来れました。どうしてなんだろうって考えても答えがでなくて、だけどもう勉さんの事は忘れないといけないって自分に言い聞かせて……。でも、無理だったんです。忘れようと思えば思う程勉さんとの記憶が鮮明になって……」
そう言って彼女が作り出した余韻は春美さんとの楽しかった記憶をありありと俺に思い出させた。
「あなたにまた会いたい。またあなたの隣で安心していたい。……だけど、私にそんな資格なんてない。自分が勝手に好きになって勝手にふられただけなのに悲劇のヒロインぶってあなたに何も言わずに連絡を絶ってしまった……」
見えない何かに心を押しつぶされたように顔を歪める春美さんを見て、俺はやっと理解した。
――春美さんも俺と同じように思っていたんだ。
“自分に会う資格なんてない。だけど叶うならまた会いたい”と。
だから春美さんが今、無理をして絞り出そうとしてる言葉がわかってしまった。
そしてそれはきっと俺の方から言わないといけない言葉。
「春美さん。俺にこんなことを言う資格があるのかわからない。自分勝手だってちゃんとわかってる。断られる覚悟もしてる。だから俺から言わせてほしい――」
たった一言で良かった。
自分の罪悪感を和らげるためのつまらない懺悔何て要らない。
たった一言、この言葉を紡げば良かったんだ。
「俺と――やり直してくれませんか?」
春美さんは無言のままゆっくりと俺を見上げた。
そして彼女の瞳に浮かぶ涙が瞼ではじけて空気に溶けた。
「……はい。喜んで」
そう答えてくれた彼女の瞳はあの時のように眩しく煌めいていた。
本当に俺はバカだ。
つまらない意地を張って相手の気持ちを察した風で自分の事ばかりしか頭に無かった。
こんな事ならもっと早く……
――でも今はそんな後悔なんてどうでもいい。
本当に、本当に……良かった。
お互いのわだかまりも溶け、爽やかな心で夏の風に吹かれ二人同じ景色を眺めていると春美さんがぼそり呟いた。
「勉さんに聞いておきたい事があるんですが……」
「俺に答えられる事ならなんでも」
――春美さんに限って意地悪な質問はしないだろう。
そうたかを括っていたのかもしれない。
「真理さんと話している時の勉さんは私の知らない勉さんでした。いったいどっちが本当の勉さんなのですか?」
いや、訂正しなければ。
これは決して意地悪な質問ではない。
それは彼女の純粋な瞳を見ればわかる。
俺はあまり意識したことがなかったが、確かに思い起こしてみれば俺は春美さんに対するそれと真理やファシリに対する態度は違っていた。
先のレストランでの真理とのやりとりをすぐ横で春美さんに聞かれていたことを今さら意識して恥ずかしくなる。
きっと本来の俺はひねくれもので皮肉屋――つまり真理やファシリに見せている方の俺。
ではなぜ春美さんには丁寧に紳士ぶった態度をとってしまうのか。
――春美さんの言葉遣いが丁寧だったから?
きっとそれもある。
だけどそれだけじゃない。
春美さんは俺にとってもっと特別な存在。
――守りたい。
心も体も、春美さんを構成する全てのモノを壊さないように大切にしたい。
だから俺は――。
“どっちが本当の勉さんですか?”
この問いに対する無難で一般的な答えはきっと、
“どちらも本当の俺です”
だが、それは二面性に抵抗を抱く春美さんにとって納得できるものなのだろうか?
「ごめんなさい。意地悪をするつもりはなかったのですが、勉さんをこんなに悩ませてしまって……。私はどちらが本当の勉さんでも……その……私は……」
そう言う春美さんの声は震えていてただの強がりだと鈍感な俺にもわかった。
きっと真理と話している時の俺は春美さんにとって恐怖の対象だったのだろう。
自分が知っているはずの人間が別の顔をして話している。
春美さんにとってそれがどれほど怖いことなのか――
俺を呼び止めた時にどれほどの勇気を振り絞ったのか――
俺の中でもう答えは決まっていた。
「きっと、どちらも俺なんだと思います。……だけど俺は今まで春美さんに接してきたままの自分でいたい」
「勉さんは本当に優しいですね。でも、無理しなくていいんです。私は勉さんが勉さんらしくいてくれたらそれでいいんです。もうその覚悟は……できたから」
春美さんは優しい。
辛くてもトラウマと向き合って頑張ってる。
だから俺も自分の本心と向き合って素直にその気持ちに応えたい。
「確かに、最初は年上の俺が大人らしく振舞わないとって皮を被っていました。仕事で培った作り笑いまで総動員して余裕なんてないくせに大人の余裕を醸し出そうと必死で、なんか自分じゃない誰かを演じてるみたいだな……って」
「ならやっぱり……」
「――でも、いつから……とは言えないけど、春美さんと自然と話せるようになってからはなんかそれが不思議としっくりくるというか、心地いいというか……むしろこれが本当の自分なんじゃないかって思えてきて……。だからもう――」
これは決して春美さんに気を使って自分を押し殺したわけじゃない。
紛れもなく俺自身の言葉。
「――演技じゃない……から」
俺が彼女の瞳の奥を見据えてそう告げると、彼女が無意識に力を込めていた肩がすっと降りた。そしてせっかく渇いていたはずの瞳を湿らせて。
その顔を見られるのが恥ずかしいのか、俺の胸に顔を埋め、くぐもった声で、
「それなら私は……。私と勉さんは……。あの頃のままでいいんですね?」
「はい」
「無理してないですよね?」
「もちろん」
「本当に、本当ですか?」
「俺はもう二度と春美さんを悲しませたくない。だから嘘はつきません」
「勉さん……
……好き……
……です」
春美さんの最後の言葉に、俺は答えなかった。
そのかわりに、彼女の体をぎゅっと力強く抱き寄せた。
「勉さん……私……嬉しい……
……でも苦しい……です……」
霞んで消えいりそうな声を拾った俺はすぐに拘束を解いて跳ね退いた。
「ご……ごめん」
「ふふ……いいんです。それより、そろそろゴッホを見に行きませんか? 私とっても詳しいんですよ?」
そう言って俺の袖を引く彼女の背中を見ながら、俺は満足気に笑った。
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